将軍後継、篤姫の孤独な決断

 

1)斎彬公の危険きわまりない裏工作

 今はもう歴史の中に埋もれてしまって、ほとんどの人の目には止まらないであろうが、幕末、尊王攘夷の嵐が吹き荒れる開国騒動の中、薩摩藩第十一代藩主・島津斉彬という人物は、江戸将軍後継問題に絡んで、実は相当に危険なことをしていた。


 斉彬公が次期将軍後継でもっとも盛んに裏工作を活動した頃は、明らかに家定公存命中で、しかも家定公が将軍となってわずか1年後のことであった。薩摩藩に相当の資金力があり、十一代将軍家斉公の御台所・広大院が島津家から嫁がれてこられた信頼の厚かった女性であったとしても、しょせん島津は外様大名の身分。つまり、過去のこととはいえ、関が原で徳川に真っ向から敵対し、徳川本陣めがけて決死の突撃攻撃をくわだて、あわよくば家康公の命を狙おうとした“曲者”の末裔である。したがって、『かつて権現様の怨敵であった外様の田舎大名あたりに、江戸徳川将軍後継など勝手に決められてたまるか!思い上がりもはなはだしい!薩州の恐れをしらぬ斎彬とやら、絶対に許すわけにはいかん!!!』という古参の徳川家の老中・家老たちの意地と自負があったであろうことはさして想像に難くないであろう。

 阿部正弘という、無くてはならない無二の同志であった幕府中枢のパートナーが、諸国外交・幕政改革まさにこれからというときに突然この世を去ってしまう。阿部の亡くなった安政4年(1857年)6月17日以降、“片翼飛行”を強いられる事来なってしだいに保守派幕府大老グループから疎遠な扱いを受けるようになった斎彬公は、とうとう“禁じ手”に手を染めてしまうのであった。つまり、幕府の老中連中を出し抜いて、天皇の勅命によって次期将軍を水戸の慶喜に決着させようと裏工作を画策したのである。そして、近衛家・九条家という島津一族と密接な関係を持つ実力公家を通して将軍後継に一橋慶喜に勅命が下るのは、ほとんど決定的という段階にまで裏工作が効を奏していたのであった。すなわち、大奥に篤姫を送り込むという内部からの工作とは別に、京都の朝廷周辺に有利な立場を持つ利点をフルに生かして、強引に水戸斉昭の七男・一橋慶喜に勅命をもって次期将軍に決定するよう裏工作をしていたのである。

 この京都でのごく内密に先行させていた裏工作が、ひょんなことで、偶然にばれてしまった。

 当時、幕府は日米和親条約に記された、日本国内の港の開港を実現するため、老中堀田正睦が京都朝廷に勅許をいただくために上京していた。その交渉がいっこうに進展しないため、老中連中は交渉を有利にするため裏工作をしようとスパイを送り込んだのであった。そして、このスパイが斎彬公の裏工作の事実にようやく気付いたというわけなのである。

2)徳川家古参格式の老中、怒り沸騰、家名かけて巻き返し

 『ううむ、斉彬の彼奴め!!!』という老中連中の怒りが沸騰し、激震が江戸城内に走ったのである。

 『水戸に次期将軍の勅命が出るのを握りつぶせ!!!関係した一味は、すべて徳川の面子にかけて処刑してしまえ!!!さもなくば、徳川ももう終わりだ!!!』と古参の老中連中が必死の巻き返しに打って出るのは、当然といえば当然であった。ここに堀田正睦が京都でぐすぐすしているときに、突然老中職を解任され、突如として井伊直弼という人物が筆頭老中として彗星のように政治の表舞台に登場してきた真実の理由があったのである。

 それにしても始末の悪いのは、京都のお公家連中である。お武家方に大小の柄に手をかけられてグっと睨まれると、ぶるぶる震え上がり、さんざんそれまで約束してきた前言をいとも簡単に翻すのである。おかげで、斉彬公の慶喜公次期将軍詔勅は、詔勅直前であっという間にそのもっとも大事な部分が握りつぶされ、将軍後継は白紙となったのである。そして、その直後、井伊直弼大老就任と安政大獄、次期将軍は紀伊家慶福という決定が矢継ぎ早にセットで無茶苦茶な暴風雨のように襲来してくるのであった。

3)斎彬公の突然の死

 斉彬公は、井伊直弼大老就任によって、自身のすべての工作が水泡に帰したのを知って、絶望し、悲嘆にくれたという。そして、ついに精鋭の薩摩兵を率いて江戸に進軍し、幕府に軍事的圧力をかけ、クーデターを起こすという絶望的な決断をするのであった。そのため、安政5年(1858年)、夏の酷暑の真っ最中にいそぎ薩摩に帰り、先頭で指揮をとって軍事演習をやっていた最中の7月15日(旧暦、実際は八月の二十日すぎころ)、腹痛と激しい下痢症状を起こし、力尽きたように翌7月16日、志なかばで無念やるかたなく斃れてしまったのであった。


 軍事クーデターを起こすことの無意味さは、斉彬公自身がだれよりもよく分かっていたであろうことは想像に難くない。すなわち、御三家である水戸が、外様の自分たちと手を組んで、宗家に武力で圧力をかけるなどということは絶対にありえないであろうことは、火を見るよりも明らかである。武力蜂起して宗家に反抗したとたん、水戸からの次期将軍誕生という目は完全に潰えるであろうからである。そしてそして、なによりも、後の第15代将軍・徳川慶喜は、将軍となったのちのちも、宗家から謀反人の烙印を押されることを極度に恐れていたともいう。

 (なお、斉彬公の命日たる旧暦7月16日といえば、末法の御本仏・日蓮大聖人が文応元年(1260年)庚申旧暦7月16日、北条時頼への立正安国論提出というまことに重要な日であることは多少教学のある信徒ならたいてい知っていて当然である。正宗の信徒であった公の命日が、旧暦7月16日であるということについては、凡愚の私には、意義あることなのかどうか、わからない。いつぞやその意味があきらかになる日も、もしかしたらあるのかもしれない)。

4)父・夫に先立たれてしまった24歳、篤姫の運命


 さて、突然、“父上”に先立たれてしまった御台所・篤姫であるが、じつは夫である家定公も斎彬公が亡くなる前の7月6日に、消えるように亡くなっていたのであった。篤姫にはこの事実がなんと1ヶ月ちかくも知らされなかったという。篤姫の悲嘆と絶望は想像を絶するものがある。しかも、自分は“父”から深く深く密命された将軍後継問題にまったく力を発揮することができなかったという、まことに悔いのの残る亡くなり方だった。御台所とはいえ、将軍後継の選定ではカヤの外に置かれ、まったく無力だったと思われるのである。

 ちなみに、篤姫と同様に朝廷や幕府への密命工作を斎彬公から命じられて懸命に努力していた西郷隆盛は、主君であり師匠でもあり命の恩人でもあった斉彬公の死に絶望し、殉死しようとした。生きる気力を一時期なくした西郷であったが、京都での調停工作の同士であった月照和尚に説得され、殉死を思いとどまり薩摩へ落ち延びた。しかし、斎彬公亡き後島津藩の実権をにぎることになった島津久光は、西郷を良く思っていなかった。そして、あろうことか、藩命で二人の捕縛を画策する。意を決した西郷と月照の二人は、薩摩の内海沖に船を出し、二人で海中に飛び込んで自殺を図ったのであった。かくして月照和尚は水死してしまった。ところが丈夫な西郷は溺死寸でのところで漁師に助けられ、息を吹き返すのであった。しかし、西郷を持て余す島津久光牛耳る薩摩藩は、彼を西南海の遠い島・奄美大島へと流罪にしてしまうのであった。むろん、西郷はその後大久保らの働きによって、ふたたび江戸へと呼び戻され、みごとな活躍をするのである。

 一方、このときの篤姫の動向はほとんど資料に出てこない。どのような決断をし、どのような戦いをされていったのか、その後の篤姫の行動から推論するしか他に方法はないであろう。ただ、将軍後継に、紀州家の慶福が決まった時、むしろ進んでその決定を前向きに受け入れただろうということはある程度想像できるのである。なぜならば、第十四代将軍となった、わずか16歳のこの若者を懸命に守りたてていこうという行動をされているからである。ここに24歳で落飾された篤姫が、父であり恩人であり師匠でもある斎彬公の意志とはまったく別の生き方を選択せざるをえなかったわけであり、まことに過酷な運命を生きた姫であったと言えよう。

《引用文献》

司馬遼太郎:最後の将軍―徳川慶喜―、文藝春秋社.2006年新装版第18刷
河合重子:謎とき徳川慶喜、草思社2007年5月30日第1刷
星亮一・遠藤由紀子:徳川慶喜の無念、光人社.2007年2月17日第1版
野口武彦:井伊直弼の首、新潮新書、新潮社.2008年2月20日第1版
吉田常吉:井伊直弼、人物叢書、吉川弘文館.2006年10月10日新装版第5刷
母利美和:井伊直弼、吉川弘文館.2007年3月20日第1版2刷
村野守治編:島津斎彬のすべて、新人物往来社.2007年11月15日新装版第1刷
芳即正編:天璋院篤姫のすべて、新人物往来社.2007年11月15日第1刷