島津氏と近衛家、そして江戸将軍家との繋がりの要:六代将軍御台所・天英院

1)総本山の三門を寄贈された天英院

 日連正宗の信徒であれば、よほど信心の浅い人でも、登山のおり、必ず通る日蓮正宗総本山大石寺正門である朱色の壮麗な三門は知っているであろう。そしてまた、この壮麗な門が徳川第六代将軍・家宣公御台所である天英院の御寄進によるものということも多くの人の知るところである。

 この天英院という方は、もともと京都は摂関家の近衛家から徳川に嫁入りされた方である。近衛といえば、藤原北家直系で平安藤原の栄華を築きあげた藤原道長を世に出した系譜である。源氏物語もこの系譜から生まれてきたものであり、一族はのち、漢学の素養をもって朝廷に仕え、鎌倉・室町・戦国の世をたしかに生き抜いてきた一族である。

 知る人ぞ知る、家宣公は三代将軍家光公の孫には当たるものの、甲斐藩主徳川綱重公の長男であって、将軍家直系の生まれではなかった。しかも生まれも正室からではなかったため、したがって家臣に預けられたため、徳川の性も名乗らないまま一生を終えるはずだったのである。しかしながらその後、父である綱重公にはとうとう男子が誕生せず、お世継ぎとして、ふたたび本家に呼び戻されたといういきさつがあるのである。

 その当時、江戸の将軍家でも同じように男子なく、困り果てていた。そのため、次期将軍候補のひとりとして、4代将軍家綱公の母君である順性院にそだてられ、また家綱公の綱の名をいただき綱豊と名乗って元服した。ところが、血縁の遠さのため、家老・堀田正俊の強固な反対にあい、5代将軍とはなれなかった。5代将軍は家綱公の弟・綱吉公となったのである。かくして、将軍となる機会はないものと思われていた綱豊公であった。

 綱豊公は近衛家から正室を貰う。請われて京から綱豊公に嫁がれたのが、のちに天英院と名のられるようになる近衛煕子(このえひろこ)、その人であった。綱豊公との仲はむつまじく、夫婦二人で甲府藩主として静かに暮らしておられたのであった。

2)日蓮正宗の信徒となられた綱豊公正室・煕子、のちの天英院

 煕子は、京で同じ乳兄弟であった西山本門寺派の僧で向島常泉寺の住職、日衆師と懇意で、江戸に下ってからはなにかと相談にのってもらっていたのであった。ところが、この日衆師は当時江戸で活発に御活躍になっておられた日蓮正宗第十七代御法主・日精上人によって折伏をうけ、なんと常泉寺は日蓮正宗の寺院として生まれ変わることになった。このおり、綱豊公とのあいだにできた二人の実子が相次いで早世してしまったことで非常に嘆きの深かった煕子は、正宗の御僧侶となった日衆師に折伏を受けられたもと思われ、日蓮正宗に帰依されるのであった。夭逝した子供二人の戒名は徳川家の菩提寺ではなく、日蓮正宗での戒名を授かったという。

 5代将軍の綱吉公の実子が早世し、しかも婿養子の徳川綱教という人物もとうとう亡くなってしまったため、とうとう綱豊公は43歳にして将軍世嗣と認められ、ようやく江戸城に上がった。綱吉公死去により徳川幕府代6代将軍となったのは、なんと48歳のときである。かくして、思いもかけず煕子は将軍御台所となったのであった。

 綱豊すなわち第6代将軍家宣公は新井白石を登用し、文治政治を推進して『正徳の治』と呼ばれる世を築いたのであったが、わずか3年あまりで死去してしまう。煕子は出家して天英院と名乗った。側室の生んだ家継が将軍となったため、家継をささえるべく江戸の大奥を仕切って、家継公早世のあと、次期八代将軍に紀州徳川の藩主であった徳川吉宗公を指名し、まさに幕府を支える中心人物として活躍されてゆくのである。

3)御台所天英院の知られざる後半生の御活躍

 この天英院の活躍のなかで、今回特記しなければならないのは、将軍家と近衛家、近衛家と篤姫の生家である島津家との間の縁組みさらには近衛家と島津家との縁組み(ここでは主題にそれるので記述していない)までも推進したという、あっと驚く事実があったということなのである。

 そもそも島津氏というものは、惟宗というもとを辿れば近衛家の家司をしていたという云われのある一族である。しかも、近衛家の荘園であった薩摩・大隅・日向の三国にわたる広大な島津荘の名前を貰った近衛家と、深い繋がりのある一族である。良く考えてみれば、近衛家をキーとするこの縁組を天英院が作られたというのは、ある意味でたしかに不思議のないことではある。しかし、いくら近衛家とは親密とは言え、相手は戦国の世にすさまじい戦ぶりで知れ渡った恐ろしい軍事集団である。おまけに、外様大名で関ヶ原以来、なによりの仇敵の間柄であったはずの島津氏である。並みいる家老どもの口を封じて、隠然と力を貯え、なにか事あれば幕府を崩壊させかねない、いわば幕府にとって“虎”のような相手と手を結ぶことが、よくぞできたな、と私は思うのである。ここに、天英院という人の、並外れた力量を感じるのである。

 綱吉公は、宝永4年(1704年)娘をなくし、側室であった大典寺の局という方の意向で、同5年7月に局の姪にあたる竹姫という方を養女とされた。竹姫は会津藩主の嫡男と婚約するのであるが、式も整わぬ同年12月にこの嫡男は早世。さらに宝永7年、有栖川宮正仁親王と婚約、結納したものの、入輿の直前にまたしてもこの親王が病没されてしまった。このため、嫁ぎ先がないままに年月だけがたち、やむなく形式上、8代将軍吉宗の養女となっていたのであった。天英院は、この竹姫の嫁ぎ先探しに尽力されたのである。

 年令からいえば、吉宗公の正室となってもおかしくない年令だったが、吉宗公の大叔母にあたることでもあり、この婚約には天英院が反対。一説には、竹姫と吉宗は恋仲だったとも。天英院はこの難しい婚約の相手として、実家・近衛家と深い関係のある島津家の第5代藩主・島津継豊に白羽の矢をたてたのであった。形式的には、吉宗公の御内意ということで家老を通じて、亨保14年(1229年)薩摩藩へと届けられたのであった。当時、島津継豊も、亨保12年(1227年)3月、正室を亡くしてほどなくであり、正室を迎えていなかった。しかしながら、すでに側室に男子をもうけており、この縁談をなかなか受けなかった。ひとつには、すでに側室の男子を継嗣としていたため、竹姫との間に男子が仮に誕生すれば継嗣問題でお家騒動となりかねない。また、将軍家の娘であるから、婚礼を形を整えるだけでも大変な出費で、しかも新たに御殿をこさえるとなると莫大な費用がかかることになる。それで、なかなか返事を渋っていたところ、幕府側から、継嗣は、現在の側室の継嗣でよい、そして官位昇進、や幕府からの待遇改善など破格の条件が示され、ついに竹姫は第5代島津家当主の正室となったのであった。

 ここに、島津氏の運命は大きな転換をするのである。島津継豊の、亡くなった正室は萩の毛利吉元の娘なのであった。毛利といえば中国を支配した戦国の雄。天英院による竹姫の嫁ぎ先として島津家に白羽の矢が立つまで、薩摩は大内・毛利といった同じ守護大名との関係を構築しようと模索していたのではないだろうか。幕末に大久保・西郷らによって構築されていった島津・長州の関係であるが、江戸初期には、殿様たちも同じような方向性を探っていたのである。その訳とは、おなじ外様大名として、いつの日か困難を乗り越え、幕府と対峙してゆける日を待とうという意志の表れだったのではないかと私は推測するものである。ただ、偶然とはいえ毛利家の娘との子供達もすべて夭逝してしまった。幕末に限らず、永代にわたる子孫繁栄ということはまことに難しいことなのである。もしも、仮定して継豊と毛利との娘に嫡子があり、藩主の世嗣ぎになっていたならば、以降の事実を見る通り、島津は最後まで地方の一戦国大名に終わっていた。決して幕府に対抗できるような軍事力も技術力も手に入れることはできなかったであろう。

 御内意とはいえ、至上命令による徳川家との婚姻関係である。島津の家臣をも巻き込んで婚約を成立させた天英院の手腕は凄いと言わざるを得ない。そして、いやおうなく作られた幕府と島津家の姻戚関係であったが、さらに重要な展開が、ゆっくりゆっくりとと進んでゆくのである。話は、ここで終わらないのである。

4)外様生まれの最初の御台所・広大院誕生秘話

 徳川家から島津家に嫁いでこられた竹姫にはとうとう嫡男ができなかった。そこで、竹姫は島津家と徳川家との関係が途切れるのを非常に心配し、側室腹の6代の嫡男・宗信に尾張徳川家から房姫を迎えた。この房姫は早世してしまったが、ふたたび8代藩主・重豪には一橋徳川家の保姫を迎えさせたのであった(7代藩主は家臣の娘を正室にしたものの早々と病死してしまったため、弟の重豪が若くして8代藩主となったのであった)。この保姫も嫡男がないまま世を去るのであるが、竹姫は、保姫のあとにすかさず清閑寺家から側室を入れ、この重豪との間の娘は、必ず徳川へ嫁ぐよう遺言までして亡くなったのであった。(私にはこのあたりの竹姫の一貫した強い意志の裏には、なにかしら深い意味が込められるという思いが強くするものである。)

 この一橋家の保姫と重豪との間にできた娘である茂姫こそ、のちの11代将軍家斉の御台所となって、徳川家に大いなる繁栄をもたらした方で、のちに広大院と呼ばれる人である。家斉公も家宣公と同じく、思いもかけず将軍となった方である。

 重豪公と保姫との一粒種の娘であった茂姫は、この一橋家に嫁いだときの名が於篤という名だった。ここでついでに述べておかねばならないのは、現在の大河ドラマの主人公たる斎彬の養女“おかつ”、すなわち、のちの篤姫は、この11代将軍の御台所となって徳川家に大変な繁栄をもたらした、この於篤の名の“篤”の一字をいただいたものなのである。すなわち、“おかつ”は、かつての絶大な信頼を誇った広大院と同じように、すばらしい御台所となってほしいとの気持ちを込めて、篤姫と名付けられたのである。

5)幕末期、薩摩の資金が潤沢になったのは家斉公御台所・広大院の庇護のおかげ

 この天英院から広大院とつづく、御台所の影響力は絶大だった。幕府のうるさい家老たちも、御台所の実家たる島津家にみだりに‘ちょっかい’が出せなくなったのである。この手厚い大奥の庇護のもと、島津藩は藩政を潤すために大陸との密貿易を密かに活発化させる。また、琉球列島を厳しく支配し、砂糖などの産物を独占販売することによって巨大な収益をあげるのである。さらには幕府の外戚の権威をちらつかせて、大阪商人からの借金を事実上踏み倒してしまうのであった。

 ここに、幕末の薩摩藩の資金力が潤沢であった最大の理由があるのである。幕府との繋がりが薄かった長州藩には薩摩のような力を貯えることはできなかった。そのため、幕末に長州が四境戦争で幕府方と戦ったときの武器も、元をたどれば薩摩藩がイギリス人から大量に買い取ったものを譲り受けてようやく手に入れたものである。新式の銃を買い付ける資金も、また当然、だれに交渉すべきかのノウハウさえも持つ余裕がなかったのであった。

6)竹姫が育てあげた幕末の下馬将軍・島津重豪

 ところで、やや話が前後するが、薩摩八代藩主・重豪公という人物は、出生時に母を亡くしたという。そこで、重豪は薩摩江戸屋敷にて、祖母である竹姫によって育てられ、成長しては、幕末の薩摩にとってかけがえのない人物となった。すなわち、幕末の薩摩藩の人材群はこの重豪によってすべて整えられたと云っても過言では無いからである。ことに、曾孫にあたる島津斎彬公は、幼少期つねに重豪公のひざ元で育てられ、さまざまな英才教育をうけたのである。重豪公の“蘭僻”とまでいわれた西洋の新しい文物への興味と、新しい日本を展望する力は斎彬公に決定的な影響を与えた。さらに、斎彬公は、重豪公の子供達で他藩の養子に出た人たち、たとえば福岡黒田藩第11代藩主・黒田長ひろ(さんずいに『博』の右側のつくりの部分)、南部八戸藩第9代藩主・南部信順、中津藩の第5代藩主・奥平昌高らは団結して斎彬公をがっちりお守りした。斎彬公が43歳になってようやく藩主になれたのも、他家に養子にいかれた南部信順公を中心とした人々の尽力のおかげなのである。(ここでも、江戸の常泉寺の法華講衆の力で、南部信順公が日蓮正宗に入信され、斎彬公も、その養女の篤姫も入信された、ということは『妙音』の記事に正確に詳しく載せて頂いている。)

7)天英院が活躍できた力の根源

 幕末に薩摩藩が活躍できたのも、この天英院の打たれた手によって出来上がった基礎のうえに成立しているということは、今回のNHK大河ドラマ『篤姫』のブームの中でようやく明らかになってきた、驚異的な事実である。

 ごく個人的な感想なのだが、もともと天英院の意向には、かつて平安朝を席巻した藤原家の末裔としての近衛家の戦略上の熟慮深謀がもしかしてあったのではないか、という気がどうもするのである。まことに大胆不敵で、偉大な女性である。大奥の権力を日本の将来のために目一杯活用させた天英院の凄さを、いま改めて感じ、また心深く感謝するものである。むろん、その背景には、日蓮正宗総本山大石寺にまします大御本尊様のお力があったことは、むろん言うまでもない。

 《引用文献》

芳即正編:天璋院篤姫のすべて、人物往来社.2007年11月15日第1刷
原口泉監修:歴史群像シリーズ特別編集、図説・薩摩の群像、2008年2月20日第1刷
ウィキペディア:天英院、徳川家宣、竹姫、茂姫、等の記事を引用しています。