不思議の一族・島津氏
1)守護大名の生き残り、島津氏
島津氏というのは幕末、九州最大の戦国大名だった一族であり、鎌倉時代から幕末まで650年ちかく続く歴史を刻んできた名族、ということは間違いない。鎌倉時代、幕府の守護地頭として世に出た一族はいくつもある。その後の厳しい戦国時代に荒々しい武士集団として、ときには激しい戦闘を繰り広げ、時には非情な選択をしながら生き抜いた守護大名というものは数えるほどしか存在しない。そんな稀有の守護大名の生き残りのひとつであることも疑いない事実である。
というのも大半の守護地頭は、戦国の世に下克上によって家臣たちとの抗争で、滅亡した。たとえ生き残っていても、信長、秀吉、家康と続く天下統一のいくさは過酷を極め、さらにほとんどの一族が消えていったわけである。
島津氏は、この激動期をともかくも一族の“血”を保ちながら生き延びた。苦難の時代に浮き沈みをくりかえしながら生き延びたのである。そこには、紆余曲折の、苦渋の歴史が厳然とあるのである。
ただ、むろん西南雄藩として強固な団結を誇るまでになった島津氏も、草創期から一貫して強力な武闘集団ではなかった。というよりも、守護地頭という制度そのものを計画した、頼朝が京から引き抜いてきた官僚とも言うべき、そもそも、生まれそのものが武家なのかどうかどうもはっきりしない一族なのである。鎌倉幕府によって各領地に派遣された守護は、幕府崩壊後には守護大名として、各地を割拠していったわけであるが、ほとんどの守護大名はその後の南北朝の攪乱にはじまる天下騒乱のなかでつぎつぎ滅亡していった。京は公家の執事らしき仕事をなりわいとしていたらしき、この島津氏の祖なのであるが、よくぞ潰れずに幕末までお家が持ったものだとほとほと感心するのである。しかも、それだけでなく、幕末期には西国の雄藩と称せられ、外様大名でありながら、他大名を圧倒し、幕府を差し置いて日本をリードする天下の一族であったわけである。
650年の月日を経て、日本の舵取りをするまでになる実力を備えるようになったというところまでになるには、いくつもの秘密が隠されているし、さらに、まことに偶然としか言いようのない不思議な運が、積み重なっているのはもちろんのこと、一族をリードしてきた君主の非常に強固な意志というものものがある、ということなのである。
しかし、まずは世に知れ渡っている“最強の武士軍団”としての島津氏ということについて最初に説明するのが順番であろう。
2)屈強な薩摩隼人と島津義弘公しのぶ妙円寺詣り
鹿児島市のほぼ西部に伊集院という小さな町(現在は日置市伊集院町となった)がある。この町に島津代17代藩主、島津義弘公の菩提寺である曹洞宗妙円寺というお寺(現在の寺は当時のものではなく明治以降に再興されたもの)があって、毎年旧暦9月15日、現在は10月の第四日曜に鹿児島市内の照国神社(島津斉彬公が祀られている)から、この妙円寺まで、片道20キロのお参りの道のり行き帰りを徒歩で行軍するのである。
慶長5年(1600年)天下分け目の関が原の戦のとき、島津義弘公率いる島津軍は西軍の先陣の脇を固めていた。戦は開始され、白兵戦が激しく展開されているのに西軍の大将・毛利秀元率いる主力軍はいつになっても動かず、みるみる西軍不利となっていく。この情勢を見るや徳川方に内通してい者たちが一気に裏切り始め、西軍は総崩れとなった。緊急事態に陥った情勢を知って島津兵たちは壮絶な決断をし、西軍総崩れの関が原で家康陣取る敵の正面を突破するという、ほとんど狂気にも似た戦略を取った。それは歴戦練磨の経験の上に強烈な連帯意識をもった一騎当千の薩摩兵にしか出来ないやり方だった。この正面突撃による退却は、のちに『島津の退き口』として知られている。ことに、追っ手の足を食い止めるため、死を決した切り込み兵や狙撃兵、そして動じることなく死して主君を守った影武者たちの働きはすさまじかったと伝えられる。総勢千数百名ほどいた島津兵も薩摩にたどり着いたものたちは、義弘公を含めてわずか数十名ほどだったという。この壮絶な戦いによって、“薩摩は恐ろしい”、という伝説がいよいよ世に確立したことは疑いもない。この義弘率いる薩摩軍は、徳川に靡いた利害と打算で蠢く諸大名たちに、武士としてのまさにあるべき鑑としての生き様を見せつけたのであり、とうとう家康も薩摩の所領に手をつけることが不可能だったのであった。
妙円寺詣りとは、この関が原のときの島津義弘公に従った薩摩武士たちの壮絶な戦いを偲び、どんなことがあってもこのときに家康から舐めさせられた苦渋を決して忘れまいとの思いをこめて、ひそかに江戸後期のころから始められた行事であるという。軍事訓練をかねて、長い道のりを徒歩で行軍し、ふたたび徒歩で鹿児島まで戻るというものであるが、寡兵でありながら主君を命がけで守り、敵を切り倒し蹴散らしながら退却した先達のことを思えば、なんということはない、という気迫で多くの人々がひそかに伝えてきた行事である。(現在でもこの妙円寺詣りは続いており、たいていの鹿児島市生まれの人なら一回はなんらかの形で参加しているのである。ことに、鹿児島市内の小学校・中学・高校では学校行事で生徒達みんながこの妙円寺参り強制的に参加させられる。事情がよく飲み込めていないと苦痛極まりないところである。もっとも、小中高生はお参りの帰りについてはバスのお迎えがあったり、また電車に乗車してよいことになっている。)
3)適材輩出する島津一族
しかし、世間に知れ渡っている薩摩隼人ひきる天下無敵の野武士集団という理解だけでは、この薩摩領主・島津氏というものはとても理解できない。明治維新のとき、そもそも家康憎し、という臥薪嘗胆から薩摩の国の戦さがはじまった、ということは間違いない。そして、もっとも辛苦をなめたはずの殿様こそ、積年の恨みをはらす絶好の機会と考えていたであろう、とは、ごく普通の人ならだれでも予想するところであろう。
ところが、さにあらず、なのである。幕末、島津氏は外様ながら、ほとんど徳川家の外戚といっても過言でないほど徳川家との血縁関係が濃密になっていたのであった。家康憎し、徳川憎しで島津の殿様が復讐の鬼となっていた、とはとても思えないのである。
“家康!覚悟あれ!!!”といった、妙円寺詣りの精神は、薩摩隼人の庶民感情としては横溢していたのであるが、殿様ははるか先の時代を見据えて、密かにひた走っていた、ということなのである。島津の殿と一族は、徳川に対する怨念などといったものからは、とうの昔に超越していたと言えるのである。まさに篤姫の生き様に、この島津の殿様の意思が反映しているともいえるのであるが、それを語るには、もうすこし島津家の生い立ちを説明する必要があるのである。
4)鎌倉幕府と島津一族の草創期
島津氏の祖と思われる人々は、鎌倉幕府成立時に急に出現してくる人々である。島津という名称は、鎌倉幕府に勤参していたころに、京は近衛家の南九州の荘園(現在の宮崎県都城市を中心としたエリア)の名前が島津荘という名前だったことによるという。
源頼朝が、京の法皇を中心とする政治と決別し、関東武士たちに担がれて鎌倉幕府を開いたとき、意外にも京から鎌倉幕府に馳せ参じた人々がわずかながらあったのである。島津の始祖たる人々はそんな京の官僚の一人だったと言われている。私は個人的に鎌倉幕府の中核人物だった大江広元の腹心クラスの人だったのではないかと思っている。大江家といえば、朝廷に仕えてきた漢学の名門であり、広元は当時の宮中では最高の学者といってよい。そんな広元がなんとわざわざ鎌倉に下り、守護地頭制を立案するのである。頼朝の人望というものが、いかに人を動かしたか、ということに尽きるであろう。
そして島津氏の祖、惟宗氏という人々は、じつは通常の守護地頭とは、かなり立場が違っているのである。たしかに、日向・大隅の境に広がる広大な近衛家の島津荘を管理するという役割を与えられているのであるが、しかしながらもともと近衛家の家人である。いわば通常の荘園における荘園の所有者と明確な敵対関係にある守護ではないのである。ある意味で、摂関家の名門である近衛家は、主君を上皇から頼朝へと乗り換えようという気持ちが相当あった、その証として惟宗氏が鎌倉へと下ったという言い方もできるのではないだろうか。むろん幕府開幕当初については、守護であるからといって直接南九州に下降しているわけではなく、家人を下向させ自分たちは鎌倉在住していたわけである。
頼朝が亡くなり、源氏の子供たちが北条一族によって排除されつつあったころ、北条政子の力を背景にのし上がろうとする北条家と、もともと源氏の直参御家人とその周囲の京の官僚との間にどうしようもない亀裂が発生していった。北条が他家の支配を排除しようとした最後の事件が宝治合戦である。このとき、島津初代とされる島津忠久は、鎌倉大蔵幕府の頼朝墓所で自決したと伝えられる。島津氏の運命は、このときから過酷な時代へと突入してゆく。すなわち、そもそも日向、大隈、薩摩の3国を頼朝から与えられていた島津氏であったが、このときこの所領をとり上げられてしまう。かろうじて、薩摩を取りかえすのであるが、南九州にあってはどちらかというと豊かな農地が広がる日向・大隈は戻ってこなかった。残された薩摩の国は、大半がシラス台地で覆われた、米作のできる土地が狭い、貧しい土地なのであった。ここに島津氏の命運が閉じ込められたのであった(のち戦国時代になって、戦によってこの日向・大隈を実力で取りかえすまで、島津氏は雌伏の時代を過ごすのである)。
その後、島津を名乗る人々がはっきりと南九州へ移動したという文献は元寇のころからという。幕府にあっては東国平家の北条一族ががっちりの政権中枢を押さえ、源氏の家系や、頼朝時代の頼朝に近かった御家人はどんどん滅亡していった。そんな中、島津氏は薩摩にとうとう下っていったのである。ここに、幕末、西国の雄藩と謳われた島津氏を殿様とする薩摩藩の原点が誕生するのである。
当初の島津氏は、このような経過から近衛家の家人として藤原摂関家との繋がりを強調していたのである。島津一族の本宗家という一族はそういう人たちであった。頼朝との関係性というものは二次的なものという風に名乗っていたのである。
5)不思議な縁で甦った島津家
先に述べた、島津義弘公は、実は摂関家とのつながりを強調してきた本宗家の人ではない。もっと正確にいうと、分家から本家(本宗家)の養子としてやってきた人物の系譜なのである。
義弘公の祖母は、常盤という女性である。常盤は島津分家の家臣の娘で、大変な美貌の人としてその名の高かった女性であるという。しかも、美貌の人ながら武家の娘としての知恵と覚悟のできたすばらしい人だったと伝えられる。政略的な結婚で島津分家の主君の側室となるのであるが、夫となった島津勝久という人物とは固いきづなで結ばれ、夫が転地させられたとき、故地をすてて大隈の居城から伊作という薩摩西方の果ての居城まで飛び出してゆくという情熱の人だった。勝久というなかなか出来た人物と伝えられる伊作分家の殿様は、しかし幸せな人生を全うすることができなかった。自分の大切にしていた白馬を死なせてしまった馬飼いと諍いを起こして、なんとこの卑しい家人に撲殺されるという悲劇がまっていたのであった。丸腰で殺されるというところに、この人物の生きざまがにじみでているような思いもする。
そして寡婦となった常盤は、数奇な運命で相州家という分家(薩摩半島西南部の分家。現在の加世田市)に、子連れの未亡人となって嫁入りするのである。なにぶんにも若く美しい女城主である。しかも戦国の世。ありとあらゆる情念で、伊作分家女城主(薩摩半島西岸中部の分家。現在の日置市吹上町)は、おおくの男どもに狙われたのであった。この美しき寡婦を支えてくれた相州家当主・島津運久という人物に熱烈な求愛を受け、嫁いて行ったのであった。このときの勝久との間に出来ていた連れ子が、この義弘公の祖父にあたる島津忠良という人物なのである。(したがって、この再婚は伊作家・相州家の合同を意味するものだった。しかも、嫁入りのとき、この連れ子を二つ分家の城主とするということを結婚条件として運久に約束させて再婚したのであった。この連れ子の忠良は、のち日新斎(しまづじっしんさい)と名乗り、善政をしき、島津中興の祖とも呼ばれているまさに得がたい人物となったのである。島津いろは歌という禅宗の教えに基づいたカルタを作って、薩摩の地元郷士たちの教育を確立したのが、この日新斎である。日新斎の郷中教育の徹底が、その後の薩摩の強靭な隼人軍団の元を作っていたのはいうまでもない。
そしてさらに、この日新斎の長男であった貴久が、なんと本家に請われて第15代の島津守護代となるのである。そしてこの第15代貴久公の次男として生まれたのが16代である義弘公なのである。島津家にこの祖母の血が加わらなければ、まず島津義弘公という英傑は誕生しなかったであろうと思うのである。
かくして島津天下撹乱の時、どちらかというと戦さのあまり得意ではなかった本家は子供が早死にで、しかも生き残った子供もまるで時流に適合できない自己中心的な人物だったため、とうとう本家から追い落とされ豊後へと落ち延び、本宗家はお家が断絶するのであった。
その後の島津本宗家の運命を決定付けたのが、この義弘公を生み出した伊作の分家と薩摩隼人の美しき娘だった、ということになるのである。
しかしながら、やはり島津一族の血の中に、女目利きという特質があるのかもしれないと私は思うのである。いくら養子をもらっても、優秀な母子でなければ、一族滅亡であろう。この目利きの特質は、世が変わると新しい世に適合すべく、分家や家臣から適材が不思議と必ず出現するという結果をもたらしているのではないだろうか。
かくして西国の果ての守護大名・島津氏は、もっとも過酷であった秀吉、家康の時代に、まさに戦国大名の鑑としてその名を残しているのであるが、この島津氏の伝統とは、偶然に出来たとはいえまことに不思議な因縁の結果なのである。
《引用文献》
吉村大輔編集:歴史群像シリーズ、篤姫と大奥、学習研究社.2007年12月25日第1版1刷
加野厚志:島津義弘、PHP研究所.2001年10月19日第1版17刷
池宮彰一郎:島津奔る(上・下)新潮社.2000年9月30日第1版16刷
南日本新聞HP―さつま人国誌―