広布山霑妙寺
所在地:福岡県久留米市京町7ー255
明治17年7月22日落慶、8月2日入仏式。現在の七間四面・瓦葺総欅づくりの本堂は大正3年に落慶したもので、九州開導の師・佐野広謙尼の築かれた日蓮正宗伝統の寺院となっている。実質上の開基である第二世佐野広謙尼の生涯を御紹介し、これによって霑妙寺の沿革について述べさせていただきました。最後に、現在の霑妙寺のご紹介をさせていただいております。

写真1.霑妙寺三門から本堂を望む。(平成15年3月。)
(1)佐野広謙尼の伝記
実質上の開基は第二代佐野広謙尼である。寺の名前の由来は、佐野広謙尼が得度受戒していだだいた日蓮正宗第総本山第五十二世日霑上人猊下の霑の字にちなんだものとなっている。霑妙寺の前身の久留米白山村にあった出張所に日霑上人猊下にもったいなくもおでまし頂き、出張所の庵に霑妙庵というお名前を頂戴したということがその源である。このため、初代は日霑上人猊下とさせていただいている。(日霑上人猊下が過去に霑妙寺の御住職をなさっていたということではないことを念のため付記する。)
佐野広謙尼は幼名を佐野亀尾といい、京都・東若宮町に天保6年(1835年)に生まれている。京都近衛家に仕えていた父佐野蔵人、母は丹波亀山の城主で松平家の家臣・青山惣太夫の娘・梶といういわゆる江戸期最後のころのの旧家の生まれである。15 才という若い頃に父の関係で、長州毛利家の桜田の江戸藩邸で、当主の毛利敬親公の娘である菊姫の家庭教師役のお勤めに出られた。また、その後、毛利氏の居城であった山口県萩市にも下られてもお勤めを果たされている。もともと出家の願望が篤い女性であったが、家庭事情でなかなか出家できなかった。父母が亡くなり、さらに妹も母の後を追ったように亡くなった翌年の文久3年に、32才で実家が檀家をしていた洛北・雙林寺という寺で臨導日報という人物に付いて出家されている。文久三年といえば、長州が外国船打ち払い令を実行して、外国船から徹底的な反撃を受けた年であり、また、8.18の政変で長州が薩摩・会津藩連合によって京を追われ、三条実美らの公卿が京都から長州へと下った、いわゆる七卿落ち事件の年でもある。幕末の激動期に、まさにその激流の中に身を置かれた不思議な縁をお持ちの尼様であった。
のちの広謙尼が最初に付かれた臨導という僧は、日蓮宗西山本門寺系の日応という人物が熊本に開いた本因寺の信徒であったが、堅樹院日好という日蓮宗一致派日朗門系の人物に強く影響されていた。この堅樹院日好という人物は、自宗である日蓮宗の宗旨に納得できないところがあり、このため日蓮正宗総本山大石寺で一度修学を受けたという経歴をもっていた。ところが、総本山での修学に付いてゆけず、いつのまにやら「大石寺は折伏をせずして自行の研鑽に明け暮れているので、法謗だ」などという愚かな我見を言い出した人物であった。そして四箇の格言を徹底的に主張することが大事だなどといい、「四箇の格言を妙法と一緒に唱えることが大事である」などと僻見を唱えた危険な人物であった。その実体とは、四箇の格言を一方的に相手かまわず強弁し、納得させるどころか自己の強弁に自分が陶酔してしまって、折伏とは全く違う弁論をまくし立てる人物であり、広謙尼の最初の師匠であった臨導は、日応・日好に習って日蓮正宗総本山大石寺への批判を繰り返していたのである。
このような異流儀の信仰を始めた尼様であったが、師匠である臨導の臨終の相が常軌を逸脱するほど異常あったという現実を目の当たりにし、ついにそれまで感じていた臨導の教えに決定的な疑問を覚え、臨導の死後、弟弟子とともに大石寺へ回帰しようと決意されたのであった。大阪で、当時の日霑上人に御目通りすることが出来て、明治八年、41才のとき讃岐本門寺で日霑上人を師匠として得度受戒し、短期間ではあったが大石寺に上って研鑽され、同年決意を新たに九州へと下られた。
九州へ下られたのは、かつての自分の師匠と縁のあった福岡・筑豊の雙林寺時代の信徒への折伏弘教を誓ったことによる。また、弟弟子で一緒に大石寺へ回帰した、後の富士本智境師も九州、三潴郡の出身であった。熱い心をもった弘謙尼は、筑豊はもとより北九州全域を折伏のため日々転々として、死身弘法の折伏弘教の戦いを進められた。この功績が認められ総本山より教導職を拝命し、日蓮正宗においては初めての女性の教導職となった方なのであった。
広謙尼の弘教の成果が上がるにつれて、幕末より長州とも縁の深かった久留米の地に、古い印刷所を買い取って明治12年、九州では初めての出長所を構えられた。これが霑妙寺の前身の白石村出張所である。その後、幾多の試練を経て、明治17年7月22日に、ついにお現在の地に霑妙寺が完成し落慶法要となった。
とくに、霑妙寺の新築の寺願いが、5年近くも許可が下りなかったことに関しては、粘り強い交渉を重ねてゆくうちに、久留米市中の日蓮宗寺院の住職が他寺にも語らって、「興門派の寺は始祖に背いて人民を惑わす邪宗であるから、建立を許可しないようにUと連名で圧力をかけていたことがようやく判明したのである。役所の誤解が解けたところでようやく許可が下りたのであった。まさに、三障四魔を打ち破って霑妙寺は誕生したのである。
その後も霑妙寺門徒の折伏が進み、日蓮宗信徒の有力者が多数正宗に入信するようになった。ことに久留米市内の日蓮宗妙正寺の檀家頭、および本泰寺の檀家頭が入信するようになると、日蓮宗の寺檀に大きな影響が出だしたため、京都日蓮宗の本山である京都頂妙寺より水野慈恩という人物が久留米にやって来て、広兼尼に法論を挑んできた。弘兼尼は、理路整然と文証を引きながら、水野慈恩の本尊に迷う教義や大聖人の称号についての誤りを次々と破折された。その中でも、日蓮宗本迹一致派が、御真筆と偽って日蓮宗の根拠としている日朗への「御譲状」なるものが、教義の上からまったくの‘にせもの’であることを大聖人の御書を引かれて徹底的に明白に示され、水野慈恩を完膚無きまでに破折されたのであった。水野慈恩はあまりのショックに、すごすごと京都へ引き上げざるをえなかったのである。
この事件を機に、いよいよ法戦は盛んとなり、行橋、門司、八幡、博多春吉、長崎に日蓮正宗の教会が出来るまでの大勢力が形成されていった。それぞれの教会が、正妙寺、法霑寺、妙境寺、立正寺、正霑寺という日蓮正宗の現在の名刹として発展していった。
弟子には厳格であった広兼尼の門下からは、鈴木慈謙師、のちの日蓮正宗総本山第62世日恭上人猊下、また慈林師は出家後日霑上人の弟子となられ、のちの日蓮正宗総本山第59世堀日亨上人猊下がお出になっているのである。いかに弘謙尼の信仰の姿勢が正しく、人柄が偉大であったかを語る伝説となっている。尼様は三度御経の話しをしても、覚えの悪かった弟子には容赦なく煙管で叩かれたという厳格な人柄を伝えるエピソードが残っている。また、尼様の白石村出張所時代の弟子でもある鈴木慈謙御尊師、のちの第62世日恭上人猊下は当山の第三世の御住職ともなっておられる。
(2)現在の霑妙寺
現在は第9世の御住職である内藤壽学御尊師のもと、九州開導の師である広謙尼のひたすら御法のため命を捨てて戦った姿勢を心に刻み、一致団結して折伏弘教の戦いに邁進しているのである。
《引用文献》
内藤壽学御尊師:妙壽日成貴尼伝、広布山霑妙寺.平成8年10月15日