前日大雨が降り新聞に載っていた石巻市は、今日はとても晴れて
青空が広がっていた。
すずしい位に感じるここ宮城県石巻市も一ヶ月前の4月に訪れた時は
ダウンコートが手はなせない程寒かった。
瓦礫や壊れた車、根本から折れていても咲いていた桜の木も、
撤去されていた。
小学校や中学校の校舎の正面にある時計の針は
あの地震が起きた時刻、『2時46分』を指したままになっている。
あの大地震・大津波の日から3ヶ月がたった。
当時教室から溢れる程避難していた人々も、今は40人程になった事を聞いた。
GWを過ぎた今ボランティアの数は足りていないようだった。
午前中は炊き出し班に加わり、約170人分の食事の用意に取りかかる。
午後は食事に来てくれた方達の髪をカットした。
前回1ヶ月前に来た時は地震当日の被害に遭われた時のお話をする方が多かったが、
3ヶ月がたった今は東京から出てきた私に労いの言葉をかけて下さったり、
今東京でどんな髪型が流行っているのかや、イキのいいおじいさんは
『デートに行こう!』とか
『明日もまた顔見せてくれよ!』とか
『あんたの顔を見に明日も来るよ!』
などと冗談を交えた事も言われ、話す内容も以前とは全く違ったものだった。
『今度東京に行った時は私の髪の毛を切って下さい』
と言ってもらえて本当に嬉しかった。
菊池さんという私と同じ年の息子を持つお母さんと友達になった。
始めは元気がなくて心配だったけれど、CUT中お話をしていたら
すごく元気になってくれて連絡先を交換する程仲良くなり今も時々メールを交換している。
10年振りにバッサリショートに切らせてもらった陽気なお母さんに
『また近いうち来るけど1年後、私が石巻に来る時は観光で来たいな!』
というと、
『じゃーその時までに私達もこの街も元気になっていないとな!
お金落としていってな(笑)』
と言われた。
方言が強くて何を言っているか分からない事が多かったが、
それでも笑って楽しく話をする事が出来て、笑顔と心が繋がれば
人はなんだって出来るな、と感じた。
1日目、お風呂には入らず体をタオルで拭いて眠りについた。
2日目も朝から炊き出し。
大量の野菜をカットしてから私は煮麵(にゅうめん)の味付けを担当する事になった。
自分で言うのも何だけれど
お、おいし!!!!
お母さん達からもOKをもらいあとは旦那を探すだけだなと勝手に思った。
子供からお年寄りの方まで幅広い方達に受ける味を作るのは大変な作業だ。
綺麗な格好をした60代位の女性が近づいてきて主人の髪の毛を切ってほしいと言われ
ようやくカットの受付をスタートさせた。
その方と話をした内容が今でもとても深く心に残っている。
昔、中南米に船を運ぶ会社を経営していたが、バブルが弾けて多額の借金を抱えて会社が倒産。
その当時は7億円の借金が残ったそうだ。
お父さん 『1度、0になっちまったけど立ち直したのにまたあの
津波で会社も家も流されちまってよぉ
また0に戻っちまったなぁ。人生で2回も0になっち
まったんだなぁ。
でも生きていくしかねんだよなぁ。はっはっはっ。』
私 『お父さん・・・でもさ、お父さんの元気があれば今は0
でもまた10にも100にも出来るよ!!
お父さんのこれからの未来は明るい気がするな私
は!!』
お父さん 『そうだなぁ、母ちゃん(奥さん)も元気でいてくれるし
なぁ。娘も埼玉にいるんだよ、
埼玉に呼んでくれたけどやっぱりワシはここにいて
んだよなぁ、水がなくても家がなくても
やぁーっぱり生まれ育ったこの街のが好きだしここ
に残って生活してんだよなぁ。』
お父さんは昔話をずっと私に聞かせてくれた。
その話はとても興味深かったし、とても楽しかった。
その後、お母さん(奥さん)をカットした時、
『お父さんが病気でね、ぼけてしまって記憶が断片的になってし
まって昔の話ばかりするの。
さっきあなたにも昔の話していたでしょ?
でもあんなに笑っていたの久しぶりよ!ありがとうね』
と言って何度もお断りをしたが、
ティッシュに包んだお金をいただいた。
お金なんていらない。
それ以上のものを沢山いただいたから、
大切な大切なお金なんていらないんだ。
この付近はまだ水道も電気もガスも未だに通っていない。
お風呂は3日~1週間に1度という環境の中で皆生活をしている。
なのに文句とか愚痴とか全然聞こえて来ない。
人の強さと温かい心に触れる事が出来て本当に多くの事を学んだ。
明日は東京へ帰る日だ。
明日の献立を考えながら濡れタオルで体を拭いて
心なしか頭がかゆい気がしたけど気のせいだと信じて
この日も眠りについた。
To be continued!!!!!!!