こんにちは。
今日から三連休、世の中は「シルバーウィーク」という名前を着けていますが、この9月末にある連休は外出して気分転換したり、家族で出かけたりと様々な事を過ごす人が多い時期ですね。
また「彼岸」でもあり、お墓参りに行ったりしている人も多いのかもしれません。
まあこの連休は天気も良い様ですので、無事故で無事に過ごされれば良いかと考えています。
さて創価学会では「境涯」という言葉を良く使います。しかしこの「境涯」というものは何を指しているんでしょうか?
1)境涯という言葉
一般的な語意としては以下のものです。
『きょうがい きやう― 0 1 【境涯】』
生きていく上で、人がおかれている立場。境遇。
しかしこの言葉、日蓮さんの御書を探しても出てきません。まあ考えてみれば「境涯が高い」とか「境涯が低い」などという、ある意味で差別的な分類は日蓮さんの本意ではないであろうし、そもそも仏教にもこういった考え方なんてのはありません。
この言葉、恐らく教学的な説明を求めても、幹部によって多少のブレは出てくると思うのですが、僕の今までの経験から以下の説明になると思います。
「例せば餓鬼は恒河を火と見る人は水と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報に随つて別別なり」(曾谷入道殿御返事 P1025)
これは「水」という一つの物を見た時、その生命状態(十界論)によってその見え方は異なる。天界の人は滋養の元の「甘露」と見て、人は「水」と見る。また餓鬼界の人は全てを焼き尽くす「火」と見るという事を言われています。
人生、生きていく上で様々な事がありますが、その一つひとつの事象をどの様に捉え受け止めていくかという事が「境涯」であり、一般的な語意である「境遇」というものや「立場」というものとは若干違う意味になると思います。
そして学会でいう「境涯」とは、こういった物事を捉える生命の「レベル-状態」であるという事になると思います。
まあ学会的に言うならば、物事の捉え方には人それぞれにレベルがあり、全てを前向きに捉えられる人が「境涯の高い人」であり、そうでは無い人を「境涯の低い人」と言っているものと思います。
また多くの人の事を考えられる人が「境涯の広い人」であり、自分の事に汲々としている人は「境涯の狭い人」と言っています。
しかしそういう事について、日蓮さんは御書では述べられていません。
また先に述べた十界論、一見すると「生命状態の上下-地獄から仏界」という見方をされますが、実は「一念三千」という観点から捉えてみるならば、単純な「上下」を指すものではありません。
何故ならば少し理屈をこねて見ますが、以下の御書を元に思索を進めてみます。
「夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり一界に三十種の世間を具すれば百法界に即三千種の世間を具す、此の三千一念の心に在り若し心無んば而已介爾も心有れば即ち三千を具す乃至所以に称して不可思議境と為す意此に在り」(如来滅後五五百歳始観心本尊抄 P238)
「一心に十法界を具す」とは心には十界(地獄~仏界)が具わっているという事を言い、「一法界に又十法界を具すれば百法界」とは、それぞれの界にまた十界が具わっている事を言います。
つまり「地獄界の地獄界」もあれば「地獄界の仏界」もある。また逆に「仏界の地獄界」もあれば「仏界の仏界」もあるという事で、つまり十界というのはそれぞれ独立して存在するものではなく、互いに関連しながら存在している生命の状態を指しているという事です。
この事をもっと解りやすく述べるならば、悩みの深い状態であっても不屈の心を持つ事も出来れば、全てを理解している状態であっても悩みが尽きないという、生命の複雑な動きを表現しようとしているものであると言う事も出来ます。
そこから言える事は十界論というのは「地獄は下で仏界は上」という単純なものではなく、生命の動きの一断面を説明したものという事です。またそこから考えると、創価学会の中でいう「境涯が広い」とか「境涯が狭い」、「境涯が低い」「境涯が高い」などという単純な理論を指すものでもないという事です。
つまり「境涯」という言葉は、日蓮さんの御書に明示されているものではなく、一言でいえば「学会造語」と呼んで間違いないでしょう。
2)池田先生の境涯
さてここで、境涯という言葉に関連して「池田先生の境涯」という事について話を進めてみましょう。
よく組織内では幹部について「池田先生に近い人」とか「幹部はそれなりに境涯のある人」という誤解が蔓延っていますね。
僕なんかも壮年部に移行したばかりの時、ある会合で総県幹部が担当幹部で入っていた事があり、僕自身はその総県幹部を知っていたので、特段何も考えていなかったのですが、当時の壮年部の本部幹部から以下の様にせかされました。
「ほら!運ちゃん。○○総県○○長にしっかり挨拶して来なさい!君は若いのだから幹部にしっかり顔を覚えてもらうんだよ!」
しかし僕にしてみたら、青年部時代に嫌というほどお付き合いしていた幹部であり、如何にクセある幹部かも知っていたので「いや、結構ですよ」と遠慮をしていました。しかしその壮年部幹部が強引に僕を前に連れて行ったので、挨拶する羽目に。。。。
「お久しぶりです」(と僕。。。)
「おう!運ちゃんか、元気しているか?」(幹部)
これで終わり。
なんでも壮年部幹部は池田先生に近づこうという思いが大事だという事で、おせっかいをしたようですが、僕からすれば「余計なお世話」でした。
そもそも「池田先生の境涯」とは、何を指しているのでしょうか?
恐らく組織の人は池田名誉会長について「二十四時間、会員の事ばかり考えている」とか「広宣流布を一日二十四時間、一年三百六十五日考えている」と思っているでしょう。
でもこの事、特に珍しいことではなく、一般企業の社長などの経営者であれば当たり前の事であり(まあ一部経営者にはそうでない人もいますが)、また家族を持つ壮年世代であれば始終家族の事や子供の事を意識して生きている人も多くいます。
そういう意味では何も特別視をする必要はないでしょう。
ここで誤解して欲しくは無いのですが、僕自身、今の池田名誉会長はどうだか知りませんが、やはりこれだけの組織のトップであれば、そういう風に常に緊張感を持っていた時代もあると思いますし、そういう事をここで否定するつもりはありません。
ただし人間というのは、やはり二十四時間一年三百六十五日、瞬時も同じ思いを持ち続けるという事は出来ません。その点、日蓮さんも以下の御文を書かれています。
「されば経文には一人一日の中に八億四千念あり念念の中に作す所皆是れ三途の業なり等云云」(女人成仏抄 P471)
ここでは人は一日の間に八億四千の心があると言っています。まあ八億四千という数字の正確さをここでは述べたいのではなく、人の心というのはそれだけ瞬間瞬間動くということを述べています。
そういう意味で、池田名誉会長も人間であるのであれば、常に考えているという事はありえないと思いますし、やはり時には俗な事を考えているというのが当たり前だと思います。
またこれは常々感じていた事なのですが、移動するに車列を組んで移動し、金縁メガネに高級仕立てのスーツを着て動き、立派な糖尿気質の体躯を持っている人物が、果たして本当に会員の事をどれだけ真剣に考えていたんでしょうか?
そう考えると「池田先生の境涯」という言葉を持って、無闇に池田名誉会長の神格性を強めるという事自体、実は組織を歪める要因の一つであり、その言葉を基調にしながら、殊更、幹部の境涯を持ち上げるというのも、実は組織の硬直化、官僚化、神聖化を進めてしまうという事を、創価学会の会員は理解する必要があります。
3)創価学会の指導主義
さてここから更に考えてみて、創価学会の指導主義という事について話を進めてみたいと思います。
「創価学会は指導主義である。つまり、“御本尊を拝もうではないか”と御本尊を指し示していくことが指導である。御本尊とは何かと説明することは第二義でよい。それよりも、具体的な実践活動を教え、題目をしっかりあげさせることが指導なのである。」
「質問を受けた場合も、わからないから指導できないということはない。“わかる人のところへ一緒に行こう”、これが立派な指導である。指導は一から十まで自分が教えるという教授主義ではいけない。指導主義の方がずっと価値があり、どこまでいっても行き詰まりはない。」
「教授主義は、必ず行き詰まりがあり、知ったかぶりの偽善になることが多い。したがって、指導を根本に、もちろん教授もしなければならない場合もあり、訓練が必要とされる場合もあり、擁護する場合もある。指導主義には、これらの全部の要素が包含されているのである。」
【『指導メモ』 1966-06-01発行】
これは過去にあった創価学会の指導主義についての話ですが、ここで述べられているのは、あくまで指導をする側・受ける側が互いに同じ目線に立ち、御本尊の元に進もうという事でしかないはずである。
しかし今、創価学会の現場で行われている指導とは如何なるものか。
よくあるのは「指導を受けないで転居を決めてはだめだ!」とか「転職するのに幹部にしっかり指導を受けよう」とか、何か生きていくための事ある毎に、幹部にお伺いを立てることを求めるが如き事になってますし、幹部は幹部で「指導」という名目のもとに、会員に対して「指示」をするが如きの様相もあります。
でもどうなのでしょうか?
これも僕の経験なのですが、実際の社会を知らない本部職員の中央幹部に指導を受けても、結局、具体的な意見を聞けるわけも無く、「お題目を挙げよう」とか「池田先生にお応えする活動で解決しよう」という事ばかり言われて終わってしまうのは、多くの現実です。
また具体的な手法にしても、結局のところはその幹部の経験値の範囲の言葉しか聴けないというのは、当たり前の事なのですが、創価学会の会員の多くは幹部に対して特別な指導という「指示」を求めているという事実もあります。
そしてこの考え方の根本にあるのは、やはり「幹部の境涯」というものに対する思い込みです。
僕は言葉とか文言というのは時代即応にしたものが必要であり、そういう点から言うならば、「創価学会の指導主義」ではなく「創価学会の相談主義」という言葉に代える必要があると思います。
そもそも幹部であっても、仏法の上から言えば「三惑未断の凡夫」であり、人生というのは最終的には本人が自分自で責任を持つものであると考えていますし、本来、仏法上には無い「境涯」という言葉によりかかり、そこに自身の思考や責任を預けるというものであってはいけないと思います。
以上、つらつらと書き連ねてしまいましたが、「境涯」という「学会造語」に関するものを書いてみました。
信仰というのは、己を見つめなおすものであり、そこから有意義な人生を生きていくための方途であると思います。
そこに「境涯」という言葉を用い、差別化をし、自己の人生を他人に預けるが如きものであってはならない。
そういう事をこの言葉から考えてしまいました。
本日はここまでとします。
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COMMENT
そもそも
似ているようで意味合いが違うものですね。
解りやすく言えば「境界」は区別であり「境涯」は差別といったところ。
まー他にも創価では「深理」を「真理」と用いたり
「絶待」を「絶対」と平気で置き換えていますからね。
これ、大般涅槃経にあり日蓮も用いた「義依不依語」に反する行為ですね。
真言ではこの「義依不依語」に反し
意味を訳すのではなく、語の持つ音を重要視して音訳する事が多いのですが
単純な話、外国の人と会話をする際に大事な事は
発音の問題ではなく、何を言わんとしているかと言う事ですよね。
身振り手振りでも構わず、どういう発音をするかではなく
どう言った義を伝えるか、理解するかに尽きると思います。
音訳では意味をすり替え兼ねないと言いますか
意図的に理論を変える事もできるんですね。
創価の教えってこの辺の落とし穴って結構多いと言えると思います。
結局
(あるいは人間の心または自我、意識は)
差別から抜け出せないのかもしれません
バラモン教が説いた三世観
そして差別化の極致である神格化(本仏も)
釈尊が否定したにも関わらず
大乗経典から再び
この流れに戻ってしまいます
日蓮さんも
境涯という言葉こそ使ってないかもしれませんが
仏になることを目的にされています
(なるではなくひらくらしいですが)
どちらにせよ
そこには今の自己を否定し、もっと上がある、もっと良くなる、もっと幸せになれるという教義が発生する土壌があるような気がします
化城はどこまで行っても化城でしかありません
今ある幸せにに気づかずに遠くに幸せを求めたり
足りないものばかりに意識をフォーカスして幸せになれるわけがありません
学会でいう境涯革命も元々は小さな自分の悩みに窮々としていたのが人のことまで祈ったり考えたりできるようになるようなことを本筋として言っていたと思うのですが
いまは生活のレベルアップを主に指すようになっていますね
まぁ師匠の示した姿が欲望の実現なので仕方ないかもしれませんが・・・
はじめまして
座談会では財務がテーマ、東北の被災地では会館も流されたり、大勢の学会員のかたも亡くなられたり
したので今回は特に財務に関してはお願いしますと幹部が必死。
いったい、いくつの会館が流れて、何人の学会員の方が亡くなられたのかな?
広布のためとはいえお金をどのように使ったか報告されたこともない
これってひどい、ありえない、常識的には。
と、こんなことをいうと、境涯が低いといわれるのかも。
わたしは、組織にはついてるけど、信心てご本尊と自分だとおもっています。
ある種の差別用語
No Title
「その言葉の意味なに?」って。。
そのときわたしは、日蓮の中にある言葉。。みたいなことを言った覚えが。。
とんでもはっぷん。。
創価の造語だったとは!?
いまになって知る事実。。
(はずかしい~)
創価ナイズされた言葉が他にもあるのですよね。。
組織の中で、あたりまえのように行きかう言葉を使って外部の方と話してたら、意味不明な宇宙人みたいに思われちゃいますよね。。わたしみたいに。。(爆)
ぁ。いま思い出しました。。
まだ婦人部来たてのヤングだった頃。。
その当時の地区幹部の方に言われたことがあります。。
同じヤングで創価大学出身の旦那と結婚したヤングと、未入信の旦那と結婚したわたしと比較されて、創価大出身の旦那と結婚した彼女のほうが境涯が高いと言われたことがありましたっけ。。
創大出身の旦那と結婚できたことって、それなりの福運と境涯があるらしいんです。。
そのときは、そういうもんなんだ~と、ちょっと腑に落ちなかったけれど、そう思うことにしたんですよね。。(おバカなわたし。。)
いま想うと、意味分から目な幹部指導ってヤツですよね。。
これも創価の常識、世間の非常識。。でしょうか。
運ちゃんのお話から逸れてしまったようで、ゴメンなさい。
No Title
その幹部の方に。。
「創価大学出身の旦那と結婚できた彼女は、福運があり、あなたよりも境涯が高い」と言われたんです。
じつは、わたしが未入信の旦那と結婚するときに相談した先輩に言われたことが。。「女子部で頑張ってきた流れ星ちゃんと結婚できる彼は福運があってそれなりの人だよ」って。。
これって、なんなんだ~?
創価の中にいると、当たりまえのように聞けちゃう言葉ですが、きっと創価でない人が聞いたら不思議ですよね。。
No Title
母がこの本を手垢で真っ黒になるくらい読みこんでいました。それで、私が小さい頃から「お前は境涯が低い」だの「あの人は中学しか出ていないから低い」「良い学校出て、収入が高い人は境涯が高い」などなど
境涯革命と十界論 高齢者には相当根強く刷り込まれていますよね