2004年秋、事務所の雪田さんが調査旅行に行くというので私もくっついて行ってきました。目的地はノルウェー。女性の社会進出が最も進んでいるといわれている国です。旅行を計画していた夏頃、女性の社会進出度を示す国連の指標GEM(ジェンダー・エンパワーメント・メジャー)の04年版結果が報道されていて、ノルウェーは昨年に引き続き1位。自ずと興味がそそられます。
 ノルウェーの平等政策には、差別にどっぷり漬かった日本では発想しにくい面白い政策がたくさんあります。その一つが「パパクォータ」制です。この国の育児休業制度は充実していて、42週を取る場合には100%、52週(約1年)を取る場合でも80%の給与が国から保障されます。「パパクォータ」制とは、このような育児休業のうち最低4週間は、母親ではなく父親が「取得しなければならない」というもので、仮に父親が取らない場合、4週間の権利は剥奪されてしまいます。
 93年に「パパクォータ」制が導入され、取得率は年々増加し、最新の統計では85%の男性が育児休業を取っています(男女共に法律上取得できるはずなのに、男性の取得率が1%にも満たない日本とは大違い!)。
 訪問した男女平等センターのスタッフは、この「パパクォータ」制について「平等を進める機関車」のようなものだと評し、そして、「カップルが子どもを産もうと決めた時点で、2人の間に責任の違いがあってはならないこと」を力説していました。そして、育児の最初の時期に父親が赤ちゃんをみるという経験をすることが、その後の父親と子どもの関係を築くという意味で大事であり、さらに、家の中に子どもをみることができるパートナーがいるということは、女性が安心して社会参加をする基盤になるという意味で二重に重要であると、この政策の目的を説明してくれました。
 また、「法による強制という形を取ることで、育休を取りたいと言い出せない気の弱い男性が取りやすくなったんですよ」と微笑んで話されたのが印象的でした。そして、今、男女平等センターでは、将来的に1年の育児休業のうち4ヶ月を母、4ヶ月を父、残り4ヶ月をどちらが取るかカップルが選択するというシステムを提案しているとのことでした。
 経済活動も社会活動も、そして家事育児といった活動も、性別にとらわれず、すべての人間が関わることを国の政策の中心に位置づけている国。久しぶりに「まっとうなもの」を見ることができて、とても嬉しかったです。

 
   
   
   

 横山ノック前大阪府知事の強制わいせつ事件から丸5年が経過した昨秋、今度はタレントの島田紳助の傷害事件を担当することになって、マスコミ報道と直面した。
 5年前のノック事件では、多くの女性が、訴えた被害者の姿に勇気を得たと言って、自らも声をあげ始めた。性被害を受けた女性が、加害者の責任を追及するために声をあげることは当たり前のこと、そんな杜会の気運を作る一つのきっかけになった。
 それから数年後、DV防止法が制定された。単なる「夫婦喧嘩」として扱われてきた夫婦間暴力が「犯罪」として認識されるようになり、この日本でも、「女性に対する暴力」が、ようやく表舞台で人権問題として語られ始めた。
 昨秋の傷害事件も、芸能界やマスコミに影響力を持った売れっ子男性タレントが、その圧倒的優位さに奢り、一女性に対して執拗に暴力を振るった「女性に対する暴力」としての性格をもった事件であった。
 ここ数年、「女性に対する暴力」は犯罪であり、人権侵害であるという認識が、確実に広まっており、事件を訴える被害者の数も急増している。
 しかし、残念なことに、女性に対する暴力犯罪の被害報道には、5年後の今もなお、ジェンダーに基づくバッシングが消え去っていない。
 5年前のノック事件の時、著名人である曽野綾子氏や上坂冬子氏が、「被害現場で声をあげずに、司法に救済を求めるのは女性の甘えだ」という論調の被害者バッシングを行った。犯罪の加害者を責めるのではなく、被害女性を非難するというお決まりの「セクハラ神話」であった。
 同じことが5年後の紳助事件でも繰り返された。告訴をした被害女性に関して、「帰国子女」「はっきりと物を言うタイプ」といった言葉を使って、架空の女性人物像を描き出し、「きちんと白己主張する女性は多少の暴力を受けても仕方がない」と言った論調の被害者バッシングが、一部マスコミ報道に見られたことである。残念なことに、女性芸能レポーターにその傾向が強くあらわれていた。(ただし、「帰国子女」や「はっきりと白分の意見を言う女性」を否定的に捉えて、この機会にとばかりにバッシングする日本社会の現状を、冷静に分析・批評していた女性ジャーナリストがいたことも指摘しておく。また、「帰国子女」は事実と異なる情報操作であった。)
 5年前と比較すると、現在では、犯罪被害者支援基本法も成立し、メディアが犯罪被害者の人権を取り扱う機会が随分と増えている。一般的な被害者保護の重要性は、社会的な認知を受けていると言っていい。
 しかし、現在でもなお、変わっていないものがある。同じ犯罪被害者であっても、男性からの暴力被害を受けた女性は、未だに誹謗中傷や名誉駿損の二次被害を受けるという現実である。自らの被害の回復を求め、加害者の法的責任を問うこと、こういった当たり前の権利を行使したとき、被害者が女性の場合には、その行動が非難されてしまうのである。日本の芸能界やメディアには、「女のくせに偉そうにごたごた言いやがって」というジェンダー・ハラスメントが、まだまだ大手を振るって残っているらしい。
 マスコミのみなさん、ジェンダーに敏感な報道を、ぜひ、頼みますよ。

 
   
   
   

 職場の中のパワー・ハラスメントにからむ相談を受けることが多くなった。職場で権力をもつ加害者が、自分より立場の弱い者に対して、その人格を否定するような言葉・態度(ハラスメント)を日常的に繰り返して被害者を追い込んでいく。そして加害者は、相手を傷つけることで自分の価値を高め、弱い自我を守ろうとする。そんな被害の訴えに耳傾けていると、家庭内のDV被害の構造と似ていることに驚かされる。DVの身体的暴力の土台には、必ずといってよいほど相手の人格を否定する言葉・態度(ハラスメント)が存在するからである。
 そしてセクシャル・ハラスメントやDVがそうであったように、このパワー・ハラスメントも諸外国に共通した現象である。パワー・ハラスメントはモラル・ハラスメントとも呼ばれるが、フランスの精神科医による『モラル・ハラスメントが人も会社もダメにする』(紀伊國屋書店)を読んでいると、まるで日本の職場のことが書かれているのかと錯覚を起こすほどである。
 しかし現象は同じでも、すでにフランスでは2002年1月に労働法の中にモラル・ハラスメントを防止する条項がつけ加えられ、セクシャル・ハラスメントに続いてモラル・ハラスメントを法律によって防止するのが、ヨーロッパの趨勢になっているという。日本でもモラル・ハラスメントの防止を求める声をあげる時期に来ていると、深刻な相談に耳傾けながら思う昨今である。

 
   
   
   

 ドーンセンターの「ウィメンズプックストアゆう」で素敵な本に出会いました。『MY FUTURE DESIGN BOOK 女の子に贈るなりたい自分になれる本」(上野千鶴子編、学陽書房)です。
 ティーンエイジャー向けに書かれたこの本は3部構成になっていて、「まずは自分を知ることから始めよう!」というのが最初のテーマ。今を起点として女性の平均年齢である84歳までの時期を縦軸に、仕事、家族、友人、すまいをそれぞれ横軸にして、それぞれ自分の思うライフスタイルを直接書き込めるようになっています。自分史が整理できるぺ一ジもあり、質問事項に答えながら、自分がどのような価値に重きを置いているのかを分析できるようにもなっていて、中学生の娘は真っ先にここを見て試していました。
 第2部は、「私は何がしたいかな?どうしたらできるだろう?」というテーマで、実際に働いている人の生活費や新規学卒者の初任給、自分はどんな仕事がしてみたいかを考える材料として、その仕事で実現できる価値や、仕事に就くための条件や長所・短所などが職種別に簡潔に紹介されています。就職するときに知っておきたい法律や社会保険についての説明もあり、働く女性たちの声、働く女性に立ちはだかる壁など現実の問題にもしっかり目を向けられるようになっています。
 未来を切り開いていく上で、この本は心強い味方になってくれると思います。自分が中学生の時にこんな本に出会っていれば…と、今の若人を羨ましく思ったりもしますが、今この年で出会ったからこそ、本の素晴らしさがわかるのかもしれません。若い人へのプレゼントとしてぜひお勧めの1冊です。

 
  <リレーエッセイ>
   
   

 未成年の娘に対して性虐待をしていた父親に対する大阪地裁の判決に関する11月30日付の新聞報道を見た。検察の求刑が15年であったのに対して、判決はそれを上回る18年であったという。司法には疎い私にも、これは稀有なケースであろうことはわかった。そして、日頃から虐待を受けた子どもとのかかわりを本業としている私としては、「司法が子どもたちの傷の深さを理解し始めた」と喜ぶべきニュースなのだろう。
 実際のところ、性虐待の被害を受けた子どもが親を相手取って訴訟を起こすケースが徐々にではあるが増えてきている(と、少なくとも現場感覚ではそう感じられる。実際の統計データは手元にはないが)現状において、司法はあまりにも冷たい。強姦罪の立証の困難さ、警察や検察調書や証言における子どもの心理的負担、こうした多大なる苦悩の末に下される判決の刑期の軽さなど、刑事訴訟や民事訴訟における子どもの負担とその結果とはあまりにもギャップが大きい、と常日頃感じてきた私には、今回の大阪地裁の判決はすばらしい、と言いたい。
 しかしである。諸手を挙げて喜ぶことを阻害する想いが同時に起こるのだ。こうした考えは、それ自体が妄想的なものとして一笑に付されるかもしれないことは十分承知の上で言うと、この判決と現在法制審で議論されている少年法の改定の議論とに、どこか通底するものがあるのではないか、ということである。今回の判決も、少年法改定論議も、ある意味で加害者に対する重罰化傾向だと括ることができよう。
 誤解しないでいただきたいのは、私は加害行為への重罰化そのものに反対する、というのでは決してない。そうした重罰化が客観的で科学的な検討の結果であるなら、当然、賛成である。しかし、少なくとも少年法の論議を傍目に見ている私にとっては、カロ害少年への現行の対応システムを客観的に十分に検討した末に今回の議論がなされているとは到底思えない。
 では、何が重罰化の流れをつくっているのか。私には、「感情」の問題だと思えてしまう。もちろん、1995年の阪神淡路大震災を契機として被害者の心理・精神的問題に社会の関心が注がれ、それが被害者感情を重視するという傾向につながったことは、トラウマを専門とする私にとっては喜ぱしいことなのだ。しかし、そうした「感情」は科学という裏づけがあってこそのものではなかろうか。少なくとも司法や制度の領域では感情を重視しつつ、そこに客観性・科学性を冷静に担保していくことが大切なのだろうと思う。
 これまで感情に冷徹であった司法が一気に感情論で突っ走ってしまう危険なにおいを感じ取ってしまう私は、今回の判決を素直に喜べなくなる。これが、へそ曲がりという職業病を抱えた一介の心理屋の杞憂に終わればよいのだが。

 
     
   
2005.1 女性共同ニュースレターWeb版Vol.7
 

 

 

・パパクォータ制は平等を進める機関車   乘井弥生
・犯罪被害報道とジェンダー         雪田樹理
・職場ハラスメントの防止を         宮地光子
・「なりたい自分になれる本」        有村とく子
 <リレーエッセイ>
・危険なにおい                西澤 哲

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