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[29852] 星の大洋【冒険ファンタジー】
Name: まねまね◆44c3a61e ID:2997fe6e
Date: 2011/09/21 15:44
はじめまして。まねまねと申します。

拙作は剣や魔法の活劇のないファンタジーです。空を渡る船の伝説が残る異世界で、田舎育ちの少年たちの体験を老人が懐かしく語っていきます。

楽しかったこと、悲しかったこと、うまくいかなかった沢山のこと。そして今はいなくなってしまったあの人を思うとき、老人は――。

そんなお話にしようと思います。
冒険色が出てくるのは金剛木アダマス以降になります。
亀更新ですが、よろしくお願いします。



[29852] 序章
Name: まねまね◆44c3a61e ID:2997fe6e
Date: 2011/09/21 12:58
 そこのあなた、ちょっとこちらへいらっしゃい。そう邪険になさらずに。一つこの年寄りの話をお聞きなさい。さあさあ、ここへ座って。涙をお拭きなさいな。
 ねえ若いお方。幸せでない時間に意味なんてないと思います? 満たされない、思い通りにならない人生なんて、必要ないと思います? 後悔ばかりの過去なんて捨ててしまいたいと、そう思いますか? お顔にそう書いてありますよ、可哀相に。絶望に疲れきって光なんてどこにもない。そんな表情ですね。でも今にきっと気づきますよ。流した涙の一滴や押し殺した嗚咽の息、噛み締めた苦渋の味。振り返ってみれば、どれも色の深い宝石のように輝いているものなのです。群青の夜に散りばめられた、孤独な星々みたいに。――と言っても、この街の夜空に星は見えませんけどね。
 え? 見える?
 いいえ、たったこれだけの星。見えていないも同然です。本当の空にはもっとたくさんの星があるんですよ。眩し過ぎる街明かりに吹き消され、見えなくなっているだけ。
 ウト・ピア村の丘からは、それはそれはたくさんの美しい星が見えました。本当にささやかな感傷や愁いの星まで、澄んだ空気を震わすように、淋しげに、細い光を放って泣いていました。できるならまたこの目で見たいものです。 三日月渓谷を越え白の大平原を渡り、あの赤土で覆われた大地を再び踏むことができるなら……。
 そうだ。一つ昔話を聞かせましょう。ウト・ピアの村から始まる、空にまつわる物語を。

***

 かつてこの先進大陸にヒトが生まれて以来、その文明は太陽を競って伸びる花々のように芽吹き、急速に増長してきました。
 最先端の技術と洗練された文化、複雑に絡み合う人種と乱立する国家。近年まで脈々と受け継がれた野心に隅々までを侵された大陸は、すでに隙間なく人間の支配下に置かれました。
 太古に聞こえた小川を流れる言葉や花弁の産声、闇の息遣い、神秘の領域はすべて暴かれ追い立てられてしまいました。奇っ怪かつ巨大な建築物に塗り潰された大地には、もはや深遠なひみつの隠れ家などはありません。古くから先進大陸に眠っていたひみつは、冒険家によって暴かれた秘境の湖に沈む宝に似ていました。この静かな湖は隅々までたわみない鏡のように空の色を写しつつも水晶のように透明で、底に沈んだ神秘は一見無防備に見えます。ですが一度人がその宝へ手を伸ばそうとしたなら、水面は波打ち泥が巻き上がり、濁った湖の宝は手に入らないどころか、二度と眺めることもできないのです。
 そう、伸びてくる人々の手をかい潜り、ひみつは先進大陸の外へ逃げ出しました。
 大陸の東に覆いかぶさる黒の大森林の、海よりも深い静けさを横目に。時折爆発する赤の山脈の、溶岩の雪崩のような怒りを縫って。灼熱の太陽を照り返す、真っ白な砂の平原をよぎって。分厚い雲を突き抜けて。
 そうしてたどり着いたのが、赤土で覆われたアコーラ王国でした。その辺境の村ウト・ピアは、昔に滅びた民族の言葉で「どこにもない場所」の意味です。ひみつが姿を隠すには縁起の良い名前だと思いませんか? そしてこの村の北には、これもまたひみつの番人にはピッタリの丘がありました。
 日当たりのよいその丘はなだらかで、土壌の痩せたアコーラには珍しく植物に覆われているのです。時折吹き抜ける風が丈の低い若草を揺らすと、まるでさざ波のようにきらきらと輝きました。そしててっぺんには赤い屋根とベージュの土壁の家が建っていて、シェーラという娘が大家族と共に住んでいました。
 シェーラはこの地方では一般的な亜麻色の髪と褐色の肌をした、奔放で気立ての良い女だったそうです。でもやせた畑を耕すことも、複雑な機織り機を扱うことも大嫌いで、彼女はいつも家族の目を盗んで仕事を抜け出していました。
 そしてスラリと長い足で丘を駆け降りて行くのです。母親が大声で名前を呼んだって、足の早いシェーラには届きません。彼女が走れば辺りの草は風がなでたようにひるがえり、みずみずしい緑は太陽の光を照り返し小川のように輝きます。

「ごめんね母さん。でもうちの中は、私には少し退屈なの!」

 丘の上の小屋へ向かってそう叫ぶと、シェーラは村の西の外れにある、今にも崩れそうなあばら家へ飛んで行くのです。 そこは柱も土台もなく、ただ土を固めただけの壁に藁をふいただけの掘っ建て小屋です。入口の白木戸は蝶番が外れかけていて、いつもきいきいと揺れていました。
 シェーラはその扉を勢いよく開けて、中へ飛び込みました。

「おじいさん!」
「おお、シェーラ」

 こじんまりとした釜戸と質素なテーブル、椅子が二脚あるだけの小屋には、一人の老人が住んでいました。
 彼の金髪は色褪せてほとんど白に近く、いつも脂でべたべたしていました。それにしわだらけの赤土色の肌はヒビだらけで、古い土壁のようです。でも落ち窪んだ二重の大きな目やまあるく上気した赤い頬には、いつも親しげな笑顔が浮かんでいました。
 彼は小屋へ入ってきたシェーラを歓迎するように、椅子から立ち上がり両手を広げて見せました。

「今日も家を抜け出してきたのか。悪い子だ」
「いいの。うちにはたくさんの兄弟姉妹がいるもの。でもおじいさんには、私一人きり!」

 そう言って、シェーラは毛穴の開ききった老人の頬に口づけしました。老人は大きな口を横に引いてはにかむと、再び椅子に座ります。

「いつも気遣ってくれてありがとう。だが、このままでは君は家族ののけ者になってしまう」
「もう嫌われ者よ」

 屈託なく笑いながら、シェーラは丸椅子の上であぐらをかき、長い金髪をかき揚げました。

「二十にもなって嫁にも行けず、働きもしないんだもの。みんな最近じゃ呆れてなんにも言ってこないんだから」
「君ほどの美人に貰い手が付かないなんてねぇ。シェーラ、この村の若いもんの趣味は分からないよ」

 そう言うこの老人は、元々ウト・ピアの住人ではありません。彼はある日突然やって来た、アモーロート出身の旅人を名乗っていました。
 アモーロートとは、アコーラの最西に位置する巨大な城下街です。 同時に「地平の大門」に最も近い町でもあります。「地平の大門」は、アコーラをその西に広がる砂漠から守るための黒鉄の防壁です。砂漠に住む種族があまりに強力なため、昔から近隣国が共同で警備していました。そのため外国人が多く、交易も盛んな大都市なのです。
 ウト・ピアのような田舎に生まれ育ったシェーラにとって、アモーロートのような場所はとても高貴なように思われるのでした。きっとそこでは皆様々な服を着て、様々な食べ物を味わい、様々な話題を毎日楽しむことができるのでしょう。村人みんなが同じような麻の服に身を包み、毎日ツルイモとウシばかり食べているウト・ピアとはきっと大違いなはずです。
 そんなまだ見ぬものへの憧れから、シェーラは毎日この老人の元を訪ねているのでした。

「私、お嫁に行くつもりなんかないわ。それよりおじいさん、今日は何を教えてくれる?」
「そうさなぁ。北の黒の森の話もしたし、南に広がる海の話もしたな。西の果てにあった滅びた文明の話なんか、どうだい」
「それ、三回目よ?」
「そうか。じゃあ、今も続く先進大陸の戦争の話は?」
「なんだか退屈そう」
「難しい年頃になってきたのう」

 老人はしかし嬉しそうに目を細め、一度背伸びをしました。

「じゃあ、西の大賢者の話でも聞かせようか――」

 信じられないかもしれませんが、アコーラ王国には義務教育制度というものがありません。様々の知識を学ぶことができるのは、豊かな家に生まれた子供だけです。貧しい子供たちは親か奉公先の家で生活に必要な知識を学ぶだけ、それがこの国の常識でした。
 だけどシェーラはきっと、知りたかったのでしょうね。旗織り機の使い方より、遠い国の暮らしを。茶色いツルイモの育て方より、色とりどりに咲き乱れる花の名前を。質素な料理の作り方より、この世界を形作っているものの正体を。
 大地の果てはどこへ向かうのか? 見たこともない海はどんな形をしているのか? 空が何からできているのか? そしてシェーラ自身は?
 なぜ生まれ、働き、朽ちて行くのか。この丘のふもとに広がる村で、労働のためだけに生きなければならないのか。
 老人の話を聞きながら、シェーラはいつもそんなことを考えていました。こんな退屈な村に閉じ込められたまま、窮屈に老いていくなんて。空想に逃げてしまいたいと思っていました。でも丘の上の家からは、見渡す限り続く大地が見えてしまいます。青い空や白い雲にまで触れてしまいそうなところまで続く、大地という鎖が。
 一体、どうやったら逃げられるの?
 シェーラがその質問をする前に、老人は亡くなってしまいました。身寄りのない彼の遺体は、引き取り手のない彼の小屋と一緒に燃やされ、黒い煙りになって空へと逃げて行きました。

「ずるいわ。おじいさん」

 煙りの行き先を見送ろうと、シェーラは涙を拭い空を見上げました。すると、何かが青空の中で輝いたのです。
 一瞬我が目を疑ってシェーラは数度瞬きしました。でもやっぱり、遥か上空で何かが光っているように見えるのです。それは眩しい午前の太陽を照り返し、鮮やかなエメラルド色に輝きながら、緩やかに降下しているようでした。
 老人の葬儀のために派遣された村の役人に教えると、彼らのうちの一人は、鳥だと言いました。また別の役人は、流れ星だろうと言いました。シェーラは納得しませんでした。
 鼓動が急に踊りだして、胸が締め付けられるように感じました。それは、老人から始めて外界の話を聞いたときのきらめきによく似ていました。
 シェーラは風船のように頼りなく進むその萌葱の光を追いました。楽ではありません。川をまたいで、林を越えて、光はどんどん流れて行きます。シェーラは髪が乱れるのも汗が滴るのも気にはしませんでした。ただその光を見失うのが怖かったのです。その瞬間に自分の人生は真っ黒な葬式用のレースを被るのだと、彼女はそう思いました。目の前に長く、霞むほど遠く続く未来に二度と手が届かなくなり、そしてこの堂々巡りの田舎暮らしの中で少しずつ擦り切れながら死んでいく――そう直感したのです。
 そして酸欠を起こしたシェーラがめまいに負け、白んでいく意識を手放そうか悩み始めた頃。彼女は東の外れの森へたどり着いていました。地平線へ向かって落ちはじめた陽がうららかに木々に射し込む中、緑の光も森の中へ沈みました。ついに、シェーラは追いついたのです。
 しかし喜びや期待を感じることはありませんでした。あまりに体が疲れすぎていたのです。彼女はすっかり傷だらけで、すねまであるスカートの裾もボロボロでした。長い金髪もぼさぼさでした。靴も擦り切れて、底に当てたゴムが片方剥がれかけていました。
 シェーラはただ無心に、倒れ込むようにして森へ分け入りました。初夏の葉を透けて、爽やかな緑の光線が彼女を優しく包みます。そしてふらつく足を引きずり華奢な木の幹にしがみつきながら進んで、シェーラはようやく見つけました。
 朽ちて倒れた、苔むす古い幹の向こう。小さな泉が空を映して、木陰が途切れたささやかな空き地。そこに広がっていたのは、光沢のあるエメラルド色の大きな布でした。それからバラバラになった、頑丈な繊維で織られたカゴの残骸。正体のよくわからない、宝石みたいに光る何かの破片。
 そして、一人の男。彼は泉から少し離れた木陰に大の字になって倒れていていました。その顔は見たことがないほど白く艶やかで、短く刈り込んだ銀色の頭髪と同様、森の中特有の碧い光に照らされて、うっすらと緑を映していました。
 ――シェーラが誰と出会ったか気になりますか? そのうち分かりますよ。それよりも今はもっと大事な人々についてお話ししましょう。彼女の時代よりもっとずっと後の出来事、あの美しくも忌まわしい丘に引き付けられた子供たちのお話を。
 それはシェーラと男の邂逅から数十年後のことです。ウト・ピアで物心着いた頃から大工をしていた少年は、澄み切った青空を颯爽と横切る黒い鳥を見て呟きました。

「そういえば最近見ねぇなぁ、アニータ」

 すると、隣で工具をまとめていた父親が振り返りました。

「ああ。なんかずいぶん前に父親に引っ付いていって、アモーロートの市場ではぐれてそれっきりらしいぜ。すげぇ人混みらしいからな、見つからなくても無理はねえ」

 当時のガルショー夫妻、つまりアニータの両親は一人娘を失って幽霊か何かのようにしていたのですが、そのうち彼らも村から消えていました。娘を探しに行ったのか、悲しみのあまり果てたのか。誰も知りませんでした。

「あんまり働き者じゃかなかったが……可愛い子だったからなあ、お父さんもお母さんもすっかり肩落としちまって。可哀想になあ」
「本当、可愛かったもんな、アニータ」

 目を閉じればぱっと浮かび上がるほど、アニータは鮮やかな少女でした。
 肌の色はアコーラ人にはない白っぽい砂色で、まだ幼いのに手足や首は細く長く、小さな顔には大きな瞳と長いまつげが備わっていて、鼻筋も高く唇は野薔薇の色でした。でもそれより何より人目を引いたのは、長く豊かな黒い巻き毛です。彼女が自分の歌に合わせて踊ると、艶やかな髪はそれは楽しそうに弾むのでした。そうそう、アニータは歌ったり踊ったりすることが大好きで、働いている姿なんかほとんど見かけませんでしたね。ウト・ピアでは十歳にもなる子供たちは皆家族を助けるために働くのが普通だったのですが。この少年のようにのように親の仕事を手伝う子もいれば、農家や火薬職人など人手の足らないところへ奉公に出る子もいました。

「しかし、お前今更なんでそんなこと言い出すんだ。チェン、まさかお前、好きだったのか?」
「何言ってんだよ!」

 アニータは確かに美しい少女でしたが、あまりに綺麗だったし、それにいつ見かけても風と歌い日差しと踊っていたから、話しかけたこともありません。少年はいつも夜眠る前に、ちょっとだけ後悔したりもしていました。

「俺はあの子と話したこともねぇのに」
「ははっ正解だ、関わらん方がいい。女はうちのかあちゃんみたいに良く働く優しいやつがいいんだ。ま、お前みたいに真っ黒なやつ、あっちから願い下げだろうしな!」

 父親は笑いながら木材を肩に抱えて運んで行きました。残されたチェンは、いまさらながら自分の出で立ちを見下ろします。
 彼はアコーラでは最も平均的な肌の黒い種族でした。その上、元の色が分からないほどオイルやニスの染み込んだ、ボロボロの作業着を着ています。それだけでも十分過ぎるほど黒いのに、一日の尊い仕事が終わる頃には、泥やら汗やらで頭からつま先まで余計に黒くなってしまうのでした。

「なんだよ。自分だって真っ黒じゃねえか」

 ずんずんと力強く去っていく父の背中にそう吐き捨てたものの、チェンは黒く汚れた自分を誇らしく思っているのでした。

***

 日が暮れると、チェンは母の沸かした風呂に浸かり、短い金髪と黒い体をいつもより念入りに洗ってみました。しかしいくら擦ってみても彼の肌は赤くなるだけで、アニータのようにはなりません。砂糖を焦がしたような色の腕を見下ろして、チェンはため息をつきました。
 アニータ。他の誰とも違った象牙の肌に、すっきりとした輪郭を縁取る真っ黒な巻き毛。口に出さずとも、村の大人たちが彼女を敬遠していたことは明らかでした。同じ年頃の子供たちが陰口を叩いているのを聞いたこともありました。しかしそれでも一向に媚びず折れないアニータの凛とした姿に、チェンはいつもハラハラして、そして目を離すことができなくなっていたのです。だから今でも、ふとしたことで彼女の姿を思い出してしまうのでした。
 昼に見かけたあの鳥。自由気ままで誰にも捕まえることができなかった、アニータにそっくりでした。ジタバタと醜くもがくこともせず、広げた羽根で風に乗って、どこまでも行ってしまった彼女。まるで風にさらわれたみたい。――この発想はチェンの気に入りました。
 もしチェンの父親の話が本当なら、今頃彼女はアコーラのどこかで見世物にされているはずです。都会で人攫いに合えば、流行りの恐ろしいサーカス小屋に売り飛ばされると専らの噂した。でも、あの女王さまのように働かなかったアニータです。きちんと言うことを聞いているとは思えません。むしろ逆らってひどい目にあっているかもしれないのです。それよりは、風に流され遠い国に運ばれていた方がずっといいでしょう。アニータは美しいから、きっと優しい王子様に見初められて幸せになるはずです。
 なんてお伽話のような空想をしていると、建て付けの悪い窓の木枠が急に震え出しました。そしてすぐにガタガタと騒々しい音が、ガラス窓を殴りつけるように響きました。北の外れにある、例の丘――かつてシェーラたちアララト家の方からです。
 村人たちはあの丘を「悪魔の通る丘」と呼び、近づくことを禁じていました。確かに時折響くこの音といい、どこか不気味な丘ではあります。でもチェンは、あの丘を嫌うことがどうしてもできませんでした。
 チェンはよく見かけていたのです。仕事から逃げ出したアニータが、そこで蝶々と踊っているのを。聞いたこともない不思議なメロディーを口ずさむのを。彼女の黒い髪が青空を背景に揺れる。その眺めは鮮やかで力強いはずなのに、どこか淋しげなのでした。もしかすると彼女は、あの丘の悪魔についていってしまったのかもしれません。
 熱い湯につかってぼんやりとそんなことを思っていると、母親の声が響いてきました。

「チェン! いつまで入ってるの? 早く出てきなさい!」
「はーい!」

 チェンの家は十六人兄弟で、こうしてゆっくりしてはいられません。下の子供たちの歯を磨いてやり、絵本を読んで寝かしつけるのはチェンの役割です。
 弟たちが特に好きなのが、アコーラの南に広がる海の冒険の絵本でした。空よりも濃い青で、川よりもずっと大きな水の流れる「海」。人々は船という箱に乗って、その水の上を風に吹かれて旅するというのです。
 すべてを風に任せた、無事に済む保証などない旅。絵本に描かれるスリルと未知の世界の魅力に、弟たちはいつも夢中になります。そしてチェンは毎晩兄として、現実的な大人を演じ弟たちをいさめてきました。馬や牛のように、人間に御することができる乗り物での旅は楽しいものになるでしょう。それはある程度安全で、怖くなればいつでも家へ引き返すことができます。しかし、風を御することはできません。船は乗り手を、思いもしないほど遠くへ運んでしまうかもしれないのです。両親の優しい手の届かないほど、遠くへ。泣き声も聞こえないほど遠くへ。――そう言って脅さなければ、弟たちはいつまでも航海ごっこをやめず、チェンを困らせるのでした。
 そうやって今夜も何とか幼い弟六人と妹七人を寝かしつけると、ようやく自由な時間がやってきます。窓辺に寄ると、空にはまん丸とした月が高く登り、星がちらちらと煌めいていました。両親は疲れて眠っています。姉二人は薄暗いランプの下で刺繍をしながら、なにやら楽しそうにひそひそとおしゃべりに余念ありません。久しぶりに悪魔が通る音がしたものの、とても平和な夜でした。だって丘を通る悪魔が何事かやらかしたことは、今までに一度もないのですから。
 涼しい風が吹き、虫の音が透き通る明るい夜。今にもアニータに似た妖精が踊りながら通り過ぎて行きそうな白い月光。その下の草原にはぽつりぽつりと家々の明かりが点っています。その明かりを一つ一つ右へ向かって目で追いかければ、最後の明かりの向こう側に例の丘が黒々と横たわっているのでした。
 チェンは幼い頃に友達に誘われて、夜の丘へ行くことになった日を思い出しました。でも結局怖くなって、一晩中どきどきしながら布団の中で狸寝入りしていたのでした。まあその時には友人の方もたまたま寝過ごしたらしく、翌日二人して悔しがって見せたりしたというオチですよ。
 それから五年が経った今、チェンはもう悪魔なんてものを信じる年ではありません。大人たちが何らかの理由で子供を丘に近付けたくないだけだと知っています。それでもチェンは怖いのでした。
 丘に行って、本当に何も起こらなかったら? 物心ついたときから畏怖と神秘を夢見たあの丘で、なんの変哲もない夜が過ぎていたら。チェンは今日も窓を乗り越えかけた足をひっこめて、弟たちが所狭しと寄り添って眠る寝室へ引き返すのでした。
 そしてその晩チェンは深い夢の中で、丘を駆け降りる巨大な馬車がバランスを崩して事故にあう、そんなおかしな夢を見ました。
 翌日、予感がした彼はふらりと丘のふもとへ散歩へ行きました。そして異変を発見したのです。それは大工の息子である彼には馴染みのあるものでした。

「ボルトだ」

 あの美しく、目には見えない神秘を抱いた丘のふもとに、無骨な鉛製のボルト。少し気になったので、彼はその場にしゃがみこみ、さらに目を凝らしました。見つけたのは、大きなスプリングに折れた釘。またスプリング。鉄にしては軽すぎる謎の銀色の破片。バラバラになった木材。この辺で何かが壊れたのは確かなようです。
 チェンは思わず呟きました。

「悪魔の馬車……」

 丘のなだらかな斜面を見上げながら、チェンは昨夜の情景を思い描きました。
 静かな夜半、神聖な灯りの中を横切る悪魔を乗せた馬車。それが、こんな、素朴な鉄クズと木材でできている?  それは妙に非現実的で、それでいて明らかに現実的すぎました。そう、悪魔なんて、本当は存在しないのと同じくらいに、明確に。ではあの小うるさい悪魔は、本当は何者だったのでしょうか。
 それから数ヶ月は何も起こりませんでした。毎晩チェンは寝床を抜けて窓を開き、耳を澄ませていました。しかし連日、悪魔の通る音どころか微かな風の音さえ響くように静かです。思い出してみると、あの馬車の軋みのような音は、よく晴れた明るい風のある夜に聞こえたはずでした。そう、風のある夜に。
 チェンはふと思いついて、そして待つことにしました。月夜と迷信に守られた神秘が、ひょっとすると、もっと胸躍る何かに変わるような、眩しい期待を抱いて――。

【序章】了



[29852] 夜、開く
Name: まねまね◆44c3a61e ID:dbb72ca3
Date: 2011/09/21 10:32
 その時がやってきたのは、ウト・ピアのとある夏の日のことです。雲一つない青空高くへ昇った太陽は、じりじりと音をたてそうな白い光線を放って輝いていました。そして南から吹き付ける風が土の香りのする暖かい空気を運び、息をするのも苦しいほどです。
 そんな中、十七歳になったチェンは額に汗を垂らして石碑を磨いていました。年ごとにくっきりとしてきた眉骨や鼻筋とは対照的に大きな鳶色の瞳にはまだ幼さが残っていましたが、相変わらずの浅黒い体はすっかり成長し、手足も胸板も筋肉で厚みが出ていました。肩まで伸ばした金髪は後ろで小さく結び、長さのまばらな前髪はバンダナでまとめています。チェンは額の汗を拭って、目の前の石碑を磨く手を止めました。努力の甲斐あって、雑草に覆われツヤを失っていた表面は、今では濡れて黒く輝いています。そこには顔も覚えていない兄の名前が彫られていました。

「こんなもん、かな」

 この日は兄の命日で、家族総出でお墓参りに来ていました。しかし真面目にお墓の掃除をしているのは、気づけばチェン一人です。四人の祖父母と両親、そして他の兄弟たちは、同じ理由で墓地に集まった近所の人達と話し込んだり遊んだりしていました。
 ずっと昔、まだチェンの意識が曖昧なほど幼かった年のこの日、チェンの兄をはじめ村の大半の男の子たちが働いていた工場で大きな事故があったそうです。その時の火事でたくさんの男の子が亡くなりました。その家族たちがそろって墓地に集まるのですから、皆ついつい目的を忘れてしまうようです。今も、すぐ後ろで井戸端会議をする母親の声が聞こえてきます。

「あんたのとこのキキはかわいいし、料理もうまいし。あたしはいいと思うんだけどねぇ」
「ちょっと、休憩しようかな」

 母親一同の視線を感じたチェンは、バケツの水で手を洗うとそそくさとその場を離れました。
 アコーラでは十七歳で結婚を許されます。なのでチェンの村でも、同じ年の子の婚礼がちらほら行われるようになりました。伝統の色鮮やかな衣装を着て、親戚一同に色とりどりの紙吹雪を浴びせられながら新居に入り、友人や隣人も交えて宴を催すのがウト・ピアの典型的な婚礼です。先進大陸風のものとは違って花火もネオンもありませんが、素朴で温かなものですよ。チェンも何度か参加したことがありました。どれもこれものどかで愉快で、そしてちょっと感動的な思い出に残る素晴らしい会ばかりです。しかし隣人や姉たちの婚礼を楽しむことはできても、チェンはその主役になりたいとは思えないのです。
 宴会はとても陽気に執り行われます。結婚する二人は幸せそうです。その家族も笑顔でいっぱいです。そしてこの頃は、母親がしょっちゅう年頃の女の子を連れて来ます。それでもやっぱりチェンにはその気が起こりません。彼の耳には、仕事中の父親の言葉がこびりついていました。

『なあチェン。俺は別にかあちゃんと結婚したことは後悔してねえよ』

 彼の父親は時々、しみじみとこんなことを言っていたのです。

『でもなあ、早くに身を固めるのがいいって訳じゃない。家族や嫁がいれば、できないことも沢山あるんだ。わかるだろ? お前は小さい頃から家の手伝いばっかで、ちっとも遊ぶ暇がなかった。もうガキどもも大きくなったことだし……この家を出てみる気はないか?』

 走り回る子供たちの横を通り過ぎて、日よけ用の小さな傘を手に寄り添う老人たちの前を横切り、チェンは墓地の隅までやって来ました。お墓を守る高い鉄の柵の間から、ちょうど遠くにあの丘が見えます。

「家を出る、か」

 昼は天使が踊り、夜は悪魔が走り去る丘やそのてっぺんの無人の家。その延長線上に、チェンは密かに空想を抱き続けてきました。丘よりももっとずっと遠く、ここではないどこか――頼りないのにどこか魅力的な船旅の行く末。それを象徴するのはいつも、翼を得て風にさらわれたアニータのイメージでした。
 長いスカートの裾をつまみ、両手を広げて風を受け、毅然と空を見上げる横顔。眠れない夜に、ふと目覚めた朝に、突如襲ってくる白昼夢に、何度思い描いたかわかりません。なのにその女神が微笑んだり、チェンを呼んだりすることは一度だってありませんでした。少しでも振り返ってくれたなら、一度でも名前を呼んでくれたなら。チェンは今までの生活全部を捨てて、その細い手首を捕まえに飛び出して行くのに! なんて誰にも言えない情熱ばかり胸にしまいこんでいました。なにせ彼は十七歳でしたから。

『お前、自由にしたっていいんだよ。姉さん二人も嫁に行ったし、他の弟妹もみんな働いてくれてる。うちのことなんて気にしないで、好きに生きたらどうだ』

 しばらくチェンは、きらきら光る丘の斜面を眺めていました。
 それからお墓の方を振り返ると、立ち話している大人たちの間から、弟たちがバケツを持って歩いて行くのが見えました。父親から言われなくても、チェンにだって分かっていました。弟たちはすでにしっかり父親を助けられる年頃です。彼らが最後に船のお伽話をせがんだのだって、もう一年以上も前のことでした。弟たちも妹たちももはや子供ではなく、夢物語に目を輝かせたりはしません。
 チェンは目だけを動かして父を探しました。人混みの中でようやく見つけた父親は、いつもより余計に小さく見えます。走り寄って飛びつこうとする小さな末の妹を抱き上げるのにも、一苦労です。

「強がりやがって」

 チェンはぽつりと呟きました。
 家族のため? とんでもない、臆病なだけなのです。それでもチェンは、これが自分の選択だと納得していました。子供の頃の幻想は月夜に似ています。明るく気持ちを照らしてはくれますが、そこには太陽ほどの温もりがありません。

「オレがいなきゃ、困るに決まってんだろ」

 兄のお墓に視線を戻すと、苦労して井戸から汲んできたバケツの水をひっくり返した弟たちが喧嘩しているところでした。チェンは苦笑いして、急いで家族のところへ戻りました。
 きっとこれから先ずっと、何も変わらない。チェンは家に残って父親を助けて、兄弟の面倒を見て過ごすのだと、そう思っていました。そしてそれで良いのだと思っていました。
 しかし、若者を平和な家の中に引き留めていた一見強固な綱は、その夜に音もなく切れてしまうのです。

***

 その日の夜は月が明るく、まだ昼の面影を残す熱い風が、南から丘のある北の方角へ吹き付けていました。暑いさ中のお墓参りに疲れた村人は誰一人出歩くはずもない夜中。久しくなかった悪魔の通る音が、再び村に響き渡ったのです。チェンはすっかり狭苦しくなった寝室で飛び起きると、大きくなった弟たちを蹴りのけ窓に駆け寄りました。黄ばんでごわつくカーテンを掻き分け、湿気を含んで僅かに膨張した木枠の溝に指をかけると、そこにはめこまれたすすけたガラスの震えが伝わってきます。星も見えないほど明るい蒼い光に照らされた草原。その先にそびえる丘に向かって、チェンは勢いよく窓を押し開きました。
 こぼれてきたのは、いっぱいの青草のにおい! それらとともに聞こえてくるのは悲鳴でした。今にも壊れそうな馬車や戸棚や家が立てる、木の悲鳴です。

「やっぱりそうだ!」

 幼い頃には聞き分けられなかった音も、今の彼にはしっかりわかります。これは、かなりの質量を乗せた沢山の車輪のきしみに違いありません。圧力でしなり、風に虐められる木の断末魔。
 助けて!
 そう聞こえた気がして、チェンは息を呑みました。胸の中の女神がついに、大きな黒い瞳を揺らせてチェンを一瞥したのです!
 部屋の片隅に押しのけられていた樹脂のサンダルを突っかけて、チェンは家を飛び出しました。
 熱を帯びた風に導かれるまま月明かりが照らす草原の上を駆け抜けて、長年夢見た景色の前へ。数年前、もしやと思った瞬間から待っていた夢物語に向かって、チェンは走りました。悪魔の通るあの丘へ。
 そして真ん丸な月が浮かぶ空の下、ようやくたどり着いた丘のふもとでは、小宮殿ような木造の建物が、まるでチェンを待っていたかのようにわずかに体を傾けて佇んでいたのです。巨大な円筒を二つに割って寝かせたような胴体にはたくさんの車輪が付いていて、手摺りの巡らされた上部には広い布がいくつも張られ、夜風を受けてバタバタと音を立てています。そしてその横腹からは、左右対照に二枚ずつの木製の羽がついていました。連なって颯爽と空を滑っていく、つがいの鳥のように。
 その姿は長年思いを寄せてきた女神、空を飛ぶ船の姿そのもので、チェンはただ、肩で息をつきながらじっと見上げていました。

「やっぱり駄目か」

 すると唐突に残念そうな声が降ってきて、チェンは視線を上げました。
 青白い月光に包まれた建造物の淵に、人影が見えます。逆光でよく分かりませんが、かなり細身な人物のようでした。声の雰囲気からしてチェンと同じくらいの年の男の子でしょう。人影は手摺りに両肘を付いて、がっくりとうつむきました。
 そこでようやく、唖然としているチェンに気づいたようです。彼は顔を上げて、首を傾げました。月明かりに浮かび上がるそのシルエットに緑色の星が二つ、瞬きます。じっと息を飲んでチェンを見下ろしているようです。しばらくチェンもそれを見上げていました。少年とおぼしき影はぴくりともしません。昼間の熱の残る風が、ボサボサの金髪をあおります。こうして月の光に浮かび上がる船と人影を見上げていると、頭がぼんやりとしてクラクラしました。これが現実なのか、熱にうかされた幻なのか、チェンには自信が持てません。

「あの……さ」

 チェンはおずおずと声をかけました。草をかき分ける風の音も止み、辺りはしんと静かになりました。しかしチェンの声は月光に吸い上げられたみたいに、思ったよりも小さな声になってしまいました。
 彼はお腹に力を入れて、大きな声で続けます。

「これってさ、船ってやつだよな」

 するとその少年は、答えるより先にばっと手摺りに乗り出しました。

「お前!」
「えっ?」

 甲高い声で怒鳴りつけられて、チェンは体をすくめました。その様子が見えたらしい少年はさらに身を乗り出して、今にも落っこちてきてしまいそうです。

「い、今俺に話し掛けたのか!」
「え? うん……」
「何でだ?」

 なんともへんてこな質問に、チェンはなんと答えていいかわかりませんでした。ただ口をぽかんとさせて見上げていると、少年はチェンの背丈の二倍以上はある甲板から飛び降りました。そして少年が目の前に着地するのと同時。彼の足元の草ががさっと音を立てて、ようやく彼が実在するものだという実感が湧いてきました。
 少年は立ち上がっても、チェンの顎より下くらいの背丈しかありません。髪は短く刈り込んであり、月明かりに青白く光っています。真っ白な平べったいおでこの下の緑の瞳はくりっと丸く、チェンをじっと見上げました。この少年はアコーラ人ではないようです。しかし白い麻のシャツの衿元にはアコーラに伝わる緑の刺繍がされていました。乾いた大地に悩まされるアコーラでもよく育つ、ツル芋を記号化した模様です。

「……なんだ、大人か」

 一通りチェンを見回して、少年は言いました。大人と言われるとくすぐったい気もしましたが、チェンは確かに体格的にも年齢的にも子供ではなくなっていました。

「大人にはもう、俺は見えないんじゃなかったのか?」

 その言い方には何か棘を感じました。でもチェンには少年の他意を汲み取るほどの余裕はありません。だって、そもそも言われたことの意味が分かりませんでしたから。
 大人には見えない? そんなことって有り得るのでしょうか。

「そうなのか? オレには普通に見えるけど」
「昔、村長が言ってた。お前は今日から悪魔の子だってな。子供からは嫌われ、大人には見えない悪魔になったんだって。だから村へ降りちゃいけないって」
「え……」

 悪魔。お伽話のような言葉に、チェンはますます訳がわからなくなってしまいました。透けるように白い肌、宝石みたいな瞳。目の前の少年は悪魔というより妖精の方がしっくり来る、そんな気がします。だけど悪魔も妖精も、大人が子供をうまく扱うために作り出した空想の生き物だと、チェンは知っていました。お伽話を信じられるのは幼子の特権であり、兄に許されることではないのです。――でも、翼の生えた船は存在しました。

「悪魔……とか、ほんとにいるのか?」
「そうか。聞かされていないんだな、俺のこと」
「うん。この丘には近づいちゃいけないって、親父は言ってたけど」
「そういうことか」

 少年はしばらくチェンを眺めていました。

「……話を聞けば、どうせいなくなるんだよな」

 小さく呟いた少年は大きな目を細めました。微笑んだように見えましたが、妙に悲しげです。そして彼は急に顔を背け、草むらにしゃがみ込んでしまいました。覗き込んでみると、少年は手探りで草間を探っているようです。
 もう一度船を見上げました。先端がすぼまった半円筒型の胴体。そこから伸びるのは、沢山の木片を組んで作った巨大な鳥の翼。月明かりに照らされるその姿に破損は見られません。いいえ、よくよく目を懲らすと、船底についている不格好な車輪の、船頭近くのいくつかが完全に潰れています。その様子があまりにもおかしかったので、チェンは思わず目を細めました。
 草原にぶざまにさらされた船底。側面に並ぶ車輪は、見れば見るほど奇妙です。とてつもなく大きく立派なものもあれば、華奢で粗雑な作りのものもあります。そんな出来栄えがばらばらな車輪が、妙ちくりんなバランスで配置されているのでした。どう見ても、船の重さやバランスなど考慮されていません。まるで素人の仕事です。しかし船全体を形作る技術は目を見張るものがあります。
 船の長さは三十歩弱、幅は五、六歩といったところ。これだけの大きさのものを破綻なく設計するには大変な経験が必要でしょう。それに何より、左右に伸びる翼の立派なこと! 数え切れないほどの細かいパーツを、まるで本当の鳥の骨格のように組合わせているのです。

「悪魔でも何でもいいけどさ」

 少年は振り向きもしません。チェンは仕方なく、その背中に話し掛け続けます。

「その車輪、なんか変じゃないか?」

 少年の手元が、一瞬止まりました。しかしすぐに彼は作業を再開させ、チェンを無視することに決めたようです。
 こんなあからさまな態度を取られるのは初めてのことで、チェンは戸惑ってしまいました。静かな草原に不思議な少年と二人きり、なのに相手は自分を拒絶しているのです。いたたまれず、チェンは家を恋しく思いました。一声上げれば皆が親しみの眼差しを向けてくれる我が家。走れば、この冷たい場所から半刻もかからず帰ることができます。
 でもチェンには、見慣れた家の灯にはもう戻れないことが分かっていました。チェンもすでに、風にさらわれてしまったのです。ついさっき、夜空へ向けて窓を開け放ったあの瞬間から。もはや自分の意志では操ることができない旅へと自分自身を放り出してしまったのですから。
 チェンは船底に近づき、表面をそっと撫でてみました。丁寧にやすりをかけられていて指先に抵抗はなく、さらりと滑るほどです。彼女の髪もきっとこんなだったのでしょう。風にふわりと乗って、きっと誰にも掴めない。それなのに。チェンは片手で自分の胸を押さえました。
 雑な取り付けの車輪は、女神像を冒涜するムカデの足のようにグロテスクで哀れでした。ずっとずっと自分一人の心の中に大切にしまっていた女神がこんな姿にされて、飛ぶこともできずもがいていたなんて!

「このテキトーな車輪。お前が付けたんだろ」

 思わずこぼれた言葉は冷たく、少し震えてしまいました。

「飛ばねぇだろ……この船さ。飛ぶわけないよな。こんな余計なもんぶら下げてりゃな」
「うるさい!」

 ようやく。少年は振り返りました。両目をかっと見開いて、月明かりでも分かるほど、顔を真っ赤にしています。

「お前には関係ないだろ! もう帰れよ! 帰れ! ほっといてくれ!」
「ほっとけるかよ、こんなの!」

 怒鳴り散らす少年を遮って、チェンは目を見開き相手を睨みつけました。怯んだ様子の少年に大股で近寄ると、チェンはその細い手首を掴み、船に付けられた車輪の前へと引きずり出します。

「こんなの……、こんなの、あんまりだ!」
「お前」

 少年はただ呆気に取られてチェンを見上げていました。

「泣いているのか?」

 涙なんか流していないのに、少年はそんなことを言いました。年下に見える男の子にそんな風に見られたことが恥ずかしくて、チェンは一度、深く息を吸いました。

「オレ、ずっと考えてたんだ」

 低く押さえた声で、チェンはゆっくりと話しはじめます。

「船が水に浮くみたいに空気に浮けば、鳥みたいな羽があれば、人間も空飛べるんじゃないかって。たまにこの丘から聞こえるうるさい音は、そのための実験なんじゃないかと思ってた」

 少年を掴んでいるのとは逆の手で、チェンは船の表面を何度もなんども撫でました。そこに今存在することを一秒ごとに確かめるように。

「でもさ、何年も経つうちに、やっぱりそんなの有り得ないって思ったんだよ。だってオレ、本物の船も海も見たことない。もしかしたら、全部子供を夢中にさせるための嘘っぱちかもしれないだろ。風任せの旅なんて危なすぎるし、有り得ねぇよ。だからさ、空を飛ぶ船なんて……ガキの妄想でしかないんだって、だから。オレ……諦めなきゃって思った」

 一体何度、馬鹿らしい自分の空想を憎んだことでしょう。子供みたいな夢に取り付かれ、仕事に集中できない自分に辟易としたことでしょう。家族で一番年上の男の子として大人にならなきゃいけないのに、チェンの頭の中はいつも、鳥と船と、凜としたアニータの面影でいっぱいでした。諦めなきゃいけないガラクタの気持ちだと思いながら、チェンにはどうしても捨てることができなかったのです。子供の頃に親しんだ、懐かしい玩具のように。だけど、チェンの空想はただのおもちゃではありませんでした!
 目の前の、翼を持つ船の存在はチェンの空想の免罪符に他なりません。少なくとも、腕利きの大工がチェンと同じ発想でこの立派な乗り物を作ったことは事実です。つまり空を飛ぶ船は下らない夢ではなくなり、チェンはようやく自分を許してあげることができるのでした。

「だから、オレ、嬉しくて……」
「そうか」

 少年の語気が柔らかくなった気がします。

「俺は成功したことはない。でも、お前の予想は正しい」

 少年はチェンと同じように、優しく船に触りました。

「これの設計図を書いた俺のじいさんは、空を飛んでいなくなったらしい」
「えっ」
「俺が生まれるずっと前だけどな」

 そう言ってから、少年は少し口をとがらせてチェンを見上げました。

「信じないよな?」
「そんなことねぇよ!」

 ずっと押し殺してきたチェンの夢は今、ようやく孵化して羽を広げたばかりですから、卵の中に収まることは二度とありません。疑いなど無意味でした。

「オレ、信じるよ。だって他に賭けられるものもねぇし」
「――親父にそっくりだ」
「えっ」

 チェンはまじまじと少年を見下ろしました。彼はどう見たって、四つ年下の弟より幼くは見えません。その父親と同じと言われると、チェンは妙な焦りを感じました。

「オレ、こないだ十七になったばっかりなんだけど……お前の親父さんって、いくつ? オレって老けてるの?」
「そんなことより」

 チェンにとってはそこそこ大切な話でしたが、少年はそれに答えるつもりがないようでした。ただじっと大きな丸い瞳でチェンを見上げ、今度こそはにかむように、微笑みました。

「お前になら、見せてもいいかな」

 そして満天に輝く星々の下、丘の斜面に座礁した船を残し、月影と同じ白銀色の髪をした少年は波打つ草間を登って行きました。チェンがその小さな背中に付いていくと、彼は中腹辺りで屈み込みました。すると突然地面が左右に四角く開き、丘の中に真っ暗な空洞が現れたのでした。
 その瞬間にこぼれたにおい。重たく鼻の奥に纏わり付き、喉まで垂れ下がってくる金属と油の味。それに古い埃のかび臭さと、着古した服から漂う皮脂のにおいが混じり合って、息がつまってしまうほどです。でも、このにおいにチェンは神秘を感じました。目の前に大きく口を開いた暗い穴から漂うこの悪臭は、きっと女神を守るための威嚇なのだと思いました。
 この暗闇が、長年彼女を守って来たのでしょう。そんなことを考えながら穴をじっと見つめていると、その中の一点に明かりがつきました。少年が手にしたランタンを高い棚のようなものに乗せようと、背伸びしているのが見えます。
 実際に彼の前にあったものは棚ではなく、巨大な糸巻きのようなものでした。高さは少年の背丈と同じくらいで、胴回りは大人二人が両腕を広げても抱えきれないほどです。チェンは近づいて、そこに巻き付けられた綱に顔を近づけました。太さはチェンの手首よりやや細い程度で、細い鋼を寄り合わせてあります。

「これを船の尻に付けて、巻き上げるんだ」

 少年はそう言って、輪になった綱の端を見せてくれました。

「巻き上げるったって……」

 チェンはふもとに残してきた船を思い出しました。男二人ではとても、引っ張れるはずがありません。

「あんな重たそうなもの、どうやって?」
「問題ない。機械がやってくれる」
「キカイ?」

 その言葉はひどく懐かしいような、怖いような。そんな気持ちになりました。それが何なのか、どこで耳にしたのか、そこまでは思い出せません。ただ幼い頃にうなされた悪夢みたいに、もやもやと形なく胸に漂いました。

「まあとにかく、ついて来い」

 少年は糸巻きから綱をほどき、自分の腕や肩に巻き付けていきました。少しずつほどきながら船まで運ぶつもりなのでしょうが、必要な長さの綱を巻き付けた少年は、ふらふらして顔を真っ赤にしていました。

「……オレも持つよ」

 そして二人は鋼の綱をぶら下げて、船のところへ戻りました。船尾には綱をかけるための引っかけ金具が三箇所あり、少年はそこへ綱を絡めていきました。
 その金具の大きいことに、チェンは我が目を疑いました。ウト・ピアほどの田舎には鋳造という概念がなく、鉄の加工と言ったら熱して打つくらいしか方法がありません。だからこんなに大きな鉄の部品があることが信じられなかったのです。
 チェンが見守る中、少年は無事に綱をつけ終えました。

「さあ、地下に戻ろう」

 丘の中の暗闇へ戻ると、少年は壁から飛び出したレバーをいくつか操作しました。

「……なんだ?」

 ランタンを手にその作業を眺めていたチェンは、ふと奇妙な音に気づいて辺りを見回しました。
 ランタン一つでは照らせないほどの空間。そこに、甲高くか細い金属の振動音が響いています。始めはかすかな音だけでした。やがて何かの金具が外れたような気配がすると、辺りは一気に騒がしくなりました。
 鋼のこすれ合う耳障りな音。やかんから蒸気がもれる時によく似た、笛みたいな音も聞こえました。たくさんの歯車が噛み合う音はまるで獣が唾を飲み込むようにごくん、ごくんと鳴っていました。
 そして部屋の中央に置かれた巨大な糸巻きが軋みを上げると同時、地面にたわんでいた鋼の綱がぴんと張ります。誰も触れていない糸巻きが、勝手に回り始めているではありませんか!

「えっ……? え? どうして?」

 チェンはびっくりして、少年と糸巻きとを交互に見ました。

「電気って言うらしい」

 少年はそう言って、月明かりのさす入口を見つめていました。キリキリと音を立てながら、綱はどんどん巻き上げられていきます。

「俺の親父は、発明家だった。自称だけどな」

 船がここへ戻るまでの間、少年は彼の父親の話をしてくれました。
 おじいさんから教えられた技術を学び、たくさんの機械を作ったこと。機械を動かすため、昼の暖かい太陽のエネルギーを電気に変換し、蓄積する方法を見つけたこと。そして彼が作ったたくさんの機械を集めた工場が火事になり、責任を問われて……亡くなったこと。
 そんな話をするうちに、立派な船尾が見えてきました。

「だから、俺は村に行っちゃいけないんだ。親父の作ったもののせいで、たくさんの子供が死んだんだからな」

 ずうん、と音を立てて船が止まりました。同時にパチンと、頭の中でパズルがはまる音がしました。
 キカイ、火事になった工場、そして作り上げられた丘の悪魔。なぜ大人たちがあれほど丘を嫌ったのか、子供たちを遠ざけるのか。チェンは母親の悲鳴のような歎きを思い出しました。だから嫌だったのよ、得体の知れないキカイなんかに頼るなんて。金切り声でそう叫んでいたのです。
 兄の死の原因が、この少年の父親。チェンは胸がどきどきと鳴るのを全身で感じました。兄のことは正直よく覚えていません。でも、兄が亡くなり、どれだけ両親が心を痛めたかは知っています。だからチェンは両親を悲しませないため、立派な兄を演じてきたのです、二人分になれるように。だけど――。
 チェンは、先程少年が一人草むらにうずくまり、月光だけを頼りに手探りしていた姿を思いました。小さな背中は、チェンの弟たちと何も変わりません。むしろ彼らよりよっぽど華奢なのに、この少年は、たった一人で暮らしてきたのでしょうか? 自分は悪魔だからと言い聞かせて、十数年をこの丘に閉じこもって。
 そう考えると、なぜか目の回りが熱くなってきて、チェンは慌てて手の甲でこすりました。そんなことをやっているうちに、少年は船と床を鎖で繋ぎ終わっています。

「怖じけづいたか。本当のことがわかって」

 少年はタオルで汗を拭きながら、チェンのそばへ戻ってきました。ランタンでなんとか分かる彼の表情は、皮肉げな笑みでした。

「今なら、全部なかったことにしてもいいぞ」

 とても悲しいとチェンは思いました。何もおもしろくないのに笑うなんて、悲しいことです。嘘をつく相手がいなかった彼はきっと、自分の気持ちに嘘をついていたのです。

「怖くなんか、ねぇよ!」

 だからチェンも、少しだけ嘘をつきました。もちろん怖くないはずがありません。言い付けを守らずこの丘へ来たこと、この少年と船を作ること。両親が知ればきっと傷つけてしまいますから。でも。両親にはたくさんの優しい子供たちがいます。そしてそう、この少年は一人きり!

「言ったろ。オレはその船が飛ぶまでは絶対にお前をほっとかないからな!」

 自分を奮い立たせるために、チェンは大きな声でそう宣言しました。すると少年はむず痒そうに唇を歪め、俯いてしまいました。

「アニータも……昔はそう言ってくれたっけな。ほっとけないって」

【夜、開く】了



[29852] 夕暮れの女王
Name: まねまね◆44c3a61e ID:dbb72ca3
Date: 2011/09/21 11:04
 不思議な少年の口からアニータの名前が出たことに驚いたチェンは、一気に色々な質問をぶつけてしまいました。
 なぜアニータを知っているのか? まだ連絡を取れるのか? 彼女は今どこにいるのか、どうしているのか。
 少年はそのどれにも答えず、ただ、自分の名前はノアだとそう教えてくれました。

「地下は蒸す。話は上でしよう」

 ノアは一通り機械の点検を終えると、チェンをつれて外へ出ました。外は生暖かい風が吹いていましたが、地下のかび臭さがないため呼吸が少し楽でした。
 地下への入口をきちんと閉めてから、チェンとノアは並んで草間に座り、しばらく黙っていました。空はまだ暗く、満月が天真爛漫に輝いています。丘の斜面は青白く光り、遠くの景色は影に霞んで見えません。ここからはチェンの家をはじめ村の家々がいくつか見えるはずですが、明かりは見えませんでした。
 そうやって夜の景色を眺めていると、ノアはぽつりぽつりと話し始めました。

「アニータと初めて会ったのは――」

 それは輝く夏の夕暮れ時。小屋の地下室は当時、まだ空調がしっかりしていなかったのか、今よりもっと蒸し暑かったそうです。
 ノアの父は研究に没頭すると息子の声も流れる汗も何も分からなくなってしまう人でした。だから、息苦しさを感じたノアは一人、昼の熱気の籠もった地下を抜け出して、小屋の外へ出ました。
 傾いた巨大な夕日を遮るものは何一つなく、熱線はノアの顔を容赦なく焼きました。ただ、夕方独特の爽やかな風が、彼の体を優しく拭ってくれます。地下よりは過ごしやすかったので、ノアは沈む夕日を眺めていようとその場で腰を下ろしました。
 空気の層に歪んだ真っ赤な太陽は嫌いではありません。それは丘の草波も、遠くの森も、空の雲も、すべてをつつむこの大気ごと、炎の色に染めてしまいます。その世界を見ていると、熱心に研究の事を話すときの、父の紅潮した頬を思い出します。それを見ると、ノアはなんだか幸福な気持ちになるのでした。
 そうして夕日の行方を見守っていたノアは、ふと視界の片隅で真っ黒な影が動いていることに気づきました。丘の緩やかな勾配の下の方。真っ黒な小さな影は、この日色の世界の中でただ一つ染まることなく、くるくると動き回っていました。
 狼。
 ノアは一瞬、体をぐっと固めました。ですが注意深く見つめるうちに、そうでないことなどすぐ知れました。影は二本足で、二本の長い腕をすっと伸ばし、ひらひらした布を体に絡めたり、翻したりしながら、同じ辺りを繰り返し、行ったり来たりしています。大体、森や泉から遠いウト・ピアの地に獣が迷い込んでくることなどまれですからね。
 とにかくノアが目を離せずにいると、急に風向きが変わって、透き通った小川がせせらぐような歌声が聞こえて来ました。言葉の意味はわかりません。離れすぎていて、よく聞こえなかったのです。
 ちょっとした好奇心でした。ノアは音を立てないよう深呼吸してから、そろそろと丘を下ります。夕日に焼き出された影は、一羽で誇り高く空をゆく大鷲のように凛と艶やかで、近づくにつれてますますノアの心を惹きつけました。
 心地よい歌が終わると、影は優雅に腕を振り、空に向かってお辞儀をしました。そして、ようやくノアに気がつきました。
 彼女が見たのはきっと、白んだ東の空に浮かぶ現れたばかりの儚く清楚な月と、夕日の残り火を移した少年の間抜けた表情だったでしょう。そして呆けたノアが見つめていたのは、大地を溶かそうとして沈んでゆく、燃え上がる夕空を従えた美しい王女でした。

「あなた、こんなところで何してるの?」

 先に声を出したのは少女の方でした。ノアは暫くどう返答したものかと黙り込んで、ぼそぼそ答えます。

「空を、見てた」
「え? 聞こえない」
「……あんたが、その、歌ってるのを見てた」

 遠慮がちに言うと、少女は満足そうに微笑んで巻き毛の一房をかきあげました。肩で弾んだその髪色の黒いことに、ノアはびっくりしました。油のしみた工具や焦げた木片、冷えた鉄。ノアの見たことのあるどんな黒より、純粋な黒です。

「あなたも仕事をさぼってるってわけね」
「ちょっと休憩しただけだ」
「同じよ。あ、勘違いしないで。悪く言ってる訳じゃないの」
「あんたこそ、仕事はいいのか」
「私は働くために生まれたんじゃないもの」

 少女はさも当然のようにそう言って、額に滲んだ汗を拭いました。仕種の一つひとつからリズムが生まれて、黙っていても歌っているようです。ノアが彼女に見とれている間にも太陽は西の大地に消えて、東の空から夜がやってきました。
 ああそうだと、ノアは心の中で呟きました。彼女の頭髪は、秘密を隠した月が背負う夜闇に似ています。ノアの父がいつも手を伸ばしては捕まえられない、荘厳の宮殿のアーチの色。

「この丘で誰かに会ったのは、あなたが初めてよ」
「ここによく来るのか」
「ほとんど毎日ね」

 ノアが地下に籠もって父親を手伝っている間に、彼女はここに来ていたようです。

「……こんな所に来て、親は心配しないのか」

 ノアはこの頃にはすでに、自分と父親が村でよく思われていないことに気づいていました。肌の色も目の色も違うし、何より、父親が村の皆と同じ仕事をしようとしなかったからでしょう。だけど父の作る機械がなければ、このウト・ピアの人々は困ってしまう。そこが余計に腹立たしいのだと思っていました。

「そうね……。あの人たちは私をあまり良く思っていないから、どうでもいいんじゃない?」

 当時のノアにはその言葉の意味も分からず、なんと答えるべきかも分かりませんでした。他人が自分たちを避けているのは理解できても、親が子供を良く思わないはずがないと、ノアはそう思っていたのです。ノアは何も言わず、色濃くなる夜に浮き上がる凛とした少女の横顔を見つめていました。

「そろそろ、行かなきゃ」

 少女がそう言い出すまで、二人は立ち尽くしていました。その頃にはもう涼やかな夜の空気が辺りに満ちていました。

「帰るのか」
「明日また、ここへ帰ってくるわ。あなたは?」

 その愛くるしさと美しさの危ういバランスに見とれながら、ノアはただ一度、小さく頷きました。それで少女はまた、満足気に微笑みます。

「私はアニータ・ガルショー。あなたの名前は?」

***

 二人はそれから毎日、同じ時間を過ごすようになりました。アニータは歌や踊りや遠くの街の話ばかりして、家族の話なんて一度もしませんでした。ノアはいつもそれを聞いているだけでした。だからあんなことになるなんてねえ……。ノアは彼女から直接知らされるまで、気づきもしませんでした。
 アニータと出会ってからしばらくして、ノアの父親はこの世を去りました。村の長から小屋を出ることを禁じられたノアは毎日小屋に籠もりきりで、アニータは小屋の側までは来るものの、中へは入って来ませんでした。ノアが鍵をかけてしまったからです。
 初めノアは、アニータの顔を見れば淋しさも忘れられると思っていました。なのにアニータはノアの期待通りにはしてくれません。自由な人間である彼女が思い通りになるはずがないことなど、わかっていたはずでした。でも。

「父親なんて、所詮血が繋がっているだけの他人じゃない。そんなに大騒ぎすることじゃないわ」

 優しい笑顔でそう告げられた瞬間、ノアは何かの崩壊を感じたのでした。愛くるしい笑顔に嫌悪と懐疑が押し寄せて、これまでの時間を一気に流して行きました。
 それからと言うもの、ノアは打ちのめされた気持ちで地下室に閉じこもってしまったのです。することのないノアは父親と祖父が残した資料を片っ端から開き、指の隙間から零れる砂のように、知識をただするすると涙と一緒に垂れ流していました。時折、上からアニータの声が聞こえました。謝る訳ではなく、出てこないのか、とか、食事はどうしてる、とか。そういう呼び掛けも日ごと月ごと減っていき、そして丘は静寂に包まれました。
 時間とは残酷です。そうするうちにまた、暑い季節が巡ってきました。
 いつかと同じように、地下のあまりの寝苦しさに耐えられず、ノアはそろりと地上階へ登って来ました。久しぶりに来てみると家具は埃だらけで、カーテンも開けっぱなし。蜘蛛の巣のかかった窓からは、塵にくすんだ夜の空が見えました。毎年、夏には澄み切った空気に青白い月が冴え、小さな星々が大河のように流れていたはずです。ノアはふらふらと吸い寄せられて、埃だらけの窓を開け放ちました。
 夏の青草の匂いが、風に乗って埃臭いこの部屋に押し入ってきました。火照った顔に心地よい夜風。明るい空に顔を上げて、疲れた瞼を閉じます。
 このままではいけないと分かっていました。たくさんあったはずの保存食は底をつきました。ときおり誰かが情けから運んできてくれる食べ物もありましたが、それだけでは到底食いつなぐことができません。泣きながら読めない本と向き合っていないで、きちんと働いて食べ物を手に入れなければ。村長はウト・ピアへの出入りを禁じているので、北のマンナ・ピアへ行って働くことになるでしょう。だけど家以外で働いたことのないノアにはなかなか踏ん切りがつきません。
 誰かが励ましてくれればいいのに。あんなことを言われたのに、思い浮かぶのはアニータの顔ばかりです。だってノアの友達はアニータだけだから。でもそのアニータは、もうノアに呼び掛けるのをやめてしまっています。会いに行こうにも、彼女の家も知りません。
 自分から彼女を拒んだだけに、余計に苦しくなって。ノアはため息と共に目を開けました。そのまま息を止めて。耳をすませました。遠くから、すっかり丈の伸びた草を掻き分けながら丘を駆け上がって来る、軽やかな気配が迫っていました。
 それはまるで野を駆けるしなやかな獣のように、伸びやかな旋律のように夜風に響いて。そしてこの刺し沁みる月光の下に、彼女がやってきました。

「アニー!」
「ノア、よかった、また会えて!」

 アニータは弾んだ息をつきながら、窓辺に駆け寄り、飛びつくようにノアの首に長い腕を回しました。汗ばんだ彼女の肌が首筋に触れると、何とも言えない気持ちになりました。彼女の熱い体からは、優しいハーブの香りがします。ノアはアニータに、離れるように言おうとしました。そうでないと息さえもできません。きっと彼女の巻き毛が顔にかかっているせいに、違いありません。
 しかし口を開いたのはアニータの方が先でした。

「ノア。私もうあなたとは会えないの」

 その言葉はノアの中に生まれた熱い強張りを、どこかに吹き消してしまいました。

「私、明日アモーロートへ行くの。父さんが遊びに連れて行ってやるって。でも、そんなの嘘なのよ。あの人は私を厭らしいじじいに売りつけるつもりなの! そうやって自分たちだけ幸せになろうとしてるんだわ!」

 背中に回されたアニータの両腕に、ぐっと力が入ります。

「絶対、あいつの思い通りになんてさせない……誰かの奴隷になんて、なるもんか! だから、ノア。私逃げるわ。こんなつまらない田舎町からも、下らない家族からも。でもねぇノア、あなたに会えなくなるのは淋しい」

 滝のように言葉が流れていきました。意味がわからず、ノアは心の中で反芻しました。
 父親が子供を、売る。ノアの幼い常識の中では子供は商品ではありません。もし仮にそうだとしても、アニータは全然働かないのですから、買い手がつくのか怪しいものです。ノアはぽかんと、そんなことを考えました。

「あなたは私の、たった一つの安らぎだった」

 色々気になることはありました。でもアニータの体が離れて、彼女の目がゆらゆらと潤んでいることに気づくと、そんなことは全部どうでもよくなってしまいました。
 なんとかしなくては。ノアは慌てて言葉を探しました。手をこすりあわせて、無意味に綺麗な空を見上げて、何と言うべきなのか、彼女はどうしたら喜ぶのか、考えました。慣れたもので、アニータは見守るように優しく待ってくれています。

「会いに行く……その……アニーのところに」
「どこに逃げるか、私にも分からないのに?」
「探す。きっと、見つける」
「とても遠くまで逃げるのよ。たくさんの山と川と海の向こうの、誰にも見つからないところまで」
「大丈夫だ。空を飛んで行くから」
「空を飛んで?」

 アニータが吹き出しました。元来の気丈な眼差しが一瞬だけ垣間見えた気がして、ノアはこっそり安堵の息をつきました。

「それは、素敵ね」
「そうか」
「……待ってる」
「必ず行く」
「信じてるわ」
「……信じてくれ」

 ノアは重ねてそう言いました。アニータはただただ微笑んでいましたが、それ以上は何も言わず、爽やかな夜風に髪をなびかせ丘を下って行きました。

「信じてくれ、アニー」

 もう聞こえないとは知りつつも、ノアはもう一度呟きました。

***

 ノアの話が終わる頃、夜は明けようとしていました。東の空は魔法の花瓶を倒したみたいにさあっと色めき、気の早い鳥達の影が駆け抜けていきます。

「そっか……」

 チェンはただ相槌をうつことしかできません。憧れていた少女の本当の姿を垣間見て、少し困惑していました。
 他人からも家族からも疎まれ、一人丘で踊っていたアニータ。幼い日の自分にもっと勇気があったなら、彼女は自分に会いに来てくれたでしょうか。そんなこと考えても仕方がないのに、チェンは見ているだけだった自分が腹立たしくて仕方ありませんでした。隣にノアがいたので、態度には出しませんが。

「お前もアニータを知っているのか?」

 ノアは大きな目でじっとチェンを見つめて聞きました。でもチェンには、ノアのようなエピソードはありません。

「えっ? いやっ……別に、たまに村で声かける程度くらい、かな」
「そうか」

 ついうっかり小さな嘘をついてしまって、チェンは内心深くため息をつきました。こんな嘘、バカらしいだけです。アニータと話したことはおろか、挨拶さえしたことがないくせに。幸いノアはこの話題には興味がないらしく、大きなあくびを一つかきました。

「俺は少し、眠る」

 ノアは立ち上がると、タブダブのズボンのポケットから鍵を取り出しました。鉄の環に二つ、小さな金色の鍵がくっついています。そのうち一つを外して、チェンにくれました。

「小屋の鍵だ。予備はないから、無くすなよ」
「分かった」
「船の面倒をみたくなったら、いつでも来てくれ」

 アニータがそうだったみたいに、と、ノアは小さくつけたしました。
 それからノアはチェンのことなど気に止めず、朝日を浴びて丘を登っていきます。いつでも来ていいということは――いつもいていい、そういうことでしょう。チェンはそう解釈しました。
 それからしばらく、 チェンはウト・ピアの村にやって来た朝を見下ろしていました。面積ばかり広く貧弱な畑、その間にぽつりぽつりと建つ民家。背の高い建物も木もない景色は乾ききっていて、地平線まですっかり見渡してしまうことができました。
 これまでのチェンは、この眺めの中で生きてきました。だから知らなかったのです、丘から見れば、チェンの世界はなんだか味気なく、つまらないものです。彼はこれから自分が作り上げるであろうあの立派な船を思いました。
 あの船が空を飛んだなら、目の前に横たわる茶色の大地をいっきに飛び越えて、あの地平線の向こうを見ることができるのです。そしておとぎ話や冒険が本物になる素敵な場所を探し回ることができるのです。そう、この丘の地下室みたいな。それってなんて、魅力的なことでしょう!
 そんな風に考えるといてもたってもいられなくなって、チェンは飛び上がるようにして立ち上がりました。それから子供のように軽い足取りで、丘を一気に下っていきました。

【夕暮れの女王】了



[29852] 碧の一族
Name: まねまね◆44c3a61e ID:dbb72ca3
Date: 2011/09/21 11:50
 ウト・ピア村は、日の出と共に活動を始めます。畑の間を縫う畦道には、すでに村人の姿がありました。農耕へ出る家族もあれば、生活用水を汲むためロバに車を引かせる家族もあります。そんな人々の奇異の視線が、家路に着くチェンに向けられていました。村大工アブラハム家の息子が朝一番に丘から降りてきたからでしょう。子供たちは不思議そうにしていましたが、大人は皆、苦虫をかみつぶしたように眉を潜めています。その眼差しは、昔アニータに向けられていたものにそっくりでした。彼女の毅然とした横顔、ノアの悲しそうな笑顔を思うと急に怒りが沸き上がって、チェンの支えに、盾になったようです。彼はたくさんの視線にも負けず、しっかりと顔を上げ堂々と帰宅しました。
 大工であるアブラハム家も、夏場には涼しい朝のうちに仕事に向かいます。家には炊事をする母と妹たち、それに祖父母だけが残っているはずでした。しかし戸口の前のベンチには両親が揃って座っています。父親はすぐにチェンに気づき、上目遣いでじっとチェンが近づいてくるのをうかがっています。母親は俯いて、夫の肩に額をあてていました。玄関口にわだかまる冷たい静けさとは反対に、裏手からは食器を洗う妹たちの楽しそうな話し声が聞こえてきました。

「丘に行ったんだな」

 チェンが目の前まで行くと、父親はそう尋ねてきました。短く抑揚のない言葉に、チェンはただ頷きました。口数少なく、じっとこちらを見据えている父親。チェンはその視線を真っ向から見返していました。
 父は言い付けを破り丘に行った自分を、どうやって謝らせようか考えているはずです。どうやって言うことを聞かせようか決めあぐねているのに違いありません。そう思うとチェンは体が熱くなる気がしました。怒鳴るのか、黙って睨みをきかせるつもりなのか。だけどチェンはもう、親の言い付け通りにはしないと心に決めてしまっていました。
 大きくて、いつも自分たちを守ってくれて、何でも知っていて、そしていつも、本当に真っ黒になるまで働いていて。チェンは父親を尊敬していました。大好きでした。

「あの子には会ったか?」

 父が沈黙を破ると、母はびくんと肩を震わせますます背中を丸めてしまいました。チェンはまた、黙って頷きます。

「元気にしてたか?」

 一人ぼっちで少しひねくれていましたが、ノアはそれでも頑張っていました。チェンはまた、頷きました。

「そうか……」

 父親はまたしばらく黙り込み、視線を地面に落としました。それから顎ヒゲをかきながらうなるように呟きます。

「それは、よかった」

 父親はそう言いましたが、よかったわけがありません。ノアがアニータのことを話してくれたときの表情が思い出されます。照れ臭そうに唇の端だけで微笑んでいたノア。彼がどれだけ友達を欲しがっていたことか。
 いつの間にか固く握りしめていた拳が震えています。チェンは慌てて両手を背中に隠しました。父親の態度に怯えていると思われたくなかったのです。チェンは両親を恐れているのではなく、生まれて始めて軽蔑しているのですから。

「言いたいこと、それだけかよ」

 出来るだけ高圧的に話そうとしているのに、チェンは声まで震えてしまいました。父親が再び視線を上げます。その肩にしがみつくようにして、母親は嗚咽をこらえていました。

「確かに、兄さんが死んだこと、悲しかったと思うよ」

 喉がつかえて声が裏返ってしまいました。胸がどきどきして、呼吸も苦しくなってきました。チェンは一息ついてから先を続けます。

「でも、ノアはなんも悪くないだろ。なんでノアをのけ者にしたんだよ。あんな子供を一人丘に閉じ込めてたなんてさ。ひど過ぎるよ……」

 チェンが言い終える前に母親は泣き崩れました。父親だけはじっとチェンを見つめたままぴくりとも動きません。ただ、真っ黒な顔に並んだ二つの瞳が心なしか潤んでいるような、そんな気がしました。

「……話すぞ、いいな」

 父がそう声をかけると、母親は顔を伏せたままうんうんと頷きました。
 そして父親は両手で顔を覆い、大きなため息をつきました。膝の上に両肘をつき、がっくりとうなだれた父の姿。怒られるのではないかと構えていたチェンは意外に思いました。そしてはっとしました。椅子に腰掛け俯いた父は、もうすっかりチェンより小さくなっていたのです。

「アララトの息子には申し訳ないことをした」

 ぽつんぽつんと水滴を垂らすような調子で、父親は話しはじめました。

「だけど俺たちは、そうでもしなきゃやって来れなかったんだよ。白い人を見ると、思い出してしまうから……」

 代々丘の家に住んでいたアララト一族に「白い人」が混ざったのは、ノアのおじいさんからだそうです。ある日突然ウト・ピアに現れた白い人はオズと名乗り、アララト家の娘シェーラと結婚しました。そう、始めにお話しした、あのシェーラです。
 西から風に流されてきたというオズはかなりの変人で、畑を耕すことはせず、いつも奇妙な道具を作ってばかりいました。同じく変わり者だったシェーラは喜んで彼を手伝ったそうですよ。そして二人は出来上がった道具を村人に売り付けて回りました。しかしその触れ込みがあまりに胡散臭かったため、ウト・ピアでは誰ひとり取り合おうとはしません。そんなオズの言動に嫌気がさし、アララト家の一族は徐々に丘を離れていったそうです。
 ウト・ピアではものが売れなかったため、オズは近隣の村まで出向いて道具を売っていました。外ではそこそこさばけたようで、十分な儲けが出ていたようですよ。シェーラが男の子を出産してからは、オズはシドと名付けた息子と三人で仲睦まじく暮らしていました。彼は息子が生れてから商売を止めていたのですが、丘には時折、彼の道具を買い求める人々が訪ねてくるようになりました。そりゃそうですよ。この貧しい田舎町のどこに、火を使わない明かりや自動で畑を耕す道具、ロバがいなくても動く不思議な車を売ってくれる店があるというのでしょう。ウト・ピアでは手品か何かの類と決め付けられていたオズの発明品は、全て本物だったのです! 
 ウト・ピアの村人は皆びっくりし、慌ててオズの道具を買おうとしました。しかし彼の道具はすでに売り切れていて、新しいものができるまでに数年はかかるということでした。村の人々は怒りました。ウト・ピアの娘をめとり家まで手に入れておきながら、そんなに便利なものをみすみす他の村に渡してしまうなんて。義理を知らないふとどき者だと、皆が後ろ指を指しました。
 そんな顔をしないでください。これも無理からぬことなんですよ。昔からウト・ピアはめぼしい特産品も観光地もなく、さらに川や海から遠いため旅人も来ない貧しい村です。もしオズの作る道具がこんなに便利だと初めから知っていたなら。ウト・ピアの人々は自分たちがまず大いに活用し、さらに他の村には高いお金で売ることができたのです。村人は皆、一儲けし損ねたことが悔しくてなりませんでした。そしてその後、オズとシドは、ウト・ピアのためにたくさんの便利なものを作ると約束させられてしまいました。
 そんな生活に嫌気がさして逃げたのか、材料の調達中に事故にあったのか。ある日を境にオズの姿は見えなくなりました。そして彼の失踪がよほどショックだったのか、ほどなくしてシェーラも亡くなったそうです。でもその頃にはシド一人でも様々なものを作れるようになっていたので、村人は誰も気にしません。シドはどんどんどんどん新しいものを作らされ、いつしか出来上がった道具の管理ができなくなってしまいました。
 そしてついに、シドの道具をたくさん使った工場で大きな爆発が起こり、少年たちの命を飲み込んだのでした。あまりの被害の悲惨さに、自分を責めたシドは自ら命を――。

「いいや違うんだチェン。違うんだよ。世の中はそんなに単純じゃないんだ」

***

 今や両親は互いに抱き合うようにして震えていました。両親が泣いている姿を見るのは。息子にとってはひどく胸の痛むことです。

「一度に何人もの息子を亡くした奴もいた。たった一人の息子を亡くした奴もいた。俺たちは悲しみと怒りをどう扱ったらいいか、わからなかったんだ。大人なのに誰も知らなかったんだ、正しいことを」

 工場で起こった事故。それはシドの道具を言われた通りに使わなかったことが原因だったそうです。大人たちは皆、薄々そのことに気づいていました。だけど子供を失ったという事実だけで十分過ぎるほど辛いのです。その上、その原因が注意を怠った子供たち自身にあったなんて、認められるはずがありません。
 誰か、悪役が必要でした。そしてその悪役は、傷ついた村人たちを癒すためのいけにえにならなければいけません。

「誰もシドを殺すつもりなんて、なかったはずだ。ただ事故の説明を聞くために皆で工場の跡地に集まっただけだった。だけどオレ達は、……気づけばそうなってた」

 大勢で狂った波のように責めるうちに、シドは動かなくなっていたそうです。彼が死んでしまったと気づいた村人たちは、その遺体と共にアララト家へ向かいました。身寄りのない人間は、その家と共に燃やすのがアコーラでの習わしですから。役人を連れて大人たちが丘の家を訪れると――なんともう一人の白い人、シドの息子ノアが父の帰りを待っていたのです。
 これには皆驚きました。シドに子供がいたとは誰も知らなかったのです。しかも年を聞いたところ、丁度亡くなった少年たちと同じくらいでした。
 大人たちは困ってしまいました。父親が亡くなった今、この少年をどう扱ったものか。誰かが預かる? 自分たちが殺した男の子供を? それも自分の亡くした子供と同じ年頃の少年を。皆それが義理であるとは思いながら、受け入れることが出来ませんでした。だってこの少年を見る度、引き取った家族は息子を失った悲しみと自分たちの罪とを同時に思わなければならないのです。そんなこと自分ではできないし、隣人だってできないと、お互いにわかっていました。

「じゃあ、親父たちはただ邪魔だったから、ノアを丘に閉じ込めてたのか?」

 大の大人が集まって逆恨みから男を殺し、その息子を村八分にするなんて。にわかに信じられる話ではありませんが、両親の取り乱しようは嘘には見えません。

「……何だよ」

 ただただ泣いている父と母を見下ろしていると、チェンの頭の中は混乱していきました。長男を亡くして歎いていた両親、自分や兄弟たちを大切に育ててくれた二人、幼いころにはなんでも教えてくれた、チェンにとっては絶対的な柱であった二人。その姿は今、背中を丸めて、まるで太陽の熱に耐え切れず顔を背けた枯れていく花のようでした。

「悪いこと、人、傷つけるようなことするなって、言ってたじゃないか!」
「ごめんねチェン、ごめんね!」

 それまで無言だった母親がむせびながら声を上げました。

「母さんたちを、嫌いにならないでね、チェン……」
「チェン、皆あの事件でひどく苦しんでるんだ。自分の子供たちの件だけじゃない。シドのこと、シドの息子のこと。皆口には出さないが、心底後悔してる」
「親父たちがいくら悔やんだって、ノアの孤独だった時間が消えるわけじゃねえだろ! 親父たちの罪が消えるわけじゃねえだろ!」

 思わず、父を遮るようにチェンは怒鳴ってしまいました。父も母も何も言い返しはしません。ただ、真っすぐに向けられた父の眼差しは痛いほどに悲しみで溢れていました。
 それがチェンには許せませんでした。チェンはずっと、長男を失った両親の悲しみを少しでも軽くしたいと思っていました。でも二人も、ノアから父親を奪っていたのです。

「今までさんざん、偉そうにしといてさ。自分たちはどうなんだよ。しかも今までオレたちに隠してて。言わなきゃばれないとでも思ったのかよ!」
「黙っているつもりはなかった。自分たちの子供が十七になったらアララト家の事を話すと、村の皆で決めていた。お前の姉さんたちにはきちんと話したんだ」

 では自分だけ仲間外れにされていたのかと、チェンはますます両親のことが嫌になりました。胸の辺りが凍りついたように冷たく感じられました。でもね、それは彼の勘違いだったんです。

「怖かったんだよ。お前、兄弟の中で一番優しかったし」

 父の腕に抱かれて、母は子供のように泣きながら言いました。

「それに一番……夢見がちだったろう? そんなお前に私たちの現実なんか、聞かせたくなかったんだよ」
「なんで、そんなことっ」

 予想もしなかった母の言葉に、チェンは不意打ちを喰らってしまいました。
 夢見がちだなんて、自分の中で必死に否定してきた本質をなぜ母が知っているのでしょう? 必死で大人びた息子を演じてきたのにね。親というのは本当に、不思議なものです。

「なんでも、わかるよ。だってお前を愛してるから」

 騙されていたんだという怒りと、見透かされていたのだという恥ずかしさが螺旋のように渦巻きます。チェンは頬が熱くなり、自分が何を考えているのかも分からないような気持ちになってしまいました。だけど、なんとか格好をつけなくては。そんな思いだけが混乱の渦からずっと離れたところで光る星みたいにはっきりとしていました。

「オレ、出てくから」

 チェンから飛び出したのは、そんな一言でした。

「ノアんとこ行くよ。あいつ一人じゃ淋しそうだから」
「そうか」

 父親は一つ頷きました。母親はまだ泣いていましたが、しかし取り乱しはしませんでした。こうなることがわかっていたのでしょう。

「だが一つだけ、まだお前に話していないことがある。お前は何か勘違いしているようだが、シドの息子は、お前の兄さんより年上だ」

 そんな訳がありません。チェンが丘で見かけた少年は明らかにまだ子供でした。
 でもよく考えてみればありえなくもない話です。あの火事があった時のことは、チェンでもほとんど記憶にありません。それだけ昔の話です。なのにノアは村長に言われたことを明白に覚えていました。
 それがどういうことか分かるか、と父親は続けました。

「シドもそうだったんだけどな。白い人たちは、オレたちより年を取るのが遅いんだ」

 なるほど、ウト・ピアの大人たちの凶行の根底にはそんな嫉妬もあったのかもしれません。それにこの村の大人たちが「自分たちと違う人間」を疎むことを、チェンはまざまざと見せ付けられてきました。今朝自分に浴びせられたあの視線を思うとぞっとします。

「オレは親父たちとは違う。自分たちと違っているからって、のけ者なんかにできるかよ」

 乱暴にそう言って、チェンは自分たち兄弟の部屋へ向かうことにしました。最低限の荷物をまとめたらすぐ、あの丘へ戻るつもりです。

「待ちなさいチェン、そういう話じゃないんだ!」

 父親が後を追ってきましたが、チェンは構わず部屋のたんすから着替えを出していきます。

「いいか。白い人たちは見た目は我々とそう変わらない。でもやっぱり違う生き物なんだ。一緒にやっていくのは難しいんだよ。同じアコーラ人同士だって難しいんだ」

 チェンは全く耳を貸しませんでしたが、父親はそれでも続けます。

「若いうちはまだいい。だがチェン、いつかそのことで悩む時が必ず来る。そのことだけは覚えておけ」

 そんなようなことを言った後、父親はしばらく背後に立っていましたが、チェンが荷物をまとめ終わる頃にはいなくなっていました。玄関にも誰もおらず、いつの間にか妹たちの声も聞こえなくなっていました。
 見送りもなし。そんなこと当たり前なのに、チェンはなんだか悲しい気持ちになりました。そして彼は枕サイズの布袋を肩にかついで、朝とは反対に俯きがちに丘へ戻っていきました。
 そしてアララト家の前まで来ると、一息いれてその様子を眺めます。縦長の長方形で天井は高く、チェンの家より広そうです。きっと大家族向けに建てられたのでしょう。比較的大きな木の生える東の村から仕入れたらしい立派な柱に、アコーラでは定番の白い土壁。かつてはニスで輝いていたであろう扉は今は色あせています。試しに金属をはめ込んだ取っ手を握ってみました。今だ接合部にがたつきはなく、その下についた鍵はしっかりと侵入者を阻んでいました。
 チェンはポケットの鍵を取り出します。そのギザギザとしたブレード部分の複雑なこと。この鍵も、ウト・ピアやその周辺にある技術で作られたものではなさそうでした。
 汗を軽く拭い気合いを入れてから、チェンは鍵穴へ差し込みました。ゆっくりと右へ回すと重たい手応えがありました。そしてガチンと鈍い音。鍵を抜きノブに手をかけると、今度はすんなりとノブが回転し、扉が開きました。
 扉の向こうはすぐに食卓になっていました。中央に大きな円卓が据えられ、頭上にはアラベスク模様のシャンデリアが下げられています。隅にはとても大きな水瓶が置かれ、釜戸の近くの壁には、料理に使う道具がいくつも掛けてありました。そういった生活に必要なすべての物が灰色の埃をを被ってしまっています。なんだか淋しい光景でした。玄関から差し込む光が強い陰影を生み、余計に荒れ果てた印象を与えるからでしょうか。チェンは「入るぞー」と一声かけてから敷居を跨ぎました。
 しかし、いくつかある寝室にも浴室などにもノアはいません。しばらくウロウロしたチェンは、寝室の片隅の床に躓いてしまいました。見ると、その辺りの床板が僅かに持ち上がっています。試しに指を引っ掛けてみると、思った以上に簡単に持ち上がりました。
 そしてその下に、人一人がなんとか通れる程度の階段が現れたのです。なるほど、あの地下の空間に繋がっているのでしょう。階段は見たところそう長くはなく、その先の廊下にオレンジ色の明かりがついているのが見えました。チェンはとりあえず、そこまで下りて行きました。やはり、昨晩地下で感じた油と埃の混ざったような臭いがします。
 廊下まで来てみると、幾つか扉がありました。扉の横の壁にはそれぞれガスランプのような明かりが取り付けられていましたが、今は一番手前の扉のものしかついていません。とりあえずその扉を選んで中に入ると、そこは小部屋でした。ただでさえ狭い空間に寝具を乗せた四本足の台を二つも押し込んであります。アコーラではあまりベッドを使う習慣がないため、チェンにはなぜそんなことをするのか理解できませんでした。
 でもそのことについて考えることは後回しにしようとチェンは決めました。枕元のランプに照らされ、ベッドの上で体を丸めて眠るノアを見つけることができたからです。
 すやすやと寝息を立てるノアを見下ろして、子供みたいだとチェンは思いました。とても年上には見えません。チェンの兄と同じくらいということは、五つほど年上でしょうか。まじまじと見下ろしていると急に、ノアの大きな瞳がぱちっと開きました。

「チェンか。今、何時だ?」
「昼前かな」
「そうか」

 それを聞くと、ノアはまた目を閉じました。まだ眠るつもりなのでしょう。
 チェンもさすがに限界でした。色々なことがありすぎて、挙げ句寝不足なのです。荷物をベッドに乗せると、チェンはそれを枕に体を横にしました。昼に眠るなんて、ずっと昔に風邪で寝込んで以来です。なんて考えると、濡らしたタオルで体を拭いてくれた母がちらついて。もう二度と会わないなら、きちんと顔を見て別れればよかったと後悔しました。
 え? ああそうですね、バカバカしいですね。空飛ぶ船なんてものにうつつを抜かし、両親を蔑ろにしてしまうなんて。でもね、チェンにはあの船が、それだけ立派に見えたんですよ。本当に素晴らしい船でねぇ……構造の美しさだけでなく、幻想的な佇まいが見るものを引き付けたものです。
 そうだ、ちょっとそこの鞄を取ってもらえませんか。すみません、なんせこんな老人の話を聞いてくださる方は稀ですから。せっかくなのでこれも見てくださいな。――ほら。空飛ぶ船の絵ですよ、私が若い頃に模写したんです。なかなかのもんでしょう。親友たちもそう言って褒めてくれましたよ。えっ? 空飛ぶ船を見たことがあるのかって?
 もちろんですとも。これは秘密ですがね、私は、あの船の乗組員だったんですよ。おやおや信じていませんね。確かに、空飛ぶ船は今や伝説になりかけていますから、無理もありません。でも伝説は残っているのに、船が消えた理由は誰も知らないでしょう? もうしばらくこの老人のお相手をしていただければ、その訳をお話しましょう。あの夢のような船が沈んで行った、その顛末をね。

【碧の一族】了



[29852] 暗黒の街
Name: まねまね◆44c3a61e ID:dbb72ca3
Date: 2011/09/21 13:02
 こうしてチェンは長く暮らした我が家を去り、かねてから憧れたあの丘――の、地下空間で生活することになりました。毎日毎日、ノアの父親が残した膨大な資料を追いました。働く時間のないチェンの代わりに、ノアが二人分働きました。そんな日々が、もうどれだけ続いたのでしょう。

「チェン、話がある」

 ある日の夜も更けた頃、チェンのこもっている資料室にノアがやってきました。窓のないランタンに照らされた地下室では時間のことはわかりませんが、彼が帰るのはいつも、だいたい日が変わる直前でした。行き詰まって眠気に襲われていたチェンは、目をこすりながら振り返ります。

「何だよ。お前が話なんて、珍しいな」
「頼みがあるんだ」

 ノアは資料をかき分けてチェンの隣に腰を下ろしました。チェンは再び、空気の流れに関する考察文に目を落とします。

「どんな?」
「しばらく、俺の代わりに仕事に行ってくれないか」

 ノアの仕事と言えば、荷物運びや家畜追いが主です。彼は動物を扱うことが上手く、もっぱら牛や馬と働いていました。

「オレにできそうなら、かまわねぇけど」
「難しいことじゃない。馬と牛を別の小屋へ連れて行くだけだ」
「そっか」

 そういえば、近頃外の空気を吸っていない気がする、とチェンは思いました。いい気分転換になりそうです。

「何か他に用事でもあんのか?」

 尋ねてみてもノアの返事はありません。別に無視しているわけではなく、元来無口な彼は話をまとめるのに時間がかかるのです。

「マンナ・ピアに仕入に来てたおっさんが、アニータっぽい奴を見たらしいんだ」
「えっ」

 もう二度と会うこともないと思っていたアニータ。彼女が近くにいるのであれば今度こそ話しかけたいと、チェンはそう思いました。でもノアの手前、そんなことは言えません。

「そっか。あいつ無事なんだな」

 さも知り合いのような口調になってしまう自分に、チェンは呆れてしまいました。

「で、どこで見かけたんだって?」
「セス・ピアだ。流れの楽隊に入ってあちこちを転々としているらしい。これからアモーロートへ向かうと言っていたそうだ」

 アモーロート。チェンは残念に思いました。セス・ピア辺りなら一日二日で行って戻って来られますが、きっとアニータの楽隊はすでに西へ向かって出発しているでしょう。今から追い掛けるとしても、とてもアモーロートまでは行けません。乗り合いの車を使っても片道一週間はかかります。

「って、お前まさかアモーロートまで行くつもりか?」
「そうだ」

 ノアは迷いなくそう言ってのけました。

「金なら多少ある。足りなかったら、まだ残ってる親父の道具をいくつか売る。とにかく、また会えるなら話しがしたいんだ。俺のこと、アニータには知っててもらいたいから」

 ダメダメ、危険過ぎます。ただでさえこの辺りのことしか知らない箱入り息子です。そんなノアが単身、アモーロートのように治安の悪い場所へ行くのは危ないことです。チェンは引き止めようとしました、が。ノアがアニータの所在を掴むチャンスは、一体あと何回あるのでしょう? それを奪っていいものでしょうか。

「ま、二週間くらいだったら気晴らしになるかな。いいよ、アニータに会って来いよ」
「ありがとう、チェン」

 ノアは嬉しそうにそういうと、水浴びに行くと言って部屋を出て行きました。一人になると、チェンはなんだか無性にやりきれない気持ちになって、ランタンを片手に立ち上がりました。それから資料室を出て、廊下の突き当たりにある一際大きな部屋へ向かいます。そこにはあの、船を格納した巨大な倉庫があるのです。

「俺にはお前がいるもんな」

 そして照らしきれない暗闇に横たわる船に向かって微笑んでみせました。
 感慨に浸るチェンはまだ、自分がいかに軽率だったか気づいていませんでした。自分の本分をすっかり忘れていたのです。彼はしがない大工であり、牧場番ではありません。
 ノアの仕事を代わった初日。馬に羊に山羊に犬に追い回され続けたチェンは夜になってやっと解放され、近場で見つけた酒場に吸い込まれるように入りました。たまたま空いていたカウンター席に倒れ込むと、エプロンをした女の子が近づいてきます。

「疲れてらっしゃるのね、お客さん」

 アコーラ人の給仕が水を持ってやってきました。チェンはそれを受け取りながら、今頃ロバの引く車に揺られているであろう友人のことを考えました。

「これであいつがアニータに会えなかったら、オレも報われねぇなぁ」

***

 黒い巻き毛の、不思議な肌の踊り子がやってきた。目の覚めるような美しさ、切ない歌に優雅な踊り、その凛とした目はまるで全てのものの女王みたいだった。
 そんな評判を聞いただけで、ノアにはすぐにわかりました。アニータです。一度は目に見えないところまで遠のいた彼女が、まさかこんな手の届くところへ来るなんて。この機会を逃すわけにはいきません。会いに行くと、ずっと昔に約束したのですから。
 日中、乗り合い車はたくさん行き交っています。ですが夜になるとロバを休めるため、乗り合い車はお休みになってしまいます。そこでノアは昼に車の中で眠り、夜には自分の足でアモーロートに近い村へ向かいました。乗車賃と時間を浮かせるためでもありましたが、ノアは膨らむ希望と懐かしさに胸を割かれそうだったのです。期待と喜びでいてもたってもいられず、ただ待つということができないのでした。
 こうして暑い最中は固い荷台に揺られて吐き気と戦い、夜の野では潰れた足のまめの痛みに耐え、ノアはまっすぐにアモーロートを目指しました。
 そして五日目、東の空から白んだ光が差し始める頃。ついにその姿が見えてきました。かつてアニータを飲み込んだ闇の街、アモーロート。広い草原のただ中に流れる川を挟んでできたその街はごみごみと露店が密集して立ち並び、ここがいかに便利で豊かかを物語っています。しかし同時にこの町並みは、日の光を受けて複雑な影を落とし、ノアをどこか不吉な気持ちにさせるのでした。
 さて、このまま進めば昼前にはアモーロートにたどり着くでしょう。しかしすでに夜通しで歩いたノアには休憩が必要です。街が見えてきたことに安心して、ノアは爽やかな風が吹き抜ける草間に身を横たえ仮眠をとることにしました。気候も良く、ぽっかり浮かぶ綿雲が、夏が近いことを知らせています。それを見上げるとアモーロートの恐ろしげな雰囲気も忘れられて、ノアはとても安らかな気持ちになりました。もう数時間後には、ついにアニータに会えるのですから。彼は疲れた体を伸ばし、柔らかな野原に抱かれて、健やかな眠りへと沈み込んでいきます。
 そして目が覚める頃には日はとうに真上を通り過ぎ、低く傾いていました。意識が完全に戻らないうちに、ノアは飛び起きました。
 彼は目をこすってもう一度空を見上げましたがやはり、何度見ても、そこには暮れの愁いが潜む、どこか淋しそうな空が広がっています。これは明らかに寝坊でした。
 予定では日中までにアニータの楽隊が滞在している宿へ向かい、その周囲を変質者よろしく嗅ぎまわり、一度アニータに接触し、それから宿の酒場で彼女の歌でも聞いてから、長い帰路に着くはずでした。が、彼女は――もしもアニータが本当にその楽団の歌姫ならですが、もう舞台袖で仲間と最終的な打ち合わせをしている時間でしょう。
 ノアは一つ膝を叩くと少ない荷物をかき集め、さらに影の濃くなる街へ向かって、くすんだ草原の上を滑るように駆けて行きました。
 街門の付近で買った地図を頼りに街を駆け回ると、幸い半刻もかからず目当ての宿を見つけることができました。大きな通りに面し、色鮮やかな看板を立てた一際立派な宿でした。一階で営んでいる酒場はすでに賑わっているようで、アコーラでは大変珍しい色電球の明かりの漏れる窓からは、笛の音や男たちのざわめきが聞こえます。どうやら楽団の演目は始まってしまったようでした。ノアははやる気持ちも抑えられず、勢いよ扉を開きます。酒とお香の混じり合う奇妙なにおい。怪しい白煙に霞む店内。入り口に立った派手な布を巻きつけた美女が、突然親しげな笑顔で手を伸ばしてきます。ノアはびっくりつつもその手をすり抜け中へ入りました。
 店内では様々な色の明かりが交錯し、溶け合う色合いが薄煙のヴェールに映っています。とても幻想的な場所でしたが客層のガラは悪く、あちこちで喧騒が上がっていました。ノアは煙を吸わないように袖口で口元を覆いながら、ステージが見える席へ向かいました。
 たくさんの薄布が天井から垂れ下がり、赤青緑の電球で照らし出されたそのステージは、正に眩惑そのもので。ノアは思わずため息がもれてしまいます。暗がりに並ぶテーブルも、そこを埋め尽くした男たちの騒ぎも、ステージの隅で笛を吹く少女たちも気になりません。ノアの頭にあるのはただ一つ、アニータがここに現れたらどれだけ素晴らしいだろうということだけ。それだけで恍惚として、彼はステージを見守りました。いつ歌姫は出てくるのでしょう。彼女の歌は以前にも増して伸びやかでしょうか。彼女の踊りは以前にも増して優雅で艶やかなのでしょうか。彼女は暗がりにいるノアに気づいてくれるでしょうか? あの美しい黒髪を揺らせて微笑んでくれるでしょうか。酒を取りに行くのも忘れて、ノアはすぐにテーブルにつきました。
 そのうちに、かすかに聞こえるだけだった笛の音が絡まりながら高まっていきました。客達のざわめきは止みました。そして笛の演奏も引き潮のように去っていきます。客の全てが、ライトアップされたステージに首を向けました。皆が食い入るようにして見つめる中、鈴の鳴るシャンという音と共に、ステージ背面に垂れた薄布の一枚が派手に跳ね上がりました。客は立ち上がって歓声と拍手を送ります。その中でノアだけが、静かに目を細めました。現れたのは美しい巻き毛の、華奢で背の高い凛とした女でした。
 彼女はみずみずしい象牙の肌の上に薄い桃色の透ける衣装を纏い、颯爽と現れ優雅に礼をしました。豊かな黒髪がその動きに合わせ弾むのも、アニータにそっくりでした。でも何かが違う気がします。ノアは、いつの間にか止めていた息を吐きました。音楽もざわめきも、体を包む妙な香りも、急に全てが彼を置き去りに遠のくようです。ノアは気が抜けてもはや立ち去ることも出来ず、ぼんやりと美しい歌姫を見上げていました。似ているといえば似ているのに。なぜ違って見えるのでしょう。
 それはきっと、媚態のせいです。目の前の美しい女性の目元や動作。その端々には擦り寄る猫のような雰囲気がありました。アニータならこんなことはせず、自分のやりたいようにやっているはずです。
 歌姫はひとしきり観客に愛想を振る舞うと、笛の演奏に合わせて、その美しい衣装を翻しながらくるくる回るようにして踊りはじめました。ライトは絞られ、波打つ薄布がスクリーンのようにその夕暮れ色を映します。笛の音が消えました。
 茜色に舞うシルエット。記憶の中のアニータと重なって、何か考えるより先に、ノアは声を上げていました。

「アニータ!」

 呟いた程度のつもりでした。が、存外大きな声になってしまったようで、暗い中でも周囲の視線を痛いほど感じました。ステージの上の歌姫もきょとんとした表情で、始めたばかりの歌を止めてしまっていまっています。薄明かりの中、いたたまれない沈黙が流れました。
 それを破ったのは、どこかの裏口が開く音。ただの木製の扉が軋む音ですが、何やら怒気をはらんだ唸りのようです。やばい、とノアは思いました。そして客席の暗闇に目を凝らしている歌姫をもう一度目に焼き付けて、ノアは一目散にその場から逃げ出しました。暗い中でのことなので、あちこちの人やテーブル、扉にぶつかりました。しかし背後から聞こえる罵声が彼を追い立てます。懸命に出口を目指しながら、ノアは確信しました。
 あれはやっぱりアニータだったのです。少し様子は違っていましたが、でもそれはどうでもいいことではありませんか。後はステージが終わるまでどこかに隠れて待つだけです。
 店を飛び出し路地へ飛び込んで、ノアは思わず笑みを浮かべました。

***

 下らない見せ物が終わるとすぐに、アニータは化粧も落とさず裏口へ向かいました。しかし団長には予見されていたようで、彼は扉の前に立ちふさがって待ち構えています。

「どこに行くんだ、アニータ」
「どこだって構わないでしょ」
「今夜のお客様はどうするつもりなんだ」
「すぐ戻るから、心配しないで」

 背の低い団長の肩を撫でるようにして、アニータは彼の機嫌を取りにかかります。

「すぐ戻るわ……私があんたに悪くするわけないじゃないの。ねえ」
「やはりさっきの子供とは顔見知りだな?里心でもついたか」
「私の両親があの後どうなったか聞きたいだけよ。ね、通してちょうだい」

 そんな具合でしなを作ってみましたが、団長は頑として動こうとはしませんでした。真っ黒な顔に埋まった小さな二重の瞳は、普段の人懐っこい輝きを捨てて厳しくアニータを見上げています。

「行かせるわけにはいかん」

 しかしアニータは昔から、おとなしい娘ではありませんでした。体の小さな中年の男一人では到底止められるはずもありません。アニータはすぐに猫の皮を脱ぎ捨てて声を上げました。

「もう、これ以上は優しくしないわよ! どきなさい!」
「あ、アニータ! やめて、落ち着いて!」

 凶悪なヒールの付いた靴を脱ぐなり、アニータは団長めがけて振り上げました。彼ははじめこそ背後の扉を守っていましたが、彼女が頭部ではなく目を狙って振り下ろしはじめると、流石に顔をかばって退散するしかありませんでした。

「くそ、このあばずれ! 地獄に落ちろ!」
「ふん、私がいなきゃ路頭に迷うしか出来ない能無しのくせに」

 吐き捨てると、アニータは靴を履き直し外へ出ました。
 そこは狭い路地でした。各家庭や商業施設から出たゴミの嫌な臭いが染み付いています。辺りに転がるゴミに衣装が触れないよう注意しながら、アニータは路地を進みました。ここは酔っ払いも通らないような場所ですから、とりあえず大通りに出る方がいいでしょう。しかし折悪く風が出始めていて、小さなゴミ袋がいくつも転って行く手を阻みます。

「ああもう! 邪魔くさいわね!」

 跨いで蹴り転がして、アニータは苛立たしく怒鳴りました。自慢の豊かな髪も、今は突風になぶられ、煩わしく彼女の顔にまとわりついては視界をふさぎます。そして、まるで悪意でもあるかのように転がってきた、ひときわ大きなゴミ袋を、うっかり踏みつけてしまいました。にゅうう、と柔らかいな感触とすえた腐敗臭。全身の毛が逆立ち、嫌悪感から目を見開きました。強い風が、余計にその臭いを辺りに撒き散らすようです。

「アニー? 何やってるんだ?」

 しかもまあ、このタイミングで。アニータは勢いよく振り返りました、片足を生ゴミに突っ込んだまま。ついさっき通り過ぎた酒場と酒場の間に彼は立っていました。腕の中には、太った真っ白な猫を抱いています。確かこのあたりのゴミを食い漁っている野良猫でした。

「ノア!」

 足元の塊をあさっての方向へ蹴飛ばし、アニータはとびきりの笑顔で懐かしい友人に飛びつきました。驚いた猫が唸るような声を上げて、ノアの頭によじ登ります。彼はと言うと直立した体勢のまま固まってしまって、されるがままになっていました。

「本当に、来てくれるなんて」

 幼い時には自分よりも小さかったのに、今ではノアは――、靴を脱いだら、たぶん同じくらいの身長になっていました。とはいえあの頃と比べれば、随分逞しくなったように見えるのは間違いありません。

「約束したものね。私を見つけてくれるって」
「ああ」
「お金持ちになって、空を飛ぶ船で迎えに来てくれて、私をあいつらから買い戻してくれるのよね?」
「……何?」
「そうでしょ、ノア」

 満面の笑みで幼なじみをのぞき込むと、彼は小首を傾げて、そして目を背けてしまいました。そしてキョロキョロと視線を泳がせると、居心地悪そうに、頭上の猫を引きずりおろして腕に抱き直しました。

「……そんな約束だったか」
「そうよ。忘れたっていうの?」
「そ、そうか。アニーがそう言うのなら、そうだろうな」

 何を言い出すのでしょうか。アニータはぱっと体を離して、ノアの肩を揺さぶります。

「ちょっと? まさかあなた、そのつもりで来たわけじゃないって言うの?」
「いや、そう、えー、いや、違うんだアニータ、その……」

 アニータはショックで言葉もありません。確かに昔あの丘で約束したはずなのに。大切な幼なじみはそんなことすっかり忘れて、ノコノコと手ぶらでやってきたのです! ふつふつと怒りが沸き上がり、アニータは怒鳴ってしまいました。

「紛らわしいわね! じゃあ、あなた一体、何しに来たのよ!」
「え? えー、それは、もちろん、……君に、会いに」

 そんな。たったそれだけのために? アニータはさらに怒鳴り散らそうとしました。ハイヒールの踵に力を入れて、精一杯、相手を責めてやろうと思いました。
 あのステージでノアの声を聞いたとき、どれだけ嬉しかったことか。やっと時が来たのだと、解放されるのだと、そう思ったのに。

「やっと、自由になれると思ったのに……」

 そう口に出してしまうとアニータはもう立っていられず、穴のあいた風船のように体がしぼんでいくのを感じました。

***

 肩に食い込んでいた細く長い指がほどけて、ノアは猫をいじり回すのを止めました。見ると、アニータはその場にしゃがみこんでいます。普段あれほど優雅な彼女は、高いヒールが災いして何だか不格好でした。

「アニー?」

 膝を付いて猫を隣に置くと、ノアは俯いた彼女の肩に触れようとして、伸ばした手を止めました。薄布から大きく露出したその肌は、薄暗い路上の寂しい街灯の下で濡れたように妖艶でした。その肩に掛かる巻き毛は、小さく震えています。

「君は今、幸せなんじゃないのか?」

 こんなに綺麗な服を着て大勢の観衆を喜ばせ、賞賛を浴びているのに。あんなに好きだった歌と踊りを、今だって続けているのに。
 白猫が小さく一声あげても、ノアは彼女から目を離せませんでした。彼女がゆっくり顔をあげると、その長いまつげが冷たく輝きます。

「あんたには分からないのよ」

 ノアは息を飲みました。同じ感じです。さっき、ステージの上で見た彼女と同じです。よく似た別人。ノアの知らない女が一人彼の前にしゃがみ込んで、妖しく、小馬鹿にした綺麗な顔で彼を見つめていました。

「まだまだ子供なのね」
「ここにいたのか、アニータ」

 突然響いた声に、ノアは弾かれたように振り返りました。色の黒い、この場に似つかわしくない礼服姿の男がゴミだらけの路地に立っています。

「お客様がお待ちだ」

 久しぶりに再会した二人を別れさせるのはそんな一言で十分のようでした。アニータはさっと立ち上がり、丁寧に目元を拭って、まだ座り込んでいるノアをもう一度だけ見下ろしました。

「さようなら、ノア。いつかあんたも大人になって私と同じ思いを知るのよ。それが嫌なら、空飛ぶ船なんかには夢中にならないことね。そんなものは出来っこないし、そんなおままごとしてちゃ生きていけないのよ」

 ――ぼうっとしていたのは、そう長い時間ではなかったようでした。
 太った白猫の鳴き声で、ノアは我に返りました。路地にはもう誰も居ません。黄ばんだ街灯は、今にも切れてしまいそうな音を立てながら明滅しています。

「まだいたのか」

 すり寄ってくる白い毛玉を抱き上げて、ノアはため息をつきました。猫はハの字の口の上に、同じ形の、異国の紳士の髭を思わせる毛を蓄え、ふてぶてしいような金色の目で迷惑そうにノアを見つめ、また一声鳴きました。

「そうだな。もう、帰らないと」

 今からアモーロートを出発すれば、また五日くらいでウト・ピアへ戻れます。そしたらまた、暑い日差しの下で牛や羊を追う牧場仕事の日々。おままごとにしてはきつい毎日だと、ノアはため息をつき歩きはじめました。
 路地を抜けると、酔い乱れた大人たちでごった返す通りに出ました。くたびれた自分の靴を見下ろして歩きながら、ノアはだんだんと苛立ってくるのが分かりました。せっかくこんな所まで、夜通し歩いてやってきた友人にこの仕打ち。思えば、父親が死んだ時にも幻滅させられたのです。

「ちょっと見栄えがして、歌も踊りも人よりちょっと上手いだけの、自分勝手な女じゃないか。なんで俺が馬鹿にされなきゃならない?」

 確かに、ノアには技術も才能も知識もないし、今ではチェンにおんぶに抱っこです。その上何が優れているということもないので毎日羊を追って生活しています。しかし真面目にこなしているのは確かで、それを軽く見られるのは我慢なりませんでした。あれはそういう女なのだ、自分が勝手に美化していただけだ、ノアはそう言い聞かせて、もう二度と顔も見るまいと決意を固めるのでした。あんな女、美しくて優雅で、照り映える夕焼けのように鮮やかな彼女。自由な空の鳥だった彼女。ねえあなた、どうやったらあんな人を忘れられるのか、私が知りたいくらいですよ!
 ノアはしばらく、ごちゃごちゃの頭で歩き続けました。彼もどうやら、どうやっても自力では倒しがたい敵と戦ってるようでした。沈めても沈めても、どうやっても浮き上がってくるのは最後に彼女が見せた泪。彼女はきっと助けを待っています。

「……まあ、俺には関係ないな」

 呻くように呟いて、ノアは何かを振り切るように顔を上げました。

「あれ」

 それでようやく、彼は自分が見知らぬ街をでたらめに歩き回っていたことに気づきました。人気のない、複雑に交差する細い道。無秩序に建ち並ぶ民家の群はみなすでに眠りについていて、覆い被さる空は曇って、弱々しい街頭だけが幾何学模様の街を何とか浮かび上がらせています。

「迷ったか」

 足を止めると先ほどの白猫がまだついて来ていたらしく、気だるそうに靴の上にのしかかってきました。

「お前に聞いても仕方ないよな」

 ノアはポケットに押し込んでいた地図を引っ張り出しましたが、現在地が分からないのでは使いようがありません。一体なぜ、こんなことになったのでしょう。アニータになんか会いに来なければよかった、そんな考えてもどうにもならないことにノアの頭は支配されかけていました。しかし幸いにもこの世の中では、そうそう悪いことばかりが起こるようにはできていないようです。
 ふと、背中に冷水を垂らされたような寒気に襲われて、ノアは勢い良く振り返りました。

「道にでも迷ったか?」

 立ち尽くすノアに声をかけてきたのは、酒場帰り風の赤ら顔の大人でした。細身の長身で、肉付きの少ない顎には無精髭を生やしています。長い前髪の間からは鋭い鷹のような目が、ちらちらと街頭の灯りを受けて光って、全身からは異様な気配を漂わせているのでした。

「この街は初めてで」

 警戒しながらもノアは答えました。あの目つきにこの風体では、とても親切な類の大人とは思えません。何より、彼の周りは、気温が一度も二度も違うように冷たいのです。これは普通の人間かどうかも怪しいのではないでしょうか。
 そんなノアの気も知らず、男はどんどん近づいてすぐ隣までやって来ました。彼はしゃがみこみ、例の白猫を抱き上げます。

「あんたの猫かい」

 そういうわけではないのですが色々と説明しようとすると、余計に口は固く閉ざされてしまうのでした。
 男は猫の顔をまじまじと見つめると、突然猫に向かって話しかけました。目の前の光景が信じられずに、ノアは目を見開きます。

「いやあ、稀に見る不細工な猫だな。よし、お前の名前は今日からフランツだ。ボクはフランチョだにゃーん」

 どうやらこの男、ずいぶん酔っているようです。
 ノアは、しばらく彼の猫腹話術を眺めていました。いかつい顔立ちには似合わない口調でフランツ(暫定)になりすましていた彼は、割とすぐに飽きてフランツを解放しました。そさて何事もなかったかのように、ノアを振り返ります。

「で? どこへ行きたいんだ?」
「……南門まで」
「ならここからそう遠くない。送ってやるよ」

 もちろん、すぐに「ではお願いします」とはいきません。彼の眼光の鋭さは思わず怯んでしまうくらいですし、酔っているのか言動も異常。何よりまとわりつく冷たい気配が、ノアを嫌な気分にさせます。
 しかし訝るノアを置いて、彼はまともな足取りで歩き始めていました。やはり酔っ払いのふりをした追い剥ぎか何かでしょうか。彼の後を追って、白猫もノアから離れていきます。猫になつかれる人間に悪い奴はいないという偏見により、ノアは彼についていくことにしました。ただし、一定の距離を置いて。

「……何だ、ビビってるのか」

 そんなノアに、男は振り返って口元を歪めて見せます。恐ろしげで嫌な笑みでしたが、笑顔には違いありません。

「心配すんなって。子供に物取りの真似事するほど腐っちゃない」

 その言葉は何故かノアの神経に触れました。ただ、何故なのかはよくわかりません。二、三歩進んで、やっとノアはアニータのあの表情に思い当たりました。

『まだ子供なのね、ノア』

「やっぱり俺は子供なのか?」
「ん?」

 男は怪訝そうに眉を持ち上げ振り返りました。失言でした。見ず知らずの酔っ払いにする話ではありません。同じような形の民家がひしめく夜道を歩きながら、ノアはため息をつきました。余計な事を聞いてしまいました。恥ずかしくてやり切れず、男の視線から逃れようと前を行く白い毛玉を目で追います。

「いや。なんでもない。忘れてくれ」
「うーん。そうだな、見た感じは子供らしくはあるな」

 男は腕組みをしてそういいました。

「若く見えるってのはいいことだ。うん。俺もあと五歳くらい若けりゃなあ」
「……俺は大人になりたい」
「なんで?」

 急に尋ねられて、ノアは言いよどみました。昔から彼は、考えていることを話すのは苦手です。
 なぜ大人になりたいか? それはアニータに馬鹿にされないためでしょう。だってノアは毎日真剣に生きてきたつもりでした。肌の白い人間として奇異の目で見られながら北の牧場で働き、その片手間に空を飛ぶ船の実験を繰り返してきました。ただひたすら、アニータの約束のために。それが子供のままごとなのだとしたら、ノアには、何も残りません。

「友達が俺のこと、子供だって言うんだ」
「ふうん」
「俺だって、必死に働いてるのに」
「え、働いてんのか? お前」

 意外そうに男は言いました。やはり子供扱いされていたようです。

「何やってる?」
「牧場の見張り……今は」
「将来の夢とか、あったりするわけだ」
「空を渡る船を作るんだ」
「そりゃすげえ」

 馬鹿にされたのかと思い、ノアはいつの間にか隣を歩く男を見上げました。彼は頭ひとつほど大きく威圧的でした。でも今、彼は目を細めて、昼寝中の猫のような顔でノアを見下ろしていました。

「じゃ、今お前に親切にしてやったのは正解だったな。空を渡る船なんて、いい商売になりそうだ。今日のは貸しにしとくからな、後日どんと返してもらうぞ、利子付きで」
「馬鹿にしないのか」
「何で?」
「友達はままごとだと」
「ふうん。でもさすがにお前の年でままごとはしねぇだろ」

 今も昔もそんなことをした覚えはありません。ノアが頷くと、男も満足そうに数度、頷き返しました。

「俺も無謀だ阿呆だと言われながら国を飛び出してきたクチだからな。何だってやってみれば、案外うまくいくもんだ」

 そんな昔話なんかを聞かされながらしばらく歩くと、暗いながらも見覚えのある門へ着いていました。

「ここまででいい」

 ノアがそう言うと男は足を止めて、白猫を抱き上げノアに押し付けてきました。連れて帰ってもいいものかと思いましたが、肝心の猫を覗き込んでみると、気分良さげにノアの腕に身を沈めています。

「気を付けて帰れよ」
「ああ……」

 手元の猫を見下ろしながら数本進んで、ノアはふと足を止めました。男にお礼を言うのを忘れていました。それに名前も聞いていません。顔を上げると、流れて行く黒い雲の間から、黄金色の月がまさに姿を現したところでした。
 振り返ると、もう例の男はノアに背を向け歩きはじめていました。月明かりの下の彼の隣には、もう一人背の高い何かが歩いているのが見えます。その姿はとても人間とは思えませんでした。やや前屈みになった背中はチェンのものよりもずっと大きく、血のように赤黒いマントを羽織っています。さっきまでは、そんな人影などなかったのに。
 ノアは息を飲んでそのままもう半周体をひねりました。再び門に背を向けると、チェンの明るい笑顔や間抜けな失敗を思い出しながら、ノアはわき目も振らずに帰路を急ぎました。
 そうしてまた村々を渡り、五日目の朝。我が家を頂く丘が見えて来ると、太陽が白んだ空を登って行くようにノアの思考も眠気を突破し、ぐんぐんと勢いづいていくのでした。船が完成したらチェンを乗せてアモーロートまで連れていこうとか、あの無精髭の男も乗せてやろうとか、……アニータにも見せてやらないこともない、とか。まだ出来上がる予定もない船を頭の中で縦横無尽に飛び回らせて、ノアは丘へ急ぎました。半ば走るようにして丘を登るノアの後ろを、白猫はよたよたとついて行きます。一人と一匹はそんな調子で、小屋の中へと飛び込みました。

「チェン! 帰ったぞ!」

 はやる気持ちで声を上げたものの、返答はありません。まだ眠っているのでしょうか? あれで心の優しい彼ですから、てっきり昼食でも準備して待っていてくれると思っていたノアは、すぐに地下の本だらけの部屋に向かいました。きっとまた、資料あさりに夢中になっているのでしょう。しかしその思いも虚しく、そこには付箋紙だらけの本が散らばっているだけで、友人の姿はありません。

「……なんだ。出てるのか?」

 上がった息の合間にぽつりと呟くと、白猫がまた、足首にまとわりつきました。それを抱き上げて、ノアはしぶしぶ寝室へ向かいました。

「せっかく急いで帰ってきたのに。どこ行ったんだ、あいつ」

 そしてベッドに体を横たえたノアは、夢さえも届かない深い眠りに落ちました。
 そんなノアが目を開いたのは、トマトの芳醇な香りのせいでした。寝室は小屋の地下にあるのですが、ここからでも分かるほどの匂いはやはり台所からするようで、ノアは飛び起きてベッドを後にしました。
 階段を登ると、チェンが火をおこして何かを温めていました。その隣では、不細工な白猫がちゃっかり家主より早い食事にありついています。窓の外を一瞥すると、遠い山の境だけが辛うじて日の光を留めていました。

「よく寝てたなあノア。ちょっと待てよ、すぐ温まるから」
「お前……どこに行ってたんだ」

 いつもと変わらない様子の広い背中を眺めながら、ノアは椅子に座り込みました。いつも引きこもっているはずのチェンの姿が見えないのだから、多少は心配したのです。疲れていたため、ぐっすり眠っていましたが。

「うん、ちょっと息抜き」
「あまり息抜きばかりされても困る」
「まあまあ、たまにじゃねえか。それより、アニータには会えたか?」

 チェンは深皿いっぱいに盛ったトマトの煮物をテーブルに乗せると、自分も椅子に腰掛けました。しかし彼はもう食べた後のようで、皿はノアの分だけでした。
 友人の問いかけは無視して、ノアはスプーンで真っ赤なスープをかき回してみました。中には鶏肉や野菜が一口大に刻まれて転がっています。チェンの料理にしては手が込んでいるようです。口に運んでみると、ますます普段との違いを知ることができました。何の味、というのは分からないのですが、酸味と甘味と微妙なスパイスの風味が絡まり合って口の中に広がります。これは明らかにチェンの作ったものではあり得ません。

「旨い。チェンの姉さん、料理上手くなったんじゃないか?」
「うちの姉さんがこんなん作るわけねえだろ」
「じゃあ、誰が作ったんだよ」
「ロージーが分けてくれたんだ」

 当然のように出てきたその名前に、ノアはしばらく頭をひねりました。チェンのたくさんの姉妹の中には、そんな名前もあったような、なかったような。ぼんやりしていると、チェンは頭をかいたり指先を気にしたりと落ち着かないまま、勢いよく話し始めました。

「いや、久しぶりに外に出たからさ、ちょっと酒でもと思ったんだ。それでそこの給仕の女の子と少し話したんだけど、そしたら割と気があったもんで。ほら、俺たち男二人で、うまいもんなんて滅多に食えない生活してるだろ? そんな話したらさ、ロージーがお裾分けしてくれるって言うから、今日も」
「飲みに行ったのか?」
「んな金どこにあんだよ。会いに行っただけ」

 厳しい顔で睨みつけると、チェンは口を尖らせて黙りました。しかしまだ内心浮ついているのは一目瞭然で、隙あらば彼女とのエピソードを披露してやろうという面構えです。そんな話をさせるつもりのないノアは、早速話をそらしました。

「で、船の方はどうなんだ」

 チェンは口をとがらせながらも、刺々しく答えます。

「とりあえずノアのヘンテコな改造部分を取り除くくらいはできそうだ」
「ヘンテコ……」
「しかし親父さんが問題にしてた主翼、尾翼の素材、形状、駆動部の強度や動力源の確保も十分じゃないし、まだまだ実験できる状態じゃねぇよ。親父さんは条件を満たす資材の候補をいくつか挙げてたけど、仮に手に入ったって正確に加工できるやつがいないことには話になんねえ。あと車輪だが、数うんぬんよりクッション材にへたりがきてるのが問題だな。だいたい数を増やすと重みも増すし、そうなるとまた翼の設計からやり直しだ。翼っていや、親父さんが設計の計算方法を残してくれてるんだが、見たこともない記号がいくつかあるんだ。それでロージーにも手伝ってもらうことにしたんだ。客にこいつの解き方を知ってる奴がいないかって……聞いてんのかよ」
「お前の話は難しすぎる。だいたい、こんな長い文章、全員読み飛ばしてるに決まってるぞ。なあフランツ」
「読み飛ばすって、誰が」

 ノアは膝に抱え上げた白猫に鶏肉を分けてやりながら、ため息をつきました。

「つまりあれだろ? 全然ダメってこと」
「振り出しに戻れたんだよ、お前がいらんことした分がやっと帳消しだ」
「俺が悪いって言うのか」

 眉間にしわを寄せて見ると、チェンの方は困ったように口元を歪めています。

「まあ、一言で言えば、そういうことかもな」

 あまりにあっさり頷くので、ノアは唸って白猫の毛を逆撫でていました。猫は迷惑そうな顔で彼を見上げて、本気の猫パンチを繰り出しましたが軽くいなされています。
 完全に拗ねているノアに、チェンは多少口調を和らげてくれました。

「いじくりまわすのは構わねえけどな、親父さんの資料の中に細かい記録が残ってるだろ? あんな具合で、今日どこをどういじったのかを正確に記録しなきゃ駄目なんだよ」
「……」
「おい、聞いてるのか?」

 しばらく黙り込んで、ノアは白猫を、チェン目掛けて投げつけました。一応手加減して。

「おい、なにすんだよ!」
「字なんか書けるか!」

 猫をなんとか抱きとめて、チェンはぽかんと口を開き、変な声をあげました。

「はぇ?」
「だから! 字なんか書けるわけがないだろ! 読めないんだから!」

 ノアの父親は船の完成を急ぐあまり、息子の教育を怠っていたのでした。しかしチェンは納得がいかないようで、口をぱくぱくさせながら言葉を探しているようです。

「え? だってお前……、資料読んだり、してたじゃねーか」
「あれは絵を見てただけだ」
「せめて図と言え」
「うるさい! もう寝る!」

 そう言って部屋を去るころにはノアの頭は熱くなっていて、白い肌はきっと首まで赤くなっていたでしょう。

「……とりあえず、あれだな」

 取り残されたチェンは、腕の中でいかにも不遜な表情でそっくりかえる猫を覗き込みました。

「明日から、読み書きの授業を始めるか」

【暗黒の街】了



[29852] 金剛木アダマス
Name: まねまね◆44c3a61e ID:67893c92
Date: 2011/09/21 13:35

 ところで、キンバーライトという山をご存知でしょうか。それは遥か東の白の大平原のそのまた東にあるアコーラ王国の、最も東にある火山のことです。そしてこの火山を囲む森は、人の手が入ることなく生き続けてきた野生の森でした。昼でも暗く、生き物の声が吸い込まれるように木霊して、奥深い闇の中へと続いていくかのようです。一年を通して腐りかけた落ち葉が土を覆い、纏わりつく湿気と時折吹き抜ける生ぬるい風が密猟者たちの息を塞ぐ原生林。長年人の侵入を防いできたのは、もちろんその森自体のみならず、そこに住む特異で凶暴な生き物たちのおかげもありました。森とその住人たちは知っていました。人間がどれだけ野蛮で傍若無人に、大地が育てた木々を、獣を、その物珍しさだけで安易に殺し、奪っていくのか。それでも人は森の悪意を一身に受けながらも、自らの発展を望み、大いなる自然へと挑み続けるのです。
 ――そんなキンバーライトの森の奥深く。耳が痛いほどの沈黙の中、二人はぴくりともせず、背景の木々にでもなったように動きません。耳に届く陰気なそよぎに擦れ合う葉の音。それよりもずっと小さな声で、ノアは囁きました。口元以外は視線さえも固定したまま。

「チェン、なんとかしろ」
「なんとかってもな」

 かさかさにかすれた低い声に、チェンは苛立たしく言い返します。

「こういう場合は、動かないってのが鉄則だろ」
「かと言って、このままでは進展しないだろうが」

 二人のやり取りをまるで聞いているかのように、しげしげと見つめる野生の獣が一匹。その身の丈は体格の良いチェンより頭三つ分は高く、小さな頭からピンと伸びる三角形の耳は、空を這うように伸びた木の枝に触れてぴくぴく震えています。大きく潤んだ黒い瞳や退化したおまけのような前足は小動物の愛らしさを振りまいていますが、膝を折ってしゃがみこんだ後ろ足の筋の太さといったら、丸太のようでした。さらに恐ろしいのがその愛らしい前足に隠された爪で、眼前の見知らぬ二人組が少しでも動こうものなら、短い指の先からぐわっと、太くず黒い爪が伸びるのです。
 そんなわけで、二人はこの深い森の中、身じろぎ一つできずにいるのでした。牧場番のノアと大工のチェンがこんな未開の原生林にいるのにはもちろん、彼らならではの理由がありました。

「オレも働こっかな」

 それはつい数日前、すっかり居着いたロージーの(正確には彼女の両親の)飲み屋で夕飯を取っていたときのこと。突然のチェンの呟きに、ノアはすくったスプーンをそのまま皿に戻しました。今日のメニューは残りものの炒め合わせ。ロージーの好意により、ほぼ無料です。

「俺の稼ぎに不満があるのか」
「大ありだ」
「無駄遣いを控えろ。言っとくが、その酒は有料だぞ」
「タダ飯食うだけ食ってなんも頼まねぇわけにもいかねーだろ!」

 ノアの冷たいエメラルドの視線に晒されたグラスを庇いつつ、チェンは怒鳴りました。閉店前で客のいない店内で、洗い終えたフォークを手早く磨くロージーが吹き出すように笑います。

「チェン、無理して頼まなくていいのよ」
「いいんだよ、オレは好きで飲んでんだから」
「それを無駄遣いと言うんだ」

 ノアのセリフは聞こえないふりをして、チェンはまた一口、グラスを傾けました。

「チェンはお酒を飲むお金が欲しいわけじゃないのよ、ノア」

 手は止めずに、ロージーは微笑んでいました。磨かれたフォークがリズミカルにナプキンから滑り出て、小気味よい音が響きます。蜂蜜の髪に小麦の肌。少々痩せすぎて頬骨が出ているものの、長いまつげに縁取られたたれ目、その奥の大地の色の瞳は少女らしい愛らしさでいつも輝いていました。

「船を造るのに、どうしても欲しい材木があるのよね?」
「なんだ、なぜそれを先に言わない」
「いや、悩んでるんだよ」

 グラスを置いて、チェンはロージーからもらったメモを取り出しました。

「ロージーに調べてもらったんだけど、何度見ても、オレが働いたくらいで買える値段じゃねぇもんな。やっぱオレが働く意味ねぇか」
「それはどうしても必要なのか?」
「ああ。調べててわかったんだけど、あの船のパーツはほとんど、鳥や魚の体をモデルに設計されてるんだ。で、羽根やウロコ、ヒレ、それに骨格や肉付きなんかの役割を考慮して各器官を無機物で再現してあるんだけど、繊細な仕組みが必要なところが少なくないんだ。あ、そういう一連の仕組みを、親父さんは機構って呼んでるんだけど、機構が小さくなると、当然それぞれの部品も小さくしなきゃならないし、その上でもちろん強度も保つ必要がある。親父さんは炭素含有率の極端に低い鋼を使ってたんだけど、ちょっと錆びがひどいんだ。おまけに重さが半端じゃないから余計に浮きにくいんだよ。だから同じ仕組みの機構を、違う素材で組み直してみようと思ってさ。つい最近東南の森で見つかったアダマスの木なら、ちょうどいいと思ったんだ。今のところこれより硬くて軽い物質は見つかってないし、硬いっつってもへき開性みたいなもんがあるから繊維方向を間違えなきゃ加工も難しくない。ただ金属ばりに熱伝導率が高いらしいから、蒸気機関の近くでは使えないけどな……って、これは親父の受け売りだけど。なあ、ノア、聞いてるか?」
「もちろん」

 ロージーと二人して澄ました顔をして、ノアは神妙に頷きました。

「アダマスの木が必要だが高くて手が出ないということだろ」

 聞いてなかったっぽいな。チェンはそう思いましたが、ノアに理解させるのは面倒なので適当に頷きました。

「そういうこと」
「せめてキンバーライトまで行ければね」

 ロージーは手を止めずにため息をつきました。フォークを拭き終わったロージーは、今度はスプーンをまとめて掴み、磨き始めます。

「商人を通さず直接冒険者さんから買い取れれば、少しは安上がりになるのに」
「何言ってんのよ」

 するとカウンターの奥から彼女とよく似た中年女性が現れました。明日の仕込みを終えたロージーの母親です。

「キンバーライトだなんて、ごろつきどもの巣窟じゃないか。いいねチェン、そんなとこ行っちゃいけないよ。かまどと戸棚の扉を直す約束が残ってんだから」
「お母さん、ごろつきじゃなくて冒険者さんよ」
「そういう人たちのことをごろつきって言うのよ、バカ娘。さっさと終わらせてあがんなさい。あんたたちも」

 すっかり空になった皿を囲む二人を促して、ロージーの母親は再び奥へ戻って行きました。チェンはスプーンに残る塩味を惜しみながら呟きます。

「そういやそんな約束してたな」
「チェン、いつも色々、ごめんね。お母さんあなたのこととっても気に入ってるの」
「こんな話が長くて小難しい男をか?」
「ノア、お前なぁ」
「悔しかったらもっと分かりやすく簡潔に話せ」

 二人がじっとにらみ合うのを見て、ロージーはやっぱり嬉しそうに笑っていました。

「私のお兄ちゃんが亡くなったの、チェンくらいの年頃だったから」
「兄弟がいたのか」

 ノアが尋ねると、ロージーはやはり笑顔のまま歯切れ良く答えました。

「うん、私が小さい頃いなくなっちゃったからよく覚えてないんだけどね。ウト・ピアの工場に働きに出てたらしいんだけど。火事があって、それきり」
「ノア、そろそろ帰ろうぜ」

 チェンは慌てて立ち上がりました。くわえていたスプーンを皿に乗せて、カウンター越しにロージーに渡します。

「ロージーも疲れたよな。早く寝ろよ」
「もう少し、話さない?」
「明日も来るし」

 酒代を握らせると、チェンは椅子にかけていた羽織りを着て、まだ座っているノアを急かします。

「ほら、行くぞ」
「……なぁ、チェン」

 ノアは何か言いかけてから、首を振りました。

「いや、いい。フランツが部屋を荒らしてるかもしれんし、帰るか」

 二人はロージーにお礼を言って、少し肌寒くなった夜道に出ました。
 乾いた砂の道に、チェンの手にしたガスランプの明かりが揺れています。月は新月で、頭上には嵐の日に舞う雨粒のような星たちがぶら下がっていました。もう時間も遅いため、二人以外に人影はありません。もうしばらく歩けば、マンナ・ピア村を区切る柵に突き当たり、その先は道らしい道もない荒野です。そこを突っ切って南へ向かうのが、丘への近道です。
 一際明るい北星に背を向けて、しばらく二人は無言で歩いていました。

「なあ、チェン」

 後ろをついてきていたノアが、ぽつりと口を開きました。チェンはひどく胸がドキドキしていました。

「ロージーのおばさんのことなんだが」
「気にすんなよ!」

 弾かれたように、ノアを遮ります。なぜか、その先を聞くのが怖かったのです。
 ロージーは可愛いだけでなく、優しく気持ちのいい少女です。彼女の母親だって、ちょっと言葉や物腰は粗雑だけど、それでもおおらかで優しく、赤の他人であるチェンやノアの世話を焼いてくれていました。あの人たちが変わってしまうのが怖いのです。

「あの事故のことはお前、全然悪くないんだからさ!」

 チェンはわざと明るい声を出しました。だけどノアを振り返ることはできず、ガスランプでは照らせない遠い地平線に視線を漂わせています。
 そう、工場の火事とノアは無関係です。だからロージーたちが遺族であるからと言って、なんら問題ありません。わざわざノアと工場の関わりを暴露して何になるのでしょう?

「だから、親父さんのことは黙っとけよ。オレもそうするし。その方がおばさんも色々心配せずにすむしさ」

 黙っていればいいのです。真実を知れば、ロージーの母親はきっとノアに冷たくなってしまいます。チェンの両親みたいに。

「……そうか」

 ノアはしばらく考え込んでから、短く返事をしました。

「そうかもな」

 それきりノアは黙り込んでしまったので、チェンは適当な鼻歌を交えながら、ガスランプを振って空元気で丘まで帰っていきました。
 そしてその翌々日から、ノアは一週間の休暇をもらうことができました。チェンとノアはさっそくロージーに猫を預け、キンバーライトへ向かうことにしたのでした。 ちょうど東の村から乗り合い車が出ていたので、二人もそれを利用しました。空は高く晴れ渡り、ちぎれ雲がゆったりと流れる穏やかな秋の日。やはりアナイダの女将が心配するので、二人は身を守るための武器をそれぞれ持ってきて行きました。武器と言っても、チェンの手斧とノコギリです。ふとどきな夜盗を牽制するくらいの役には立つでしょう。二人はそう思っていたのですが。アダマスの木で栄えた村に薄汚れた子供が二人いたところで気にも止められず、それどころか相手にもされませんでした。

「ダメだ、これじゃ話にならん!」

 酒場で交渉を持ちかけたものの子供は帰れと追い払われて、ノアは苛立たしげに声を上げました。

「なんなんだ、子供こどもって! 俺はちゃんと成人している!」
「まあ確かにノアは見た目は子供だからなぁ」
「うるさい!」

 チェンは相変わらず背の伸びない相棒を見下ろしました。白い人は年の取り方が遅い――父親の言葉は本当のようです。ノアは普段は白い頬をかっかさせながら、道端に並ぶ露店を見回しました。といっても道にはかなり人出があり、背の低い彼では見通しが悪そうです。

「普通の土産屋にないのか?」
「バカ、そんなもんは割高だし、第一小さすぎる」

 地図に×印を書き加えて、チェンはため息をつきました。土産屋に並ぶアダマスは手のひらサイズの薄い板で、しかも表面に彫り物が施されています。チェンが欲しいのは、できれば胴体くらいの太さと腕ほどの長さの丸太そのものなのです。

「売り手が無いこともねぇけど……どいつもこいつも足元見やがって。とても買える値段じゃねえしなぁ」

 ここまで来て、何もせずに帰るのも癪です。とはいえ立ち並ぶテントを流れる人混みの中、立ち尽くす二人はあまりに貧しいのでした。チェンは辺りを見回しました。人々はみな質の良い清潔な服を着ているし、身につけている武器も装飾のあるいかにも立派なもの。これでは自分たちが相手にされるわけがありません。惨めな気持ちで着古した服や手斧を見下ろしていると、ノアの方も、じっとノコギリを見つめています。
 ノアはそれから斧とチェンを見比べ、相変わらず細い指でチェンの太い二の腕を叩きました。

「何すんだよ」
「なあ、チェン。俺たちは何を持っている?」
「はぁ?」

 チェンは自分の哀れな武器を見下ろしました。ノアは周りの人間を値踏みするようにうかがっています。

「見ろ。チェン、お前は奴らと比べても体格じゃ負けてない。若さじゃもっと負けてないぞ」
「だったら何だよ」

 言われてみると確かに、剣を二本も三本もぶら下げた冒険者たちの中でも、チェンのように体の大きい人間は多くありませんでした。中には女性も混ざっています。ノアは力強くチェンの両肩を叩き、じっと真剣な眼差しを向けました。

「俺はお前を信じている。お前が、奴らに劣るはずがない」

 一瞬意図が分からず呆然としてから、チェンははっと閃いて危うく手斧を落としかけました。慌ててそれを背中に隠します。

「の、ノア! いくらお前が世間知らずだからってな、まさかんなこと言い出すとは思わなかったぞ! いいか、強盗は犯罪だ。いくら他人だって、人を傷つけるような行為は――」
「誰が盗めだなんて言ったんだ、バカたれ!」

 ノコギリの腹で殴られ、チェンは我に返りました。よほど大きな声が出ていたのか、周囲の視線が集まっています。苦笑いを浮かべて、チェンはノアの首根っこをつかみ、土産物屋の看板の陰に引きずっていきました。

「じゃあなんなんだよ」
「見てみろ、俺たちの持ってきたものを」

 言われて再び視線を向けて、チェンは眉をしかめます。

「丸太を切り出すにはもってこいじゃないか、チェン?」

 そして、森の中で獣と対峙する今に至るのでした。

「だいたいノアが言い出したんだぞ。オレは反対しただろ、こんな森に入るなんて!」
「何言ってる、そもそもチェンが、アダマスだかアダムスだかが必要だとか言い出すからだろう! どうにかしろ!」
「お前こそ、どーにかしろよ!」
「俺をよく見ろ! 俺なんかにどうにかできると思うか?」
「じゃああいつを見ろ! よっく見ろ! オレが――」

 不毛な言い争いを続ける二人の視線の先で、その巨大な獣がびくっと動きました。連動するように、二人を冷たい引きつりが貫きます。二人の両足は地面に釘で打たれたように動きませんでした。
 獣は撫で肩の体を半分捻るようにして、潤んだ瞳で後方をしばし見つめました。体のバランスを取るためか、獣の太く長い尾が、腐った落ち葉や飛び出た木の根の上にぬっと現れます。これで一なぎされたなら、肋骨の数本はあきらめることになるでしょう。二人が冷や汗まみれで立ち尽くしていると、獣は再び巨体に似合わぬ俊敏さで振り返りました。
 二人が逃げることも武器――手斧とノコギリ――を構えることもできないたった一瞬で、獣の太い後ろ足は大きく跳躍しました。その時二人にできたことと言えば、情けない声をあげて顔を背けることくらい。逃げようにも腰が抜けて、二人して尻餅をついてしまいました。

「ンギャー!」

 木の葉のざわめき、翼が空を打つ音。しかしそれが過ぎ去っても、引き裂く痛みも骨の折れる音もしません。二人はいつの間にか抱き合ったまま、そっと目を開きます。
 そこには元通りの深く静かな森が広がっていて、獣の影も形もなくなっていました。

「なんだ?」
「……さあな」

 二人は支え合ってなんとか立ち上がろうとしました。その時になってようやく、迫る地響きと足音に気づいたのです。が、すでに遅いのでした。
 めきめきと生木を折る音とともに、目の前に折り重なる木々の間を引き裂いて、巨大な獣が吠えました。先程の獣とは比べものにならないほどの大きな頭! 全開の顎にはびっしりと、二列に並んだ鋭い牙が並び、涎が糸を引いています。
 今度は悲鳴を上げる暇もありません。生臭い息が顔面に吹き付けて、肺にまで侵入してくるようでした。二人の頭を丸呑みにできるほどの顎がすぐそばまで迫って、そして、そのまま――のけぞって白い喉を見せます。
 獣はそのまま鳴き声一つ上げず、空を見上げたポーズのままで、どろどろした腐葉土の中にずんと横倒しに倒れ込みました。その背中には、鈍い鋼色の長剣が深々と食い込み、心臓を一突きにしているようです。

「怪我はないか!」

 獣の後ろには一人の男が、息を荒げて立っていました。所々にどす黒い染みのある暗い赤色の羽織りに、青白い肌と月光色の長い髪が浮かび上がるようなコントラスト。彼は刀身ノアの背丈ほどもある長剣を片手で易々と引き抜いて、返り血を浴びてもまるで動じません。金色の瞳はしばらく獣を見つめて、呼吸が収まるとすぐに二人に向き直りました。

「間に合ってよかった」

 低く凛として耳に心地よい声にノアとチェンは顔を見合わせ、長い吐息とともにその場にへたり込みました。

「助かったのか……」

 ノアは声も出ないようで、チェンだけが呟きました。赤い羽織りの男はその裾で剣の血を拭うと、背中の鞘に収めました。

「あの」

 ぼんやりその男の姿を眺めていたチェンは、慌てて立ち上がりました。男はチェンよりも背が高く、異様なほどに肩幅も広くて、チェンはこんなに大きな人を見るのは初めてでした。

「どうも、助けていただいて……」
「目の前で子供に死なれては寝覚めが悪い。それだけだ」

 もう子供じゃないんだけどなぁ、と心の中で思いましたがとても口には出せません。こんなに大きく屈強な男から見れば、チェンもノアも子供なのでしょう。そういえば、チェンは自分が最近痩せた気がしていました。引きこもり生活のおかげでめっきり体を動かさなくなってしまったからでしょうか。
 チェンが悶々としていると、男はまだしゃがみこんでいるノアの首根っこをつかんで立たせました。

「歩けるか」
「あ、ああ」

 ノアは慌てて手を振り払いましたが、まだ膝がわらっているようでふらふらしていました。

「こんなところで何をしているんだ?」

 ノアは震える声でなんとか答えます。

「あ、アダマスの木を採りに来た」
「子供二人でよくもこんな奥まで来れたものだな」

 男は呆れたように言って、すぐ足元に倒れている獣を目で指しています。

「襲われなかったのか?」
「さっきまでは」
「運がよかったな。だがお前たちがうろつける場所じゃないことは分かっただろう。さっさと――」
「ジークフリート!」

 男の言葉を遮って、彼の仲間がやって来ました。獣が倒した木の幹を跨いで現れたのは、長い前髪の間から鋭い鷹の目をちらつかせた男。ノアが短くあっと声を漏らしましたような気がしました、が。

「あーっ!」

 現れた男のより大きな声にかき消されてしまいました。彼は腐った土に横たわる獣を指さしています。

「てめぇ! 生け捕りにしろってあれほど言ったじゃねぇか!」
「いやゴードン、これは違うんだ、実は」
「せっかくやっと見つけたのに! また振り出しかよ!」

 ゴードンと呼ばれた男はすでに絶命した獣に飛びつきました。そしてまるで飼い猫にでもするように、そのごつごつした肌を撫で回しています。

「あーあ、可哀相になぁ。無駄死にってこういうことだよなぁ。せっかく見つけたのに……」
「そう嫌味を言うな。子供が襲われてたんだ。仕方ないだろう」

 わざとらしいほど落胆していた男は、大いに不満げな顔を上げました。そしてまた何か言おうとして。その鋭い目は、ノアに向けられました。

「お、空飛ぶ船の船長さんじゃねぇか」

***

「残念だが、アダマスは二、三カ月前に自由取引禁止になったぜ」
「えぇ!」

 ジークフリートとゴードン――フレデリック・ゴードンと名乗った二人を交えて、一行は街へ戻っていました。その道すがら、フレデリックは親切に近々のキンバーライト事情を説明してくれました。

「アラゴン王国が流通の権利を買ったんだとさ。見返りとして、キンバーライト周辺の警護要員を派遣したりもしてるらしい。この辺も昔に比べると荒れてきたからな」
「じゃ、アダマスを手に入れるためにはアラゴン王国から買うしかないのか?」

 ノアの問いかけに、フレデリックは顎の無精ひげに触りながら頷きました。

「もしくは裏ルートで手に入れるか……どっちにしろかなりの高額だ」
「アラゴン王国って、聞いたことねぇな」

 チェンはそう言ってみたものの、実際には自分たちの住むアコーラ以外には北東のポリグレロと南西のブロンディナグくらいしか国の名前を知りません。フレデリックは眉をひそめました。

「本気で言ってんのか? ノア、お前は?」
「チェンが知らないことを俺が知るはずないだろう」
「何いばってんだよ」

 互いに小突き合っているノアとチェンを、フレデリックは珍獣でも見るような目で眺めています。

「田舎もんはこんなもんか……」

 アラゴン王国はキンバーライトから陸伝いで二月、船でなら一月ほど西北に進んだ、先進大陸の一国です。歴史の授業で習ったかもしれませんが、昔は並ぶもののないほどの強国で、技術的にも政治的にも周囲から抜きん出ていました。蒸気機関や電気の基礎もこの国から生まれたと言われています。

「アラゴンから地質学者やら生物学者やらが山ほど派遣されてるからな、そのうち人工栽培されて値段も下がるんじゃねぇの。百年も待てば」
「そんなに待てるか」

 ノアは苛立たしげに、足元に積もった土を蹴飛ばしました。しかしもちろん何の足しにもなりません。

「チェン。アダマスはあきらめた方がよさそうだ」

 ノアに言われるまでもなくその通りです。せめて腕二、三本分くらいのアダマスが手に入れば、作り直せる機構がいくつかあったのですが、お金の問題はどうしようもありません。

「そだな、残念だけど。やっぱ翼を大きくする方が早いのかなぁ。でも浮力の計算をやり直すとすると」
「ところで、フレデリックたちはこんなところで何をしていたんだ?」

 チェンの話は聞きたくもないらしく、ノアはフレデリックに向き直りました。この野郎と思いもしましたが、確かにフレデリックたち二人の話にも興味があります。チェンは黙っていることにしました。

「何してる、か?」

 何気ないノアの問いに、フレデリックは足を止めました。それから相方のジークフリートに目配せして、深くため息をつきます。

「何やってるかだとよ」
「そう睨むな」

 相棒の肩を小突いて、ジークフリートは苦笑いしました。それからノアとチェンを見下ろして腕組みします。

「呪いを解く方法を探してる」

 ノロイ。
 その単語には聞き覚えがないノアとチェンは、ぽかんとしたままジークフリートを見上げていました。特に反応もないままジークフリートは続けます。

「ちょっとした手違いでうっかり、ゴードンに呪いがかかってしまったんだ」
「ノロイって、なんだ?」

 無邪気に尋ねるノアのおかげで、チェンは自分が無知であることを隠せてほっとしました。ここで会話に加わると困ったことになるので、とりあえず積分の方程式をぶつぶつと暗唱して、船の構想に没頭しているふりをしまた。すると案の定、誰もチェンには構いません。

「ノロイってのはな」

 フレデリックは今にも噛み付きそうな顔でジークフリートを睨みつけています。

「相手を心底憎んで、不幸にさせてやるって望みまくることだ。死ぬより苦しめて、悲しみでいっぱいにしてやりたいって願いまくることだ。そうやって相手を不幸にすること。なあ、ジークフリート」
「そう責めるな」
「ふーん……」

 盗み聞きしていたチェンも、なるほどそれは恐ろしいことだと思いました。誰かからそんなに憎まれるなんて。そもそもチェンはそこまで誰かを嫌ったことさえありません。一体何をしたらノロイをかけられるほど恨まれるのでしょう。などと考えていると、チェンはふと、ノアの表情が暗いことに気づきました。ノアは村のみんなに呪われていると、そう考えているのでしょうか。

「それでフレデリックは今、不幸なのか?」

 ノアにしては珍しく、やや早口になっていました。盗み見ると、丸い額に深いしわをよせています。

「ああ、不幸も不幸。とにかく不幸だ。だから呪いを解くために世界中を回ってる」
「聖地キーテジの僧侶が、キンバーライトの古獣の生き血で呪いを解けると言うのでね。ここで狩りをしていたというわけだ」
「そうか」

 フレデリックの返事を聞いてようやく、ノアの表情がほぐれました。

「俺は今不幸じゃない。俺はノロイかけられてなさそうだな」
「そいつは良かった」

 フレデリックは適当に頷くと、その後も自分にノロイをかけた人物の陰湿さをくどくどとノアに聞かせていました。
 ノアは気づいていないようでしたが、口ぶりからしても、ノロイをかけた張本人はジークフリートのようです。チェンはそっと、隣を歩く赤黒い羽織りの男をうかがいました。頬骨に張り付いた肌や、時折鋭い犬歯を覗かせる色の薄い唇。病的なまでに青白いジークフリート。紅の羽織りは彼の血の気を吸い取っているかのようです。
 よくよく眺めてみれば、彼はどこか不気味でした。上着の下で短い角のように尖った肩も、透き通った金色の瞳も人間離れしていて、なるほどノロイという恐ろしい力に相応しいようです。だけど不思議なことに、怖いはずのジークフリートから、チェンは目を離すことができません。その夜空に輝く星のような双眸に吸い込まれてしまいます。そしてまた、丘で初めて船を見つけたときの動悸を感じました。
 丘の悪魔は大人たちの生み出した悲劇でした。それが分かったときチェンが悲しかったのは、両親の裏切りのせいだけではありません。寝付けない夜にまどろむ他愛ない幻想、それがやはり偽物に過ぎなかったと分かったからです。だけど。たった今、目の前にいるではありませんか。聞いたこともないノロイの力を操る、人とは違った姿の男が。
 あの夜、月明かりの下に飛び出してからというもの、チェンの前にはたくさんのものが飛び出してきました。船、白い人、古い書物に詰まった新しい理論や公式、概念そのもの。見たことがないものは存在しないなんて、馬鹿げていました。きっと本当は逆なのです。チェンに想像できるようなすべてのものは、当たり前に存在するのではないでしょうか? むしろ、チェンの想像も及ばないようなすごいもので、この世界は溢れているのでしょう。
 口を半開きにしたチェンの視線に気づいて、ジークフリートは微笑みました。不思議な金色の目には上擦る好奇心まで見透かされてしまいそうです。チェンは慌てて視線を反らし、薄暗い森の木々を眺めるふりをしました。
 そうこうしながら森を抜けると、もう陽は遠い峰の向こうに落ちて、抜けるような空は透明で淋しい色に変わり始めていました。

「とにかく、もう森に入ろうなんて考えるんじゃねーぞ」

 フレデリックはノアとチェンの肩を叩き、その顔を覗き込みました。ノアを見ると、彼は眉を寄せて不安そうにチェンを見つめています。相手にもその気がなさそうなのを確認して、チェンは安堵の息をつきました。アダマスが手に入らないのは残念でしたが、獣の住む危険な森に飛び込むのはチェンの役割ではないと、身にしみて理解していたのです。

「軽くて硬くて加工しやすい素材だっけ? 代わりになりそうなもん探してみるよ。連絡は――」

 フレデリックはベストのポケットから分厚い革の手帳を引っ張り出しました。ウト・ピアのアブラハム。喉まで出かかった言葉をチェンは飲み込みました。ウト・ピアは川沿いの街道から離れすぎていますし、それに、アブラハム家はもうチェンの場所ではありません。かといって丘の家に来られても、ノアは昼間は仕事、チェンは地下室ごもりでフレデリックの訪問に気づかないかもしれません。
 チェンはとりあえず、より街道に近いマンナ・ピアの食堂を教えました。ロージーに話しておけば、伝言くらい聞いてくれるでしょう。フレデリックはポケットのメモに書き付けて、もう一度チェンとノアに微笑みました。少々あくの強い笑みではありますが、人相上仕方がありません。

「あんまり無理すんなよ、船長」
「焦りもする。まだ飛びもしない船だからな」
「文句あるならお前も考えろよ」

 そんな口喧嘩をしながら、チェンとノアは乗り合い車に向かって歩き出しました。途中、チェンはふと森を振り返りました。
 ついさっきまで、自分たちを覆っていた鬱蒼とした森。こんもりとした緑の中央にぽつんと顔を出している火山からは細い白煙が伸びて、夕暮れの空にたなびいています。ウト・ピアに戻れば、こんな景色はもう見られません。武装した人々で賑わう市場も、ジークフリートのような不思議な人も、田舎村には無縁です。それがなんだか、淋しい気がしました。
 だけどチェンにはあの船があります。完成したら、あのキンバーライトの火山を越えていくこともできます。フレデリックが言っていた遠い王国へだって、簡単に行くことができるでしょう。そしたらチェンはもっとたくさんのものを見ることができます。様々の不思議なもの、きれいなものと出会うことができます。だから今は、丘へ帰ろう。
 先を行くノアの背中に視線を戻し、チェンは帰路へつきました。

***

「エメラルドの瞳に空飛ぶ船か。ヌメノールの末裔とはね」

 静かに子供二人を見送っていたジークフリートが、ぽつりと呟きました。

「アモーロートでのこと、おかしいと思っていたんだ。ゴードンが人助けなど。下心があったわけだ」
「そんなんじゃねえさ。俺はいつだって、誰にだって親切じゃあないか。お前にだってそうだろ?」

 同じく黙って二人を眺めていたフレデリックは、そう言って片目を閉じて見せました。相棒の反応はあまりよくありませんでしたが。

「よく言う。しかし失われた神秘の頭脳――賢者の血筋。これはとんだお宝だ」
「まったくだ。棚からぼたもち、てやつだよ。日頃の行いのお陰だな」

 フレデリックは軽口を飛ばしながら、かつて大賢者と呼ばれたオズの伝説を思いました。
 二百年近くも昔に姿を消したとされる賢者オズは、白く見えるほど色素の薄い金髪にエメラルドの瞳の、背の低い男と伝えられています。そして彼は八十という高齢となっても、背筋はしゃんとし働き盛りの中年にしか見えなかったそうです。オズは幅広い分野を同時に理解し様々な発明品を発表。その功績が認められアラゴン王国の宮廷学者となりましたが、財政の大半をつぎ込んだ空を渡る船の研究中、姿を消してしまいました。

「しかし残念だったなゴードン。あの様子では、オズの研究を引き継ぐことはできなかったらしい」
「ああ、船を作るにはいくらか情報が足りねえらしい。だが俺には関係ねぇ」

 フレデリックは鼻先で笑って、もう草の陰とも見分けがつかなくなった二人にから目を離し、ジークフリートを振り返りました。長く相方を務める赤い羽織りの男は、金色の目で二人を追っています。異形の視覚は、まだ二人をはっきりと捕らえることができるようでした。

「不完全とはいえ、オズの資料は残されてる。アラゴンの連中はさぞ欲しがるだろうさ。いい交渉材料になるぞ」

 空を見上げると、気の早い星がすでに西の空高くに輝いています。

「俺もアラゴンの極秘図書には昔から興味があったんだ」
「なるほど」

 ジークフリートは頷いて、小さな牙を見せて笑いました。

「あれだけの歴史ある強国だ。胡散臭い田舎僧侶よりは頼りになりそうだな」

【金剛木アダマス】了



[29852] アラゴンの使者
Name: まねまね◆44c3a61e ID:67893c92
Date: 2011/09/21 14:22
 丘に射す陽が短くなり、北からの風が強さを増した頃。キンバーライトから戻って以来、ノアは牧場番、チェンは船の資料漁りの傍らロージーに会いに行く日々を送っていました。

「あれ? おばさん、どっか行くの?」

 丘の北、マンナ・ピアのアナイダ食堂で戸棚を修理し終わったチェンが表に出ると、ちょうどロージーの母親が、貸し出しの荷車を引いてきたところでした。ロージーは車に繋がれたロバのほつれたたてがみを撫でています。

「ちょっとね、仕入れにシラ・ピアまで行ってくるよ。二、三日店は閉めるからね」
「日持ちしそうなもの作っといたから、持って帰ってね」

 ロージーはそう言って、すぐに店の中に駆け込んで行きました。母親の方は店先に置いてある小さなカバンを二つ、狭い荷台に積み込んでいます。

「もう午後だよ。明日の朝出発した方がいいよ、途中で暗くなるし」
「それがそうもいかないんだよ。西の国の偉い人たちがアコーラの査察に向かってるって噂。あれが本当らしくてさ」

 そう言えば、キンバーライトから戻って二ヶ月も経つころから、この食堂はそんな噂で持ちきりでした。
 西の大国の大使一団が、アコーラの辺境巡りにやってくる。その対象に、このアナ・ピア村の名前も入っているのだそうです。この辺りは昔から、外からの人間が入ってこない村でした。旅人たちは南方の海岸沿いか、北を東西に流れる大河沿いの村を伝って流れて行くためです。例外としては、時折僻地民族学者を名乗る者がふらりと現れる程度。今回のこの噂は、その河沿いの村に出稼ぎに行っている子供が持ち帰ったものでした。

「かなりの団体さんらしいからね、こっちもそれなりの準備が必要ってわけさ」
「今朝、アモーロートのお城から正式に伝書鳩が来たの。七日後にはマンナ・ピアに着くから、しっかり支度してお迎えするようにって」

 焦げ付いて年季の入った鍋を手に、ロージーが戻りました。彼女はそれをチェンに渡して、長いスカートをたくしあげ荷車に乗り込みます。

「じゃあ行ってくるね、留守のことは靴屋のタムさんたちに任せてるから、なんかあったらそこに行くんだよ」
「オレたちは平気だけどさ」

 チェンは受け取った鍋を小脇に抱えて、荷車に乗り込んだ母子を見上げました。かなり買い込むつもりらしく、ロバ三頭立ての荷車です。

「女二人なんて危ねぇよ。オレも行こうか?」
「来てくれるの?」

 ロージーは満面の笑顔で身を乗り出し、危うく荷台から落ちかけました。それを後ろから抱き止めて、母親はため息をつきます。

「何言ってんだい。二人分の宿泊費だってバカにならないんだよ、チェンの分まで誰が出すのさ」
「あ、それもそうか」

 季節はすでに冬、屋外で一晩を明かすには厳しい気候となっていたのです。
 ロージーの母親の手綱で、荷車はとろとろと走り出しました。ロージーが荷台に座って大きく腕を振っています。

「ま、この辺じゃ盗賊なんか出ないし。大丈夫かな」

 二人の車が緩やかにカーブする道を曲がるまで、チェンは黙って見送りました。
それが、三日前の出来事でした。

「頼む、チェン。明日から手伝いに来てくれ」
「やだ。オレ動物の相手は向かないってわかったし」

 普段はのんびり牧場番として羊や牛を追っていたノアは、このところどっと増えた立派な馬たちの世話に追われる立場となっていました。西の大国アラゴンの大使がやってくるとあって、中央から王族の代表者やら芸人、商人がどっと押し寄せたのです。

「ここでまとまった金が入れば、資材を物色に行けるぞ」
「そうだなー」

 二人は今、並べたベッドにそれぞれ横になっています。ノアは疲れているらしくすでに布団の中でうとうとしながら話していますが、チェンはサイドテーブルのランプの明かりで、ノアの父の残した研究日誌を読んでいました。

「アダマス以外にも、使えそうなものがあるかもしれん」
「各組織の再編成は最終的には必要だけどさ」

 チェンは前後のページを何度もめくって読み直しながら、冷たい前髪をかきます。長くなってきた髪は真ん中で分けて左右に垂らしていますが、そろそろ邪魔に思えていました。

「それより気になってることがあるんだ。親父さんの研究日誌に、推力や揚力の補完として磁気エネルギーを使うアイディアが書いてある。磁気エネルギーってのは早い話磁石の斥力のことだ。地面から出る力と反対方向の力を持つ磁石を船に詰めば、反発する力同士で船が浮くってわけさ。でも船を浮かせるほど力のある磁石なんてどこにあるかもわかんねぇし、あくまでアイディア止まりなんだよな。だけどノアのじいさんは船を完成させてどっかにいなくなっちまったんだよなぁ? そのじいさんの船は、どうやって足りない力を補ってたんだ? なんで親父さんはその技術を学ばなかったんだ? 船の構造自体はじいさんの船とほぼ同じ、むしろかなり改良したって日誌には書いてある。それだけの技術を受け継いでいながら、なぜ親父さんは船を飛ばすことができなかったんだ? つーかじいさんは何の力を使って飛んだんだ? なあノア、どう思う?」

 そこまでまくし立てて、チェンは日誌とにらめっこしながら返事を待ちました。そして五秒もしてからようやく顔をあげて、ノアが眠っていることに気がつきました。

「お前が寝たら、誰に説明したらいいんだよ」

 誰にともなく呟いて、チェンは日誌を閉じました。地下にあるこの部屋は外よりは暖かいのですが、通風口から吹き込む風が頬に触れると痛いほどです。

「あの船は構造上、主翼からの揚力だけでは飛べない。他の力が必要だ。ノアのじいさんは、一体何を使ったんだろ」

 チェンはランプ消して、暗い夢の中でもそのことばかり考えて眠りました。

***

 アラゴンの大使到着の日は、村中がお祭り騒ぎとなりました。道端に安価で色鮮やかな露店が並び、その近くでは芸人が手品や大道芸を披露しています。いつもは人影もまばらな広い道は見物客でごった返し、彼らは西方からの立派な一団の到着を楽しみながら待っているようでした。

「綺麗だなぁ……」

 厨房の窓から見上げた青空に、赤や黄色の紙吹雪が舞い上がって、ピンクや紫のリボンが翻っています。食器を両手に山ほど抱えたまま、ロージーは思わず足を止めました。外では、背の低いリリパット族の少女たちが鮮やかなフリルのドレスで踊っています。

「私も見に行きたいなぁ」
「ロージー! 注文!」
「はぁい、母さん」

 忙しく厨房を行き来する母親に呼ばれて、ロージーはすでに山積みの洗い場にさらに食器を重ね、広くはないホールをのぞきました。すでに満席です。見覚えのない顔ばかりでしたが、皆金髪に浅黒い肌のアコーラ人。近隣の村からの野次馬でした。

「これじゃ、とても遊びになんて行けないな」

 父と兄が生きていればと虚しい空想が一瞬頭をよぎりましたが、やりきれない気持ちと一緒に意識の下に沈めます。エプロンを締め直して、後ろで縛った長い髪を整えて。ロージーは元気よく、店の中に戻って行きました。夕暮れ前には、アラゴンの大使たちが到着します。その頃には皆、セレモニーを見るため出払うはずで、遊びに行くのはそれからでも遅くないと、ロージーは自分を慰めました。

***

 村がそんな騒ぎになっているころ、丘の地下では。

「うぎゃっ」

 薄暗く、つんとする臭いがわだかまる地下室に青い火花が散っていました。チェンは慌てて飛び上がり、鉄板の上で吹き上がった小さな炎を見下ろします。

「なんだよもー、また失敗かよ!」

 壁に立てかけたほうきの柄でまだ燃えている鉄板をつつき、作業台の脇の水を張ったバケツに落としました。じゅっと鋭い音と金属の溶ける嫌な臭いがして、火はすぐに消えます。バケツの底には、すでに似たような鉄板が数枚重なっていました。

「ちゃんと書いてある通りにつないでるのになー。ノアの親父さん、なんか間違ってんじゃねーの?」

 地下にこもるうちにすっかり一人でしゃべる癖がついたチェンは、ランプの下でもう一度研究日誌を開きました。複雑に繋がった線図がページいっぱいに描かれていて、余白には意味不明の記号や数式が殴り書きされています。

「つーかもはやこれは大工の仕事じゃねえよ、どっかから学者でも連れてこねぇと」

 ぶつぶつ言いながらも、指と視線は正確に、部品と部品をつなぐ線を追っています。それが終わると、付箋紙を付けたページの論理表と照らし合わせました。

「あってる。書いてあるとおり、だよな。そしたらここにつけたこいつが……」

 頭がこんがらがり始めて閉口していると、ふと、頭上から物音がしました。ノアにしては随分と早い帰宅です。窓がないため時間はわかりませんが、まだ宵の口でしょう。
 泥棒? あり得ると思い、チェンはほうきを握りしめ息を潜めました。今日はアラゴンからの大使や自国の王族一団を見ようと、たくさんの人間が集まっています。騒ぎに紛れて良からぬことを企む者もいるかもしれません。それとも忙しいあまり体調を崩した貧弱者が早めに帰されたのでしょうか。どの道用心に越したことはありません。息を潜め、上目遣いで暗い天井を見上げます。鉄板を張り合わせて補強した天井はもちろん、上の様子を見せてはくれません。
 しばらくは静かでした。しかしやはり、摺り足で階上を歩き回るような気配がしています。もし仮に入ってきたのがノアなら、気配も殺さずどたどたとやってくるはずです。やはりよそ者の類でしょう。しかし一体どうやって鍵を開けたのでしょうか。この家の鍵はこの辺りで流通している安易な形状のものではありません。その道のプロの仕業なのでしょうか。色々と思いを巡らすうちに、ほうきを握る手にも力が入ります――あまり力を入れすぎると折れてしまいそうでした。
 上の階には盗まれて困るような物はありません。何事もなく立ち去ってくれるよう、チェンは何者かに祈りました。そこそこの相手になら負ける気はしませんが、ジークフリートのような屈強な男に向かって来られたらどうにもできません。ガタンと、隠し階段のふたが外される音がしました。
 階段を下る足音は慎重でした。チェンは、部屋の隅に対角線上に二カ所設けられた避難通路を兼ねる通気口に目を向けます。そこに身を潜めてやり過ごす方が利口でしょうか? しかし廊下の向こうの寝室には金庫を置いているし、ここの資料を荒らされるのもいただけません。さらに一番奥にある、船を隠した倉庫に行かれては困ります。やはり放ってはおけません。
 足音は階段を下りきり、ゆっくりと廊下を進んで来ます。扉にぴったり張り付いてたっぷりと引きつけてから、チェンは勢いよく扉を押し開きました。
 手応えは、あまりありませんでした。確かに鋭い声が響き、肩を押し当てた扉ごしにも、反対側で柔らかいものにぶつかった音が聞こえました。が、侵入者は派手に転がる様子もなく、むしろギリギリのところで体をかわしたようです。返ってチェンの方が、勢い余って体勢を崩しました。それでも手にしたほうきを振り上げて、狭い廊下に立ちふさがります。

「誰だ!」

 しかし、廊下を照らす予想外の明かりに目を焼かれて、チェンは慌てて顔を背けました。いつもは薄暗いはずの廊下に、黄色がかった光が射していたのです。何者かが動く気配がして、チェンはあてずっぽうにほうきを振り下ろしました。しかしその軌道は何もとらえず、木板を張り合わせた壁にぶつかって腕が痺れてしまいました。

「いってえ!」
「すみません、人がいるとは思わなくて!」

 聞こえてきたのは、若い男の声でした。
 ほうきで殴りかかられたにしては穏やかな調子だったので、チェンは力んでいた腕を下ろし、よくよく相手を見つめてみました。相手も手にした明かりをそらして、黙ってチェンの視力が回復するのを待っています。
 そこにいたのは、細身のコートを羽織った少年でした。少年と言ってもそれは先ほどの声で判断しただけで、くっきりとした二重の目尻の下がった優しい眼差しや、後ろで一つにまとめた長い金色の癖毛、形の良い鼻筋や線の細い顎、柔らかそうな唇は、女性のようです。彼が丁寧に頭を下げたので、ふわふわの癖毛が肩を滑って落ちました。コートの襟首からは、透けるように白いうなじがのぞいています。

「僕はアッシュ。旅の楽士だ」

 彼は顔を上げると両目を細めて、形の良い口角をわずかに持ち上げました。その笑顔を見ると途端に警戒心は消えて、チェンは長いため息をつきます。

「楽士がこんなとこに、何の用だよ」
「アラゴンのフェルナンド大使の一行に付いてここまで来たんだけど、すごい賑わいでさ。人混みを避けてこの丘に来たんだけど、やっぱり夜は寒かったから、ベッドを借りようと思って」
「楽士が鍵を外して不法侵入か」
「手先は器用なんだ」

 得意げに髪の中から細い針金の髪留めを引き抜いて、アッシュは微笑んでいます。

「ここの鍵はこの辺じゃ見ない形だね。ちょっと手間取ったよ」
「……本当に楽士か?」
「楽士が楽器しかできないというのは偏見だよ。疑ってるなら、僕の演奏を聞くかい?」

 そう言って、アッシュは肩掛けのかばんから銀色の横笛を引っ張り出しました。よく手入れされた濡れたような艶を持つその表面には、細かく立派な意匠が施されていて、薄暗い中でも輝いています。

「すげえ笛だな」
「うん、商売道具だから」
「かなり凝った細工だ。それ、メッキじゃねぇな。しかし全体が銀製だとしたら、庶民が持てるもんじゃないんじゃねーの?」
「さあ? 親から譲ってもらったんだ。そんな大したもんじゃないよ」

 言いながら、アッシュはさり気なく、長く白い指から何かを抜き取りました。すかさずチェンはその手首をひねりあげます。彼の腕は思ったよりは太くがっしりとしていましたが、アッシュはあっさりと手の中に隠した指輪を取り落としました。

「痛い! ちょっと、何するのさ!」
「これって……」

 拾い上げると、大きな宝石を華奢な台座に収めただけの、シンプルな指輪でした。そのデザインが余計に、その石の持つ魅力を前に押し出しているのでしょう。石のサイズは親指の爪程度で、見た目より重く感じました。磨き抜かれた表面は細かい面に加工されていて、そこに反射する光と、中に入って石の内側で反射する光が入り乱れ、不規則な強弱を持って輝いています。石をゆっくり傾けていくと、手の中で煌めきが転がるように踊って、チェンはしばらくそれを見つめていました。

「……返してくれる?」
「ああ。悪い、なんか物騒なもんかと思ってさ」

 指輪を返すと、アッシュはコートの胸ポケットにしまい込みました。

「だから、泥棒じゃないってば」
「わかったわかった。それより、お前楽士なんだろ? ちょっと笛聞かせてくれよ」
「しばらくお邪魔させてもらえるなら、お聞かせするよ」

 チェンはアッシュを寝室に通して、彼の技を披露してもらうことにしました。彼を資料室に入のが怖かったからです。
 あの噂を聞いたときからおかしいとは思っていました。いくら大国アラゴンの大使が来たとはいえ、それをアコーラの王族が迎える必要があるでしょうか。むしろ対外的にも、同程度の立場の仕官を派遣する方が自然です。しかしやって来た大使の一団にアラゴンの王族がいたとすれば、その対応にも納得がいきます。
 アッシュの指輪。あれはおそらく、以前噂を耳にしたアダマンタイトだろうとチェンは思いました。アダマスの樹液の結晶で木そのもの同様固く、丹念に磨くことで独特な輝きを放つといいます。もちろん、結晶が取れるまでにはかなりの時間がかかるため、超のつく希少素材。アダマスの管理をしているアラゴン王国でもごく少数しか出回らないはずです。目の前の美しい少年が、その大使一団に紛れた王族であるとすれば、すべてつじつまは合います。なぜその彼が泥棒の真似事をしているのかは、チェンの知るところではありませんでしたが。
 さあ、アッシュが本当に、先進大陸を代表するとまで言われる技術大国アラゴンの王族であった場合。当然、最新技術の知識を身につけている可能性が高く、その彼にあの空飛ぶ船の資料を見られるのはまずいのです。だってそうでしょう? 今、自分がゆっくりと取り払おうとする神秘のヴェールを、あっさりと引きはがされてその先まで蹂躙されてしまうかもしれないんですから。
 腹の中ではそんなことばかり考えていたチェンでしたが、アッシュの演奏が始まるとすっかり耳を奪われてしまいました。彼が王子であろうが乞食であろうが、その演奏は実に堂に入ったもので、本格的な音楽に親しんだことのないチェンにも心地好く楽しむことができたのです。そしてちょうど一曲終わる頃、頭上で物音がしました。

「誰か来たよ?」
「ノアだよ、オレの友達」

 アッシュとは正反対にドタドタと靴底を鳴らして、ノアは階段を一気に駆け下り真っ先に資料室をのぞいたようでした。すぐに寝室の扉も開かれて、獣臭い臭いと共にノアが飛び込んで来ます。

「チェン! 話がある!」

 叫んでから、彼はアッシュの姿に気付いてぴたっと凍りつきました。

「……誰だ?」
「旅の楽士のアッシュだよ」

 チェンが紹介すると、ノアは目を見開いたまま、軽く頭を下げました。アッシュはというと、笛を膝の上に置いてベッドに腰掛けたまま、黙ってノアを見上げています。あまりに沈黙が長いので、ノアは眉をひそめました。

「……何だよ」
「いや、ごめん。君、アコーラ人じゃないんだね」

 今までチェンに見せていた物腰とは打って変わって、どこか硬さのある口調でした。チェンは気圧されながらも、閉口しているノアの代わりに答えます。

「ノアはじいさんが外国人なんだ」
「おじいさんが……」
「そうだ、チェン! アニータだ!」

 物言いたげなアッシュを遮って、ノアは声を上げました。

「アニータが来てる! 大使が泊まってる宿だ! 入ろうとしたんだが、警備員がいて入れないんだ、どうにかできないか?」
「アニータが?」

 チェンは思わず立ち上がって、まだ持っていたほうきを握りしめました。

「そっか、よかったなぁノア! どうにかして会いに――」
「ダメだ!」

 すると急に、アッシュが大きな声を出しました。チェンの手首を握りしめた手は白く滑らかでしたが、大きく指の一本一本がしっかりしていました。やはり男なんだなぁと、チェンはなんとなく残念に思いました。こんなに綺麗な女性がいたら、自分だったら。そんな妄想の途中に何故かロージーのあの大地色の眼差しがかすめて、チェンは慌てて雑念をかき消すのでした。
 そうしている間に、アッシュは一度チェンに目配せしてから、ノアに向き直ります。

「ノア、君は行かない方がいい」
「どうして」
「アラゴンの大使が、なぜこんな辺境の地に来たか、知ってるかい?」

 そんなことに理由があるなど、ノアは考えたことさえないでしょう。苛立たしげにため息をつくノアの顔には、「知ったことか」と書いてありました。遠い異国の大使の訪問が、まさか自分と関係あるとは夢にも思わないですから。

「昔、アラゴンには賢者とまで呼ばれた天文学者がいた。彼は多分野に渡って活躍し、国の極秘研究に携わったが、突然姿を消した。伝説では流れ星に乗って東へ行ったとされている。フェルナンド卿はいまだにその学者を追っているんだ」

 そこまで聞いても、ノアには反応はありません。それよりも、今にも廊下に飛び出そうとタイミングを測っているようです。彼は聞いていないか、言葉の本当の意味を理解しきれないのでしょう。チェンはのどを詰まらせながら、かすれた声を絞り出しました。

「ノアとは……関係ないだろ? 探してるのは昔の学者なんだから」
「子孫なら、ちょうどノアくらいの年齢でもおかしくないけどね」

 そこまで来てようやく、ノアは低く「あ」と漏らしました。アッシュにとっては、それで十分な返事でしょう、彼は満足そうに微笑みました。

「今大使の前に出て行けば、君たちの研究は奪われ戦争の道具にされる。今はここに隠れている方がいいよ」

 チェンは一呼吸分悩みました。この男にしたって、正体を隠している節があります。しらばっくれておくべきでしょうか? ノアを見ると、眉を寄せてチェンを見上げています。答えが欲しいのはノアの方のようでした。

「ま、ノアがそんな偉い学者の子孫とは思えねぇけどな」
「お前、失礼だな」
「ならなおさら、無関係なのに家を荒らされたくはないだろ? 大人しくしてなよ」
「しかし……」

 ノアは腕組みしてうつむきました。

「アニータはどうする? あいつはきっと、今の仕事から逃げ出したいんだ。誰かが迎えにきてくれるのを待ってる。友達は俺しかいないのに」
「僕が様子を見てこよう」

 アッシュの申し出に、ノアは顔を上げました。いぶかるように、片眉を跳ね上げて。

「あんたが?」
「ああ。僕はしがないただの楽士だからね、ノアのように捕まることもない」
「なら、チェンと二人で――」
「それはダメだ。フェルナンド卿は穏健派ではあるけど、アラゴン人の大半がまだ他民族を嫌っている。アコーラ人のチェンなんか取り合ってもらえないよ。もし万一粗相なんかしたら、殺されかねない」
「マジかよ」

 チェンはまだ握っていたほうきをベッドに放り出しました。

「野蛮人め」
「まあ信用ないかもしれないけどさ、僕に任せて」

 そう言われて、ノアはもう一度チェンを見上げます。チェンはアッシュについてはだいたいの見当がついていたので、あっさりと判断を下しました。

「ま、いんじゃね? 任せでも」

 アッシュがチェンの見立て通りの男なら、その宿からアニータを連れ出すことは簡単でしょう。それに、アッシュは何か思うところがあって、フェルナンド卿とノアの接触を良しとしていないようです。賢者オズとその息子が残した資料が自国に流れるのを防ぐ理由。チェンには思いつきませんが、とにかく、それはチェンにもありがたいことなのです。今はノアに行かせるべきではないでしょう。

「ノア、オレたちが行くのはなんか危なそうだし、やめとこう」

 ノアは納得できないようでしたが、口をとがらせて、何度か頷き不満を飲み込んだようです。

「チェンがそう思うなら、そうしよう」
「じゃあ、行ってくる。宿にいるアニータって子を見つけて、逃がせばいいんだね?」
「できるのか」
「甘くみないでほしいな。楽士は万能なんだよ」

 そう言って、アッシュは軽い足取りで階段を登って行きました。

***

「アレクシウス様!」
「うわっ」

 こっそりとトイレの窓から宿へ侵入したアッシュ――アレクシウス・ラミロ・フェノ・フェルナンド・アラゴンは、ものの数秒で、用を足しに来ていた側近に見つかってしまいました。

「ラモンか! おどかすなよ」
「心配しましたよ、どこ行ってたんですかぁ」

 タイミングよくトイレに入ってきた側近は、用も忘れてアッシュに飛びつきました。側近と言っても叔父のフェルナンド卿の末子で、幼い頃には卿の屋敷で兄弟のように遊んでいた男です。血の繋がりのせいか見た目はアッシュと非常に似ていますが、彼の方がほっそりとして影のある雰囲気を持っているため、並ぶとむしろアッシュの方が護衛しているようでした。

「あのセレモニーってのはどうも僕には向かないんだよ」
「危うくアレクシウス様の不在が先方にバレるところだったんですよ!」
「別に平気だろ? 影武者がいるんだからさ」
「そりゃ、私は黙っていればアレクシウス様に似ていますけど」

 肩を抱いていた手を離して、ラモンはため息をつきました。

「話したらすぐにばれちゃいますよ。私はアレクシウス様と違って剣も楽器もまるで駄目ですから」
「ま、でもまだバレてないんだろう?」

 従兄弟が不服そうな表情で頷く姿を見て、アレクシウスはとりあえず安心しました。

「ところでラモン。今日の芸者の中にアニータという女はいないか?」
「アニータ、ですか」

 ラモンは思い出すように遠くを見上げ、手を合わせます。

「ああ。さっき見かけましたよ。黒い髪にバニラの肌をした女でした。たぶんもうじき、彼女の舞台が始まりますよ」
「黒髪か」
「見たところアコーラ人じゃありませんね。東の果ての民族とも顔立ちが違いました。とても美しく不思議な方です」
「そうか。実は、彼女を今夜、僕の部屋に呼びたいんだけど」
「そうですか……」

 とんとんと調子よく続いた会話に、突然穴があきました。そしてラモンは、目を回して悲鳴に近い声をあげます。アッシュは慌てて、自分そっくりの従者の口元を覆いました。

「ばか、騒ぐな!」
「だってアレクシウス様、いくら綺麗だからって、彼女はどこの誰とも分からない異邦人なんですよ? そんな人間をお召しになるなんて、アルフォンソ大王が許しませんよ! 大体、父上だって」
「そんなんじゃないよ」
「それにフローレンスのイザベル様はどうされるんですか? メディソン家との繋がりがこんなことで切れたとあっては――」
「だから、聞けって!」

 頭に血が上った従者に軽く一蹴り入れると、彼は力なく壁にもたれかかりました。

「ひどいです、アレクシウス様」
「落ち着いた?」

 しおれた花のようになった従兄弟を見下ろして、アッシュはため息をつきましす。

「イザベルがいるんだ、側室なんかいらないよ」
「お迎えなんかした日には恐ろしいことになりそうですもんね」
「だろ?」

 可憐ではあっても火の玉のような気質の恋人を思い、アッシュはまたため息をつきかけました。彼女にはキャンパスや絵筆よりレイピアと海賊船の方がしっくりくる気がします。

「確かにコトがイザベルに知れたらまずいな。これは極秘任務だぞ、ラモン――」

 トイレでの作戦会議を終え、アレクシウスはラモンの着ていた礼服に着替えました。腰も首も窮屈に縛られるので滅多に袖を通さないのですが、今夜は叔父のフェルナンド卿も正装していますし、アコーラの王族も来ています。ここで我を通すのは父王の顔に泥を塗る行為。第二十三子の身でありながら他の子どもたちより多く期待をかけられてきたと自負する彼には、とてもそんなことはできません。
 そして王子とその影に戻った二人はトイレで別れ、アレクシウスだけが宿屋一階の酒場へ降りていきました。ステージは、田舎の酒場独特の陰気な空気を取り払おうと努力した跡がよく見られ、新しいライトや冷却材が古くシミだらけの床板とのコントラストを強調しています。しかしそこここに見られる精一杯の気遣いに包まれて、みっともないとは思いませんでした。
 この国の人々は穏やかで互いの協和を望み、衝突を避ける習慣があるのでしょう。地下室で出会ったチェンにしてもそうです。彼は不審な侵入者に対してもちろん警戒心を持っていたのに、有無を言わさず放り出すようなことはしませんでした。その習慣が、アレクシウスには愛しく感じられました。人々が激しく対立ししのぎを削りあって発展した先進大陸に戻ったら、すぐに隣国に住むイザベルに話してあげたい。アコーラの朗らかな王子たちとステージ前の即席ベンチに座って、彼はそう思いました。

「始まりますよ」

 年齢的にはかなり年上らしいアコーラの王子が囁くと、ステージを照らすライト以外の灯りがさっと消えて、幕のないがらんとしたステージが浮かび上がりました。そこに、本日の締めを飾るに相応しい踊り子が、長い足を颯爽と伸ばして風のように舞い上がりました。
 アニータ・ガルショーの舞は、ただ可憐で優雅なものとはわけが違いました。長い四肢を支える筋肉に過不足はなく、女性らしい曲線を失わないのに、前方を鋭く射抜く黒い瞳は猛々しい戦士のようです。風に乗って燃え上がる炎のように激しく吹き荒れて、見るものは圧倒されつつも吸い込まれずにはいられないのでした。それはまるで紅蓮の夕暮れ。

「これは、ノアが夢中になるのもわかるな」

 アレクシウスは呟いて、彼女から流れるリズムや旋律の中に、気高い少女を見つけました。

***

 眩しいステージの後。高級宿の裏手の「貸切」公衆トイレが、アニータのドレスルームでした。彼女は岩を削っただけの洗面台に細い両腕をついて、背の高い彼女には少し低すぎる位置の鏡を覗きこんでいます。
 さんざん振り回してもつれた黒髪、汗の浮かぶ額、剥げたメイクが垂れる頬。ドレスから大きく露出した胸元は体全体のバランスからは信じられないほど豊かで、その谷合に向かって、首筋の汗が張りのある肌を伝って落ちました。息が上がって、柔らかに膨らんだ唇は開きっぱなしで頬は薔薇が咲いたように赤らんでいます。それでも、彼女は自分の瞳に力を感じていました。
 やりきった! しかし同時に、これで駄目ならダメージは大きいでしょう。今日の客は、アコーラとアラゴンの王族と彼らの護衛官でした。彼らのお気に入りの座を射止めれば、もうこんな移動娼婦のような仕事を終わらせることができるのです。毎晩虫のように這い回りたがる男どもの手など届かない、宮仕えの本物の踊り子になれるのです。こんなチャンスは二度とありません。その一世一代の大舞台で、アニータは何の悔いも残らない自分の演技に、恐らく他の誰より驚いていました。
 だからこそ。今夜誰の目にもとまらなければ、彼女は一生、ちょっとキレイな人形のまま。でも、それでも彼女は――。

「お前、ついにやったぞ! やりやがった!」

 アニータが奥歯を噛み締めていると、唐突に団長が奇声をを上げながら女子トイレに駆け込んできました。やや細身の中背を真っ黒なタキシードに包み、チョコレート色の額に玉のような汗を浮かべています。一体どれくらい走ってきたのでしょう。とにかく団長はやってくるなり、同じように汗まみれのアニータに抱きつきました。彼女は凛とした細く形のいい眉を歪めましたが、団長はそれどころではないようです。広くはだけたアニータの背中を太鼓か何かのようにどんどん叩きながら、彼は泣いているやら笑っているやらわからない声を上げました。

「ご指名だ! ご指名だよ、うちの看板娘を、このアニータ・ガルショーを!」
「どなたが!」

 アニータはまるで電流でも流されたように、ピンと背筋を伸ばしました。体を震わせている団長の肩を掴むと、その小さな黒い瞳を覗き込みます。その目は歓喜に溢れていました。

「アレクシウス様だよ! アラゴンの王子だ!」
「何ですって!」

 全身の血液が逆流して頭に上ってきたのではないかと、アニータは思いました。くらくらと体の重心が定まらず、彼女は夜の忍び込んだ、薄汚い天井を仰ぎます。しかしその向こうにはすでに、先進大陸風の洒落たドレスと舞台装置に囲まれて歌う、美しい歌姫が見えました。そこには不必要な肌の露出も嫌らしい体の動きもありません。その姿は正に宮廷音楽家! そして、王家のために用意されたボックス席には――。

「アレクシウス様って、あの若い金髪の? 大使のオヤジの方じゃないのね?」
「そうとも、あの若くご聡明な美男子のアレクシウス様さ!」
「大変!」

 アニータは団長を力いっぱい突き飛ばし、床に置いていた自分のカバンをひっくり返しました。まず髪を整え化粧を直し、昔の客にもらった麝香をつけて、それから、それから。

「しまった! その前にお風呂よ!」
「そうだそうだ!」

 壁にたたきつけられても、団長は嬉し涙の滲む両目にハンカチを当てています。そして彼は、かき集めた荷物を抱え足早に浴場へ向かおうとするアニータの後ろを、飛び跳ねながらついてきました。

「いいか、今まで学んだすべてを生かすときがきた! 初めは優しく落ち着いて様々な方面を試すんだ! 相手のツボがわかったら、あとは押して押して、押しまくれ!」
「わかってるわよ! 私に指図しないでちょうだい!」
「ああそうだな、そうだアニータ。お前ならきっとできる」

 二人はトイレを出ると無人の暗い路地を渡り、門番付きの宿の勝手口へ入ります。汗だくの体にこぼれんばかりに膨れた気概を抱くアニータと、なにやらわめき散らす団長を、二人の門番は視線で追いながらも通しました。美しい歌姫の顔を彼らはしっかり覚えていたのです。

「お前は美しいぞアニー! そして賢い! あんなモヤシ王子、落とせないはずがない! 虜にして、お前なしには生きられなくさせるんだ!」
「ええ、そしたらあんたには大金が入り、私は――」

 舞台裏を通り浴場へ向かう途中、急ぎすぎたせいで抱えていたブラシやコロンがばらばらと落ちました。アニータはそれを拾い上げようとかがみこみ、ふと、壁にかけられた姿見に目を留めました。信じられない気持ちです。目の前のこの卑しい踊り子に、一国の王子を仕留めるチャンスが来るなんて!

「本物の芸者になれるのね。本物の歌姫に!」

 そして湯殿で汗を流したアニータは、自慢の黒髪を丁寧にくしけずりました。衣装はボリュームのないすらっとしたシルエットの漆黒のドレスを、香りは仄かに漂う官能の甘い麝香を選びました。それが今のアニータにできる最高の装いです。高鳴る胸は痛みを感じるほどで、じっとしていると頬が熱く強張り、叫び出したい気持ちでした。それを必死でこらえ、アニータは団長の指示で宿の回廊へ向かいます。そこに迎えが来るのだそうです。
 しかしたどり着いてみたものの、アニータ以外には誰もいません。それどころか廊下には明かりもなく、大きな窓から差し込む月明かりでなんとか視界が保たれているだけです。アニータとの逢い引きはアラゴン王室にとってはかなりのスキャンダルなのだろうと思う反面、一人で待つアニータには不安が付きまとっていました。やはりこんなこと、起こるはずがありません。全ては狂言なのでは? いくら待っても、誰も迎えになど来ないのかもしれません。時間と共に興奮は冷め、もやもやとした気持ちが増してきた頃、ようやく廊下に人影が現れました。

「アニータ様ですね?」

 振り返ると、ちょうど柱の陰になる場所に一人の男が立っています。姿はよく見えないものの、声の調子に歳を取った様子はありません。王子の側近が迎えに来ると聞いててっきり偉ぶった年配の執事がやって来るものと思っていたので意外でした。相手をよく見ようとアニータが目を懲らしていると、華奢な男が月明かりの中に一歩踏み出してきます。頭部には布を巻き付けて顔立ちはよくわかりません。しかし布の間から覗く両目は優しげで、その怪しい風貌が返って魅力的なように感じました。

「どなたかしら? 私の知り合いには見えませんけれど」

 自分が見とれていたことに気づいたアニータは、毅然とそう言い放ちました。相手は胸に手を当てて軽く頭を下げます。

「このような格好で申し訳ありませんが、訳あって素顔をさらせない身であります。ご容赦ください」
「それって――」

 優雅な仕草に丁寧な言葉使い。もしや目の前の男がアレクシウス王子では、とアニータは慌ててしまいました。そうだとしたら、先程の態度はあまりにも不躾でした。焦りが顔にまで出てしまったのでしょうか、男は目を細めて微笑んだようでした。

「僕の主人があなたをお待ちしております。ご同行願えますか?」
「断るつもりならはじめからこんなところで待ったりしないわ」
「それもそうですね」

 アニータが腕組みしてじっと見つめても、相手は怯むどころかやんわりと受け止めるだけです。素性の悪いもの特有の、女を見下した態度は微塵もありません。

「では、行きましょう」

 顔に布を巻いた男は、アニータを宿の最上階まで案内しました。その階にはたった一つ扉があるだけで、その部屋がいかに特別かを物語っています。木製の、繊細な紋章の彫り物がある扉。そこで足を止めると、彼は三回ノックしました。

「アニータ様をお連れしました」
「通してくれ」

 交わされた二つの声を聞き、アニータははっとしました。声が瓜二つなのです。案内役の男を見上げると、彼はまた、両目を細めました。

「大丈夫ですよ、変なことはしませんから」

 ここで閉口してしまえば、怯んでいると思われてしまいます。アニータは取り繕うように言い返しました。

「上品な方々の言う変なことって、どんなことかしら?」

 男は慌てて何か言いかけましたが、アニータは扉を開いて中へ踏み込みました。
 部屋は今までに見たどんな宿より上等に見えました。自分の故郷の近くにこんな洒落た宿があるとは思わなかったので、アニータは驚きました。凝った模様の絨毯と色を合わせたカーテンは今は開け放たれていて、アーチ型にデザインされた窓からは、夜空にぽっかりと浮かぶ丸い月が見えます。その青白い月影に照らされて、窓の縁に腰掛けた王子は少し淋しげに見えました。

「お呼びに預かり光栄に思いますわ、アレクシウス王子」

 ドレスの裾をわずかに持ち上げ、アニータは深く腰から折るようにして頭を下げました。西方の高級な人々は好んでこういう挨拶をするのだと聞いたことがあります。しかし王子は一瞥をくれただけで、それについては特に何も言いませんでした。

「顔を上げて。こっちに来て」

 王子は立ち上がると片手を上げて、隣に立つよう促しました。彼の動作はどこか親しげで、その表情には高圧的な色もありません。アニータは強く両手を握りしめ、足音に気をつけながら彼の隣に並びました。
 王子は、澄んだ夜の空気に輝く青い瞳でアニータを上から下まで眺めています。その視線を受け止めると、アニータは何ともいえない恥ずかしさがこみ上げるのがわかりました。アニータは自分に絶対の自信を持っていました。その上、今日はいつも以上に着飾っています。なのに、アレクシウス王子を前にすると、そんな高慢は急に萎んでしまって、その上安っぽい余計なお荷物になりました。部屋に漂う柔らかな乳香が、さらにアニータを蔑むようです。

「ふーん。君に夜は似合わないね」
「それは……私が鳥だからかしら」

 言ってしまってから、アニータはまた恥ずかしくなって頭を抑えたくなりました。この地方では有名な大衆演劇の一節なのですが、その劇は西の大国の王族が見るような立派なものではありません。「王子」を前に、アニータはあまりにも陳腐でした。しかし――。

「昼は自由に飛び回るのに、夜には羽を腐らすしかない「大鷲」か。舞台では自由で気高いのに夜に縛られている、確かに君みたいだ」

 そう言って微笑む気遣いが嬉しくて、アニータの頬は自然と綻びます。

「大鷲をご存知なのね」
「こっちに来る前にいろいろ調べたんだ。こっちの楽士と遊びたくてさ。そうだ、君、歌ってよ」
「え?」

 アレクシウス王子はソファを飛び越えて、壁に立てかけてあった楽器を手に取りました。膝に乗る程度の大きさで、穴のあいた丸い胴体に数本弦が張ってあります。この辺りでは見かけない楽器です。

「最後の曲が好きだな。君にも似合う」

 彼は数度弦を爪弾いて、音を合わせたようです。この薄暗い中でも彼の手つきは迷いがなく、弾き慣れているのがすぐにわかりました。

「ほら、大鷲の体が落ちて、魂だけが夜の星空に飛んでいくところ」
「……星の大洋」
「それだ」

 アレクシウス王子はすでに、星屑が零れ落ちるような美しい旋律を奏で始めています。

「君の歌ほどうまくないけど、我慢してね」

 それもほとんど謙遜です。アニータの仲間たちの演奏と比べでも、彼の腕は遜色ありません。アニータは固まった喉を両手で挟んでさすってから、足を踏ん張り、彼の音に合わせて歌を乗せました。
 こうして月夜に浮かぶようにしてたった二つの旋律を合わせていると、アニータは不思議な気持ちになりました。大嫌いな夜が、少しでも長く続きますように、この歌が終わりませんように、そう願っている自分が信じられません。
 彼女は夜を憎んできました。ごわつく安物のベッドと異臭を放つものの間に挟まれて、消えていく星を一つひとつ待つ夜も、両親の口論から逃れて一人ぼっちで過ごしていた故郷の夜も。そう言えば、あの丘からは零れそうな、消えそうにもない星の海が見えていました。誰もいない暗い草原を照らすのは星影と遠い隣人の家から漏れる明かりだけで、そこには暖かい手も優しい笑顔もないけれど、べたつく嫌らしい手も拾い子を責める怒鳴り声もありません。ただ一緒に泣いてくれる星々が一晩中寄り添っていてくれました。でも今夜の星ばかりは到底掴めそうもなく、儚く沈んでいってしまう……。
 不意に、扉をたたく音が二人を邪魔しました。

「アレクシウス様」

 いつの間にか姿の見えなかった従者の男が扉をわずかに開き、中をのぞき込んでいます。

「頃合いです」
「ありがとう、ラモン」

 アレクシウス王子はおもむろに楽器を置くと立ち上がり、アニータの前までやって来ました。ごまかしきれない終わりの気配に、アニータは顔を背けます。

「アニータ。あいつが外まで案内する」

 なぜ、幸せな時間は続かないのでしょう。ステージの上の栄光も、ノアとの時間も、今このときも。なぜ彼女を置いて、見えなくなってしまうのでしょう。彼女はまた真っ暗な夜を、一人で耐えなくてはいけません。

「ノアの家はわかるよね?」

 思いもしないところから出てきた彼の名前に、アニータはアレクシウス王子を振り返りました。

「あの子をご存知でいらっしゃるの?」
「うん、今日初めて会ったんだけどね」
「あの子マンナ・ピアに越してきたんですか?」
「丘の上の家にいるよ、友達と一緒に」

 王子はそう言ってにっこり笑いました。その笑顔が、またアニータを孤独にします。
 丘の上の孤独なノア。お互い相手だけが友達だと思っていました。しかし長い時間をかけて、ノアには新しい友人ができたようです。でもアニータに残されたのは、この薄汚れた仕事だけ。

「ノアが待ってる。君のことを心配していたよ、今の仕事を辞めたがってるんじゃないかって」

 それはアモーロートで会ったときのことを覚えていてくれたからでしょうか? あんなふうに皮肉で追い返したのに、ノアはずっと自分のことを考えてくれていたのでしょうか。昔のままのくりっとしたエメラルドの瞳に、真一文字に引いた唇。いつもどこか無表情だった彼は今も変わらないのでしょうか?
 そんなはずありません。彼だってもう立派な大人の年齢。踊り子を買う客たちとなんら変わらないはずです。アニータはそんな考え方をしてしまう自分を哀れに思いました。

「そりゃ、こんな仕事を好む女なんかいませんわ……」
「そうだよね、ごめんね?」

 声がかすれてしまったからでしょうか、アレクシウス王子はいたわるようにアニータの手を取って、甲をそっと撫でてくれました。今までに、アニータにこんなに優しく触れた人は初めてです。その控え目な指先はまるで星の光のようでした。踊りを支えるメロディのようでした。アニータははっとして、間近で、アレクシウス王子の瞳をのぞきこみます。そうすると彼女がいつも全力でしがみついてきた、心を貫く冷たい氷の柱まで溶けてしまうようでした。

「私をお召しください……」

 何か思うより先に、言葉がこぼれてしまいました。本当は、大国の王子を思うがままにするための作戦をたくさん用意していました。だけどその全てが実行されるどころか、すっかりアニータの頭の中から消えています。

「それはできないよ、でも」
「後生ですアレクシウス様、どうかお側に置いてください!」

 こめかみの辺りが、焼き切れてしまいそうでした。アニータは眉を寄せて懸命に、アレクシウス王子の手にすがりつきます。

「お邪魔になるようなことは一切いたしません。必ずご満足いただける芸者になりますし、決して分を過ぎるような真似は」
「そういう問題じゃなくて」

 アレクシウス王子はなだめるように、アニータの髪を撫でました。

「ノアのところへ行きなよ。ね? 心配しなくても、きちんと身請け金なら払うから」

 それはとても親切な言葉に違いないのに、なぜこんなにもアニータを傷つけるのでしょう。アニータは唇を歪めました。

「ノアのところへ行ったって……!」

 胸がつかえて、今にも息が止まりそうでした。アレクシウス王子の端正な顔立ちが、視界でゆらゆら揺れています。

「何になるんです? ノアの家にはステージも照明も客も、何もないじゃありませんか」
「そんなものなくても、歌えるよ。さっきもそうだったろ? 踊るのにだってそんなのはいらないはずだ」

 それはつまり、アレクシウス王子がどうあってもアニータを側に置く気がないということです。アニータは悲しいやら悔しいやらで、なんと言っていいかわかりません。顔が熱くなり、両手がわなわなと震えました。そしてからからに渇いた口でなんとか呟いたのは、自分でも惨めなほどの強がりでした。

「……なんで男って、みんな子供なのかしら」

 アニータはわざと冷たく呟いて、アレクシウス王子の手を払いのけました。

「踊り子をやめてノアの世話になれとおっしゃるの? 乞食か老人みたいに?」

 そしてヒールを鳴らしながら出口に向かうと、ほっそりとした体からは想像もつかない力で、顔に布を巻いた男を突き飛ばします。可哀想に、八つ当たりされた従者は、突かれた胸を押さえて数歩後退りました。

「私たち娼婦にだって、誇りくらいありますのよ。自分の身は芸で立てます」

 捨て台詞を吐いた後、アニータは全力で駆け出しました。あんな生意気なことを言って、嫌な女だと思われたに違いありません。だけど、これがどうやったって変えられないアニータなのです。彼女はまだ暗い夜明け前の空の下に泣きながら飛び出しました。滲んだ星々もみんな、涙をたたえていました。

***

 そんなわけで翌朝、日の出直前の薄明かりの空の下、波打つ草原をかき分けて丘を登ってきたのはアッシュ一人でした。一晩中眠れず小屋の窓から空を見上げていたノアは、揺れる金髪一つを見つけた瞬間に全てがわかってしまって、きつく唇を結び、彼の到着を待ちました。

「ごめんねノア、うまくいかなかったよ」
「そうか」
「彼女には彼女の立場がある。それに、彼女なりの夢がある」

 アッシュがいろいろと言って慰めてくれるのが余計に情けなくて、ノアはうつむいて、古びた窓の木枠を握りしめます。

「そうだな……」
「君の名前を聞いて、喜んでた」
「本当か?」

 にっこり微笑んで頷くアッシュを覗き込むと、ノアも自然と笑顔になりました。こんな笑顔で嘘をつく人間はいないでしょう。

「そうか」
「いつか本当に、アニータを迎えにいけるといいな」
「あれが、完成したらな」

 そう言って親指で地下を指さしてから、ノアははっと、昨晩のチェンの言葉を思い出しました。何でもいいからアッシュに船のことは秘密だ、そう言われていたのです。しかし気まずそうにしているノアを問い詰めることもなく、アッシュは小屋に入ろうともしません。

「チェンはいるかな」
「まだ下で寝ている」
「起こしてきてもらえる?」
「さっき寝たばかりだ」

 夜更けまで話し相手をさせていた引け目もあって、ノアは彼を起こすつもりはありませんでした。アッシュの方も急いでいるらしく、食い下がることはありません。

「じゃあ、これを預かってくれ」

 アッシュは指から金の指輪を取ると、ノアに握らせました。

「いいか、これを持ってこの辺りで一番大きな街に行くんだ。質屋に持って行って、言われた値段の十倍をふっかけて。相手は恐らく七、八割の額を提示してくるから、それに応じていい」
「待て。何のことだ?」
「メモにも書いてあるから、これをチェンに渡して。彼ならたぶんわかるから」

 早口にそう言って紙を押しつけてくるアッシュに馬鹿にされている気がして、ノアは口をとがらせました。

「昼間に自分で渡せ」
「僕は朝には叔父上と出発しなきゃならないから」
「そうか。大変だな、ガクシってやつは」
「本当に。もっとゆっくりしたかったな」

 その頃には、朝の光が遠い稜線からじわじわと空に溢れかけていました。アッシュはじっとノアを見つめて、軽く肩を叩きます。

「じゃあ、引き続き頑張ってくれよ、空飛ぶ船造り!」
「なに?」

 それは秘密なはずなのに。ノアは自分の失言のせいだと決めつけ青ざめました。対照的に、アッシュは眩しいまでの笑顔です。

「乗りに来るから! 指輪はほんの前金だよ」

 言い訳の隙も与えず、アッシュは朝の静かな丘を駆け下りて行きます。取り残されたノアは一人、遠のいていく金色の尻尾を呆然と見送るのでした。

【アラゴンの使者】了



[29852] 旅立ちの直前に
Name: まねまね◆44c3a61e ID:67893c92
Date: 2011/09/21 14:40

「なあロージー。近頃はまた丘が騒がしくなって来たな」
「そうね」

 昼食には遅く、夕食には早すぎる時間帯。食事処アナイダには給仕のロージーと、客の男がカウンターにいるだけでした。他のテーブル席はクロスを張り替え、すでに次の客を迎えるための支度が整っています。店の女主人はすでに厨房で夕食の仕込みを始めていました。ロージーにしても、早く母親の手伝いに行きたいと思っているのですが。

「俺、思うんだけどさ。あの家にはやっぱ誰か住んでるんじゃないかな?」
「そうかしら」
「そうだよ、例えば昔の発明家の幽霊とか、あとは――」

 この調子で、男は食事を終える様子がありません。ですが彼が何をするためにここへ来ているか薄々気づいているロージーには、どうしても彼を邪険に扱うことができないのです。彼女は心の中でだけ深くため息をついて、笑顔で相づちを打つのでした。

「あとは?」
「魔法使いが住んでるのかも」
「魔法使い、ねぇ」

 あの少年たちが魔法使いだったなら。ロージーは綺麗なお姫様にしてもらいたいものだと思いました。あの小高い静かな丘に君臨するお姫様です。隣には金髪の少年が立っていればいいなと思ってから、彼には王子らしい格好は似合わないことに気づいて、ロージーはこぼれた笑みを丸いお盆でそっと隠してしまいました。
 そんな噂の二人が久しぶりにアナイダに姿を現したのはちょうどその日の夜、閉店間近の頃で、ロージーはいつもの通り軽快なリズムでスプーンを磨いていました。

「あら。今夜は飛ばないの? 魔法使いさんたち」
「……魔法使い?」

 チェンは眉を寄せて不思議そうにロージーを見下ろしています。ノアは何も言わずカウンター席に座り、そのままテーブルに突っ伏してしまいました。二人は揃ってあちこち擦り傷や青あざだらけで、正に満身創痍といった風です。大の男が二人して、空飛ぶ船の実験で怪我だらけなんて。ロージーは呆れて怒る気にもなれません。

「何でもない。それより、ご飯食べたら消毒しなきゃ」
「そだな」

 チェンも席につくと、カウンターの裏から毛足の長い一匹の白猫がのそりと現れました。近頃外出の多い前主人に見捨てられた、可哀想な元フランツです。彼は以前よりさらに大きくなった体をたぷたぷ揺らしながら、ノアの足をよじ登り、膝に乗ろうともがいています。

「よかったね、閣下。ノアが来てくれて」
「閣下って、こいつのこと?」
「そうなの。すっかり家の主人気取りで、母さんより態度がでかいんだから」

 ロージーはひとまずスプーン磨きを止めて、厨房に引っ込みました。二人が来るとは思っていなかったので、残り物程度しかありません。しかし食べ物の質について二人が文句を言った試しがないので、彼女は気にせずそれらを鍋に戻し暖め直しました。

「その様子だと、なかなかうまくいかないみたいね」

 湯気を上げる皿とともにカウンターへ戻ると、ノアはもう体を起こして膝に大きな白猫を乗せていました。疲れきった青白い頬には斜めに擦ったような傷がかさぶたになって残っています。

「そうなんだよ」

 二の腕のかさぶたが気になるらしくいじりながら、チェンは苦い顔をしています。

「ガタがきてるパーツは作り直したし、翼も大きくしてみたんだけど。でもやっぱ飛ばないんだよな」

 皿を受け取ったチェンはお得意の小難しいウンチクを一人ぼやき始め、ノアの方は寝不足らしく、どんよりとクマで腫れた目をして無心にスプーンを動かしています。
 アラゴンの大使一団が去った翌日から、この二人の魔法使いは姿を消していました。そのうち腹を空かせて駆け込んで来るだろうとロージーは高を括っていましたが、二人はいつまで経っても戻らず、南の丘からは懐かしい騒音が響くようになったのです。二人がたまに話してくれる夢のような船に何か進展があったことは察しがつきますが、それにしても、事前に説明くらいあってもいいはずです。仲間外れにされたようで、ロージーはおもしろくありません。ただ無傷ではないにしろ二人は戻って来ました。それにチェンの真剣な表情を見ていると、ロージーには恨み言などどうでも良くなってしまうのです。
 空飛ぶ魔法の船は完成しないし、二人をどこにも連れて行ったりしない。彼女はずっとそう信じていましたから。
 ――話が反れてしまいましたね。ちょっと、彼女のことを思い出したもので。アニータのように人目を引くタイプではありませんでしたが、ロージーも、とても魅力的な少女でした。いつだってきらきらと笑っていて、アコーラの日に焼けた土の匂いみたいに誰にでも親しげで。悲しんだり怒ったりしたとこなんか誰も見たことありませんでしたよ。今にして思えば、あれは彼女なりの健気な強がりだったんですねぇ……。
 え? ああそうだ、船の話ね。どこまで話しましたっけ。そうそう、ノアとチェンの二人がアッシュ王子の指輪で大儲けしたところだ。確かにお金は手に入ったのですが、二人はそれでも行き詰まっていたのです。

「ま、そりゃそうか」

 昨晩も新たな傷を追った船に寄りかかり、チェンは足元に積んだ研究日誌の一冊を広げました。解読不能の公式や意味不明の文章に付けた付箋紙は、いまだに山のように張り付いたままです。

「何が駄目なのかもわかんねぇままじゃな。どこ変えたって飛ぶわけないんだよな」

 アッシュが高価すぎる前金を置いて行ったあの日。シラ・ピアで指輪を換金し、思いつく限りの良材を購入して戻って来たノアとチェンは、すぐに船の修繕に取りかかりました。今まで何度も練ってきた作業は一週間もあれば十分に終わり、連日実験的に丘を滑らせてみたのですが、船は飛び上がる気配もありません。
 昨夜は向かい風の強い状態で、ほんの少し船体が持ち上がる感覚がありました。しかし直後バランスを失い、つんのめる形で丘の斜面に激突し、船首大破、ついでにノアとチェンも傷だらけというわけです。

「チェン、大丈夫そうだ」

 資材の残りを確認しにいっていたノアが戻りました。体も小さくどこか頼りなかった彼は、近頃の大工仕事でずいぶんたくましくなりました。大金が入ってから、彼は牧場番を辞めてチェンの手伝いをしていたのです。

「前面の修復分くらいなら、資材は余ってる。だが竜骨はどうする? あんな馬鹿でかい木材、そうそうないぞ」
「だよなぁ……北の静かの森にでも行かなきゃ無理だろうな」

 船の主柱となる竜骨はアララト家の長辺より長く、太さはチェンがなんとか一抱えできる程度です。全体を一本の木から削りだしてありますが、乾燥地帯のアコーラにはそんな巨大な木は生えません。

「静かの森ってとこにあるんなら、取りに行けばいいじゃないか」

 ノアは平然とそんなことを言いますが、それだけの大木をどうやって運ぶつもりなのでしょうか。それに問題はそれだけではありません。

「お前、本当に何にも知らないんだな」
「そういう奴が一人はいないと、何かと不便だからな」
「えっ?」

 そういう誰かの事情があるのか、父親の育児放棄が原因なのかはさておき、あなたはご存知でしょうか? ええそうです。先進大陸の東に大きく広がる深い暗闇。生き物の気配さえない静寂を抱き、先進大陸で人が栄えていく様を横目にしてきたあの森です。そこにはいにしえから朽ちることない、水分量の低い巨木が群生してるという噂でした。
 噂でしかない、というのも、チェンたちの暮らすアコーラから静かの森へ入る手段がないためです。はるか北の彼方の森とアコーラは東西に走る険しい山脈で阻まれていましたし、なんとか人が通り抜けできる峰の唯一の谷間には信心深い人々の作る集落があり、旅人を通さないというのです。

「先進大陸の東か」

 チェンの説明を聞いて、ノアは唸りました。

「隣接してる国は資源取り放題だな」
「それがそうもいかねぇんだよ」

 結んだタオルの縁から落ちてくる金髪をかきあげながら、チェンは薄暗い部屋をわずかに照らすランプに視線を預けました。
 幼い頃に今は亡き曾祖母が話してくれた、光の射さない深い森。そこには空を貫く矛のような木々が隙間なく生え、年中暗黒がわだかまっているのだそうです。そんな静かの森にまつわるおとぎ話は、年老いて枯れた肌や呆けた眼の曾祖母のイメージと相まって、神秘的で底知れない、恐ろしげなものでした。

「静かの森は、アールヴって種族に守られているんだ」

 黒の民とも呼ばれるその一族は、うねるように絡まる木の根や鬱蒼と重なり合う葉の陰でひっそりと生きているそうです。普段ほとんど動かないアーヴルたちはめったに食事をせず、ただ、空腹を感じたときには――彼らは森を操り、人を食べるのです。
 かつて先進大陸の東端に栄えたの国々の名前を聞いたことがありますか? 当時はフウイヌムと呼ばれた国があったのですが、もう数十年も前に静かの森に呑まれてしまいました。その前にはもっと東にあった別の国が、そしてもっと昔にはさらに東にあった国が、静かの森に呑まれていったのです。今でも静かの森の入口付近には、まがまがしくねじれた根や枝に抱き込まれた人間の都市が、入れ物だけそのまま残っています。
 そんなおぞましい森ですから、チェンとノアが二人で行けるような場所ではありません。

「森にいい思い出はないし、行かないほうがよさそうだ」

 チェンの話を聞いているそばから、ノアは普段以上に青ざめていきました。どうやら恐ろしさが伝わったらしいのでチェンは満足げに頷きます。

「だろ」
「他に竜骨になりそうな木が生えてる場所はないのか?」
「うーん」

 森ではなく、大きな木が生えてるところ。そんなもの想像しようがありません。チェンはちょっと考えてから、ふと不思議に思いました。アコーラの南に広がる海には、本物の船が行き交っているとされます。それらの竜骨は一体どこで手に入れているのでしょう?

「船のことは、船大工に聞くか」
「心当たりがあるのか?」
「いや、全然ないけど」

 だけど正直なところ、チェンはこの地下での生活に飽き飽きしていたところでした。ここへ初めて来たころには、摩訶不思議なものばかりで毎日が興奮の連続でした。でも今では難解すぎる資料に、年中のしかかってくる暗闇に、すっかり嫌気がさしていたのです。そしてアナイダへ気晴らしに逃げてしまう自分にも。チェンには何か、変化が必要でした。キンバーライトで体験した命の危機でさえ、今は惜しく思えるのです。

「南の海まで行けば、船作ってる奴なんていくらでもいるはずだ」
「なるほど、作ってもらうわけか」
「なわけねぇだろ」

 お気楽なノアの額を軽く小突くと、彼は眉間にシワを寄せてチェンを睨み上げました。

「なんでだ」
「あのな、竜骨なんて船の命だぞ! 他人なんかに作られてたまるか」
「でも俺たちじゃどうしようもないないだろ」
「ああ、今はまだな。だが知らないことは習えばいいんだ。ノアだって、字を読むこともできなかったのに、今じゃ書くこともできる」
「まあ……それもそうだが」

 どうやらノアはチェンに賛成ではないようでした。いつものように二つ返事で「そうしよう」と言ってくれると思っていたのですが、ノアは、眉根を寄せて緑の瞳を泳がせています。

「なんだよ、なんか文句でもあるのか?」
「文句ってほどじゃないが」

 しばらくの間まなこをキョロキョロさせてから、ノアは続けます。

「竜骨の作り方の勉強なんて、どのくらいかかるんだ?」
「そりゃあ……」

 痛いところを突かれて、チェンは口ごもりました。一年や二年では到底無理でしょう。そもそも、よそ者であるノアやチェンを弟子として受け入れてくれる大工がいるかどうかもわかりません。
 思いつきの発言にどう説得力をつけようかと悩むチェンに、ノアは慌てて付け加えます。

「いや、いいんだ。時間はいくらかかってもいいんだが……その……」

 ノアはまた一人でもごもごし始めて、黙り込んでしまいます。ノアはいつもそうでした。自分の言いたいことを言うのに、長いこと時間がかかってしまうのです。チェンは少し苛立ちながらも、ノアを待ちました。

「そんなに長い間遠くの村にいたら、家族と会えなくなるぞ」
「えっ?」

 チェンは聞き返しました。

「なんでオレがいまさら、家族に会わなきゃいけないんだよ?」

 もうすでに家を出てから三年近くが経っています。その間、チェンは一度だって家族に会っていません。今後もそのつもりです。

「前にも言ったろ。オレ勘当されたんだ。家にはもう帰れないし、そのつもりもねぇよ」
「聞いた。でもそれは喧嘩してるからだろう」

 ノアは落ち着かないらしく、短い前髪をかいて身をすくめています。

「今のまま遠くへ行ったら、仲直りするのも一苦労だ」
「だから、仲直りとか、できないんだって」

 チェンはノアを遮ぎるように言いました。ノアの態度を見ていると自分まで気恥ずかしくなってきて、ついつい口調もきつくなってしまいます。

「だいたい、オレはもう独り立ちする年なんだから、いつまでも親と仲良しやってらんねぇんだよ」
「しかし、せっかく両親が近くにいるのにだな――」
「ノアには関係ねぇだろ。ただでさえなんもわかっちゃいないんだ。お前は自分と船のことだけ考えてろよ」
「すまん。でも」

 珍しく言い募ってくるノアが鬱陶しくて、チェンは大きな声を出してしまいました。

「ノアが行かなくてもオレは行くからな! お前がいなくたって、オレ一人いれば十分なんだ」

 捨て台詞を吐くなり、チェンは頭のタオルを引きはがして逃げるように倉庫を後にしました。地上階に上がると水浴び用のバケツを手に水瓶へ向かいます。顔がかあっと熱くなって、黙っていられなくなったのです。
 ずっと考えないようにしていた家族の話。不意打ちにされて、つい乱暴な言い方で遮ってしまいました。謝らないと、冷たい水をかぶりながらチェンはそう思いました。しかしなんと切り出したものでしょう。水を使い切り体を拭きながら頭を巡らしたものの、なかなか気の利いた言い回しが思い付きません。
 これまでいい子の長男として生きてきたチェンは、誰かに謝った記憶がありません。むしろやんちゃな弟たちを叱り、謝られる立場でした。そういえば弟たちは、たいていばつが悪そうに口元を強張らせ、上目遣いでチェンを覗き込んで「ごめんなさい」と言っていました。しかしそれを真似ようにも、ノアはチェンよりずっと背が低いのです。
 上から見下ろして謝ったところで誠意が伝わるでしょうか。微妙だなと悩みながらも、チェンは服を着て隠し階段のフタを開けました。するとちょうど階段を上がりかけたノアと視線がぶつかります。この高低差はどうししようもありません。

「ノア……」

 チェンはそれ以上言葉が続きませんでした。ただただノアを見つめていると、ノアは数度瞬きして、髪をかきながらあらぬ方へ視線をさ迷わせます。これは彼が言葉を探しているときの癖でした。

「南の村。チェンが行くなら、俺もついていく。邪魔なだけかもしれんが」

 ノアは唇を軽くとがらせて、上目遣いでチェンを探っているようでした。間違いなく、さっきのチェンの言葉が原因でしょう。チェンは慌てて、明るい調子で言いました。

「ばっか、当たり前だろ!」

 するとノアの表情は一気に和らいで、固く結ばれていた唇が緩みます。チェンの方もほっとして、ようやく言葉が出るようになりました。

「あれはノアの親父さんたちの大事な船だ。お前が手伝ってくた方が、船だって嬉しいに決まってんだろ」
「そ、そうか」
「そうだよ」

 チェンがいつもの調子で笑うと、ノアもようやく安心したようでした。

「じゃ、早速出かける支度しようぜ! 着替えと日記と筆記用具と……」
「ここの資料はいらないのか?」
「万一無くしたら大変だろ。ここはそのままにしとく。そうだ、誰が来るかわからないからな。出かける前にこの階段も完全に塞いどくか」

 チェンは階段に飛び込むと、フタを閉めてノアの隣まで降りて行きました。

「それに、金庫の金はどうすっかな。持ち歩くには多すぎるよなぁ」
「かといって目を離すのも不安だ」
 二人はそんな相談をしながら、丘を離れる準備を始めたのでした。

***

「あら珍しい。一人なの?」

 チェンがアナイダののれんをくぐると、カウンターに立っているロージーがそう声をかけてきました。営業時間は避けてわざわざ夕方の仕込み中を狙って来たのに、カウンターの席には男が一人腰掛けています。

「ああ……ノアは、なんか作業中だから」
「そう。何か食べる?」
「うん」

 ロージーは愛想よく微笑むと厨房へ下がりました。カウンターの客がチェンを振り返ります。彼はしばらく何か言いたそうな顔でチェンを眺めていました。

「ロージーの友達?」
「あ、オレはチェンって言うんだ」
「ふうん」

 チェンは答えて数歩近づきましたが、男はチェンのことなどどうでもいいらしく、そっぽを向いてカウンターに肘をつきました。
 どうやらあまり友好的なタイプではなさそうです。チェンは踏み出しかけた足を止めました。手持ち無沙汰で仕方なく、チェンはズボンのポケットに手を突っ込んで辺りを見回します。以前彼が手直ししたテーブルや戸棚の、なんと白々しいことでしょう。見知らぬ客と一緒になって、チェンのことなど知らん顔を決め込んでいます。
 チェンが落ち着かずにきょろきょろしていると、カウンターの影からぬうと白いものが現れました。モップみたいに長い毛を生やしたフランツです。まるまると太った大きな猫は、居心地の悪さを感じていたチェンにはまるで襟付きの高貴な衣装をまとった貴公子のように輝いて見えました。

「おっ、フランツ閣下じゃねぇか!」

 チェンの声が届いたのでしょう、立派な毛並みの猫は真ん丸な瞳を元飼い主へ向けます。金色の双眸の、なんと愛らしいことでしょう! 感動の再会を喜び、チェンはフランツに歩みよりました。しかし猫とはつれないものです。破顔したチェンを鼻で笑うかのようにつんと顔を背け、フランツは体の割には華麗な足取りでととっとカウンターの男に駆け寄り、膝に飛び乗ってしまいました。
 今やチェンの居場所は完全にありません。いたたまれず顔をしかめていると、ロージーが明るい声が響きます。

「チェン、お待たせ!」
「お、わりぃな」

 シチューをいっぱいに盛った深皿を手にして微笑む彼女は、まるで大輪の花のようです。ロージーが見知らぬ男の隣の席に皿を置いたため、チェンは仕方なくカウンターに同席することにしました。椅子を引くと、男は露骨に眉を寄せてチェンを睨みつけます。

「ロージー、誰こいつ」
「チェンっていうの。ウト・ピアからたまに遊びにきてくれるのよ」

 二人がそんな話を始めたので、チェンは食事に手をつけました。名前も知らない男と話すロージーは妙によそよそしい気がして、話に加わる気持ちになれません。時々横目で盗み見ると、陽気に笑う彼女の厚い唇で、真っ白な八重歯がきらきらしています。きれいだなと思うほど彼女が憎らしくなってしまうのは、なぜなのでしょう。
 歯痒いような不愉快な気持ちを抱えて、チェンはひたすらスプーンを口へ運びました。すぐ隣でおしゃべりする二人の会話は聞こえてくるのに、内容はさっぱり頭に入ってきません。

「やだヤキモチ焼いちゃって。チェンは兄さんみたいなもんなんだから!」

 そんな言葉だけが、チェンの頭に一際高く響きました。遅い午後の日差しが差し込むアナイダ。使い古したテーブル。壁に吊された鮮やな柄の織物。シチューの具材。それらの上に、急に水色の絵の具が染みたみたいだとチェンは思いました。彼の視界に映るすべてのものが、急に淋しげにうつむいたようでした。
 チェンは歯車で動くみたいにして、ひたすらシチューを平らげました。それからロージーの横顔に「ありがとう」と言いアナイダを後にしました。

「また来てね、ノアも一緒に!」

 後ろから聞こえてきた声に、チェンはなんと答えることができたでしょう。もうしばらく来ないよ、なんて本当のことを言うほど意地悪ではないし、無理に嘘をつく意味もありません。無言で出ていく以外、チェンにできたことはないはずです。
 暮れていく陽を浴びながら帰路につくチェンは、すっかり見慣れた景色をぼんやりと眺めました。長い時間をかけて人々が踏み固めてきた土の道は、村の中心から外れるにつれて荒野と見分けがつかなくなっていきます。突き当たりに立てられた背の低い柵。ここを何度、ノアと越えてきたことでしょう。その時々に船の話をしたり、アニータの話をしたり。読み書きや算数の説明をするとノアはいつも嫌そうな顔をしていました。空にはいつも満天の星が輝いていて、でもそれはチェンには当たり前のことで、どんな様子だったかを思い出すことはありませんでした。
 平坦な荒れ地を一歩いっぽ進んでいたチェンは、ふと足を止めました。ずっと遠くの地平線に、緑の丘がぽこりと頭を出しているのが見えます。この景色も、今日が最後。でも当たり前すぎて、きっとぼやけてしまうのでしょう。オレンジ色に溶けていく大きな夕日。赤茶けた地面の小さな凹凸に差し込む真っ黒な影は複雑な模様の織物みたいで、ストールにしてロージーに贈りたいくらいでした。明るい褐色の瞳の彼女には、さぞ似合ったことでしょう。
 チェンはしばらく足を止めて、ロージーのあの笑顔をきちんと見つめなかったことを後悔しました。目尻の垂れた大きな眼差しも、この大地の色に溶けて形をなくしてしまうのでしょうか。だけどもう丘へ戻らなくては、南へ向かう最終の乗り合い車に間に合いません。
 永遠に会えないわけじゃないから。チェンはそう考えて、再び丘へ向けて歩きはじめました。慣れた道はどんどん過ぎて、陽はどんどん落ちていって、チェンが緑の丘に戻る頃には、空に太陽の光はありませんでした。薄く引き延ばされたような雲が暗い水色の空に張り付いて、悲しげにかすれています。もうそろそろ、ノアは部屋の片付けを終えているでしょう。
 ふらふらとアララト家の裏手を登っていくチェンの耳に、微かな呟きが聞こえました。ノアの声です。チェンは立ち止まりました。草をさらう風に紛れて、囁くような独り言。耳を澄ますと、だいたいのところは聞き取れてしまいました。

「俺、この家離れるんだ」

 ノアが誰に向かって話しているのか、チェンにはわかりました。アララト家の裏、丈の短い青草が生い茂る一角に、小石が四角く並べられている場所があります。ノアはたまに、その場所をじっと見下ろしていることがありました。

「本当は怖いんだ。父さんのそばを離れたくない。でもアニータのときも駄目だった。俺はチェンについていく。あいつのおかげで、俺今じゃ字も読めるし計算もできるんだ。ロージーやアッシュって友達もできた。俺は、あいつといるとなんでもできる気がしてくる」

 姿の見えないノアがどんな顔でそんな大袈裟なことを言っているのか。チェンにはわかりました。唇の両端をわずかに持ち上げて、真っ白な頬を上気させて。ノアはきっと微笑んでいるのです。

「父さんたちの船、俺が飛ばすよ。アニータも迎えに行く。乗ってくれないかもしれないけど」

 聞いている方が気恥ずかしくなるようなノアの素直さは、チェンにとっては時に煩わしいものでありました。でもそのまっすぐな姿勢を羨ましく思うこともあったのです。

「でも、俺には他に目標がないから」

 チェンの目標はなんだったのでしょう。今日、旅立ちの直前にわざわざ北のマンナ・ピアまで行った目的は?
 ウト・ピアの時間屋が十七時の鐘を打つまで、チェンは立ち止まったまま動けませんでした。

【旅立ちの直前に】了


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