そこのあなた、ちょっとこちらへいらっしゃい。そう邪険になさらずに。一つこの年寄りの話をお聞きなさい。さあさあ、ここへ座って。涙をお拭きなさいな。
ねえ若いお方。幸せでない時間に意味なんてないと思います? 満たされない、思い通りにならない人生なんて、必要ないと思います? 後悔ばかりの過去なんて捨ててしまいたいと、そう思いますか? お顔にそう書いてありますよ、可哀相に。絶望に疲れきって光なんてどこにもない。そんな表情ですね。でも今にきっと気づきますよ。流した涙の一滴や押し殺した嗚咽の息、噛み締めた苦渋の味。振り返ってみれば、どれも色の深い宝石のように輝いているものなのです。群青の夜に散りばめられた、孤独な星々みたいに。――と言っても、この街の夜空に星は見えませんけどね。
え? 見える?
いいえ、たったこれだけの星。見えていないも同然です。本当の空にはもっとたくさんの星があるんですよ。眩し過ぎる街明かりに吹き消され、見えなくなっているだけ。
ウト・ピア村の丘からは、それはそれはたくさんの美しい星が見えました。本当にささやかな感傷や愁いの星まで、澄んだ空気を震わすように、淋しげに、細い光を放って泣いていました。できるならまたこの目で見たいものです。 三日月渓谷を越え白の大平原を渡り、あの赤土で覆われた大地を再び踏むことができるなら……。
そうだ。一つ昔話を聞かせましょう。ウト・ピアの村から始まる、空にまつわる物語を。
***
かつてこの先進大陸にヒトが生まれて以来、その文明は太陽を競って伸びる花々のように芽吹き、急速に増長してきました。
最先端の技術と洗練された文化、複雑に絡み合う人種と乱立する国家。近年まで脈々と受け継がれた野心に隅々までを侵された大陸は、すでに隙間なく人間の支配下に置かれました。
太古に聞こえた小川を流れる言葉や花弁の産声、闇の息遣い、神秘の領域はすべて暴かれ追い立てられてしまいました。奇っ怪かつ巨大な建築物に塗り潰された大地には、もはや深遠なひみつの隠れ家などはありません。古くから先進大陸に眠っていたひみつは、冒険家によって暴かれた秘境の湖に沈む宝に似ていました。この静かな湖は隅々までたわみない鏡のように空の色を写しつつも水晶のように透明で、底に沈んだ神秘は一見無防備に見えます。ですが一度人がその宝へ手を伸ばそうとしたなら、水面は波打ち泥が巻き上がり、濁った湖の宝は手に入らないどころか、二度と眺めることもできないのです。
そう、伸びてくる人々の手をかい潜り、ひみつは先進大陸の外へ逃げ出しました。
大陸の東に覆いかぶさる黒の大森林の、海よりも深い静けさを横目に。時折爆発する赤の山脈の、溶岩の雪崩のような怒りを縫って。灼熱の太陽を照り返す、真っ白な砂の平原をよぎって。分厚い雲を突き抜けて。
そうしてたどり着いたのが、赤土で覆われたアコーラ王国でした。その辺境の村ウト・ピアは、昔に滅びた民族の言葉で「どこにもない場所」の意味です。ひみつが姿を隠すには縁起の良い名前だと思いませんか? そしてこの村の北には、これもまたひみつの番人にはピッタリの丘がありました。
日当たりのよいその丘はなだらかで、土壌の痩せたアコーラには珍しく植物に覆われているのです。時折吹き抜ける風が丈の低い若草を揺らすと、まるでさざ波のようにきらきらと輝きました。そしててっぺんには赤い屋根とベージュの土壁の家が建っていて、シェーラという娘が大家族と共に住んでいました。
シェーラはこの地方では一般的な亜麻色の髪と褐色の肌をした、奔放で気立ての良い女だったそうです。でもやせた畑を耕すことも、複雑な機織り機を扱うことも大嫌いで、彼女はいつも家族の目を盗んで仕事を抜け出していました。
そしてスラリと長い足で丘を駆け降りて行くのです。母親が大声で名前を呼んだって、足の早いシェーラには届きません。彼女が走れば辺りの草は風がなでたようにひるがえり、みずみずしい緑は太陽の光を照り返し小川のように輝きます。
「ごめんね母さん。でもうちの中は、私には少し退屈なの!」
丘の上の小屋へ向かってそう叫ぶと、シェーラは村の西の外れにある、今にも崩れそうなあばら家へ飛んで行くのです。 そこは柱も土台もなく、ただ土を固めただけの壁に藁をふいただけの掘っ建て小屋です。入口の白木戸は蝶番が外れかけていて、いつもきいきいと揺れていました。
シェーラはその扉を勢いよく開けて、中へ飛び込みました。
「おじいさん!」
「おお、シェーラ」
こじんまりとした釜戸と質素なテーブル、椅子が二脚あるだけの小屋には、一人の老人が住んでいました。
彼の金髪は色褪せてほとんど白に近く、いつも脂でべたべたしていました。それにしわだらけの赤土色の肌はヒビだらけで、古い土壁のようです。でも落ち窪んだ二重の大きな目やまあるく上気した赤い頬には、いつも親しげな笑顔が浮かんでいました。
彼は小屋へ入ってきたシェーラを歓迎するように、椅子から立ち上がり両手を広げて見せました。
「今日も家を抜け出してきたのか。悪い子だ」
「いいの。うちにはたくさんの兄弟姉妹がいるもの。でもおじいさんには、私一人きり!」
そう言って、シェーラは毛穴の開ききった老人の頬に口づけしました。老人は大きな口を横に引いてはにかむと、再び椅子に座ります。
「いつも気遣ってくれてありがとう。だが、このままでは君は家族ののけ者になってしまう」
「もう嫌われ者よ」
屈託なく笑いながら、シェーラは丸椅子の上であぐらをかき、長い金髪をかき揚げました。
「二十にもなって嫁にも行けず、働きもしないんだもの。みんな最近じゃ呆れてなんにも言ってこないんだから」
「君ほどの美人に貰い手が付かないなんてねぇ。シェーラ、この村の若いもんの趣味は分からないよ」
そう言うこの老人は、元々ウト・ピアの住人ではありません。彼はある日突然やって来た、アモーロート出身の旅人を名乗っていました。
アモーロートとは、アコーラの最西に位置する巨大な城下街です。 同時に「地平の大門」に最も近い町でもあります。「地平の大門」は、アコーラをその西に広がる砂漠から守るための黒鉄の防壁です。砂漠に住む種族があまりに強力なため、昔から近隣国が共同で警備していました。そのため外国人が多く、交易も盛んな大都市なのです。
ウト・ピアのような田舎に生まれ育ったシェーラにとって、アモーロートのような場所はとても高貴なように思われるのでした。きっとそこでは皆様々な服を着て、様々な食べ物を味わい、様々な話題を毎日楽しむことができるのでしょう。村人みんなが同じような麻の服に身を包み、毎日ツルイモとウシばかり食べているウト・ピアとはきっと大違いなはずです。
そんなまだ見ぬものへの憧れから、シェーラは毎日この老人の元を訪ねているのでした。
「私、お嫁に行くつもりなんかないわ。それよりおじいさん、今日は何を教えてくれる?」
「そうさなぁ。北の黒の森の話もしたし、南に広がる海の話もしたな。西の果てにあった滅びた文明の話なんか、どうだい」
「それ、三回目よ?」
「そうか。じゃあ、今も続く先進大陸の戦争の話は?」
「なんだか退屈そう」
「難しい年頃になってきたのう」
老人はしかし嬉しそうに目を細め、一度背伸びをしました。
「じゃあ、西の大賢者の話でも聞かせようか――」
信じられないかもしれませんが、アコーラ王国には義務教育制度というものがありません。様々の知識を学ぶことができるのは、豊かな家に生まれた子供だけです。貧しい子供たちは親か奉公先の家で生活に必要な知識を学ぶだけ、それがこの国の常識でした。
だけどシェーラはきっと、知りたかったのでしょうね。旗織り機の使い方より、遠い国の暮らしを。茶色いツルイモの育て方より、色とりどりに咲き乱れる花の名前を。質素な料理の作り方より、この世界を形作っているものの正体を。
大地の果てはどこへ向かうのか? 見たこともない海はどんな形をしているのか? 空が何からできているのか? そしてシェーラ自身は?
なぜ生まれ、働き、朽ちて行くのか。この丘のふもとに広がる村で、労働のためだけに生きなければならないのか。
老人の話を聞きながら、シェーラはいつもそんなことを考えていました。こんな退屈な村に閉じ込められたまま、窮屈に老いていくなんて。空想に逃げてしまいたいと思っていました。でも丘の上の家からは、見渡す限り続く大地が見えてしまいます。青い空や白い雲にまで触れてしまいそうなところまで続く、大地という鎖が。
一体、どうやったら逃げられるの?
シェーラがその質問をする前に、老人は亡くなってしまいました。身寄りのない彼の遺体は、引き取り手のない彼の小屋と一緒に燃やされ、黒い煙りになって空へと逃げて行きました。
「ずるいわ。おじいさん」
煙りの行き先を見送ろうと、シェーラは涙を拭い空を見上げました。すると、何かが青空の中で輝いたのです。
一瞬我が目を疑ってシェーラは数度瞬きしました。でもやっぱり、遥か上空で何かが光っているように見えるのです。それは眩しい午前の太陽を照り返し、鮮やかなエメラルド色に輝きながら、緩やかに降下しているようでした。
老人の葬儀のために派遣された村の役人に教えると、彼らのうちの一人は、鳥だと言いました。また別の役人は、流れ星だろうと言いました。シェーラは納得しませんでした。
鼓動が急に踊りだして、胸が締め付けられるように感じました。それは、老人から始めて外界の話を聞いたときのきらめきによく似ていました。
シェーラは風船のように頼りなく進むその萌葱の光を追いました。楽ではありません。川をまたいで、林を越えて、光はどんどん流れて行きます。シェーラは髪が乱れるのも汗が滴るのも気にはしませんでした。ただその光を見失うのが怖かったのです。その瞬間に自分の人生は真っ黒な葬式用のレースを被るのだと、彼女はそう思いました。目の前に長く、霞むほど遠く続く未来に二度と手が届かなくなり、そしてこの堂々巡りの田舎暮らしの中で少しずつ擦り切れながら死んでいく――そう直感したのです。
そして酸欠を起こしたシェーラがめまいに負け、白んでいく意識を手放そうか悩み始めた頃。彼女は東の外れの森へたどり着いていました。地平線へ向かって落ちはじめた陽がうららかに木々に射し込む中、緑の光も森の中へ沈みました。ついに、シェーラは追いついたのです。
しかし喜びや期待を感じることはありませんでした。あまりに体が疲れすぎていたのです。彼女はすっかり傷だらけで、すねまであるスカートの裾もボロボロでした。長い金髪もぼさぼさでした。靴も擦り切れて、底に当てたゴムが片方剥がれかけていました。
シェーラはただ無心に、倒れ込むようにして森へ分け入りました。初夏の葉を透けて、爽やかな緑の光線が彼女を優しく包みます。そしてふらつく足を引きずり華奢な木の幹にしがみつきながら進んで、シェーラはようやく見つけました。
朽ちて倒れた、苔むす古い幹の向こう。小さな泉が空を映して、木陰が途切れたささやかな空き地。そこに広がっていたのは、光沢のあるエメラルド色の大きな布でした。それからバラバラになった、頑丈な繊維で織られたカゴの残骸。正体のよくわからない、宝石みたいに光る何かの破片。
そして、一人の男。彼は泉から少し離れた木陰に大の字になって倒れていていました。その顔は見たことがないほど白く艶やかで、短く刈り込んだ銀色の頭髪と同様、森の中特有の碧い光に照らされて、うっすらと緑を映していました。
――シェーラが誰と出会ったか気になりますか? そのうち分かりますよ。それよりも今はもっと大事な人々についてお話ししましょう。彼女の時代よりもっとずっと後の出来事、あの美しくも忌まわしい丘に引き付けられた子供たちのお話を。
それはシェーラと男の邂逅から数十年後のことです。ウト・ピアで物心着いた頃から大工をしていた少年は、澄み切った青空を颯爽と横切る黒い鳥を見て呟きました。
「そういえば最近見ねぇなぁ、アニータ」
すると、隣で工具をまとめていた父親が振り返りました。
「ああ。なんかずいぶん前に父親に引っ付いていって、アモーロートの市場ではぐれてそれっきりらしいぜ。すげぇ人混みらしいからな、見つからなくても無理はねえ」
当時のガルショー夫妻、つまりアニータの両親は一人娘を失って幽霊か何かのようにしていたのですが、そのうち彼らも村から消えていました。娘を探しに行ったのか、悲しみのあまり果てたのか。誰も知りませんでした。
「あんまり働き者じゃかなかったが……可愛い子だったからなあ、お父さんもお母さんもすっかり肩落としちまって。可哀想になあ」
「本当、可愛かったもんな、アニータ」
目を閉じればぱっと浮かび上がるほど、アニータは鮮やかな少女でした。
肌の色はアコーラ人にはない白っぽい砂色で、まだ幼いのに手足や首は細く長く、小さな顔には大きな瞳と長いまつげが備わっていて、鼻筋も高く唇は野薔薇の色でした。でもそれより何より人目を引いたのは、長く豊かな黒い巻き毛です。彼女が自分の歌に合わせて踊ると、艶やかな髪はそれは楽しそうに弾むのでした。そうそう、アニータは歌ったり踊ったりすることが大好きで、働いている姿なんかほとんど見かけませんでしたね。ウト・ピアでは十歳にもなる子供たちは皆家族を助けるために働くのが普通だったのですが。この少年のようにのように親の仕事を手伝う子もいれば、農家や火薬職人など人手の足らないところへ奉公に出る子もいました。
「しかし、お前今更なんでそんなこと言い出すんだ。チェン、まさかお前、好きだったのか?」
「何言ってんだよ!」
アニータは確かに美しい少女でしたが、あまりに綺麗だったし、それにいつ見かけても風と歌い日差しと踊っていたから、話しかけたこともありません。少年はいつも夜眠る前に、ちょっとだけ後悔したりもしていました。
「俺はあの子と話したこともねぇのに」
「ははっ正解だ、関わらん方がいい。女はうちのかあちゃんみたいに良く働く優しいやつがいいんだ。ま、お前みたいに真っ黒なやつ、あっちから願い下げだろうしな!」
父親は笑いながら木材を肩に抱えて運んで行きました。残されたチェンは、いまさらながら自分の出で立ちを見下ろします。
彼はアコーラでは最も平均的な肌の黒い種族でした。その上、元の色が分からないほどオイルやニスの染み込んだ、ボロボロの作業着を着ています。それだけでも十分過ぎるほど黒いのに、一日の尊い仕事が終わる頃には、泥やら汗やらで頭からつま先まで余計に黒くなってしまうのでした。
「なんだよ。自分だって真っ黒じゃねえか」
ずんずんと力強く去っていく父の背中にそう吐き捨てたものの、チェンは黒く汚れた自分を誇らしく思っているのでした。
***
日が暮れると、チェンは母の沸かした風呂に浸かり、短い金髪と黒い体をいつもより念入りに洗ってみました。しかしいくら擦ってみても彼の肌は赤くなるだけで、アニータのようにはなりません。砂糖を焦がしたような色の腕を見下ろして、チェンはため息をつきました。
アニータ。他の誰とも違った象牙の肌に、すっきりとした輪郭を縁取る真っ黒な巻き毛。口に出さずとも、村の大人たちが彼女を敬遠していたことは明らかでした。同じ年頃の子供たちが陰口を叩いているのを聞いたこともありました。しかしそれでも一向に媚びず折れないアニータの凛とした姿に、チェンはいつもハラハラして、そして目を離すことができなくなっていたのです。だから今でも、ふとしたことで彼女の姿を思い出してしまうのでした。
昼に見かけたあの鳥。自由気ままで誰にも捕まえることができなかった、アニータにそっくりでした。ジタバタと醜くもがくこともせず、広げた羽根で風に乗って、どこまでも行ってしまった彼女。まるで風にさらわれたみたい。――この発想はチェンの気に入りました。
もしチェンの父親の話が本当なら、今頃彼女はアコーラのどこかで見世物にされているはずです。都会で人攫いに合えば、流行りの恐ろしいサーカス小屋に売り飛ばされると専らの噂した。でも、あの女王さまのように働かなかったアニータです。きちんと言うことを聞いているとは思えません。むしろ逆らってひどい目にあっているかもしれないのです。それよりは、風に流され遠い国に運ばれていた方がずっといいでしょう。アニータは美しいから、きっと優しい王子様に見初められて幸せになるはずです。
なんてお伽話のような空想をしていると、建て付けの悪い窓の木枠が急に震え出しました。そしてすぐにガタガタと騒々しい音が、ガラス窓を殴りつけるように響きました。北の外れにある、例の丘――かつてシェーラたちアララト家の方からです。
村人たちはあの丘を「悪魔の通る丘」と呼び、近づくことを禁じていました。確かに時折響くこの音といい、どこか不気味な丘ではあります。でもチェンは、あの丘を嫌うことがどうしてもできませんでした。
チェンはよく見かけていたのです。仕事から逃げ出したアニータが、そこで蝶々と踊っているのを。聞いたこともない不思議なメロディーを口ずさむのを。彼女の黒い髪が青空を背景に揺れる。その眺めは鮮やかで力強いはずなのに、どこか淋しげなのでした。もしかすると彼女は、あの丘の悪魔についていってしまったのかもしれません。
熱い湯につかってぼんやりとそんなことを思っていると、母親の声が響いてきました。
「チェン! いつまで入ってるの? 早く出てきなさい!」
「はーい!」
チェンの家は十六人兄弟で、こうしてゆっくりしてはいられません。下の子供たちの歯を磨いてやり、絵本を読んで寝かしつけるのはチェンの役割です。
弟たちが特に好きなのが、アコーラの南に広がる海の冒険の絵本でした。空よりも濃い青で、川よりもずっと大きな水の流れる「海」。人々は船という箱に乗って、その水の上を風に吹かれて旅するというのです。
すべてを風に任せた、無事に済む保証などない旅。絵本に描かれるスリルと未知の世界の魅力に、弟たちはいつも夢中になります。そしてチェンは毎晩兄として、現実的な大人を演じ弟たちをいさめてきました。馬や牛のように、人間に御することができる乗り物での旅は楽しいものになるでしょう。それはある程度安全で、怖くなればいつでも家へ引き返すことができます。しかし、風を御することはできません。船は乗り手を、思いもしないほど遠くへ運んでしまうかもしれないのです。両親の優しい手の届かないほど、遠くへ。泣き声も聞こえないほど遠くへ。――そう言って脅さなければ、弟たちはいつまでも航海ごっこをやめず、チェンを困らせるのでした。
そうやって今夜も何とか幼い弟六人と妹七人を寝かしつけると、ようやく自由な時間がやってきます。窓辺に寄ると、空にはまん丸とした月が高く登り、星がちらちらと煌めいていました。両親は疲れて眠っています。姉二人は薄暗いランプの下で刺繍をしながら、なにやら楽しそうにひそひそとおしゃべりに余念ありません。久しぶりに悪魔が通る音がしたものの、とても平和な夜でした。だって丘を通る悪魔が何事かやらかしたことは、今までに一度もないのですから。
涼しい風が吹き、虫の音が透き通る明るい夜。今にもアニータに似た妖精が踊りながら通り過ぎて行きそうな白い月光。その下の草原にはぽつりぽつりと家々の明かりが点っています。その明かりを一つ一つ右へ向かって目で追いかければ、最後の明かりの向こう側に例の丘が黒々と横たわっているのでした。
チェンは幼い頃に友達に誘われて、夜の丘へ行くことになった日を思い出しました。でも結局怖くなって、一晩中どきどきしながら布団の中で狸寝入りしていたのでした。まあその時には友人の方もたまたま寝過ごしたらしく、翌日二人して悔しがって見せたりしたというオチですよ。
それから五年が経った今、チェンはもう悪魔なんてものを信じる年ではありません。大人たちが何らかの理由で子供を丘に近付けたくないだけだと知っています。それでもチェンは怖いのでした。
丘に行って、本当に何も起こらなかったら? 物心ついたときから畏怖と神秘を夢見たあの丘で、なんの変哲もない夜が過ぎていたら。チェンは今日も窓を乗り越えかけた足をひっこめて、弟たちが所狭しと寄り添って眠る寝室へ引き返すのでした。
そしてその晩チェンは深い夢の中で、丘を駆け降りる巨大な馬車がバランスを崩して事故にあう、そんなおかしな夢を見ました。
翌日、予感がした彼はふらりと丘のふもとへ散歩へ行きました。そして異変を発見したのです。それは大工の息子である彼には馴染みのあるものでした。
「ボルトだ」
あの美しく、目には見えない神秘を抱いた丘のふもとに、無骨な鉛製のボルト。少し気になったので、彼はその場にしゃがみこみ、さらに目を凝らしました。見つけたのは、大きなスプリングに折れた釘。またスプリング。鉄にしては軽すぎる謎の銀色の破片。バラバラになった木材。この辺で何かが壊れたのは確かなようです。
チェンは思わず呟きました。
「悪魔の馬車……」
丘のなだらかな斜面を見上げながら、チェンは昨夜の情景を思い描きました。
静かな夜半、神聖な灯りの中を横切る悪魔を乗せた馬車。それが、こんな、素朴な鉄クズと木材でできている? それは妙に非現実的で、それでいて明らかに現実的すぎました。そう、悪魔なんて、本当は存在しないのと同じくらいに、明確に。ではあの小うるさい悪魔は、本当は何者だったのでしょうか。
それから数ヶ月は何も起こりませんでした。毎晩チェンは寝床を抜けて窓を開き、耳を澄ませていました。しかし連日、悪魔の通る音どころか微かな風の音さえ響くように静かです。思い出してみると、あの馬車の軋みのような音は、よく晴れた明るい風のある夜に聞こえたはずでした。そう、風のある夜に。
チェンはふと思いついて、そして待つことにしました。月夜と迷信に守られた神秘が、ひょっとすると、もっと胸躍る何かに変わるような、眩しい期待を抱いて――。
【序章】了