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[29302] 【改正版】差異1度の世界で【ペルソナ4二次・女主人公+足立メイン】
Name: 満夜◆6d684dab ID:49a02ea9
Date: 2011/09/21 17:43
<ご挨拶>

どうも、満夜と申します。

アトラスゲームのペルソナ4のアニメ化決定にテンションが上がって書いた二次創作です。
IFもの?再構成?そんなかんじのものです。

こちらは【チラシの裏板】にある同タイトル作品の改正版です
旧9話を上げるまでは、未プレイでプレイ動画を見ただけのけしからん手合いでしたが、夏の臨時収入でプレイ環境を整え、この改編版を上げた時点で、一週目でクリア済。『ノーマルED』と『真ED』の両方を見ました。
ペルソナ辞典とコミュはフルコンプ。ステータスは根気が上がりきらず、クエストも一個クリアできませんでしたが。悔しい。
そんなわけで、旧版から更新がぱったり止まっていたのはゲームにかまけていたからです、すみません。

自分でプレイしてみた結果、ネタバレな方々の印象が大分変わったので、これ以降は大幅に改編した改編版を上げていく形になります。
旧版を読んで、続きを待っていてくださった皆さんには申し訳ありません。
ただ、色々な改編はありますが、ストーリーの大筋、というか、自分の中のテーマは変わっていないので、引き続きお付き合いいただけると嬉しいです。

旧版ではゲーム本編の世界が前提の平行世界ものでしたが、改編版では本編世界の主人公の出番は消えました。ごめんね男主。

注意

真エンドネタバレありです。
女主人公。not女体化。
旧版では女主が物語の主人公位置にいましたが、改編版では足立が主人公位置になります。女主はヒロイン化……というか、ダブル主人公化?

足立×女主、陽介×早紀の要素あり。
また、後々、上記に書いた以外のカップリング表現(ノーマルカップリング限定)が、確実に出ると思います。
一応、原作を知らずに読んでくださっている読者様もいるようなので、キャラバレを避けるために、まだ本作に出てきていないキャラクターの名前はここには出さず、カップリングは増える度にここの注意に書き足していく形にしたいと思います。ご了承くださいませ。


基本ゲームの流れを踏襲しますが一部オリジナル展開。『正直誰得だよ?』という感じの話です。
そして、更新遅いです。気長に読んでいただけると……
ご意見、ご感想をいただけると嬉しいです。執筆速度も上がるかも(当社比)。

ゲームで転げ落ちて行った足立が幸せになる世界があってもいいじゃないかと、そういうテーマのお話です。
でも、足立がゲーム中に述べる理屈って、共感は覚えるけど、説得力は皆無
……げふんげふん。

女主人公(ヒロイン?)設定
神代暁<かみしろ・あきら>
天然、性善説信者、世話好き、お人よし。
改編版では初期ペルソナはイズモというオリジナルペルソナ。
光・闇無効、火炎弱点、物理耐性。
初期スキルはディア、ラクカジャ、パトラという攻撃スキル皆無の超サポートタイプ。
ステータスは全1レベルスタートとなります。

イザナギ?大丈夫。ちゃんと出ます。っていうか、出さないとラストで困っちゃうからね!


こんな色々と突っ込みどころが満載な作者と作品ですが、お付き合いいただければ幸いです。

<更新履歴>

2011.08.13 序章up

2011.08.14 旧版と分離(旧版は【チラ裏】に)

2011.09.18 1章up

2011.09.20 2章up

2011.09.21 3章up



[29302] 序章『運命の分岐』
Name: 満夜◆6d684dab ID:49a02ea9
Date: 2011/09/18 11:56
 日本国内のアナログ放送終了の年の四月頭、足立透は片田舎に左遷された。

 ――世の中、クソだな。

 足立は、鏡の中の淀んだ眼をした人物じぶんに向かって、声に出さず吐き捨てる。
 つい先日までは自信と希望に満ち溢れていたはずの顔は見る影もなく荒み、いつもきちんと整えてられていた髪も、やる気なく、好き放題に撥ねていた。
 身に纏ったスーツも、目立った皺こそないが、糊はまるで利いていない。こまめにクリーニングに出し、糊の利いたものしか着なかった本庁時代には考えられない有様だった。ネクタイも、自身のひねた心理状況を具現化するように曲がっているが、それを直す気にもなれない。
 安定した将来のために――呪文のようにそう繰り返す親や教師の言葉の通りに、脇目も振らずに勉強して、国家試験に受かって、約束された道筋に乗れたはずだったのに。
 『安定』なんてどこにもなかった。激しい受験戦争を終えた先に待っていたのは、更に激しい出世争いだけだった。
 警察のキャリア組は、ある程度まではほとんど自動的に昇格できる仕組みだが、同じ階級でもそれまで積み上げてきた評価によって、得られる役職と権限には当然開きが出てくる。
 つまりは――競争。
 どこまで行っても付きまとう、反吐が出るような汚い争い。
 切磋琢磨して互いを高めあうなんていいもんじゃない。他者を押しのけ、蹴り落とし、踏みつけなければ、上へ上がることなどできやしない。
 法と秩序を預かる『正義の味方』のはずの組織内でこれなのだ。だとすれば、この世の『正義』とはどんな醜い代物なのか。

 ――まあ、別に『正義』とやらを信じて警察に入ったわけじゃないけどさ。

 鏡面に映った男の顔が、皮肉な笑みに歪む。
 『安定した生活』を求めて公務員を目指し、その中で一番面白そうだと思った職種に就いただけの話。
 銃刀武器を持つことに制限のあるこの国で、銃を持つ権限を得られるというのは、わかりやすく特別に思えたから。
 脇目も振らず積み重ねてきた勉学。それで得たものを人の役に立つ形で発揮したい――そういう殊勝な心がけもないわけではなかったが、そんなものは、冷たく非情な競争社会の中で、あっという間に擦り切れた。
 愛とか友情とか、そういったものに費やす時間すら惜しんで、ひたすら『安定』を求めて努力を積み重ねた末――競争の中で理想すら失い、あげく追い落とされた自分に残ったものは、世の中に対する呪詛だけというわけだ。
 キィッ、と耳障りな音が鼓膜に刺さる。知らず俯いていた顔を上げて見れば、鏡についた手が、無意識に爪を立てていた。
 爪を立てた鏡面の中には、酷く虚ろな顔でこちらを見つめ返す男の顔。
「……馬鹿みてぇ」
 誰に向けたものか、自身でもわからぬまま、唇からこぼれた呟き。
 その小さな声をかき消すように、つけっ放しだったリビングのテレビから、現在時刻を告げるアナウンサーの声が響いた。

 ――ああ、もうそろそろ出なきゃな。

 今日から勤める新しい職場。さすがに初日から遅刻すれば面倒なことになるだろう。
 どれだけ不本意だろうと、やる気がなかろうと、生きていく以上、糧を得るために働かなくてはいけない。
 社会問題になりつつあるというニートとか呼ばれる連中が心底羨ましい。どれだけ出来損ないだろうと面倒を見てくれる親兄弟がいるのだ。自分の親は、自身の左遷の報せを聞いて『帰ってくるな』と絶縁状を叩きつけてきたというのに。
 そう、自分には頼れる人間などいないのだ。ならば、自分の糧は自分で得なければ。
「……面倒くせぇ」
 吐き捨てる、というには力なく、そんな呟きが零れた。

 ――そう、生きていくことはこの上もなく面倒なのだ。

 さりとて、自ら命を絶つほどの踏ん切りもつかない以上、生きていくしかない。
 ため息を一つ吐いて、洗面所を後にした。

 鏡面に映る、どこか悲しい猫背の後ろ姿に、背を向けて。

   ◇ ◆ ◇

「あー……疲れた」
 帰宅するなり、足立は電気もつけずにそのままベッドに倒れこんだ。
 狭いワンルームの部屋だ。越してから日が浅い上に視界が利かなくったって、迷う余地もない。
 足が重い。寝返りを打って横向きになると、寝転がったまま身体を丸めるような姿勢になって、靴下を脱いだ。ふくらはぎにくっきりとゴムの跡。
「……どんだけむくんでんだよ……」
 思わずぐったりとした声が零れる。
 ――まさか、初日に町内全域連れ回されるとか……
 予想外だったと、重いため息が漏れた。
 彼を予想外に連れ回してくれた直属の上司兼相棒バディとなった男は、初対面の時の反応から予想外だった。
 この田舎には競い合う相手もいなければ、その意義もない。やる気なく、しかし今後の居心地だけは考慮して、へらへらとした愛想笑いを浮かべて赴任の挨拶を述べた自分に対し、新たな同僚たちの反応はおおむね予想通りのものだった。
 すなわち、取るに足りないものに対する無関心、もしくは、見下せる相手を見つけた嗜虐的な笑み。
 片田舎で出世コースには縁遠い稲羽署左遷先。構成員はノンキャリア中心で、有事の際にだけ出張って手柄をさらっていくキャリアに対する感情は良いものではない。そこに、見るからにちょろそうな若いキャリアが落っこちてきたのだ。溜まった鬱憤を向けるにはもってこいの相手に見えたことだろう。
 そんなくだらないことキャリアいびりに興味のない手合いは、ただただ使えなさそうな相手に対する無関心な眼差しだけを向けてきた。こんなだから左遷されてきたんだろ、と言わんばかりの色をちらつかせて。
 この二種類の反応は、予想内だった。
 だが、一つだけそのどちらにも属さない反応を見せた男がいた。それが、バディとなった堂島遼太郎だった。
 四十過ぎの、無精ひげが似合う苦み走った面立ち。眼光は鋭く、暗い色のスーツを着込んだ体躯は無駄なく引き締まっている。
 絵に描いたような現場叩き上げの刑事。
 その彼は、へらりとした足立の笑みを見て、酷く訝しげな眼差しを向けてきたのだ。
 まるで、張り付けられた笑みの下を、見透かすかのように。
 しかし、口に出しては何も言わず、訝しむ様子もその時だけで、あとはごく普通に接してきた。
 そう、普通過ぎるくらい、普通に。
 愛想よく笑いながら言動に蔑みの棘を含めてくる他の同僚とは違い、彼はただ足立を新任の若手としてだけ扱った。
 それどころか、遠回しに足立をいびる同僚達を呆れたように一瞥すると、彼らから引き離すかのように足立を町内の見回りへ引っ張り出した。
 足立としては嫌味や皮肉など本庁時代から競争相手からさんざん浴びてきているので、笑って流すくらいわけはない。正直散々連れ回される方がきつかったくらいで、ありがた迷惑この上なかったが――堂島に対する心証は、不思議と悪いものにはならなかった。
 『味方など誰もいない』と思っていたところに、不意打ちのように現れた『庇ってくれる人間』に対し、無意識に心を寄せているのだと、足立自身は自覚していない。
 出世に繋がるでもない地味で退屈な見回りを、不平一つもらさず、平穏な街の姿を眺めては、引き締まった口元を微かに緩めるその姿に、親にも抱いたことのない敬意を抱いていることも。
「……しっかし、明日から毎日これかよ……」
 ごろりと寝返りを打って、仰向けになってぼやく。
 歩き回ることが辛いのもあるが、それ以上にきついのが田舎独特の距離感だ。
 堂島と行動を共にすること自体は意外なほどストレスを感じないのだが、町内を見回っていると、ひっきりなしに町の人間が声をかけてくるのだ。
 ああ、堂島さん、今日も精が出ますね。あれ、一緒にいる人、見ない顔だけど新人?ああ、堂島さんの新しい相棒。都会から来たの?まあ、凄い。でも、こんな田舎じゃ不慣れなことも多いでしょう、困ったらことがあったら気軽に言ってねぇ。
 そんな具合に、マシンガンのようにひっきりなしに掛けられる言葉の数々。
 おせっかいな中高年層だけならまだわからないでもないが、足立より若く見える青年までもが「この町にようこそ!」と握手を求めてきたことにカルチャーショックを覚えたものだ。都会では考えられない距離感に、足立は内心ドン引きながらも愛想笑いを浮かべて付き合った。
 行動を共にする堂島が、無駄口を叩かない――というか、不器用で口下手なタイプだったことだけが、救いだった。彼にまでマシンガントークを向けられていたら、足立はおそらくキレていただろう。
「……まあ……思ったよりはマシかもね……」
 容赦なくこき使いながらも、不器用に、ぽつぽつとこちらを気遣う言葉を投げてきた堂島の姿を思い返しながら、呟く。
 初日に、とりあえずは味方にカウントしていいだろう人間と知り合えた。
 ささやかだが、得難い収穫に満足しながら――気が付けば、足立はそのまま寝入っていた。


 ふと、意識が浮上するように目が覚めた。
 奇妙な夢を見ていた気がするが、思い出せない。思わず首を捻ったが、それ以上に無視できない空腹感が襲ってきて、夢に関する思考はそこでぶった切れた。そういえば、食事もとらずに眠ってしまったのだ。
 明かりもつけずに倒れこんでしまったので、部屋の中は真っ暗だった。いつから降り出したのか、窓の外から雨音が響いてくる。
 とりあえず何か腹に入れようとベッドの上で身を起こした時、ざ、という雨音とも違う掠れた音とともに、不意に室内が仄明るくなった。
「――え?」
 思わず光源を求めて見回した足立の目に留まったのは、部屋の片隅に置かれた小さなテレビ。
 確かに消えていたはずのテレビがいつの間にか点灯し、砂嵐を映し出している。
「……タイマーなんてつけてないのに……」
 訝しげに眉を寄せつつ、耳障りな砂嵐の音を切ろうとテレビに近づいて気付く。――電源ランプが点灯していない。
 ――電源が付いていないのに、砂嵐を映し出すテレビ。
「……何それ?」
 事態が理解できず、思わず呆けた声が漏れた――その時。

 ――我は汝、汝は我――

 ずくん、と疼くような頭痛と共に、“声”がした。
 聞き覚えのある、男の声――

 ――汝、扉を開くものなり――

 それが、紛れもなく自分自身の声であると気付くより先に、強烈な眩暈を覚え、足立は思わず傾いだ体を支えようと咄嗟に手を伸ばし――

 テレビの画面に着いたはずの右手は、水の中へと沈み込む様に、そのまま画面の中へと飲み込まれた。

「――どぅわッ!?」
 支えを失い、そのまま前へとつんのめる。
 勢いよく画面へ右腕と頭を突っ込んで――テレビの縁に左肩を強打する形で転倒は止まった。
「――~~~ッ!」
 声にならない痛みに涙目になった目に映ったのは、白くぼやけた景色。
 浮かんだ涙のせいではない。辺り一面が、白い霧のようなものに霞んでいるのだ。
 しかし、利かない視界でも、相当広い空間が広がっているのだと空気でわかる。
「……っ!」
 得体の知れない恐怖を覚え、慌てて身を引いて、白い空間から身体を引き抜いた。
 足立の身体を飲み込んでいた画面は、しばし波紋のように表面を波立たせていたが、それもすぐに収まり――あとに残ったのは、電源の切れたテレビと、呆けてへたり込む足立の姿だけ。
「……なんだったんだ?」
 画面には砂嵐も映っていない。もはや寝ぼけて夢でも似たのかと思って呟きつつ、確かめるように画面に触れれば――抵抗なく、指先は中へと沈み込んだ。
 ぎょっとして目を剥くも、指先が自由に出し入れできることがわかると、足立の胸から恐怖は消え、かわりに、ふつふつと形容しがたい感情が湧きあがった。
「……ははっ……」
 にぃ、と吊り上った唇から、声が零れる。
「ははは……あはははははッ!」
 喉から溢れ出る、哄笑。
「スゲェ……なんだこれ!あはは、凄い凄い!」
 子供のようにはしゃぐ声。しかし、その笑みは、無邪気な子供のものと見るにはあまりに歪だった。
「クソつまんねぇ日常の中で頑張ってる俺へのご褒美?ははっ、神様も捨てたもんじゃないじゃないね!」
 この奇妙な“力”を使って、どんな“遊び”が出来るのか。
 思考を巡らせる彼の顔は――玩具を貰った子供の笑みではなく、凶器を手に入れた犯罪者のそれだった。
 あともう一押し、何か“きっかけ”さえあれば、彼はその力に溺れ、道を踏み外していただろう。

 けれど、その“きっかけ”は、一人の少女の存在により回避された。


「――足立、明日、家に飯食いに来ないか?」
 四月も十日目を迎えたその日、小さな悩みに頭を悩ませていた堂島が告げた、何気ない一言。

 それが、足立透の運命を大きく変える分岐だったのだと――この世界の神すらも、知る由はなかった。



[29302] 1章.役者は集い、幕は開く
Name: 満夜◆6d684dab ID:49a02ea9
Date: 2011/09/20 14:01
「あー、足立。ちょっといいか」
「はい?なんですか、堂島さん」
 定時を迎え、早々に上がろうとしたところに声をかけられ、足立は首を傾げつつ声の主を振り返った。
 そこにあったのは、苦々しいしかめ面で佇む堂島の姿。
「――足立、明日、家で飯食わないか」
「……は?」
 堂島の表情にすわ何事かと身構えていた足立は、予想に反してどうということのない提案に肩透かしを食らって間の抜けた声を漏らした。
 元々、飄々とした険のない顔立ちであると自覚している足立は、ぽかんと口を開けた今の自分は非常に間抜けなものだろうと、他人事のように思う。しかし、目の前の上司は、足立のそんな様子にも構う余裕もないのか、どこか必死さを感じる声で言葉を重ねる。
「そのな……前にも少し話したが、姉の娘を家で預かることになったんだが……その姪がな、明日来るんだよ」
 その話は、確かに以前聞いていた。その時の話を思い出して、足立は首を傾げる。
「それで明日休むってのは今朝ききましたよ。堂島さん、前は菜々子ちゃんを見てくれる人間が来てくれて助かるって言ってたのに、どうかしたんですか」
 菜々子、というのは、この春小学校に上がったばかりの、堂島の一人娘だ。
 堂島は、数年前に妻をひき逃げで失くしているらしく――おそらく、彼の仕事熱心さはこの辺りに由来するのだろう――、彼が帰るまで、幼い娘が一人で家を守っている状況だ。
 足立も人のことは言えないが、堂島には家事能力が決定的に欠落しているらしく、掃除・洗濯などはその娘が執り行っている有様だという。随分しっかりした七歳児のようだが、さすがにまだ料理はできないらしく、堂島家の食卓は、もっぱら出来合いのものばかりらしい。
 さすがに幼い娘にこの環境は拙いとは堂島も考えていたらしいのだが、どうすることもできずにいたところ、姉から今回の話が来たのだという。
 堂島の姉は、堂島に負けず劣らず仕事人間で、その夫も同じ人種らしい。結果として、様々な土地を巡る典型的な転勤族と化しているそうなのだが、今回夫婦揃って海外に一年間赴任することとなってしまったのだという。
 本当なら、娘も一緒に連れて行きたいが、そうするには言葉や文化、環境の問題があるし、何より現地の情勢が不安定でとてもじゃないが連れて行けないとのこと。
 この春高校二年生になる年齢からすれば、一人でも何とかやっていけるだろうし、これまで疎遠だった親戚の家に厄介になるより本人は気楽だろう。今回の話は寧ろ、妻を亡くした自分の家の状況を姉が案じた結果だろうな、と堂島は苦笑気味に話していたものだ。
 堂島の方にも断る理由もなく、寧ろありがたく引き受けたらしいのだが、今になって何か問題でも出てきたのだろうか。首をひねる足立に、堂島は歯切れ悪く言葉を紡ぐ。
「いや……赤ん坊のころ以来会ってない姪御なんでな……菜々子もそれなりに人見知りする性質だし、俺も話が巧いとは言えん……高校生の娘との会話なんぞ、どうしたものか見当もつかなくてな……」
 俺はよくても、姪が居心地の悪い思いをするかもしれん、と堂島は気まずげに告げた。
 なるほど、と足立は納得した。つまり、堂島は足立に場の盛り上げ役を頼んでいるのだ。
 ひょうきんなお調子者。口は軽いが親しみやすい。この地での足立の『キャラクター』は、概ねそんなものだ。
 当初は、やる気なく、愛想笑いを浮かべていただけだったのだが、この『キャラ付け』が存外に使い勝手の良いものだと気付いてからは、意識してそう振舞ってきた。
 有能に過ぎれば、警戒され、疎まれるが、無能だが無害な人間だと思わせておけば、馬鹿にもされるが、同時に相手の気も緩るむ。空気の読めない素振りで相手のペースをコントロールすることもできる。
 何より、人は見下している相手をいびるとき、必要以上に饒舌になるものだ。実際、何人かの同僚は、既に足立の前で無自覚に口を滑らせ、こちらに弱みを晒していた。それらは今はまだ握っていることを悟らせずに、いつか有効に使わせてもらうつもりだ。
 そんな不穏なことを考えている足立に気づかぬまま、彼と堂島の会話を聞いていた同僚たちが、からかうような口調で口を開いた。
「泣く子も黙る稲羽署の堂島も、女子高生にはかたなしか。足立、この際、堂島さんに恩返しして来いよ」
「おう、そうしろ。せっかくだから休暇取ってゆっくりすりゃいいさ」
 表向きは、堂島と足立に気を使った言葉を装っているが――幾度となく腹の探り合いをしてきた足立には、それが自身へと向けられた遠回しな嘲笑だと悟っていた。

『お前なんかいなくたって困りゃしないんだから、せいぜい飼い主に媚び売ってこいよ』

 ――せいぜい、その程度の言葉の裏も読めないような馬鹿だと思っていればいい。

(けど、いつかその油断がお前の命取りになるぞ)

 自身の本性を毛ほども察知できていない緩み切った同僚たちを、足立は腹の底で嗤い――
「――足立、悪いな。……頼む」
 ぼそり、と呻くような堂島の声に、思わず目を瞬いた。
 無理を言って悪い、という意味にしては、妙に形に空いた言葉の間。――自身の発言がきっかけで足立が遠まわしに嘲笑されている状況を察しての謝罪だと悟り、何ともいえないむずがゆさを覚える。
 不器用にこちらを気遣う言動。堂島のこういうところが、足立は苦手だった。何の裏もないとわかっているから、かえってどう対応すべきかわからなくなるのだ。
 しかし、だからといって、堂島との距離を空けようと思うわけでもないので、不快というわけでもないようなのだが――自分で自分の感情を理解できず、持て余し気味になるのが落ち着かない。
 もしかしたら、これが「頭が上がらない」という心境なのかもしれない。
 親にも抱いたことのない感情を胸の奥へと押しやって、緩い笑みを浮かべると、足立は殊更調子の良い口調で告げた。
「しょうがないっスね~、そこまで言われちゃやるしかないでしょ!
 不肖、この足立透、全身全霊をもって姪御さんのお迎えを盛り上げてみせますよ!」
 というわけで、明日一日有休貰いますねー、と宣言する。――堂島がいない署内はまさに四面楚歌だから、この口実はありがたかった。
「姪がこっちに着くのは夕方頃のはずだから、何なら半ドンでも十分だぞ」
「じゃあ、午前中は部屋の掃除でもしますよ。こっち来てまだ二週間もたってないのに、気が付いたらひどい有様で……」
「……俺が言えた義理じゃないが、掃除はこまめにしといた方がいいぞ、足立」
 おどけた調子で足立が告げた言葉に、堂島は呆れた風だ。
 姪を迎えに駅へ行く途中に拾ってもらう旨を約束して、足立は堂島と分かれて帰路につく。
 堂島の姪とはどんな娘だろうか。ムカつく奴じゃないといいけど。美人だったら、なおいいな――そんなことを、考えながら。

 * * *

「どうもはじめまして、菜々子ちゃん。お父さんの部下……っていうか相棒の、足立透です」
 迎えに来た堂島の車を背景に、足立は初めて会う堂島の娘に笑って挨拶した。
 母親に似たのだろう。武骨な印象の堂島とは似ても似つかない、愛らしい容姿の少女だった。陽の光を浴びて栗色の輝きを照り返す柔らかそうな髪を、左右の耳の上で括っている。ピンクを基調としたワンピースに包まれた身体は小さく、触れたら折れてしまいそうなほどほっそりとしているのに、子供特有の溌剌とした生彩に満ちていた。
「ほら、菜々子。挨拶しろ」
「……にちわ」
 堂島に促され、菜々子は小さな声で挨拶を告げるも、すぐに堂島の影に隠れてしまった。
「ありゃ、嫌われちゃったかな?」
「気にすんな、足立。照れてるだけだ――いてっ」
 参ったと頭を掻く足立に、笑って告げた堂島が小さく悲鳴を上げる。菜々子が堂島の背を叩いたのだ。
「あっはは、堂島さんも菜々子ちゃんには敵わないんですねぇ~」
 なるほど、人見知りというのは本当らしいな、と思いながら、足立が殊更面白がって笑ってみせると、堂島に頭を軽く叩かれた。
「あたっ!……なんですか!?この平手の連鎖反応!」
「うるせぇ!笑いすぎなんだよ、お前は!」
 と、決まり悪げに怒鳴る堂島の影から菜々子が顔を出し、ちょっと怒ったような顔で堂島の袖を掴む。
「お父さん、アダチさん、いじめちゃだめだよ」
 足立は頭を抑えたまま、思わず目を瞬いた。
 どうやら、菜々子は自分を庇ってくれようとしているらしい。なるほど、堂島の娘らしく、人見知りでも、正義感と行動力は一人前だ。
「え?いや、これは別にいじめてるんじゃなくてな……」
「……ほんと?」
 慌てた堂島の弁解を聞いて、菜々子は足立に窺うような視線を向けてくる。
 足立は安心させるように笑顔で頷いて見せた。
「ホントホント。さっきの菜々子ちゃんだって、ただ恥ずかしかっただけで、別に堂島さんをいじめるつもりで叩いたんじゃないんだろ?それと同じだよ」
「……菜々子と、おんなじ?」
「そうそう、堂島さんは照れ屋だからねぇ~」
 そっか、と安心したように菜々子の顔が笑みが浮かぶ。初めてみた少女の笑顔は、まさに花が綻ぶ、と称したくなるものだった。
 行動パターンが読めず、ぎゃあぎゃあと喧しく煩くものとして、足立は子供を嫌っていたが、菜々子に関してはそれなりに好感を抱いた。彼女にはませた子供にありがちな生意気さがなく、素直に『しっかりした子だな』と思えたのだ。
 足立と菜々子が笑いあう一方で、堂島は苦虫を噛み潰すような渋面を浮かべていた。足立の『照れ屋』発言に物申してやりたい気持ちでいっぱいなのだろう。しかし、菜々子の手前、また引っ叩く訳にもいかないと思ったのか、二人の笑いを遮る様に声を上げた。
「そろそろ行くぞ!ほら、菜々子、早く車に戻りなさい」
 はぁい、と菜々子は素直に車へ向かい――途中、何かに気づいたように振り返った。
「お父さんのおとなり、菜々子でいいの?」
 どうやら、足立が加わったことで、さっきまでのように助手席に座ったものか判断に迷ったらしい。
 ホントに良く気が付く子だなぁと足立は感心する。普通の七歳児なら、客に気を使って自身の席を譲るような発言は、そうそうできないだろう。これは堂島の躾の賜物か、はたまた父子家庭という環境ゆえの自立心の高さか。
「お兄さんはいつもお仕事の時、お父さんの隣だからね。たまには後ろに乗ってみたいな」
「そうなの?じゃあ、菜々子が前ね」
 休みの時くらいできるだけ堂島の傍に居たいだろう菜々子の気持ちを汲み取って告げれば、案の定、菜々子は嬉しそうにいそいそと助手席に乗り込んだ。
 その背を見送って、苦笑した堂島が小声で足立に告げる。
「悪いな、気を遣わせて」
「いえいえ、僕も休みの時くらいは、堂島さんの平手が届かない場所に居たいですからねー」
 足立がそう軽口で返すも、堂島は、こいつ、と苦笑を深くするだけにとどめ、平手は出さなかった。
「ちゃんとシートベルトしたか?――じゃ、出すぞ」
 菜々子が助手席に、足立が後部座席にそれぞれきちんと着いているのを確認すると、堂島はゆっくりと車を発進させた。
 相変わらず丁寧な運転だ、と足立は思う。ろくに他の車なんか走っちゃいないガラガラの田舎道で、きちんと制限速度を守って走っていくワンボックスカー。――この運転ひとつにも、堂島の亡き妻への想いが現れているのだろう。
 柄にもなく感傷的な感慨を軽く首を振って振り払うと、足立は明るい声で前の座席に声をかけた。
「ところで堂島さん、今日来る姪っ子さんってどんな子なんですか?僕、まだ名前も教えてもらってないんですけど」
「ああ、そういやそうだったか。悪い悪い」
 バックミラー越しに申し訳なさそうな視線をくれて、堂島が応えた。
「名前は神代かみしろあきら。今年で高校二年生だ。姉貴のところとは長く疎遠だったもんでな、俺もこれくらいのことしか知らないんだが――」
 自嘲気味にそういってから、「そういえば」とふと思い出したように呟く。
「あいつは、クォーターってやつになるんだな、一応」
「へぇー……って、クォーター!?」
 何気なく放られた情報を、危うくスルーしそうになって、足立は思わず声を荒げた。
「それって、祖父母の誰かが外国人っていう、あのクォーターですか?」
 思わず確認してしまった足立に、「他に何があるんだよ」と苦笑してから、堂島はその血筋について語る。
「義兄さんが日露のハーフでな。今回の海外派遣も、ロシア語が堪能だってのが決め手になったらしい」
「へぇ……」
 与えられた情報から、足立は“神代暁”の人間像を想像する。
 日露のクォーター。両親の都合で幼少から各地を転々とする転勤族。
 どちらも、人間関係を構築する上で、無視できない壁となる要素だろう。
 前者は不躾な好奇の念や謂れのない偏見を呼ぶだろうし、後者は人間関係を毎度リセットしてしまう。
 ここから推察される人間像のパターンは二つ。新しい環境でもすぐに新たな人間関係を構築しようとする人懐っこいタイプか、すぐリセットされるのだからと一線を引いた関係しか築かない冷めたタイプか。
(……冷めてる方が、僕としては楽なんだけどね)
 そういうタイプは、他者を自身の内に踏み込ませない分、他者の内に踏み込むこともない。自身について突っ込まれたくない足立としてはその方がありがたい。
 ただ、堂島や菜々子にとっては、人懐っこいタイプの方が合うのだろうな、とは思う。
 まあ、前者なら、踏み込まれないようこちらから線を引けばいいし、後者なら、堂島達が馴染めるよう自分がフォローすればいい。
(――どちらにせよ、おごってもらう晩飯分ぐらいは、働くさ)
 そんな風に、足立が自身の行動方針を決めた時、
「――着いたぞ」
 堂島の声と共に、車が停車した。
「おお、ちょうどいい時間だな。そろそろ電車が来る頃だ」
 車から降りつと、堂島が腕時計に目をやって告げる。
 駅の改札の方へと揃って歩きながら、堂島と手を繋いだ菜々子が声を上げた。
「あ、電車、来たよ!」
 確かにホームへ入っていく電車の姿が見て取れた。
 電車がホームに停車する音が聞こえ――しばしして、一つの人影が駅の中から現れる。
 白いブラウスと紺のロングスカートをまとい、大きめのボストンバックを抱えた女性。
 ごく自然にその人物へと目をやった足立の視線と、きょろきょろと周囲を見渡したその人物の視線が、交差した。

 その瞬間――足立は、己の背に電流が走ったような感覚に陥った。

 西に傾き始めた陽光の下、青く澄んで見える深い眼差しが、真っ直ぐに自分へと向けられている。
 内に光を灯したように見えるきめ細やかな白皙の上にあるのは、静謐までの端整さ。涼やかさを感じさせるすっきりとした眉目。そこに、僅かに幼さを残した頬のラインが、柔らかな印象を加えていた。
 無造作に首の横で束ねられた長い髪は、さらさらと風に揺れて銀の輝きを放つ。

 ――うつくしい、ひと。

 そんな言葉だけが、ようよう足立の脳裏に浮かんだ。
 と、向けられていた眼差しが瞬き、交差していた視線が途切れる。そのことで、永遠とも思われるほど引き伸ばされていた一瞬が終わった。
「おう、こっちだ」
 すぐ横で堂島が声を上げる。その声に呼ばれて、その人はこちらへ歩み寄り、足立達の前に立った。
「写真で見るより美人だな。ようこそ、稲羽市へ。お前を預かる事になっている、堂島遼太郎だ」
 その横で、遼太郎は気負いのない様子で彼女へと手を差し伸べる。彼女の方も戸惑った風もなく、その手を握った。
「ええと、お前のお袋さんの、弟だ。一応、挨拶しとかなきゃな」
 握手を放した堂島の不器用な言葉に、彼女は綻んだように笑い、挨拶を返す。
「初めまして、神代暁です」
「はは、赤ん坊の頃に会ったこともあるんだがな。まあ、覚えてなくて当然か」
 暁の言葉に、堂島は苦笑し、そうして菜々子を目で示した。
「こっちは娘の菜々子だ。ほれ、挨拶しろ」
「……にちわ」
 先ほど足立と会った時と同じように、弱弱しく告げると、さっと堂島の陰に隠れてしまう。
「はは、お前、また照れてんのか?――いてっ」
 照れた菜々子に堂島が叩かれるところまで同じで、足立は思わず笑ってしまう。見れば、暁もくすりと笑みをこぼしていた。
「こんにちは、菜々子ちゃん。よろしくね」
 すっ、と彼女はごく自然にしゃがみ込み、菜々子に視線を合わせて告げる。
「よ、よろしく……」
 もじもじと身を縮ませる菜々子に、彼女はにっこりと笑いかけた。
「私のことは、お姉ちゃんって呼んでくれると嬉しいな。私ね、ずっと妹が欲しかったの」
「……お姉ちゃん……?」
 暁の言葉を小さく繰り返して、その意味が徐々に染み込んだかのように、菜々子はぱぁっと顔を明るくした。
 お姉ちゃん、お姉ちゃん、と嬉しそうに繰り返す菜々子に、暁はにこにこと相槌を打っている。
 その微笑ましいやり取りを、足立は、どこかぼんやりと眺めていた。
 頭の奥が痺れたように、思考が鈍い。そのくせ、暁の一挙一動から目が離せなかった。
「暁、こっちは俺の同僚の足立だ。お前はこっち初めてだろうし、知り合いは多い方がいいだろうと思って呼んだんだが」
 と、堂島の声に名を呼ばれて、はっと我に返る。
「あ、ども。足立透です。堂島さんの部下……っていうか、相棒ね」
 慌ててへらりとした笑みを取り繕って足立が告げれば、彼女は立ち上がって、足立へと向き直った。
「わざわざありがとうございます。不慣れで色々教えてもらうことになると思いますが、よろしくお願いしますね」
 ふわり、と浮かべられた彼女の笑みを真正面から見た瞬間、足立の時間が再び停止する。
 一切の裏も意図もない、純粋な好意と信頼が込められた笑顔。それをなぜだか直視できず、気づけば目を逸らしながらおどけた声を紡いでいた。
「そ、そんな気にしなくていいよ~。僕、晩御飯につられてきたようなもんだし」
 あははは~、と笑えば、暁は一瞬目を見開いて、堂島の方に視線を移すと、おずおずとした口調で訊ねた。
「あの……晩御飯って、もうご用意されているんでしょうか……?」
「いや、出前取るつもりなんだが、何か食べたいものでもあるのか?」
 堂島の答えに、ちょっとほっとしたような表情を見せると、暁は遠慮がちに告げる。
「その……宜しければ、私に作らせていただけませんか?」
「え、手料理!?」
 思わず足立が上げてしまった大声に、暁はびくりと肩をすくませる。
「……ご、ごめんなさい。出前の方がいいなら……」
「え!?いや、違うから!びっくりしちゃっただけで!可愛い女子高生の手料理嫌がる男なんていないし寧ろ大歓迎だし!」
「え……?えっと……」
 思わず本音だだ漏れで力説してしまった足立に、暁は困惑と羞恥がない交ぜになった様子で頬を染めて俯く。
 その仕草が、また足立の脳天を打ち抜いた。
(――ヤバい。マジ可愛い)
 足立はここにきてようやく、何故自分が彼女から目が離せないのか、理解した。
 涼しげな印象の瞳と髪の色も、端整だが華美さのない面立ちも、抜けるような白い肌も、細身だが出るところは出ている均整のとれた肢体も、澄んだ声で紡がれる丁寧な口調も、他者を気遣う控えめで柔らかな物腰も――
 すべて、全部、一から十まで、好みなのだ。ど真ん中ストライク。ロシアの遺伝子と大和撫子精神の融合万歳!
(この上、料理までできるとか、本気で理想的すぎるだろ!)
 などと、暴走しかけた足立の思考を、ぞわりとした悪寒が遮った。
「――あーだーちー……?」
「ど、堂島さっ……!?いだだだだだッ!マジ痛いです!ギブギブーッ!」
 地を這うような声と共に訪れた、両のこめかみを抉る痛み。
「会っていきなり口説きにかかるとは良い度胸してるなぁ、おい?」
「ちがッ……!?そんなつもりじゃなくてーッ!?」
 ははは、とちっとも笑ってない声で笑う堂島に、足立は慌てて弁明する。――気があるのは確かだが、さっきの言葉は本気で無意識だったのでノーカンにしてほしい。
「お父さん、アダチさんいじめちゃダメだってば!」
「あ、あの、私は気にしてませんから……」
 細い眉を逆八の字にした菜々子の声と、おろおろと慌てた様子を見せる暁の言葉に、堂島は漸く足立のこめかみを挟んでいた拳を放した。
「ったく……お前はもうちょっと言動に気をつけろ」
「はい……すみません」
 ため息まじりに落とされた苦言に、足立は素直に頭を下げる。堂島は、それで気が済んだのか、暁へと向き直った。
「しかし、暁、さっきの本気か?無理しなくてもいいんだぞ?」
「いえ、料理好きなので。ご迷惑でなければ、作らせてください」
 にっこり笑って答える暁に、堂島も「そうか」と笑う。
「なら、途中でジュネスに寄るか。買ってかないと食材も何もないんでな」
「――ジュネス!?」
 堂島の言葉に、菜々子が弾んだ声を上げた。
「やったね、お姉ちゃん!ジュネス行けるって!」
 暁の手を取ってぴょんぴょんと跳ねながらはしゃぐ菜々子に、暁はきょとんとした様子だ。
「えっと……ジュネスって、あの、デパートの?」
「ああ、そうだ。この町にも半年前に支店が出来てな」
 堂島は苦笑気味に頷く。
 ジュネスは全国にチェーン展開している大型デパートだ。食料品から日用雑貨、服飾から家電まで幅広く扱っている。
 各地に支店があるので、都会育ちの足立や、様々な土地を巡っている暁からすれば珍しくもなんともないただのデパートだが、娯楽のないこの町から出たことがない菜々子にとって、ジュネスは一大テーマパークであるらしい。
「はやくはやく!行こう!」
 暁の手を引いて車へと向かう菜々子に、足立は思わず堂島と顔を合わせて苦笑してしまった。

 * * *

「僕も今月頭にきたばっかなんだけど、この町のことは堂島さんに大分叩きこまれてるから。わからないことがあったら訊いてよ」
「はい、ありがとうございます」
 堂島の運転する車。助手席からバックミラー越しに笑顔でそう言ってくれた足立へ礼を告げて、暁は改めて安堵していた。

 ――良い人たちでよかった。

 引っ越しや転校にはもはや慣れっこだったが、両親と離れて単身見知らぬ土地に越すことになった今回は、さすがに勝手が違った。
 一年間お世話になるのは、会った記憶もない母方の叔父。現職の刑事で、何よりあの母の弟なのだから、信頼できる人間だろうと自分に言い聞かせてはいたが、実際に会うまでは、やはり不安だったのだ。
 十歳年下の従妹も、すぐ自分に懐いてくれた。妹――というか、兄弟の欲しかった一人っ子の暁は、彼女に『お姉ちゃん』と呼んでもらえて、とても嬉しかった。
 そして、今もこちらを気遣って話を振ってくれている、叔父の同僚の彼。
 叔父の相棒だと言っていたが、叔父とはだいぶ年が離れているように見える。二十代の半ばだろうか。ツンツンと所々撥ねた、癖のある短い黒髪。どこか愛嬌を感じさせる険のない面立ち。猫背気味の痩躯に纏ったスーツとネクタイはよれている。
 だらしないと言える格好だが、暁は不快感を覚えなかった。彼の軽妙な言動のため、だらしないというよりは、やんちゃな印象を覚えるのだ。
(可愛い、って言ったら、失礼だよね……)
 しかし、軽妙に語っては口を滑らせて堂島に叱咤される足立の姿は、人にじゃれかかって飼い主に叱られているワンコを連想させるのだ。
「……お父さん」
 と、不意に隣に座った菜々子が、運転席の叔父を呼んだ。
「ん?どうした、菜々子」
 バックミラー越しに視線を向けた叔父へ、しかし菜々子はもじもじと身を竦めて沈黙する。
 その様子に、暁は、もしかして、と思い至った。
「……菜々子ちゃん、おトイレ?」
 小さな従妹は、恥ずかしそうに小さく頷く。
「トイレだ?……参ったな、ジュネスまではまだかかるし……あ、スタンドがあるな。あそこ寄るか」
 叔父は困ったような声を上げたが、すぐに進路に見えたスタンドの看板に向かってハンドルを切った。
「らっしゃーせー!」
 スタンドに入った一同を迎えたのは、若い店員の威勢のいい声だった。
 車が止まるなりドアを開けて降り立った菜々子に、追って下りた叔父が声をかける。
「トイレ、一人で行けるか?」
「うん」
 そのやり取りが聞こえたのだろう。車を迎えた店員が、笑って菜々子に声を掛ける。
「トイレは奥に行って左だよ。左ってわかる?お箸持たない方ね」
「わかるってば……」
 子ども扱いが不満だったのか、ちょっと拗ねた風に答えて、菜々子は言われたとおりにスタンドの中へ入って行った。
「どこか、お出かけで?」
 堂島の方に向き直って、店員が気さくな調子で声をかけてくる。
「いや、都会から越してきた姪を、駅まで迎えに行って来ただけだ」
「へえ、都会からですか……」
 堂島の答えに、店員は、町を見ようと車を降りた暁へ視線を向けてきた。暁が会釈すると、店員もにこりと笑みを返してくれた。
「レギュラー満タンで頼む」
「ありがとうございまーす!」
 注文を告げる叔父に一礼して、動き出す店員。
「ちょっと、一服してくる。足立、暁に変なちょっかいかけるなよ」
「ちょ、僕どんだけ信用ないんですか!」
 喫煙所に向かう叔父と、車を降りた足立のやり取りに、暁は思わず笑みをこぼした。
「……酷いなー、もう、堂島さんってば……」
 そうぼやいてから、足立がこちらに向き直る。
「なんか喉渇いちゃった。自販機行ってくるけど、暁ちゃん、炭酸でも平気?」
「え――あ、はい。ありがとうございます」
 反射で遠慮の言葉を口にしそうになったが、同年代の友人ならともかく、社会人相手に遠慮するのはかえって失礼かと思い直し、素直に好意に甘えることにした。
 じゃ、行ってくる、と笑って、小走りでスタンドを出て行く足立。一人残された暁は、その背を見送り――
「君、高校生?」
 不意にかけられた声に、驚いて振り返った。
「あ、ごめん。脅かすつもりはなかったんだけど」
 そこにいたのは、車のフロントガラスをふきながら、苦笑を浮かべる先ほどの店員。
 暁は慌てて首を振り、質問に答える。
「いえ、私がぼうっとしていたのが悪いので。――高校生です」
「そっか。都会から来ると、なーんもなくてビックリっしょ?」
「何にもない、ってことはないですよ。都会にはないものが代わりにあります」
 悪戯っぽく笑う店員に、ここに来る途中、車の窓から見た一面の田んぼを思い浮かべ、暁は答える。これまで、所謂『地方都市』ばかり巡ってきた暁には、初めて見る景色だったのだ。
「へぇ、そう言う見方もあるか」
 店員は面白そうに笑うと、右手をズボンで拭ってから、こちらへ差し出してきた。
「『この町にようこそ』――って僕が言うのも変かな」
「いえ、ありがとうございます」
 暁は笑って、その手を握った。
「さーて、仕事仕事。あんまサボってちゃ怒られちゃうからね、はは」
 手を放して、笑いながら仕事に戻る店員の背中――それが、不意にぐにゃりと歪んだ。
「――っ……!」
 突如感じた強烈な眩暈に、思わず目を瞑って額を抑える。
「……お姉ちゃん?」
 と、傍らからかけられた声に瞼を開けば、いつの間にか戻ってきていたらしい菜々子が、心配そうにこちらを見上げていた。
「具合、悪いの?……車酔い?」
「どうだろう……そうかもね」
 正直、そう言う感じではなかったが、心配をかけたくないのでそう答える。少し休めば治るよ、と続けて笑えば、とりあえず菜々子の顔から憂いは薄まった。
「あ、菜々子ちゃんも戻ってきたんだ。――はい、どうぞ」
 そこに、足立が戻ってきて、暁と菜々子にそれぞれジュースを差し出してくれた。
「ありがとうございます」
 礼をつけて口をつけた、良く冷えた炭酸飲料は、僅かに残っていた不快感を消してくれる。
(――貧血気味、なのかなぁ)
 先ほどの眩暈の正体をそう推測し、
「……菜々子ちゃん、ほうれん草、大丈夫?」
「ホーレンソウ?うん、菜々子、食べれるよ。おひたし、おいしいよね!」
「え、バター炒めとかじゃなくて!?しっぶいなぁ、菜々子ちゃん……」
 足立も含めた三人で、貧血防止になる食材の好き嫌いについて、叔父が戻ってくるまで盛り上がった。

 自身の背に向けられた、不穏な視線に、終ぞ気づくことのないままに――

 * * *

 あさりとほうれん草のパスタに、ミニトマトが鮮やかなツナサラダ。デザートに、プレーンを添えたヨーグルト。
「うわぁ……!」
「おぉ~!」
 テーブルに並べられた健康的なメニューの数々に、足立は思わず菜々子と一緒に声を上げていた。
「ホントはもうちょっと凝ったものを、と思ってたんですけど……こちらにどんな調理器具があるかわからなかったので」
 簡単なものばっかりでごめんなさい、と苦笑する暁に、足立はぶんぶんと頭を振る。
「いやいやいや!十分すぎるくらい十分だって!」
「まったくだ。こんなまともな家庭料理、久々にお目にかかったぞ」
 堂島も感心しきりの様子だ。
「お姉ちゃん、すごいね!」
「ありがとう、菜々子ちゃん」
 止めに菜々子の素直な感嘆に、暁がはにかんだ様子を見せる。それから、思い出したように皆へ告げた。
「あ……皆さん、どうぞ冷めないうちに」
「いただきます!」
 菜々子の嬉しそうな声と足立の弾んだ声、堂島のきっちりとした声が唱和する。
 フォークでパスタを巻き取り、ぱくりと一口。
「……いかがですか?」
「――うまい!」
 窺う暁に、口の中のものを飲み込むなり足立は即答した。
「おいしい!」
「うん、うまい。これだけ作れりゃ、大したもんだ」
「……よかった。私の家、みんな薄味が好きなんで、ついいつもの調子で作っちゃって……皆さんには物足りないかなって不安だったんです」
 菜々子と堂島も口々に賞賛し、暁もほっと笑って自身も料理に箸をつけた。
「いや、ほんとにおいしいよ。素材の味が生かされてるっていうか、こういう味は出来合いのものじゃなかなか食べれないよ。ああもう、堂島さんたち、ずるい!こんなおいしい料理、毎日食べれるなんて!」
 忙しく手と口を動かす合間に、足立が本音を漏らせば、堂島が眉をひそめて反論する。
「おいおい、さすがに毎日は頼めないだろ。暁にだって学校があるんだ。部活でも入ったら、帰りも遅くなるだろうし」
「いえ、前の学校でも部活はやってましたけど、家で夕飯作ってましたし。簡単なものになっちゃいますけど、それでいいなら作らせてください」
「――これから毎日、お姉ちゃんがご飯作ってくれるの!?」
 暁の言葉に、菜々子が弾んだ声を上げる。一方、堂島は案じるような顔で、
「いや……そうしてくれりゃ、そりゃあありがたいが……お前、変に気ぃ使って無理言ってないか?」
「気を使ってるのは叔父さんの方ですよ。家族なんですから、できることさせてください」
 暁が笑って告げれば、堂島は、悪いな、と苦笑した。
 すると、菜々子が右手を挙げて宣言する。
「じゃあ、菜々子もお姉ちゃんのお手伝い、する!」
「ほんと?ありがとう!あ、菜々子ちゃん、ご飯、炊ける?」
「うん!お米もとげるし、スイハンキのスイッチもちゃんとできるよ」
「じゃあ、お姉ちゃんより菜々子ちゃんの方が先にお家に帰ってきた日は、菜々子ちゃんがご飯炊いておいてくれる?」
「うん!わかった!」
 まかせてね!と張り切る菜々子を、暁は微笑ましく見つめてから、堂島に向き直った。
「あ、そうだ。堂島さんのお弁当箱ってありますか?」
「あ?……ああ。多分、食器棚のどっかに――」
「え、暁ちゃん、お弁当まで作る気!?」
 暁の言わんとすることを悟り、堂島の答えに半ば被って、足立は思わず声を上げていた。
「自分の分を作るついでです。さっきも言いましたけど、私、薄味好きなんで、出来合いのものってあんまり好きじゃなくて……」
「いや、気持ちはありがたいが……俺は結構早くに出るときもあるし、それに合わせるのはきついだろう」
「ああ、大丈夫です。おかずは寝る前に作って、お弁当箱に詰めて冷蔵庫に入れときますから。早い時は自分でご飯だけ詰めて持って行ってください」
 両親も時間が不規則だったんでこういう形にしてたんです、と、堂島の遠慮を暁は笑って一蹴する。
 思わず足立は、堂島を恨めしそうに見つめ、すねた声を漏らしていた。
「いいなぁ~、堂島さん……僕も暁ちゃんの手作り弁当食べたいですよ!」
「お前なぁ……」
 呆れた声を漏らす堂島の横で、暁はあっけらかんと笑う。
「あ、じゃあ、作りましょうか?」
「――え!?マジで!?」
 まさかそんなリアクションが返ってくるとは思わず、足立は本気でぎょっとした。
「いや、嬉しいけど、すごく嬉しいけど!無理しなくていいんだよ!?」
「いえ、お弁当って、一人分作るのも、三人分作るのも、手間はあんまり変わりませんから。変わるのは材料の量くらいで」
「いや、その材料だってただってわけじゃないしさ!」
 けろりとした暁の言葉に、足立は反射で返し――その言葉に堂島が反応した。
「ああ、そうか。お前が飯用意してくれるなら、食費はお前に預けといた方がいいか」
「え?……任されちゃっていいんですか?」
「ああ、毎度買い物に付き合ってやれるとも思えないしな」
 そう苦笑して、堂島は「これくらいでいいか?」と金額を告げる。その額は、三人分の食費にしてはやや大きいように足立には思えた。
暁も同じように思ったらしく、確認の言葉を紡ぐ。
「その額なら、相当余裕ができますけど……余った分は月末にお返しすればいいですか?」
「いや、余った分はそのままお前の小遣いにしてくれていい。もともと、出来合い惣菜に頼ってたウチじゃあ、俺と菜々子と二人だけでそれだけの食費がかかってたんだ。お前のおかげでそれに余裕ができるなら、お前が報われてしかるべきだろ」
 お前の生活費はちゃんと姉貴から送られてくるしな、遠慮しないでいいぞ、と堂島は笑う。
 いくら惣菜に頼っていたといっても、二人分の食費にしては堂島の告げた額は多い。おそらく、最初から残りは暁の小遣いにするつもりで、大目に告げたのだろう。
 それがわかったのか、暁もそれ以上は反論せず、笑って告げた。
「じゃあ、お小遣いのためにも頑張って倹約しなきゃですね」
「はは、倹約しすぎておかずが貧相にならないだろうな?」
「あ、酷い!そんなことしませんよ?」
「わかってるわかってる、冗談だ。そう怒るな」
 暁は堂島の言葉が冗談だとわかった上で怒って見せたのだろうし、堂島も謝る口元は笑っている。菜々子もそんな二人のやり取りをにこにこと楽しそうに眺めていた。
 そんなすっかり打ち解けた様子に、微笑ましさを覚えながらも――同時に、どこかこごった思いが、足立の胸をよぎる。

 ――ここにいて、いいのか?

 一家団欒に紛れ込んだ、異物。
 自分の存在が、そうとしか思えず――一緒に笑う口元は、知らず、引き攣っていた。


 夕食後、足立は沈み切っていた。
 夕飯中に芽生えたネガティブな思いを打ち消そうと、食後の食器洗いを申し出たのだが、慣れない作業に手を滑らせて皿を一枚ダメにしてしまった。「怪我がなくてよかったです」と笑う暁が割れた皿を手早く片付け、残った洗い物も済ませてしまった。結局暁の手間を増やしただけの自分に、本気で情けなくなる。
 それだけでも精神的ダメージは大きかったのに、とどめの一撃と言わんばかりに、食後に皆で眺めていたテレビから、その不意打ちは来た。
『演歌歌手・柊みすずさんの夫である、議員秘書の生田目太郎氏との不倫疑惑が浮上した山野真由美アナですが――』
「――うえぇぇえええっ!?」
「きゃっ!?」
 足立が思わず上げた悲鳴に、暁と菜々子が驚いて声を上げる。
「あ、ご、ごめん!」
「なんだ、足立。いきなり大声出しやがって」
 慌てて詫びる足立に、堂島が怪訝そうに尋ねてきた。
「いえ、今のニュース……山野アナが不倫って……」
「あ?それがどうかしたか?今朝からさんざんやってたろう」
「今日、寝坊してニュース見る暇なかったんです!」
 うわー、ショックだー、と足立はテーブルに突っ伏す。
 山野アナはこの地方のローカル局アナで、足立はこちらに来てから彼女のファンだった。ややボーイッシュな容姿だが、そこが清潔感を感じさせて好きだったのだが――よりによって不倫とは。
(こっちの勝手なイメージだってわかってても、凹む……)
「……足立さん、山野アナのファンだったんですね」
 と、そこに暁のつぶやきが耳に入り、足立ははっと我に返った。
(うわ馬鹿じゃないの僕――ッ!)
 よりによって気になってる女の子の前で、ほかの女の話題でガチ凹みとか!
「ああ、いや、うん!良く見てるニュースのメインキャスターだったりしたから、それなりにはファンっていうか――まあ所詮ミーハーレベルだったんだけど!」
「そうですか……?」
 慌てて言い訳をまくし立てる足立に、あんまり落ち込まないでくださいね、と暁は気遣わしげだ。
「いや、うん!もう立ち直った!暁ちゃんみたいな美人に励ましてもらったら、こんな程度の傷心、すぐ治っちゃうって!」
「え……足立さん、そう言うこと軽々しく女の子に言わない方がいいですよ?」
 お調子者の口調で告げた足立の本音に、ちょっと照れた風に暁は窘める。
 と、そこに低い声がかかった。
「おい、足立……?」
「――うわごめんなさい調子のりましたもうしませんから睨まないでください!」
 堂島の射殺すような視線に、足立は慌てて平伏する。
「……ったく、お前はもうちょっとその口の軽さをどうにかしろ」
「いやー、でも、僕からこれ取ったら何にも残らないですしー」
「……それもそうか……」
「ちょっ……そこは否定してくださいよ堂島さん!」
 漫才のような堂島とのやり取りに、暁と菜々子が楽しそうな笑い声を上げる。
 職場ではいつも渋い顔の堂島も、口元を緩めて笑う。
(――ああ、なんだ)
 その様子に、ネガティブな思いは霧散した。
 自分は『異物』などではなかった。ちゃんと、この団欒の輪に受け入れられていたのだ。
 優しい人々が作る、優しい場所に。
 いつか、ただただがむしゃらに追い求めていた『安定』とは違うけれど――こんなところに、『安寧』はあったのだと悟る。
 気づけば、山野アナの不倫報道は終わっていたが、今の足立にはそんなことはどうでもよかった。
 今更、かもしれない。競争の中で、全てを見下し何人も何人も蹴落として――結果、転げ落ちて、落ちた先で見つけたお手軽な幸せに縋りついているだけなのかもしれない。そうも思う。
 ――だが、それがどうした。それのどこが悪い。
 ただ、みんなと笑いあえるこの日常があればいいと――そう思うこの気持ちは、本物なのだから。

 しかし、そんな彼のささやかな望みは、無慈悲にも一晩で叩き壊された。

 翌朝未明、山野アナの失踪が判明し――同日昼ごろ、遺体となって発見されたのだ。

 ――民家の屋根のテレビアンテナに逆さ釣りにされた、異様な姿で。



[29302] 2章.役者は己の役を見出し
Name: 満夜◆6d684dab ID:49a02ea9
Date: 2011/09/21 10:11
 気がつけば、白い世界に一人だった。
 周囲を見渡すも、見えるのは一面の白色のみ。その色の正体が何であるかを悟り、眉をしかめる。

 ――霧。

 立ち上がれば己の足元すら見通せないほど、白くけぶる一面の霧。

 ――ここは、どこだ。

 浮かんだ疑問に思わず身じろぎし――踏んだ足元は、かつりと硬質の音を響かせる。
 音につられて目線を落とせば、白い霧に滲みながらも、紅の色が見て取れた。
 屈みこんで、更によくよく目を凝らせば、一抱えはありそうな紅の立方体が延々と並び連なって、一筋の道を成しているのだとわかる。
 霧の中に浮かぶ紅の“道”。その外は、ただ霧が立ち込めるのみ。底の見通せない白い深淵は、この“道”から逸れれば、際限なく落ちてゆくのだろうと思わせた。

 ――ここは、どこだ。

 先ほども浮かんだ疑問が胸に渦巻き、その疑問はさらなる疑問を呼び起こす。

 ――どうして、自分はこんなところにいる。

 そう思って――気づいた。気づいて、しまった。

 そもそも、己が何者であるかさえわからない、ということに。

 そのことに、身の内から腐っていくような悪寒を覚えながら、己の身体を見下ろした。
 しかし、霧に溶けるように、己の姿が見て取れない。
 足先の紅の大地はわずかではあるが見えているというのに、己が身に纏うものが何なのか、それすら見て取ることができない。
 ぞっと怖気が背を走り抜け、言いようのない恐怖を覚えた。
 まるで、霧が意志を持って、自身の身体を――自身の正体につながるものを隠しているように思えたのだ。

 ――このまま、自分は、この霧に溶けて消えてしまうのではないか。

 恐怖は、更に不安を駆りたてて、そんな妄想じみた思考さえ誘い――

「――ふざけるな……!」

 聞こえた音――憤ったようなその声に、はっとする。
 若い、男の、声。
 それは、紛れもなく、己の口から発せられた、己の声だった。
 悪意を持った霧の中でも、意思を込めたその言霊は、確かに響いて――彼に、己が確かに存在するのだと知らしめる。
 揺らいだ心に、芯が通る。恐れに俯いたまなこが、前を向く。
 彼は、霧に隠れた道の先を見据えた。
 その瞬間――

“真実が知りたいって……?”

 その声は、唐突に響いた。

“それなら……捕まえてごらんよ”

 漂う霧に反響するかのように、奇妙にこだまして聞こえるその声は、若いのか老いているのか、それどころか男か女かもわからない。
 ただ一つ、わかるのは――声は、この道の先から響いているということだけ。
「――上等だよ」
 知らず己の口から零れた声は、確かに笑みの色を宿していた。
「わざわざ呼んでくれてるんだ。行くのが礼儀ってもんだよね」
 今、己の口角は、にやりと意地悪くつり上がっている――そう、感じた。

 ――そう、これが、自分だ。

 そこに、確固たるものを見出して――彼は、その足を道の先へと進め始めた。


 道の終着点にあったのは、彼の背丈よりも大きな紅の立方体に、一回り小さな黒い立方体がはめ込まれた、奇妙なオブジェだった。
 一目見ただけでは何なのかわかるはずもない外見なのに、彼には、それの正体が何故だかわかった。

 ――これは、“扉”だ。

 確信を持って、黒い立方体に手を触れる。すると、二つの立方体は、音もなく回転しながら解け、その空間を開いた。
 迷いなく、開いた“扉”の向こうへ足を踏み入れ、彼は、そこで待っていた者を睨みつけた。

“へえ……この霧の中なのに、少しは見えるみたいだね……”

 煙る霧の向こう、辛うじて人の形だと見て取れる影が、告げる。

「……気に入らないな」
 応える代わりに、彼は吐き捨てた。――高みから見下すようなその言葉。まったくもって気に入らない。
 知らず、その手に力がこもり――ふと、己が右手に何かを提げていることに気が付いた。
 眼前にかざせば、それが一振りの刃だと知れる。
 己が武器を携えていたことに、驚きはなかった。寧ろ、必然であるかのようにその事実は胸に落ち着いた。

 ――“アレ”は敵だ。

 目の前の人影を、本能がそう断じていたからだ。――敵を前に武器を持って、何の不自然があるのか。
 そして彼は、左手を柄に沿え、両手で刃を構え――
「――ふッ!」
 鋭く吐いた呼気と共に踏み込んで、人影へと斬りかかった。
 僅かに濡れた音と、微かな手ごたえ。――振るった一撃は、微かに影を掠めたのみ。
 人影は変わらず霧の向こう。確かに詰めたはずの距離が、一瞬で開かれていた。そのことに舌打ちした時、眼前にそれは現れた。

 ――蒼い燐光を放つ、一枚のカード。

 それが一体何であるのか思考する暇も――そもそも疑問が浮かぶ余地すらなく、彼の身体は動いていた。
 刃を左手に預け、空いた右手をカードへ伸ばし――迷うことなく、握り潰した。

 高く澄んだ音と共に、無数の欠片と化して砕けたカードは、蒼い燐光となって宙に溶け――そこに、一つの人影を成す。
 霧に霞んではいるが、男のものと分かるシルエット。纏った黒外套の裾をはためかせ、手にした刃をかざす。
 その仕草に応えるように、言霊が口をついて出た。
「――ジオ!」
 鋭く放った声と共に、黒衣の怪人が振り下ろした刃から雷光が放たれる。
 その雷は、狙い違わず霧の中の人影を撃ち――

“なるほど……確かに、面白い素養だ……”

 しかし、高みから見下ろすようなその声を、幾許いくばくも揺るがすことはできなかった。
 思わず歯噛みする彼の様子など素知らぬ風で、人影は言葉を紡ぎ続ける。

“でも……簡単には捕まえられないよ……”

 その言葉と共に、じわりと滲む様に、辺りの霧が色を濃くした。
 人影の姿が、完全に霧の向こうに消える。

“求めているものが“真実”なら、尚更ね……”

「――くッ……!」
 声が背後から響いてきたことに慌てて振り返るも、見えるのは、ただ一面の白。

“誰だって、見たいものを見たいように見る……そして、霧はどこまでも深くなる……”

 そして、その声さえも、どこから響いて来るのか定かでなくなった。

“いつか……会えるのかな……こことは違う場所で……”

 刃を握りしめ、警戒も露わに周囲を見渡す彼の様子など気に掛けた風もなく、どこか楽しげにさえ聞こえる響き。

“ふふ……楽しみにしているよ……”

 その言葉を、最後に――

 彼の意識は、霧にかき消されるように途切れた。

 * * *

 覚醒した意識がまず認識したのは、けたたましい電子音だった。
「……うるさいなぁ……」
 重い瞼を閉じまま、手探りでベッドサイドの携帯を取ろうとし――覚えのない、ざらりとした感触に、足立は眉をしかめた。
「――うん?」
 呻いて、ようやっと視覚を機能させる。
 見れば掌が触れたものの正体は畳だった。自身が横たわっているのはその上に敷かれた布団。
(……あー……そうだった)
 自身が今いる場所を思い出し、足立は眠い目をこすって身を起こした。
 ここは自分の部屋ではなく、堂島宅の客間だ。昨夜、暁の手料理をご馳走になった後のこと。話が盛り上がり、気がつけばいい時間になってしまっていた。慌てて辞去しようとしたところ、堂島が「もういっそ泊まってけ」と言い出し、結局それに甘えてしまったのだ。
 状況を把握したところで、先程から枕元で鳴り続けている携帯を手に取る。目覚まし代わりのアラーム機能――ではなく、着信だった。
「――はい、足立です」
 通話相手は署の同僚――それも、足立を目の敵にしている人物だった。
 それだけで足立の眉をしかめさせるに十分だったが、告げられた内容は更に足立の顔をしかめさせた。

 ――山野真由美が、宿泊先の天城屋旅館から失踪した。捜索のため、天城屋旅館に急行せよ。

 人生で初めて、真摯に平穏を願った翌朝に、これだ。
「……くそったれ」
 最悪なモーニングコールに、足立は口汚く吐き捨て、身支度を始めた。


 寝間着代わりに貸してもらった堂島のジャージから、自身のスーツに着替えて、客間のある二階から下りると、奥の廊下からスーツ姿の堂島が出てきたところだった。
「おう、足立。よく眠れたか――って、こんな朝早くに叩き起こされて訊くことじゃないか」
 堂島は自身の言葉に苦笑を浮かべる。午前五時前、まだ外は薄暗い時間だ。
「モーニングコールまではぐっすりでしたよ。――あ、布団とジャージ、適当に畳んでそのままにしてありますけど」
「ああ、わかった」
 苦笑を返してから、借りたものの片づけを確認した足立に、堂島は頷く。
 と、階段から、軽やかな足音が下りてきた。
「あ、おはようございます」
 足音の主――パジャマ姿のままの暁は、足立達に目を留めると、笑顔で朝の挨拶を告げる。
「おはよう――っていうか……もしかして、起こしちゃった?」
 足立は反射で挨拶を返してから、思い至って恐る恐る問う。
 足立が泊まっていた客間は、暁の部屋の隣だった。足立が寝ぼけたために、長時間鳴りっぱなしだった着信音で起こしてしまった可能性は高い。
「いえ、私、元々朝は早いので」
 暁は笑顔でそう言ってくれたが、いくらなんでもこの時間は早すぎる。やはり起こしてしまったのだろう。しかし、こういう言い方をされてしまうと、謝るのもなんだかおかしい。
「悪い、暁。俺達はもう出なきゃいかん。家出るとき、戸締り頼むな」
 どう言葉を紡ぐべきか、足立が頭を悩ませる横で、堂島がさっさと話しをたたみにかかる。
「わかりました。――あ、ちょっとだけ待ってもらえますか?」
 暁は堂島の言葉に頷いてから、慌てたように続ける。冷蔵庫に駆け寄ると、取り出したものを持って炊飯器の方へ移動。手際よくご飯を詰めて蓋をする。キッチンテーブルにあらかじめ用意してあったらしい布でそれらを包むと、足立と堂島に差し出した。
「はい、お弁当です。朝ごはんの代わりに持って行ってください」
「え……でもこれ、暁ちゃんの分じゃない?」
 差し出された弁当箱に、足立は戸惑う。堂島のものと比べて一回り小さいそれは、明らかに女性向けの弁当箱だ。
 しかし、暁はその指摘にちょっと照れたように目を伏せる。
「……今日、学校は午前中だけなんです」
 間違えていつもの癖で作っちゃって、と苦笑した。
「今日のお昼は菜々子ちゃんと食べるつもりなので、このお弁当は足立さんが持って行ってください」
 足立は、そう言って受け取らされた包みをまじまじと見つめ――
「……あっ、ありが――ぁいでででッ!?」
「ほれ、行くぞ足立!」
 我に返って礼を言いかけたところで、堂島に耳を摘ままれて、暁から引き離されるように玄関の方へ引っ張られた。
「弁当、ありがとな。行ってくる」
「ちょ、堂島さん、自分ばっかっぁだだっ!――あ、ありがとねー!」
 その癖自分はきっちり姪に礼を告げる堂島に思わず不平を漏らしつつも、足立は引きずられたまま礼を言う。
 暁はにこにこと笑みを浮かべたまま、「行ってらっしゃい、気を付けてくださいね」と見送ってくれた。


 署には寄らず、堂島の車で天城屋旅館に直接乗りつけた。既に数台警察車両の姿が見て取れ、大事になっているのだと知れる。
「――状況は」
 駐車場に停めた車から降りるなり、目に付いた警官を捕まえ、挨拶もなしに問いを投げる堂島。
「芳しくないですね。まるで手がかりなし」
 帰ってきた返答は、苦々しげなものだった。
 通報があったのは今から小一時間前。
 山野の宿泊する部屋の前を通りかかった仲居が、その扉が閉まりきっていないことに気づき、不審に思って中を窺ったところ、室内は何者かが争ったかのように荒れ、山野の姿はどこにもなかった。報告を受けた支配人が、状況からただ事ではないと判断し、即座に警察へ通報したのだ。
 警察が到着するまでの間も従業員総出で旅館内を捜索したが真由美の姿はなく、到着した警察による近隣の捜索も今のところ何の成果もあげられていないとのことだ。
「拉致の可能性はもちろん、貴重品の類が部屋になかったことから、山野アナ当人が自発的に出て行った可能性も考慮して、駅や主要道路にも人を回してますが……今のところは成果なしです」
「……とりあえず、山野真由美が泊まっていた部屋を見せてくれ」
 堂島は、警官の言葉に苦い顔になりつつもそう告げる。
 わかりました、と頷いた警官に先導され、足立は堂島と共に歩き出した。


 山野真由美が宿泊していた部屋は、天城屋旅館でも特に上等に区分される部屋だった。
 座卓やテレビなどが置かれた部屋と寝間が続きの間になっている和室だ。広く、どちらの間も十六畳はある。
(――ここに一人で泊まるのって、かえって虚しい気が……)
 足立は思わずそう思ったが、今はそんなことを考えている場合ではない。
 酷く荒らされているのは座卓周辺で、卓は蹴飛ばされたように斜めにずれており、座布団もあっちこっちに散らばっている。
 しかし、何より目についたのは、座卓脇に置かれた大型のブラウン管テレビの画面が割れていたことだった。
 すぐそばに、部屋の備品らしいポットが転がっていたことから、おそらくはこれを叩きつけたのだろうが――
「これ、結構な音がしたんじゃないか……?」
 思ったことを口にすれば、部屋に控えていた刑事がため息まじりに応えた。
「だと思うんだがな。間が悪いというかなんというか……昨夜このフロアで客が入っていたのは、この部屋だけだったんだそうだ」
 シーズンからずれていることと、他と比べて値の張る上部屋しかないフロアであることが相俟って、昨夜の時点でこのフロアに宿泊していたのは山野真由美だけであったらしい。
 ならば、この部屋の上下に当たる部屋はどうかというと、これも空き部屋。それも、その理由はというと――
「なんでも、山野真由美が時々ヒステリー起こして大声で喚くことがあったそうで。女将が注意しても収まるどころか、逆に噛みつく始末だったらしく。他の客の迷惑にならんよう、余裕があるうちはこの部屋の周囲に客を入れないようにしていたそうです」
(……うわぁ……)
 山野の、もはや追い出されても文句は言えないレベルの悪質っぷりに、足立は思わず遠い目になる。
 おそらくは自身のスキャンダルのことで情緒不安定になっていたのだとは思うが――それにしても酷い。自身が思い描いていた『山野アナ』のイメージが崩れていく。
「……最後に山野真由美の無事が確認されているのはいつだ?」
「昨夜8時。夕食の膳を下げに来た仲居の証言です。ただ、この時もまた山野がヒステリーを起こしたようで、『私に構うな』と怒鳴って茶を引っかけられたと。そのこともあって、それから今朝まで、従業員もこの部屋に近づくのを避けていたようです」
「……最悪だ……」
 堂島の問いに返ってきた答えに、足立は思わず呻く。――色んな意味で最悪だ。
「……時間が絞れないのは痛いな……」
 堂島も苦々しく呻く。
 昨夜の8時から、通報があった今朝4時過ぎまでのおよそ八時間。この時間帯のどの時点から山野がいなかったのかによって、状況は大きく変化する。昨夜のうちに失踪していたのだとすれば、彼女は既に八十稲羽この町を出てしまっている可能性もある。
「……見つけるのに手間取るかもしれないな、これは……」
 そう重々しく落とされた堂島の呟き。

 しかし、その言葉を裏切る形で――その日の昼前に、山野真由美は発見された。

 ――物言わぬ遺体となり、民家のテレビアンテナに逆さ吊りされるという、最悪の形で。

 * * *

 菜々子にとって、美味しそうな匂いに誘われて目が覚め、リビングに出れば朝食が並んでいるという光景は、酷くおぼろな幼い頃の記憶の中にしかないものだった。
 何故なら、一年前に母を亡くしてから、この家で朝食を用意するのは菜々子の役目だったからだ。パンを焼いて、チーズかハムを乗せる。小学校に上がった今年からは、目玉焼きも作れるようになった。
 自分で用意した簡素なその朝食を、時には『うまい』と笑ってくれる父親と一緒に、時には一人で黙々と食べる。父が一緒にいるかいないかで、いつも同じはずの朝食の味は全然違うのだ。
 今日は、朝早くに電話があって、父は慌ただしく出て行ってしまった。菜々子はまだ布団の中で、半分眠っていたけれど、それでも父が出かけて行った気配は感じ取っていた。
 きっと、リビングに行ったら、お父さんの書いたメモがポツンとおいてある。それを読んでから、一人分の、美味しくない朝ご飯を用意するんだ――
 夢うつつに、そんな寂しい思いを巡らせた菜々子の鼻に、ふと、とてもおいしそうな匂いが届いた。
 あれ、と菜々子は訝しく思う。お父さんは仕事に行ったのに。ううん、お父さんがいても、お父さんはご飯の用意なんてできないのに。
 菜々子以外で、ご飯が用意できるのは、この家ではお母さんだけなのに――
 思考がそこに行きついた瞬間、菜々子はぱちりと夢心地から覚めて飛び起き、慌ててリビングに向かった。
「――お母さん!?」
 叫んで駆け込んだリビングには、エプロンをした女の人がいた。
 その人は、菜々子の声に驚いたように振り返る。二つに分けて三つ編みにされた、きらきら輝く銀色の髪。見開かれた、綺麗な青い目。

 ――お母さんじゃ、ない。

「……あ……ご、ごめんなさい!」
 今度こそ本当に目が覚めて、菜々子は慌ててその人に謝った。
 この人は、暁お姉ちゃん。昨日、家に引っ越してきた、お父さんのお姉さんの子供。菜々子の従姉のお姉ちゃんだ。
 お姉ちゃんは料理が得意で、昨日作ってくれた夕ご飯も美味しかった。明日からは毎日作ってくれると聞いて、すごく嬉しかったのに――
 ――何でお姉ちゃんのこと忘れて、お母さんだなんて思っちゃったの。
 恥ずかしさと、改めて感じる、母はもういないのだという事実。二つの気持ちがぐちゃぐちゃになって、菜々子はぎゅっと目を瞑って俯き――
 その頭に、優しく触れる感触があった。
「おはよう、菜々子ちゃん。ご飯、できてるから、顔を洗って着替えておいで」
 優しい声に目を開ければ、にっこり笑って自分の頭を撫でてくれる従姉あねの姿。
 その不思議な青い目に、恥ずかしさも悲しさも全部吸い込まれてしまったように、菜々子の心は一瞬で落ち着いた。
「うん!」
 優しい従姉の言葉に元気良く頷いて、菜々子は急いで洗面台へと向かった。

 * * *

「朝からご飯なの、久しぶり!」
 いつもパンだから、と嬉しそうにはしゃぐ菜々子に、暁はほっと笑みをこぼす。
 今の菜々子に、自分を亡き母と間違えた時の寂しそうな様子は既にない。例えこの一時のことだとしても、自分の行為で従姉の寂しさを和らげられるなら、それは嬉しいことだった。
 いただきます、と菜々子と声を揃えて、暁は朝食に箸をつける。
 朝食のメニューは、ジャガイモと玉ねぎの味噌汁に、鮭の塩焼き。副菜はほうれん草とじゃこの和え物だ。
「自分が和食好きだから、どうしても作るのも和食が多くなっちゃうの」
 昨日の夕飯がパスタだったように、作る分にも食べる分にも洋食が苦手というわけでもないのだが――特にこれといったテーマがないと、つい自身の食べたいものが優先してメニュー候補に挙がってくる。
 これまでは、食材調達の時点で、メニューを相談する相手がいなかったというのもある。しかし、これからは菜々子がいるのだ。
 食べ終わった食事の食器を流しにつけながら、暁は菜々子に尋ねてみた。
「そうだ、菜々子ちゃん。今日のお夕飯、何がいい?」
「え!?……菜々子が、きめていいの?」
 返ってきたのは遠慮がちな声。暁はもう一押ししてみた。
「うん。ただ、お姉ちゃんに作れないのだったらごめんね?」
 好きなメニュー言ってみて?と促せば、菜々子はしばし悩んでから、「ギョーザ!」と声を上げた。
「餃子か。うん、それならお姉ちゃんにも作れるよ。菜々子ちゃん、餃子好きなんだ?」
「うん!菜々子も好きだけどね、お父さんもギョーザ好きなの!」
 ああ、なるほど、と暁は納得する。自分よりも父親の好みを優先するあたり、菜々子のいじらしさがよく表れていた。
「じゃあ、今日の帰り、餃子の材料を買いに、一緒にジュネス行こうか?」
「――ジュネス!?いく!」
 暁の提案に、菜々子の声が一オクターブ跳ねあがる。
「じゃあ、学校終わったら待ち合わせしようか。携帯持ってるんだよね?」
「うん!」
 はしゃぐ菜々子と携帯アドレスを交換して、戸締りを確認し、それぞれ荷物を持って家を出る。
「お姉ちゃん、まだ道よくわかんないでしょ?菜々子、とちゅうまでいっしょだから、案内してあげるね!」
 外はあいにくの雨だったが、嬉しそうな菜々子の声で、暁の心は晴れやかだった。


 暁にとって、今回の転校デビューは、中々に波乱に満ちたものとなった。
 途中まで案内してくれた菜々子と別れたあと。通学路の途中で男子の乗った自転車がひっくり返る瞬間を目撃し、あまつさえ、男性には致命的らしい箇所を打ち付けた様子に声をかけるか迷ったり(結局何と声を掛ければいいのかわからずそっとしておいた)。
 その後、諸岡という担任教師と共に教室に行ったら、その男子がクラスに居て、思いっきり机に突っ伏していて、それに気を取られてしまい担任の話を聞いていなかったり(担任の『自己紹介しろ』の声に我に返った)。
 とりあえず笑顔で自己紹介したら、諸岡が自分の方を見ていたという男子になぜか説教しだし(自己紹介の時にそっぽを向いている方が失礼だと思うのだが)、一向に終わる気配のないその話は、一人の女生徒が暁の席について訊ねたことで、ようやっと終わった。
 暁が席に着いた後、諸岡が出席を取り、ようやっと通常通り授業が始まる。
 その後、授業中も何事もなかったのだが、本日最大の波は、帰りのHRを終え、担任が解散を告げた瞬間に来た。
『先生方にお知らせします。只今より、緊急職員会議を行いますので、至急、職員室までお戻りください。また、全校生徒は各教室に戻り、指示があるまで下校しないでください』
 そんな突然の校内放送に教室にざわめきが満ちる。
「いいか?指示があるまで教室を出るなよ」
 何事かと呻いた諸岡が、生徒たちに念押ししてから教室を出て行った。
「……あいつ、マジしんどい」
 諸岡が出て行くと同時、近くで女生徒の呟く声が耳に入る。そういえば、自己紹介の直後にも、彼に対する不服と暁に対する同情の声が囁かれていた。
 まあ、確かに話は長いし、中々癖もあるかもしれない。ただ、暁と職員室で対面した時は、口調こそきついが、いろいろと気遣ってくれるいい教師に思えたのだが。
 諸岡の印象の差に暁が首を捻っていると、ふと窓の外から剣呑な音が響いてきた。
 ――パトカーの、サイレン。
 教室の喧噪のなかでも耳に着く独特の音に惹かれたように、数人の男子が窓際へ駆け寄っていく。
 事件かと言い合いつつ、窓の外を熱心に見るが、外に立ち込める霧のせいで何も見えないようだ。
「最近、雨が降った後とか、やたらでるよな」
 そんなつぶやきが聞こえて、暁は首を傾げた。
 霧が出やすい土地、というのは、地形や気候などの環境によって決まるものだろう。それらの環境はそうそう大きく変化するようなものではないだろうに、最近になって霧が増えてきたというのは、どういうことなのだろう。地球温暖化の余波だったりするのだろうか。
 と、暁がそんなことを考えているうち、男子たちの話題は別のものに移っていたらしい。やおらそのうちの一人が声を上げると、暁の右斜め前に座る女生徒の下に歩み寄り、口を開いた。
「あ、あのさ、天城。ちょっと訊きたいことがあるんだけど」
 声をかけてきた男子に、その女子は長い黒髪を揺らして向き直る。
(綺麗な子だなぁ)
 斜め後ろから垣間見える横顔に、暁は素直に感嘆する。
 大和美人、と称したくなるような少女だった。赤いカチューシャで止められた黒髪は腰ほどまで伸び、その白い肌に映えていた。切れ長の瞳が印象的な、すっきりと整った顔立ち。背筋を伸ばして自身の席に座っている姿にさえ、どことなく品が漂っている。赤が好きなのか、制服の上から羽織ったカーディガンも鮮やかな赤色だ。
 天城と呼びかけられた彼女が軽く首を傾げると、男子はどこか期待のこもったような声で訊ねた。
「天城んちの旅館にさ、山野アナが泊まってるって、マジ?」
「……そういうの、答えられない」
 彼女は小さく眉を寄せ、男子から顔をそむけて言った。寄る辺もないその返答に、男子は乾いた笑いをもらしてすごすごと退散する。
(天城さん、か。お家、旅館なんだ。……山野アナって、昨日のニュースの人かな)
 どうも触れてほしくなさそうなので、口には出さず暁は内心で呟く。
 と、男子と入れ替わりに、一人の女子が『天城さん』に歩み寄って声をかけた。
「はー、もう何コレ。いつまでかかんのかな」
 盛大にため息をつく彼女の姿に、暁は見覚えがあった。
 朝、担任の長話を留めてくれた女子だ。暁の隣の席の生徒でもある。制服の上に着込んだ私物らしい緑のジャージは見間違えようもない。
 栗色のショートカットが良く似合う、溌剌とした印象の子だった。傍にいると、こちらまで元気になるような、そんなカラリとした生彩を放っている。
 しかし、今はその顔も曇り、見るからにうんざりとした様子だった。
「さあね」
 ショートカットの女子の愚痴っぽい呟きに応じる天城の答えは短いが、先ほどの男子との受け答えとは声の柔らかさがまるで違う。仲がいいのだろう。
 ソッコー帰ればよかった、と愚痴るショートカットの女子に、天城は微苦笑を浮かべた。HR終了と放送の間のなさからしてそれは無理だと思ったのだろう。
 しかし、ショートカットの少女は愚痴るだけ愚痴ると、ころりと話題を変えた。思い出したように対話相手に尋ねる。
「ね……そう言えばさ、前に話したやつ、やってみた?」
 相手が首を傾げたのを見て、更に言葉を続ける。
「ほら、雨の夜中に……ってやつ」
「あ、ごめん、やってない」
 ようやっと意味が通じたのか、何やら謝る天城に、ショートカットの少女はカラカラと気にした風もなく笑う。
「いいって、当然だし。けど、隣のクラスの男子『俺の運命の相手は山野アナだーっ!』とか叫んでたって」
 おかしそうに告げたその内容に、暁は恋占いか何かかなと思った。
 と、そこに再びスピーカーからの声が届く。
『全校生徒にお知らせします。学区内で、事件が発生しました。通学路に警察官が動員されています。出来るだけ保護者の方と連絡を取り、落ち着いて、速やかに下校してください。警察官の邪魔をせず、寄り道などしないようにして下さい。繰り返します――』
「事件!?」
 内容を繰り返す放送に重なるように、興奮した男子の声が響く。
 それを皮切りに教室内のざわめきが増すが、暁は口を開かず、ただ眉を寄せる。
(保護者……堂島さんは、たぶん、事件の捜査に出てるよね。菜々子ちゃんはどうするんだろう……)
 暁の通うこの八十神高校と、菜々子の通う小学校はそれほど離れていない。こちらでこのような警戒態勢が取られているなら、あちらも同様だろう。おそらく小学校では集団下校という形になるのだろうが。
 とりあえず菜々子に連絡しようと携帯を取り出すと、そのタイミングで着信が入った。菜々子からだ。
「――もしもし、菜々子ちゃん?」
『あ、お姉ちゃん。もしもし、菜々子です』
 沈んだ声で菜々子が告げたのは、やはり暁の予想通り、小学校は集団下校となったこと、帰宅後はできるだけ自宅で保護者と一緒にいるよう言われたこと、という二点だった。
『今日はジュネス、いけないね……』
「うん……残念だけど。それはまた今度ね。私もすぐお家に帰るから、菜々子ちゃんはお家で待ってて。けど、お昼ご飯は、お家にあるもので一緒に作ろうね」
『――菜々子も一緒に!?』
 残念そうな菜々子を励ますつもりで暁が告げた言葉は効果があったようだ。菜々子の声が明るくなる。
『うん、わかった!お家で待ってる!』
 早く帰ってきてね!とはしゃいだ声の菜々子に、わかったと答えてから通話を終える。
 手早く荷物を鞄にしまうと、暁は席を立ち――そのタイミングで、声がかかった。
「あ、帰り一人?なら、一緒に帰んない?」
 声の主は、先ほどのショートカットの女子だ。にこりと人好きのする笑みを浮かべて、暁へと自己紹介する。
「あたし、里中千枝ね。隣の席なのは知ってるっしょ?」
「うん。今朝はありがとう」
 担任の長話を止めてくれた件に礼を言えば、「いいっていいって」と快活に笑う。それから、一緒にいた黒髪の女子についても紹介してくれた。
「で、こっちは天城雪子」
「あ、初めまして……なんか急でごめんね」
 紹介に合わせ、雪子が挨拶し、申し訳なさそうに付け加える。いきなり一緒の下校を提案したことに気おくれを覚えているようだった。
 そんな雪子の態度に、千枝がばつが悪そうに身じろぎする。
「のぁ、謝んないでよ。あたし失礼な人みたいじゃん。ちょっと話を聞きたいなーって、それだけだってば」
 素直で裏のない物言いに好感を覚えて、暁は思わず笑みを浮かべて改めて挨拶する。
「今朝もみんなに挨拶したけど、改めて。神代暁です」
「ねね、暁って呼んでいい?あたし達のことも名前で呼んでいいからさ」
「うん、よろしくね、千枝、雪子」
 懐っこく提案してくる千枝の言葉に、暁も嬉しくなって笑顔で頷く。
 と、その友好的な雰囲気に水を差すような重い声がかかった。
「あ、えーと、里中……さん」
(――あ、今朝の)
 どこか落ち着きなさそうに声をかけてきたのは、今朝暁が目撃した自転車事故の男子だった。
 まともに顔を見るのは初めてだが、毛先の跳ねた癖のある茶髪と、首に下げた鮮やかな橙のヘッドホンは見間違えようがない。
 改めて正面から彼の見た面立ちはなかなかに整ったもので、『美形』いうよりは『イケメン』という表現がよく似合う。近寄りがたさを感じさせない懐っこそうな魅力の持ち主だが、今現在、その魅力は顔色の悪さによって五割減になっていた。
「これ、スゲー、面白かったです。技の繰り出しが流石の本場つーか……申し訳ない!事故なんだ!バイト代入るまで待って!」
 早口にまくし立てると、手にしていたDVDを千枝に押し付けて、廊下へ続くドアへと駆けて行く。
 一瞬ぽかんとした千枝だったが、すぐに我に返ったようにその背を追って叫んだ。
「待て!貸したDVDに何をした!?」
 同時に、床を蹴って大きく跳躍。
「――のわっ!」
 見事な跳び蹴りを背に受けた男子は、近くの机に激突する。
「うわ!信じらんない!ヒビ入ってるじゃん!あたしの成龍伝説がぁー!」
「お……俺のも割れそう……つ、机の角が、直に……」
 DVDの中身を確認した千枝の悲鳴と、今朝に続いて再び急所を打ったらしい男子の苦悶の声が重なる。
 さすがに見かねた暁が男子に声をかけるより先に、雪子が彼へと声をかけた。
「だ、大丈夫?」
「ああ、天城……心配してくれてるのか」
 顔をゆがませながらも、雪子の案じる声に応える男子。
「いいよ、雪子。花村なんか、放っといて帰ろ」
 しかし、千枝はそんな彼に対してにべもなく断じると、DVDを鞄にしまってドアへと向かう。
 暁と雪子は、苦しむ様子の男子に後ろ髪をひかれつつも、結局は彼女の後を追って教室を後にした。


「あ、一緒に帰るのは嬉しいんだけど……今日はちょっと寄り道できないの」
 下駄箱に向かう途中、「この後ジュネスで何か食べて行かない?」と尋ねてきた千枝に、暁は申し訳なくも告げる。
「へ?何か用事?」
「用事じゃないんだけど、小学生の従妹が一人で家にいるから……何か事件があったっていう直後に、さすがに一人にはしておけなくて」
 暁の返事に、千枝も雪子も納得したように頷く。
 靴を履きかえて昇降口に降りながら、暁は菜々子のはしゃいだ声を思い出しながら笑う。
「それに、一緒にお昼作ろうねって約束したし」
「おお、暁って実は料理上手!?」
 歩きながら、千枝が食いつく。雪子も目を見開いて感心した様子だ。
「上手……かはわからないけど、料理は好きだし、慣れてるかな。中学あがってからは、殆ど私が家のことやってたし」
 苦笑気味に告げれば、二人は何やら虚を突かれたような表情を浮かべて、何やら複雑そうに顔を見合わせる。
「……?どうかした?」
「え……えっと」
「そのう、それって――」
 言いにくそうに口ごもった雪子に代わり、千枝が意を決したように口を開き――
「君さ、雪子だよね」
 そのタイミングで、唐突に別の声が割って入った。
 歩きながら話しているうち、いつの間にか差し掛かっていた校門。その柱の脇に居たブレザー姿の男子が、雪子に声をかけてきたのだ。
 言っては悪いが、少々不気味な印象の少年だった。目の下の泣きぼくろ以外には特に特徴のある容姿ではないのだが、目にどんよりと雲でもかかっているかのように生気がない。
(ここの制服じゃないけど……雪子の知り合い?でも、それにしては『だよね?』って言い方は妙だし)
 首を傾げる暁の前で、男子は更に言葉を続ける。
「こ、これからどっか遊びに行かない?」
「え……だ、誰?」
 困惑したような雪子の声に、やはり知り合いではないようだと暁は確信する。しかし、ならばこの少年の異様な馴れ馴れしさは何なのだろう。
「なにアイツ。どこの学校?」
 と、後ろから聞こえてきた訝しげな声で、暁は周囲の様子に気が付いた。
 下校時の校門で立ち止まっていれば当然邪魔になるし、人目も引く。気が付けばそれなりの野次馬が集まっていた。
 野次馬の一部は「よりによって天城狙いか」「『天城越え』の厳しさ知らないのか」「っていうか普通は一人の時誘うだろう」などと呆れた呟きをもらし、しまいにはその成否ついてジュース賭けあう始末だ。
 そんな野次馬の様子に苛立ったのか、それとも戸惑って一向に答えようとしない雪子の様子に焦れたのか、件の男子が不機嫌な声で再度訊ねた。
「あのさ、行くの?行かないの?どっち?」
「い、行かない……」
 怯えた風に目を逸らして、しかしはっきりと拒絶した雪子の返答に、少年は憤慨も露わに叫んだ。
「……ならいい!」
 そうして踵を返すとその場から走り去っていく。
「あの人……何の用だったんだろう……」
「何の用って……デートのお誘いでしょ、どう見たって」
 呆然と呟く雪子に、千枝が目を瞬いて告げた。
 その言葉に、雪子が驚いた声を上げる。どうやら、まるで相手の意図に気づいていなかったらしい。
 千枝はそんな雪子に対し、「またか」と言わんばかりの反応で、どうやら彼女はもともとこの手のことに鈍いようだ。
 アプローチの意図すら通じていなかったのかと思うとあの男子も不憫だが、彼の誘い方にも多分に難があった。暁は思わず呟く。
「けど、あの誘い方はないかな……初対面で勝手に呼び捨てって……」
「だよねぇ。いきなり『雪子』って怖すぎ」
 しみじみと同意する千枝の声。と、そこに、先ほどの男子の声とは雲泥の差がある、爽やかな声がかかった。
「よう天城、また悩める男子をフッたのか?まったく罪作りだな……俺も去年、バッサリ斬られたもんなあ」
 ギコギコと軋んだような異音を発する自転車を押して現れたのは、先ほど教室においてきてしまった『成龍伝説』の彼だ。
 恨み言のような言葉とは裏腹に、声にも顔にも笑みが浮かんでいる。先ほどの一件に関しても気にした風もなかった。
 しかし、そんな彼の言葉に、雪子は首を傾げる。
「別にそんなことしてないよ?」
「え、マジで?じゃあ今度、どっか一緒に出掛ける?」
「……それは嫌だけど」
 喜色を浮かべた彼のお誘いを、しかしきっぱり斬って捨てた。
「僅かでも期待したオレがバカだったよ……つーか、お前ら、あんま転校生イジメんなよー」
 彼はがっくりと肩を落としつつ自転車にまたがると、最後に悪戯っぽく言い残して、勢いよく校門前の坂を下っていった。
「話聞くだけだってばー!」
 怒鳴る千枝の声に返るのは、フェードアウトしていく笑い声。
 一緒に居て退屈しない子たちだなぁ、と暁はつい笑みをこぼす。明るくて楽しいクラスメイト達だ。
「あ、あの、ごめんね。いきなり……」
 暁に告げられた雪子の謝罪は、先ほどの他校の男子の一件か、騒ぐ千枝のことか。
 しかし、前者は雪子が悪いのではないし、千枝に関しても暁は特に気にしていない。だから、暁は笑って首を振る。
「ほら、もう行こ。なんか注目されちゃってるし」
 姿の見えなくなった自転車少年へ向けてか溜め息をこぼし、千枝が言って歩き始める。
 その注目の何割かは先ほどの千枝の怒鳴り声によって集まったものだとは思ったが、そこには触れずに、暁も雪子と並んで彼女の後を追うことにした。


「へえ、両親揃って海外赴任かぁ。なんだ、もっとしんどい理由かと思っちゃった」
 帰る道すがら、転校の理由について訊ねられ、暁が叔父の家に世話になることになった経緯を話すと、千枝はそんな風に言って安堵したように笑う。
「しんどい理由?」
「いや……家族に不幸があったとか……なんかさっき、家のことは全部暁がやってる、みたいなこと言ってたし」
 暁が目を瞬かせれば、千枝は気まずそうに白状する。
「ああ、それはさっきも言った通り両親が仕事人間だから。家にいる時間が一番長いの、私だし。小学校まではさすがに両親のどっちかが仕事減らして家のことやってたけどね」
 しかし、その当時から『手伝い』と称して家事を仕込まれていたな、と当時を振り返って暁は苦笑する。
「あたしにはとてもマネできないなー。お母さんに頼りっぱなしだよ」
「私も家事はあんまり……」
「まあ、ああいうのって慣れだから。でも、やってみると結構楽しいよ?」
「家事を楽しむって発想がまず無理だわ……」
 そんな他愛ない話をしながら、田んぼ沿いの道を歩く。
 一面に広がる田園風景の向こうに、青く聳える山並み。立ち並ぶ送電塔。
 と、一陣の風が吹き抜けて、ざあ……っ、と青い苗が波打つようにそよぐ様に、暁は思わず感嘆の声をもらす。
「綺麗……」
「へ?え、何が?」
 千枝がきょときょとと辺りを見回す。田んぼの様子は眼中にないらしい。見慣れてしまっているのだろう。
「ごめん、田んぼの苗が一斉にそよぐのが、結構壮観だったから」
「え、田んぼ?……ああ、そっか、暁は都会の方から来たんだもんねぇ」
「田んぼはあんまりなさそうだよね」
 暁の言葉に、千枝と雪子は苦笑した。
「うん。両親の仕事の都合であちこち行ったけど、どこの時もいわゆる『地方都市』ばっかりだったから。見渡す限りの田んぼって、初めてかな」
「うわー、そっちのがあたしには想像つかないわー」
 田んぼなんてあるのが当たり前だからなぁ、と千枝が呆然と呟く。
「でも、三日も過ぎれば見飽きると思うよー。別に何があるわけじゃないし。……っていうか、この辺、ほんっと何にもないから」
「そうなの?」
「まあ、そこがいいところでもあるんだけどね。……んー、しいて言うなら、八十神山から採れる、染め物とか焼き物がちょっとだけ有名かな」
「千枝、その言い方じゃ、染め物や焼き物が直接山から採れるみたいだよ」
 千枝の言葉に、雪子が苦笑して訂正する。要は、染め物や焼き物に使われる染料や土が採れるらしい。
「あはは、ごめんごめん。うーんと、あとはー……ああ、雪子んちの『天城屋旅館』は普通に自慢の名所!」
「え……別に、ただ古いだけだよ」
 雪子は戸惑った風に首を振るが、千枝はそんな様子をただの謙遜と取ったらしく、つらつらと『天城屋旅館』をたたえ始める。
 どうやら、雪子の実家はかなり歴史のある旅館のようで、『隠れ家温泉』として雑誌などでも紹介される名所らしい。過疎化が進む八十稲羽の街は、天城屋旅館を訪れる観光客の収益でもっているも同然だそうだ。
 まるで自分のことのように自慢げに語る千枝とは対照的に、雪子は何故か嬉しくなさそうだ。
 気恥ずかしいのかな、と暁は思うが、それにしては様子が少しおかしい。そう疑問に思ったところで、千枝の天城屋解説は終わり、唐突に次の話題に移った。
「ね、ところでさ、雪子って美人だと思わない?暁も美人だけどさ」
「え?……確かに雪子は大和美人って感じだよね。髪とかまさに緑の黒髪って感じで凄く綺麗だし」
 いきなりシフトした話にちょっと戸惑いつつ、暁は雪子に関しては素直な感想を述べるものの、自身の容姿に関しては良くわからないので首を捻る。まあ、日本人離れしているのは確かなのだが。
「そんな……暁の方が美人だよ。それに、その色……アッシュグレイっていうのかな?凄く綺麗だよね」
 照れつつも、雪子は暁の髪を褒める。それに千枝も力強く頷いて、
「ホントホント!それ染めてるんじゃないよね?だったらモロキン黙ってないし、目もちょっと青みがかってるし」
 モロキンというのは担任の諸岡のあだ名らしい。
「ああ、うん。地毛だよ。父方の祖母がロシア人なの」
「へー!クォーターってやつ?かっこいい~」
 きらきらとした目で見つめてくる千枝の視線にいささか困惑し、暁は話のベクトルを変える言葉を告げた。
「でも、千枝だって可愛いよね。目なんかパッチリ大きいし。声も表情もはきはきしてるから、いるだけで周りが明るくなるもの」
「ぅええッ!?……あ、あたしなんかは全然……!」
「うん、確かに。千枝は可愛いよ?」
「ぎゃー!やめてー!恥ずかしくて死ぬぅー!」
 暁のみならず雪子からも追撃されて、千枝は顔を真っ赤にして悶えだした。
「……結構、こういうの恥ずかしいでしょ?」
「……はい、よくわかりました。今後自重します……」
 悶えすぎてぐったりとなった千枝に暁が苦笑して告げると、千枝は素直に反省の弁を述べた。
 と、何とか立ち直って顔を上げた千枝が、道の先に目をやって首を傾げた。
「――あれ、なんだろ?」
 言われてそちらに目をやれば、田んぼ沿いの民家周辺に何やら人だかりが見える。
 元々進行方向なのでそちらに歩んでいけば、なにやら人の隙間から、パトカーや立ち入り禁止を示す黄色いテープ、辺りを覆うブルーシートが目に付き始めた。
(……もしかして、校内放送で言ってた『事件』の現場……?)
 暁がそう思った時、野次馬らしき二人連れの主婦の会話が、ぽつぽつと耳に届いた。
 ――アンテナに引っかかってた――警察と消防でさっき下ろした――早退した女子高生が――死体――
「――死体!?」
 やはり主婦の声が聞こえたのか、千枝が硬い声を上げる。
「さっきの校内放送って、これのこと……?」
「アンテナに引っかかってたって、どういうことなんだろう……」
 三人で不安げに声を交し合いつつ思わず立ち竦んでいると、ふいに低い男の声がかかった。
「おい、ここで何してる」
「――叔父さん」
 声の主は、黄色いテープの向こう側から出てきた堂島だった。反射で返した暁の声は、自分でも意外なほど強張っていた。
「学校帰りに通りかかったんですけど……これ、一体……?」
「……ったく、あの校長、ここは通すなって言ったろうが……」
 暁の問いには答えず、堂島は苦々しげに呟いて頭を掻き毟る。
「えと……知り合い?」
 突然現れた刑事らしき男がクラスメイトと気安く話しているという状況に混乱したのか、千枝が落ち着かない様子で暁に囁く。
 その声が聞こえたのか、初めて千枝と雪子の存在に気づいたように堂島は目を見開き、
「ああ、こいつの保護者の堂島だ。あー……まあ、その、仲良くしてやってくれ」
 そんな風に不器用に言葉を紡いだかと思うと、次の瞬間、別人かのように厳しい声音でぴしゃりと告げる。
「ともかく、三人ともウロウロしてないでさっさと帰れ」
「あ――は、はい」
 暁が我に返って頷いた、その瞬間。
 黄色いテープの向こうから駆けだしてきた人影が、暁と堂島の間を抜けるようにして駆け抜けて行った。
(――え?……なに?)
 驚いて、反射的に目で追えば、見覚えのあるスーツの後姿。
(……足立、さん?)
 彼は、道端で田んぼに向かって蹲ると、苦しそうな声を上げて嘔吐しだした。
 暁は思わず、そろそろと立ち入り禁止区域に目をやるが、当然のようにシートで目隠しされた向こうは見えない。
(――なにを、みたの)
 大の大人が、しかも、刑事という職種にある男が、人目もはばからず嘔吐するような、『何か』。
 見れば、千枝と雪子も同種の不安を覚えたのか、恐ろしいものでも見るような眼で現場の方を窺っている。
 堂島はといえば、足立の方を呆れたような案じるような、そんなどこか複雑な目で睨んでいた。
 と、その足立がげほげほと噎せるような声をもらし――暁は咄嗟に彼に駆け寄って、その背をさすっていた。
「――大丈夫ですか……?」
 声を掛ければ、そろそろと俯いていた顔がこちらを見やる。その目は、まるで親とはぐれた子供のように頼りなく。
「足立!」
 そんな彼を、鋭く呼ばわる声が、あった。
「いつまで新米気分だ!今すぐ本庁帰るか!?あぁ!?」
 堂島の恫喝するような物言いに、暁は思わず反発するように口を開きかけたが、
「――ありがと……もう大丈夫」
 掠れた声に振り返れば、頼りない声とは裏腹に、灯(ひ)のともる強い眼差しで笑った足立の顔。
 彼はゆっくり立ち上がると、堂島へと向き直る。
「す、すみませ……うぷっ……」
 謝りながらも、動いた拍子にまたこみ上げてきたのか、顔をしかめた。
「……ったく。さっさと顔洗って来い!すぐ地取り出るぞ!」
「――はい!」
 呆れたような堂島の言葉に、今度こそしゃんとした声を返し、足立は現場に戻っていく堂島を追う。
 しかし、仕切りのテープを越える直前、くるりと暁たちに振り返って告げた。
「いや~、汚いもの見せちゃってごめんね~。君らはとりあえず、気を付けて、寄り道せずに帰るんだよ?できるだけ外出も控えるように!」
 へらりと人の良さそうな笑み。しかし、その声には有無を言わさぬ妙な迫力がある。
 じゃ、菜々子ちゃんにもよろしく!と暁へ向かって言い残すと、今度こそテープの向こうに去って行った。
「ね、ねぇ、雪子……ジュネスに寄って帰んの、またにしよっか……」
「う、うん……」
 千枝と雪子がぎこちなく言葉を交わし、暁へと向きなおる。
「じゃ、あたしたちはこの辺で。明日からまた頑張ろうね、お隣さん!」
「うん、じゃ、また明日ね」
 何とか最後は笑って挨拶を交わし――暁は菜々子の待つ家へと急いだ。

 * * *

 ――なんだ、これ。

 足立は、目の前に広がる光景を、ただ愕然と見つめる。
 何の変哲もない民家の屋根。そこに、その“異物”はあった。

 屋根に建てられた家庭用のテレビアンテナ。

 そこに、足を引っかけてぶら下がる――“人間”。

 だらん、と力なく重力に従って両腕を地上に向けて投げだした、人の形のシルエット。

 それはもはや、人間ではなく――“人間だったモノ”だ。

 ただ、命がない、という意味ではない。
 その異様な死に様は、もはや人間の死としてあまりに現実味がなく、その人形(ヒトガタ)を、気狂いの芸術家が拵えたオブジェへと変えてしまっていたから。
 そこに、人間だったころの尊厳はない。

 耳鳴りが、する。

 ――なんだ、これ。

 答えはわかっている。山野真由美だ。自分がミーハー心で慕っていたアナウンサーで、今朝がた失踪が発覚して、ついさっき通報が来るまで堂島と一緒に血眼になって探していた相手だ。
 その彼女が、今。
 狂気のオブジェとなって、民家の屋根にぶら下がっている。

 ――なんだ、これ。

 問いの形で鳴り響く耳鳴り。その問いに意味はない。ただ、浮かんでは消えるだけの問い。

 と、警察と共に駆けつけた消防員がこちらに声をかけてくる。――遺体を下ろす。手が足りない、警察の方からも人を――

 ――遺体?どこに遺体があるって?

 遺体なんてどこにもない。あるのは奇妙なオブジェだけ。

 傍にいた同僚が足立に声をかける。――足立、消防の応援頼む――

 ――応援?お前がやれよ。お前、真面目に鑑識と話してる堂島さんと違って暇だろう。

 そう思ったけれど、そう口にするのも億劫で、ただ頷いて消防員の方へと向かう。
 指示されるまま屋根に上り、奇妙なオブジェに、白手袋をした手で躊躇いなく触れる。だって、これはただのオブジェなんだから。
 そのまま消防員と協力して、アンテナから人型のオブジェを、服などを引っかけて破かないよう、丁寧に取り外した。外したオブジェをシートに包み、消火用のクレーンで一緒に地上に降りる。
 再び消防員と二人がかりでやたら重たいオブジェを抱えてクレーンから降りる。担架に乗せて、指定された場所まで運んだ。
 そこには白衣を着た壮年の男がいて、拝むように両手を合わせてから、先ほど包んだシートに手をかける。
 足立は、ただぼんやりとその様を眺め――

 ――目が、あった。

 捲られたシートの下から現れた、光を亡くしてどんよりと濁った眼球と。

 ――死んだ、魚の目。

 ぼんやりとそんな言葉が脳裏に浮かぶ。けれど、これは、魚じゃない。
 じゃあ、なんだ?オブジェだろう?――いや、違う。オブジェは死なない。だって、最初から生きてないんだから。
 これは――オブジェなんかじゃ、ない。

 人間の――山野真由美の――死体、だ。

 そこに、思考が行き着いた瞬間。

「――っ……!」

 一気に胃から逆流してきた不快感。咄嗟に口元を抑え、黄色いテープの向こうへ飛び出す。
 立ち並ぶ人の間をすり抜けて、道の向かいに見えた田んぼに向かって蹲る。

「――うぇぇぇええっ……」

 自分でも不快だと思う声が、自分の口から溢れる。
 溢れ出るのは声だけじゃなく、さっきまで胃に収まっていたものも一緒で。

(――ああ、せっかく暁ちゃんが作ってくれたのに)

 今日、胃に収めたのは、彼女が作ってくれた弁当だけだ。
 ならば、今吐いているのは、その弁当なのだろう。
 嬉しかったのに、美味しかったのに、もったいないな――そう思っても、次から次へと喉の奥から溢れ出て、止まらない。

(――気持ち、悪い)

 吐いても、吐いても、気持ち悪い。

 ――もはや、人間とは思えないような死に様を晒した山野真由美。

 ――昨日の夜、ニュースを見るまでは確かに憧れていた女子アナ。

 ――テレビ越しに眺めていた頃の生彩などもはや面影もなく、死んだ魚の目を見せた死体。

(――しんだ)

 そう、死んだのだ。もう二度と、あの目に生彩が宿ることはなく、乾いた唇が朝のニュースを読み上げることもない。

 その命は、永遠に失われた。

(――こ わ い)

 そんな言葉だけが、頭の中に渦巻く。

 ――人は、誰でも死ぬ。

 運が良ければ、百を超えて。悪ければ、生まれ落ちた瞬間に――あるいは母の胎にいるうちに。
 誰にも例外はない。ただ、いつ訪れるかは、誰にも――それこそ神でもなければわからない。
 明日かもしれないし、五十年後かもしれない。もしかしたら、この次の瞬間にも。

(――死ぬかも、知れない)

 そんな、当たり前のことを、今更、実感した。

(――いやだ)

 ごぽり、と泡が浮き上がるように思いが湧き出て、弾ける。

(――いやだ、いやだいやだいやだ!)

 生まれて初めて、『死』を実感し――『死』を恐れた。

 本庁に居た頃には死体の資料など山ほど見たし、現場で遺体を見たことも、今回が初めてではない。
 けれど、それでも、これまで自分にとって死は遠い存在だったのだ。
 どれだけ間近で『死』を見ても、実感など欠片もなかった。
 なぜなら――あの時の自分は、『生きて』いなかったから。
 肉体的には生命を維持していたけど、精神的には死んだも同然だった。
 すでに死んでいる人間が、死を恐れる道理がない。
 『生』を実感していない人間が、『死』を実感できるわけもない。
 けれど――今は、違う。

(――やっと……出会えたのに!)

 親にすら突き放された自分を受け入れてくれる、優しい人たちに出会えたのに。
 何を失くしたのかすらも見失った、擦り切れた心を癒すことのできる、安寧の場所を見つけたのに。

 なのに、世界は、人間は、こんなにも脆い。

 あっさりと、壁に掛けられたパズルのピースが剥がれて落ちるように、人が死んでいくのだ。

 次の瞬間にも、あの優しい場所が――優しい人たちが、永久に損なわれるかもしれない、残酷な世界。

 どうして、それを恐れずにいられる。

(こわい……こわいよ……!)

 怯える幼子が泣きわめくように身体を丸めて、嗚咽の代わりに嘔吐を繰り返す。

 どれだけ、一人でそうしていたのか。
 永劫のように思えたけれど、それはきっとほんの数分。
 吐き出すものがなくなって、げほげほと噎せ返る。――その背中を。
 そっと優しく、さする手が、あった。

「――大丈夫ですか……?」

 やさしい、こえ。

 呆然と顔を巡らせば、そこには、先ほど脳裏に思い描いた、愛しい娘の姿があった。

「足立!おめぇはいつまで新米気分だ!今すぐ本庁帰るか!?あぁ!?」

 その向こうに、唯一尊敬する上司の怒鳴る姿が見える。――ああ、それは、嫌だな。あそこに帰るのは、嫌だ。

 触れた手が、怒鳴る声が、教えてくれる。

(――いきてる)

 彼女も、彼も、自分も。

(――生きてる)

 大丈夫。失われてない。欠けてない。損なわれていない。

 一度失われた命は、もう戻らないけれど。

 まだある命は、守れるのだ。

(――絶対に、失わせない)

 かっ、と腹の底に熱が宿り、全身に力が戻る。
「……ありがと……もう大丈夫」
 絞りだした声は掠れていたけれど、笑顔を浮かべることには成功して、足立は暁にそう声をかけて立ち上がる。
「す、すみませ……うぷっ……」
 堂島に向き直って告げれば、立ち上がった拍子に湧いたげっぷが漏れる。
「ったく……さっさと顔洗って来い!すぐ地取り出るぞ」
「――はい!」
 テープの向こうに戻っていく堂島の背を追いかけて、足立もテープへ小走り向かう。
 テープをくぐる直前、暁と、彼女の友人らしい女子たちを振り返った。
 お調子者の顔で、へらりと笑う。
「いや~、汚いもの見せちゃってごめんね~。とりあえず、気を付けて、寄り道せずに帰るんだよ?できるだけ外出も控えるように!」
 じゃ、菜々子ちゃんにもよろしく!と暁に言い残して、足立は堂島の後を追う。

 ――己の世界を脅かす許しがたい不届き者を、一刻も早くとらえるために。

 * * *

 帰宅した暁は、その日の外出は控え、家で菜々子と過ごした。
 昼食の後、手伝いを申し出てくれた菜々子の手も借りて、自身に割り当てられた部屋の荷物を片付けているうち、気づけば日は暮れていた。
 そして、菜々子と一緒に拵えた夕食の席で、暁は今日の帰路に見た現場の詳細をニュースで知った。
 不倫騒動で騒がれていた山野アナが昨夜から今朝未明にかけて失踪し、昼頃に遺体で発見されたということ。
 そして――その遺体が、民家のテレビアンテナから逆さ吊りにされたという異常な状態で発見されたということ。
 発見時、霧が濃かったため現場検証なども捗々しくなく、死因もよくわからないという。
 第一発見者は近隣の高校の生徒という話に、暁は同じ学校かと思う。早退した帰りに発見したそうだが、その生徒の心境を思うと、暁としては同情せずにいられなかった。
「屋根の上で見つかったの?なんか怖いね……」
 菜々子が食事の手を止めて言う。その表情は不安に翳っていた。
「うん……けど大丈夫だよ。叔父さんや足立さんがすぐに犯人を捕まえてくれるから」
「……うん」
 励ますつもりで言った暁の言葉だが、菜々子の表情は晴れない。
(ああ、そうか……叔父さん、これでしばらくまともに帰れないから……)
 そこに気づいて、失言だったかな、と暁は後悔する。
 ぎゅっと口を引き結んで寂しさに耐えている菜々子の姿に、暁はしばし言葉を探し――
「――菜々子ちゃん、お姉ちゃんも今のニュースでちょっと怖くなっちゃったから、お風呂一緒に入ってくれる?」
「……お風呂?一緒に?」
 暁の言葉を繰り返した菜々子の顔が、ぱあっと明るくなる。
「うん、いいよ!夜も一緒に寝てあげる!」
「ほんと?ありがとう、菜々子ちゃん」
 お姉さんのような口調で言いながら、年相応の甘えをのぞかせる菜々子に、暁はほっと息をついた。

 その日は結局、二人が同じ布団に入った後も、叔父は帰宅しなかった。



[29302] 3章.雨の夜に役者は踊る
Name: 満夜◆6d684dab ID:49a02ea9
Date: 2011/09/21 17:42
 足立透は、不機嫌だった。
 昨夜は仮眠室が埋まっていたために、仕方なく自身のディスクで突っ伏すように寝たせいで身体の節々が痛い。しかも、そうまでして泊り込んで鑑識と司法解剖の結果を待ったというのに、結局何の手がかりもなし。
 苛立ちを込めて、舌打ちを漏らす。

 ――忌々しい霧が。

 目撃証言も、現場の痕跡も、霧がすべて覆い隠してしまう。
 そもそも第一発見者の通報からして、『屋根に、何か人形のようなものがぶら下がっている』という曖昧なものだった。
 ただ、発見者の女子高生を思えば、それはむしろ幸運だったと言えるかもしれない。女の子が――いや、大の男でも、あんな変死体をまともに見たらトラウマになりかねない。

 ――捜査する側としては、たまったものじゃないが。

 足取りも荒く、とりあえずコーヒーでも飲もうとラウンジに向かう。
 事件のせいで泊まり込んでいる刑事は多いものの、時間が早朝であるせいか、ラウンジに他の人間の姿はない。
 苛立ちをぶつけるように、自販機へと乱暴な仕草で小銭を突っ込んで――
「……被った猫が剥げかけてるぞ」
 突如背後からかかった声に、ボタンを押す手元が狂った。
「ああっ!」
 足立の上げた悲鳴に被って、ガコンと商品が受け取り口に落ちてくる。――取り出してみれば、欲しかった微糖コーヒーの隣にあった、ブラックコーヒーだった。
「……すまん。それは俺が飲む」
 言葉と共に、背後から暗い色のシャツに包まれた手が伸びて、小銭を投入する。
「――堂島さん……」
「どれにするんだ?」
 我ながら愕然とした声音で呼ばわった足立に、堂島は何でもない様子でそう訊ねた。
 とりあえずは促されるまま、ブラックの缶を手渡し、のろのろとした仕草で微糖コーヒーのボタンを押す。
 落ちてきた商品を取り出し――自販機前のソファに腰かけてプルタブを上げる堂島を、恐る恐る振り返った。
「……さっきの、どういう意味ですか?」
「あ?何がだ?」
 怯えすら滲んだ声で訊ねたというのに、堂島は意味が解らないという風に眉を寄せる。
「だからっ……被った猫が、どう、とか……」
 思わず声を荒げかけるも、自然、声はしりすぼみになる。

 ――彼は、気づいているのか。

 自分が浮かべるお調子者の顔が、仮面であるということに。
 その下にある、人として酷く歪な本性に――

 ――怖い。

 そんな感情が、気泡のように湧き上がり、弾ける。

 本性を知られることで、堂島が自分をどう見るかが恐ろしかった。
 幻滅されるだろうか。汚いものでも見るように距離を置かれるだろうか。

 ――嫌われて、しまうだろうか。

 足立自身は気づいていない。
 答えを恐れて俯き、身を硬くするその様は――まるで、親に嫌われまいと涙をこらえる幼子のようであることを。
 その耳に、ふ、と呆れたような吐息が届いた。
「あのなぁ……俺を誰だと思ってる?泣く子も黙る稲羽署の堂島だぞ?」
 どこか笑みすら含んだその声に、恐る恐る顔を上げれば、そこにあったのは苦笑を浮かべた堂島の顔だった。
「他の連中はまるっきり気づいてないみたいだがな、俺はお前を一目見た時から、うまく猫被ってるもんだと思ってたぞ。――いや、お前の場合は、『猫を被る』というよりは、『爪を隠す』の方が正しいか」
 だいたいなぁ、と堂島は呆れた風に言う。
「仮にも本庁出身のキャリア組が、一筋縄でいくもんか。こういう言い方はしたくないが、あそこは一種の伏魔殿だぞ。数年とはいえそこで揉まれたやつが、見た目通りのお調子者だなんて、どうして思える」
「……ふ、伏魔殿って……」
 堂島のずけずけとしたもの言いに、足立は思わず吹き出す。
「……堂島さん、本庁に出向いたことあるんですか」
「若い頃にほんの二、三年だけ、研修でな。正直、えらく殺気立った場所だとビビったもんだ」
 苦笑する堂島に、足立もつられたように苦笑する。――『殺気立った』とは言い得て妙だった。
「巧く猫を被って、見事に爪を隠してるお前を見た時、俺は『こいつは逸材だ』と思った」
 コーヒーを一口啜ってから、堂島は告げる。
「刑事は、事件に対して真摯であることが第一だが、それだけじゃ駄目なこともある。真っ直ぐすぎる人間には、見えない死角ってもんを、犯罪者は得てしてついて来る」
 世間話をするような口調ながら、語るその目はひどく真剣で。
「足を使うことを惜しむのは以ての外だが、それだけじゃ足りん。腹芸、化かし合い――そういうのが必要な局面も、確かにあるんだ」
 だが、俺みたいな人間はそれがあまり巧くない、と堂島は自嘲気味に笑う。
 確かに、と足立は思う。堂島は観察眼は鋭いし、人の腹を見透かすのも巧いが、自身を取り繕うのは致命的に下手だ。
 そんな、大概失礼なことを思っている所に、ついと瞳を覗きこまれて、足立は思わずぎくりとした。
「だが、お前は違うだろう」
 告げられた言葉は、ひどく真摯なものだった。
「お前は、人を化かす人間の心理を知ってる。化かされる人間の急所を知ってる。――それは、追う側であり、防ぐ側である俺たちにとって、大きなアドバンテージなんだ」
 答える言葉を見つけられず、足立はただ、絶句する。
 堂島の言葉は、裏を返せば、『お前には犯罪者の素養がある』と言っているに等しい。
 だが、彼はその上で、足立を信じている。
 “追われる側”ではなく、“追う側”だと。
 信じて――お前は切り札になり得ると、そう言ってくれているのだ。
「……今回の事件は、ひどく一筋縄じゃいかないニオイがしやがる。まともなやり方じゃ、ホシに行きつけないと思えるぐらいにな」
 だから、と堂島は足立を真っ直ぐ見据えて、告げた。
「――俺に見えない死角の部分を、お前が補ってくれ」

 ――カッと、胸が熱くなった。

 暁の笑みを向けられた時とは違う、別の喜びが全身に溢れる。
 人として、刑事として、初めて敬意を抱けた相手に認められた喜び。
 それを噛みしめて、力強く頷いた。

「――はい!」

 いい返事だ、と堂島は笑い、一気に中身をあおったと缶をゴミ箱に放る。
 そして、改めて足立に向き直ると、珍しくにやりと意地の悪い笑みを浮かべた。
「――こき使ってやるからな、覚悟しとけ」
 三秒前の自身の返事を、早くも撤回したくなる足立だった。

 * * *

 翌朝、菜々子と二人で朝食を済ませ、登校した暁は、その途中で事故に出くわした。
 といっても、巻き込まれたわけではない。猛スピードで走ってきた自転車がゴミ捨て場に突っ込むという衝撃シーンが目の前で起きたのだ。
「……だ、誰か……」
 ゴミ袋に埋もれた自転車の横で、青いゴミ箱が転がって呻く。――もとい、ゴミ箱に頭から突っ込んだ自転車の主が呻いている。
 その場には暁以外にも居合わせた生徒が多数いたのだが、誰も助ける様子はなく、寧ろ関わりたくないとばかりに足早に去っていく。
 唖然と立ち竦んでいた暁は、慌てて駆け寄ってバケツの中から声の主を救出した。
「だ、大丈夫?」
「おお、すまねぇ!」
 バケツの下から現れたのは、やはりというかなんというか、昨日も自転車で転んでいたヘッドホンの男子だった。
「マジ助かった、ありがとな!――って、えーっと、あんた、転校生の……」
 立ち上がって暁を正面から見直すと、彼は驚いたように声を上げる。
「うん、転校生の神代暁です。よろしく」
「おお、俺は花村陽介!よろしくな!」
 暁の挨拶に、にぱっと人懐っこそうな顔で笑う陽介。
「怪我はない?」
「ああ、平気平気!やっさしいね~、神代さん」
「良かった。じゃあ、自転車も助けてあげよう。急がないと遅刻しちゃう」
「って、そうだった!俺の自転車ー!」
 暁の言葉に、何やらご機嫌だった陽介は慌てて自転車に駆け寄った。
「ところでさ、昨日の事件、知ってる?」
 無事救出した自転車を押して歩き出した陽介が、流れで一緒に登校することにした暁にそう話題を振ってきた。
「え?……ああ、山野アナの?」
「そうそう!あれ、何かの見せしめか何かかな?アンテナに逆さ吊りとか、絶対まともじゃねぇよ。まあ、殺してる時点でまともじゃねぇけどさ」
 何やら興奮気味にまくしたてる陽介に、暁はちょっと首を傾げる。
「ニュースじゃ、まだ警察は事故か事件か断定してないって言ってたけど……」
「いや、どう考えったって殺人だろー!?何をどうやったら民家の屋根に人間が逆さに引っかかるんだよ」
 真冬の豪雪地帯とかだったら雪下ろしの時とかにありそうだけど、と陽介は言う。
「そうかもしれないけど……あんまりそういうのって興味本位で騒いでいいことじゃないし」
「う。……そうですね……すみません」
 悲しげな顔で暁がそう訴えると、陽介は何やら凹んだように項垂れた。
「あ、ご、ごめんね、えらそうに……ただ、私が今お世話になってる叔父さん、刑事なの。だから、あんまり他人事じゃなくて……昨日も帰ってこなかったし……」
「え、刑事?なんかスゲー!――ってそうじゃなくて」
 暁の言葉に驚いて見せてから、陽介はやおら表情を改めて、生真面目に頭を下げる。
「こっちこそ、悪かったな。知らないで、なんか野次馬根性むき出しで」
「え、ううん、気にしないで」
 慌てて頭を振った暁に、陽介は安堵したように笑う。
「けど、それならなおさら、早く犯人捕まって欲しいよな。そうじゃないと、叔父さんだっけ?まともに帰れないだろ」
 まあ、狭い町だし、案外あっさり逮捕されたりしてな――そんな風に、陽介は暁を励ますように明るく告げた。


「神代さん、この町、もう慣れた?」
 放課後を迎え、帰ろうと荷物をまとめ始めた暁に、陽介がそう声をかけてきた。
 彼の席は暁のすぐ後ろなので座ったままでも声は届くのだが、顔が見やすいようにか、わざわざ暁の席の横に立って声をかけてくるあたり、濃やかな気遣いをする人間性が垣間見えた。
「うーん……まだ来て二日だから、慣れたかは微妙だけど。でも、居心地はいいかな」
「お、意外に田舎への順応早いね~。神代さん、穏やかでゆったりした性格みたいだから、忙しない都会より、ここの空気のが合ってるのかもな」
 考えながらの暁の返答に、陽介は楽しげに笑う。捉えようによっては嫌味や皮肉にも取れる言葉だが、からりとした声にはそういう意図は感じられなかった。
「まあ、ここは何もないけど、逆に何もないがあるってーの?」
「ああ、それわかるかも」
「おお、来て二日でこの境地に至るとは。っていうか、結構馴染んでんじゃん」
 はは、と陽介は楽しげに笑った。それから、そうそう、と思い出したように提案する。
「でさ、ここの名産って何か知ってる?ビフテキよ、ビフテキ。いいっしょ、この野暮ったい響き。今朝のお礼も兼ねてオゴるし、これから一緒に食いに行かねぇ?」
 どうよ、とウィンク一つ。そういう仕草が様になりつつも気障に感じないのは、彼の懐っこい雰囲気ゆえだろう。
「えっと……ごめんね、今日は従妹と約束があるの」
「あ……そうなの……」
 しかし、暁は昨日行けなかったジュネスに、今日こそ行こうと菜々子と約束していた。申し訳なくも断りの言葉を告げると、陽介はがくりと肩を落とす。
「――あたしにはお詫びとかそういうのないわけ?『成龍伝説』」
「う……飯の話になると来るな、お前」
 と、陽介の後ろに現れた千枝が、半眼で彼に詰め寄った。陽介は顔をしかめつつも、負い目があるためか強く出られない様子だ。
 千枝は更に自身の親友にも声をかける。
「あ、雪子もどう?一緒にオゴってもらお」
「いいよ、太っちゃうし。家の手伝いもあるし、先帰るね」
 よもや二人分奢りかと慄いた様子を見せていた陽介が、雪子の返答に安堵した顔を見せつつ首を傾げた。
「天城ってもう女将修行とかやってんの?」
「そんなんじゃないよ。忙しい時、ちょっと手伝ってるだけ」
 どこか苦いものを感じさせる笑みでそう答えると、じゃあね、と雪子は教室から出て行った。
「……天城、なんか今日特別テンション低くね?」
「うーん……忙しいみたいだし、疲れてるのかなぁ……」
「大丈夫かな……?」
 残された三人は、雪子の様子に思わず顔を見合わせるも、案じる相手はもはや出て行ってしまっている。
「――あ、じゃあ、私も今日はこれで」
「あ、ああ、じゃあな。悪かったな、引き留めて」
「また明日ね~」
 千枝と陽介に「また明日ね」と笑いかけてから、暁も教室を後にした。

 しかし、この後すぐ、『明日』を待たずに二人と再会することになる。


「――安い店ってここかよ!ここ、ビフテキなんかないじゃん!」
「しょうがねぇだろ!お前をステーキハウスなんかに連れてった日にゃ、俺は破産しちまうよ!」
 菜々子と共に夕食の買い物のために訪れたジュネス。買い物の前におやつにしようかと立ち寄った屋上のフードコートで、覚えのある声が暁の耳に届いた。
 見れば、フードコートの一席で何やら言い合う、緑のジャージとオレンジのヘッドフォンが目に鮮やかな一組の男女。
「千枝!それに花村君も」
「へ?――って、暁!」
「え、神代さんの用事ってジュネスだったん?」
 暁が思わず上げた声に、二人は揃って振り返り、目を瞬かせる。
「……お姉ちゃんのお友だち?」
 と、暁の袖を引き、菜々子が首を傾げた。
「お、その子が例の従妹ちゃん?可愛いね~、いくつ?」
「え、えと……」
 菜々子に気づいて陽介が笑いかけるも、菜々子は困惑した様子で暁の陰に隠れてしまった。
「え、あれ?俺、嫌われた?」
「『かわいいねぇ~、いくつぅ?』なんて、変質者っぽい言い方するからだろが!」
 凹んだ様子を見せる陽介を引っ叩いてから、今度は千枝が菜々子に笑いかけた。
「こんにちは。あたしは暁の友達の里中千枝。で、こっちのアホが花村陽介」
 誰がアホか!と、千枝の紹介に漫才のようなノリで陽介が抗議する。
「こ、こんにちは……堂島、菜々子です」
 おずおずと告げ、ぺこりと頭を下げた菜々子を見て、千枝の目じりがわかりやすく下がった。
「うきゃ~んっ!ほんっと可愛いなぁ!あたしもこんな妹欲しいっ」
 あ、妹じゃなくて従妹か、と自分でツッコんでから、千枝は暁に向き直った。
「二人もこれから何か食べてくんでしょ?なら一緒しようよ!」
 花村に奢らせちゃいな、と悪戯っぽく笑って耳打ちしてくる。
「え、いいの?デートじゃないの?」
 思わず暁がそう返せば、ぴしりと音を立てて千枝と陽介の表情が凍った。
「……え……?」
 思わず戸惑った声を漏らした暁へ、二人は向き直り――
『――それはないッ!』
 これ以上なく、強く、鋭く、きっぱりと、断言した。
「そ、そうなんだ……ごめん……」
「――いや、わかってくれればいいのよ、うん」
「そうそう。いや、デカい声出して悪かったな」
 思わずたじたじになって謝った暁に、二人は若干気まずそうに告げる。
 三人の間を、何とも言えない気まずい空気が流れかけた時――
「――チエお姉ちゃんとヨースケお兄ちゃん、なかよしだね!」
 キレイにハモったのが面白かったのか、委縮していた菜々子が楽しそうにそう告げた。
 その言葉に、三人は顔を見合わせて苦笑するしかなかった。

 * * *

「じゃ、神代さんへの歓迎のしるしってことで」
 言いながら、陽介は手にしたコップを掲げる。一同がそれに倣ったのを見届けて、告げた。
「――乾杯!」
 紙コップ同士がぶつかる、ぼこん、という間の抜けた音に思わず笑みがこぼれる。
「――おいしいね!」
「うん、美味しいね」
 ジュースを一口飲んで、嬉しそうに言う菜々子に、暁が微笑んで頷く。
(おお……福眼、福眼)
 目に麗しい光景にだらしなく表情を緩めたところで、暁がこちらを振り返り、陽介は慌てて表情を引き締めた。
「ごめんね、花村君。結局奢ってもらっちゃって……それも、菜々子ちゃんの分まで」
 微笑みに申し訳なさそうな色を滲ませての暁の言葉に、陽介は思わず感動する。
 その感動をそのまま勢いに変えて、千枝に向き直った。
「聞いたか里中!これが大和撫子の反応だ!お前もちったぁ見習えーッ!」
「はぁ!?人のDVDかち割った人間に何で遠慮しなきゃいけないのさ!」
 うがーッ!と吠える千枝。
 ――年も性別も同じはずなのに、この差はなんだ。肉か、肉分か。血の気が多くなるのか。
「ほんとになかよしさんだね」
「うん、そうだね」
 と、自分たちの言い合いに、のほほんと微笑み会う従姉妹二人に脱力し、陽介は千枝と一緒に肩を落とした。
「でも、神代さんの先約って、菜々子ちゃんとジュネス来ることだったんだな」
「あ、うん。一緒に夕飯のお買い物しようねって約束してたの」
 改めてそう訊ねれば、暁はおっとりと頷く。
 彼女は制服のままだし、菜々子もランドセルと一緒だ。時間的にも、一時帰宅せずに、どこかで待ち合わせしてそのままここに来たのだろう。
「菜々子、ジュネス大好き!だから、お姉ちゃんといっしょに来たかったの」
「な、菜々子ちゃん……!」
 満面の笑みと共に告げられた菜々子の言葉に、陽介は思わず声を震わせた。
「よかったねぇ、花村。あんたの家、菜々子ちゃんに嫌われてなくて」
「いや、別に俺んちってわけじゃないから」
 にやにやと笑う千枝の言葉に、手をパタつかせてツッコむ。暁と菜々子は揃って首を傾げた。
「あ、悪い。知らないよな。俺の親父、ここの雇われ店長なのよ。それで俺の家族、半年くらい前にこっち越してきたんだ」
「――陽介お兄ちゃんのお父さん、ジュネスの店長さんなの!?」
 陽介の説明に菜々子が感動したように目を輝かせる。
 新鮮な反応に、思わずむずがゆくなる。しかし同時に、嬉しい。物凄く嬉しい。
(――ぶっちゃけ、嫌われてんもんなぁ、俺)
 思わず浮かぶ自嘲。
 正確には、嫌われているのは『花村陽介』個人ではなく、『ジュネスの息子』という肩書なのだが。
 ジュネスは、一部の地元民――地元商店街の関係者から、強い敵愾心を向けられている。
 『ジュネスのせいで商店街が寂れた』と。
 八十稲羽は、郊外に位置する稲羽市でも特に人口の少ない田舎町だが、県内に数校しかない県立高校のうち一校――陽介たちも通う八十神高校を擁することで、隣接する自治体からの若者の出入りが他より多い。それにより、ある程度の規模の商業地が維持されてきた。
 本来ならマイナスであるはずの山に囲まれて孤立した立地は、寧ろ余所に客を取られるリスクを軽減していた。
 放っておいてもある程度の客足が確保され、商売敵もいない小さな商店街。大して経営努力をしなくても商業が維持できる環境に、商店街の関係者たちは慣れきってしまっていた。
 しかし、半年前――町の端を掠めるように通る国道沿いに、ジュネスが支店展開したことで、その状況は一変した。
 大型店舗が出来たことで、働き口は増えた。ジュネス目当てに、国道沿いの周辺地域からも人が来るようになった。それまで天城屋旅館に頼り切っていた外貨の確保口が増え、八十稲羽全体の経済状況は活性化した。
 だが――地元商店街は、寂れた。
 当然だ。それまで集客努力などしてこなかった弱小商店街。全国展開する大型デパートと、端から勝負になるわけがない。
 だから、ジュネスが憎まれるのは仕方ないとは思う。
 だが――
(……なんで、文句言うばっかで、あの人たちは動かないかな……)
 ジュネスへの怨嗟を声高に叫ぶ店舗ほど、全く集客努力の痕跡が見えない。既に半年も経っているというのに、だ。
 それが、陽介には納得がいかない。
 ジュネスが憎いなら、商店街を潰したくないと願うなら、その思いを糧に行動を起こせばいい。なのに、彼らはそれをしないのだ。
 確かに、今までやったことがないから、やり方がわからないのはあるだろう。
 だが、そもそも大型店舗と町の小さな商店では、経営におけるメリットとデメリットの型が大きく違う。そこをつけば、それなりにやりようはあると思うのだ。
 実際、ごく一部にすぎないが、独自に集客努力をし、客足を確保している店だってちゃんとあるのだ。ならば、他の店だってやればできないことはないだろうと思う。

 ――ジュネスに文句を言うだけで何の行動もしないんじゃ、何も解決しない。

(……まあ、間違っても口には出せないけどさ)
 『ジュネスの息子』がそんなことを言えば、曲解されて余計に睨まれるのは目に見えている。
 商店街に潰れて欲しいわけじゃない。寧ろ、立ち直って欲しいとすら思っているのに。
 自分の立場が、助言することさえ阻む。
 ままならない現実に、はあ、と思わずため息が漏れた。
「……ヨースケお兄ちゃん、どうしたの?」
「ん?――あ、いやいや、何でもないよ」
 菜々子に心配そうな目を向けられて、陽介は慌てて首を振った。
 あからさまな敵意をぶつけられる環境での生活は、正直きつい。
 それでも、彼女たちのように、自分を受け入れてくれる人は確かにいるのだ。
(そう、あの人も――)
 と、今まさに思い浮かべていた人が視界の端を掠めたのを見て取り、陽介は慌ててそちらに視線を向けた。
 ふんわりと波打った肩ほどまでの髪と、どこか憂いを帯びた面立ちが印象的な、陽介と同年代の女性。
 小西早紀。同じ学校の三年生。商店街の酒屋の長女ながら、ジュネスでアルバイトをしている稀有な人だ。
 ジュネスの出店以来、彼女の実家の酒屋はうまくいっていないようなのだが、彼女はジュネスに対しての恨み言を口にすることなく、楽しそうにバイトしている。かといって遊び半分というわけではなく、実家が商売をやっているからか、仕事に対する姿勢は非常に真摯だ。本当にいい人だと、陽介は思う。
 私服の上からジュネスのロゴが入ったエプロンをつけているあたり、今もバイト中なのだろう。おそらく休憩時間か。
 しかし、フードコートの隅にある席に腰かけて俯くその顔が、ひどく疲れて見えるのが気になった。
「――ごめん、ちょっと」
 千枝たちに一言断って席を立ち、彼女の元へ向かう。
「お疲れっす。何か元気ない?」
 脇に立って声をかければ、彼女は今気づいたという風に顔を上げて、小さく笑った。
「おーっす……今やっと休憩。花ちゃんは友達連れて自分ちの売り上げに貢献してるとこ?」
「うわ、ムカつくなー」
 言葉面だけ見れば険悪なやり取りだが、お互い声も表情も笑っている。いつもの挨拶代りの軽口だ。
 それに早紀は、ふふ、と小さく笑い――しかし、すぐにその笑みも溶けるように消えてしまう。
「……つか、ホントに元気なさそうだけど、何かあった?」
 どうもただ疲れているだけには思えない早紀の様子に、陽介は思わず案じる声を紡いでいた。
 しかし、彼女は取り繕うような笑みを浮かべて首を振る。
「別に……ただ疲れてるだけ」
「……何かあったら、何でも言ってよ。俺……」

 ――あなたのためなら、何でもするから。

 さすがに声にはできなかった言葉を、心の中だけで告げる。
 この町に来た当初、居場所を見つけられずにいられた陽介は、彼女の何気ない一言で救われた。
 彼女が居なかったら、自分はきっと、向けられる敵意に耐えられなかった。
 心が、潰れてしまっていた。
(今、俺がこの町で笑えているのは、あなたのおかげだから)
 その早紀の笑顔が曇っているなら、その原因を取り除きたいと思う。
 けれど、彼女は陽介に荷物を預けてはくれなかった。
「だーいじょうぶだって。ありがとね」
 そう、どこか無理した笑顔を向けるだけ。
 それ以上告げる言葉が見つけられなくて、陽介はひそかに肩を落とす。
(そんなに頼りねぇかな、俺……)
 確か、彼女には二つ下の弟がいるはずだ。もしかしたら、自分はその弟と同列の扱いなのかもしれない。だとしたら、ちょっと――いや、かなり、ショックだが。
 などと一人悶々と思考のドツボにはまった陽介を、早紀は不思議そうに眺めていたが、ふとその背後に視線を向けて、気づいたように声を上げた。
「あの子……もしかして、昨日入ったって言う転校生?」
「え?――あ、ああ。神代さんか。うん、そう、転校生。……でも、学年違うのによく知ってんね」
 彼女の視線を追い、そこにいる暁に気づいて頷いてから、陽介は早紀に向き直って目を瞬いた。
「普段何の娯楽も話題もない田舎の情報伝率なめちゃダメだよ、花ちゃん。あんな目立つ子が入ってきたら速攻で噂になるって」
「あー……まあね~」
 苦笑気味に告げる早紀の言葉に、陽介もつられたように苦い笑みを浮かべる。――実際、その『田舎の情報伝達率』により、『ジュネスの息子』はあっという間に商店街から干されたものだ。
 ただ、陽介の場合とは違い、暁は単純にその容姿から話題になったのだろう。頭髪や服飾に関しての校則がわりと緩い八十神高校だが、それでも彼女のアッシュブロンドの髪は目立つ。――今時珍しいおさげにまとめた髪型も含めて。
「菜々子ちゃん――神代さんの従妹と買い物に来たらしくて、たまたま一緒になったんだ」
「そうだったんだ」
 陽介の言葉に興味深そうに呟いて、早紀は席を立つ。そのまま暁たちの方へ向かうので、陽介も一緒についていった。
「初めまして、転校生さんとその従妹ちゃん。――あ、私のことは聞いてる?」
「あ、はい。今、千枝から。――小西早紀先輩、ですよね。初めまして、神代暁です。こっちは従妹の菜々子ちゃん」
 早紀の挨拶に、暁も笑顔で応じる。その横で、菜々子が若干委縮した様子で、ぺこり、と頭を下げた。
「あなたも都会の方から越してきたのよね?都会っ子同士はやっぱり気が合う?」
 ちらりと陽介の方を見やってから問う早紀に、暁はちょっと困惑したような笑みを浮かべる。
「うーん、どうだろう……すみません、そう言う風に意識したことがないので」
「あはは、ごめんごめん。変なこと聞いたね」
 早紀は笑ってぱたぱたと手を振り、悪戯っぽい笑みを暁に寄せた。
「花ちゃん、お節介でイイヤツだけど、ウザかったらウザいって言いなね?」
「――ちょっ!先輩!?」
 内緒話のような仕草に反して、ごく普通の声量で紡がれた早紀の言葉に、陽介は思わず声を上げる。
「そんな……花村君は良い人ですよ?」
「あはは、わかってるって」
 困惑したようにそう告げる暁の様子にか、早紀は楽しそうに笑うとひらりと身を翻す。
「さーて、もう休憩終わり、っと。――じゃあね」
 そう言い残して、気まぐれな猫のように歩き去って行った。
 呆然とその後ろ姿を見送っていた陽介だったが、はっと我に返って自身の席に着き直し、空笑いを浮かべて告げる。
「――人のこと『ウザいだろ?』なーんて、小西先輩の方がお節介じゃんなぁ?あの人、弟いるから、俺のことも割とそんな扱いって言うか……」
「……へぇ~、弟扱い不満ってこと?」
 にやぁ~、とでも擬音をつけたくなる笑みを浮かべた千枝の言葉に、陽介は思わずぎくりとなった。
「老舗酒屋の娘と、デパート店長の息子。燃え上がる、禁断の恋!みたいな?」
「バッ……!菜々子ちゃんの前で何言ってんだお前!」
 三流ゴシップ記事のコピーのような千枝の発言に、思わず陽介は声を荒げる。――鏡を見なくとも、自分の顔が赤いのがわかった。
「じゃ、そんな悩める花村にイイコト教えてあげる」
「……イイコトぉ?」
 疑いの色を隠さずに返した陽介の声を意にも介さず、千枝はいかにもここだけの話、という風に、声を潜めて告げた。

「――“マヨナカテレビ”って知ってる?」

 告げられたのは、他愛のない『恋占い』のような都市伝説。
 しかし、その“噂”がそんな可愛らしいものではないと――彼らは後に身をもって知ることとなる。

 * * *

「――真由美と最後に会ったのは……もう、一か月以上前になります」
 向かいに座った男の、蚊の鳴くような声。それを、足立は陰鬱な気持ちで聞いていた。
 心労のためか、やや老け込んで見える三十路ほどの男。オールバックにきちんと撫でつけられた髪。広い額に目立つ大きなホクロが特徴的だ。糊の利いたスーツを着込んだ身体を、縮めるように俯いている。
 生田目太郎。――昨日、遺体で発見された山野真由美と不倫関係にあった議員秘書――否、元・議員秘書だ。件のスキャンダルのため、彼は昨日付でその役職をクビになっていた。
 事件当時、彼はまさに都会にある議員事務所でその馘首宣言を受けていて、この町にはいなかった。議員事務所からこの町に戻るにはどう急いでも4時間以上かかる。不在証明アリバイは完璧だった。
 そのため、生田目に対するこの聴取は取り調べではなく、署の会議室を使用しての単なる参考人聴取である。
 アリバイなどの裏付けを終えた後、足立が投げた『山野真由美に最後に会ったのは?』という問いに、彼は泣きそうな声で、そうぼそぼそと語りだしたのだ。
「……それからずっと、会ってなくて……連絡も、なくて……そのまま……それで、最後っ……!」
 語るうちに感情がこみ上げてきたのか、生田目の声が上ずった。
「――真由美……っ!」
「……辛いところを、ありがとうございました。また後日お話を伺うことになるかもしれませんが、今日のところは、これで」
 ついには顔を覆って肩を震わせ始めた生田目に、足立はため息を堪えつつ、精一杯気遣わしげな声でそう告げた。
 部屋を出る生田目を見送り、その姿が見えなくなったところで、今度こそ遠慮なくため息をつく。
(あんなになる程本気だったんなら、さっさと女房と分かれて山野と一緒になってやりゃよかっただろうに)
 話はそう単純なものではなかっただろうが、それでもそう思わずにはいられない。
 ぶっちゃければ、美人の演歌歌手を妻に持ちながら、美人キャスターに手を出した生田目に対する感情が、同じ男として穏やかでないのもあるが。
「けど、その女房もアリバイがっちりだしな……」
 ぶつぶつと情報を整理しながら、捜一捜査一課の方へと向かう。
 生田目の妻の柊みすずは、海外公演のために現在海の向こうである。昨日の時点ですでに国内にいなかったことは確実なので、彼女にもまた犯行は無理だろう。
 そもそも、生田目と山野の関係が公となったのは、柊がマスコミにリークしたためだ。わざわざ自身が不利になる情報を公にしてから殺すというのは考えにくい。――まあ、逆手にとって、というひねた考えもないでもないが。
 と、そんなことを考えているうちに捜一の前までたどり着いていた。
「――おう、足立か。どうだった」
「アリバイ的にも印象的にも白、としか言えませんね」
 自身のディスクで資料を漁っていた堂島の問いに、短く答える。――あの男は本気で山野真由美の喪失を嘆いていた。あれが演技だというならアカデミー賞ものだ。
「そうか……」
「……天城屋旅館の方も収穫なし、ですか?」
 気落ちした風の堂島に問い返せば、苦い顔で頷かれた。
「接客にあたる仲居の中には直接被害者ガイシャからきつく当たられてる人間は少なくない。――ガイシャの失踪に最初に気づいた田原昌代もその一人だな」
 と、そこで堂島は足立に一言断ってから煙草に火をつける。煙を吐き出してからさらに続けた。
「ただ、山野と直接接触した従業員は全員、失踪通報時から遺体発見までの間、警察関係者と一緒に旅館内にいた。遺体が発見現場に吊るされたのは、周辺住民の証言からしておそらく午前8時以降だ。――生田目同様、アリバイ成立ってわけだな」
 堂島はため息とともに、紫煙を吐き出す。
「まあ、ガイシャのヒステリーで女将が倒れてるからな。そういう意味では旅館関係者全員に動機があるともいえるが……アリバイのない旅館関係者の中で、特に怪しい動きをしている奴も見当たらん」
 疲れたような言葉と共に手渡された資料に、足立はざっと目を通した。
 堂島の言う通り、特に怪しい人物は見当たらない。強いて言えば、清掃員と旅館内にある土産物屋のアルバイトが事件翌日に辞めているが、どちらも元々その日までの雇用契約だったようで、別段不自然なものではなかった。
「死因は不明。関係者は全員アリバイあり。不審者の目撃情報も特になし。……正直、どこから切り込んだもんかな……」
 珍しく気弱な言葉を漏らす堂島に、足立は勤めて明るい声を投げた。
「――『こういう時こそ足で情報を稼ぐ』でしょう?僕のことこき使うって宣言した時の勢いはどこ行っちゃったんですか?」
 ぐっと拳を握って力説して見せれば、堂島は一瞬ぽかんとなり、次いで可笑しそうに笑った。
「……そうだな。お前の言うとおりだ」
 口元に不敵な笑みを刻み、煙草の火を灰皿で揉み消すと、堂島は勢いよく立ち上がる。
「――俺は足立と地取り出てくる」
「了解。――今日はそのまま直帰ですか?」
 同僚の言葉に堂島は逡巡を見せた。
 司法解剖の結果待ちをしていた昨夜とは違い、情報がどん詰まりな今、正直泊まりこんでも意味がない。だが、進展がないからこそ、僅かな時間も惜しんで資料を調べるべきではないか。――おそらくはそんな風に考えて迷っているのだろう。
 だから、足立は堂島の背を押す言葉を紡いだ。
「……堂島さん、今日は帰った方がいいですよ。菜々子ちゃんも暁ちゃんも、堂島さんの帰りを待ってるでしょう」
「……そうだな。――今日は直帰する」
 足立の言葉に頷くと、同僚にそう告げて、堂島は歩き出す。その背を追うように、足立も。
 廊下に出て、並んで歩き始めた時、堂島が思い出したように告げた。
「――足立、どうせお前帰ってもろくなもん食わんだろ。ウチで食ってけ」
「え!マジすか!やった!」
 思わぬお言葉に、思わず声の調子が跳ねあがる。
 それを苦笑気味に眺めてから、堂島は携帯を取り出した。
「――ああ、もしもし、俺だ。暁、すまんが、今日足立も連れて帰るから、晩飯の用意頼む。……そうだな、八時くらいには帰れるだろ」
 暁と通話する堂島の横顔を眺めながら、彼女の笑顔を思い浮かべた足立の顔は、自然と緩んだものになった。
(――よし、もう一頑張り!)
 ご褒美には、彼女の手料理が待っている。

 * * *

 窓の外で雨が降っているのを確認して、暁はカーテンを閉めた。
 ぐるり、と菜々子と昨日整えた自室の中を見回す。
 家具の類は、堂島が事前に設置しておいてくれていた。ドア脇の壁には本棚代わりの三段ラック。部屋のほぼ中央に大きめの作業テーブル、その脇に据えられた二人掛けのソファ。ソファから見てちょうど正面になる壁際に背の低いタンスがあり、その上に小さなテレビが置かれている。部屋の隅には学習机もちゃんとあった。
 使い勝手がいいように据えられた家具の間に、布団を敷くスペースもきちんと確保されている。暁が昨日菜々子とやったのは、服や小物をタンスや棚に収める作業だけだ。
 家具はいずれも使用者の性別を問わないシンプルなデザインのものばかりだったが、カーテンだけは、落ち着いた色ながらも小さな花を散らした可愛らしいものだった。これを選ぶのに、頭を悩ませただろう叔父の様子が脳裏に浮かんで、暁は思わず笑みをこぼす。
 その叔父は、今夜帰宅するなり、食事もとらずに居間のソファで寝入ってしまった。
 夕食を食べに来ていた足立が手伝ってくれたので、どうにか布団に運ぶことができたが、そうでなければ、起こすか、そのままソファで寝かせるしかなかっただろう。
 その足立は、食事中ずっと明るく振舞っていたが、それは徹夜明けのハイテンションに近いものだったのだろう。食事を終えるなり舟を漕ぎ出したので、泊まっていくよう提案した。
 最初は遠慮していた足立だったが、睡魔に勝てなかったのだろう。先日同様、隣の客間に泊まっている。
 捜査に関しては何の手助けもできないが、せめて体調管理の手伝いくらいはしたい。そう思って、堂島が帰宅したことで戻ってきたお弁当箱と共に、今日ジュネスで買った足立用のお弁当箱も、おかずを詰めた状態で冷蔵庫に入れておいた。
(花村君が言ってた通り、本当にあっさり犯人が捕まってくれればいいのに)
 そんなことを思ってため息をこぼし、暁はふと時計に目をやった。
 今日の放課後、陽介と共に千枝から約束させられたことを実行するためだ。

 ――雨の夜の午前0時に、消えてるテレビを一人で見るんだって。

 告げられた、千枝の言葉が脳裏によみがえる。

 ――そこに映った自分の顔を見つめてると、別の人間がそこに映るの。

 もうすぐ、日付が変わる。暁は、千枝の言葉の通りに、映った自身の顔が良く見えるよう、テレビの正面に歩み寄った。

 ――それ、運命の相手なんだってよ。

「――運命の相手、か」
 ぽつりとつぶやいて、画面に映る自身の顔を眺めながら、暁はその意味を考える。
 普通に考えれば、唯一無二の恋人とか、生涯の伴侶といった、『赤い糸』的な意味の運命なのだろうけれど、別にそういう意味じゃなくても運命的な出会いというものはいくらでも存在するはずだ。
 例えば、ある才能で身を立てた者がいたとしたなら、誰にも気づかれていなかったその才能を見つけて引き伸ばしてくれた恩師などは、恋愛関係の有無にかかわらず、『運命の相手』と称していい存在のはずだ。その後の人生――『運命』を変えた相手として。
 そういう風に考えると、世の中の全ての出会いは『運命の出会い』と称していいものなんじゃないか、などと暁は思った。
 良かれ悪しかれ、人との出会いはその後の人生に多少なりとも影響を及ぼすはずだ。となると、世の中に『運命の出会い』じゃない出会いなど存在しないということで――でも、そう考えると、『運命』ってなんだろう?
 何やら思考の迷宮に入り込んでしまった気がして、暁は軽く目を伏せて頭を振った。

 ――その時、

 ざ、と砂嵐の音が聞こえて、暁は伏せていた目を上げて――それを、見た。

 ――電源の落ちたテレビに映る、酷く粗い映像。

 ざあざあと揺れて安定しない映像の中、しかし、確かに人影が見えた。
 霧がかったように霞む景色の中、何かに襲われたかのようにもがく人影。
 デザインが特徴的でわかりやすいそのセーラー服は、暁と同じ八十神高校の女子制服。そして、肩ほどまである緩く波打った髪。
 荒れる砂嵐がモザイクのようにその顔を隠しているが――その様が、かえって暁の記憶を刺激した。
 夕食の席で流れたニュース番組。
 山野アナの第一発見者として、モザイク姿でインタビューされていた女子生徒。
 その時にも感じていた既視感が、暁の中ではっきりと正体を現した。
「――小西先輩!?」
 思わず声を上げて、暁はもがくその姿へと右手を伸ばし――

 ――ずぷん

 そう、擬音で表現するなら、まさに『ずぷん』と。
 水の中に腕を突きこむように、何の抵抗もなく。

 暁の右手は――テレビの画面の中へと潜り込んだ。

「え――きゃぁあッ!?」
 何が起きたのか理解できず呆けた暁を、さらなる混乱が襲う。
 テレビの中に潜ってしまった右手が、中から何かに引っ張られるように引き込まれた。
 呆然としていたせいで、一瞬何の抵抗もできず、あっという間に右腕全てと頭までが中に引き込まれてしまった。

 ――白い、世界。

 そうとしか表現できない空間が目の前に広がったことに混乱しつつも、暁は何とか引き込まれた身体を引き抜こうともがく。
 必死で両足を踏ん張りながら、掴まる場所を探して画面の外の左腕を動かす。左手が何かに触れた瞬間、耳を劈くような派手な音がした。
 暁が冷静な時ならば、それがテレビの傍に並べていたCDケースが倒れた音だと理解できたかもしれないが――どちらにせよ、暁はその音に一瞬驚いて身を竦める。
 その瞬間、辛うじてテレビの枠に引っかかっていた左肩が、身を竦めた拍子にずるりと画面の角部分に潜り込んでしまった。

「―――ッ!」

 引きずり込まれる、感触。
 足先まで水面を通り抜けるような感覚と同時に、それは聞こえた。

「――    ッ!」

 誰かの、悲鳴のような、声。

(――足立、さん……?)

 その名前が、脳裏に浮かんだ次の瞬間――
 強く叩きつけられるような衝撃が全身を襲い――暁は意識を完全に手放した。

 * * *

 そろそろと客間の戸を開けて、足立は暗い廊下へと出た。
 家人が寝静まった余所の家をうろつくのは気が引ける。だが、生理現象ばっかりはどうしようもないのだ。――要はトイレである。
 以前泊まった時に教わったので、どこだかわからないという事態にはならずに済んだ。無事に用を足して、客間へと廊下を戻り――

「――……ぁあッ!」

 微かに聞こえた悲鳴に、足を止めた。
(――暁ちゃん?)
 思わず足立は暁の部屋のドアを凝視する。
 嫌な予感がして――とりあえずはノックをして、無事を確かめようと思い――
 聞こえた、何かが割れるような剣呑な音に、ドアを叩くはずだった手は、そのままドアノブを握った。
 『女の子の部屋のドアをノックもなしに開けるな』などという常識的な考えはどこかに飛んでいた。
「――暁ちゃんッ!」
 叫びながら、ドアを勢いよく開き――

 その瞬間、見えたのは、

 ――テレビの中に消えていく、人の爪先。

(――え?)

 愕然と、棒立ちになった足立の目の前で。
 タンスの上に置かれたテレビは、ただ黒々とした画面に波紋を浮かべ――間もなく、それさえも消え去った。

 ――まるで、何事もなかったかのように。

 だが、それは錯覚にすぎない。
 現に、部屋の主の姿はなく、テレビ周辺の床には、割れたCDが散乱してる。

 足立の脳裏に浮かぶのは、自身がこの町に来てすぐの雨の夜。
 テレビに呑みこまれた――自身の身体。
 あの時の自分は、肩が引っ掛かって全身が落ちることはなかった。
 だが、暁は――自分より小柄な彼女は。

 ――このサイズのテレビでも、容易に通り抜けてしまった。

「――ッ!」
 思考が事態を把握した途端、足立は咄嗟にテレビに駆け寄り、躊躇いなく画面に頭を突っ込んだ。
 足立の頭は、それが当然かのように画面をすり抜け、
「暁ちゃ――だッ!」
 しかし、肩が枠に引っかかった。
「――くそっ……!暁ちゃん!暁ちゃんッ!」
 いつかと同じように、テレビの中の景色は霧が立ち込め、見通しが利かず。
 声を張り上げるも、彼女からの返事はない。
(――くそ……どうすればいい?考えろ――考えろ!)
 自身の体格からして、このテレビから中に入ることは無理だ。
 ならば、より大きなテレビなら――

(――リビングのテレビ!)

 思い立った瞬間、足立は暁の部屋を飛び出し、階段を駆け下りて――

「……どうしたの?」
「――ッ!」
 そこで鉢合わせた菜々子の姿に息を呑んだ。
「……ご……ごめん、起こしちゃった?」
 何とか息を整えて、意識して柔らかい声を紡ぐ。
「なんか、上から音がしたから……」
「そ、そっか、ごめんねー。トイレの場所がわかんなくなっちゃって、歩き回っちゃったんだ」
 常では考えられないような足立の下手な嘘に、菜々子は少し釈然としない様子を見せたものの、一応は信じてくれたようだ。
「二階のおトイレは階段上がって、右だよ。一階のおトイレは、このローカの奥」
「そっか、ありがとう。ホント、起こしちゃってごめんね。……あ、まさかお父さんまで起こしちゃったり……?」
「だいじょうぶ。お父さん、ねてた」
 はたと気づいた可能性に一瞬冷や汗が浮かぶも、菜々子の返答に胸をなで下ろした。
 おやすみなさい、と言い残し、菜々子は寝室のある廊下の奥へと戻って行く。
 その小さな背中を見送って、足立は大きく安堵の息をついた。
(――危なかった……!)
 咄嗟に誤魔化せてよかった。
 『テレビに人が入る』というわけのわからない事象を、どう説明すればいいのかわからない。一分一秒が惜しい今は、信じてもらえるかわからない説明などに時間を取られたくなかった。
 呼吸を整えて、リビングの隅に置かれたテレビの前に立つ。

(――いいのか?)

 と――心の奥から、酷く冷めた声が響いた。

(戻って来れる保証なんかないぞ?行ったところで、彼女はもう手遅れかもしれない)

 先程までテンパっていた心理とは酷く乖離した、自分勝手で冷淡な思考。

(他人なんかどうでもいいじゃないか。自分を大事にしようぜ?)

 それは、紛れもなく自分自身の声で――

(――ああ、そうだよ)

 その言葉に、足立は、笑った。

(僕は自分が一番可愛い。自分が良ければ、人がどうなろうと知ったこっちゃない)

 それは、紛れもない本音。

(でも、だからこそ――)

 ――暁を、喪いたくない。

 彼女を、彼女と共にある優しい空間を、失いたくない。
 あの居心地の良い場所を、手放したくない。

 脳裏によぎるのは、今日聴取した男の姿。愛しい女を失くして、嘆き、苦しむ姿。

(――僕は、あんな風になるのは、ごめんだね)

 だから――

(失いたくないものは、この手で守る)

 ――暁は、必ず助け出す。

 固い決意の共に――足立は、その四角い深淵へと自ら飛び込んだ。


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