「その日の朝まで元気だったのに、重症化するとは思ってもみなかった」と、大阪府内の女性(32)は医師に語った。生後1歳7カ月だった長男が突然、白い便の下痢と嘔吐(おうと)を始めた。「ロタウイルス」による胃腸炎だった。自宅で処方薬を服用していたが、けいれんが起き、名前を呼んでも反応がなくなった。治療で何とか回復したものの、脳症の後遺症で左半身がやや不自由に。5歳になった長男は、現在もリハビリを続けている。
治療に当たった大阪市立住吉市民病院の外川正生・小児科部長は「ワクチン接種が広がれば、こういう悲しいケースは減るでしょう」と話した。
下痢を起こす感染症の原因としては、病原性大腸菌O157やノロウイルスがよく知られているが、ロタウイルスは実は、乳幼児の急性胃腸炎の最大の原因。ほとんどの乳幼児が5歳までに感染する。嘔吐や発熱が生じ、コメのとぎ汁のような白い下痢便が続くのが特徴だ。
川崎市で小児科医院を開業する片岡正医師も以前、1歳児の患者を診た。意識がもうろうとし、口呼吸ができないほどぐったりしており、大学病院に緊急搬送した。「たかが下痢とあなどってはいけない。ロタウイルスは重症化すると脳炎を起こし要注意だ」と警告する。
大阪労災病院の川村尚久・小児科部長によると、乳幼児に生じる脳炎、脳症の原因で最多はインフルエンザウイルス、次に突発性発疹で、3番目がロタウイルスという。国立感染症研究所によると、毎年約80万人の乳幼児が受診し、うち約1割がけいれんなどで入院し、死亡例もある。現在まで、ロタウイルスを撃退する抗ウイルス薬はない。
米国では06年から、本格的にワクチン接種が始まった。導入前は乳幼児の入院患者が年間6万人以上いたが、導入後は約7500人と約9割減ったという。今夏に来日し、厚生労働省と情報交換した米国予防接種呼吸器疾患センターのメリンダ・ウォートン副所長は「死亡する子供が毎年数十人いたが、ワクチンの導入でほとんどなくなった」と語った。
世界保健機関(WHO)は09年、ロタウイルスのワクチンを乳幼児の感染症防止で最重要ワクチンの一つと位置づけた。世界では既に100カ国以上がワクチン接種を導入している。一方、日本では外資系製薬会社が開発したワクチンが、今年7月に承認されたばかり。年内には使える見込みだが、公費の定期接種ではなく任意接種となる。
ワクチンの臨床試験に携わった川村さんは「日本でもワクチン接種が徹底されれば、重症化する乳幼児は9割以上減る」とみる。定期接種にした場合でもコストは100億円程度といい、「集団感染に伴う治療費や親が仕事を休む損失を考えれば、財政面でも、ワクチン接種は国全体にプラスだ」と強調した。
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乳幼児を襲う「細菌性髄膜炎」も発症すると、約3割が死亡または後遺症を負う怖い病気だが、ワクチンは定期接種ではない。
患者や医師らでつくる「細菌性髄膜炎から子どもたちを守る会」(大阪市)の高畑紀一事務局長は04年、3歳だった長男が突然発熱と嘔吐に苦しみ、意識を一時失った。幸い、抗生物質の投与などで回復したが、医師からは「3分の1の確率で死に、3分の1の確率で後遺症が残るところだった」と言われた。高畑さんは当時、ワクチンのことを全く知らず、「海外ではヒブワクチンの接種で感染が激減している」と聞き、さらに驚いた。
細菌性髄膜炎を起こす主な原因菌は、細菌のヒブ(インフルエンザ菌b型)と肺炎球菌。脳の髄膜につくと発熱、頭痛、嘔吐、けいれんなどの症状を引き起こし、初期は風邪と判別しにくい。年間約1000人がかかり、知的障害や手足のまひが残る場合もある。
守る会によると、米国や英国ではワクチン接種が導入され、細菌性髄膜炎の発症率は100分の1程度に激減し、もはや脅威とはいえない状態になっているという。同会は「ヒブワクチンの接種は世界約130カ国で行われ、デンマークでは発症がほぼゼロだ」とし、デモ行進もして定期接種化を広く訴えている。
日本ではヒブワクチンが08年12月、小児用肺炎球菌ワクチンが昨年2月に、任意接種として始まった。多くの自治体が助成制度を設け、約9割の地域で自己負担はない。
ところが今年3月、ワクチン接種が一時中止された。二つのワクチンの同時接種後に、全国で7人の乳幼児が死亡していたことが明らかになり、厚労省は接種の見合わせを自治体に通知。その後、専門家の検討会議で「明確な因果関係は認められない」との結論が出て、4月1日から再開された。だが、「接種率は元に戻っていない」(同省)という。
日本赤十字社医療センターの薗部友良・小児科顧問は「両ワクチンは10年以上前から、海外で数億回も接種されているが、死亡との因果関係は認められていない。重い副作用がゼロではないが、ワクチンをしない方が子供を危険にさらす確率は高い」と指摘する。
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接種による副作用のリスクと、接種しない場合の感染・重症化のリスクは、最終的には本人や保護者の判断。一方で「任意接種」のままで助成がなければ、接種の機会を狭めかねない。薗部さんは「自己負担を伴う接種では、受けられない人が出てくる。命に格差があってはいけない」と訴えている。【小島正美】=次回は19日掲載
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乳幼児期に接種するワクチンのうち、国が行う「定期接種」は種類や接種スケジュールが母子健康手帳に記されているが、自己負担の「任意接種」は手帳に記載がなく、行政からの情報提供も少ない。片岡正医師は「任意、定期とも疾患予防の重要度に差はない」と話している。
母子手帳には定期接種を受けたかどうかの履歴が残るため、成人後も保管しておくと、感染症が流行した時や海外旅行などの際に役立つ。母子手帳と分離し、「予防接種手帳」などを配布している自治体もある。
毎日新聞 2011年9月16日 東京朝刊