リビングで葛城一尉が「実は予定が入ってたのよねぇ」と言い出したとき、鈴原トウジと相田ケンスケが碇君を訪ねて来ていた。
「MiL-55D輸送ヘリ!こんなことでもなけりゃあ、一生乗る機会ないよ。まったく、持つべきものは友達って感じ!なぁ、シンジ!」
相田ケンスケが、興奮した様子でビデオカメラを振り回している。
「えぇ?」
ローターの音で聴き取りづらかったのだろう。碇君が聴き返した。
「毎日同じ山の中じゃ息苦しいと思ってね。たまの日曜だから、デートに誘ったんじゃないのよん♪」
副操縦士席から振り返って、葛城一尉。
「ええっ!ほんじゃぁ、今日はほんまにミサトさんとデートっすか? この帽子、今日のこの日のために買うたんです~!ミサトさ~ん♪」
後部キャビンの床面。碇君の足元に座り込んでいた鈴原トウジが、被った帽子に手を当てながら膝立ちになる。
MiL-55D輸送ヘリは、本来4人乗りだ。機長と副操縦士に乗員2人。背もたれがないのを気にしなければもう1人座れるが、副操縦士を追い出してもまだ1人余った。
眉根を寄せてうなる葛城一尉を尻目に、「オナゴを床なんぞに座らせとけへんからのぅ」と、真っ先に床面に座り込んでしまったのだ。
「で…どこに行くの? …」
「豪華なお船で、太平洋をクルージングよ♪」
行き先は見当がつく。私が赤いエヴァンゲリオンだった頃、船旅を経験したことがあるから。
「ねぇ、レイ。あなた、もしかして怒ってる?」
ぼんやりと窓外を見やっていた視線を、顔ごと葛城一尉に向ける。
「…私が? …なぜ?」
う~ん。と唸って、葛城一尉が後頭部を掻いた。カタチだけでも着けといて下さい。と言われてかけているヘッドセットインカムがずり落ちた。きちんと装着していないからだろう。
「だって…ほら、お買い物行く約束、してたじゃない」
綾波レイにも私にも、私物などほとんど必要ない。
栄養補助食品を摂取するときに、水を汲むためのビーカー。身体を拭くのに必要なタオル。
清潔さを保つために下着とブラウスは多めに支給してもらうようにしたが、衣服も必要最低限。
第一中学の制服を除いては、医療部から退出する時にそのまま借り受けた病衣しか持ってないことを、葛城一尉はひどく驚いていた。
就寝時に衣服を着用する習慣を持たない私に着古したパジャマを押し付けた葛城一尉は、今度の日曜日に服を買いに行くわよ!と息巻いていたのだ。
「…別に」
葛城一尉から顔をそむけ、見下ろしたのは自分の右腕。
比較的負荷の少なかった右尺骨がほぼ癒合し、18万7267回前にギプスが取れたのだ。まだ念のために装具を巻いているが、右手は自由に使えるようになった。
残念だったのは、今日、洞木ヒカリに料理を教わるはずだったこと。私の希望通り、ピンク色したポテトサラダを教えてもらう予定だったのだ。
このことは、葛城一尉にも碇君にも話していない。洞木ヒカリは、黙っておいて驚かせた方がいいと言う。驚くと心拍数が上がって、心臓に負担がかかると思うのだけど…。
ふと面を上げたら、相田ケンスケが私を見ていた。
相田ケンスケと鈴原トウジに対しては、洞木ヒカリによって緘口令が発令されている。どのような権限に基づいているのか、私は知らない。
視線が合ったのを受けて眉尻を下げた相田ケンスケが、何に気付いたか窓外に視線を戻した。
「おおーっ!!空母が5、戦艦4、大艦隊だ!ほんと、持つべきものは友達だよなぁー!」
***
風に飛ばされた鈴原トウジの帽子を、反射的に掴んだ。
「おっ!おう。おおきに」
手渡して言われたのが感謝の言葉だと、このときは知らなかった。
「おぉー!すっごい、すっごい、すごい、スゴイ、凄い、凄ぉい、凄い、凄すぎるーっ!男だったら涙を流すべき状況だね♪」
相田ケンスケは、まるでビデオカメラに引き摺られるように縦横無尽。
「ハロゥ、ミサト。元気してた?」
飛行甲板に、年若い女のヒトが立っていた。
このヒト知ってる。惣流アスカラングレィ。私が赤いエヴァンゲリオンだったときの、パイロットの娘。あるいは、弐号機パイロット。
「まぁねー。あなたも、背、伸びたんじゃない?」
私は今まで、このヒトのことを気にかけたことがなかった。
「そ。ほかのところもちゃんと女らしくなってるわよ」
しかし、ヒトの身になった今。それではいけないと思う。
さまざまなヒトと出会い、そのココロを知って、ヒトというもの、ヒトであるということを理解したい。
だから、惣流アスカラングレィの元に歩み寄った。新たな出会いを迎えるために。
「紹介するわ。エヴァンゲリオン弐号機専属パイロット、セカンドチルドレン、惣流アスカラングレィよ」
風向きが変わった途端にまなじりを吊り上げた惣流アスカラングレィが、こちらに向かって歩いてくる。反射的に立ち止まった私を無視してそのまま突き進むと、掌を振り上げて相田ケンスケをビデオカメラごと打った。
振りぬいた掌が翻るのを見たから、その背中を追う。
さらに鈴原トウジを打った惣流アスカラングレィが、その勢いで大きく踏み込む。無駄のない動きで2人を叩いた惣流アスカラングレィの、次の標的は碇君だろう。
その手首を、かろうじて掴んだ。
「…どうして、そういうことするの?」
「なによアンタ。見物料よ、見物料。安いモンでしょ」
掴んだ手首をねじって、掴み返そうとしてきたから、放す。このヒトの格闘センスが高いのは、いま見て判ったから、まともにやりあう気はない。
「アンタだって見られてんだから、一発殴っときなさいよ」
「まっ、待たんかい!綾波はシャレんならん。
ソーリューっちゅうたか? わしらが悪かったから、綾波をけしかけんのは堪忍してくれ」
吊り上げていた眉をたちまち下げて、鈴原トウジが両手を突き出しながら後退さった。
鈴原トウジの顔と私の顔を2往復した惣流アスカラングレィが、左眉だけ下げる。
「殴ったコト、あんの?」
突き出した親指で肩越しに鈴原トウジを指し示したので、頷いた。
「へ~、ヒトは見かけに拠んないわねぇ。で、アンタがファーストチルドレン?」
「…ええ、」
それで。と葛城一尉に向き直った惣流アスカラングレィは、なぜ最後の瞬間まで私から視線を逸らさなかったのだろう? はじめまして。と言う暇も与えてくれなかったのに。
「来てるんでしょ、もう1人。まさか…」
「違うわ。このコよ」
葛城一尉が、碇君に視線を預けた。
「ふうん。アナタが碇シンジね。プロトタイプのパイロット」
覗き込むように顔を寄せた惣流アスカラングレィが、一転、胸を張る。
「ワタシ、アスカ。惣流アスカラングレィ。エヴァ弐号機のパイロット、仲良くしましょ」
「…うん。よろしく……」
惣流アスカラングレィが私にはそう言ってくれないのは、私がヒトとして充分ではないからだろうか?
この私の偽りを見透かされたような思いがして、嘘をついたわけでもないのにココロがきしむ。物理的な痛みすら伴って、胸骨の辺りが絞られるようだ。
惣流アスカラングレィのその背中が、まるでATフィールドを張ったように私を拒んでいた。
***
「綾波、みな行ってまうで。着いてかんのかいな?」
鈴原トウジがそう呼びかけてくれなければ、私はずっと飛行甲板に立ち尽くしていたかもしれない。
今もまだ、胸の痛み以外の感覚を実感しきれないでいる。
「「「 えぇ~っ!!! 」」」
大きな声に顔を上げると、テーブルの向こう側、葛城一尉の正面に、まばらに髭を生やした壮年の男のヒトが居た。このヒト知らない。あなた誰? あなた誰? あなた誰? …
「なっ? なっ!なっ★…何言ってるのよ!」
「相変わらずかい?」
その視線が私に向いていたから、私への質問なのだろう。
「…なに?」
「彼女の寝相の悪さ、さ?」
このヒトの視線……、同じような目つきを葛城一尉がしていたことがある。458万6493回ほど前、知り合ってしばらくした後に。
いったい、この私に何を見ようとすればそんな目つきになるのだろうか?
「冗談…悪夢よ、これは…」
葛城一尉は頭を抱えてなにやら呟いていて、判断を仰げそうにない。
「…答えていいか、判りません」
なにより、にらみつけてくる惣流アスカラングレィから逃れたくて、顔を逸らした。
***
「さ、ワタシの見事な操縦、目の前で見せてあげるわ。ただし、ジャマはしないでね」
なぜ私がここに居るのか、理解に苦しむ。しかも、赤いプラグスーツまで着せられて。
「L.C.L. Fullung, Anfang der Bewegung Anfang des Nerven anschlusses.Ausulosung von Rinkskleidung.Synchro-Start.」
「バグだ。どうしたの?」
エスカレーターの上で待ち構えていた惣流アスカラングレィに輸送艦まで連れてこられ、弐号機を見せられたまではいい。
「思考ノイズ!ジャマしないでって言ったでしょう!」
「なんで?」
「アンタたち日本語で考えてるでしょう? ちゃんとドイツ語で考えてよ!」
見下ろしてくる視線が痛かったのも、まだ耐えられる。
「判ったよ… …バウムクーヘン?」
「バカ!いいわよ、もう!思考言語切り替え、日本語をベーシックに!」
だけど、惣流アスカラングレィと同じプラグの中で、同じコアにシンクロすることが何をもたらすか…エヴァンゲリオンであった私にも予想できなくて、怖い。
「エヴァンゲリオン弐号機、起動!」
目前に広がるのは、オレンジ色した水面と赤い空。弐号機の、ココロ。
風もなく連なるさざなみは、惣流キョウコツェッペリンのココロがもたらした、虚無への供物。
惣流アスカラングレィのココロは遠く、きっと水平線の彼方。
ここであの視線に晒されたら、私のココロは融けて毀れたかもしれない。我知らず、そっと息をつく。それを安堵と云うのだと、のちに知った。
『 いかん、起動中止だ、元に戻せ! 』
『 かまわないわアスカ、発進して! 』
オレンジ色の水面を伝うさざなみは、私を中心として広がっている。それは、ここが弐号機のココロの中心だから。
赤いエヴァンゲリオンであったことのある私だから、ここに居る。
「海に落ちたら やばいんじゃない?」
「落ちなきゃいいのよ」
碇君のココロも、惣流アスカラングレィのココロも、ここから遠い。おそらく、数十パーセント程度のシンクロ率では、あんなものなのだろう。間接制御をパイロットとして経験したことのない私では、その辺りの機微が判らないが。
『 シンジ君も乗ってるのね。…レイは? 』
「はい」
「…居ます」
その言葉に、ここに居ることが不測の事態であることを思い出した。
今後、弐号機に乗ることはないだろう。ということだ。
…
『 アスカ、出して! 』
もし、弐号機に対してなにか仕掛けを施すなら、今しかない。
覚悟を決めて、さざなみが特に強くなびく方向へと進みだした。
「来た」
「行きます」
弐号機に対してとっさに、ATフィールドの遠隔小展開を指示する。赤いエヴァンゲリオンでもあった私には、容易い。惣流アスカラングレィにも碇君にも、悟られなかっただろう。
「どこ?」
「あっち!」
足場にされた艦艇の無事を視界の隅で確認して、安堵した。私が赤いエヴァンゲリオンだったときに感じた、小さな粒が弾けるような感覚。それがなんだったのか、今の私は知っている。
意識の一部をATフィールド展開のために残して、再びオレンジ色の水面を歩き出した。
「あと58秒しかないよ!」
「解かってる。ミサト!非常用の外部電源を甲板に用意しといて!」
『 わかったわ 』
やがて見えてきたのは、小さな、歳若い女のヒトの姿。
こちらからでは後ろ姿しか見えないし、距離もある。けれど、さざなみが十重二十重に取り囲み、その正体は一目瞭然だ。
「さあ、跳ぶわよ」
「跳ぶ?」
なぜ惣流アスカラングレィが幼い姿をして見えるのだろうかと考えた途端、ヒトの産みだした間接制御というものが理解できた。
群という選択をしたヒトという生物は、ココロの中にこそ強固なATフィールドを張れる。使徒とは逆に。
「エヴァ弐号機、着艦しまーす!」
相容れない模造使徒とヒトを繋ぐために、エヴァンゲリオンの虚無でATフィールドを壊されたヒトを人柱として埋め、ATフィールドが未熟か、穴を穿ちやすいヒトをパイロットに据える。そういうことではないか?
「来るよ、左舷9時方向!」
「外部電源に切り替え」
ここに見える惣流アスカラングレィは、惣流キョウコツェッペリンが見ている惣流アスカラングレィなのだろう。弐号機のココロの視点で見ている私は、それに準じるのだから。
「切り替え終了!」
惣流キョウコツェッペリンの視点で惣流アスカラングレィを見ることで、相対的にATフィールドを弱め、ココロの壁に穴を穿ち、それによって弐号機を動かす。
それは、とてもいびつな三角形をなす制御方法だった。
「でも、武装がない」
「プログナイフで充分よ」
ここに居るのは、母親という名のアンチATフィールドによってATフィールドを剥がされた惣流アスカラングレィだ。その剥がされ加減、それによるエヴァンゲリオンとの適合度合がシンクロ率ということになるのだろう。
そしてそれは、そのままここでの見た目に比例し、今はこうして幼い姿を見せている。
パイロットがよりココロを開き、人柱がそれに応えたとしたら、惣流アスカラングレィはもっと幼く見えるようになるだろう。おそらく、シンクロ率100パーセントで、生まれる直前の胎児。シンクロ率400パーセントなら、着床したばかりの受精卵ではなかろうか?
だからこそエヴァンゲリオンの中で、人柱は歳をとらない。記憶の中で、子供を子供のままに留め置くために。
「結構でかい!」
「思った通りよ」
甲板上の全面と、艦橋取舵側を守るようにATフィールドを展開させる。
『 アスカ、よく止めたわ! 』
ガギエルを受け止めるために張ったATフィールドは大掛かりで、少々集中力が要った。ココロの視界を一時、閉め出す。
「コア、どこだろ?」
「…体表には確認できないわ。第5使徒同様、体内だと思う」
えぇ!? と、こちらを振り向いた惣流アスカラングレィの、視線が痛くない。
そうして気付いたのは、あの視線、あの態度がまさしく惣流アスカラングレィのATフィールドであったということ。あれは、私を攻撃したのではなく、自らを守っていただけと知る。
「クチぃ!?」
「使徒だからねぇ…」
今の弐号機と惣流アスカラングレィでは、ガギエルの巨体と力をいなすことは難しいだろう。
だからと云って、もっとココロを開け。と言うのは間違っているような気がする。
あのヒトは、私が自身の支配下にあるよりも、私自身の意志で動くことをこそ慶んでくれた。あのヒトは私のことを子供と呼んでくれたから、それこそが正しい親子の姿なのではないかと思う。
子を親の付属物と見做し、その強制力を利用するやり方を、あのヒトもきっと嫌っていただろう。
「こんのぉお!」
意識を、弐号機のココロへ、その中心に戻す。場所さえ判っていれば、ココロの中で距離に意味はない。
「…私のココロをあなたにも分けてあげる。この気持ち、あなたにも分けてあげる」
惣流アスカラングレィを受け入れなさい。…ほら、心地いいでしょう? ココロが充たされるでしょう?
碇君の時と違って、今の私のココロからでは、弐号機のココロを充たしきれなかった。
私自身、まだ惣流アスカラングレィを受け入れきれていないのだから、当然だろう。
だから、さざなみの中心に掌を当てる。その波が大きくなるよう、オレンジ色の水面を揺らす。
パイロットの側のココロを開くのではなく、人柱の方の意識の覚醒度を上げてやるのだ。弐号機が惣流アスカラングレィに歩み寄った今、こうすることでハーモニクスが上がる。
「ひっ・らっ・け~っ!!」
力任せにガギエルの口を押し開いた弐号機が、勢い余ってその上顎を引き千切る。
すかさず蹴り込まれた踵がコアに罅を入れ、プログレッシブナイフの一閃が止めを刺した。
***
「ねぇ加持さん♪ワタシの活躍、見てくれた?」
「あっ? …ああ、…もちろんだとも」
エスカレーターを先に降りる惣流アスカラングレィは、まばらに髭を生やした壮年の男のヒトの腕にぶら下がるよう。
あのヒトは加持一尉。憶えた。
それよりも、加持一尉が提げているトランクが気になってしょうがない。ひどく微弱ながら、使徒の波動を放っているのだ。弐号機の知覚越しに認識していなかったら、気付けなかっただろう。
ガギエルのコアを回収でもしたのかと考えたが、辻褄が合わない。この波動に気付いたのはガギエルを斃した直後、その波動が途絶えた静寂の中だったのだから。
「ペ、ペアル… 三角関係!?」
「イヤ~ンな感じ!」
先に降りて待っていたらしい鈴原トウジと相田ケンスケが、奇妙な声を発している。
碇君が身体をよじっているけど、どういう意味があるのだろう?
つづく