仙台市の上空を飛ぶときは高いビルがあるため、300メートルでも危険が伴うという。しかし、この時点で平氏は上空200メートルほどまで高度を下げた。高度を下げた理由を聞くと、成田氏は当時を思い起こそうとするかのように、目をつぶり話した。
「あの天候で低空飛行をするのは危険だった。だが、私たちなりの使命感があった。下には波に気がついていない人がいた。道で話し合っている人もいた。ゆっくりと走る車もあった。避難を呼びかけるパトカーや消防車も見えた。『このままではひどいことになる』と思った」
平氏はスピーカーで避難指示を繰り返す。「大津波が来ます。高いところへ避難してください」。成田氏は窓を開けて手を振り、呼びかける。通常、航空隊はこのような避難誘導をしない。だが、そんなことを言っている場合ではなかった。
整備士は、被害の状況をカメラで写していく。「その映像はテレビ局などで報道されたのか」と尋ねると、成田氏は「それはない」と話した。平氏が答える。
「あのときは、カメラのアングルを考えて正確な映像を撮るよりも、避難誘導を優先した。下で起きていることを見ると、居ても立ってもいられなかった」
そこまで波が押し寄せているのに……。
居ても立ってもいられない「もどかしさ」
住民らはヘリコプターには気がつく。だがすぐには避難しない。その後も道で話し合っている人がいた。成田氏はうつむき加減に話す。
「私たちの気持ちはわかってくれたのかもしれない。でも、逃げようとしない姿を見ると無力感はあった」。
津波は地域一帯を飲み込み、仙台東部道路のほうにさらに向かう。ヘリコプターは道路の向こうの町の上空に先回りし、2人は避難を呼びかけた。平氏は、「あの波は道路を越えるような勢いだった。海が溢れ返っていた」と説明する。