不条理との折り合いをどうつけるかーー畠山重篤さんがカキ養殖から悟ったこと
9月20日(火)大震災から続けているボランティアと取材・調査活動。第3日曜日には竹村文近さんとお弟子さんたちの鍼灸施術による心身回復のお手伝いしている。相馬市の避難所では帰るときに涙で送ってくれた人たちが印象的だった。前回の石巻に続いて気仙沼に入った。週末に車で先乗りした有田事務所スタッフとは別に新幹線で一ノ関へ。車内で内山節さんの『文明の災禍』(新潮新書)を読む。ある部分に眼がとまった。気仙沼の旧唐桑町でカキを養殖している畠山重篤さんのことが書いてあるところだ。畠山さんは「森は海の恋人」と提唱し、仲間たちと山に落葉広葉樹を植えてきた漁師だ。被災したとき山の上にあったご自宅の玄関近くまで水がやってきた。山ひとつ超えた介護施設で暮らしていた母親は津波で亡くなっている。大震災から時間もたっていないとき、畠山さんは「それでも海を信じ、海とともに生きる」とメッセージを出した。内山さんは「おそらく、津波との間で折り合いがついたのであろう」とこう書いている。「もちろん、折りあいなどついているはずはない。多くの漁師仲間も町の人たちも亡くなった。お母さんは津波にのまれた。海辺の集落も消え、彼の養殖施設も崩壊した。どう考えても折り合いがつくような事態ではない」。ではどこで折り合いがついたのか。内山さんは「魂の次元」だと分析していく。一関では太田和彦さん推薦の「こまつ」で夕食を食べた。店主と話をしていると、料理に出すカキは畠山さんから仕入れているという。どうしても会おうと思った。
翌朝早くスタッフと気仙沼に向かう。仮設住宅での鍼灸治療は9時にはじまった。続々とみなさんがやってくる。竹村さんが出したばかりの『腰鍼——心身の痛みを断つ!』(角川oneテーマ21)を読みながら順番を待つみなさん。軌道に乗ったところで自治会副会長を務める鈴木さんの案内で畠山さんの自宅に向かう。なにしろ前夜に知ったばかりの畠山さんの存在。早朝に出発したから約束もしていない。市街地から壊滅した地区を通って山を越えた。地元民に所在地を聞いてたどり着いたのは、リアス式海岸の入り江が見渡せる小高い山にあるご自宅だった。畠山重篤さんは上京して留守だったが、次男の耕さんが対応してくれた。名刺には「森は海の恋人」「牡蛎の森を慕う会」とある。「少し待っていてください」そう言われ、私たちは海辺を歩いていた。「船に乗りましょう」と誘われ、養殖場を見に行った。はじめての貴重な経験だ。日差しが暑い。最初に見せてもらったのは被災後に養殖されたカキだ。牡蛎殻に小さな「粒」が付いている。ひとつの殻に20個ぐらいだ。これが成長し3年で収穫となる。さらに入り江の奥に向かう。「奇跡的に助かった石巻のカキです」と説明された。1年半ほど経ったもので、引き上げるとずっしり重たい。世界に誇る三陸のカキは、おそらく来秋から冬にかけて収穫できるだろうという。耕さんに畠山重篤さんの『鉄は魔法つかい』(小学館)をいただいた。冒頭に「東北再生への希望」という小文がある。内山さんの「魂との次元」での「折りあい」とはこういうことなのだろう。少し長いが引用する。
「海面から十数メートルを越す濁流に蹂躙された海から、生きものの姿が消えていました。六十年も続けてきた、養殖業もこれで終わりかと思うと、絶望感だけが漂っていました。一か月ほどして、すこしずつ水が澄んできました。なにか動いています。目を近づけると、ハゼのような小魚です。日を追うごとに、その数がふえてきています。大津波によって海が壊れたわけではないのです。生きものを育む海はそのままなのです。森・川・海のつながりがしっかりしていて、鉄が供給されれば、カキの養殖は再開できる。そう思ったとき、勇気がわいてきました」。
畠山さんは「復興オーナー」を募集しているそうだ。一口1万円。復興したときカキとホタテの合計20個送られてくる。私も参加しようと思った。養殖場を案内していただき、新鮮な驚きがあった。子供のときから場所は変われども都会で暮らしている者として、自然とともに生きる感覚がわからないことに気づいたからだ。畠山さんたちは苦境に陥り、絶望感にとらわれつつも、そこから回復していく。その基本原理は自然の摂理を信じているからである。内山さんは「三陸の漁師たちのように津波をも自分たちの営みのなかに飲み込んでいく力強さを、われわれは失っていた」と書き、それを「現代文明の敗北」とする。都会に生活しながら畠山さんたちのような人生観、自然観を身につけることはできないだろう。ならばどうするか。重い課題をつきつけられた。仮設住宅に戻るとき、鈴木さんがポツンと口にした。「そこが私の家でした」。そこには住宅の土台だけが残っていた。全壊だ。鈴木さんは地震が起きたとき海辺にいた。奥さんが心配で自宅に戻ろうとしたが、途中で通行どめにあい、山に向かった。再会できたのは翌日だった。奥さんは自宅から車で駅の横にある山へ。そこで自宅が流されるのを見た。やがて大きな漁船が住宅街に流れてきた。涙が出て身体が震えた。2人は四畳半の仮設住宅に暮らしている。「狭いですよ。それに将来のことがわからない……」。義援金が200万円でただけだからだ。
石巻にしても気仙沼にしても復興が遅い。これから半年が経っても現状ではあまり変わらないだろう。内山節さんも指摘するように人間的感情に基づいた復興計画が必要なのだ。机上のプランではカネは動いても生活の基本からの復興には結びつかない。ある仮設住宅では2つの住居を確保する者もいれば、狭い住居に入れられた者もいる。どうにも不透明なところが散見される。復興組織は被災者の現場に視野を置いた機能的なものでなければならない。仮設住宅に戻ると午後5時。鍼灸を受けた人たちは約70人。ひとり30分の治療はここでも喜んでいただけた。竹村さんたちは午後7時すぎの新幹線で東京へ。私は「足利・太田幼女連続事件家族会」の行動のため、大宮で一泊、太田市に向かった。
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