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満蒙の土:1部・開拓民の記憶 養子/8 中国人の父、優しかった /長野

 ◇お袋は「この人は良さそうなのでやっかいになれ」と。「離れて悲しい」なんて思わなかった--中野市・三井寛さん

 <満州に入植した黒台(こくだい)信濃村開拓団は1945年8月13日、侵攻したソ連軍に投降した。当時10歳の三井寛さん(77)=中野市在住=ら子供や女性は現地の鶏寧(けいねい)の収容所に入れられ、飢えなどに耐えながら1カ月半過ごした。10月、別の収容所の奉天(ほうてん)(現在の瀋陽(しんよう))駅近くの春日小学校に移動させられた。ここでも、飢えや発疹チフスで多くの子供らは次々落命する>

 遺体を埋めるため、校庭にでっかい穴を掘ったの。その穴に入れるため、服にフックをひっかけて遺体を(動かすために)引っ張るんだ。下り階段になったら、おっ放す。冬で凍ってるから、ガラガラって下へ落ちていくんだ。マグロみたいに。

 食べ物は何にもないから、留守の中国人の家に忍び込んで、床や梁(はり)をはがして、まきにして売って、おからやアワを買った。捨ててあった白菜の芯も、少し腐ってたけど、構わずに食べたな。

 <収容所に多くの中国人が妻や養子を求めてやってきた。11月中旬、母の勧めで「李(リー)さん」という50代ぐらいの中国人男性の養子になる>

 中国人がわんさか来たの。サツマイモ2、3本持ってきて「これくれるから、こねえか」なんて、誘ってたね。お袋は「この人(李さん)は良さそうなので、やっかいになれ」と紹介した。自転車の荷台に乗って、南奉天の李さんの住む長屋に連れて行かれた。「リー・ツェンチン」と名付けられた。生き延びるための知恵みたいなものだから、お袋と「離れて悲しい」なんて思わなかった。

 <独り身の養父・李さんの下で、靴屋や商店の小僧として働く。靴屋の店裏は隠れてアヘン(麻薬)を売買し、吸引させる「アヘン窟」だった>

 李さんは温厚で優しくて、自分の子供のようにかわいがってくれたよ。最初は靴屋で働いたんだけど、その裏がアヘン窟で、そこも手伝った。アヘンは板状で、ミルクキャラメルみたいな色。ろうそくであぶって、パイプで吸うんだ。

 俺は懸命に包丁で切り分けていたよ。客は金持ちばかりで、店には札束がたくさん積まれていたな。俺は言葉を話さなかったから、日本人だとばれることもなく、李さんの子供だってことで信頼されてたな。

 <半年後の46年5月。敗戦国・日本へ、三井さん母子の帰国手続きができた。近くのじゅうたん工場で働いていた母が一転、養父の下に一人息子を引き取りにきた>

 働いていたら、李さんが「お母さんが来た。日本に帰れるよ」って迎えにきた。少し機嫌は悪そうだったな……。李さんは自分の老後の面倒を見てくれる子が欲しかったから、母とは、もめたみたい。それでも「生みの親と暮らすのが一番良いんだ」って承知してくれたらしい。

 俺は2歳で満州に来てるから、日本を知らない。逆に知らない故郷へ行くのが不安で、うれしいわけでもなかった。

 帰国して数十年たってから、李さんのことを調べたけど、分からなかった。他人の子だったのに、良くしてくれた。今でも感謝しているんだ。【満蒙(まんもう)開拓団企画取材班】=つづく

毎日新聞 2011年9月6日 地方版

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