壁にかけられた鍵箱を開けると、取り付けられた古びたプレートに『屋上』と書かれている鍵があった。
「先生、視聴覚室の鍵返しておきますね」
「ありがとうね、松浦くん。 皆、お仕事頼むとイヤそうな顔するから先生、松浦くんにしか頼めないの……」
制服を着ていたら僕達、高校生の中に平気で混ざれそうな童顔を曇らせながら、そんな事をのたまってくれる先生。
だから、いつも僕ばかり用事を頼まれてたのか。
「大丈夫ですよ、僕に出来る事があれば何でも言ってください」
「本当? ありがとうね」
えへへ、と向日葵が咲いたように笑う先生。
「いえ、先生もまだ一年目で大変でしょうし」
と、言いながら僕は屋上の鍵を手の中に隠したまま、鍵箱を閉めた。
隅っことはいえ、職員室の中で、しかも、担任の教師の前で堂々と窃盗。
これはなかなかドキドキするもんだなぁ。
「そうなのよぅ……みんな、私の事なんて先生だと思ってないのよね」
手の内に隠した鍵を、こっそりとポケットに落とす。
こんなに堂々とした窃盗を見逃すくらいだからだろう、と思いながら僕は言う。
「ははは、先生というよりお姉さんって感じですもんね」
「もうっ、松浦くんまでそういう事、言うんだから! 先生、怒りますからね!」
私、怒っています、とわざとらしく顔に書いた先生は、どこか嬉しそうな雰囲気だ。
周りは先輩の教師だらけで常に監視されているようなもの。
かと言って生徒にもナメられる訳にはいかないから、話す相手もいない。
だから、こんな軽口程度でも嬉しがっている。
きっと疲れているんだろうね。
でも、それがわかっても僕じゃ先生の役には立てやしない。
だって、
「あはは、すみません」
実は僕、先生の名前を覚えてないんです。
「うーん……仕方ないですね。 許してあげます」
朗らかに笑う先生に、僕は罪悪感を抱く事は無かった。
普段ならもう少し付き合ってあげる先生とのお喋りをさっさと切り上げると、僕は屋上に向かう廊下を歩いていた。
暦の上で夏は終わったはずだけど、まだまだ蒸し暑い。
夕暮れの日差しに赤く染まる廊下には誰もおらず、ただ僕の足音だけが響いている。
窓から外を眺めると、小高い丘ともつかない木々の緑に覆われた微妙な高さの多分、山。
でも僕の中では壁という表現がぴたりと当てはまる。
あの山さえなければ、と何度思った事か。
そして、誰もいない校庭。 部活もさっさと終わったらしい。
まだ五時にもならないのに練習切り上げてるから、うちの高校の部活は弱いんだ。
自分はやりもしないくせに文句をつけると、胸ポケットからイヤホンを取り出した。
曲はなるべくハイテンションなのを。
僕達の年代ではあまり好きだという話を聞かない古いロックバンドは、今の気分にぴったりだ。
イヤホンから聞こえて来る歌声から、愛だの恋だのの言葉は聞こえて来ない。
歌いたいから歌うという感じがして、気持ちがいい。
僕は今、わくわくしている。
封鎖されている屋上に入る。 ただそれだけで走り出したくなるような気分。
おいおい、待てよ。 もう僕は高校生じゃないか。 こんな冒険とも言えないような冒険で、うきうきわくわくするなんて恥ずかしいだろ。
そんな風に思わないわけじゃない。
だけど屋上ならきっと見えるはずだ。
空でも飛んでしまいたい気分のまま、僕は階段に足をかけた。
階段の上に見える金属製の扉はあちこち錆び付いている。
一歩、また一歩。
と、ここで曲が終わった。
ランダム再生にしているせいで次の曲に何が流れるかわからない。
流れて来たのは、ゆったりとした透き通る歌声。
そのくせ歌ってる内容は、馬鹿馬鹿しいくらい単純な歌。
世界はとても綺麗だ。
僕は心の底から、その言葉に賛同する。
ドアノブに手をかけて、鍵を差し込む。
そして、この歌には人がいない。
世界の美しさを美しい歌声で歌いながら、誰もいないのがまた僕を好きにさせてくれる。
鍵を回すと、かちゃん、という音がした。
ごくり、と唾を飲み込むと、ゆっくりとドアノブを回した。
鍵がかかって開かなかった。
なんだよ、それ。
つまり、元々開いてたのを閉めちゃったのか。
ごくり、とかやってた僕が馬鹿みたいじゃないか!
恥ずかしい!
……くそう。
気を取り直して、扉を開ける。
ギギギギ、と音を立てながら開く扉の向こうには、
「おお」
海が見える。
山の向こうに見える海は夕焼けに染まって、オレンジ色にキラキラと輝いていた。
うっとおしい蒸し暑さを洗い流してくれるような涼しい潮風は、僕の気持ちを更にかき立ててくれる。
どの教室に入っても、絶妙に壁が邪魔をして学校から海は見えない。
だけど屋上からなら、と思っていたけど、正解だった。
多分、他人が見ても今の僕ほど綺麗な光景だとは思わないだろう。
山の影から、ぱーっと広がる景色は確かに綺麗だ。
でも探せばもっと綺麗な景色は沢山ある。
でも、今の僕にとってみれば、まさに目の前の壁がぱあっと開いた。
そんな感じの気分だ。
ふっと海から視線を逸らすと、そこにはフェンスにでかでかと穴が開いていた。
フェンス越しにみるより、きっとこの光景は綺麗なはず。
そう思って、僕はそこに歩み寄る。
風にふっと甘い香りが乗った。
ゆらゆらと揺れるポニーテールが、屋上の縁に座っている。
フェンスをくぐって、そのまま足を投げ出すように腰を下ろした。
地面を踏みしめていない僕の足は、ひどく頼りなくて、それがまた気持ちいい。
「ねぇ」
ここで飛び降りてしまえたら、どんなに気持ちいいだろう。
この浮き立つような気分のまま終われるのなら、僕にとって理想の死に方な気がする。
人生の最後は人生最高のタイミングであるべきだ。
僕はそう思っている。
僕の人生にこれからがあっても、これ以上はなかなかないんじゃないかな。
だったら今、ここから飛び降り自殺するのは間違っていないはずだ。
「ねぇ」
曲が切り替わる。
踊り出してしまいたくなるようなロックを聞きながら、僕は立ち上がった。
ただ勢いと陶酔だけで飛び降りる。
そういう自殺があってもいいじゃないか。
足元を見れば、吸い込まれるような気分。
これは世界が僕を誘ってる!
「よし」
I Can Fly!
「よし、じゃないわよ!」
「ぐえっ。 初対面の相手の襟首は掴んでもいい物じゃないだろう」
「あんたが私を無視したからじゃない!」
そういえばちらちら視界には入っていた。
どうでもよかったから、脳が認識してなかったけど。
「無視したわけじゃない。 この景色に感動していただけなんだ」
「綺麗よね、ここ」
「うん」
同じ物を見て、同じ感じ方が出来るなら友人になる事が出来るかもしれない。
同じ方向を向けるなら、恋人にだってなれるだろう。
まぁここで死ぬ僕には関係のない話だけど。
彼女は長いポニーテールを跳ねさせながら、すっくと立ち上がる。
僕の胸くらいまでしかない身長のくせに、偉そうに腕を組んで言った。
「それはともかく、あんたどっか行って」
訂正。 やっぱり友人にはなれそうにもない。
「嫌だね。 僕はここでやりたい事がある」
「奇遇ね。 私もよ」
「待って欲しい。 僕は今日で最後なんだ。 譲ってくれないか?」
「転校でもするの? そんなのは転校先でやってよ」
「いや、自殺しようと思ってね」
「はあ?」
綺麗な顔立ちなのに、そんなにぽかんと口を開くと残念な感じなるね。
「わ、私も自殺しようと思ってここに来たのよ」
「奇遇だね」
「嫌な奇遇もあったもんね」
合縁奇縁を大事にしなければ、僕のように友人が出来ない。
そう言ってやろうかと思ったが、僕にはそんな義理はなかった。
と、いうよりこれから浮き世に張った根を引きちぎり、自殺しようというのだから、彼女との関係性はこれまでだ。
「ではお先に」
I Can Fly!
「待ちなさい」
「だから、襟首を掴まないでくれ」
「あんたが先に飛んで、後から私が行ったら心中みたいに思われるじゃない!」
僕からすれば死んだ後、他人からどう思われようと関係はないけど、自分の死に方にどういう意味を乗せるかは個人の好みがあるだろう。
それを軽々しく否定するつもりはない。
それに、
「ああ、それに飛び降りて、地面で君と僕の身体が混ざったら嫌だな」
自分の身体と他人の身体が混ざるというのは、さすがに生理的嫌悪を感じる。
「……それは嫌ね」
「かと言って、どちらかが日にちをズラしたとしよう。 そうなったら屋上の管理が厳しくなってしまって、二度とここで自殺が出来なくなってしまうかもしれない」
やっぱり死ぬなら綺麗な場所がいい。
薄暗い富士の樹海で死ぬのはまっぴらごめんだ。
どうしてもここしかない。
「私はここ以外は絶対に嫌よ」
「僕もだよ。 ……つまり、お互い何らかの妥協が必要だ」
お互いに場所を譲る気は無い。
しかし、同時に飛び降りるのには問題が多い。
これを解決するには何らかの発想の転換が必要だ。
「あ、あんたが後から来たんだから、あんたがどこか行きなさいよ!」
「もし、その意見を僕が聞き入れたとしよう。 その場合、君は気持ちよく自殺出来るかな?」
「……どういう事よ?」
「自分が先にこの場所を使ったせいで、あの名も知らない男子生徒は、すんなり自殺出来ないのではないか?と微妙に気になるんじゃないかな」
「……………気にならないわ」
「逆に僕ならなるね。 罪悪感というほど大きな物じゃなくても、さっきまでのすっきりとした気分では、もう死ねない」
「………………」
ああ、そうだ。
僕にいい考えがある。
「だから、お互いに妥協点を探ろう」
「どうしたらいいのよ、ほんと」
「まず日にちをズラすのは論外だ」
「そうね」
「なら、心中と思われても構わない。 お互いの身体が物理的に混ざっても構わない。 そんな方法が一つある」
「どんな方法?」
「僕と、付き合ってくれないか? 恋人的な意味で」
同じ物を見て、同じ感じ方が出来るなら友人になる事が出来るかもしれない。
「は?」
一緒に同じ方向を向けるなら、恋人にだってなれるだろう。
僕が生まれて初めて告白した彼女が、またぽかんと口を開く。
この子は本当に残念な美人だなぁと思った。