ガラス張りの部屋の一角で、白衣を着た学生たちが銅製の鍋をかき回している。まるで料理教室のようだが、れっきとした東京工業大学大学院生命理工学研究科の実験だ。対象は生命理工学部から進学した分子生命科学専攻の修士生。「ビールの製造過程ではさまざまなバイオの力が使われています。それをサンプリングして測定しながら各シーンで“何が起こっているか”を理解していきます」そう説明するのは梶原将先生。大手ビール会社で研究開発に携わっていた経歴を持つ。鍋の中身は麦芽の粉末・約２キロを水に溶かしたものだ。前日にすりこぎとすり鉢で仕込みを行った。いわゆる“一番搾り”と呼ばれる麦汁のろ過に到達するためには45度で30分、63度で80分、76度で10分、というように温度を一定に保つ必要がある。「何度になってる？」「上がりすぎ。もう少し下げよう」しかし、この夏は節電で室内温度を例年より２、３度高い中で実施。その影響からか、鍋の温度が一定にならずすぐに上がってしまう。止むを得えず、麦汁を煮る間だけは冷房温度を下げることに。「何度？」「よし、大丈夫」。上手くいったようだ。それにしてもなぜ一気に温度を上げてはいけないのだろうか。梶原先生が解説する。「麦汁には複数の酵素が含まれていてそれぞれの酵素が最適に働くための温度が異なります。ここでは３種類の酵素に働いてもらおうというわけです」

 

今、行っている作業は「もろみ糖化」と呼ばれる工程。麦芽中のでんぷんを糖分に変えることで酵母が食べられる状態になる。「もろみ糖化」の次は布でろ過する。これが一番搾り、二番搾りと呼ばれているものだ。それから温度をさらに１００度まで上昇させ、ホップの添加を行う。と、ここで質問を一つ。梶原先生ご自身の研究室ではどんなテーマを扱っているのだろうか。「“真核微生物”と言われるヒトと同じ細胞構造をもつ微生物に注目しています。病原性発現・増殖・感染のメカニズムを調べたり、高効率なバイオマスエネルギー生産に利用するための酵母研究などに取り組んでいます」。バイオマスエネルギーとは動植物から生まれる再利用可能な資源のこと。中でも植物系バイオマスは微生物の働きを使ってアルコール等に転換していく。原子力や石油に変わる資源をどうするかが緊急課題である今、最有力視されている次世代エネルギーの一つである。また、日本人学生のほか、中国、タイ、デンマークなど国際色豊かなメンバーで構成されているのも梶原研究室の特色。海外の大学や研究機関と多くの共同研究を行っているそうだ。

 

ビール作りは３週間の集中講義として実施される。今日はそのヤマ場。約６時間かけてエアレーション(泡入れ)までもっていく。とりわけ難しいのは、二番ホップを添加した後、酵母を投入するために１００度から10度へ冷却していくシーン。「氷水で一気に行います。高温では菌はほとんどいませんが、低くなればなるほど空気中の菌が付着する可能性が急激に高くなりますから」。エアレーションは空気を入れていく作業。工場では巨大タンクから巨大タンクへの移送するなかで自然に行われるが、実習では通常の数倍サイズのお玉でかき混ぜるという。そこまでくれば一段落。冷凍機に保存し、経過をチェックしながら発酵させていく。20世紀後半、ほとんどの生命現象がＤＮＡとタンパク質に基づいて説明可能であることが明らかになってきた。生命科学はこれからの人類の在り方を変えると言われる。取材した学生たちも揃って新しい分野への期待やそこに参加している喜びを口にしていた。梅雨が明ければ夏本番。メンバー全員で試飲するビールの味は最高においしいに違いない。