東日本大震災

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東日本大震災:防災対策庁舎、骨組みだけに 南三陸町

3階建ての防災対策庁舎の屋上まで達した大津波=南三陸町役場提供
3階建ての防災対策庁舎の屋上まで達した大津波=南三陸町役場提供
防災対策庁舎(右側の鉄塔付きの建物)。赤茶色の骨組みだけが残っている=宮城県南三陸町で2011年3月13日、比嘉洋撮影
防災対策庁舎(右側の鉄塔付きの建物)。赤茶色の骨組みだけが残っている=宮城県南三陸町で2011年3月13日、比嘉洋撮影

 東日本大震災で町の中心部が壊滅した宮城県南三陸町。あの日、役場も大津波にのまれ、残っていた職員37人のうち27人が死亡・行方不明になった。震度7にも耐えるといわれた役場別館「防災対策庁舎」は、赤茶色の鉄の骨組みだけが残る。【堀智行、喜屋武真之介、大島英吾】

■2時46分

 午後2時46分、町役場本庁舎2階の議場。町議会閉会のあいさつに佐藤仁町長(59)が立っていた。「2日前にも地震がありました。更に災害に強い街づくりを」。その瞬間、議場が大きく揺れた。

 佐藤徳憲総務課長(60)は、役場西隣の自宅に戻った。「津波が来るから逃げなさい」。玄関から妻節子さん(63)に言ったが、返事は「避難中に来ると怖いから家にいます」。「2階は大丈夫だろう」。佐藤総務課長はそれ以上勧めず、防災対策庁舎に向かった。

 役場の南約300メートル、海から約200メートルの結婚式場「高野会館」。高齢者約450人が集まり、芸能発表会が開かれていた。「大丈夫ですよ」。町社会福祉協議会職員、高橋吏佳(りか)さん(38)はおびえるお年寄りに声をかけていた。夫文禎(ふみよし)さん(43)は町企画課職員。「津波が来たら高台に避難するだろう」。夫の無事を信じて疑わなかった。

 文禎さんは、防災対策庁舎2階の危機管理課にいた。水門の状況など情報収集に追われた。危機管理課の遠藤未希さん(24)は佐藤智係長(56)から津波警報などの情報を受け取り、防災無線で避難を呼びかけた。

 高さ約6メートルの大津波警報に佐藤町長は思った。「想定内だ」。1960年のチリ地震では高さ5・5メートルの津波が襲った。同規模の津波に耐えるよう高さ約5・5メートルの防潮堤を築き、96年には耐震構造3階建ての防災対策庁舎が完成した。「防潮堤で防げる」。佐藤町長は確信し、高さ約12メートルの防災対策庁舎屋上へ向かった。

 高野会館。高橋さんはお年寄りの手をとり4階への階段を上がっていた。携帯電話が鳴った。午後3時18分。文禎さんだ。「もしもし」。出たが、すぐ切れた。かけ直してもつながらない。その後、ごう音とともに津波が来た。3階まであっという間に浸水。4階に逃げたお年寄りは全員無事だった。

■3時20分   

 午後3時20分。危機管理課に連絡が入った。「津波が防潮堤を越えた」。防災無線で避難を呼び掛けていた遠藤さんに上司は言った。「未希ちゃん、放送はもういいから」。一緒にいた佐藤係長は「みんな避難したと思うが、その後が分からない」と振り返る。

 佐藤総務課長は防災対策庁舎と本庁舎を結ぶ渡り廊下にいた。窓から庁舎脇の八幡(はちまん)川の様子を見た。「新幹線のようなスピード」で波が川を逆流した。防災対策庁舎に駆け込み叫んだ。「津波が来る。逃げろ」。屋上に駆け上がり見えたのは、黒い波にのまれる自宅だった。2階まで浸水した家は、いったん浮き上がり、山の方へ流れていった。妻節子さんの姿は見えない。「せっちゃん、せっちゃん」。妻の友人の女性職員2人がフェンスにしがみつき、絶叫した。

 潮が逆流し始めたかと思うと「防潮堤の3倍近くはある」(佐藤町長)大津波がなだれこんできた。木造2階建て本庁舎は真っ二つに。佐藤町長はぼうぜんと立ちつくした。

 防災対策庁舎も丸ごと津波にのまれた。佐藤総務課長は外付け階段の手すりに手足を突っ込み、抱きつくようにしがみついた。津波の衝撃。体が手すりに食い込む。眼鏡が飛んだ。寄せては返す波。胸まで水につかり、何度も頭から水をかぶった。佐藤町長は外付け階段まで流され、手すりにつかまり耐えた。37人いた職員のうち助かったのは、高さ約5メートルの無線用鉄塔によじ登った佐藤係長らと、佐藤総務課長ら階段の手すり近くにいた計10人だけだった。

■翌朝     

 高野会館で一夜を明かした高橋さんは翌日、避難所で長男(13)、次男(11)、長女(10)と再会した。津波直前の着信後、連絡が取れない夫が気がかりだった。昼ごろ、訪ねてきた上司が言った。「旦那さんが行方不明だ。職員がたくさん流された」。長男とがれきの街を捜し歩いた。何度も名前を呼んだが、返事はなかった。

 後日、知人から聞いた。夫文禎さんは防災対策庁舎屋上の無線用鉄塔を何人もの職員で囲むように円陣を組み、津波の衝撃に耐えようとしていた。「あの電話は津波を察して『逃げろ』と私に伝えたかったんだと思う」。3人の子にはこう言った。「パパは必死に生きようとしていた。生きたくて生きたくてしょうがなかったんだよ」

 防災対策庁舎建設前、庁舎を高台にという議論はあった。だが、役場への近さが優先された。05年の合併時も新役場を高台にとの声はあった。だが、主に財政的理由で見送られた。そして、役場は壊滅。危機管理課の佐藤係長は言った。「津波に襲われ逃げ場がないような庁舎ではダメだ」

 佐藤総務課長は3月末で定年退職の予定だった。妻に、これまで照れくさくて言えなかった「ありがとう」の言葉は、伝えることができなかった。

 防災無線で避難を呼び掛けた遠藤さんは4月末、町の沖合で遺体となって発見された。多くの職員を失った町長に佐藤総務課長は続けてほしいと頼まれた。仮庁舎に出勤するたび、骨組みだけの防災対策庁舎が目に入る。

 「流された人の思いを無駄にしない街づくりをする。それがせめてもの償いだ」(肩書と年齢は当時)

毎日新聞 2011年5月23日 0時35分(最終更新 5月23日 1時25分)

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