とかく経済的な豊かさというものはネガティヴに語られます。世界の中で日本だけが成長を止め、貧困化が進んで久しい現在もなお「成長のツケ」だの「豊かさの弊害」といった類の言説は頻繁に、そして得意気に繰り返されてきました。経済的な豊かさは、何か他の(日本人にとって)大事なものを損ねる負の要因として位置づけられてきたわけです。経済的な豊かさよりも精神的な豊かさの方が大事だ、そういう理想を追求してきた結果として今に至るのかも知れません。この十数年来の経済停滞は、理想へと近づく過程でもあったのでしょう。
我々の社会が経済的な豊かさを否定して精神面の豊かさを追い求める中、貧しくとも心だけは豊かな人が増えてきたように思います。つまり、実態として経済的には貧困だけれど、心は富裕層もしくは経営層である、そんな人が多いのではないでしょうか。いかに貧しくとも富裕層の心は失わない、そうして高所得者の視点もしくは経営者の立場からしか物事を見ない、心は(経済的に)豊かな人が多いわけです。ネット世論上は元より、市井の人々もまた金持ちや経営側に有利な政策を実行してくれる人々を積極的に選び取るなど、貧困化が進む中でこそ「心は豊か」な人が増えているように感じます。
こうした傾向を「気分はエグゼクティヴ」と呼びたいと思います。つまり、どれほど貧しくとも気分だけはエグゼクティヴ、富裕層や経営者の視線を失わない人が、昨今の日本では多数派を形成しているわけです。心までは貧困層とならない、心だけはエグゼクティヴクラスであり続ける、そうした人が多いのではないかと。先日は「プラヴダ主義経済学」というエントリを上げましたが、「プラヴダ主義」とでも呼ぶほかないトンデモが受け入れられる背景には、何かにつれ世論が経営者目線に寄り添っていることも大きく影響しているはずです。経営者の立場でしか物事を考えられないからこそ、経営側の都合だけを一面的に語る言説に共感してしまう人も多いのではないでしょうか。
日本の経済言論の特徴を一言で表すとしたら何か、実はプラヴダ主義経済学と呼ぶ代わりに、もう一つ別の候補もありました。総じて日本の経済思想とは、日本の主流派の論者が曲解しているところのマルクス主義を逆転させたものでもあるように思います。つまり、極めて階級闘争的でありつつ、資本家の立場から労働者――とりわけ正社員なり労働組合なり――を打倒すべき階級敵と見なすわけです。現に労組を敵視した不当労働行為や労組加入者を標的とした不当解雇の事例には事欠きませんし、経済系の論者は(そして気分はエグゼクティヴな賛同者も)挙って雇用の問題は雇用主ではなく労働側に責任があるかのごとく語り、正社員や労組が既得権益を手放さないから悪いのだ、学生が選り好みするか悪いのだと説いてきました。この逆転した似非マルクス主義こそ日本の経済言論における支配的なイデオロギーであり、謂わば「逆マル派」とでも呼ぶべき人々によって牛耳られていると言えそうです。
正社員や労組を既得権益云々と呼んで敵視し、そのせいで改革が進まないと説く人は枚挙に暇がありません。そこに僅かでも真実があるというのなら、正規雇用率の低い小売や飲食業界が日本経済を牽引していてもおかしくはないですし、労組が企業ごとに細かく分割されており、それ以前に組織率が際立って低い、労組など存在しない企業が大半を占める日本こそが世界で最も改革の進んだ国家となりそうなものです。にも関わらず「改革が足りない」かのごとく語る論者の絶えることがない辺りに、いかに日本の経済言論が現実に適合しないものであるかを感じずにはいられません。
経済的な豊かさを否定する日本は何を目指しているのでしょうか。営利企業は当然のこととして利潤を追うものです。しかるに国全体の経済のパイを増やすこと、すなわち経済成長が歓迎されない中、企業利益を伸ばす方法として選ばれたのは、労働者の取り分を会社側に移すことでした。売上を減らしてもなお、それ以上にコストを削る、人件費を中心にコストを削ることで会社の利益を増やす企業が続出しています。これは労働者を階級敵と見なす「逆マル派」にとっても、理想に近づく一歩であるのかも知れません。経済成長による企業利益の最大化よりも、階級敵の打倒=従業員の利益の最小化=人件費削減を軸にしたコストカットを優先してきたのが日本的経営というものですから。
日本だけが世界経済の成長から完全に取り残されているのは、別に日本人が劣等だからではなく、目指している未来が違うからだと、そう考えるほかありません。経済的な豊かさには背を向け、精神的な豊かさを追い求める、その中では必然的に実利よりもイデオロギーが幅を利かせ、経済誌に載せられた「逆マル派」の空疎なプロパガンダが現実よりも優先される――このような現状を指して「プラヴダ主義経済学」と呼びたいわけですが――そうして現実に立脚「しない」政策が次々と押し通され、日本だけが停滞を続けて来たわけです。それでもイデオロギーを優先し続けるのが日本的経営なのでしょう。結果を出すことよりも、自らの正しさを証明することの方に力点が置かれているとも言えますね。
資本主義国のおとぎ話は「昔々、あるところに」で始まる
社会主義国のおとぎ話は「いつか、どこかで」で始まる。
これはソヴェト時代のジョークですけれど、では日本の、逆マル派のおとぎ話はどうでしょうか? 現代日本のおとぎ話は「いつか、誰かが」で始まります。誰か正義のヒーローが現れて、悪い奴をやっつけてくれることを待ち望む、それこそ日本の多数派が示す民意であるように思われます。その願いを託す対象が小泉純一郎であれ小沢一郎であれ橋下徹であれ、「いつか、誰かが」悪い奴をやっつけて、それで世の中が良くなってくれることを待ちわびているという点では変わりがありません。ヒーロー役と「悪い奴」の役が異なろうとも、「いつか、誰かが」で始まることには変わりがないのです。
そもそも労組とは何かと考えたときに、個人では立場の弱い人が「自分を守る」ために寄り集まったのが労働組合だと書いたことがあります(参考)。そしてこの労働組合は、何かにつれ敵視されがちです。たぶん「いつか、誰かが」で始まる逆マル派のおとぎ話とは、最も相容れないものなのでしょう。だって労組とは寄り集まることで「自分(たち)を」守るものですから。しかし逆マル派が期待しているのは「誰か」が助けてくれることです。自分を守るためではなく、他人のために戦ってくれてこそヒーローと考えている人にとって、自分たちを守るために戦う組織というものは悪玉に他ならないのです。
「誰か」に期待するってことは、要するに「他人のため」の行動に期待すると言うことです。だから自己のためではなく他人のために戦ってこそヒーローとして世論の支持も集まる一方で、逆に自分自身を守ろうとしている人々は打倒すべき悪として位置づけられます。ではヒーローとして、他人のために戦う証として求められるのは何か、まず求められるのは自分自身の利益を手放すことなのかも知れません。自らの報酬を削減するなど自己犠牲を払う姿勢をアピールできれば、己のためではなく世のため人のために戦う存在として認知され、その攻撃の対象が何であろうと善意に解釈される、他人に同様の自己犠牲を強いることすら正義として扱われているようですから。その一方で自らの権利や利益を手放さない、反対に守ろうとしている人々こそが打倒すべき階級敵として扱われるわけです。その権利を手放せ、と。
かくして貧しくとも心は豊かな、気分はエグゼクティヴな人々によって逆マル派の空疎なプロパガンダは大いに称揚され、現実ではなくイデオロギーに沿った政策が繰り返される、そうして継続される沈滞の中、人々は「いつか、誰かが」悪い奴をやっつけてくれることを信じて、自分たちを守ろうとしている人々に怨嗟の声を向け続けます。そしてグローバル化する世界が浮沈を繰り返しつつも発展する中、日本のガラパゴス化は大いに進み、類を見ない新興衰退国として、そこに住む人々は今後とも喘ぎ続けることでしょう。しかしこれは、日本人が望んだことでもあるように思われます。
「もらえる金の分だけ働いて済まそうとするな。もらえる金以上に働く心構えが必要だ」みたいな言葉は経営者側からもよく聞きます。あたかも労働者側から労働者の権利放棄を主張するような論法を使うことで、こういった言葉に酔いたがる労働者自身に権利を放棄させてるのでしょう。でもこれは経営者が「ウチは働いた分の金を払う気はないよ」と言ってるのと同じなのですよね。そこで相手の立場から相手が権利放棄をしたくなるような論法を使うことで経営者の権利だけの最大化をはかる、乗せられる人もどうかと言いたくもなりますが。労働者側の「もらえる金の分だけ働いて済まそうとするな。もらえる金以上に働く心構えが必要だ」という視点は、経営者側の「ウチは働いた分の金を払う気はないよ」という視点と対になっていることを、もう少しみんな意識してみてもいいと思うのですよね。
「虐マル派」を当てはめても成立しそうですね。もちろんこれは自虐の「虐」です。
なにせ気分はエグゼクティヴですから、個人の目線よりも「国家」の目線、「為政者」の目線でしか物事を考えられない人も多いのだと思います。個人のためよりも、「国家のため」が先に来てしまうわけですね。
>毛さん
現行の政治や社会の元で守られているのはまさしく経営側ですからね。しかるに経営者個人のためではなく、「会社のため」となると、途端に大義名分として機能してしまうようでもあります。個人ではなく組織としての「会社」を奉仕の対象とすることで、労働者に対する搾取の問題を覆い隠しているフシがありそうです。
>あるみさん
なにせマルクス主義を敵視するくせに、マルクス主義を理解できていない連中ばっかりですから。マルクス主義を矮小化して理解した方が、批判対象にはしやすいのでしょうけれど……
「気分はエグゼクティブ」ですが、結局他人を低く見ることで、自らの精神的安寧を得ようとする歪んだところもあるのかもしれません。また、ヒーロー願望ですが、「自分でない誰か」に託すことで、自らの身を守る一面もあるのではないでしょうか?
さて、管理人さんいうところの「逆マル派」経済では悪役にされがちな労働組合ですが、困ったことに、一部労働組合が「経営者目線」から自分たちの待遇改善を放棄したり、非正規労働者の待遇改善に反対するケースもあるようです。
労組が邪魔をしているから非正規雇用の待遇改善が進まないと経済誌には書いてありますが、実際に非正規の待遇改善に反対している労組というのは初耳です。まぁ労組といえど民主党の支持母体でもあるゼンセンのような右翼団体もあるなどピンキリですから、探せばろくでもないのは見つかると思います。ただその辺は、あくまで例外と見るべきでしょう。
米ウィスコンシン州下院、公務員の団体交渉権制の制限法案を可決(2011年2月25日 Bloomberg.co.jp)
http://www.bloomberg.co.jp/apps/news?pid=90920008&sid=aUIv9KU8hrDg
この法案が提出された背景には、高い失業率や公務員と民間企業との賃金格差に対する不満があるみたいですが、米国の(国外に与える)影響力を踏まえると結構深刻な事態かもしれません・・・。
日本では一部の民主党支持ブロガーが「ティーパーティ」を賞賛していたりしますが、そのティーパーティの後押しで当選した知事みたいですね。アメリカでは全米50州で抗議デモが行われたそうで、まだ対抗する側にも一定の力と支持があるようですけれど、同じ法案が日本で出てきたら……
http://news.goo.ne.jp/article/jiji/world/jiji-110227X215.html
>ノエルザブレイヴさん
ルンペンプロレタリアートはブルジョワの扇動に乗りやすいとも言われたものですが、日本でこそ経済的に貧しい人が、なおさら社会を貧困化させるものを応援しているフリもありますからね。
そこがやはり「自己犠牲」を強要することにも繋がっている気がします。誰か自己犠牲があってこそ誰かの幸福がある、そう考えるゆえに従業員の献身があってこそ顧客の幸せがある、そこで犠牲を払わない労働者は消費者の敵と扱われてしまうのでしょう。
先日CLAWさんのブログで「節電政策では政府や電力会社が節電の努力を要求するとき、対象として強調されるのが個人や家庭に偏っていて、大規模に電力を使う企業法人への要求が軽視されていないか」という投稿を見つけました。
http://d.hatena.ne.jp/claw/comment?date=20110316#c
その人は、HN・natamaru123氏と議論になっているのですが、natamaru123氏の言動に「気分はエグゼクティブ」の表現が当てはまるのではないかと感じました。自動車会社や電力会社の社員と違い社会への貢献度の低い「庶民」は後回しだと、
救援対象を職業で選別する資格が自分にはあるかのような言い方でした。、
物事を経営者の目線で考えてこそ、まさに日本のネット世論と言うところですからね。実際に自分が置かれている社会的なポジションではなく、あくまで支配者の観点に立つ、それが自然になっている辺りが日本の歪な経済政策を導いて来たと言えるでしょう。