先行きが見通しにくい2009年。困難な時代には新しいリーダー像が生まれるはずだ。これまでも企業経営や政治に新しい時代を切り開いたリーダーがいた。そんな時代のリーダーを日経ビジネスが描いた当時の記事で振り返る。
(注)記事中の役職、略歴は掲載当時のものです。
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1991年1月28日号より
蚊がクジラと手を結んだといわれた米ゼネラル・モーターズ(GM)との提携、東欧激変の中でまとめあげたハンガリーでの自動車生産計画。「偉大な中小企業」を国際企業に育て上げてきた。人なつっこい笑顔の裏には「社員を死なせるわけにはいかない」との思いが隠されている。そのためなら、いかなる闘争もいとわない。(文中敬称略)
(太田 孝・日本経済新聞社記者)
鈴木 修(すずき・おさむ)氏
1930年1月30日岐阜県益田郡下呂生まれ、60歳。53年3月中央大学法学部卒業。同年4月中央相互銀行入行。58年4月鈴木自動車工業入社。63年取締役。64年取締役営業本部長。66年米国スズキ社長。67年常務。73年専務。78年6月社長就任。なお、90年10月1日付でスズキに社名変更。
「あっ、おれは社長なんだ」――鈴木修は朝、目を覚ました時に背筋がヒヤリとする思いに取り付かれ、ふとんから跳び起きることがあるという。体を休めるときでも社長の重みがのしかかってくる。
心の中に2人の自分が存在している。ひとつはスズキ社長の「鈴木修」である。もうひとつは温泉街として知られる故郷の岐阜県下呂で過ごした「松田修」だ。
1958年4月、鈴木自動車工業の社長だった鈴木俊三の長女祥子と結婚し、姓を鈴木に変えた。以来、一時は政治家への願望を抱いた若き松田修の顔は隠れてしまったが、心の中で常に鈴木修を冷めた目で見詰めている。
トップセールスで中国進出
鏡に映る顔を見ると、確かに老いた。先が垂れ下がるほど長いトレードマークの三角眉毛は、白髪が目立ってきた。社長に就任した78年当時の若々しさは失せた。だが、笑う、怒る、とぼけると変幻自在の表情は相変わらずである。相手の警戒心を奪う笑い顔の威力は増すばかりだ。創業者一族の女婿として入社して以来、社長をめざしたころの気負いもまだ残っている。
企業の存亡がかかった排ガス規制の突破、蚊がクジラと手を結んだといわれたGMとの提携、インドなど発展途上国での現地生産の成功、ハンガリーとの合弁による乗用車生産計画…。
浜松の従業員900人足らずの二輪車メーカーは、世間をアッと言わせる提携やプロジェクトを指折り数えているうちに、26カ国51工場で生産し、年商1兆円に手が届く国際企業に変身していた。
90年11月4日夕刻、修は中国・北京の人民大会堂の広場に立っていた。国家計画委員会の鄒家華主任を前にして、自らアルトの運転席に乗り込み広場を一周して見せた。国家計画委員会は中国の経済運営を統括する行政府で、主任は副総理格に相当する重要な役職だ。政府要人にアルトの性能の良さを印象付けようと、持ち前のサービス精神を発揮し、トップセールスにいそしんだのだ。
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