親愛なるお母さまへ

渡辺浩弐 Illustration/ざいん

「最前線」のスペシャル企画「最前線スペシャル」。静かな戦慄を生む、“母への手紙”――!渡辺浩弐が「敬老の日」に送る未来の“あなた”へのメッセージ。「カレンダー小説」第三弾、9/19~9/26の期間限定公開!

けいろうの日

わが家にはいまはまだおとしよりはすんでいません。でもいまのうちにれんしゅうしてちゃんとかいごできるようになって、いつか、いろいろな親こうこうをしてお母さまをよろこばせたいと思っています。そのころにはぼくも大きくなっていて、おせわがじょうずになってるはずです。

親愛なるお母さま。

おはようございます。よくお休みになれましたか。

今日も僕が、息子の僕が、お世話させて頂きます。

手が空いている時はこうして耳元でお話をします。

退屈なさいませんよう、できるだけ楽しいお話を。

面倒だなどとは思っておりません。

むしろ楽しくて仕方がありません。

感謝しているのです。

こうして一日じゅう一緒にいられること。

介護させて頂けること。

これは僕にとって、夢だったのです。

いつかこの日が来ることをずっと望んでいたのです。

お母さまにはまだまだ長生きして頂きたいのです。

それが僕の願いです。

お母さま、あなたはずいぶんお歳をめされました。

なんだか一回りも二回りも小さくなられたように見えます。

けれども、うれしいことに、あなたはまだたいそうお元気です。

頭もしっかりえておられます。

ですから、ちゃんと、感じておられるはずです。

とてつもない痛みを。

本当はとび起きて走り回りたいくらいでしょう。

けれどもそれは無理ですね。

その両足はそれぞれの関節から逆方向に曲がっていて、ほら、とっても面白い格好になっています。

僕が、叩き折ったんですから。スコップで。1本ずつね。

おはようございます。よくお休みになれましたか。

なれるわけが、ございませんよね。

お顔は残念ながらガムテープでほとんど隠れていて、表情はよくわかりません。

お声も、ぶひぶひと動物の鳴き声のようにしか聞こえません。

教えてあげましょう。お母さま、本当の地獄は、これからなのです。

ほら見て下さい。

この鉄棒は、家畜用の焼き印です。

先端の部分を、バーナーで、十分にあぶって使います。

鈍感な牛でさえ、これを当てられたら絶叫するそうです。

他にも、いろいろな器具をそして計画を用意してございます。

まだまだお元気で、生き続けて、感じ続けて、下さいね。

それが僕の願いです。

正直すっかり忘れておりました。

自分は木の股から生まれたと思い込んでおりました。

だからあなたのことで、実の母親のことで連絡があった時、僕はたいそう驚きました。

それは訪れたこともない遠い市の名が付いた福祉事務所からの、「扶養ふよう義務者の方へお願い」という文書でした。

  あなたの母親であります・・・・さんは、生活に困窮こんきゅうされ、

  生活保護を申請されております。

  扶養義務者の援助は公的な生活保護に優先します。

  あなたに援助をお願いします。

そんな内容でした。

僕は思わず笑ってしまいました。

何より、お母さま、あなたがまだ生きておられたこと自体が、とっておきの冗談のように思えたのです。

あれほど死にたがっておられたあなたが。酒を飲んでおさない僕の目の前で包丁を振り回して死んでやる死んでやると叫んでいたあなたが。貴重な税金からほどこしを受けてまで、生きながらえようとしているなんて。

死にたい死にたい死んでやる死んでやると叫んでいたあなたはおよそ死ぬという言葉が似付につかわしくないほどにとても健康的にえておられました。

その動作はとても力強くて、僕は殺されるのではないかと震えていました。

幼い僕といったら、ろくにものを食べさせてもらえずがりがりにせていましたから。

そんなあなたに愛想あいそをつかして、父親はさっさと逃げ出しました。違う県に引っ越して、違う女と違う家庭を持ちました。

それで僕はもっと飢えたのです。

ああ、昨日のことのようです。空腹でふらふらしている僕の前であなたは元気に大暴れ。死にたい死にたい死んでやる死んでやる。

それから何十年たったでしょう。あなたはまだ、しつこく、生きているんです。

ひとしきり笑わせて頂いた後で、僕は晴れ晴れとした気分でその紙を破り捨てようとしました。

ところが、ふと、続きが目に入りました。記入欄です。それが質問用紙になっていることに気がつきました。

何か書き入れて、送り返せということなのです。

  今後のあなたの対応を、以下から選んでください。

   1.定期的に送金します(毎月      円)。

   2.引き取ります(  年  月頃)。

   3.今は援助できませんが、将来は考えます(  年  月頃)。

その部分を見て僕はいきなり、とてつもなく不快な気分になりました。

ねえお母さま、この選択肢、おかしくはないですかね。

  僕に100万円くれますか、どうですか、次の中から返事を選んで下さい。

   1.はい

   2.イエス

   3.OK

そう言っているのと同じですよね。

そんな聞き方があるのなら

   4.死ね

という選択肢もありなのではないでしょうか。

こちらの住所を探し出すことができる立場の公的な人間が、公的な文書としてこんなに頭の悪い、脅迫のような文書を書いてしまうことの気色の悪さに僕は慄然りつぜんとしたのです。

この文書に関わっている人の「顔」を、僕はありありと思い描くことができました。

自分は苦労をしたことがない、苦労している人をさげすみながら仕事をしている、そんな人です。それでいて「良いことをしている」自分に酔っているのです。

けれどもね、お母さま、それから僕は反省したのですよ。

そんな人達と僕は同列になってはいけない。そう思ったのです。

そんな人達を見返してあげたくなったのです。

親孝行はするべきです。

老人は、うやまうべきなのです。

僕はすぐにそのアンケートに記入して、返送しました。

   1.定期的に送金します(毎月 100万 円)。

その足で銀行に出かけました。

100万円送金しました。日本赤十字社に。

お母さまにではなく、見知らぬ地域の見知らぬ人々に使って頂くために。

そんないきさつをすっかり忘れた頃、電話がありました。

「お母さまのことです」

と、名乗りもせずにその女性は言いました。

「お母さまがお困りです」

自信たっぷりにそうげると、そのまま黙っているのです。電話してあげているわよ。あたし、優しいでしょう。立派でしょう。驚いたかしら。だったら、ぺこぺこして、聞き返してきなさいよ、早く。無言でそう語っていました。

「あっそうですか。わかりました。では」

それで切ろうとしましたら、ヒステリックな声で、私はあなたのお母さまを担当しているライフサポートアドバイザーです、と、切り札のように名乗りました。

いろいろとお世話をさせて頂いておりまして、と、恩着せがましい口調でそう続けました。

いかにも自分は世の中を何から何まで知っている常識人だと言いたげな口調です。

僕はその女性の濃い口紅を想像することができました。受話器から嫌らしい口臭までがただよってくるように感じたものです。

「ライフサポートなんとかっていうのは公務員ですか」

と僕は聞きました。

「ええ、福祉事務所から派遣されていますが、けれどこれはボランティアで行っていることですよ」

「ボランティアということはあなたはこの仕事で賃金は全く受け取っておられないのですか」

と聞き返してみましたところ、女性は答えるかわりに、わめき始めました。

母親は生活保護を申請して、ようやく認められそうだった。最終過程で形式的に僕のところに問い合わせをした。ところがそれに僕が返答をしてしまったものだから、決まりかけていた生活保護がだめになった、というような内容でした。

月に100万仕送りをもらえる人間に税金を使うわけにはいかないですからね。

「あっそうですか」

と僕は言いました。

「では僕には送金する義務があるということですか」

当たり前でしょうあなた約束したでしょうが、と、女性はどなりました。

「本当ですね、それで本当に、法的、に、義務、が生じているのですね、それは強制ですね。放棄したらばっせられるということですね。念のため、この電話は録音させて頂いております」

女性はうっ、と答えに詰まりました。それから、あなた、法律のことなんて関係ないでしょう、なんて言い出しました。

「お母さまはあなたのせいでとてもとてもお困りなのですよ。そのことについてどう思いますか」

そう聞かれたので、

「とても愉快です」

と答えました。

さすがにそれで黙りました。やっと、わかってきたようです。僕がどういう人間なのかを。

しばらくしてから

「あなた、もしかして嫌がらせのためにワザと

と、言いました。

そこでとうとうがまんできなくて、僕は噴き出してしまいました。

女性はあきれたように言いました。

「あなたのお母さんなんでしょう?」

その言葉で、思い出しました。

「あなたのお母さんなんでしょう?」

かつて僕はその言葉を何度も聞いたんです。

そのようなことを口にするのは、家庭環境に恵まれてすくすく育った人間だからです。自分が大切に育てられた。それだけのことから、親は子供を大切に育てるものだと思いこんでいる人達です。

多くの大人たちはあの女が狂人であることを信用しませんでした。

よその家の大人と話をする、僕の状況を説明できるチャンスが、わずかだけど、あったんです。

けれど例えば「お腹がすいています」と言ったら、あらまあちゃんと好き嫌いしないでごはん食べないからよ、とか、食いしん坊ねえ、とか、そうさとされました。

「棒で叩かれたから逃げて来ました」と言ったら、首ねっこをつかまえて、親切にも家まで、アル中の鬼畜が待ちかまえている地獄まで、送り届けてくれるのでした。

人々は、新聞記事やテレビのワイドショーで虐待ぎゃくたいが報じられると義憤をつのらせるものです。

しかし同じことが自分の身近なところでおきても、信じないんです。目に入っているのに、見えないのです。

いや、たまたまそこにいた大人のことは、どうでもいいのです。

そもそも彼らは無関係なのですから。そういう人達に何も期待してはいません。

家庭内の犯罪を調べること、家族間の問題を明らかにして、改善させること。それを金をもらってやっている、仕事にしている人達が、ちゃんといるのです。

虐待のうたがいのある家庭の中まで入り、子供の言葉に耳を傾ける。傷口を見きわめる。そしてきちんと判断をする。場合によっては親の権利に介入して子を救い出す。そういう権利、いや、義務がある立場の人間が、いるのです。

彼らが、ちゃんと仕事をしてることを前提に、世の中は動いています。

しかし、忘れもしません。そんな人間が、僕にこんなことを言いました。

「よかったわねえ。お母さん、心を入れ替えて優しくなってくれるってよ。おばさんがね、よーく話をしておいてあげたの。だから、もう大丈夫。あなたも、素直になってお母さんの胸に飛びこんでみてごらんなさい、きっと、わかりあえるから。おばさん、わかっているのよ。あなた達は、親子なんですもの、きっと幸せになれるわ」

お母さんなんだから、肉親なんだから、最後は、きっと愛情でなんとかなる、この子供の言っていることは、きっと何かの間違いだ、子供が憎い親なんか、いるわけがないわ、だって世界は、こんなにも美しいんですもの。お花畑なんですもの。

そんなふうに考えていたのでしょうね。そのおばさんの、きらきらと光る目を忘れられません。私は素敵すてきな人、親切な人、私が関われば世の中から不幸なんてなくなる、そんな思いこみの目です。

そういう思考回路の人間に限って、そういう立場につきたがるものなのでしょうね。そして人助けをして感謝されたがる。偽善ぎぜんを、振りまきたがる。

そうです幼い僕の背中に最後の一押しをして地獄に落としたのは、そんな人だったのです。

幼い僕を地獄に突き落としたその人と、先日僕に電話をくれたライフサポートなんとかのあの人は、なんだか同一人物のように思えます。

ただし今回、突き落とされたのは、僕ではありません。お母さま、あなたです。

あの偽善者は、自分は素晴すばらしい仕事をした、人を助けた、良いことをしたと思いこんで満足しています。だからもう、関わってくることはないのです。僕はそれを知っていました。

数週間かけて、僕は念入りに準備しました。

自宅の地下室を改造して、このベッドを設置しました。

いろいろな道具や器具をそろえました。

全ての作業が完了した頃、予想通りのことが起きました。

お母さま、あなたが、やってきたんです。この家に。

85歳の老婆がたった一人で東京までやって来たことは予想外でした。やはりライフサポートなんとかさんは、県外まではついてきてくれないのですね。

住所を紙に書いてもらって切符きっぷも買ってもらって電車の乗り方降り方まで詳しく教えてもらったのだとあなたは言いましたね。今は個人情報保護法というものがありますので、これは告訴しておこうと思いました。今の僕はお金持ちです。そういうことに使う金ならくさるほどあるんです。

ただ、お母さま、あなたにかける金はしいのです。あなたは遠くの駅からタクシーに乗っていらしたようで、2万円も払わされて僕は閉口しました。電車賃はあったんですね。ああ、老人は安いんでしたっけ。

数十年ぶりに会ったお母さまは、一見、ただのお婆さんでした。

あら本当に久しぶりね、元気そうね、しゃがれた声でそう言うと大口をあけて汚い顔をゆがめてげはげは笑いました。

当然、年老いてあなたはとても汚らしくみにくくなっていました。その姿はまるで不潔ふけつ畜生ちくしょうのようでした。

けれども、僕はなつかしかったですね。

あなたが若い頃、そうですね20代の頃から、僕には、こう見えていたんです。幼児だった僕は、あなたの中に既にこの不潔な畜生を見ていました。

ふん、元気そうね。いい気なものね。そう言ってげはげは笑うあの顔です。

何うらみがましい目で見てんのよ。

と、あなたはまるで大人に話しかけるような口調で幼児の僕に当たりました。

「あたしの親はね、17であたしを産んだんだ」

そうしてあたしが14の時にはもう働かせていた。まだ子供のあたしから金をむしり取ったわ。

だから今度はあんたの番よ。

ただじゃおかないからね、覚悟してなさいよ。

当時のあなたは若かったのです。その若さで、世間には正体を隠すことができていました。

けれど今は本性が表側に浮かび上がってきています。やっと、外見と内面が一致したのです。

もしあの頃にこの見かけだったら、僕は信じてもらえたかもしれませんね。

あら、大きな家に住んでいるのねえ、偉くなったのね、あたしうれしいわ。あなたはぺらぺらと一方的にしゃべり続けながら、勝手に僕の家に上がり込んできました。

勝手に荷物をほどきさらには勝手に台所をあさってお茶をいれてずびずび飲みました。

しまいにはみすぼらしい土産みやげ袋を抱えて出かけようとしました。近所に挨拶あいさつをして回ろうというのです。

この家に居座る気なのですね。

いやその図々ずうずうしさよりも、自分が普通の母親だと思い込んでいることに驚きました。

テレビのホームドラマに出てくるような、普通の母親だと。

僕は黙って、そんなあなたを見ていました。昆虫の生態を観察するような気分で。

やがて、行動を始めました。

あなたが持ってきたものを全てゴミとして捨てることから始めました。

衣服も、写真類も、いちいち引き裂いて、裏庭に積みました。そして火をつけました。

ところが僕がせっかくゴミを片づけてさしあげているのにあなたはぴーぴーがーがーうるさいのです。

しがみついてくる手は老人と思えない力でした。

気持ち悪かったので一度それをねじりあげてみました。

覚えていないのでしょうか。

あなたは昔、僕の大切なものを、たくさん、捨てましたよね。

友達からプレゼントされたプラモデルを、散らかした罰だと言って踏みつぶしてゴミ箱に投げ入れました。

飼っていたカブトムシを気持ち悪いと言って外に逃がしました。

あなたは大声でぎゃあぎゃあわめきました。

ええと、こういう時は、どうするんでしたっけ。

そうそう、思い出しました。幼い僕が大声で泣きわめいて近所から心配した人が訪ねてきた時。

あなたは外面をつくろうのがとてもうまいのです。男性が来たら、色気を使いました。女性が来たら、さめざめと泣いてみせました。

うまくその場を取り繕った上で、僕を、ほうきの柄で叩きました。

泣きやむまで許さない。そう言って、いつまでもいつまでも、叩き続けました。

今この家にはほうきはありません。なので代わりに、スコップを使いました。

頭をまず横殴りにして、倒れたところに、振り下ろしました。5、6発殴ったらやっと暴れるのをやめました。

けれどもまだひいひい泣きわめいています。本当にあなたはお達者です。

僕の家は結構な広さがありますし庭は高い塀で囲んでありますが、さすがに聞こえが悪いのです。

結局僕はさらにスコップを振り上げました。

今度は落ち着いてひざを狙いました。

二度、三度。

そうやって両足を叩き折ってさしあげたのです。そしてガムテープで、静かになって頂きました。

仕方ないですね。これは、罰なのですから。

あなたが立ち上がれなくなった時、僕は天にも昇る気分でした。

やっとあなたを独占することができたのです。

やっぱり母親は母親です。

とことん面倒をみようと思いました。

お母さまとゆっくり話ができるなんて素敵なことです。

お母さま、あなたが5分でも黙って僕の話を聞いてくれたことがありますか。

あなたは僕が聞いていようが聞いていまいがぺらぺらぺらぺら喋り続けました。もう死にたい、今死にたい、とか、ああ気分が悪い頭が痛い、とか、お前ぼけーっとしてないでたまには金稼いで来いよ、とか。

僕の方は、黙っていました。お腹がすいた、とか、寒い、とか、ケガが痛い、とか、そんな言葉もぐっと押し殺していました。うるさいと怒鳴どなられまた殴られるからです。

今あなたはただ寝ているだけでいいのです。両足を折られベッドに固定されていますから。もうぺらぺら喋り続ける必要もありません。口をふさがれていますから。

静かなあなたに対して、今度は僕が、思う存分、優しい言葉をかけることができます。

お腹すきましたか寒いですかケガは痛みますか。

あの頃の僕の気持ちが、少しでも、わかりましたか。

水の冷たさも、僕には忘れられない思い出です。

特に真冬の、あのホースの水のこと。

いつも、あなたは夜になって帰ってきました。

自分はどこかでもうお風呂をすませていたみたいです。石鹼せっけんの匂いを漂わせています。

僕を見ると、ちっ、と舌打ちをしました。臭いわね、あんた。

そうして面倒臭そうに、裸になれと言いました。風呂場に立たせ、ホースで水をぶっかけました。

あたしの親はね、真冬だって温かいお風呂になんて入れてくれたことなかったわ。だからあんただってこれで上等。

そうやって僕の汚い体を、きれいにしてくれたのです。本当にありがとうございます。

今、そのお返しをしてさしあげますね。

あなたが横たわっている特製ベッドは、介護用のバスタブを改造したものです。

その底に直接、横たわって頂いています。暴れると危ないですから、ベルトで固定しましたよ。

じっとしているだけなのに、あなたはすぐに汚く臭くなるんです。

だから毎日こうして、ホースで水を掛けてさしあげます。汚水はそのまま流れていきますから、とても簡単です。素晴らしい発明だと思いませんか。

これは完璧な介護装置ですね。おむつもいりません。

あなたが暴れたせいでできた傷口、とりわけ足の、骨が露出した部分からは、妙な色の液体がじくじくとにじみ出していますが、そういうのも全部、水に流してさしあげますから、清潔です。

冷水をびしゃびしゃと浴びながらあなたはお鼻でぶうぶうと鳴いています。豚のようですね。

本当は叫んでおられるのかもしれませんが、そのお口はしっかりとガムテープでふさいであります。

思い出しませんか。

あなたはよく僕のことを押し入れに閉じこめましたよね。

そうして男の人を家に上げていました。

あの時あなたは、僕が泣いたり騒いだりしないように僕の口をガムテープでふさいでいました。

鼻の穴だけはちゃんと露出していますよ。最低限、呼吸できるように。

鼻の穴の片方にはチューブを差し込んであります。それはのどから食道に入っています。

そこから、栄養物を流し込む仕組みです。

お母さま、素晴らしいでしょう。あなたはものを食べるわずらわしさからも、解放されているわけです。素敵でしょう?

あなたはただ寝ていればいいってわけです。

何度も言いますが、これは完璧な介護装置です。

僕があなたのために、ミキサーでどろどろにして流し込んでいるものは、何だかわかりますか?

これです。インスタントのラーメンです。

この銘柄、懐かしくないですか。まだ売っているんですね。袋のデザインもほとんど変わっていません。

ほら、いつかあなたが大量に買ってきて、台所に放り出したあれと同じものです。

もう3歳になったんだから、ごはんくらい自分で作りなさい。

そうあなたは言いました。

お鍋にお湯沸かしてこれ入れたらおいしいラーメンできるんだから、と。

小さかった僕はどうしても、ガスコンロに火をつけることができませんでした。

指の力が足りなかったんですかね、タイミングが悪かったんですかね。

しゅぼ。しゅぼ。何度も何度も、指が痛くなるほどひねってみたけど、空振りばかり。

お母さまは、そんな僕の頭を後ろからスリッパで殴っただけでした。

そうしてまた出かけていきました。何日も戻ってきませんでした。

お腹がすくから、僕は、あのラーメンを食べたんです。調理せずにそのまま食べたんです。

ぼりぼりかじっているうちに喉に詰まりました。

水にひたして食べたら、なんとかお腹に収まりました。

時には1週間も2週間も、僕はそれで生き延びました。やがて全身にぶつぶつができました。

今でもアレルギーには苦しんでいます。

けれども僕はなんとか生き延びたんです。

小学校に上がる年齢まで。それで、給食を食べることができるようになりました。

教師はクズばかりで、僕を助けようとするどころか、心配するどころか、汚い格好をしているという理由だけで蔑むばかりでした。

そうだ思い出した、あれは和田わだというの女教師でした。

「本当にあんたの格好は見苦しいわねえ」

と、あの教師はそう吐き捨てました。

「もっとまともな服着られないの。破れてるじゃないの」

そういうことは親に言うべきだとは、思わなかったのでしょうかね。

「嫌になるくらい汚いわねぇ、どうしたのそのあざは」

なぜ、あんな言葉を口にすることができたのでしょう。今あらためて、聞いてみたいです。

けれど、学校には、感謝しています。

少なくともあの場所で僕は給食を食べることができました。それだけで、命をつなぐことができたんです。

さて、あなたはどうでしょうね。

その、一番安いインスタントラーメンで、1種類の食べ物だけでどれほど生きることができるでしょうか。

あなたは二言目には言いました。

あたしは貧しい家に育ったのだと。

ひもじかった。満足にごはんを食べることもできなかった。

ラーメン食べられるあんたは幸せなのよ。感謝しなさいよ、と。

今ならわかります。あなたも被害者です。あなたもひどい目にあっていたのです。

なぜだかその復讐を、僕に、していたのです。

冷たいですか。寒いですか。

それでは、ちょっと暖めてみましょう。

焼き印です。

最初はどこがいいですか。お尻かしら。

に焼いた金属を、しわくちゃの肌に押し当てます。

煙が立ちのぼります。すごい臭いです。そしてぶうーっとまた豚の鳴き声。

今日のはひときわ大きくて、進軍ラッパのように威勢いせいがいいです。

これから、1日1個、記念の印をつけることにしたのですよ。

いくつまで、つけられるでしょうか。

ねえねえお母さま、ほら、僕の手の甲を見てください。あなたが、酔ったあなたが煙草たばこの火を押しつけたあとです。大人になっても、消えないんですね。

僕がどんな悪いことをしたからあんなにひどい罰を受けることになったのか、それはどうしても思い出せません。

ただ覚えているのは、ち、という舌打ちの音。そして、あんた見てるとイライラすんのよ、というあなたの言葉です。

けいろうの日

わが家にはいまはまだおとしよりは
すんでいません。でもいまのうちに
れんしゅうしてちゃんとかいごでき
るようになって、いつか、いろいろ
な親こうこうをしてお母さまをよろ
こばせたいと思っています。そのこ
ろにはぼくも大きくなっていて、お
せわがじょうずになってるはずです。

僕が、あのころ書いた作文です。

僕はこの作文を、このボロボロになった1枚の原稿用紙を、大事に持っていました。

あなたに見つかったこともありましたが、この作文はとがめられませんでした。むしろあなたは読んで機嫌きげんが良くなりましたね。

だから捨てられることもなく、今に至るまでずっと手元に残すことができました。

幼い僕から、大人の僕へ。時空を超えた手紙は、無事届けられたのです。

すぐ近くに巣くう、化け物。圧倒的に強い、敵。そして周囲は誰一人、助けてくれない。そんな逆境で、たった一人だけ、味方がいることに、僕は気づいたのです。

その人に手紙を書こうと思い付いたんですね。

そうです。その人とは、未来の自分です。

この作文の隠しメッセージにあなたも、周囲の偽善者達も、気づきませんでした。僕はこれを、数十年後にタイムスリップさせたのです。

僕は生き延びること、大人になることだけを考えました。いつか金と、腕力を手にした時、僕はきっと、自分自身を助けにいくことができる。醜い母に、大人に、大人達に、復讐しにいくことができる。

そう信じていました。

それは、正しかったのです。

今、ついに僕は「親孝行」をすることができたのです。

あなたをここに送り込んだのは、あのライフサポートなんとかの女性だと僕は思い込んでいました。その彼女から、書留かきとめで、1枚の紙が届きました。

死亡通知でした。そこにお母さまの名前がありました。

僕のお母さまが死んだ、ということなのです。

それで僕はあわててここに、あなたのところに、走ってきたんです。いつの間に死んだんだろうって、正直かなりあせっていました。ぼろぼろの肉のかたまりとなってはいましたが、あなたはまだ生きてぶうぶう鳴いていました。

そもそも、こんなところにいる畜生一匹の生死を遠く離れた田舎の役所が知るわけもありませんよね。

僕は混乱しました。

やがて思い付いて、それだけは捨てないでおいたあなたの財布を調べました。

くしゃくしゃのお札が数枚。シルバーパスや、保険証もありました。そこに書かれた名前を僕は確かめました。

苗字は、あなたの、旧姓でした。けれども名前は、僕のお母さまの名前では、なかったのです。

人違いのわけなどないはずです。

生年月日を確かめました。

そこから導き出された年齢は85歳ではありませんでした。

あなたは102歳でした。

102−85=17。思い当たることがありました。

「あたしの親はね、17であたしを産んだんだ」

僕はそれから遠くの役所に電話をかけて確認しました。

わかりました。

あなたのことが。

あなたは、僕のお母さまではありませんでした。僕の祖母お母さまの、そのまた母親だったのです。

おばあさま。僕達はこれまで、ほとんど会ったことはありませんでしたよね。

ただ、あなたに虐待された思い出を、僕はお母さまから何度も何度も聞かされていました。

おばあさま、あなたはなぜここに来たのですか。

なぜ僕の勘違いをそのままにして、僕にお母さまと呼ばせ続け、僕に面倒をみさせ続けたのですか。

だまそうとしていたのでしょうか。それとも、あなたもまた何かの思い違いをしていたのでしょうか。

どちらでも、ありませんよね。

実は、もう、わかっています。

あなたは、報いを受けようとしていたのです。

あなたが自分の娘に、やったことの報いを。それを、そのさらに子供の僕から、受けようとしていたのです。

ああ、なんということでしょう。

僕は、自分の子を作らずにすみました。親から受けたご恩を、自分の子に返さずに、すみました。

その代わりに、受け取ったものを全て、時空をさかのぼって、母の、そのまた母に返したのです。

ようやく、円環が閉じたのです。

そうです今日は母の日ではありませんでした。

「敬老の日」だったのですね。