ラクパ・リ(2009/09)
【ラクパ・リ通信 第1号 記:林孝治】2009/09/04
中国、チベットのラクパ・リ(7043m、「リ」はチベット語で「峰」の意)に登るためにネパール・カトマンズに来ています。メンバーは、斎藤留美子さん、石川清流さんと林です。
斎藤留美子さんは、舞鶴在住で、遠隔地をものともせず、毎週大阪まで、中級登山学校を受講するために通い続けた元気娘です。一昨年のデナリ(マッキンレー)、昨年のメラピーク&バルンツェに続いての海外遠征。昨年は、7000mまで達したものの、登頂を逃し、今度こそは7000m峰の頂上に立ちたいと燃えています。
石川清流さん(61)は、愛知労山の「山の会くらら」に所属。30年程前は、冬壁もやっていて、アイガー北壁にもトライしたオールドクライマーですが、そのあとは仕事で、山から遠ざかっていました。昨年11月、奥様に先立たれ、「ぽっかり空いた心の空白」を埋めようと山に復帰。ヒマラヤ初見参ですが、今回のラクパ・リ遠征に参加されました。
8月26日、カトマンズに着き、早速、27日からランタン山群のゴサインクンドに順応に行ってきました。標高の低いところでは、ヒルが出迎えてくれましたが、2500mを過ぎると、ヒルも出てこず、トレッカーもいない静かな貸切トレッキングでした。
本来ならモンスーンのこの時期ですが、今夏は、記録的な少雨とかで、トレッキング中も合羽の出番はありませんでした。
当初は聖地ゴサインクンドから同じ道を引き返す予定でしたが、カトマンズからドンチェまでの長いバスにうんざりだったので、ゴサインクンドを抜けてカトマンズ近くまで歩いて帰ることにしました。
この道は、私は20年ほど前に歩いていますが、以前は、汚いロッジが少ししかなかったのですが、今ではロッジもきれいになって、人気コースになっていることを物語っていました。長い尾根を下って、途中から美人の里ヘランブーに降り立ち、そこからバスでカトマンズに戻ってきました。
カトマンズで休養、準備をしたあと、いよいよ今日から陸路チベットに入り、ベースキャンプに向かいます。
また、所々で通信をお送りしたいと思います。
【ラクパ・リ通信 第2号】09/05
またまた、チベットに来ています。6月以来、3ヶ月ぶりです。昨日はカトマンズを出発して、ヒマラヤに向かって4時間程走り、どんづまりの国境の町コダリでネパールを出国しました。先日も逆コースでここを通過してネパールに入りましたが、ここから中国に入国するのは1994年のシシャパンマ遠征以来です。
人民解放軍の若い兵士が警備する友誼橋を渡り、近代的なイミグレーションで、中国・チベットの入国の手続きをします。ここは少数民族独立の動きを警戒して、チベットに暴動が起こるたびに閉鎖される国境です。今回も新疆での暴動の余波を心配しましたが、無事に入国。でも、書籍類のチェックは入念でした。ダライ・ラマ関係の書籍の持ち込みを警戒しているのでしょう。
ここで、時計を北京時間に合わせて2時間15分進め、日本との時差はマイナス1時間になりました。
ここからは、チベット登山協会(TMA)の迎えの車で、ジグザグ道を標高差500m程を登って中国側の国境の町ザンムー。
一本の車道を挟んで、急な斜面に鉄筋の建物がぎっしり立ち並び、あたかも、熱海温泉のような光景です。中国の都市部からすればこれでも粗末な建物でしょうが、バラックの並ぶネパールから来れば、ヒマラヤ山中の空中都市のようです。
ザンムー周辺はヒマラヤの急斜面ですから、雨季になると土砂が崩れて車が通れなくなります。そんな時はネパール人ポーターの人力で向こう側に荷物を運び、別の車に積み替えて、前進するのですが、このところ、通行に支障は無いようです。でも、拡幅や土砂止めや舗装の工事が昔からなされていて、今春以降、昼間は全面通行止めで、作業の終わる午後6時頃以降でなければ通行できません。そんな訳で、3時間程、ザンムーで時間をつぶし、19時頃、やっと宿泊のニェーラムに向かってスタートしました。
坂道の両側には通行止め解除と通関、積み込み、積み降ろしを待つ、ネパールと中国のトラックが一分の隙間もないほど、ぎっしり駐車していて、その間を縫って、時には対向車をやり過ごすチベット人運転手のテクニックには舌を巻きます。
工事区間を過ぎれば、後はほぼ舗装された道で2時間ほどでニェーラムの指定の旅社に到着。富士山山頂と同じ高度です。
TMAのメニューでは、ここで2泊して、高度に順応した後、先に進むことになっているのですが、私逹はネパールで順応してきたので、1泊だけして次の宿泊地ティンリーに向かうことになりました。
ただ、急な変更のため、朝6時の出発です。チベットの6時といえば、日の出前の4時頃の風情で、まだ真っ暗の中を出発して来ました。ニェーラムから暫くで5000mの峠を越え、ここからはシシャパンマが間近に望めるのですが、まだ真っ暗で何も見えませんでした。でも、ティンリー近くではチョモランマが姿を見せました。チョーオユーは頂上部が雲に覆われていましたが、その巨大な存在感を示していました。
ここティンリーはチョモランマやチョーオユーのBCへの入口で、TMA御用達の旅社には登山隊が続々と到着してきています。
明日は私達もチョモランマBC=ラクパ・リBCに出発します。
【ラクパ・リ通信 第3号】09/06
ティンリーからのガタガタ道を卵と中国製テルモスを抱えて4時間、チョモランマBC(5000m)に到着しました。あいにく、チョモランマは雲の中です。
ここにはたくさんの観光客目当てのテント掛けの土産物屋、食堂、旅館から郵便局まであります。また、少し手前のロンブクには中国移動通信の巨大なアンテナがあって、私の携帯もバリ3で入ります。
登山隊のBCはさらに車で10分ほど走った奥で、天気が良ければ、このテント村こからもチョモランマが間近に望めるのですが、ツーリストはシャトルバスで登山隊のBCを往復します。
登山隊のBCには公安(警察)のチェックポストがあり、ヘビーチェックで、ツーリストはここから200mほどしか進めません。TMAの連絡官もここに滞在していて、登山隊との連絡調整に当たります。
私達は早速、隊員テントや食堂テントを張り終え、我が登山隊のBCが完成しました。私達はここに3〜4日滞在し、ABC(前進BC、約6300m)の高度の順応を得た後、ABCへと進みます。
ところで、今回はいつものラクパ・シェルパは来ていません。本当は彼が来る予定で準備をしていたのですが、出発の1週間前に、彼は「チョーオユーの仕事が入ってたのでラクパ・リには他のシェルパをやるから安心してください」と言ってきました。実入りのいい仕事に走ったのです。強く抗議したのですが、私たちがカトマンズに着いた時には、私たちの段取りは整えて、チョーオユーに出発してしまっていました。
それで、彼の代わりに来たシェルパはダワというシェルパです。どこのダワかと思っていたら、何とエベレストにネパール側、チベット側から合わせて12回参加。うち8回登頂。しかもエベレストのネパールBC〜頂上〜BCを20時間の最短記録を持ち、その他8000m峰多数と言うとんでもないやつでした。
彼は7000mを少し越えるラクパ・リの我々弱小登山隊のためにかいがいしく働いてくれています。ネパール人コックを今回は連れて来ていません。ネパール人もTMAに高い登山料を払わなければならず、経費削減のためです。その代わり、チベットのキッチンボーイを雇用して、彼に食事の準備をしてもらうということで、ダワが何度か一緒に仕事をして信頼できるというカッサンという男を連れてきました。「瓢箪から駒」と言うのでしょうか? これからのダワの活躍に期待しています。
【ラクパ・リ通信 第4号】09/09
昨日、今日とBCでゴロゴロしていました(これも高度順応の一環です)。朝、早くから中国人の観光客がシャトルバスでやってきて、大きな声で話したり、テントを覗かれたりしています。私たちのことをチョモランマ登山隊と思っているようですが、訂正するのも面倒なのでそのままにしています。
明日は、BCの裏山に6000m位迄登り、明後日、ABC(6300m)に向けて出発します。
現在、チョモランマには七大陸最高峰単独無酸素というのを売りにしている北海道の栗城さんがメスナールートから狙っいるそうで、15人のシェルパと入っています。春のマナスル近藤隊のボチボチトレックのハンドリングですから、顔見知りのシェルパがいるかもしれませんが、彼らはBCにテントだけを残し、全員がABCに上がっています。
もう一隊、スペインの3人がジャパニーズクーロアールからアルパインスタイルで目指しているそうです。彼らもABC以上に行っているようです。毎年、春季には何十人、何百人と登頂するチョモランマ(エベレスト)ですが、秋季の登頂記録は乏しい上に、今日のチョモランマは真っ白になっていて、なかなか厳しいものがありそうです。
ラクパ・リのほうは、既に2隊が敗退して下山、数日後、イギリスの大きな隊が入ってくるようです。したがって、BCでゴロゴロしているのは私たちの隊だけです。
ところで、先日、我が隊のダワ・シェルパの経歴を紹介しましたが、正確にいうと、2006年チョモランマのチベット側ABCから夜の9時にスタートして頂上が朝の8時40分、そのままネパール側に縦走して、ネパール側BCに到着したのが夕方5時15分、所要時間20時間15分という世界記録だそうです。
2011年にはこのBCからスタートして、ネパール側BCまで18時間台という記録を作りたいと言っています。
また、彼は2006年、群馬の名塚さんが雪崩で亡くなったアンナプルナに参加していて、名塚さん達より先に安全地帯に抜けていて、難を免れたと…。
ところで、今日はロンブク僧院にお参りに行って来ました。BCから徒歩で30分程下った所、小高い岩山に溶け込むようにあり、タルチョ(五色の旗)がなければ見落としてしまいそうです。
この僧院は、チベット動乱の際、侵攻してきた人民解放軍により破壊された僧院です。5km位下流には、再建された現在のロンブク僧院があり、ここには、政府の建物やホテルの他、中国移動通信の巨大アンテナがあります(そのおかげでこうしてメールが送れます。)。
私たちが訪れた古い僧院には一人のラマ(僧)がいて、私達を案内してくれました。本堂に本尊はなく、本堂の地下に自然のトンネルがあり、ヘッドランプを付け潜り込むと、バターランプに照らされて、小さなご本尊と先代のパンチェンラマ(チベット内における、ラマ教の最高指導者)の写真が祀られていました。ここで、登山の安全と成功を祈願し、石川さんは昨年亡くなった奥さんの供養をされていました。ラマに奥さんが昨年亡くなっ たことを告げると、ラマは毎朝、奥さんのためにお経をあげておきます、と言うと、石川さんの目には光るものがありました。
人民解放軍がこの地下に雪崩込んで来るまで、当時のラマはこの地下で祈り続け、そしてチョモランマの反対側、タンボチェに山を飛び越えて行ったとの言い伝えがあるそうで、その証拠にここにあるラマの足形、手形と同じものががタンボチェにもある、と足形や手形を示してくれました。
その後、破壊されたたくさんの僧坊、チョモランマで亡くなった人を荼毘にする場所のわきを通り、修復中のお堂に案内され内部を見せてくれました。仏様を安置する仏壇が出来上がっており、それに彩飾する15〜20歳位の5〜6人の若い絵師のグループが携帯電話片手に楽しそうに働き、ラマもそのできばえを嬉しそうに、誇らしそうに私たちに説明してくれました。ここは、中国人や政府の援助は無く、ここを訪れたチベット人とチョモランマの登山隊の喜捨だけで修復し、数週間後には完成して、その暁には新しいロンブク僧院からはもとより、チベット各地から高名なラマが来て、法要が営まれるそうです。
【ラクパ・リ通信 第5号】09/21
通信が途切れ、遅くなりました。
カランクルン ラクパ・リ登山隊(林隊長、石川、斎藤)の3名は9月16日14時30分、全員が登頂しました。頂上からは8000m峰のマカルー、ローツェ、チョモランマ、チョーオユー、シシャパンマが指呼の間に望め、眺望は比類無きものがありました。
10日、チョモランマBC(5200m)をヤク7頭でスタートし、東ロンブク氷河に入りC1(5500m)まで。11日はチャンツェ氷河の合流点のC2(5800m)まで。12日、ABC(6150m)に到着。
通常はABCまで、C1、C2間のミ ドルキャンプ(5700m)に1泊して入るようですが、私たちは、ゆっくり順応しながら、2泊3日でABCに入りました。チョモランマを知り尽くしているダワだけあって、初期順応の重要性を彼は何度も私たちに話していましたが彼と私たちとの合意によるものです。
私たちのABCは、通常チョモランマ隊がABCを設ける地点(6300m)の40分位下、チョモランマのノースコルからの支氷河が合流するあたりの左岸、モレーン上です。東ロンブク氷河の対岸に私たちの目標のラクパ・リが聳え、氷河を横断するには、このあたりが最短距離になるからです。
13日、14日と休養。雲一つ無い快晴で、終日、頭上にチョモランマが見え、ネパール側のモンスーンは明けたかのようです。
14日、栗城隊のABCを訪問しました。栗城さん自身は上部に上がっていて、不在でしたが、ハンドリングしているボチボチトレックは春のカランクルン・マナスル隊もハンドリングしていましたので、見知っているシェルパもいました。シェルパは9名で、彼らはノースコルまでサポートして、それ以降栗城さんは単独で頑張っているようです。
また、テレビの撮影チームが入っていて、シェルパを集めて、シェルパソングの撮影をしていました。ダワ情報によると、このテレビチームは無許可のため、私たちの撤収後、TMA(チベット登山協会)によってカメラをBCに下ろすよう命じたられたようです。チョモランマは第一級の国家財産ですから、1万ドル単位の撮影料が要求されるのです。
15日、ラクパ・リを目指してABCを出発しました。
まず、東ロンブク氷河に入り、迷路のようなセラック(氷塔)帯を抜けます。幸い、深く大きなクレバスは無く、1時間半程でセラック帯を抜けました。でも、セラック帯は左岸寄り、氷河の10分の1程度で、あとは広い雪原状となっていて、その雪原を、クレバスを大きく迂回しながら、ラクパ・リから落ちてくる氷河の左端、岩稜とのコンタクトラインを目指します。そこからコンタクトラインに沿って登り、6500m位の所に快適な広い岩棚があり、テント2張でハイキャンプとしました。
キッチンボーイのカッサンが荷上げをしてくれ、大いに助かりました。彼は、その日ABCに戻り、翌日、荷下げに再びハイキャンプに上がってくる予定でしたが、そのまま、寝袋無しでハイキャンプに泊まり、私たちの食事の世話をしてくれました。実際、氷河沿いのABCよりも、ここの方が遅くまで日当たりもよく、暖かい一夜でした。
(HCから頂上へ)
16日、1時間寝過ごし、8時40分のスタート(マイナス2時間15分のネパール時間の方が現実的です)。ここからは、ダワ、石川組と林、斎藤組でコンテで登りました。所々、大きなクレバスがあり、それを迂回して頂上直下の急な雪面に出ます。時々、ビシッという大きな音がして、肝を冷します。雪面が何百メートル四方に渡って、50センチ四方大のジグソーパズルのように、一挙に崩壊する乾雪板状雪崩は以前経験していますので、それを警戒しながら一直線に登り、頂上に到着しました。
(奥さんと共に登頂)
ラクパ・リはチョモランマの陰に隠れて冷遇されていますが、比較的短期間で登れ、技術的な困難さが少なく、それでいて眺望は最高で、なかなかいい山だと感じました。
登山隊は無事、ABCに戻り、そこを撤収して、C1で1泊して、BCに帰還。BCでは、たくさんの中国人観光客と同様、チベット人経営のテント掛けの旅館に泊まり、昨日、一挙に国境の町ザンムーまで降りて来ました。
今日はネパールに入国してカトマンズに到着します。
チョモランマBCは日が当たるまではたいへん寒かったのですが、ここザンムーは標高が3000m近く下がったので、暖かく、空気も濃く感じます。そして、今日は雨が降っています。ネパールサイドはまだ、モンスーンが明けてはいなかったようです。(終)
(登頂証明書)
「3. 海外山行」カテゴリの記事
- 第二次 アコンカグア 2011年2月(2011.04.02)
- アコンカグア 2010年12月/2011年1月(2011.01.24)
- アイランドピーク 2010年10月/11月(2010.12.19)
- トリスル1峰 2010年8月/9月(2010.12.19)
- ラクパ・リ(2009/09)(2009.09.16)
コメント