その名は●五月(メイ) [the name]
♪男いのちの 純情は 燃えて 輝く金の星
夜の都の 大空に 曇る涙を 誰が知る
影はやくざに やつれても 訊いてくれるな この胸を
所詮 男のゆく道は なんで女が 知るものか
………………
(「男の純情」詞:佐藤惣之助、曲:古賀政男、歌:梶芽衣子)
この5月にふさわしい名前といえば、ストレートに五月(さつき)あるいはメイ。
「さつき」の有名どころといえば、たとえば小泉チルドレン(懐かしいフレーズ)で名を馳せた片山さつきや元アナウンサーの有賀さつきがおります。
片山さんは5月生まれで、素直なご両親の命名です。有賀さんは残念ながら5月生まれではないようで。だからといってご両親がひねくれてるってわけではないのですが。
まぁ、とにかくどちらも「さつき」ちゃん。女の子の名前としては今だってけっして古くない、エヴァグリーンネーム。
ただ、歌手となると「さつき」ちゃんが見当たらない、というか思い浮かばない。
しかし名前ではなく苗字ならいます。
昭和30年代、まだ「演歌」なんて言葉がなかったとき「芸者ソング」で世のオヤジたちの鼻の下をビョーンと伸ばさせた(古いでしょいい回しが)のが五月みどり。
残念ながらわたしはまだヨチヨチ歩き、なわけないか。まぁボチボチ歩きだったので鼻の下はそのままでしたが。
それでも「おひまなら来てね」とか「一週間に十日来い」などヒット曲は、幼き耳にも聴こえておりました。
なかでも好きだったのが「温泉芸者」。
♪あまりあんたがいい人だから 酔ったふりして甘えたの
なんて、小学生でわかってたのかねえ。
ガールポップス前夜のこの時代、三味線に鉦・太鼓・笛を駆使した日本調の歌謡曲が多かった。
榎本美佐江とか神楽坂浮子とか赤坂小梅とか花村菊江とか。
残念ながら五月みどりさん、「さつき」も「みどり」も芸名で本名は大野フサ子。もちろん5月生まれでもありません。
まぁ、「さつき」はこんな程度で、次は「メイ」
そのものズバリの「メイ」といえばアイドル歌謡の横本メイ。
「スター誕生」のハワイ大会で優勝してデビューを果たしたという日系?世。
メイちゃんもやっぱり芸名で(横本は本名)で、昭和51年に阿久悠お得意の“間借りソング”「すてきな貴方」でデビュー。
芸能界に飽きてしまったのか、いい男でもみつけたのか(余計なこと)すぐにフェイドアウト。
そのほかでは、「メイ」はいませんが、「メイコ」なら。
昭和20年代から30年代のラジオの時代、名子役として、またストレンジヴォイスを駆使して人気者(タレントなんていわなかった)になった中村メイコ。
歌手としてレコーディングも数々。
なかでもヒットしたのが昭和30年の「田舎のバス」。
♪田舎のバスは オンボロ車
とヨチヨチ(まだいってる)のわたしもうたっていました。
クレーマー横行の現代なら袋叩きにあいそうな歌ですけどね。
「どこがオンボロなんじゃい、われ」なんて。
これは、三木鶏郎の作詞作曲で、ほかにも「わたしゃ町の易者じゃがね」とか「ほらとれたよコーヒー」、「わたしは貴方が釣りたいの」、あるいはCMソングの「やっぱり森永ネ」など独特のトリローソングをいくつかうたっています。
また旦那さんが作曲家の神津善行という関係から作詞もいくつ手掛けています。
以前紹介した中島そのみ、あるいは懇意にしていたという美空ひばりの歌などを。
なかでも最大のヒットとなったのが江利チエミの「新妻に捧げる歌」。
大津美子の「ここに幸あれ」とともに、いにしえのウェディングソング。
中村メイコも本名ではない。ただ本名は五月(さつき)で、もちろん5月生まれ。
次の「めいこ」さんは、昭和50年代末に「キミたちキウイ・パパイヤ・マンゴーだね」でスマッシュヒットをとばした中原めいこ。
作曲は彼女自身。大胆にもスイングの「ザッツ・ア・プレンティ」That’s a Plenty をイントロにそのままいただいちゃてる編曲は「六本木純情派」(荻野目洋子)の新川博。で、ワケのわからない歌詞は森雪之丞。
彼女の本名は小原明子(おばらめいこ)で5月生まれ。芸名を「中原」ではなく「大原」にしていればもっとヒット曲が出ていたかも。現在は休業中だそうです。
で、最後は真打ちの「めいこ」さん。
もちろん梶芽衣子の姐御。
はじめに断っておきますが、彼女もフル芸名。本名は太田雅子で3月生まれ。
脇役専門でテレビドラマに出ていた太田雅子時代から、暗いというかクールというか、とにかく異彩を放っていた女優さんでした。
そんな彼女がブレイクしたのは日活を出て(ロマンポルノへ路線変更したため出ざるをえなかった)、東映へトラバーユしてから。
その後の「野良猫ロック」、「女囚さそり」、「修羅雪姫」の各シリーズでのブレイクは邦画ファンならいわずもがな。タランティーノもゾッコンだったとか。
そして(元)日活レディーズとしては例外的に歌も上手で、「女囚さそり」の主題歌「怨み節」や「修羅雪姫」の「修羅の花」などのオリジナルヒット曲も。
ほかにも「晩夏」とか「海ほうずき」とか「命日」なんていい歌もあります。
でも今日はイケてるカヴァーの昭和歌謡を聴きたい気分なもので。
まずはいちばん好きな「男の純情」。
青年将校が反乱を起こした昭和11年、藤山一郎がオリジナルの古賀メロディー。抒情的な詞は「人生劇場」、「緑の地平線」の佐藤惣之助。
ちあきなおみや都はるみの「上手どころ」で聴くのもいいけれど、芽衣子さんの声にはなぜか戦前の昭和(未生ですけど)が匂ってくる。
定量オーバー必至となりましたので、あとは駄文抜きで6曲ばかり(カッコ内はオリジナル歌手)。
「新宿ブルース」(扇ひろ子)
「紅ホテル」(西田佐知子)
「銀座の蝶」(大津美子)
「昔の名前で出ています」(小林旭)
「東京流れもの」(竹越ひろ子)
「舟唄」(八代亜紀)
ところで、「さつき」と「メイ」といえば「となりのトトロ」。
最近、ある若い衆から「となりのトトロ」にまつわる「都市伝説」なるものを聞かされました。
なんでも「メイ」が本当は死んでいた、という話。
ある場面から、メイの影が消えているとか。
まぁヨタ話と察して半分聞き流していたのですが、「トトロ」には、昭和38年に起きた女子高生殺害事件、いわゆる「狭山事件」が暗喩されている、と聞いてちょっと興味が。
で、よくよく聞いてみれば、ロケーションが同じだとか、事件が発覚したのが5月だったとか、被害者には姉(犯人と唯一会話を交わし、のちに自殺する)がいるとか、宮崎監督は左翼的思想の持ち主で「狭山事件」冤罪説に立っていたとか(実際にそんな話は聞いたことないけど)。そんな程度のピースをいくつ組み合わせたってジグソーバズルは完成しないのに。
だいたいあれほど生真面目な宮崎駿監督が、アニメという子供向けのメッセージに政治性や猟奇事件を裏ストーリーとして織り込むなんてことはしないだろうし、万が一そうした意図があったとしたら、あれほど明晰な人ならば、もっと緻密な裏ストーリーをつくるはず。その「都市伝説」をつくった誰かさんとはアタマの出来が違う。
そもそも「都市伝説」なんてものは戯れ歌にある「江戸っ子」のようなもの。
「都市伝説は 皐月の鯉の吹き流し 口先ばかりで 中身からっぽ(はらわたは無し)」
なんてね。
その名は●トニー [the name]
♪ 星のない暗い空 燃える悪の炎
こらえこらえて 胸にたぎる怒りを
冷たく月が 笑ったときに
命賭けて男の 怒りをぶちまけろ
怒りをぶちまけろ
(「男の怒りをぶちまけろ」詞・滝田順、曲・鏑木創、歌・赤木圭一郎、昭和35年)
トニーTonyと聞いてすぐ口に出るのはトニー・リチャードソン。
イギリスの映画監督でアラン・シリトーの「長距離ランナーの孤独」が思い浮かびます。日本でいったら松竹ヌーヴェルバーグの篠田正浩的かな。
俳優なら「手錠のままの脱獄」のトニー・カーチス。
またトニーはアンソニーAnthony の愛称なので、「サイコ」や「審判」で好演したアンソニー・パーキンス、レクター博士から「日の名残り」でストイックな執事に変身してみせた英国俳優、アンソニー・ホプキンスがいますし、フェリーニの「道」やフレッド・ジンネマンの「日曜日には鼠を殺せ」が忘れられないアンソニー・クインもいます。
イタリアやラテン系ではアントニオになりますから、アントニオ・バンデラスも「トニー」ですし、なんといってもわれらがアントニオ猪木も。
音楽の世界では、シナトラと同じイタリア系のポップシンガー、トニー・ベネットTony Bennett。
オリンピックのスキー金メダリストで、映画にも主演し歌もうたっちゃったトニー・ザイラーもToni sailer 「黒い稲妻」とかいって日本でも人気でした。昭和30年代の話ですが。
ほかではトニー・オーランドTony Orlando 。自身のバンド、ドーンDawn をフィーチャした「幸せの黄色いリボン」A Yellow Ribbon Round The Ole Oak Treeや「ノックは3回」Knock Three Timesは日本でもヒット。
またカントリーにはギターの達人、トニー・ライスTony Rice がいるし、カンツォーネでは「コメ・プリマ」Come Prima や「ラ・ノビア」La Noviaなどで知られるトニー・ダララTony Dallaraとイタリアン・ロカビリー?のリトル・トニーLittle Tonyが。
でも今日のトニーは日本人。
突っ込まれる前にいっときますが、トニー谷ではありませんから。
そうです、今日2月21日はトニーこと赤木圭一郎の命日。昨年50回忌が営まれたといいますから、今年で丸50年が経ったことになります。
日本映画のファンならごぞんじのとおり、赤木圭一郎は日活で、石原裕次郎、小林旭に続く“第三の男”として期待された映画スターだったのです。
2年足らずの間に、10数本の映画に主演し、その主題歌を中心に多くのレコードを残し逝ってしまった伝説のスターなのです。
その散り方が日活の撮影所内でゴーカートに乗って遊んでいる時、運転操作を間違えて鉄扉に激突という、ジェームス・ディーンを想わせるすさまじいもので、このこともまたトニーをカリスマ化させるひとつのファクターとなりました。
余談ですが少し前にムッシュことかまやつひろしの自伝を読んだのですが、そのなかにトニーとのエピソードが出てきてびっくりしました。
事故が起きた昭和36年といえばロカビリー熱も終焉を迎えていた頃。
ムッシュは日活映画にもチョイ役で出たり、主題歌をうたっていたそうで、そんなことからトニーと懇意になったとか。
当時の日活撮影所には野球部やボクシング部があったのですが、ムッシュとトニーは相談してゴーカートのクラブをつくろうということになります。
そして知り合いに頼んだゴーカートが撮影所に運ばれてきた当日、では試乗ということでトニーとムッシュはジャンケンをします。そしてトニーが勝ち、はじめにゴーカートに乗ることに。
そしてそのトニーの運転するゴーカートはそのまま鉄扉に激突してしまうのです。
ムッシュが先に乗っていたとしても、彼は事故に遭わなかったでしょうが、そのタイムラグによってトニーが無事試乗を終えたという可能性はゼロではないでしょう。
まあ、それが運命といってしまえばそうなのですが。
それにしても赤木圭一郎の死(実際は事故の一週間後に死亡)にムッシュが立ち会っていたとは。
残念ながらトニーの全盛期、わたしはヨチヨチ歩き(でもないか、でも脳ミソの発達具合はそんなもの)で、彼の映画をリアルタイムで観たわけではありません。
のちに名画座で、というのがほとんど(タフガイ、マイトガイもそう)。
しかしわたしのなかでは、ナンバーワン。当時の言葉でいえば最高にイカしてました。
演技や歌の上手下手なんて二の次。その存在感や発するセリフがマイ・ヒーロー。
一に赤木、二に渡、三四がなくて五に健さん、てな具合でしたから。
それではトニーの歌を映像とともに聴いてみたいと思います。
全部とりあげたかったのですが、顰蹙をかいそうなので、厳選して以下の5曲を。
永遠のライバル、ジョー(宍戸錠)とのかけ合い「トニーとジョー」(拳銃無頼帖「明日なき男」挿入歌)がないので残念でした。
「黒い霧の町」
「拳銃無頼帖」第一作「抜き射ちの竜」主題歌。全四作のうちはじめの二作がヒロイン浅丘ルリ子、あとの二作が笹森礼子。どちらも眼が大きくて、はじめは見分けがつかなかった。トニーがブレイクした記念すべき作品。映画音楽は四作すべて山本直純が担当。主題歌挿入歌は別。
「海の情事に賭けろ」
同名作品主題歌。YOU-TUBEは中原早苗。のちの深作欣二夫人ですね。だいたいはヒロインの仇役っていうのが多かったですね。ヒロインはだいたい笹森礼子。どうしているんでしょう。
トニーがいきなり海に浮いているっていうのがスゴイ。俯瞰の海のヨットのシーンはのちにフランスのロベル・アンリコが「冒険者たち」で真似した。ウソです。でもこの映画の方が公開が早いのはたしか。
「男の怒りをぶちまけろ」
同名作品主題歌。ハイジャックを先どりした映画。作曲はこの映画の音楽も担当した鏑木創。かの裕次郎の「銀座の恋の物語」も。ほかにも勝新太郎の「悪名のテーマ」や渡瀬恒彦の「三千世界のブルース」など。またオールドファンには懐かしい「少年探偵団のうた」も。ただし♪ぼ、ぼ、ぼくらは ではなく♪とどろくとどろく あの足音は のほう。
「不敵に笑う男」
「拳銃無頼帖シリーズ」の3作目の主題歌。宍戸錠、藤村有広、二本柳寛と役者はそろってます。宍戸錠の役名はまだ「ジョー」ではなく「ケン」でした。
このレコードのB面が「海の掟」でこれもなかなかいい曲。
「夕日と拳銃」
「拳銃無頼帖シリーズ」二作目の主題歌。1950年代アメリカの西部劇を想わせるメロディー。作曲は「霧笛が俺を呼んでいる」をはじめトニーの作品の大部分を担当している藤原秀行。ほかでは「アカシヤの雨がやむとき」や「東京ブルース」など西田佐知子の歌を多くてがけている。
YOU-TUBEは助演の白木マリ(待ってました!)。セクシー度は日活ナンバーワンで、キャバレーで踊るダンサーのシーンなど、当時の青年の眼には毒だ(いやクスリだ)った。
シングルレコードではこちらがB面でA面は「野郎泣くねえ」。これがまたいいんだ。
トニーが生きていれば70歳を過ぎているわけで……、まるで想像できませんが。
トニーを羨望の眼差しで観ていたハナタレ小僧が還暦になろうというのに、当のトニーは永遠の21歳。……滅法カッコよすぎるぜ。
その名は●ミコ② [the name]
♪ひとりぽっちが淋しくて
道を聞かれた見知らぬ人と
駅を目指して歩きつつ
小さな店で雨宿り
ふたりはコークを飲みました
(わたし 名前はミーコです。二年前北海道から出てきました)
…………
(「少女は大人になりました」詞:千家和也、曲:竹村次郎、歌:牧村三枝子、昭和47年)
還暦前後の人間にとって「ミコ」といえば前回の弘田三枝子でしょうが、もう少し上の先輩方にとってもビッグネームの「ミコ」(とは呼ばれていなかっただろうが)すなわち「みえこ」がいます。
戦前、「歌う銀幕女優」として絶大な人気を誇った高峰三枝子 その人です。
松竹からデビューしたのが昭和11年。
といえば「2・26」。まさに世の中がざわつきはじめた頃。
東京は芝の生まれで、東洋英和に通う女学生のころからその美少女ぶりに周囲がかまびすしかったとか。
父親は高峰筑風といって、筑前琵琶の大家で、その関係で高峰家には映画や音楽の関係者がずいぶん出入りしていたといいます。
そんなことから女優への誘いはずいぶんあったのでしょうが、最終的に決断したのは、父・筑風が亡くなったことで。
そのまえに弟も交通事故で亡くしていて、健気にも長女の彼女が一家の大黒柱たらんとすすんで映画界へ飛び込んでいったという話です。まぁ、女学生のころから帰宅途中でダンスホールへ道草を食べにいったり、ガルボに憧れて映画館に通ったりと、かなり積極的な女学生ではあったようですが。
デビュー作は「荒城の月」(公開は遅れる)。その後「朱と緑」「婚約三羽烏」などで女優のキャリアを積んでいきます。
歌をうたうきっかけは何本目かの映画「浅草の灯」で鼻歌をうたうシーンがあり、それをみたレコード会社の関係者がスカウトし、コロムビアの専属歌手に。
デビュー曲は竹久夢二の「宵待草」で、そのためにわざわざ同名の映画を制作したというのですから、映画会社、レコード会社ともいかに高峰三枝子の売り出しに力を入れていたかがわかります。
これが昭和13年。歌う女優の誕生です。
おもしろいことにこの年、ほぼ時を同じくしてもうひとり「歌う女優」というか「銀幕の歌手」が彗星のごとくあらわれています。
それが李香蘭こと山口淑子。
満州映画協会(満映)の中国人女優ということで昭和13年「蜜月快車」でデビューし、その主題歌や挿入歌もうたい、いちやく人気に。
映画デビューは高峰三枝子の方が2年先輩で、歳もちょうど2歳上。
いずれにしても、当時の映画あるいは歌謡ファンの人気を二分した(かな)二つの花であったわけです。
李香蘭についてはまたいずれということで、ここは「ミコ」いや三枝子ですから。
歌手・高峰三枝子の最初のビッグヒットは昭和14年、霧島昇とのデュオ「純情二重奏」。
これは同名映画の主題歌で、当時映画に主題歌、挿入歌は欠かせませんでした。
そして翌年、それをさらに上回るようなヒット曲が出ます。
それが彼女の代表曲ともなった「湖畔の宿」。
これはめずらしく映画の主題歌ではないのですが、服部良一お得意のタンゴと佐藤惣之助の叙情的な詞もあいまって大ヒット。
その後当然のごとく「湖畔の宿」映画化の話があったそうですが、「歌のイメージをこわしたくない」と彼女が首をたてに振らなかったとか。
しかしこの歌、戦時下にあって歌詞が退廃的だという理由からすぐに発売禁止の憂き目に。
ところが、その後なんと日本の御大将・東条英機が来賓をもてなす宴席に彼女を呼び、その「湖畔の宿」をリクエストしたという驚きの話。
なことしてるから戦争に負けるんだ。……冗談ですけど。
以後彼女は軍隊へ慰問にいったさい、ためらうことなく「湖畔の宿」をうたったとか。
ちなみにリクエストの多かったのはこの曲と、さきの「純情二重奏」、そして「南の花嫁さん」。
そして敗戦。
戦後も、「懐かしのブルース」、「別れのタンゴ」、「情熱のルンバ」とスクリーン&ミュージックで焼跡にうるおいをもたらしてくれました。
その後声帯をいためて歌手を休業しますが、10年あまりのちにカムバック。
平成2年に亡くなる年まで、テレビ、劇場での活躍を続けていたそうです。
とり急いでそのほかの「みえこ」を。
演歌では「みちづれ」のヒットがある牧村三枝子。
彼女のデビュー曲が上に詞をのせた「少女は大人になりました」。
見知らぬ男に声をかけられ、ついていってしまうというなんとも衝撃的な歌。
北原ミレイの「ざんげの値打ちもない」に次ぐアブナイ歌、だと当時思いました。
その中の台詞で「名前はミーコです」と言っている。
北海道出身というのもそうだし、半分以上はドキュメント?
デビュー当時の牧村三枝子はアイドル並に可愛かった。
イエ、演歌歌手が可愛くないなんて言ってるんじゃないんですよ。(冷汗)
続いては「池上線」がヒットしたシンガーソングライターの西島三重子。
ほかでは「千登勢橋」がいいし、木の実ナナに提供した「うぬぼれワルツ」も。
いまも現役で、フォーク系のTVのナツメロ番組には欠かせないひとり。
同じ「三重子」では、「愛ちゃんはお嫁に」の鈴木三重子もいました。この人もそうですが、昔は日本髪を結ってステージに上がっていた歌手が少なくなかったですね。「日本調」なんていってね。ええもちろん、下は和服ですよ。日本髪に洋服なんてのは、正月の美容院ぐらいでしか見たことないもの。
今は、演歌歌手だって結いませんよね、日本髪。カツラにしたってめんどくさいものね。
軌道修正。
歌う女優ということでは西尾三枝子もいました。
昭和39年に日活でデビューした女優さん。
どこか影があって、太田雅子系かなと思っていましたが、やはり日活がポルノに路線変更してから活動の場をテレビへと移していきました。こちらも現役だそうです。
日活映画スター大集合という2枚組のCDにある彼女の歌「スカーレットの花」がYOU-TUBEにもありました。ちなみに作詞は最近亡くなった星野哲郎さん。
余談ですがこのCD、笹森礼子や芦川いづみ、筑波久子らの歌が聴けます。
さいごにもうひとりおまけは兼田みえこ。
民放ラジオの人気パーソナリティ(残念ながら聞いたことがありません)。
70年代「深夜ラジオの時代」が生んだヴォイスヒロインですね。愛称は「ミコたん」だそうです。
ラジオは知りませんが、彼女がレコーディングした「私もあなたと泣いていい」は当時何度も耳にしました。ということは一般的にもヒットしたということですね。
ようやく「みちこ」から始まった「みの字」が終わりました。
え? まだ「ミカ」がいて「ミキ」がいて「ミク」がいるだろうって? 「ミサ」だっているし「ミナ」だって。
そうだけど、当分「みの字」はもうたくさん。
そのうちいずれまたということで、いまは「未完成」のままで。
その名は●ミコ① [the name]
♪恥ずかしがり屋の二人は 交わす言葉もなくて
砂浜を指でなぞれば 口づけを待つしぐさ
俺と お前しかいない
星は何でも 知っている
心から好きだよ ミーコ 抱きしめたい
甘くて すっぱい 女(ひと)だから
…………
(「チャコの海岸物語」詞・曲:桑田佳祐、歌:サザン・オールスターズ、昭和57年)
「まだやんのかよ」
という声が聞えております。
「みちこ」1話完結のつもりがこんなことになっちまいまして……。
まぁ、今回と続編の次回で「みの字」最終回ということなので、平にお許しを。
で、さっそくですが、またもやですが「愛と死をみつめて」のマコとミコ。
ミコが例外的な「みちこ」だったということは前回書きました。
では「ミコ」はというとこれがちゃんと正式な?名前があるんです。
「ミコ」あるいは「ミーコ」はふつう「みえこ」のことですね。
表記としては「三枝子」、「美枝子」、「美恵子」、「三恵子」、「三重子」などがあります。
「みちこ」や「みよこ」と並んで「みえこ」もまた昭和の30年代あたりまでは人気の名前でした。ただ、例の生保名前ランキングをみると「みえこ」だけが入っていません。これは「みちこ」が「美智子」に「道子」、「みよこ」がほぼ「美代子」に絞られていたのに対し、「みえこ」は既述のようにいくつもの表記があるので人気が分散してしまったからではないでしょうか。
「みよこ」は古にやりました。「みちこ」もつい最近やりました。
なので、女性の名前の三大「みの字」といわれる(ウソだけど)「みえこ」を今回は愛称の「ミコ」あるいは「ミーコ」で。
「ミコちゃん」あるいは「ミーコ」と聞いて思い浮かぶのは、われわれの年代でいえばまず「弘田三枝子」で不動でしょうね。
レコードデビューが昭和36年、14歳というからタダものじゃありません。
デビュー曲はヘレン・シャピロの「子供ぢゃないの」。
生まれは、デビューの経緯は、ってめんどくさいから、興味のあるひとはウィキペディアでもみてください。(手抜き)
でも彼女のウィキ新鮮だよね。
わたしも当時はけっこうファンで彼女のテレビの冠番組(すごいよね10代だもんね)なども毎週のように見ていたんですが、ウィキにあるような「日本女性歌手史上最高の歌唱力といわれていた」なんて初耳。たしかに歌のうまさには定評があったけれど。
それに「ファッションリーダー的存在だった」っていうのも、ホントカ話。たしかにうってかわって「人形の家」時代は、ヘアスタイルや化粧がよくいうところのケバかったけれど。あれは当時の流行りで彼女が流行らしたものではないと思うんですけど。
……こんなつまらないこといってるから毎回話が長くなるんだな。先は長い。急ぎましょう。
とにかくブレンダ・リーのパンチ力とコニー・フランシスの上手さを兼ね備えた歌唱力は当時のガールポップシンガーたちのなかでもピカイチ。史上最高かどうかは別として(まだいってるよ)。
個人的にはカヴァーポップスの時代が「ミコちゃん」で、「人形の家」以後は弘田三枝子、つまり別人なんですね。「人形の家」は好きな川口真の曲でもあるし、いいと思うのですが。
まぁ「人形の家」以降のほうが好きだという人もいるでしょうから、好みの問題といえばそれまでなんですけど。
なわけで、今回は「人形の家」以降はカット。
デビュー曲でわたしにとってはエヴァーグリーンの「子供ぢゃないの」は別格として、独断選曲で「ミコのカヴァーポップスベスト5」を順不同で。
「悲しきハート」
昭和38年の紅白歌合戦のトップバッターでの歌。このとき16歳ですぜ。この声量、のりのよさ。JPOPにだってこんな歌手いるめぇ。
紅白は計8回出ていて初出場が前年37年で大ヒットの「ヴァーケーション」。
歌はバツのグン。顔だってあんなに可愛いのになんで……、言うまい。
「想い出の冬休み」
コニー・フランシスのカヴァーのなかではナンバーワン。オリジナルよりいいかも。
「シェーナ・シェーナ」
たしか飯田久彦と競作だった記憶が。「月影のマジョルカ」のようなオリエンタルなメロディーラインがいいなぁ。イヤミとか内田裕也の歌ではありませんぜ、「シェーナ・米兵衛」。
「ハロー・メリールウ」
ごぞんじリッキー・ネルソンのヒット曲。これはもう彼女の歌というより曲そのものが好きなものですから。でも、この歌を知ったのはこの「ミコ盤」で。♪彼女は お年頃 っていうのがいいですね。いまどきいわないものね「お年頃」なんて。訳詞は安井かずみ。
「ルイジアナ・ママ」
「ハロー・メリールウ」に続いてこれまたジーン・ピットニーの作品。で、これも飯田久彦との競作。ミコちゃんのほうの訳詞はこれまた安井かずみ。でもチャコさんの漣健児版のほうが世間には浸透してましたね。
なんてったって「ビックリ ギョウテン ウチョウテン」とか「アタリキ シャリキ」だものね。
でも歌詞のインパクトでは負けるけど、あの声をひっくりかえす歌唱、子供だったわたしにはイカしてました。
と以上で5曲ですが、もう1曲YOU-TUBEでは“完全版”がなかったのですが、当時好きだったのが「カモン・ダンス」。
「カモナ・ダンス」だと思っていたけど邦題は上に書いたとおり。原曲はCome on and Dance 。競作の中尾ミエのほう(「ダンスへおいで」)が流行ったかもしれません。(こちらもGOOD)
どちらにしてもYOU-TUBEはありませんでした。オリジナルはこんな感じです。弘田三枝子のほうが全然上手ですよね。
何人かいる「ミコ」つまり「みえこ」でしたが、結局弘田三枝子ひとりで終わってしまいました。残りの「みえこ」はまとめて(失礼な)次回ということに。
最後に、ミコこと弘田三枝子がうたわれている歌を。
サザンの「ミコの海岸物語」ではなくて「チャコの海岸物語」。
もう1曲、ライバルの飯田久彦(愛称はチャコです)の「トランジスター・シスター」の中にも当時のカヴァーポップシンガーのひとりとして「ミコ」が出てくるのですが、残念ながら動画がありませんでした。
ちなみにフレディ・キャノンのオリジナルはこんな感じです。もういいか。
その名は●みっちゃん② [the name]
♪流れる雲よ 城山に
登れば見える 君の家
灯が窓に ともるまで
みつめていたっけ あいたくて
あゝ青春の 思い出は
わが故郷の 城下町
(「青春の城下町」詞:西沢爽、曲:遠藤実、歌:梶光夫、昭和39年)
幼き頃、「みっちゃん」と呼ばれたのは女の子ばかりではない。
男だって、たとえば「みつお」がいて「みちお」がいて「みつひろ」もいれば「みちや」もいる。
かれらは子供時代、いちように「みっちゃん」と呼ばれたに違いない。そうでないと話が先にすすまない。
ということで今回は男の「みっちゃん」。
女だって男だって「みっちゃん」は輝いたのは昭和。それも20年代、30年代という遥か彼方。遠ざかれば遠ざかるほど美しい。何を言ってるのやら。
とりわけ昭和30年代・歌謡曲黄金時代の先鞭をつけた「みっちゃん」といえば、キングレコードの三橋美智也。
民謡出身で、その独特のハイトーンは多くの女性ファンを魅了。
「シビれる」(いまあんまり使わないけど)という流行語をつくったのは、その三橋のファンたちだとか。
昭和29年に「酒の苦さよ」(新相馬節)でレコードデビュー。
翌30年に「おんな船頭唄」が大ヒット。
31年には「リンゴ村から」、「哀愁列車」、「お花ちゃん」とたて続けにビッグヒットを連発。この頃流行歌の主流だった“ふるさと歌謡”の旗手として一世を風靡。
以後も「おさらば東京」(32年)、「夕焼けとんび」、「赤い夕陽のふるさと」(33年)、「古城」(34年)、「石狩川悲歌」(36年)、「星屑の町」(37年)とヒット曲はとぎれることなく、まさに昭和30年代を代表する歌手として歌謡界に君臨していました。
その間、子供向けテレビドラマの主題歌もうたったりして、「怪傑ハリマオ」はいまでも耳になじんでいます。ちょっと恥ずかしいけど一度カラオケでうたったみたい。
しかし30年代も後半になると、新幹線の開通によって故郷と都会の“距離”が急接近。テレビの普及によって精神的な距離も近くなって、もはや「ふるさと歌謡」の存在意義が薄れていきます。
さらには流行歌のリスナーの低年齢層化によって、歌手もアイドル化しティーネイジャーが主流となると、もはや三橋美智也の出番はなくなっていきます。
それでも昭和も50年代に入った頃、なぜかラジオのDJで再ブレイク。50歳になろうかというのに若者から「ミッチー」などと呼ばれ、当時のディスコブームにも乗って「夕焼けとんび」のディスコヴァージョン「ザ・トンビ」をリリースするなど、うたかたではありましたが、再燃焼してみせたのはさすが。
昭和30年代の後半、三橋美智也と世代交代というかたちで歌謡界の主流になったのが「青春歌謡」の面々。
そのなかにも「みっちゃん」がいました。
昭和38年、舟木一夫に続けとコロムビアレコードからデビューしたのが梶光夫。
翌39年、3枚目のシングル「青春の城下町」がヒット。メジャー歌手の仲間入り。
40年には女優・高田美和とのデュエット「わが愛を星に祈りて」、41年にも同じく高田との「アキとマキ」がヒット。
原曲がインドネシア民謡という「可愛いあの娘」も当時よく聴こえていました。
その後もレコードを出し続けたが、グループサウンズが青春歌謡を押しのけ、いずれも「青春の城下町」以上のヒットにはならなかった。
そして43年にあっさり引退。
なんと宝石鑑定士、そしてジュエリーデザイナーへと転身。
というのも梶の実家は大阪の時計商で、芸能界は5年だけ、その後は商売を継ぐという父親との約束があったとか。
梶光夫も三橋美智也と同様テレビドラマの主題歌をうたっています。
自身も出演していた昭和40年の「若いいのち」というドラマ。
これがなんと、特攻隊の話。
なんともアナクロと思いますが。
敗戦から15年目のゆりもどしで、この頃「戦争もの」「軍隊もの」がブームになっていたのです。軍歌もよく聞えていましたし。
その「若いいのち」の挿入歌「大空にひとり」も小ヒットしました。
そして3人目。
ちょうど梶光夫が引退した年、「今は幸せかい」を大ヒットさせて紅白歌合戦の出場をはたした佐川満男(ミツオ)。
この人も父親が神戸の貿易商というお坊ちゃん。
この「今は幸せかい」、実はカムバックソングで、彼のレコードデビューは昭和35年。「二人の並木道」Walk with me はデビュー前にコンサートツアーの前座をつとめていたニール・セダカの提供曲。B面もたしかニールの「恋の片道切符」。
そう佐川満男は関西ではその名を知られたロカビリアンだったのです。
当時「みっちゃん」が大阪のジャズ喫茶でうたっているところをスウィングウエストの堀威夫がスカウトして中央デビューさせたとか。
ロカビリーブームはすぐに終焉しましたが、その直後歌謡曲の世界で起こったリバイバルブームに便乗。
戦前児玉好雄がうたった「無情の夢」を今風(当時の)にアレンジさせヒットさせます。
当時、ロカビリーから歌謡曲への転身はトレンドでした。平尾昌章をはじめ、水原弘、井上ひろし、守屋浩などなど。
そのあとも「背広姿の渡り鳥」なんていうオリジナルの小ヒットもありましたが、やがて尻つぼみに。
それが雌伏?年で「今は幸せかい」でカムバックするのです。
この歌は、佐川満男の後輩?でやはりロカビリアンから作曲家に転身した中村泰士(この人もいい曲いっぱい書いてますのでいつか)によるもの。
その後、伊東ゆかりとの結婚、離婚というゴシップもありましたが、現在は歌手というより俳優業が中心で、観てませんが最近ちょっと話題になっている映画「ふたたびSwing me again 」でも名バイプレイヤーぶりを発揮しているとか。
しかし佐川満男ほど禿げ頭が様になっている芸能人もいません。余談です。
ほかではやはり30年代に活躍した映画スター・浜田光夫がいます。
日活青春映画で吉永小百合との名コンビは有名。
日活という映画会社は、石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎、渡哲也などをみてもわかるとおり、主役級の役者にはレコードを出させることになっているようで、浜田光夫も例外ではありません。
ずいぶんレコードを出したようですが、ヒットしたのは三条江梨子とのデュオ「草笛を吹こうよ」くらい。
こうしてみると男の「みっちゃん」も女に負けないくらい頑張っていました。
で、もうひと頑張り、最後はもうひとりいたとっておきの「みっちゃん」に賑々しくうたってもらいましておひらきに。では張り切ってどうぞ。
その名は●みっちゃん① [the name]
♪窓を開けましょ 花のかおりが
あなたの 微笑みを はこんでくれる
夢を語りましょう 甘いリズムが
わたしの 想いを かなえてくれる
あなたの 真珠の 瞳をみつめ
素敵な 今宵を 迎えるひととき
花椿に 寄せてうたいましょう
あなたと わたしの 幸せを
(「光子の窓 開始テーマ」詞:岡田教和、曲:広瀬健次郎、歌:草笛光子、昭和33年)
「愛と死をみつめて」の大島みち子は、マコことボーイフレンドの河野実から「ミコ」と呼ばれていました。
これは「マコ」に対する「ミコ」であり、ふつう「みちこ」の愛称は「みっちゃん」(ミッチーもあるけど)ではないでしょうか。
ただ「みっちゃん」は「みちこ」の専売特許(いわないか、いまどき)ではありません。
「みちよ」もそうだし、「みつこ」や「みつえ」、「みつよ」あるいは「みつ」だって親しみをこめて「みっちゃん」と呼ばれていたし、いるはずです。
さっそくですが、「みっちゃん」の歌というのは極めつけの戯れ歌があります。
けれど、世のほとんどの「みっちゃん」は子供時代、この歌でイヤな思いをしているはずで、ここでは割愛しときましょう。(関東と関西では微妙に違うし、地方によってはいろんなヴァージョンがあったりするんじゃないか? と興味がないわけではないのですが)
それよりもここではオーソドックスにシンガーの「みっちゃん」に登場してもらいましょう。
まずは戦前から。
芸大の前身である東京音楽学校の先生との兼業という異色の歌手が渡辺光子。
この人はどういうわけか10以上もの名前を使い分けてレコーディングしたという不思議な人でもありました。
そんななかで比較的知られているのが、和田春子名義の「幌馬車の唄」と月村光子での「春の唄」(オリジナルがないので)。
この時代はクラシック畑から流行歌手へというケースはめずらしくありませんでした。
で、渡辺のみっちゃんは戦後、かの宝塚でも教えていたとか。
もうひとり戦前派では小笠原美都子がいます。
ヒット曲では東海林太郎とのデュエット「琵琶湖哀歌」や後年榎本美佐江のカヴァーでヒットした「十三夜」などが。
前者は「琵琶湖周航の歌」に曲調が似ていますが、四高ボート部の遭難という悲劇をうたったもの。
戦後のトップバッターは夢と希望を与えてくれた奈良光枝でしょうか。デビューは戦前ですが、ブレイクしたのは戦後。
終戦の翌年、自身が主演した映画の主題歌が「悲しき竹笛」。
そして昭和24年には一世を風靡した藤山一郎とのデュオ「青い山脈」。
ソロでは外国映画に触発されたような「赤い靴のタンゴ」や、近年亡くなった丘灯至夫が詞を書いた「白いランプが灯る頃」などがヒットしました。
そしてテレビが普及していった30年代、そのテレビによって知名度をあげたのが草笛光子。
SKD(松竹歌劇団)出身の女優で、昭和33年日本テレビではじまった「光子の窓」のMCで一躍注目を浴びます。
NHKの「夢で逢いましょう」のスタートが36年ですから、「光子の窓」は音楽バラエティの嚆矢といってもいいでしょう。
レコードも何枚か出したようで、いずれも自身の主演映画の主題歌「白い橋」、「忘却の花びら」が音源として残っていますが、どちらもYOU-TUBEにはないようで。残念。
ほかでは「こんにちは赤ちゃん」でレコード大賞を獲った梓みちよ。
こちらは宝塚出身で、昭和30年代後半はほかの女性シンガー同様、カヴァーポップスを。いちばんポピュラーなのは田辺靖雄とのデュオ、マイ・カップルでうたった「ヘイ・ポーラ」でしょうか。
そして40年代後半から50年代にかけてはオリジナル、平尾昌晃の「二人でお酒を」や吉田拓郎の「メランコリー」で再ブレイク。
ガール・カヴァー・ポップスでは槇みちるもいました。
いちばんのヒット曲はオリジナルの「若いってすばらしい」(詞:安井かずみ、曲:宮川泰)。
いまだ現役だそうです。
そのほか、演歌では「河内おとこ節」や歌謡浪曲の「瞼の母」が代表曲の中村美律子。
ナツメロが大好きのようで、カヴァーアルバムも何枚か出しています。
SKD出身の女優では、倍賞美津子が。
姉の千恵子のようなヒット曲はありませんがレコードは何枚か出しています。ほとんどYOU-TUBEにはありませんが、グラシェラ・スサーナもうたっていた「時計をとめて」なんかも。元旦(もとだん)・猪木の入場曲は初めて聴きました。
もうひとり、アニソンの女王といえば「みっち」こと堀江美都子。
大昔、一度ステージでうたっているところを見かけましたが、そりゃ可愛いかった。
ちょうど「未来少年コナン」がブレイクしている頃で、多分「キャンディ・キャンディ」か「花の子ルンルン」をうたっていたんだと思います。
ポップスから演歌まで、ナツメロからアニソンまで、とにかくどこにでもいた「みっちゃん」。
わたしにとっても因縁浅からぬ名前です。
しかし実在の「みっちゃん」を差しおいて、若いころよりずっと脳ミソに沁みついている「みっちゃん」といえば、森田ミツ。
遠藤周作の小説「わたしが・棄てた・女」のヒロイン。浦山桐郎監督によって映画化もされました。
映画の「みっちゃん」はいろいろな名シーンがあるのですが、歌に関していえば、文通で知り合った吉岡と泊まりがけで海へ遊びに来たシーン。
砂浜で「東京ドドンパ娘」を踊る若者の集団の輪に、屈託なく入っていき楽しそうに踊るシーン。そのあと吉岡に棄てられるのでした。
2つめ、再会した吉岡にふたたび棄てられたあと、仕事場の老人施設で故郷の歌「新相馬節」を泣きながら熱唱する場面。じんときたねぇ。
遠藤周作もよっぽどこの「森田ミツ」という名前に思い入れがあったのか、たしか「灯のうるむ頃」か何かでもお手伝いさんとして「森田ミツ」を登場させていました
で、某評論家がいうには「みつ」という名前は、昭和20年代、30年代の小説にしばしば出てくるそうで、それもたいがいは田舎、いや地方から都会へ出てきたあか抜けない娘、というキャラ設定されていたとか、ほんとかな。
まぁ、昭和の名前という感はありますが、いま旬の「みっちゃん」といえば、ミッツ・マングローブですか。マツコ・デラックスほど強烈なインパクトはありませんが、マツコ同様どことなく教養のかおりが漂っていたり。
“二丁目系”っていうのはいつの時代にもいますね。
哀しいのは“お笑い”が伴わないとその存在価値がないこと。そしてすぐに飽きられること。でも、ひとり消えてもまた、新しいオネエキャラが出てくる。ということは、いつの時代にも必要とされているってことでしょうか。
でも不思議に思うのは、オネエ系は一見市民権を得ているのに、“オニイ系”はまるでいまだタブーのようにテレビに登場しないこと。
オニイ系はピエロになれないのかな、シャレにならないのかな。
やれやれ最後になって脱線してしまいました。
それにしても「みっちゃん」。あらためていい響きです。(とってつけたよう)
その名は●みちこ② [the name]
♪まこ 甘えてばかりで ごめんネ
みこは とっても しあわせなの
はかない命と 知った日に
意地悪いって 泣いたとき
涙をふいて くれた まこ
(「愛と死をみつめて」詞:大谷弘子、曲:土田啓四郎、歌:青山和子、昭和39年)
敗戦後、10年を経て昭和30年代に入ると、日本は驚異の復興、発展ぶりをみせます。
流行歌の世界も、男性ならキングの三橋美智也に春日八郎、女性ならコロムビアの美空ひばりに島倉千代子が、戦前からの古賀メロディー系のヒット曲で大衆を魅了していました。
ただ、戦前と異なるのは江利チエミ、中原美紗緒、ペギー葉山、雪村いづみをはじめとした歌手たちが欧米のポップスのカヴァーで新しい世界を気づきあげていたこと。
そんななか昭和32年、18歳の「みちこ」がカヴァーポプスでブレイクします。
ハリー・ベラフォンテの「バナナ・ボート」をカヴァーした浜村美智子。
ジャマイカ発のカリプソソングも新鮮なら、茶髪のロングヘアーに露出ぎみのステージ衣装のインパクト十分。
またたくまに彼女は「カリプソブーム」とともにスターに。
しかしレコードデビューする前に、浜村美智子は知る人ぞ知る存在だったとか。
鹿児島生まれ、大阪育ちという彼女は歌手を目指して東京へ。それが高校生のとき。
もともとジャズシンガー志望で、平尾昌晃やミッキー・カーチスも通ったというティーヴ釜萢の音楽教室へ通いながら、いまでいうメジャーデビュー、つまりレコーディングの機会を待っていた。
ところがデビュー前に週刊誌にヌード写真が掲載されて話題に。
これも多分事務所あるいはレコード会社の計算だったのかもしれないが、おかげでレコード発売前に予約が殺到したとか。
そしてその32年から翌33年にかけて、シングルの発売はもちろんアルバム「カリプソ娘」を出したり、映画に主演したりとフル回転。さらにはアメリカへレコーディングに行くなど、シンデレラストーリーを地で行く活躍ぶり。
ところが2年足らずで失速。後年「一発屋」としてその名を歌謡界に留めることに。
一時元ボクシングの東洋チャンピオンとの結婚が話題になりましたが、その後離婚。
現在でも歌手活動は続けているようで、時おりTVのナツメロ番組にも顔を出している。
数年前テレビでうたっているのを見ましたが、そのときは「デーオ」ではなく中南米音楽をうたっていました。
残念ながら彼女が「ミッチー・ブーム」をつくることはできなかった。
ミッチー・ブームは前回とりあげたように、沢村美智子の人気に陰りが見え始めた頃、彼女とはイメージが180度異なる正田美智子によってつくられました。
いずれにしても、「みちこ」という名前は昭和30年代にふさわしい。
カリプソ娘に皇太子妃。それ以外にも昭和30年代を象徴する「みちこ」があと2人います。
その3人目は樺美智子。
年々彼女の名前を知る人も少なくなっています。
いわゆる60年安保(昭和35年)のなかで犠牲になった東京大学の学生。
日米安全保障条約反対運動がピークを迎えた6月15日、全学連と警察隊の乱闘のなかで命を落としました。「世紀のご成婚」のほぼ1年後のことです。
そして彼女は、その死によって安保反対運動を主導した社会党よりも、全学連のリーダーたちよりもその名を知られるようになり、いわば反体制、反権力の象徴となりました。
プリンセス美智子と樺美智子は、しばしば対比して語られます。たしかにこの2人の美智子の生き方(死に方)が昭和30年代というジェネレーションの、あるいはその後の日本の女性の在り方の表裏をみごとにあらわしています。
話を歌にもどしましょう。
樺美智子や60年安保にまつわる歌はなんでしょいうか。
なかなか思いつきませんが、学選運動やデモの渦中にうたわれたであろう歌は「インターナショナル」や「がんばろう」をはじめとする労働歌でしょうか。
また安保成立後の敗北感のなかでよくうたわれたというのが「アカシアの雨が止むとき」(西田佐知子)。
もし樺美智子の死がなければ、この歌と60年安保の結びつきがもっと希薄だったのではないか。そんな気がします。
そして、その「アカシヤの雨が止むとき」が好きだったのが、昭和30年代後半に多くの人々の注目を浴びることになったもうひとりの「みちこ」こと大島みち子。
大島みち子は骨肉腫に冒され、その若い命を奪われた女子大生。
彼女が悲劇のヒロインとして、あるいは純愛をまっとうした女性として多くの日本人にしられることになったのは、その死の直後、高校時代に知り合った河野実との往復書簡が「愛と死をみつめて」というタイトルで出版されたことゆえ。
昭和38年に出版されたその本は200万部近く売れたといわれ、当時の出版界としては空前のベストセラーとなったそうです。その書簡の中でふたりは、マコ(実)、ミコ(みち子)と呼び合った。
その手紙の中でマコが「アカシアの雨が止むとき」が好きだとミコに告げます。理由はそれをうたった西田佐知子のイメージがミコに似ているからだと。その手紙を読んだミコは自分も好きな歌だったので、そのあまりの偶然にからだが震えたと返信しています。
当然のごとく、このベストセラー「愛と死をみつめて」は映画化され、歌もつくられました。さらには類似の「純愛悲恋もの」がそれに続くというふうに。
こうなると一大純愛ブームが起こったように聞こえますが、当時はそんなことはいわなかった。当時の若者たちは、少なからず幻想の部分があったにしろ、まだ「純愛」の渦中にいたのですから。
数年前に「世界の中心で、愛をさけぶ」をはじめとする死別悲恋ものが流行したのは、これはもはや失われてしまったものへの回帰としての「純愛ブーム」でしたが。
話を「愛と死をみつめて」にもどして。
レコードは昭和64年の7月にコロムビアからリリースされます。
タイトルは「愛と死をみつめて」のままで、歌手はほとんど無名の青山和子。
それがかえって新鮮だったのか、ベストセラーとなった原作の勢いもかりて歌は大ヒット。その年のレコード大賞を受賞。
作曲の土田啓四郎は数年後、やはり純愛悲恋の実話でレコード化・映画化された「わが愛を星に祈りて」(梶光夫・高田美和)をつくることに。
「愛と死をみつめて」のレコードが発売された2か月後、同名の日活映画が封切られます。
主演はみこが吉永小百合、まこが浜田光夫という青春コンビ。
そして映画もヒット。
歌も映画も同じ年なので、青山和子の「愛と死をみつめて」が吉永―浜田の日活映画の主題歌だと思っているひとがいますが、これは全然別もの。
映画の主題歌は別に吉永小百合が「愛と死のテーマ」(詞:佐伯孝夫、曲:吉田正)というタイトルでうたっています。
「もはや戦後ではない」という言葉ではじまった昭和30年代。
それは世紀の結婚式により国民が皇室と“和解”をした時代であり、政治的国民運動が敗北した時代であり、国民が「純愛」を客観的に見たり、読んだり、聴いたりする余裕のできた時代でもありました。
ふりかえってみれば、いい時代でした。昭和30年代。
惜しむらくは、その時代の息吹を感じるには、自分が幼すぎたということ。
あと10年早く生まれていたら……と、思わないでもありません。
でも、もしそうだったら空襲で死んでたりして。
その名は●みちこ① [the name]
♪君思う たそがれの 空に出る 月ひとつ
小夜更けて 流れくる 懐かしの プリンセス・ワルツ
あの日から この胸に 熱く燃えて 夜もすがら
あこがれは いつの日も 乙女のうたう プリンセス・ワルツ
(「プリンセス・ワルツ」詞:門田ゆたか、曲:原六朗、歌:コロムビア・ローズ、昭和32年)
前回のブログで青山ミチの「叱らないで」にふれましたが、そのとき一緒に聴いたのが、
♪恋しているときゃ 素敵な目 という「ミッチー音頭」。このパンチの効いた歌のほうが巷に流布したような気がします。
ミッチーとはもちろん青山ミチからとった愛称ですが、わたしにとってというか一般的にミッチーといえば「みちこ」でしょう。
「みちこ」には美智子、美知子、道子、三千子などがありますが、もっともポピュラーなのは「美智子」ではないでしょうか。
わたしにも「美智子」との忘れられない思い出がある(道子もあるんだなぁ)のですが、また長くなりそうなのでいずれまた。
とにかく、もはやクラシカルネームになった感のある「美智子」ですが、昭和、とりわけ30年代あたりまでは人気の名前でした。
その頃小中学生だった方々は、思い返してみれば、クラスにひとりやふたりはいたのではないでしょうか。
例の某生保調べの名前ランキングをみても、昭和6年にランキング入りしてから、戦後は30年代半ばまで、1位にこそなれなかったが、ベストテンのほぼ常連。
その「美智子」がベスト10から消えるのは昭和35年。前年の34年4位だったのが、次の年にはいきなりランク外。
実はこれにはちゃんとした理由があったのです。
現天皇の明仁親王と皇后の美智子妃のご成婚が昭和34年。
皇太子が見染めた一般人のプリンセス、それが正田美智子さんでした。
二人の結婚が発表された33年の11月から翌年にかけていわゆる「ミッチー・ブーム」が起きたそうです。ミッチーとはもちろん美智子の愛称で、はじめて一般人から皇室に入るという“ドラマ”も雑誌が煽って当時のプリンセス美智子は時の人になったのです。
ミッチー・ブームとは具体的にどういう現象だったのかというと、ひとつはヒロインのファッションで、Vネックのセーターやカーディガン、あるいは白いヘアバンドなどが真似されたとか。また、二人が出会ったというテニスも愛好者が増えたとか。
ということはブームの渦中にあったのは若い女性のようで、これをきっかけに雑誌の皇室報道が熱を帯び、そのことがさらにブームを煽ることになっていったようです。
ではなぜ、ブームになったにもかかわらず、ご成婚の年から世の親たちはわが子に「美智子」と付けなくなったのでしょうか。
まあ、容易に想像できることは “畏れ多い”という理由からでしょう。
現在のプリンセス、将来の皇后陛下の御名前を下々であるわが子に付けるなんて、ああもったいないもったいない、という戦前からの考えは民主主義になったといわれたって、十数年ぐらいで変わるわけがありません(そうした考え方は根深く、いまだ残っているもんね)。
そうそう、このブログは音楽を中心としたものでした。なんだか、なかなかそこへたどりつけないな、寄り道が多くて。仕方ないので強引に舵をきります。
文春新書に「ミッチー・ブーム」(石田あゆう著)という本があって、その中に皇太子の婚約発表にあたって、ラジオが一部の流行歌の放送を自粛したという、笑い話のようなことが書いてありました。
その流行歌のサンプルとして、神戸一郎の「別れたっていいじゃないか」とコロムビア・ローズの「どうせ拾った恋だもの」があげられています。
たしかにラジオでの世紀の婚約発表の直後に、
♪別れたっていいじゃないか 泣くこたぁないじゃないか
とか
♪捨てちゃえ 捨てちゃえ どうせ拾った 恋だもの
が流れてくるっていうのは、いまで考えればギャグの世界ですが、当時は大のオトナが真剣になって「やめとこ、やめとこ、アブナイ、アブナイ」ってビビッていたのです。
その本には反対に奨励された音楽についても書かれていて、流行歌では上に詞をのせた「プリンセス・ワルツ」があげれらています。
コロムビア・ローズは自粛曲と奨励曲に名を連ねたわけで、このことだけでも当時彼女がいかに売れっ子だったかがわかります。
ところでこの「プリンセス・ワルツ」、発売が32年の10月、つまり婚約が発表された1年以上も前の歌なのです。
ということは皇太子・美智子妃のためにつくられた歌ではないということになります。
ではまったくの偶然かというとそうでもなく、昭和30年あたりから皇太子の結婚問題がたびたび報道されはじめていたので、レコード会社が便乗し、それがたまたまタイミング的に合った(1年のずれはあったけど)ということでしょう。
作曲の原六朗は美空ひばりの「素敵なランデブー」や「お祭りマンボ」で知られる当時のコロムビアレコードのエース。
作詞家の門田ゆたかは西條八十の弟子、大学も早稲田の仏文というから佐伯孝夫のおとうと弟子ということに。
戦前のヒット曲に「東京ラプソディー」(藤山一郎)があります。
またいまでもうたわれているハワイアンの「月の夜は」や「小さな竹の橋」は彼の訳詞。
機を見て敏なのがレコード会社と出版社。ビッグイベント、国民的行事ともなると電卓、いや当時なら算盤をはじきたおす。東京オリンピックしかり大阪万博しかり。
なら、ご成婚でも、とさがしてみたらやっぱりありました。
まず婚約が発表された2か月後、34年の1月にリリースされたのが、高島忠夫の「結婚しましょ」。
♪結婚しましょ あなたと誰か……
というフレーズが当時子供だったわたしの耳にいまでも残っています。音源はないのですが、さいごは
♪ふたりは結ばれる(チャンチャン)
っていう感じ。
とにかくスタンダードポップスを彷彿させる楽しい旋律で、当時売れっ子だった彼はテレビで頻繁にうたっていました。(どこかに音源がないものか)
もうひとつは34年の5月といいますからご成婚(4月)の翌月という露骨に、いや早いタイミングで出された「二人でテニスを」。あきらかに二人の出会いのきっかけをイメージさせています。これまた残念ながらYOU-TUBEにないのですが、
♪はれた青空 ボールは弾む 若い心もまた弾む
という詞は西條八十。転調のあるワルツは上原げんと。
そしてうたっているのが「別れたっていいじゃないか」を自粛された神戸一郎。
思わず「罪滅ぼしかよ!」とツッコミたくなるレコード。
えー、ちょうど時間となりました。
今回は美智子妃ひとりで終わってしまいましたが、二人の婚約が発表された昭和33年の前の年には、日本の音楽シーンに画期的な「みちこ」が登場しているのです。
さらにいうならば、昭和30年代というジェネレーションを語るときに欠かせない「みちこ」があと二人います。
次回はそんな「美智子」や「みち子」のお話を。……いつのことやら。
その名は●星野哲郎 [the name]
♪あの娘がこんなになったのは あの娘ばかりの罪じゃない
どうぞあの娘を叱らないで 女ひとりで生きてきた
ひとにゃ話せぬキズもある
叱らないで 叱らないで マリアさま
(「叱らないで」詞:星野哲郎、曲:小杉仁三、歌:青山ミチ、昭和43年)
わたしの好きな星の歌謡曲。思いつくまま順不同。
とはいっても、たくさんありすぎるので、昭和30年代40年代に絞りました。
ですから、「みだれ髪」(美空ひばり)や「昔の名前で出ています」(小林旭)は別格で。
「夜がわらってる」(織井茂子)
作詞家デビューが昭和30年、この歌は33年なので比較的初期の作品。夜を生きる女の恨み節。「あたい」って一人称がいいね。Jポップじゃ聴けないよ。作曲は名コンビ船村徹
「思い出さんこんにちは」(島倉千代子)
これも33年のヒット曲。貴重なお千代さんとの作品。古賀メロディーがなつかしい。もっと泣き節をつくってほしかったけど、縁がなかったのかな。
「なみだ船」(北島三郎)
これはコロムビア時代の歌。そのあとさぶちゃんともどもクラウンへいき、「函館の女」ほかのヒット曲を量産する。この歌を初めて聴いたのは子供の頃、ラジオからでした。
♪ゴムの合羽にしみとおる っていう歌詞が脳みそにまでしみついて……。
「出世街道」(畠山みどり)
これもコロムビア時代。この前の「恋は神世の昔から」もよかったけど、詞の内容からはこちらが哲さんの真骨頂。寺山修司が好きだったようで、彼の本にしばしば出てきました。
「あんこ椿は恋の花」(都はるみ)
はるみさんのデビュー曲。彼女はわがアイドルのひとり。ほかに木の実ナナ、倍賞千恵子、本間千代子、桜町弘子それから・・・、もういいか。まだいるけど。
「自動車ショー歌」(小林旭)
クラウン移籍後、比較的初期の歌。歌詞のシャレ具合はいま聴いても。作曲は「昔の名前で出ています」の叶弦大。若者よ、色恋を忘れて勉強セドリックなんて。
その叶弦大と組んで翌年つくったのが、
「純愛のブルース」(渡哲也)
昭和40年日活映画「真紅な海が呼んでるぜ」の主題歌。哲哲コンビ。
アルバム「無頼」は全曲オリジナルの哲兄ぃの台詞入りで、これが泣かせるんだ。
「いつでも君は」(水前寺清子)
当時のクラウンの2枚看板(演歌では)が北島三郎と水前寺清子。さぶちゃんもそうだが、チータも星野作品のヒット曲にことかかない。デビュー曲の「涙を抱いた渡り鳥」から「三百六十五歩のマーチ」「いっぽんどっこの歌」などなど。
でもこの歌がマイベスト。なにかのTVドラマの主題歌じゃなかったでしょうか。
「回転禁止の青春さ」(美樹克彦)
目方誠のなれの……、いや成長されたお姿。当時、少し前全盛だった「青春歌謡」にも秋がきて、洋楽テイストで味付けした「リズム歌謡」なんてのが流行りました。そんな一曲。
「たそがれの銀座」(黒沢明とロス・プリモス)
GS全盛の昭和43年、古木花江の別名で書いたムード歌謡の一曲。瀬川瑛子の「長崎の夜はむらさき」なども古木名義の作詞。ヴォーカルの森さんも死んじゃったなぁ。
おまけはヒット曲ではないけれど「たそがれの銀座」と同じ年に出た
「叱らないで」(青山ミチ)
ダイナマイト娘、和製ブレンダ・リーがこんな曲をうたうとは……、という思いで印象に残った歌。なかなかいい曲。なにかに似てるなぁとおもって思いついたのがカマクラいやハマクラさんの「恍惚のブルース」(青江三奈)。
それにしても星野さん、ごくろうさまでした。歌謡曲人生で楽しませていただいてありがとうございました。
(いいわけ)
パソコンがクラッシュしてしまいひでえ目に遭ってます。
これを機会にロングバケーションと思っていたのですが、またまた悲しき訃報で、偲ばずにはいられず、聴かずにはいられずノコノコ出てまいりました。
まだ回復まで完全ではないのですが、ぼちぼち復帰しようかと思っています。
そのうち、すべて復元できましたら「ととのいました」って雄叫びはあげないけど、こっそりと出てこようかと思っています。では。
その名は●きよし② [the name]
♪盛り場地図で 場末のはずれ
見落としそうな 小さな店よ
港で暮らす 荒くれたちを
なじみの客に かれこれ4年
ぶしつけですが 案内状を
今日出しました 迷ったあげく
別れておいて 会いたいなんて
いまさら言えた 義理ではないですが
私の生きざまを 女の生きざまを
あなたにひとめ目 みてほしくって
…………
(「恋するお店」詞:千家和也、曲:伊藤薫、歌:前川清、平成7年)
今もっとも旬な「きよし」といえば、やはり氷川きよしでしょうね。
「箱根八里の半次郎」でにぎにぎしくデビューしてもう10年。
早いもんですね。
何年も前から演歌の若大将。
斜陽といわれる演歌の世界にあって彼の存在は大きいですね。
もし、彼がいなかったらって考えると、キビイシイものがあります。とりわけ男性演歌歌手の場合はね。
「きよし」君ひとり勝ちの印象もありますが、それでも彼のおかげで、後に続く若手は希望がもてますから。
新しいアルバムをリリースする場合、オリジナルとナツメロのカヴァーを半々ぐらいにするんですね。これはなかなかうまい戦略です。OGandOBにもCD買わせちゃうんだから。
実はわたしも2枚ばかり……。
氷川きよしはたしかに歌がうまくて声も聴きやすくて、いわゆるソツがないってやつ。で、カヴァー曲もそれなりにこなすだろうって思っちゃう。
美空ひばり、都はるみを例にあげるまもなく、歌の上手なシンガーはカヴァー曲もそれなりにこなしますからね。ポップスでいうと徳永英明とか中森明菜とか。
でも氷川きよしは、アルバム出すたびに6、7曲ナツメロを入れるのだから、すこしヤリスギ。
美空ひばりだって魂が入ってないような、首をかしげたくなるカヴァーがあるんですから。
むずかしいですよね、カヴァーも。
やっぱり聴くほうにはオリジナルのイメージが残っていますから、それにハネ飛ばされちゃうことが多い。へんにオリジナリティを出そうとして失敗するくらいなら、物まねしたほうがまだ聴きやすかったり。
ですから何でもかんでもじゃなく、自分の声やうたい方に合った曲を選びに選んでカヴァーしたほうがいいと思うのですが。数は少なくなるかもしれないけど。
わたしのもっている氷川きよしのCDに入っていたカヴァーで比較的好きだったのは以下の2曲。
「あの娘たずねて」(オリジナルは佐々木新一)
「銀座九丁目水の上」(同じく神戸一郎)
いつものいやな予感がするので先を急ごう。
次なる「きよし」は前川清。
元内山田洋とクール・ファイブのヴォーカルで、現在はソロ。
とぼけた3枚目のキャラクターがウケて、芝居も人気ですね。
そういう彼のタレントを引き出したのは萩本欽一でした。
クール・ファイブ時代はほんとにいい歌がたくさんありました。
CMにもつかわれていた(建設会社でどこか違和感あったけど)「東京砂漠」。
亡くなったリーダーの内山田洋さんの曲でした。
それに震災で再び注目を浴びることになった「そして神戸」。
とても虚無的な詞は小説家でもある千家和也。
阿久悠の「恋唄」もよかったなぁ。
「恋唄」といえば、前川清は馬主にまでなるほどの競馬ファンで、コイウタという牝馬をもっていて、たしかこの馬でGⅠオーナーになったんじゃなかったかな。
そして神戸、じゃなくて「さよならの彼方へ」。
筒美京平の曲だからやっぱりソツがない。作詞は千家和也。
ソロになってからも、クール・ファイブのときほどじゃないけど、ヒット曲も出してます。あいかわらずあのうたい方でいい歌うたってます。
ソロ第一弾が三木たかしの「花の時・愛の時」でした。
「男と女の破片(かけら)」もいい歌だったけど、はじめて聴いたときはちょっと驚いた。
サビがまるで「キエンセラ」だものね。でもこのぐらいまでなら許容範囲かな。
福山雅治がつくった「ひまわり」や、坂本龍一・糸井重里の「雪列車」、あるいは杉本・ちあきコンビの「薔薇のオルゴール」なんて曲もあったけど、やっぱり女歌で、「ラヴ・イズ・オーヴァー」の伊藤薫が曲をつけた「恋するお店」がよかった。作詞はこれまた千家和也。
地方の町で小さな店をきりもりする女。
やっと商売も軌道にのりはじめ、近々オープン記念のパーティを計画する。
そのとき胸に浮かんだのが昔の男。そうだ、招待状を出そう……と。
どんな別れ方をしたのかは、招待状でおおよそ察しがつきます。
でも、どうなんでしょう。そんな健気な女性がいるんでしょうか。つねに電卓片手の商売です。そんな純な気持ちでいられるのでしょうか。
いやいや、それが流行歌なんですね。現実に戻るにはまだ早い。
そういえば、最近の新聞広告に、11月末から師走にかけて、新橋演舞場だったかどこかで藤山直美とペアの公演をやるって出てました。
健在です。喜ばしいことです。
歌謡曲ではもうひとり全日本歌謡選手権出身の中条きよしがいました。
そのときの審査員の平尾昌晃、山口洋子のコンビで「うそ」とか「理由(わけ)」がそこそこヒットしました。でも、第二の五木ひろしにはなれませんでしたが。
いわゆるイケメンで、「必殺シリーズ」にも役者として出てました。顔立ちからしてもチョンマゲが似合いそうで適役じゃなかったでしょうか。
まだあと2人いるので、またいつかの機会にということで。
4人目はポップスで日本のホセ・フェリシアーノこと長谷川きよし。
デビューが昭和44年といいますから、前川清(クール・ファイブ)と同じ年。
そのデビュー曲「別れのサンバ」は、わたしにとって「長崎は今日も雨だった」よりはインパクトがありました。
ギターのイントロがなんとも印象的で、下手くそながらもコピーしてました。だましだましね。
野坂昭如と競作? の「黒の舟唄」もよかった(個人的には野坂のほうが好きなのですが)。
そして、加藤登紀子とのデュオ「灰色の瞳」も。
これはワールドミュージックへのアンテナが鋭いお登紀さんが、ヨーロッパで発掘してきた曲。かの「コンドルは飛んでいく」などでケーナの名手として知られるウニャ・ラモスの曲にお登紀さんが詞をつけたもの。
それぞれがソロでアルバムに入れてますが、やっぱりデュエットがいいですね。
椎名林檎と草野マサムネもカヴァーしてます。
もはや予定(あるんですよ、一応)オーバーとなりにけりで、最後に今は亡き「きよし」、忌野清志郎の一曲を。
キヨシローの本名は栗原清志。清志は氷川きよしの本名と同じですね。
いろいろありますが、今日はカヴァー曲を。
わたしも1枚RC時代のカヴァーアルバムをもっているのですが、それには入っていない曲。たしかタイマーズで出したのかな。
懐かしい「デイドリーム・ビリーバー」を。
こうなったらついでだ、好きだった本家のも。