学園紛争:1968年1月東大医学部自治会の学生がインターン制に代わる登録医師制度導入に反対し無期限ストに突入、東大紛争に発展する。4月に国税庁が、日大の経理に20憶円の使途不明金があると発表し日大紛争が始まる。そして各地の大学に学園紛争が広がった。東大駒場祭のポスターに書いた橋本治の「とめてくれるなおっかさん せなかのいちょうがないている 男東大どこへいく」が話題になりこの年の流行語になった。69年学園紛争は一段と激化し高校にまで広がる。

梶芽衣子:(かじめいこ)俳優 東京出身で1947年生まれ 太田雅子(本名)は高校卒業と同時に日活に入社し、65年に「悲しき別れの歌」で本名でデビューする。同じ日活の藤竜也とは翌年からの共演。69年芸名を梶芽衣子に変え、70年「野良猫ロック」シリーズでヒッピーまがいの無節操な若者の役で準主役を演じる。71年日活を退社し翌年、東映に入社し「女囚さそり」シリーズの松島ナミ役でブレイクし、挿入歌「恨み節」はテイチクから72年12月発売されヒットする。73年からフリーになり74年1月TBSから向田邦子脚本のテレビドラマ「寺内貫太郎一家」に経理担当の片足の不自由な静子役で出演する。

梶原一騎:(かじわらいっき)漫画原作者 東京出身で1936年生まれ、87年没 高森朝樹(本名)はたびかさなる暴力行為をするので40年に元教師で編集者であった父龍夫に、東京都立誠明学園(感化院)に入れられる。そこで「漫画少年」(学童社)に連載されていた山川惣治作「ノックアウトQ」を読み感動し、53年3月退所すると「少年画報」の懸賞小説に原稿用紙30枚ほどのボクシング小説「勝利の影に」を応募し、見事に入選をはたした。やがて絵物語りの原作を書くようになり、54年頃、後々まで義兄弟の関係を続ける事になる大山倍達と取材目的で知り合い交流が始まる。61年東京中日新聞にスポーツ実録読み物「力道山光浩物語」の連載を執筆し、その縁で力道山とも知り合った。61年12月少年マガジンのプロレス漫画「チャンピオン太」(吉田竜夫画)で漫画の原作を書き始める。「チャンピオン太」は少年マガジンの初代編集長牧野武朗が「力道山光浩物語」を見て依頼したもので、その後テレビドラマにもなった。第一話でインデアンレスラー死神酋長を演じたのが猪木寛至で、後のアントニオ猪木である。64年6月後藤篤子と結婚し4人の子ができるが8年後離婚した。66年5月「巨人の星」(川崎のぼる画)67年6月「柔道一直線」(永島慎二画)68年1月「あしたのジョー」(ちばてつや画)「タイガーマスク」(辻なおき画)71年5月「空手バカ一代」(つのだじろう、影丸譲也画)73年1月「愛と誠」(ながやす巧画)等大ヒット作は多い。「あしたのジョー」の原作者の高森朝雄と「巨人の星」の原作者、梶原一騎が同一人物である事は当時知っている者は少なかった。多作も祟り才能が枯渇し始めていた75年春に、映画制作会社「三協映画」を設立。この頃から彼の人生の歯車が狂い始めた。78年梶原が監督、制作した映画「カラテ大戦争」のヒロインに抜てきした台湾人の白氷氷(パイピンピン)と入籍し結婚したが5年後に離婚。83年三協映画が製作していた映画の主演俳優の萩原健一が大麻取締法違反で逮捕され5月には梶原が暴行と傷害の容疑で逮捕。保釈後、8月壊死性劇症膵臓炎で倒れて、85年闘病と公判でやせ衰えた梶原の悲惨な状況を知った最初の婦人篤子と2度目の結婚。87年1月21日急性心不全で亡くなった。漫画ゴラク誌上での「男の星座」が絶筆になる。梶原と台湾人の白氷氷との間に生まれた17才の白暁燕(パイシャウエン)は誘拐され97年4月台湾・台北県内で絞殺死体となり発見された。犯人の5人の内、2人は死亡し3人は逮捕された。

勝ち抜きエレキ合戦:フジテレビの番組で1965年8月から19時のゴールデンアワーでスタート。司会は鈴木やすしでアマチュアエレキバンドが腕を競いあい、5週勝ち抜くとチャンピオンになるという音楽番組。不況のせいでテレビ局は制作費が安上がりな視聴者参加番組に活路を求め、エレキギターブームにあやかり、日本テレビ「世界にとび出せニューエレキサウンド」「エレキトーナメントショー」等の番組を各局が制作した。

仮面ライダー:石森章太郎が東映の依頼で作った異色のヒーローで、1970年に少年マガジンに描いた骸骨姿の主人公、「スカルマン」をベースにしてグロテスクな主人公を誕生させた。毎日放送系で71年4月から73月2月まで全98回放映し、出演は藤岡弘、佐々木剛、小林昭二。その後シリーズ化され73年2月「仮面ライダーV3」、74年2月「仮面ライダーX(エックス)」、10月「仮面ライダーアマゾン」75年4月「仮面ライダーストロンガー」、79年10月「仮面ライダー(新)」、80年10月「仮面ライダースーパー1」、84年1月「仮面ライダー全員集合!!」、87年10月「仮面ライダーBLACK」、88年10月「仮面ライダーBLACK RX」と続く。

加山雄三:(かやまゆうぞう)俳優 神奈川出身で1937年生まれ 池端直亮(本名)は俳優上原謙と小桜葉子との長男として生まれ東宝1961年の「大学の若大将」でデビューした。その後「帰ってきた若大将」までシリーズは17本制作され20年間も続いた。共演者は星 由里子(ヒロインのOL・澄子)、田中邦衛(ライバルの青大将・石山)。65年東芝レコードから「君といつまでも」、66年「お嫁においで」がヒットする。初めての国葬となった明治の元勲、岩倉具視は母親小桜葉子の曾祖父。 芸名の由来/スポーツに熱中していて学生時代の成績があまり良くなく「可」が「山」ほどあり「優」が「三」つしかなかったところから。

川田晴久(義雄):(かわたはるひさ・よしお)ボードビリアン 東京出身で1907(明治40)年生まれ 57年没  川田晴久(本名/岡村郁二郎)は印刷業の父嘉松の3兄弟の次男に生まれる。小学校を卒業すると浅草オペラや沢田正次郎の舞台に憧れるが、16年屋根の上で遊んでいた時墜落し脊髄を骨折、これが化膿し左足がカリエスになり生涯の持病になる。音羽座のレビューの採用試験に合格する。音羽座の支配人川辺喜美に「川田義雄」の芸名をつけてもらう。31年レビュー歌手でデビューし、35年1月長女和恵が生まれたのを機に同棲していた女生と結婚するが、まもなく離婚。吉本興業直営館である浅草、万成座の「吉本ショウ」で活躍し浪曲師広沢虎造の「虎造節」に、ジャズやオペラをミックスした「モダン浪曲」を創始、歌謡漫談の草分けになった。37年益田喜頓、坊屋三郎、芝利英らと「あきれたぼういず」を結成し爆発的人気を獲得しボーイズもの(3人以上で楽器を演奏する)のはしりになる。。39年3月「吉本ショウ」の踊子、櫻文子と結婚するが、川田以外の3人が新興キネマに「あきれたぼういず」の名前と共に引き抜かれる。このときの使者が伴淳三郎で川田は6月実弟の岡村龍雄に頭山光、菅井太郎を加え「ミルク・ブラザース」を結成し「地球の上に朝が来る、その裏側は夜だろう」のテーマソングで国内はもとより満州、朝鮮で公演を続ける。42年川田は少年時代のカリエスが再発。入院し手術となり「ミルク・ブラザース」は事実上解散した。戦後の48年1月横浜国際劇場で舞台復帰(美空ひばり11才と出会う)を果たし8月「ダイナ・ブラザース」(灘サダヲ、小島タカミツ、鹿島ミツヲ)を結成、翌年1月姓名判断により「春久」に改名。50年川田とひばりは招かれてハワイ、アメリカ西海岸の2ヶ月に及ぶ公演旅行を行った。51年ひばりと共に「新芸術プロダクション」を設立。譜面の読めないひばりにギターを鳴らし口移しで「川田節」を教え込み、その節がひばりに受け継がれる。飯田橋の厚生年金病院で腎臓結核と尿毒症を併発し、50才で死去。

河内音頭:江州音頭の影響を多分に受けた盆踊り歌の交野節や平音頭(ジャイナ節)といった仏供養の念仏踊り歌を祖に、大正期に初音家太三郎が浪曲の主題を取り入れた。昭和36年(1961年)ギター伴奏を取り入れた鉄砲光三郎の「民謡河内音頭」、昭和43年(1967年)京山幸枝若の「河内十人斬り」がヒットする。


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