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新潟行き/フロアイベント [アート論]

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明日、越後妻有に行ってきます。

来年の越後妻有トリエンナーレに参加するので、
その挨拶に行ってくるのです。

越後妻有トリエンナーレは、
2000年の第1回から、2回、3回とすべて参加しています。
その3回ともに、すべてフロアイベントを展開しています。 

ここに掲載した写真は2003年のものです。
畳の上に、ラッテクスという天然のゴム液を流しています。


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ゴム液は、アンモニア水に溶かされているので、
アンモニアの臭気がします。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

来年の第4回も、フロアイベントの展開を予定していますがあ、
内容は竹を使ったものを、提案しています。

越後妻有トリエンナーレは、
1回1回新しい趣向と、作品展開をしないと、
保ちません。
かといって、共通する主題がないと、
作家というものは、保たないのです。

前回の2006年には、床面が真っ赤なビニールで敷かれ、
模造刀や、本物の位牌、私のデス・ボディなどが置かれて、
自分の家系の歴史、それは戊辰戦争での宇都宮戦争での、
彦坂家壊滅の歴史を作品にしたものでした。

作品の選択は、
北川フラム独りで、やっています。
展開が出来ない作家は、落とされます。
それは厳しいものであります。


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少なくとも、北川フラムは、すべて私の作品も見ています。
もちろん四国の回顧展も見ています。
彼との付き合いは1969年からですから、
長いのです。
まったく違う価値観の人間なのですが、
着かず離れずの関係で、
とにかく、ここまで続いてきて来ているのです。



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松たか子の顔(加筆3写真追加2) [新・美人論]

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松 たか子1977年〜 )は、日本女優歌手
本名は佐橋隆子。
日本舞踊の名取名は松本幸華です。

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歌舞伎俳優・9代目松本幸四郎の末っ子です。


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松本幸四郎のお父さんは松本 白鸚ですから、
お祖父さんが松本 白鸚ということで、
隔世遺伝的には、松本 白鸚の遺伝子が伝わっていると考えられます。
確かに、似ている様に見えます。

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松本 白鸚


母親は藤間 紀子。

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兄は7代目市川染五郎

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《想像界》の眼で《6流》美人
《象徴界》の眼で《1流》美人。
《現実界》の眼で《6流》美人。


叔父は2代目中村吉右衛門

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歌舞伎や新派、また父松本幸四郎が主演するミュージカルに出演。

蜷川幸雄演出『ハムレット』で初めて外部の舞台を経験

野田秀樹串田和美の作品では主役に抜擢される。

この辺は、お父さんの九代目松本幸四郎の活動に良く似ています。
松本幸四郎は、ニューヨークブロードウェイで『ラ・マンチャの男』を、ロンドンウエストエンドで『王様と私』を主演するなど、現代劇での活躍が目覚しい歌舞伎役者でありました。演劇への挑戦として、演劇企画集団シアター・ナインス、歌舞伎企画集団梨苑座を発足させている人です。


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16歳だった1993年に、歌舞伎座の『人情噺文七元結』で初舞台を踏む。

1994年にはNHK大河ドラマ『花の乱』でテレビドラマに初出演。

1995年にはNHKのドラマ』で主演。

1996年の『ロングバケーション』、1997年の『ラブジェネレーション』、そして2001年の『HERO』と、フジテレビ系の月9ドラマに出演、木村拓哉と共演することが多く、その度に女優としての知名度を顕著に上げていったのです。


映画HERO』(2007年)での演技を見ても、木村拓哉は主役ではありますが、演技は《1流》でしかありませんでした。それに対して松たか子は、眼鏡をかけた3枚目の役柄ではありましたが、《想像界》《象徴界》《現実界》の3界で《超1流》真性の芸術の演技をして、輝いていたのです。父親の松本幸四郎も重要な役で《超1流》の演技で出演していて、親子そろって《超1流》の存在が印象的な映画となっていました。


映画そのものは、エンターテイメントでしかありませんでした。

《想像界》の眼で《1流》のデザイン的エンターテイメント映画。

《象徴界》の眼で《6流》のデザイン的エンターテイメント映画。

《現実界》の眼で《1流》のデザイン的エンターテイメント映画。


この映画HERO』は、エンターテイメントとして、興行収入2007年公開の日本映画1位、81億円とヒットしたのです。このヒットに、主役の木村拓哉以上に、松たか子の《超1流》の演技が、大きく貢献していたのです。

 

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さて、松たか子の顔である。

《想像界》の眼で《超1流》の芸術美人、。
《象徴界》の眼で《6流》の芸術美人。
《現実界》の眼で《1流》の芸術美人、。

《想像界》《象徴界》《現実界》の3界を持つ大女優。
固体/液体/気体の3様態を持つ大女優。

《非-実体性》《非-合法性》そして《退化性》を3界で持っている、
真性の芸術というべき大女優である。
さすが名門の血筋が光っているのです。

【続きは下をクリックしてください】

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タグ:松たか子
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韓国の新型戦車XK2「黒豹」(画像大幅増加!加筆4) [デザイン論]


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2007年03月02日 慶尚南道昌原(チョンウォン)で公開された韓国陸軍の新型主力戦車XK2。

お隣の韓国の、新型戦車ブラックパンサーの勇姿です。

《想像界》の眼で《2流》、デザインエンターテイメント
《象徴界》の眼で《41流》から《2流》の重層表現、
                                                デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で、《41流》、デザイン的エンターテイメント

デザイン的には《2流》の戦車ですが、
しかし《現実界》はしっかりと《41流》で、
世界最強の戦車というものです。

防水性能、対空防御面で世界最高であるという。
価格は世界一高い戦車となる予定という。
重量55トン、最高速力70キロ。

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3年後に量産に入るという。
量産というのが、すごいですよね。
何を考えているのでしょうか?
もちろんアジアの動乱です。

大陸制覇、朝鮮統一、野望をもった韓国製次期主力戦車XK-2「黒豹」
中国と韓国は近年急速に兵器の近代化を進めているのです。

XK2の模型を載せたのですが、
伊東直昭さんから違うというご指摘をいただいたので、
削除しました。

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【朝鮮戦争での戦車戦による敗北】

1950年、朝鮮戦争が勃発する。
6月25日午前4時(韓国時間)、
北緯38度線にて、北朝鮮軍の砲撃が開始され、
30分後には約10万の兵力が38度線を突破した。

この時の韓国軍は、全土で8個師団6万5000人程度で、
重装備が全く施されていなく、
韓国軍は戦車を1輌も装備していなかった。

それに対して北朝鮮人民軍は、陸軍が歩兵2個軍団10個師団と、
第二次世界大戦時最強のソ連製T-34-85戦車150輌を配した第105戦車旅団で、

合計兵力18万3000人、
海軍は艦艇30隻と兵力1万4000人、
空軍は120機のソ連製戦闘機と兵力2万人で、
総計すると約22万人に及ぶ軍隊であった。
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T-34戦車

この軍事力の差は大きく、
特に戦車の戦力の差は、被害を大きくした。
北朝鮮によるT-34戦車を中核にした攻撃により、
戦車を持たない韓国軍は、総崩れとなっていた。

韓国軍は絶望的な戦いを続けていたが、
ついに韓国政府はソウルを放棄し、首都水原に遷都、
ソウルは6月28日に陥落した。
わずか3日で、首都が陥落したのである。

このソウル陥落の際、
命令系統が混乱した韓国軍は、
避難民もろとも漢江にかかるを爆破した。
これにより漢江以北には多数の軍部隊や住民が取り残され、
自力で脱出する事になる。
また、この失敗により韓国軍は士気も下がり、
全滅が現実のものと感じられる状況になってしまった。

こういう悲惨な記憶が、
世界最強の新型戦車、
XK2「黒豹」を開発させたのです。

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【世界最強の戦車の開発】
韓国政府は、95年から12年間、
およそ2000億ウォン(約240億円)を注入して、
世界最強と称する戦車を開発した。 

XK2の威力は最強と言われる。

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【主砲の破壊力】
XK2「黒豹」は、
地球上に存在するすべての戦車を貫通できる。
従来型に比べて1.2メートル長くなった砲身(6.6メートル)と、
新型砲弾(APDSFS弾)は、
北朝鮮の最新戦車「チョンマ号」はもちろん、
中国とロシア、欧州などの競争戦車も貫通できる。

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XK2「黒豹」は、弾薬が、自動的に装填される。
2キロ以内の固定または移動中の標的への命中率は、
95%以上だそうです。
ヘリコプターを撃墜できる電子知能弾も備えています。
この弾は、発射の後、自ら標的を探し攻撃する追尾型です。

XK2「黒豹」は、射程9.8キロメートルで、標的を自動追尾するほか、
敵軍と自軍を区別するため、
熟練していない戦車兵でも敵軍を制圧することができる。

戦車内の4のモニターには、
韓国軍と敵の位置など戦闘地域の状況が表示される。

化学兵器・微生物と、
放射能の汚染地域でも作戦を遂行できる戦車です。 
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【装甲の防護力】
XK2「黒豹」の特殊装甲は、
敵の戦車の砲弾を防げる。
敵の砲弾が触れると、
装甲で自動的に爆発が起きる「反応装甲」の技術を持っている。
この方法で砲弾の貫通力を弱化させる。 

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【機動性】
XK2「黒豹」は、最高速度は時速70キロメートルで、
ぬかるみの中でも時速50キロメートルでの走行が可能。

道路が傾いていたり障害物があれば、自動的に水平に調整する。

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潜水渡河の能力は世界最高の高さで、
稼働可能な水深は深くて、
砲身がひたる4.1メートルの水深でも走ることができる。
これぐらいの水深まで入れる戦車はXK2だけ。
砲塔まで水につかれる戦車は、世界でも初めてであるそうです。

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以上の出典は、中央日報金珉ソク(キム・ミンソク)軍事専門記者


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梶芽衣子/女囚サソリ3部作の傑出性(改題、加筆1) [新・美人論]

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梶芽衣子の顔です。
普通にしている時は、
《想像界》の眼で《1流》のエンターテイメント美人
《象徴界》の眼で《1流》のエンターテイメント美人。
《現実界》の眼で《1流》のエンターテイメント美人という、
普通の《1流》美人です。
しかし《想像界》《象徴界》《現実界》の3界を持つ大女優さん。


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特徴的なのは、クールな美貌が強い眼光を光らせて
感情表現の凄まじい演技をした時の顔です。

《想像界》の眼で、《41流》の真性の芸術美人。
《象徴界》の眼で《41流》の真性の芸術美人。
《現実界》の眼で《41流》の真性の芸術美人というふうに、
《41流》の芸術美人の化けるのです。
ここが素晴らしく、多くの人を引きつけて、
止まないのです。
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梶芽衣子、本名・太田 雅子は、1947年東京神田に生まれ。
高校在学中にスカウトされて、卒業後、日活に入社。
1965年、西河克己監督の「悲しき別れの歌」で、映画デビュー
吉永小百合主演の青春映画で、の太田雅子の本名で出演。


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1969年、マキノ雅弘監督「日本残侠伝」に出演した時、
監督の命名で、梶芽衣子と改名。
1970年は「野良猫ロック」シリーズ(長谷部安春監督、藤田敏八監督)、
澤田幸弘監督の「反逆のメロディー」、
藤田敏八監督の「新宿アウトロー・ぶっ飛ばせ」と
日活ニューアクションと呼ばれる映画に出演。

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1971年、東映に移籍。1972年、伊藤俊也監督「女囚701号さそり」で主演し、ヒット。「女囚さそり」はシリーズ化される。劇中歌「怨み節」もヒットします。


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女囚さそりシリーズ』の内、最初の3本は、
伊藤俊也監督作品。

伊藤俊也は、1972年『女囚701号 さそり』で監督デビューしている。

伊藤 俊也は1937年生まれ、
福井県出身で、乾徳高等学校(現・福井商業高等学校)卒業後に上京、
東京大学文学部卒業。
1960年東映撮影所に入り助監督・脚本家を経て、
この『女囚701号 さそり』で監督デビューしたのである。

この『女囚701号 さそり』を、遅まきながら、
最近見たが、驚くべき映画であった。
暴力、陵辱、嫌がらせ、拷問、殺戮、拘束、監禁
とにかく人権無視もいいところで、女性の裸も多く出て来て、
サドマゾ映画と言える、暴力映画であった。

この時代はアメリカン・ニューシネマの時代で、
サム・ペキンパーのワイルドバンチ』、『ゲッタウェイ』『わらの犬』、
スタンリー・キューブリックの『時計じかけのオレンジなど、
ベトナム戦争を背景にした暴力映画が台頭している時代であったので、
これらの国際的な暴力映画の潮流に連動していたと見るべきである。

『女囚さそり』のショックシーンは凄惨で、今見てもインパクトが強いのである。
しかしそうした低俗性をはるかに超えて、
フェミニズム映画とも言える女性の戦いの映画なのである。
この時代は、1970年には、ケイト・ミレットによって『性の政治学』、同じく1970年、シュラミス・ファイアストーンによって『性の弁証法』が書かれ、ラディカル・フェミニズムが台頭してくるのです。こうした国際潮流に平行している映画と言えます。「だまされた女に、罪がある」というような内容の台詞があって、男に、執拗に復讐して行くのである。梶芽衣子は、無表情で拷問に耐えながら
「怨み」の冷たい炎をたぎらせていく

しかし驚いたのは、
きちんとした映画になっている事であった。

《想像界》の眼で《41流》。
《象徴界》の眼で《41流》から《8流》の重層表現。
《現実界》の眼で《1流》。

この最後の《1流》映画というところに、
たまらない魅力があるのである。
世界的に見れば明らかに《8流》のBクラス映画なのだが、
それが《41流》映画として、きちんと《1流》に作られている事で、
魅力があるのである。
日本映画を改めて見直すきっかけになった。
しかも《象徴界》の映画で、真性の芸術なのであった。

この映画は、なによりも風景描写が優れていて感心した。また石切り場での女囚の労働の映像も素晴らしい。助演に白石加代子で、梶芽衣子に敵愾心を燃すやくどころ。男憎さのあまり、その赤子を殺す為に自分の腹に刃物を突き立てた過去を持つ女で、強烈な印象の演技であった。

第3作、女囚さそり けもの部屋(1973年7月29日公開)は、冒頭から、衝撃的なシーンが、極めて優れていて、驚いた。にかく、画像がきちんとしていることと、妹と兄の近親相姦の設定もあるのだが、と台本が良く書けている。素晴らしい。助演に状況劇場の李礼仙が出ていて、これも良かった。


「キル・ビル」シリーズで梶の歌う「怨み節」を使用した。
しかし3作を見て分かった事だが、
「キル・ビル」自体が、この女囚さそりの復讐劇のリメイクであった。
それほどに、熱くなるシリーズであった。
ハリウッドの高予算映画とは、別の文法の映画が、確かにここにはあったのである。それは荒唐無稽ではあるのだが、その大衆向けの低俗映画が、しかし映画と言うものを構成し得る、ある抽象性を獲得しているのである。タランティーノが発見したのは、こうした低俗表現、つまりカウンター・カルチャーの中の高度な表現性であった。それが梶芽衣子の《41流》の芸術美人性と連動する事で、《41流》映画の凄みを切り開いたのである。


 




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北京オリンピック開会式の《21流》性 [アート論]

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何しろテレビも新聞も、基本として見ていないというか、
テレビを捨ててしまったし、新聞は駅売りを時々買うくらいで、
この北京オリンピックも、見ていなかった。
インターネットでチェックするのと、
清水誠一さんとか、ニューヨークの富井玲子さん、
ご近所の伊東直昭さん、佐々木薫さんという人と電話などで
北京オリンピックを教えてもらっている
という生活をしている。

80パーセントの多数派の意見は信じないという極端な人なので、
みんなが北京オリンピックをテレビで見て、新聞を見ているのなら、
まあ、私は見なくても良いだろうと考えるのである。
実際、これだけブログを書いていて、
さらにテレビを見る時間は無いのである。
それに、マスメディアへの不信感というのは、深くある。
マスメディアではないところで知的探索とコミュニケーションの
可能性を、探りたいと思っているのである。

さて、そういう事情を知っている富井玲子さんが、
北京オリンピックの画像を中国の友人からもらって、
こちらにも流してくれた。
富井玲子さんは、中国系の作家とも付き合っておられるので、
そういうルートを持っておられる。

さて、北京オリンピックの画像であるが、
まず、第一印象は、古いの一言である。前近代である。
これではナチスのやったベルリンオリンピックの民族の祭典と、
同じではないか。
フォシズムでしかない。

《想像界》の眼で《21流》、デザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《21流》、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《21流》、デザイン的エンターテイメント。

固体(前近代)

《21流》というのは、エロ写真の領域で、
高さの無い世界である。
人生や社会の直接的などぶ泥の世界である。

《21流》のもう一つの性格は、《2流》という技術領域の倒錯領域である。
したがって、日本人が好きな《6流》の自然主義とは違うのである。
徹底的に《2流》の技術主義に走って、
技術に淫して技術フェチシズムで転倒した倒錯領域なのである。
中華街の下品でキッチュな赤の溢れる《21流》世界の裏側に、
こうした技術への偏重があるのである。
そのことは北京オリンピックでのさまざまな、
仕掛けや嘘やトリックに言える。


まあ、中国文化は、こういう《21流》に、清朝には、
なっていて、すべてが《21流》である。
アーティストの秋元珠江さんが1年中国留学をしていたので、
いろいろと教えていただいている。
切り紙のような、日本では《6流》として現れるものが、
中国の切り紙では、《21流》である。

たぶん、文明というものは、
発達展開した後に、
この《21流》のどぶ泥の世界に流れ込んでしまうのであろう。
その意味で、中国文化は、
文明の最後の段階に到達してしまっている社会であって、
未来は無い。
あるのは地獄の千年王国である。
どこまで行っても、
金太郎あめの様に《21流》が続く。


この徹底性の退屈さは、
この北京オリンピックでの開会式でも凄い。
もっとも私は台湾は行っているが、
中国本土には行っていないので、
本当に全部であるかは疑問だし確認していない。
しかし、驚くほど多くのものが《21流》なのである。
そしてオリンピックの開会式も《21流》であったのである。
中国人は、この低さに気がついていないのである。

それは日本人が《6流》に溺れて、
その《6流》の低さを自覚できないのと同じである。

北京オリンピックも《21流》である。
これは世界へ、中国文化の異質性の宣伝をしたようなもので、
世界の中国への期待は冷えて行くのであろうか?










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森村泰昌とシンディ・シャーマン/メイプルソープ(改題2改稿4加筆11写真増加3) [日本アーティスト序論]

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森村泰昌については、以前から書いていて、
拙著の中にも収録されているので、
繰り返しになる部分は書かないでおきます。

【加筆の《非合法性》論は青字にしてあります】


先日の『アトミックサンシャインの中へ
日本国平和憲法第九条下における戦後美術
代官山ヒルサイドフォーラム)で、
森村泰昌の 三島由紀夫の作品を見ています。
ただしそれはビデオ作品でした。 

上に掲載したのは、写真作品。

《想像界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。

液体美術(=近代美術であって、現代アートではありません)。

シニフィエの美術(脳内リアリティの作品)。

割腹自殺した三島由紀夫を取り上げたということが、
あたかも《非合法性》を持っている様に受け取られているのですが、
作品そのものは、合法的な作品であって、
芸術性としての《非合法性》は、ありません。

芸術的な《非合法性》について、
誤解があるというか、通俗的な理解が流布されているのです。
つまり常識的に見ると、危ない題材をものにしていて、
《非合法性》があるという理解になるのです。
確かに【ユング的集合無意識】で見ると、
《非合法性》があります。
なにしろ【ユング的集合無意識】というのを、
普通の日常語で言えば、「常識」ということだからです。
この「常識」における《非合法性》が、
おそらく森村泰昌を社会的に成立させている重要なものなのでしょう。
しかしではこの《非合法性》は、本物なのか、
まやかしなのか、検証されているのでしょうか?

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

ビデオは、

《非-実体性》《非-合法性》、そして《退化性》が、
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界で皆無で、
芸術というものではありませんでした。


《8流》のマイナー性を持った、
エンターテイメントであって、

“インテレクチュアル・コロッケ”というものです。

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森村泰昌の顔です。        コロッケの顔です。

《想像界》の眼で《6流》。    《想像界》の眼で《1流》
《象徴界》の眼で《6流》。    《象徴界》の眼で《1流》
《現実界》の眼で《6流》。    《現実界》の眼で《1流》

《想像界》の人格。        《象徴界》の人格。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

自分で並べて驚いているのですが、
森村泰昌は《6流》で、《想像界》の人。
コロッケは、何と《1流》の《象徴界》の人でした。
コロッケの方が、格が高いのです。

森村泰昌の作品は、
基本的にエンターテイメントであって、
お笑い芸です。
基本的にファンタジーで、
本質性を欠いた、《気晴らしアート》です。
もちろん《ローアート》です。

だからこそ、受けているようです。

日本人は、芸術ではなくて、
エンターテイメントを求めているのです。

芸術とエンターテイメントは、
確かに銅貨の裏表ですから、
裏だけが好きというのも、
仕方がないかもしれません。

困った事ですが、
まあ、現在の日本の民度はそういうものなのです。

森村泰昌自身が、芸術である事には、
興味が無いのかと思っていましたが、ところが、
芸術の看板は必要であるようです。
エンターテイメントであればあるだけ、
それを芸術であると強弁しておく必要があるのでしょう。

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このデビュー作を格付けしてみます。

《想像界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。

《想像界》の美術。
液体美術(近代美術)。

《想像界》《象徴界》《現実界》、どこにも真性の芸術性がでてきません。
完全なデザイン的エンターテイメントでしかない作品であります。

【ユング的集合無意識】で見ても、
この作品は合法的なものであって、
《非合法性》はありません。

私がこの作品を最初に見たのは、
栃木県立美術館で1987年に開催された「現代美術になった写真」展でした。
その時も良い作品とは思いませんでした。

異論は、めちゃくちゃに多いとは思いますが、
私は、森村泰昌の作品に、芸術をどこにも見いだせません。

それに対して、森村泰昌が模倣したお手本の
初期シンディシャーマンは、
すばらしく、芸術です。
下記画像を見て、比較してみてください。

森村シンディシャーマン.jpg
《6流》          《超1流》
デザイン的エンターテイメント    真性の芸術
原始画面作品         透視画面作品
《気晴らしアート》      《シリアス・アート》
シニフィエの美術       シニフィアンの美術
偶像崇拝の美術        偶像崇拝禁止の美術

偶像崇拝の問題。

もっとも、シンディシャーマンにも異論があって、
「面白くない」、「分からない」という意見が多くあるかもしれません。
だからシンディシャーマンは芸術であって、お笑いではないのです。
森村泰昌の作品は、お笑いです。

しかし、そこに、最も重要な問題があります。
偶像崇拝の問題です。

抽象美術、特にミニマル・ペインティング以降の状況の中で、
再び具象画像を復活させた時に、
それをどのように取り扱い、
向き合うかというのは、難しい問題をはらんでいたのです。

1975年前後に出てくるシンディ・シャーマンや、
ロバート・メイプルソープの写真表現には
こうした具象の扱いに、高度な視点が見られるのです。

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つまり人間像というものを復活させて、
全面に出しながら、同時にそれに対して、
偶像崇拝禁止の抑制をかけていくという、
そういう表現がされているのです。

だから、メイプルソープシンディシャーマンの作品は、
面白いと同時に、謎めいていて、
分からなさを本質的に持っているのです。

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ここには、偶像画像としての人物像があるのですが、
それが崇拝対象としての偶像化がされないように、
同時に無化がされているのです。

どの様にして無化するのか?
という技術の問題は、あります。

シンディシャーマンの場合には、
シチュエーションを豊かに描き出す事で、
画像そのものも、人物像も、
明示されない不在のストーリーに相対化されているのです。

これに対して、
森村泰昌の画像は、逆で、
人物像は、呪術的アニミズム的に礼拝対象化されて、
強調され、絶対化されているのです。

image002.jpg
偶像崇拝化された画像です。

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これも偶像崇拝化されています。

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偶像崇拝化されています。

-3.jpg
偶像崇拝化されています。

《想像界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。

これは芸術ではないのです。

森村泰昌の場合に、周辺部の小道具や衣装、背景も、
すべてが、
この偶像崇拝性を強化する為に動員されているのです。

それに対して、
シンディシャーマンの作品は、
周辺部の小道具や衣装、背景も
偶像崇拝化を巧妙に抑圧して、
偶像崇拝を禁止するように機能させているのです。

1975cindy-sherman.jpg

今回見つけた最初期の作品。
1975年の作品です。
森村泰昌のゴッホ(1985)よりも10年古い作品です。

重要なのは、左上に広がる明るい大きな空間。
そして、それと対照的な右下側にかたまる黒い手袋と衣服。

さらに女の表情です。そこには複雑なわけの分からないストーリが潜在化されていて、
森村泰昌のような単純な偶像崇拝化が起きない様な、相対化が仕掛けられているのです。

《想像界》の眼で《超1流》、真性の芸術。
《象徴界》の眼で《超1流》〜《7流》の重層表現。
               真性の芸術。
《現実界》の眼で《超1流》、真性の芸術。

《想像界》《象徴界》《現実界》3界同時表示。
固体/液体/気体、3様態同時表示。

こういう高度なダブルバインド的表現が、真性の芸術なのです。

ここには、偶像を取り入れながら、巧妙に相対化し、抑圧する事で、
偶像崇拝を禁止することに成功している、
高度な芸術があるのです。

ついでに、ロバート・メイプルソープの技法も見ておきましょう。

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ペプシネックス・ゼロカロリー [味覚]

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今年の夏は暑くて、
アトリエにはクーラーも無くて、
ゆだっていた。

アトリエのそばにある自動販売機では、
コカコーラのZEROを売っていて、
体を冷やす為に
これを1日1本飲むという、
悪い習慣がついていた。


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しかし、このコカコーラ・ゼロは、まずい。

《8流》の《8流》の《8流》

せめて、レモンを搾って、入れてくれ!
と思っていたが、
自分でわざわざレモンを買って、
氷の入ったグラスにそそいで、
レモンをたらす、マメさはなかった。


そうしているうちに、
車で移動中に、入った店で、
ペプシネックスを見つけて飲んだ。

これが美味い!
《8流》《6流》《6流》。

何がちがうのか?

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違いは、レモン果汁でした。
レモン果汁が入っている。

レモン果汁、酸味料、カラメル色素、香料、甘味料(アスパルテーム・L-フェニルアラニン化合物、アセスルファムカリウム)、保存料(安息香酸Na)、カフェイン
賞味期間6ヶ月

コカコーラ・ゼロが、
《想像界》の眼で《8流》。
《象徴界》の眼で《8流》。
《現実界》の眼で《8流》。

ペプシネックスが、
《想像界》の眼で《8流》。
《象徴界》の眼で《6流》。
《現実界》の眼で《6流》。

この《8流》が2つも《6流》にアップしているのは、
決定的に大きいのです。

ZEROというキャッチの部分ですが、
これはコカコーラが先で、
ペプシネックスが、
後からパクったようです。

しかし、
合成保存料もはいっているし、
ゼロとは言っても、
この甘さは不安になる。
やばいよな。

ようやく涼しくなって来ました。
止めましょう!

さあ、秋だ!!



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束芋の作品(後半/加筆1) [日本アーティスト序論]

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◆◆1◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

ニックネーム・アルナーチャラムさんは、束芋の作品について、
次の様に書いています。

「束芋」(たばいも)。
何じゃそりゃ、って?
朝日新聞を取っている人なら、毎日目にしているはず。
夕刊の連載小説の“あの挿絵”を描いているアーティスト(1975年兵庫県生まれ)。

何だか奇妙・グロテスクで、場合によっては気持ち悪いほどの毒気さえ感じさせるタッチで、人間の深層心理の奥に潜む本音をえぐり出して目の前につきつけられるような、恐怖感さえ感じるような絵が気になっていた。

この束芋の挿絵とおぼしき画像に、
彦坂尚嘉の格付けをしてみます。
どう、見えるのでしょうか?
  • 《想像界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
  • 《象徴界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
  • 《現実界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
  • 《想像界》の美術。《象徴界》や《現実界》は、無い。
  • 固体(前近代)美術 。
  • シニフィアンの美術。

【フロイト・ラカン的位相からの芸術分析】から見れば、
前近代に退化した骨董性をもつ、《6流》という自然領域の、
イラストレーションに過ぎないのであります。

不条理性である《4流》も無ければ、
犯罪領域である《31流》性も無いのです。
地獄領域である《41流》もありません。

だから毒気もなければ、深層心理も、グロテスクも、恐怖も、
本質的には無いのです。

芸術というのは気持ちの悪いものですが、
その一かけらも持っていないし、
何よりも《6流》の自然性だけであって、
倒錯領域である《8流》から《41流》性を
持っていないのでありますから、
かわいらしい、素朴な、
《想像界》の表現なのです。
ファンタジーです。

芸術性の無いデザインであり、
《想像界》の作品だからこそ、
高い社会性を持って、
ヒットするのです。

それはポップスやロックに於ける、ヒットの要件と同じであります。
芸術性のあるロックは、大ヒットする事は無いのです。
一部のマニアの深い尊敬に支えられて、
マニアックに存在するだけであって、
芸術というのは、基本的にはそうしたものに他なりません。

束芋の人気は、それはデザイン性のなせる技であって、
芸術性の高さではないのであります。

◆◆2◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

とは言っても、ニックネーム・アルナーチャラムさんが見ているのは、
私の分析の範囲では無いと思われます。

何だか奇妙・グロテスクで、
場合によっては気持ち悪いほどの毒気さえ感じさせるタッチで、
人間の深層心理の奥に潜む本音をえぐり出して目の前につきつけられるような、
恐怖感さえ感じるような絵。

つまり多くの人々が見ている束芋の魅力というのは、
私の【フロイト・ラカン的位相からの芸術分析】で語る範囲ではなくて、
むしろ【ユング的集合無意識】で見るときの束芋ではないのでしょうか?

【ユング的集合無意識】で束芋の上記のイラストを見ると、
《超1流》と判定が出るのです。

集合的無意識 は、
個人の経験を越えた、
集団無意識の深層に存在しているものです。

人間というのは、必ずしも個人として自立しているのではなくて、
知らず知らずのうちに話し方まで集団に合わせて変わってしまうように、
集団の同調現象の原理に支配されています。

《常識》というのもそういうものですし、
この《常識》の無意識の深層に集合無意識があると、
ユングは主張したのです。

日本社会を維持するために常識があって、
この圧力が働くことで、
日本人は、自分の考え方や行動が大きく逸脱しないように統制されるのですが、
それは束芋の主題である《日本民族のに存在すると考えられる、
元型的力動なのです。

そうした集団の心を制御をしているのが、
集合無意識ですが、
それはたびたび集団自殺へと、
雪崩を打って動くのであります。

人間の生命や文明社会、文化的な成果を根底から破壊して、
『無』に帰そうとする欲動が、死の本能です。

日本人の集合無意識的な精神活動も、
絶えず生の本能と死の本能の葛藤にさらされていて、
ある時から、雪崩を打って集団自殺にのめり込んで行くのです。

奇妙なグロテスクで、
気持ち悪いほどの毒気。
人間の深層心理の奥に潜む本音をえぐり出して目の前につきつける束芋!
恐怖感を感じさせる束芋の絵!

束芋の作品の中には【ユング的集合無意識】があって、
それが指し示すのは、集団自殺へと向かう同調現象です。
人々の意見がある方向のみに傾斜していく気味の悪さです。

例えば、勝算がないのは誰の目にも明らかであるにも拘らず、
戦艦大和の出撃を決定するなどの決断の同調現象です。


同調現象が起きたら、異論は歓迎されないのです。


ただ、「みんな」の意見を補強する意見のみが歓迎される。

そうして、異論に対しては、論理で反論するのではなく、

無視と黙殺で反論される。そして沈黙を強制するのです。


周囲を見回して、自分に異論があっても、

他に異論がないようならば、

異論の表明を控えるという自己検閲の機能も、強く働きます


お酒を飲みながら美術評論家の先生と話していて私と意見が合っても、

最後には「その意見は書かないよ」と言われます。

また同人誌をやっている時に、座談会で話していて、

文字起こしをすると「それは止めておこう」と、削られます。

こうして自己検閲が頻繁になされて、

同調現象が起きて行くのです。

こうして日本の美術批評は集団自殺を遂げてしまったのです。


こうして、「美術界一致の幻想」が現れます。

同調現象の結果は、どこでも、どの雑誌、どの美術館でも、

「みんな」が賛成していると信じられる作家だけが

集中して繰り返し取り上げられることになるのです。


この同調現象が、日本の美術界には、

繰り返し良く起きます。

美術関係者の意見がある方向のみに傾斜する事がおきるのです。

批評は消えて、

それこそ、束芋はすばらしいという、同調現象が起きます。


異論は、黙殺され、沈黙を強制されるのです。

こういう傾向は、森村泰昌、大竹伸朗、宮島達男、草間弥生の作品

への評価などにも見られます。

とても芸術には見えないものに、

日本人の評価の意見が雪崩を打って同調して行くのです。

多様な意見や、少数の異論を失って、

ある方向のみに傾斜する事がたびたび起きて行きます。

その結果として、批評が集団自殺したのです。

新興宗教が集団自殺したり、
そして日本が、3000倍の軍事力の差のあるアメリカに戦争を仕掛けて、
集団自殺へとのめり込んで行ったのも、
こうした集合無意識の同調現象メカニズムでした。

束芋の作品を成立させ、
そして多くの人が束芋の表現に《超1流》の魅力を見ているのは、
こうした集団性の無意識の深層に存在している集合無意識なのです。
ですから束芋の作品には、集団自殺へと動いて行く日本人集団の、
死の本能(タナトス)》が、深く関連性を持っているのです。


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束芋の作品(前半/少し校正加筆1写真1枚追加) [日本アーティスト序論]

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束芋「at the bottom」(2007)

カルチェのモバイルアートは見に行ったので、
当然の様に束芋の作品は、
最初から最後まで、じっくりと見た。2回も見てしまった。
私の場合、自分が評価しない作家というのは、
私にわからないのだから、基本的には、きちんと見ようと努力する。
それと人に聞く。何故に良いのかと?

そういう訳で、
レトロでシュールなアニメーションが人気の高いとされる束芋 なのだが、
この作品、つまらなかった。
アニメーションとしては、まったく凡庸。
装置は、きれいにできていたから、装置を評価する視点で見なければならないのだろう。
しかし、アニメーションがあまりにも凡庸で、
この上映システムときちんと対応している様には見えなかったのだが、
どうだろうか?

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先日、丸亀の猪熊弦一郎美術館で見たピピロッティ・リストの方が、
私には面白かったのだが、そういう見方は、
束芋への偏見なのだろうか?

さて、そういうわけで、
束芋のモバイルアート作品である。

《想像界》の眼で《6流》、デザインエンターテイメント
《象徴界》の眼で《6流》、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《1流》、デザイン的エンターテイメント。
シニフィエの美術
固体美術。

そう、固体美術なんですよね。
つまり現代アートではなくて、前近代アートなんですよ。
古いのね。
だからレトロと言われるのでしょうが、
本質的に表現が古くさいのね。
だから受けるのでしょうね。

束芋たばいも)は、本名、田端綾子。
1975年うまれで、現在33歳。
母親は陶芸家の田端志音(たばた しおん)。

田端志音は、古美術店『谷松屋戸田商店』(大阪)勤務をへて、古美術店で数々の名品を実見し、茶陶の世界に魅せられ作陶の道へ。乾山を徹底的に写すことで、赤絵・銹絵(さびえ)・染付とさまざまな手法に習熟。1991年神戸市に開窯。
吉兆(きっちょう)とは大阪市に本拠がある日本料理の高級料亭であるが、その 『吉兆』の創業者・故湯木貞一氏に才能を見出され、尾形乾山の写しに打込む。 陶芸家・杉本貞光氏に師事し研鑚を重ねた後、04年軽井沢に制作拠点を移設。

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束芋の母親・田端志音の陶芸です。

《想像界》の眼で《超1流》ですが、デザイン的エンターテイメント。
《象徴界》の眼で《超1流》から《7流》の重層表現ですが、デザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《超1流》ですが、デザイン的エンターテイメント。
固体陶器。

前近代の古いタイプのものですが、
クオリティは、《超1流》で、たいへんなものです。

乾山を徹底的に写すことで、赤絵・銹絵(さびえ)・染付とさまざまな手法に習熟」と、
経歴にあったように、コピーをすることによって伝統を学んでいる、
伝統主義者なのです。

日本の陶器は《1流》が多くて、
その中では、奇跡のように傑出しています。
しかし残念ながら真性の芸術ではなくて、
デザイン的エンターテイメントなのであります。

真性の芸術というのは、作家自身の私的な感覚や、私的な個人史の遡行性を軸に組み立てられている面を保持していなければならないのですが、束芋の母親である田端志音には、そういう個人の私的な質は放棄されていて、歴史的な名品をコピーする事に心血が注ぎ込まれているタイプの陶芸家だからです。そういう意味で職人的な陶芸家であって、近代の芸術家的な人ではないのです。

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田端志音の顔です。

《想像界》の眼で、《超1流》美人
《象徴界》の眼で、《超1流》美人。
《現実界》の眼で、《超1流》美人。
固体美人。

こういう古い固体美人のお母さんの生んで育てた子供ですから、
束芋も、固体人間で、前近代タイプ。
束芋は、6歳のとき、毛筆で仏画を描き、母はそれを家に飾り、
訪れたひとは6歳児の作とは思えないそのできばえに、
驚嘆したということです。

男が、女性に恋をしたら、その母親を見ろと言いますが、
娘と母親は似ている事が多いという経験値です。
まちろん母親と中の悪い娘もいますが、
しかし女性は一緒に住むと生理まで同調する様に、
母親と娘は、生物の同調性のメカニズムで、同調しているものを
沢山持っているのです。

田端志音と、その娘の束芋は、
同調性のメカニズムで、基本の構造は、同じであって、
模倣を基盤とする伝統主義者で、
固体美術、つまり前近代美術の作家なのであります。

そしてその表現は、《超1流》性をもった傑出した者でありながら、
しかしデザイン的エンターテイメントであって、
真性の芸術ではないと言える様に、私には見えます。


(つづく)







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川久保玲と村上隆のルイ・ヴィトン(改題加筆4) [アート論]

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川久保玲の顔である。

《想像界》の眼で、《41流》美人。

《象徴界》の眼で、《超1流》から《41流》までの重層的美人。

《現実界》の眼で、《8流》美人。


《想像界》《象徴界》《現実界》の3界を持つ人格。

気体人間。

 

これは良く出来た肖像写真だが、

この写真を格付けしておく。

《想像界》の眼で、《41流》

《象徴界》の眼で、《41流》

《現実界》の眼で、《41流》

典型的な《41流》の肖像写真で、純粋化されていて、

ほかのものとの重層性はない。

ハイアートではなくて、ローアート写真である。

悪く言えばヨーロピアン・シュラッシュ・メタルの女バンドリーダーのようでもあるし、

後ろに中世の重甲冑の槍軍団を従えた現代日本のエリザベスといった雰囲気である。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


川久保玲がルイ・ヴィトンのためにデザインしたバッグの写真です。

写真の出典はnitrolicious.comです。

このバッグは、青山骨董通りにあるDover Street Market

ドーバー・ストリート・マーケット・トーキョーが期間限定で

ルイヴィトン・アット・コムデギャルソンに変わり、
9月4日から12月の中旬までの期間中にこちらの
ショップの店頭でのみの予約販売となるそうです。

下記情報は裏原宿ファッションブログ 裏原マグからです。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

Re-Edition
ルイヴィトンが日本に上陸した1970年当時に大流行した
プチ・マルソーとサック・ドゥ・ポッシュを、

川久保玲自身が復刻をしたモデル。


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《想像界》の眼で、《超1流》、真性の芸術。

《象徴界》の眼で、《超1流》から《7流》の重層的表現、真性の芸術。

《現実界》の眼で、《超1流》、真性の芸術。


《想像界》《象徴界》《現実界》の3界同時表示の作品。

気体美術。

 


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

Customization 
クラシカルヴィトンのバッグを川久保玲がカスタマイズ
芸術化させたデザイン

パピヨン26は3つの動物のチャームをつけたタイプ。



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《想像界》の眼で、《超1流》、真性の芸術。

《象徴界》の眼で、《超1流》から《7流》の重層的表現、真性の芸術。

《現実界》の眼で、《超1流》、真性の芸術。


《想像界》《象徴界》《現実界》の3界同時表示の作品。

気体美術。



 


ミニ・スピーディはバッグを持つハンドルを合計8つつけた
手のひらよりも少し大きめ位のスモールサイズのバッグ。

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《想像界》の眼で、《超1流》、真性の芸術。

《象徴界》の眼で、《超1流》から《41流》の重層的表現、真性の芸術。

《現実界》の眼で、《超1流》、真性の芸術。


《想像界》《象徴界》《現実界》の3界同時表示の作品。

気体美術。

 

 


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


Creation

川久保玲が一からデザインを行ったラインで、モノグラムの
キャンバスで出来たラウンド型とスクウェア型のそれぞれに
ヌメ革のロングハンドルを施したデザイン。

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《想像界》の眼で、《超1流》、真性の芸術。

《象徴界》の眼で、《超1流》から《41流》の重層的表現、真性の芸術。

《現実界》の眼で、《超1流》、真性の芸術。


《想像界》《象徴界》《現実界》の3界同時表示の作品。

気体美術。

 

 

 




party-bag.jpg



《想像界》の眼で、《超1流》、真性の芸術。

《象徴界》の眼で、《超1流》から《41流》の重層的表現、真性の芸術。

《現実界》の眼で、《超1流》、真性の芸術。


《想像界》《象徴界》《現実界》の3界同時表示の作品。

気体美術。


どれも凄いけれども、最後のCreationの2点が、

おとなしそうに見えて、《41流》を持つ重層表現であるのが、

さすがである。

凄い実力!

 

さて、最後に、村上隆のルイヴィトンのバックを復習しておこう。

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《想像界》の眼で、《13流》、デザイン的エンターテイメント。

《象徴界》の眼で、《13流》、デザイン的エンターテイメント。

《現実界》の眼で、《13流》、真性の芸術。


《想像界》の作品。

液体美術。


《13流》というのは、お笑い喜劇漫画など領域である。

 mmurksp040.jpg

村上隆の顔である。

《想像界》の眼で、《13流》

《象徴界》の眼で、《13流》

《現実界》の眼で、《13流》

《想像界》の人格。

液体人間(=近代人)。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

村上隆の作品である。

《想像界》の眼で、《21流》、デザイン的エンターテイメント。

《象徴界》の眼で、《13流》、デザイン的エンターテイメント。

《現実界》の眼で、《13流》、真性の芸術。

《想像界》の作品。

液体美術。

 

《21流》というのは、エロの領域である。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

芸術の定義を素材論的に見れば、

素材的に時間的に耐久力のあるものが、

歴史的には芸術とされて来た。

川久保玲のデザインワークは、素材論や形式論的には、

芸術ではないし、

そしてまた【ユング的集合無意識】の視点で見ても芸術ではない。

しかし【フロイト・ラカン的位相からの芸術分析】で見ると、芸術であるし、

その芸術力の実力は、村上隆を遥かに超えるものをもっている。

■川久保玲と「H&M」とのコラボレーション

http://www.movement.cc/blog/archives/2008/04/03-192934.php

H&M というのは

ウェーデンネス・アンド・モーリッツ (Hennes & Mauritz) が展開する

ファッションブランド

低価格かつファッション性の高い、高級指向の顧客もターゲットとした服で、

世界的に人気を集めている。

「H&M」が発表したプレス・リリースによると

「川久保玲氏は
我々がコラボレーションをお願いしたいデザイナーのリストの中で
常にトップにありました。今回ようやく彼女から了承をもらうことが
出来て非常に嬉しく思うと共に期待感でいっぱいです」とのことです。


これに対して川久保玲は、次の様に答えている。「私は常にクリエーション(創造)とビジネスとのバランスを、興味深く考えてきましたが、それはジレンマでもありました。そして、これまでは常にクリエーション(創造)を最優先事項としてきました。今回の試みはそれを解決するいい機会であり魅力的な挑戦だと考えています」


川久保玲と村上隆を比べると、川久保も村上も、共にクリエーションとビジネスのバランスを問題にしたアーティストであり、共に世界的成功をしたと言える。

クリエーション(《超1流》/《41流》)とビジネス(《7流》)のバランスを考えるという思考は、日本の旧・現代美術の作家にも評論家にも無かった視点である。旧・現代美術に属する私は、洋画商史を調べるなど近代という時代構造の中でのギャラリーについては考える事をして来たが、ギャラリーを超えて、ビジネスとクリエーションのバランスと言った思考はしてこなかったのである。

私の川久保玲を本格的に知るきっかけは、大変に遅くて、1999年の東京都現代美術館でのファッション展身体の夢 ― ファッション OR 見えないコルセット』まで、待たなければならなかった。

ここでの川久保玲の創造性と芸術性は傑出していたのである。


川久保は、クリエーション(《超1流》/《41流》)とビジネス(《7流》)のバランスを考えながら、しかしクリエーションを優先して来たと語っているが、村上隆の作品展開は逆に見える。
村上隆は、ビジネスを優先して来ている様に見えるのである。

村上が、今まで通りに、ビジネスを優先して《13流》路線を続ける事で、果たしてこの激動の時代を生き残りえるのだろうか?

率直に言って、私は無理であると思う。驕れる者久しからずただ春の夜の夢のごとしという平家物語冒頭の句は、永遠の真理である。夢の様に消えたとしても、しかし村上隆の作品や歴史的な意味がゼロになる事は、決して無い。それは歴史として残るのである。村上隆は日本の現代アートに於け野茂英雄 であって、そのアメリカ進出の果敢な投機精神は高く評価されなければならない。そして日本の常識=【ユング的集合無意識】の外に出て行った事でのアメリカでの成功は、偉大な事業であった。

ここにおいて、芸術論や制作論そのものが大きく変貌したと言える。

その変貌の基本は、クリエーション(《超1流》/《41流》)とビジネス(《7流》)のバランスを考える思考である。
どういうバランスを見いだすにしろ、このバランスを思考しないアーティストは、社会的には退場するしか無い時代になったのである。

スリットカッターの女性が、自己を見つめ過ぎている様に、日本の現代美術や現代アートの多くのアーティストは、自己を見つめ、自己の中に自閉している。評論家も同様である。しかし、これらの人々を取り残して、時代は動いて行くと、私には見える。

時代はクリエーションとビジネスのバランスを基盤とするものに変わったのである。

《超1流》/《41流》 と、《7流》のバランスである。

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