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【アストラカン】 [obsolete]

『「服なんかいらない」
「お前にはセーターしかないんだろう?」
 わたしは返事をせずに、父から離れて婦人服地をならべているほうへ行った。父は店の奥に勝手に行ってしまった。
 アストラカンのまがいものや、純白のオーバー地や、ウール、ジャージイ、ドスキンなど高価な婦人服地が蛍光灯のともった店内に、ひっそりと美しく並んでいた。等身大のマネキンが、青白く光らせた肩から腰にかけて真赤なタフタをまきつけていた。』
(「挽歌」原田康子、昭和32年)

「アストラカン」astrakhan とは元来、ロシアのアストラカン地方に生息する小羊の毛皮のこと。引用文に“まがいもの”とあるように、流通していた多くのアストラカンは、本物に似せたパイル織りの布地で作ったオーバー。服飾用語は難しいが、パイル織りとは地糸に別の糸を織り込んで輪奈(極小の輪っか)を作ったり、その先端をカットしたもの。例をあげれば、厚手のタオルやコール天のようなもので、厚みがあり軟らかく保温性もあるので、オーバーなどに仕立てられた。
当時は服飾ブームで、この「挽歌」にもそうした言葉が数多く出てくる。引用文でいうと、ドスキンとは繻子ラシャともいわれ、男の礼服などにつかわれる生地。タフタとは、絹や化繊でできた薄地の織物で、イブニング・ドレスの素材などとして使われる。

「挽歌」が大ベストセラーになった要因は三つある。まず、ヒロインの時代を先取した自由で自分に正直な生き方。つぎに、みんなが大好きな不倫ストーリー。そして舞台が当時、今以上にエキゾチックかつロマンチックだった北海道(それも大自然ではなく函館、釧路、札幌といった都会)ということ。この小説のおかげで北海道には第一次の観光ブームが訪れたとか。原田康子はこの「挽歌」で、年上の妻帯者に思いを寄せる兵藤玲子という純粋で、行動的で、感情的で、現代的な、というように単なるアプレゲールを超えた新しいヒロイン像を作ってみせた。
その年、五所平之助監督、久我美子、森雅之主演で映画化された。
また、この作品で女流文学賞をとった原田康子も超売れっ子作家となり、「才女の時代」という流行語まで生まれた。


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【半鐘】 [obsolete]

『ふと、右手の空が赤く燃えているのに気がついた。
 火事であった。
 …………
 そのうちに半鐘が鳴り出し、町はにわかに騒々しくなった。人が駆け出し、消防自動車も非常ベルをガンガン鳴らして走って行った。』
(「青い山脈」石坂洋次郎、昭和22年)

「半鐘」hansyou は鉄製の釣鐘。寺で見かけるあの釣鐘のミニサイズ(50センチ前後)だと思えばいい。いま競輪で使われている最後の一周を告げる“ジャン”はまさに半鐘ではないか。大方は火の見櫓(これも廃物)という木や鉄の梯子の最上部の櫓部分に備え付けられ、監視者が火事を発見すると木槌で半鐘を打ち鳴らし、四方に火事であることを伝えた。半鐘も火の見櫓も江戸時代からのもので、昭和30年代には街中でも見かけることができた。やがて建物の高層化と消防署の充実により、その姿を消していくことになる。
♪ おじさんおじさん 大変だ どっかで半鐘が鳴っている 
と、美空ひばりが「お祭りマンボ」で歌っている。
冒頭の“引用”で気になるのは「消防自動車も非常ベルを」というところ。サイレンではなかったのだろうか。サイレンのことを非常ベルと書いたのだろうか。昭和30年代はサイレンはサイレンでも手動式。消防車に乗った隊員がそのハンドルを回していた。音が大きくなったり小さくなったり。あの“勇姿”に憧れた子供も少なくなかったのでは。

昭和22年6月より朝日新聞に連載され、のちにベストセラーとなった「青い山脈」は石坂洋次郎の代表作。戦後の学園ドラマのバイブルといってもいい。
終戦から2年を経ずして書かれた、地方の高等女学校を舞台としたこのドラマは、日本の新しい流れが旧習を洗い流していく爽快感をもって読者に受け入れられた。その中心にあるのが男女交際、つまり“恋愛”という永遠のテーマで、作者はその理想のかたちを描いてみせた。新子と六助、島崎先生と沼田医師。どちらの女性も当然のごとく自己を主張する。男どもはタジタジである。平たく言えば男女同権、いや女尊男卑の関係こそありうべき姿と作者は言っている。もちろん現実は延々と続いてきた男尊女卑で、昭和20年8月15日を境に変わったわけではなかった。だからこそ、作者はその正反対を描くことで、バランスをとろうとしたのかもしれない。あれから60年、現在はどうだろう。
もうひとつ、戦後間もないこの時期にこれほどのパワフルな青春ストーリーが出てきた背景には、戦前「暁の合唱」や「若い人」を世に出した石坂洋次郎が、戦争の激化につれてその自由主義的な内容が右傾勢力から疎まれ、書きたいものを書けなかったという事情があった。戦後その抑圧から解放されると同時に、作家の情熱が一気に吹き出した。それが「青い山脈」だった。
「青い山脈」は昭和24年に作曲・服部良一、作詞・西條八十、歌・藤山一郎、奈良光枝でレコーディングされ、同時に今井正監督により映画化された。いずれも大ヒットとなった。


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It's A Sin To Tell A Lie [story]

♪ 憎い悔しい許せない
  消すに消えない忘れられない
  尽きぬ 尽きぬ 尽きぬ女の 怨み節

  真っ赤なバラにゃトゲがある
  刺したかないが刺さずにゃおかぬ
  燃える 燃える 燃える女の 怨み節
(「怨み節」詞・佐藤純弥、曲・菊池俊輔、歌・梶芽衣子、昭和47年)

梶芽衣子のデビューは昭和40年。まだ本名の太田雅子で、日活の映画、TVで吉永小百合や松原智恵子の流れをくむ青春スターとしてスタートした。しかし、見ていてなにか違和感があった。まず暗く若さがない。そのくせ向こうっ気が強そうで屈折している。しかし、風は梶芽衣子に吹いた。日活の青春路線が行き詰まり、ニューアクションと呼ばれる路線に転換。そこで「野良猫ロック」シリーズでアブナイお姐さんが当たり役となる。さらに、日活がポルノ路線に転換すると、東映へ移籍。もう梶芽衣子のイメージは固まっていた。「怨み節」は移籍第二作「女囚さそり 701号」の主題歌。結局「さそり」シリーズは4作まで作られることになる。作詞の佐藤純也は同シリーズ3作までの監督。
梶芽衣子の歌はあまりにも「怨み節」の印象が強すぎて、他が聞こえてこないが、シングル12枚、アルバム10枚を出している。その中で八代亜紀の「舟唄」をカバーしてるようで、ぜひ聴いてみたい。

まったく、あのクソ親父ときたら。カレシと遊び行って帰ってきたら大事件勃発。
親父が警察に捕まった。なんでも朝の駅で女子高生の頭を殴ったらしい。相手は17歳。わたしと同い年。それを訊かされたときのわたしの第一声はいつもの親父に対する口癖、
「ばかじゃないの?」

殴られた女子高生が騒ぎ、駅員が警察に通報して即逮捕。その女子高生がかなりゴネたらしいのだが、結局慰謝料を払って示談が成立。留置されることもなく、親父は母に連れられて帰ってきた。母は家へつくなり泣きっぱなし。「もう外も歩けない。情けない……」だって。いつも冷静な兄貴は「まあ、痴漢で捕まったんじゃないだけましなんじゃないの。仕事や家庭のことでストレスが溜まっていたんだろう。おまえも迷惑ばかりかけてんじゃないぞ」って、わたしにとばっちり。

で、親父の弁解。
「魔がさしたんだよなぁ」
〈オイオイ、痴漢じゃないだろ?〉
「電車に乗ろうとしてたんだ。ドアが開いたとたん、その娘が勢いよく降りてきてお父さんにぶつかったのさ。それでお父さんすっとんじゃって……。昔はあんなじゃなかったのになぁ。あれぐらいで倒れるようなヤワなからだじゃなかったのに……」
〈いいから、先、続けろ〉
「それで、彼女がそのまま行こうとしたから。『キミ、ちょっと待ちなさい』って呼び止めたんだ。そしたら彼女が振り返って『うっせえんだよ! クソジジイ!』って怒鳴り返してきてね」
〈ありがちだね。それで?〉
「なんだかなあ。あのひと言で訳分からなくなって……。気づいたら彼女が、『殴られた!』って喚いてんだ。そして、傍にいた40歳ぐらいの男がお父さんの腕を掴んで、『おい、自分の娘ほどの子を殴ってどうするんだ』って言ってるんだ。でも、殴ったことまるで覚えてないんだよ。だってさ、おまえのことだって殴ったことないだろ?」
〈そりゃそうだわなぁ……〉
「お父さん、生まれてこの方、殴られたことはあるけど人を殴ったことなんか一度もないんだ。だから……、殴ってないと思うんだけどなあ……」
〈なら、なんで認めちゃうわけ?〉
「警察連れて行かれてさ、優しい刑事さんが言うわけ。『だいじょうぶ大したケガもしてないし、ここは相手に誠意をもって謝罪すれば大事にはならない』って。でも、殴ったつもりはないんです、って言ったら『困ったなあ。そうなると、2週間ほどここに泊まってもらわなくちゃならなくなるよなぁ』って。そりゃないもの」
〈根性ねえぇ……〉

そんなわけで、先日、親父と母はその女子高生の家へ改めて謝罪に行き、額を畳にこすりつけるばかりに謝って、そのうえ示談金を払ってきたらしい。会社には親父から申告したらしいんだけど、起訴されたわけでもないし、即日釈放されてるってことで、どうやら不問になったようだ。はじめは落ち込んでいた親父も、最近ようやく冗談もでるようになった。あたしも、門限破りで11時頃帰ると親父に軽く怒られるんだけど、そんなときは「やべ、殴られるかと思った」なんて言ってやるんだ。親父笑ってるけど顔こわばってる。あれやこれやで、一件落着、また元通りの生活に……って、そううまくはいかないんだな。納得いかない人間がここにひとり。

どうしても彼女の口から本当のことが聞きたい。で、もし親父の言ってることが正解ならば、一発かましてやりたい。だって、パンチの料金はすでに前払いしてあるんだからね。
わたし、高校では陸上部で短距離やってるんだけど、腕力にはやたら自信あり。なにしろ、ベンチプレスで40キロ上げるのは、女子でわたしだけなんだから。

彼女の住所は母親のメモを見てゲット。N学園っていう女子校に通ってることが判明。N学園には中学時代の友だちがいるので、さっそく情報収集。で、分かったのは相当なワルってこと。噂では男とつるんで恐喝まがいのエンコーやってるって。それでも、学校内では面倒見がいいらしく、リーダー格で人気者らしい。まあ、そんな細かいことはどうでもいいんだ。早い話、彼女がワルだってわかればそれで十分。こっちの闘志が湧いてくるから。

その日、わたしは学校を休んで、友だちから借りた派手な洋服を着て、メイクもバッチリ決めて、彼女の自宅のあるT駅で待っていた。
「あの、桜庭さんですよね?」
彼女は、見ず知らずの女から話しかけられて怪訝な顔をしていた。わたしは、ぜひ相談したいことがあるからと言って、近くの公園へ誘った。彼女は「用事があるから、できるだけ短めにね」と多少迷惑そうだったが、公園へ着いてきた。

ベンチに座ると、わたしは電車の中で痴漢にあって困っていること、それを友だちに話したら、「N高の桜庭さんに相談してみたら」と言われたことを話した。彼女が「その友だちって誰よ」って訊いてきたので、それをはぐらかすのに苦労した。
わたしは、相手の住所をつきとめたので、警察に訴えようと思っているのだけどどうだろうと相談した。すると彼女は、
「警察へ行く前に、あたしの友だちに話つけてもらってやるよ」
だって。わたしは内心「よしよし」と思いながら、
「話っていいますと?」
「慰謝料もらうんだよ。あんただって、さんざんやられたんだから、そのぐらいもらわなくちゃ合わないだろ?」
「えっ!? そんなことできるんですか?」
わたしが無知を装うと、ついに彼女は体験談を話し始めた。
「駅でムカツクオヤジがいてさ、……」
やっぱり、親父は殴るどころか、彼女のからだに指一本触れてはいなかったのだ。
「やっぱりわたしにはそんなことできません」
「なんだよ、あんたから相談してきたんじゃない」
「だって、それって犯罪じゃないですか」
「うっせえんだよ。なら、はじめから言ってくんじゃねえよ」
その悪態に反応するかのように、わたしの右パンチが彼女の顔面を直撃した。ベンチから転げ落ちた彼女は、相当痛かったらしく、しばらくは顔を押さえたまま身動きもしなかった。ちょっと心配したけど、そのうち「なにすんのよぉ」小さい声でつぶやいた。

するべきことをし終えたわたしは、彼女を置き去りにしていった。公園を出るとき振り返ると、ベンチで顔にハンカチをあてて悄然としている彼女が見えた。わたしはなんだか、今晩、親父と顔を合わせたら、理由もなく「ばかじゃないの?」と言ってやりたい気持になっていた。


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【周旋屋】 [obsolete]

『釜ヶ崎周辺には、怪し気な周旋屋が沢山ある。香代はアパート探しを口実に、そのうちの一軒と親しくなり、主人の岡本に若干の金を与え、登記所を調べさせた。驚いたことに、抵当は綺麗に取れている。家の名義人は香代美沙緒であった。香代はこの家で千五百万円ほど借りていたのである。美沙緒は千五百万円もの大金をどうしてつくったのだろうか。』
「背信の炎」(黒岩重吾、昭和39年)

「周旋屋」Syusenyaとは取引つまり“買いたい人”“売りたい人”の仲介に入って話をまとめ、手数料を取る商売のこと。現代風にいえば、エージェントとかブローカーというところ。“周旋”は「とりもつ、世話をする」という意味で、“斡旋”と同義。
“引用”にあるように、不動産の仲介は当時から最もポピュラーな周旋業だった。そのほか結婚紹介所とか、旅行代理店、広告代理店と周旋業花盛りの現代。楽天やライブドアあるいはアマゾンなどは時代の最先端を行く「周旋屋」だろう。
“引用”では「周旋屋」に“怪し気な”という修飾語がついているが、今も昔もそうしたイメージがつきまとう。

自らの会社を破産させた香代達男は失踪し、断崖絶壁に立ち尽くす。しかし身を投げるのを思いとどまり、偽装自殺をして街へ舞い戻る。それは10歳も離れた妻に不貞の匂いをかぎ、会社の倒産に見えざる力を感じたからだった。香代は“引用”にあるような調査をしたのち、確信をもって自らの家の天井裏へ身を忍ばせる。そこで、妻と部下との愛欲シーンを目撃し、さらにふたりの会話から会社の倒産が仕組まれたものであることを知る。香代は部下を殺し、妻を縛り目隠しをして犯す。“強盗”に犯されている妻は、かつて自分との行為では見せなかったほど身もだえる。そのことの虚しさに香代は妻を殺すことをあきらめ、あの断崖へと戻っていくのだった。
天井裏から情事を目撃したり、妻を目隠しして犯したりと、猟奇的要素を多分に含んだ復讐劇。
昭和35年「背徳のメス」で直木賞を受賞した黒岩重吾は、30年代後半から40年代にかけて風俗小説で多くの読者を獲得した。黒岩重吾の小説にはどこか翳りがあるが、それは過酷な戦争体験、そして戦後の浮沈の激しい生活(「背徳のメス」の舞台となった釜ヶ崎での生活)に根ざしているといわれる。50年代になると、突き抜けたように「落日の王子・蘇我入鹿」など古代に材をとった小説を多作するようになる。
平成15年肝不全で死亡。享年79歳。


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【ロイド眼鏡】 [obsolete]

『「東京の人は、お上品じゃけん、そがいなこともあるまいが、わしらは、小麦饅頭やったら、十や十五は誰でも食いますらい。じゃが、二十から先は、ちいと骨が折れる。二十五が関所かいのう。のう、旦那はん?」
 と、坊主頭で、ロイド眼鏡の男が、勘左衛門氏に話しかけた。
(「てんやわんや」獅子文六、昭和23~24年)

「ロイド眼鏡」は太めの縁の丸眼鏡のことである。その名の由来は、アメリカの喜劇役者、ハロルド・ロイドが使用していたからとか、はじめはセルロイド製だったからなどの説がある。永井荷風がかけていたのがまさに「ロイド眼鏡」。
日本で「ロイド眼鏡」がはじめに流行ったのは昭和初期。エノケンの「洒落男」(昭和4年)に ♪ その時の我輩のスタイル 山高帽子にロイド眼鏡 という一節があり、“モボ”の必須アイテムだった。戦後になると「街のサンドイッチマン」(昭和28年、歌・鶴田浩二)で ♪ ロイド眼鏡に燕尾服 などと歌われ、おどけた格好の代名詞になってしまった。
同じ丸眼鏡に“ボストン眼鏡”があるが、つるとフレームの接点の位置が異なる。「ロイド眼鏡」がフレームの真ん中につるがあるのに対し、ボストン眼鏡は上部についている。
眼鏡の流行もうつろいやすく、全盛をほこった小さなフレームの後は何がくるのか。

「てんやわんや」は四国宇和島が舞台。獅子文六一家(夫人と娘)が疎開していた湯河原から夫人の郷里である四国へ移ったのは終戦直後。当時の住宅難、食糧難によるところが大きかったのだが、当の獅子文六にも遠方へ逃避したいという心境があったようだ。転地先は、自然環境、人間環境ともに居心地がよかったようで、2年近く滞在することになる。帰京後間もなく新聞小説として連載された「てんやわんや」だが、作者は「気持ちよく書けた作品」と、感想をもらしている。
そもそも「てんやわんや」とは、『慌て大騒ぎすること』という意味で、笠置シヅ子の「買いものブギ」(昭和25年)にも♪ てんやわんやの大騒ぎ と歌われている。また、昭和30年代から40年代にかけて人気を博した東京漫才「獅子てんや・瀬戸わんや」は獅子文六の「てんやわんや」から命名したものだろう。
小説家は死に、漫才師も亡くなり「てんやわんや」もまた廃語になろうとしている。


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【ズルチン】 [obsolete]

『「ほんとにドッグさんときたら、犬にしても、よっぽど臆病犬だわよ」
 と、じれったそうに、彼女は私を罵(ののし)ったが、私はズルチンの渋さが舌に残るコーヒーを、飲みこんで、返事をしなかった。』
(「てんやわんや」獅子文六、昭和23~24年)

「ズルチン」dulzin は人工甘味料のひとつ。人工甘味料とは食品に甘みを加える添加物のこと。通常甘みはサトウキビや砂糖大根からとれる砂糖、蔗糖が使われるが、人工甘味料はそれらの数百倍甘いといわれる。「ズルチン」はフェネジチンや尿素といった化学物質を加熱してつくられる。砂糖が欠乏した戦中・戦後には、その代用品として広く使われた。その後、発ガン性が指摘され昭和43年に使用禁止となった。
「ズルチン」と同様砂糖の代用品としてもてはやされたのがサッカリン。これも微量で甘みが得られることから随分使われた。現在もチューインガムや漬物などに使用されている。

終戦になり、ドッグこと犬丸順吉は戦前書生として仕えていた翼賛代議士の鬼塚玄三を訪ねる。戦犯になりかねない代議士は犬丸に、お前も危ないからと四国へ身を隠すように命令する。しぶしぶ従う犬丸だったが、行き先は食糧難もなんのその、上げ膳据え膳のたいそうな料理に酒までついて……、というその地方の長者の屋敷だった。
「てんやわんや」は主人公・犬丸順吉の終戦直後一年間の漂流奇談である。
長者の子供たちの家庭教師になった犬丸は、村人からも「先生、先生」と呼ばれ、すぐにうちとけていく。その後、“ヤミ”で儲けたり、選挙に巻き込まれたり、「四国独立」を唱える人物と出会ったり、東京から代議士と以前犬丸がプロポーズした女性が同伴でやってきたり、それこそてんやわんやの生活が繰りひろげられる。
そんなある日犬丸は村人から「遠足へ行こう」と誘われ、いまだ敗戦も知らないという山中の村へ連れて行かれる。そこで「古典的美人」アヤメと一夜をともにすることになる。屋敷へ帰った犬丸だったが、アヤメのことが忘れられない。寝ても覚めてもアヤメのことばかり。ようやく、山中の村へ行ったとき、すでにアヤメは他村へ嫁いだあとだった。そして、四国が大地震に見舞われた三日後、落胆の犬丸は東京へ帰るのだった。
最後に作者は、「これ以上バカバカしい一年は、ありますまいよ」と結んでいるが、どうして、読者にとっては、竜宮城か蓬莱峡かという、うらやましい夢の一年のように思える。
「てんやわんや」は昭和23年から24年にかけて『毎日新聞』に連載された。当時はたいして評判にならなかったが、その後文庫本になったからよく売れるようになったとか。


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The Way We Were [story]

♪ 木枯らしにふるえてる 君の細い肩を
  思い切り抱きしめて みたい けれど
  今日はやけに君が おとなに見えるよ
  僕の知らない間に 君は 急に
  時のいたずらだね にが笑いだね
  冷たい風がいま 吹き抜けるだけ
(「時のいたずら」詞、曲、歌・松山千春、昭和52年)

松山千春は昭和52年1月「旅立ち」でレコードデビュー。「時のいたずら」はその10カ月後の同年11月に3枚目のシングル(「白い花」とカップリング)として発売された。同じ11月には、新宿厚生年金会館小ホールでコンサートを行っている。これが道外での初めてのコンサート。北海道では知る人ぞ知る松山千春が全国区になるのは、その翌年53年8月に出した「季節の中で」の大ヒットによって。昭和53年といえば、キャンディーズが解散し、それに代わるかのようにピンク・レディーが大ブレイク(「UFO」がレコード大賞)した年。
いち時中年太りが著しかった松山千春ですが、さいきんTVで見たらずいぶんスマートになっていた。一念発起してジムにでも通ってるのでしょうか。でも、くれぐれも長渕剛みたいなマッチョにはならないでほしいものです。

今さら言うのも何だが、人と人との出逢いというのは不思議なものだ。

私が中学3年のとき、佐伯清が転校してきた。きっかけが何だったのか、いまとなっては記憶の底だが、とにかく私と彼はお互いに家を往き来するようになった。多くの家がそうだったように私の家も貧しかった。そんな時代だった。だから私は、疑うこともなく中学を出たら働くつもりだった。それが、無理をしながらでも高校、大学へ行こうと思ったのは佐伯の影響だった。もし、彼が私の住む町へ引っ越してこなかったなら、私の人生はまるで違ったものになっていたはずである。

私が初めて佐伯の家へ行ったとき、そこで会ったのが彼の妹・涼子だった。私たちより4つ下の小学5年生。白のブラウスにピンクのカーディガン。それに薄いチェックの紺地のスカートとブルーの靴下。その時の服装のディティールまではっきりと覚えている。
「コイツ、涼子だ。可愛がってやってくれ」
と佐伯のぶっきらぼうな紹介に、硬い表情で、両手を前で揃えて「涼子と申します」と小さな声で頭を下げた。その所作が大人びていてとても可愛いかった。そして、おかっぱの下の切れ長で、その名のとおり涼しげな瞳に不思議な衝撃を受けて、私は返事の言葉すら出てこなかったこともよく覚えている。
佐伯は妹のことをとても可愛がっていた。だから涼子は私たちといつも一緒だった。図書館、プール、スケート場、野球場……。

次の年の春、私と佐伯は別々の高校へ入った。

それから2年後、私が17歳になった夏、佐伯が突然死んだ。ラグビー部の夏の合宿中、心臓マヒで倒れたのだった。彼の葬儀で久々に涼子に会った。少女の2年間というのがどれほどドラマチックなものか、それほど13歳の彼女は眩しく変身していた。そして彼の葬儀を終えて半年ほど過ぎた頃、佐伯家は何処かの町へ引っ越していった。

私は学資を稼ぐため1年間浪人して大学へ入った。そして4年生になり、なんとか卒業のめどが立ったとき、涼子と再会した。私と同じ大学へ1年生として入ってきたのだ。
売店で彼女と眼が合ったとき、はじめに気づいたのは彼女の方だった。もちろん私も髪の長いジーンズ姿の新入生が佐伯涼子であることにすぐ気づいた。
私たちはそれから、たびたび逢うようになった。はじめは佐伯清の思い出話だった。それが何度か逢ううちに、音楽や映画や小説といった、普通の若者同士の話題に変わっていった。キャンパス近くの喫茶店で話をする、ただそれだけのことだったのだが。

私は卒業し、化学薬品メーカーに就職した。そして富山県にある工場へ赴任することになった。東京を発つ前の日、なぜか急に涼子に逢いたくなった。雨の日だった。私はいつも待ち合わせた小講堂の前で彼女を待っていた。しかし、その日ついに彼女と逢うことはできなかった。

富山の社員寮に住む私の元へ、どこで調べたのか涼子から手紙がきたのは入社間もない頃だった。それから文通は2年あまり続いた。春の陽ざしが暖かくなってきたある日、彼女からいつものように近況を伝える手紙がきた。そして、文末に「何事も経験です。お見合いなんかしてみます」と添え書きがあった。私は「GOOD LUCK」と返事を書いた。

夏の暑さがようやく静まりはじめた頃、しばらくぶりに涼子から手紙がきた。そこには彼女が結婚を決めたことが短くしたためられていた。それが彼女からの最後の手紙だった。

それから4年が過ぎ、私は富山で結婚した。そしてその2年後、30歳になってようやく東京の本社へ戻ることになった。
東京の風は涼子の噂を運んできた。大学卒業と同時に結婚。そして2年前、ちょうど私が家庭をもった頃、ひとり娘を連れて嫁ぎ先の家を出たと……。

人生には望むと望まざるとにかかわらず、多くの偶然が用意されているらしい。

私は45歳の誕生日の前日の夜、涼子と三たび逢った。
そこは新橋の小さなバーだった。高校の同窓会から私と数人の旧友が流れ着いた止まり木のママが涼子だった。一目で分かった。20年以上の時を経たからといって、彼女の面差しを忘れるはずはない。生硬な若さから脱皮して、その美しさは最盛を誇っているようにさえ見えた。
それから、しばしば私は涼子の店に通うようになった。私は狂った。妻と子供を、家庭をそして仕事まで棄ててもいいと思った。すでに道半ばにさしかかった今、残りの半分の人生を涼子と生きてみたいと、まるで二十歳そこそこの青年のように思い詰めたのである。しかし、私が真剣になればなるほど、彼女は冷静になっていった。そして最後の晩、笑みをたたえて「もうここへ来ちゃだめ」と私を諭すように言ったのだった。

それから15年、私は仕事も辞めず、家庭も壊さず定年を迎えた。子供たちもそれぞれ独立し、やっとローンの払い終わった家には私と妻だけが残された。風の便りで涼子が2年前に亡くなったことを知った。
そして今年の夏、私もこの世に別れを告げることになった。もちろん、涼子の後を追ったわけではないし、彼女から呼ばれたわけでもない。しかし、彼女の死が私の中で、何かのピリオドを打ったことは確かだった。

その2年後、すでに死んでいる私を驚愕させる出来事が起こった。私の次男・祐介が、涼子のひとり娘・尚子と結婚したのである。ふたりはとあるパーティで知り合ったのだ。そのたった一度の邂逅でふたりは結ばれた。運命が最後にこんな偶然を仕掛けていたとは……。
私は尚子をはじめて見たとき、思わず落涙してしまった。まるで生き写しだった……。もちろん二人はお互いの父親と母親の接点など知りはしない。

すでに死んでしまい、無聊をかこつ私のいまの最大の関心は、若いふたりが、いつか何かのきっかけで私たちの過去を知り、不思議な縁を感じる日が来るのではないかということなのだ。
「ねえ、あなたもそう思いませんか?」
私はとなりで静かに笑っている涼子にそう訊ねてみた。


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【遠眼鏡】 [obsolete]

『半月ほどした、ある土曜日の午後のことである。冷たい風の吹くよく晴れた日だったが、Kは石灰山の中腹で、なにかきらっと光るものを見た。宇然の遠眼鏡が光ったのだろう、するととつぜんたまらなくなってきて、明日はどうしても宇然について山にのぼり、いっしょに遠眼鏡をのぞかせてもらおうと決心した。……』
(「鏡と呼子」安部公房、昭和32年)

「遠眼鏡」(とおめがね)、望遠鏡のこと。「鏡と呼子」が書かれた時代、まだ「遠眼鏡」と“望遠鏡”の2つの言葉が共存していた。
望遠鏡の歴史は17世紀初頭まで遡る。ガリレオが自作して天体を観測したのはよく知られている。日本へは徳川家康の時代に入ってきたというから、当時としては短いタイムラグで伝播したようだ。他の物にもいえることだが、望遠鏡もまた戦争によってその性能が飛躍的に向上したといわれる。
いま、望遠鏡といえば月や星を観察する天体望遠鏡をさすことが多く、廉価のものでも100倍程度の倍率がある。自然や遠方の事物を観察するのには双眼鏡が使われる。こちらは手持ちでブレない7倍前後が一般的で価格も数万円。なんでも100円ショップにも双眼鏡があるそうで、倍率は2.5倍だとか。そういえば、昔(今も)玩具の望遠鏡があった。あれも2倍程度の倍率だったのだろうか。ちなみにこの小説で宇然が使用しているものは、三段式で倍率は5倍。

Kはある村の学校に、教師として赴任した。その村は若者の家出を危惧する校長の思想、家出を監視する人間、そして村人たちの猜疑心の三つのもの、つまり三角形によって成り立っていた。Kは校長の斡旋で年老いた姉弟の家へ寄宿する。姉は綿羊を犬代わり連れて歩く老婆で、弟は毎日山にのぼり遠眼鏡で村中を監視している男・宇然だった。Kの同僚はKが校長と対立することを期待していた。Kもまた家出を促進する「家出相談所」を設置することまで考える。しかし、老婆がクルマにはね飛ばされて死に、その葬式に集まった多くの親戚から、他所者が徹底的に排斥されることを知る。そして、いつか自分が校長と同じように「家出亡国論」になりかかっていることに気づく。
タイトルの「鏡と呼子」は遠眼鏡で村を監視する宇然が、村人に異変を知らせるときの道具。「砂の女」でもみられる閉塞された共同体という設定は安部公房の得意とするところ。


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【丸首シャツ】 [obsolete]

『……太郎はサック・コートをぬいで草むらに投げ出すと、レールの間にうつ伏せに寝て、電車が轢いてくれるのを待っていた。意外にも、電車は背中の皮にも触れずに通りすぎて行った。保線工夫が太郎を抱いてホームへ連れて行くと、駅員にこんなことをいった。
「上着を着ていたらキャッチャー(排障器)にからまれて駄目だっただろう。丸首シャツにパンツだけだったから助かったんだ」』
(「母子像」久生十蘭、昭和28年)

「丸首シャツ」の丸首は襟の形であり、ここでは丸くえぐられた襟をした下着のこと。服飾用語で“丸首”はラウンド・ネックのことで、当然下着だけではなく、丸首セーターもある。丸首の下着は今でもあるが、ほとんど“Tシャツ”と言っているのではないだろうか。ちなみにTシャツのTはシャツ全体の形のことで襟のことではない。
男の下着に限っていえば、昭和30年代は襟の形で丸首のほかにいまでいうVネック(というよりUネック)があった。また、袖の形ではランニング、半袖、七分袖、長袖があった。子供はほとんど夏はランニング、冬は長袖だった。ついでにパンツにも触れると、これは猿股、いまでいうトランクスが多く、ブリーフが一般的になったのは30年代も後半ぐらいではなかったか。そのほか、冬は股引もかかせなかった。下着のシャツにしろパンツにしろ、男物は素材や色づかいが変わってきているようだが、かたちは昭和30年代とくらべてさほど変化がない。変えようがないか。

「母子像」は終戦間際サイパンで母親から殺されそこなった少年・太郎が、“自殺”するまでの話。太郎は幼いころから美しい母親に魅かれていた。自決のため紐で首を絞められるときも、嫌われたくないので嬉々としていたほどだ。瀕死の状態で米軍に助けられた太郎は、戦後日本の施設で教育を受ける。しかし、やはり生き残って銀座でバーをやっている母親をつきとめ、花売り娘になりすまして訪ねる。しかし、母親の性行為中の声を聞いて“マリア像”が崩壊する。冒頭の引用は、太郎が自殺しようと線路に横たわり失敗する場面。
結局焼身自殺にも失敗して補導された太郎は、警官の拳銃を盗み発砲する。しかし反対に他の警官から打ち抜かれてしまう。
久生十蘭はフランスで演劇を学んだ後帰国、昭和12年に書かれた「魔都」によって探偵小説あるいは推理小説作家としての地位を築いた。しかし、作品は時代物、幻想小説、ノンフィクション、純文学と多岐にわたり、その博識とストーリーテラーぶりで異彩を放った。昭和26年、「鈴木主水」で直木賞を受賞。「母子像」は読売新聞に掲載され、世界短編小説コンクールで第一席になった作品。


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【荒物屋】 [obsolete]

『知子には突然、慎吾と暮らした過去の様々な部屋が一挙に思い出されてきた。
 中央線の郊外の欅(けやき)の並木のある街道筋に面した荒物屋の、坊主畳の離れ。駅前商店街の真中の中華そば屋の、かしいだ二階……
 荒物屋では、はじめて慎吾が酔って泊まっていった。……』
(「花冷え」瀬戸内晴美、昭和38年)

「荒物屋」はホウキやチリ取り、ザル、籠などの家庭用品を扱う商店。他にタライや洗面器、刃物、釘など金属製品を扱う金物屋、たわし、ちり紙、柄杓、洗剤などを扱う雑貨屋といった専門店があった。しかし、こうした店の領域というのは当時からあいまいで、「荒物屋」が金盥を扱うこともめずらしくなかった。近年、そうした傾向はさらに顕著になっている。ある「荒物屋」の取扱商品をみると“雑貨、家庭用品、金物”と明示されていた。現在は雑貨店といったほうが聞こえもいいのだろう。かつては町内に必ず一店舗はあった「荒物屋」もいまはスーパーマーケットに追われて姿を消したところが多い。、「荒物屋」で扱う商品は、決して洗練されていないが、生活には欠かせない、値段も手頃な日用品という感じがする。そうしてみると機能的なフォルムに清潔な素材の雑貨を揃えている東急ハンズなどに、「荒物屋」のにおいはしない。

「花冷え」は、「夏の終わり」からはじまり「みれん」、「あふれるもの」と続いた知子と慎吾の不倫ストーリーである。8年間にわたって妻子のある売れない小説家・慎吾は月の半分を染色家の知子の家で過ごす。その間知子は昔の男とよりを戻してみたり、ひとり旅をしてみたり、苦しみからの脱却をはかるが「愛よりも強くなってしまった(慎吾との)習慣」のため、別れることができないでいる。
それが“最終章”ともいえるこの「花冷え」で、知子は新しい家を買い、はっきり慎吾との決別を試みるのである。ラストシーンは、知子と慎吾が連れ立って小田原へ花を見に行くところ。見事な花盛りの中、慎吾と腕を組み歩く知子はようやく慎吾との長い旅の終わりを実感するのだった。
瀬戸内晴美が平泉中尊寺で得度し、法名・寂聴を得たのは「花冷え」を発表してから10年後のこと。


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