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大正100年:歴史に探る日本の針路 児童がつづった朝鮮人虐殺

 ◇「デマ」の事実、継承されず

 関東大震災から88年後の今月1日、横浜市南区の宝生寺に、喪服を着た男女50人が集まった。セミしぐれが響き、むせかえるような残暑の中、参列者が線香を手向けたのは朝鮮人犠牲者の慰霊碑。地震が発生した午前11時58分をはさみ、佐伯真魚(まお)住職(40)の読経は30分間続いた。

 関東大震災の後、日本人によって朝鮮人が虐殺されたことはよく知られている。「朝鮮人が襲ってくる」「井戸に毒を入れた」といった根拠のない流言が飛び交い、悲劇を拡大させた。横浜も虐殺の現場だった。同寺の法要は、震災の翌1924(大正13)年から毎年開かれている。

 当時、在日朝鮮人の同胞団体を主宰していた李誠七氏(故人)が、朝鮮人の供養をしてくれる寺を探したがことごとく断られ、宝生寺だけが引き受けたという。現在は在日本大韓民国民団(民団)が開催している。南区でも虐殺が記録されているだけに、佐伯住職は「この地で(法要を)行うことには意味があります」と話す。

 横浜市では、当時の小学生が震災の見聞をつづった作文が相次ぎ発見されている。南吉田第二尋常小学校(現南吉田小)の児童が書いた「震災記念綴方帖(つづりかたちょう)」はその一つで、556人の体験が収められている。

 書かれたのは震災の記憶も鮮明な12月後半ごろ。日本人が棒や刃物で朝鮮人を攻撃したり、川に投げ込むなど、虐殺の場面が生々しく記されている。

 また「朝鮮人が攻めてくる」といった流言におびえる気持ちを記した児童も多い。これらの作文は横浜開港資料館で閲覧することができる(手続きが必要)。

 虐殺の歴史を研究する中学講師の後藤周さん(62)は、南吉田小以外の「震災作文」を含め約700人分の作文を読んだ。虐殺の様子を記した作文に、被害者への同情をつづったものはほとんどないのが特徴という。「大人たちがデマを信じて虐殺したことを、子供たちは知らされていない。だから反省もない」と嘆息する。

 宝生寺の法要に参列した民団神奈川県地方本部文教部長の李相哲さん(49)は、「歴史教育の中で、しっかりと教えてほしい。風化させてはいけない」と語った。【栗原俊雄】

毎日新聞 2011年9月17日 東京朝刊

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