2011-09-06
群がる「親」という名の感謝乞食たち
|きゃあー、燃え上がってもうたわ
あれ、何か増田で場外乱闘状態になってる(笑)。まぁ、私が前回記事『自分が嫌われないために気を遣う人は、身内を潰す。』のコメント欄で書いた
>あなたが道を踏み外さず、これだけの文章を書ける真っ当な人間に育ったこと。
これは母の功績ではなく、私が自分で努力した結果で、私の功績ですので。
この部分がお気に召さない人がかなりいたってことだよね。これについては、私が以前書いた『「辛い経験は糧になる」という言葉に感じる違和感』の中に、私の気持ちが書いてある。
冗談じゃない。加害者がやったことはただのいじめだ。そこを乗り越えて立ち上がったのは被害者の功績である。こともあろうに加害者は、この言説によって、厚かましくも他人の功績を横取りしようとする。加害者ばかりでなく第三者が、「その人のおかげで今のあなたがあるってことなんでしょ」などと言う。
私自身、いじめや親の抑圧などを経験して、そこから色々考えるようになって、それは今の私の重要な要素のひとつになっていることは確かだが、だからといって、いじめや親の抑圧を肯定したりはしない。
自分の人生を肯定することと、自分がされたことを肯定することとは違う。
特に、オシムさんの
「悲惨な隣人殺しの戦争や艱難辛苦によって、現在のオシム監督が得たものが大きかったのでは?」
「確かにそういう所から影響を受けたかもしれないが……。ただ、言葉にする時は影響は受けていないと言ったほうがいいだろう。
そういうものから学べたとするならば、それが必要なものになってしまう。そういう戦争が……。」
(「オシムの言葉」より)
という言葉は、何かしらの「被害」を受けて、そこから何かを獲得してきた者にとっては、心に沁みる名言だと思う。
あと、私の文章能力については、父の遺伝によるところが大きいと思う。父の、絵が上手い、文章能力がある、数学が苦手といった要素は、兄弟の中で私に一番現れた。私自身、小さい頃から国語が得意で、読書が好きだった。
今回、コメント欄やトラバ先で、色々な人から「文章が上手い」と言われて、ちょっと嬉しかった(笑)。国語の成績は良かったとは言っても、自分じゃどれくらい文章力があるのかについては、客観的にはわからないからね。「あ、私もしかして、自分で思ってるより、文章能力あったの?」と思いました(笑)。
コメント欄では端的に「私の功績」と書いたけど、正確にはちょっと違う。強調したかったのは「母の功績ではない」ということ。
私は、人は「自分を産んだ人」ではなく「自分に『生まれてきて良かった』と思わせてくれた人」に感謝するものだと思っている。大抵の人は、親がその二つの要素を持っているから、親に感謝するけれど、私みたいな人間は、前者の人と後者の人が違う。それどころか、母に「死にたい」と思わされたしね。
私みたいな人間にとって、「自分に『生まれてきて良かった』と思わせてくれた人」は、親ではなく他人。友達とか学校の先生とかカウンセラーとか。親が精神的支えになってくれなかったどころか、精神的に搾取されてきた私にとっては、そういう他人の存在を精神的支えにして生きてくしかない。だから私は、自分に人生について教えてくれたり、自分の成長を助けてくれたり、自分に愛情を与えてくれる人は、皆私の「親」だと思って生きていくことにした。
だから、私自身が自分で立ち上がってきた、私の功績でもあるけれど、そういう「他人」のおかげでもあると思っている。私はそういう人たちには、本当に感謝している。
「子は親のみにて育つにあらず」とは言うけれど、本当にそうだと思う。どんなに良い親でも、完璧な親なんていない。子供は、色々な人と関わり合うことによって、親に欠けた部分を補っていくものだと思う。「子供は社会で育てるもの」という言葉は、そういう意味でも正しい。
ただ、私みたいな育てられ方をした者にとっては、この他人と関わり合うことすら難しくなる。何せ「他人に迷惑をかけてはいけない」と教え込まれているから。とにかく、他人への「迷惑度」を0に近づけることしか知らない。他人にどの程度甘えて良いのかがわからない。
あと、特に目上の人との接し方について、親から後で細かく「注意」を受けて育つので、そういう面倒臭いことにならないために、最初からなるべく関わらないようにするという行動パターンを身に付けてしまう。「私は、他人と上手く関われないんだ」と思い込まされる。他人に助けを求めないといけない立場なのに、他人に助けを求めにくい思考を植え付けられるんだよね。
幼稚園時代に一人で別の教室で絵を描いていた件については、担任の先生は私の両親に、「この子はとても良いものを持っていますよ。この子の個性を大切にして下さいね」と言ったそうだ。このエピソードは父から聞いた話だが、父はこれを聞いてとても嬉しかったという。父もまた『甘やかされているようで全然甘えられていない子供たち』で書いたように、色々と問題のある人だったが、子供たちの適性を見抜く目は的確だった。
私は後日、この話を母にして、「一人で絵を描いている私を見て、どう思った?」と尋ねた。「別に…この子はこういう子なんやなぁと思った」「じゃあなんで、私を『面倒見の良いお姉ちゃん』にさせようと思ったん?『こういう子』には、明らかに向いてないと思うけど」「そりゃあ…うーん…そやなぁ…」何とも的を射ない返事が返ってきた。
母は、そもそも相手の適性など見ておらず、自分の理想像を勝手に当てはめただけのように思う。結果、私の個性や長所を潰し、全く向いていない生き方をさせるという愚策に出てしまった。そもそも母は、父と結婚する時点で、この「相手の現実を見ず、自分の理想像を当てはめる」をやっていたらしい。後に父と母が離婚したのは、当然の結果と言える。
ちなみに、小学生以降は、そういうエピソードはない。まぁ、幼稚園時代にそうだったからといって、その後も全く同じままだとは限らないわけだからね。
文章やら、思考の多面性やらを「母のおかげ」とか言われたら、
むかつくのは、よくよくわかるので感情的には同意するけれども、
2ch的論争を想定すると、
「経済的その他には、まったく感謝していないとまでは言いません」(…が、しかし、そういう言い方をされるとむかつく、)
という一文で繋いであると、ガードが堅いかなぁ。
この「ガードを堅くする」というのは、つまりは「世の親たちの『子供を育てる苦労をわかって、感謝してほしい。ちゃんと育ったのは親のおかげだと言って欲しい』っていう要望に答えてあげる姿勢を見せていれば、叩かれなくて済んだのに」ってことだよね。
そんな要望に答えてあげる義理はないし、なんでよりによって「私」に要求するかね、って思うよ。これまで散々実の母に「お父さんもお母さんも働いてて大変なんやから、わかってよ〜」と言われて、罪悪感を植え付けられて、色々なもの押し付けられたのに。あの頃は、私は家の手伝いを十分にできていない、ぐうたらな子だと思っていたけれど、それは母の要求が高すぎただけで、今から振り返れば、私は自分にできる限りで、一生懸命母親を助けていたと思う。
だからもう、そういう親たちのご要望にお答えして差し上げるのは、いい加減うんざりなんだよね。親の苦労をわかって欲しければ、私以外の人に言って下さい。私はあなたがたのカウンセラーではありません。
私みたいな人間は、まず実の親から「わかってわかって」攻撃を受けて育つ。そして、こうして自分が親からされてきたことを語ると、また世の親たちから「わかってわかって」攻撃を受けることになる。わかって欲しい親たちから、群がられるんだよね、ハイエナみたいに。
まぁ世の中には、そういうことをしない、ちゃんとした親もいるんだってことは、知識としては知っている。ちゃんとした親たちは、私みたいな人間を見ると、何も要求せずに、黙っていてくれるんだろう。たぶん、そういう親たちがサイレントマジョリティで、わざわざ私に対して「わかってわかって」と言ってくる親たちが、ノイジーマイノリティなんだろう。
でも、私の立場から見れば、「わかってわかって」と要求してくる、感謝乞食な親ばかりを見ることになるんだよね。
まぁ、私に「親の苦労」や「親の気持ち」とやらを、ご親切にも教えたがる親御さんたちは、「あなたは、親になったことがないのでしょう。親の苦労や気持ちなんてわからないのでしょう。だから私があなたに教えてあげる」と思うのかもしれない。けれどそれなら、私だって「あなたは、アダルトチルドレンな私の母のやり口について知らないでしょう。私の母が、いかに私を誘導し、洗脳し、搾取し、私の人生を奪い取ってきたか、わからないのでしょう。それともあなた、私の母と同じタイプの人ですか」と言いたいね。
世間の人たちは、虐待というと、特にひどい親が、特にひどいことをすると思っているのだろう。自分はああいう親とは違う、まっとうな親なのだと思って、自分は大丈夫だと、勝手に安心する。
でも、虐待は誰でもする可能性があるものだ。なぜなら人間は、自分でも知らないうちに、あるいは良かれと思って、誰かを傷つけてしまうことがあるのだから。これが他人同士なら、大抵はその場限りのことで済む。しかし、これが親子だと、この関係が持続してしまう。
更に、人は誰だって、良かれと思ってしてあげた自分の気持ちを、相手にわかってほしいという欲望を持ってしまうものだ。「相手の立場に立って考える」とはよく言うが、これはとても難しい。
これが重なると、子供のためを思った行動で、子供を傷つけ続け、更に子供に対して、そういう親の気持ちをわかってくれと要求し、子供の気持ちを無視する親ができあがる。
親ならば誰しも、子供に対して、「感謝して欲しい」「尊敬して欲しい」「言うことをきいて欲しい」「苦労をわかって欲しい」「自分自身を、良い親だと思いたい」「子供にも自分を、良い親だと思って欲しい」という欲望を、多少は持ってしまうものだろう。虐待する親は、これらの欲望が特に強いだけだ。つまり、子供を虐待する親とまともな親との欲望の中身は、同じものなのだ。ただ単に欲望の程度が違うだけで。
だから、虐待を受けた子供に対して、つい言いたくなるこれらの言葉は、既にその子が自分の親から散々言われ求められた言葉であり、その子がそれまで必死で答えようとしてきた要求なのである。
世間には、「どんな親でも、子供を愛している」「親子は、いつかわかりあえるもの」という幻想が存在している。この幻想を強固に持っていたい人にとって、私のような存在は、自分の幻想をぶち壊し、見たくない現実を突きつける存在なのだろう。私はこういう幻想にしがみつく人を見ると、「この人は、児童虐待のニュースを見ていないのだろうか」と思う。おそらく、「見て」いるだけで、「考えて」いないのだろう。そして、幻想にしがみつく人ほど、実は虐待親のメンタリティに近い。なぜなら、幻想にしがみつく人は、現実の子供を無視し、子供に幻想を押し付けるからだ。
今の日本社会では、「今現在虐待されている子供を、どうやって助けるか」というテーマで語られることが多い。もう一歩、「虐待された子供が、どうやって立ち直るか」を考える段階まで進んで欲しいと思うのだが、これを考える上で二次被害は避けて通れない問題だ。
だが人々は、前者には熱心になっても、後者にはあまり熱心にはならない。なぜなら、前者はある意味、自分が善人でいられる話だが、後者は、自分が加害者になる話なのだから。自分の認めたくない内面を見つめる作業になる。
だが、「虐待は誰でもする」「私もする可能性がある」という視点に立たないと、虐待はなくならないだろう。
それにしても、前回の記事は、『相手のための気遣いと、自分が嫌われないための気遣い』について、「理屈はわかるけど具体例がほしい」という意見を頂いたので、具体例になる部分をいくつか抽出して説明しただけのものなのに、あのエントリに書いたことだけが、私が親にされた全てだと思ってしまう人がいるものなのだな。なんというか、見えない部分、書かれていない部分に対する想像力って、大事だよなぁと、あらためて思った。
自分が嫌われないために気を遣う人は、身内を潰す。→その通り! -自由人PENGの再チャレンジ日記-
トラバ頂いた。これはもう、まさしくその通り。私の記事とこちらの記事を、合わせて読んで頂ければと思う。
[追記]
続きを書きました。
- 313 http://b.hatena.ne.jp/hotentry/life
- 250 http://www.tumblr.com/dashboard
- 231 http://egone.org/entry/1315062180/
- 214 http://anond.hatelabo.jp/20110904145941
- 144 http://d.hatena.ne.jp/
- 142 http://b.hatena.ne.jp/hotentry?mode=general
- 136 http://www.lifehacker.jp/2011/09/110908_weekly_lifehack.html
- 120 http://egone.org/
- 118 http://b.hatena.ne.jp/hotentry/diary
- 87 http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/20110906/1315294215
今私は奮闘中でございます。
乗り越えた方がここにいる!それだけできっと多くの墓守娘の支えになりましたよ。
素敵なことです。ありがとう!それだけ書きたいです。
この文章から、yuhka-unoさんが、自分が何を批判されているのかを
全く理解していないことがよくわかりました。
親の呪縛から脱しても、新たなる強い先入観に囚われて、
物事をきちんと観れなくなるものです。
迷える若人の多が通る道ですが、いずれわかるでしょう。
何らかのアクションをすべきではないでしょうか。
「他人→自分」の話から発展して、
「自分→他人」のお話を聞きたいです。
はともかく、母上さまは娘の失敗に対して寛容じゃなさそうな人、という想像をしました。自分の行動(母→娘の躾)がどう見えるかを客観的に評価できないんですかね。
あと母上さまはyuhka-unoさんのことを、「すごく立場の低い人」に見てるんじゃないかなって気がしました。使用人とか。もしかすると奴隷くらい。だからそこで注がれる愛情(母上視点)は娘を無理矢理言うことを聞かせて世間体を保つためのもの、になりそうで…。
だからそんな望んでもいない愛情なんて注がれても娘としては嬉しくないし、そもそもそれは愛情じゃなかった、エゴだった、と気付いたことはすごい大事なんじゃないかと。
なんて思いながら昔自分が書いたエントリを思いだしてました。
http://gdleen.sugarstyle.net/?eid=1201434
とまぁ色々と想像だけで書き込んでしまいました。間違ってたらごめんなさい。
何その上から目線。
言いたいことがあるならはっきり言えば?
挙句に送り仮名足りないとか笑わせるの。
老害はさっさと退役してね?
そうですね。洗脳だと思います。
そして、「生んでくれた親に感謝しなければならない」「どんな親でも親子の縁は切れない」「育ててくれた親には恩を返さなければならない」「目上のことは敬わなければならない」「親が子どものためにする苦労は自分が親になればわかる」といったさまざまな『日本の美徳』は、親の洗脳から逃れようとする僕の心を幾度となく切り刻みました。
そういった美徳を振り切って親が自分を愛してくれていなかったことを確認する作業は、厳しい現実から目を背けない覚悟をしなければできませんでした。
僕の味方になってくれる人は誰一人としてなく、親からも愛されてない孤独な存在なのだと、そう確信するまで現実を冷静に分析することを止められませんでした。
虐待から逃れようとする被害者の子を苦しめるのは、『日本の美徳』だと思います。
ですから、自分が優しい人間だと信じている人ほど、虐待に苦しむ人にとって逆効果になることを言いやすいでしょう。
被害者からすれば、自分とは違って幸せに生きている人が上から目線でズレたことを言っているようにしか見えません。
ですが、幸せな人を責めるのはお門違いだとは、思っています。
自分が明確な不幸を味わってきたからこそ、そういう不幸の連鎖は無くなって欲しいと思います。
だけど、そのためには、美徳に流されないで現実を直視する必要もある、と思っています。
僕自身が洗脳されているときでも決して認められなかったエピソードがあります。
僕は幼い頃、千円札を拾いました。まだ小さかったので、交番に届けるつもりでした。
親は僕から千円札を取り上げ、生活費の足しにしました。
また、正月のとき、持っていたら無くすから預かってあげると言われて預けたお年玉も、生活費の足しになりました。
今では、僕は働いて稼いだ以外の不当な特別収入にあたるものは、全て寄付するようにしています。
僕が善人だからではありません。単に、人として親を認められないからです。
これらの行いは自分が洗脳から逃れるために自分のエゴでしていることです。
親に感謝しなさいと言っている人は、自分の善き行いが自分のエゴかもしれないと思い悩んだりすることがあるのでしょうか?
という疑問を、僕はどうしても抱いてしまいます。
本当に、善いことをするのは善い人間、とそう自分を正当化していないのでしょうか?
僕はハッキリ言えます。僕が誰かを助けようとしたり、誰かに共感したりしても、それは自分が救われたがったり理解されたがったり、昔の自分を救う代わりに似たような人を救うことで自分を癒そうという代償行為などが、行動の根本に何割か含まれます。
それが本当に相手のためになるならば、それはそれでいいと思います。
ですが、相手のためにならないのに自分は相手のためを思ってしていることだから、というのは、やっぱり傲慢だと思います。
このことは、親の子に対する姿勢にも通じるところがあるのではないでしょうか。
子を産んで幸せになりたいというのは、きっと自分が幸せになりたいからです。生まれる前の子の幸せを願う人は、きっといません。
実際に生まれてきて、それから自分のエゴと向き合いながら、子のために親が成長するのが、親の思いやりというものだと、僕は思っています。
本当の自分はこうなのに、という事を認めて貰えず違った像を押し付けられ、従わされる事は、単なる苦痛だと思います。
幼稚園の先生の一言に尽きると思います。
自己、自我の否定には誰だって反発します。自分に合わない靴を履かされて歩かされれば、痛くて、傷付きます。ぶかぶかであれば、常に足元を気にしてそーっと歩かなければならず、どちらにしても自分の速度では歩けない。お互いによくよく相手を知り、認め合って、相手の靴を肯定する。
貴方がそれを選ぶと、私の靴まで変に見えるから、なんて理由で相手を無視しての変更は駄目です。
子は親の奴隷ではない。生まれた時から個性を持ち、認められる存在。思い通りにはなりませんし、自分に都合よく働いてくれる召使いでも、親でもない。
こちらには大人に対する心構えがよく書かれているなぁと思いました。
己を見詰める。こころや欲求を知る、認める、自覚する。本心はとても不格好だと思います。駄々を捏ねる子供と同じ。でもその姿を、まず自分が見付けて、肯定してやらなければならない。親にはそういう気持ちも必要なのだと思いました。それから、自分の満足の為に、弱者から奪い取ってはならない。大人ですから。
記事に、というよりはブログに対する感想になってしまいました。ブログ主さまの書かれる文章、分かり易くて的確で、読み易いので好きです。これからも楽しみにしています。
おそらくは千人中千人がはまってしまうであろう、呪いの連鎖とも言える親からの思い込みの習慣連鎖を、自らの力で気付き、しかも文章にまでして明確に伝えていることに驚きました。
ここにくるまでにきっと何度も自分を責めたり、常識を疑ったり、葛藤の数々をしてきたんだと思います。
文章を読むに、元は他人を無下に扱えない繊細な方だと感じました。そんな方がある意味で肉親を淡淡と語るまでになるには、よほどの葛藤のバックグラウンドがあっただと感じました。
大抵の方は物事を深くは考えませんし、ましてや「そんなに優しかった人がそうなったのはどうして?」などと想像するのは欠片もしません。
私はyuhkaさんのこの記事は肯定側です。
親は子供を産めばなれるのではなく、ちゃんとした知識や勉強、経験が必須であると私は思っています。けど、それすらせずにただただ世間のいい加減な常識で他人を語り、的外れな倫理観を押し付けてくる人が多いのにはうんざりしますね。
記事の性質上、物事を深く考えられない人や脊髄反射の人には不評を買う記事だとは思いますが、ちゃんとわかってくれるまっとうな感受性の持ち主は確実にいると思います。
ただ、それだけが伝えたくて書き込みさせていただきました。
長文失礼いたします。
そんな親を許してあげられる自分になりないね。
自分も未熟な親なんだから・・・。
家は出ていますが、関わるたび、話すたびに嫌な思いをする(何でも否定・いつも仏頂面・命令口調等々)ので、葛藤の末、距離を置いてくれと言ったら「子どもは親の言うことを聞くもんだ!」と。社会人やって結婚もした30過ぎの娘に。たまりかねて今は絶縁状態。
春に子どもを産んだので、まわりは知らずに「ご両親喜んでるでしょう」などと言って来て、そんな普通の言葉にさえ後ろめたさを感じながら「そうですね」と答えるのが苦痛です。
私の親が何をしてきたか知りもせずに諭されるのはもっと苦痛なので、相談も出来ません。
唯一の救いは、旦那がドライな考えの持ち主で、「親子でも合わないもんは合わない」と言ってくれること。
いまだにフラッシュバックなどで怒り、悲しみの感情にとらわれることも。でも、自分の子どもには同じ思いをさせたくない。連鎖を断ち切る為に頑張りたいと思います。
ごめんなさい。何が書きたいか分からなくなってしまいましたが、yuhkaさんの文章を読んで、ああ私はこうだったんだ、だから辛かったんだと具体的に理解することでアダルトチルドレンな自分とやっていける気がします。
善意と"当たり前"の無自覚さと、全てにおいて肯定されるべきだと言う妄想によって行われるんだと思う。
辛い経験を糧に出来る人と出来ない人がいるのだから、いじめや虐待をする者の”おかげ”で云々という発想はあり得ないと判りそうなものですが。
声の大きい(主張の激しい)人の方が目立ちますから、基準にされやすいんでしょうね。
>mkiyo413さん
立場がどうであるかに関わらず、皆どこかで未熟です。
「そんな親を許してあげられる自分になりな(さ)いね。」とありますが、親が自身の未熟さを客観視し、認める事が出来ていない内は無理でしょう。
>mochiさん
無責任な「頑張れ」や「やれば出来る」がそうであるように、世の中でいう普通の言葉や社交辞令で言われた事でさえ辛いと感じる言葉は多いですよね。
逆に辛い経験をしているとあれこれ考えて上手く言葉が出てこない事もあります。
私もunoさんやmochiさんのコメントに共感を示しても、経験した事の程度が判らず、感じ方も同じとは限らないですが、気負わず、無理せず、お幸せに。
何かにつけて僕が「甘えるな」と言われた経験を持つから同意できると言ったまで。
今回たまたま流されてではなく、常々思っていたことです。
とりわけその言葉を使ったのは僕の父です。今日も言ってましたね。
二度と連絡するなと何度も言ってるのに連絡してきて、弟に金を貸せとか言ってました。
父は自分の身体障害と自分が人格破壊した母の精神障害の二人分の年金生活で、僕は障害が理由でいつ切られるかもわからないフリーター生活をしているにも関わらず、です。
ちなみに弟が金穴の理由は父の虐待で人格障害を負っているため薬代が必要だからです。
父は虐待を絶対に認めませんが。
そういう父が僕や弟に怠け者だの甘えるなだの言うのです。
さて、あなたは何と言ったでしょう。
「また、自分だけが親に厳しく言われて不幸な思いをしたように思わないで下さい。
私もあなた以上に親に厳しくしつけられてましたし「子供が親の言う事を聞くのは当たり前だ。」と言われて育ちました。
打たれたことも数えきれません。
今でも姉に「子供の頃から、どうして黒ばかりこんなにいじめられるんだろうと不思議に思ってた。」と言われることもあります。
甘えないでください」
まだおわかりになりませんか。
>> 黒さんは前者なのだと思います。
> 私は褒められると嬉しくて、さらに頑張ろうという意欲が出てくるタイプです。
僕から見た印象は、黒さんは叱られて伸びるタイプです。
褒められれば一時的なやる気を引き出すでしょうが、そういう刹那的な意味では言ってません。
我慢や忍耐を自信に変えられるタイプという意味です。そういうところが言葉に出てます。
だから、我慢や忍耐を自信に変えられないタイプを「甘え」と言ってしまうのでしょう。
僕が鵜呑みにしてると思ったり、yuhka-unoさんが甘えてるとしかりつけたり、できない社員のことを責めたりするのは、決めつけではないのでしょうか。
僕が障害の話を持ち出したのは、黒さんが言っている社員が「できない」障害の人だと思ったからです。
およそ100人に1人は、いるのですよ。何をやっても間違えてしまい、会社に適応できない人たちが。
彼ら、いや、僕らはかつて、人の中で生きずとも職人として黙々と仕事をしてきた人種です。おそらくは。
ですが、サービス業が中心になって、職人と正反対の性質を持つ企業に合わせなければならなくなった。それができず、多くは社会から落ちこぼれ、今は引きこもりやニートをやっている、と思っています。それが僕にはよくわかります。
でも、黒さんは引きこもりやニートは社会に適応できない甘えた人間としか見えないでしょう?
そこには決定的な断絶があります。無知の知が解決されないという断絶が。
文章の間違いは仰るとおりです。指摘ありがとうございます。
前回の記事で「なるほど」と名乗っていた者です。
今回の記事のコメントで「なるほど、」と名乗っている方とは別人となりますので、まずそのことをお知らせします。
今回の記事も興味深く読ませて頂きました。
ブログ主様の経験からくるお考えを要約すると、虐待は、親の自己防衛から発する「子供支配」が暴力化したもの、との理解で合っていますでしょうか?
「感謝の強要」などの現象も「子供支配」の強化のための抑圧方法であると。
前回の記事の最後の私のコメントに書きましたが、私が今探索していることは「なぜ実子を虐待する親がいるのか?」という疑問に対する自分なりの答えです。
その意味で、今回の記事からもいろいろな示唆を頂いております。
そして、前から考えていたことと合わせて思うことは、親の「不完全なるもの(または弱きもの)に対する嫌悪の肥大化」が虐待までに至る、ということです。
「不完全なるもの」とは子供のことであり、と同時に親自分自身のことでもあろうと。
これもまた親の自己防衛でもあるのでしょうが。
それがために、親は子を支配して、自分は棚に上げても子の不完全さの修正を強要し、それに失敗すると暴力化するということになるのかもしれないと。
多くの親は、子供を「一定支配」するもので、その上で、子の不完全さを修正しようと試行錯誤するものですが、経験上そこには「愛情」において、弱きものを無償で守護しようという歯止めがあるものと思われます。
それが虐待まで至るのは、親の過剰な自己正当化(または自己防衛)のあまり、子の不完全性を許容できなくなり、「子供支配」が強化され、やがて「愛情」による箍が切れて嫌悪感が前面化し、暴力化するのではないか、と思えます。
これは、親自分自身の弱さの裏返しが子供への虐待までエスカレートする、とも言えましょう。
このように見る場合、虐待は子の問題ではなく、あくまで親の問題だとなります。
もし、「愛情」の一つの側面が、「弱きものの不完全性を許容し守護したい心の状態」だとすれば、虐待をする親は「愛情」が反転し自己愛に陥っていると見てもよいのかもしれません。
ここまでのことは私の理解であり、これが一般論かどうかは私にはまだ分かりません。
ただ、私の理解するところに立ったとすると、注意すべきは、自己愛が肥大化すると虐待までエスカレートする場合があることでしょう。
私はブログ主様とのやりとりの中でこれまで、私事の疑問を考えていくための参考ご意見を頂くためと、私語りをさせて頂いてきただけな訳ですので、ブログ主様の現実問題に踏み込んだことは何も申し上げずにきました。
余計なお世話を一言だけ言わせて頂きます。
ブログ主様はこれまで、お母様の「子供支配」の中で防戦一方であり、ようやく自己防衛が成ってお母様の支配下から脱出されたものと推察します。
激しい自己防衛の戦いであったが故に、ややもすると自己愛が肥大化していないかどうか、改めて自己点検が必要なのかもしれませんと一言。
そんなことは言わずもがななことなのかもしれませんが。
以上、長々と失礼しました。
あなたの意見に納得していない人はみんな乞食なんですね。
相手が納得してくれないのを相手の読解力がないせいにする人は見たことがありますが、書いてないことまで想像しながらあなたの意見に同意しなければいけなかったとは驚きました。
文章が上手い人は言うことが違いますね。
「人様の迷惑になることをするな」というのは恥の文化を持つ日本の親の一般的な教育方針だと思いますが、そのような文化のない中国や韓国は治安の良い住みやすい国でしょうか。
犯罪者収監率(2005年法務省発表)
日本人 1万人当たり 5人
朝鮮人 1万人当たり 34人
支那人 1万人当たり 76人
東日本大震災時の中でも食料を奪い合うこと無く一列になってコンビニに並ぶ日本人をみて、外国では日本人は民度が高いと賞賛されていました。
外国では他人のことはお構いなしで奪いあいになるのが一般的だからです。
「書いてないことまで想像しながら」ではなく、「書いてる事が全てではないのに」です。すでにここから間違えています。
恥の文化は確かに犯罪抑止に繋がっていますが、このブログで指摘しているのは、親が無自覚で自分の面子を重視し、子供に無茶な事を要求・強要し続けた事ですよ。その親の行為自体が中国や韓国の教育方針に近いものではないでしょうか。
「人様の迷惑になることをするな」は、社会に上手く順応出来なかったり、会社で能力を発揮出来ない(結果を出せない)人などへの罵倒として使う言葉ではなく、「自分がやられて嫌だと感じる事を他人にするな」という考え方からくるものの筈ですよね。
いくら民度が高くとも、全ての人が同じ水準を維持してるわけではありません。食料の奪い合いや列を乱す事がなかったという美しい事実だけを取り上げていますが、就職の際の点数稼ぎが目的のボランティアや我が儘な被災者、善意と称してゴミを送りつける人もいたという事実を認めなければいけません。
あと、資料を提示するなら、人種だけでなく、年代別、世代別、と多角的に見て分析しないと単純な解答しか出せなくなりますよ。
行間を読むとか、そういう文章を書くに至った経緯とか背景を想像する力ってのは、もはや超能力の域になってしまったのかしら!?って思っていました(笑)。だからアチコチの字面だけ拾って何度も叩く人がいるのかって。
>kagura sさん
親が知識や勉強、経験が必須だなんてあんまり囚われないほうがいいと思いますよ。どんな方法でも、子供が「自分は愛されているんだ」という安心感(自信)を持つことができればよいのじゃないでしょうかねえ…。
弟の面倒を見なさいと言われた。
程度のことが書いてある中で、それ以外にあった親の仕打ち?を想像したとしても
寝る前に葉を磨きなさい。
忘れ物をしないようにしなさい。
くらいの仕打ち?しか思い浮かばないと思うんですが、ブログ主を親からとんでもない酷い仕打ちをうけたかわいそうな人だと思えない人は能力のない馬鹿なんでしょうか?
ここは選ばれた一部の人にしかわからないブログなんでしょうね。
>>一般人さん
言われた側に落ち度があって、それを改善することで事が終わるのならいいのですが、
この場合、その基準が母親の(叱る側の)頭の中にしかありません。
そんなものに他人がミリ単位の正確さで応えきれるはずなどなく、
相手は自分の思ったとおりの応えが返って来ない故に、そのことについて文句を言い続ける。
(この時点で、相手の目的は躾ではなく、自己承認欲求を満たすことの方にあることがわかります。往々にして本人はそのことに無自覚なのが一番のネック)
それが常態化すれば、その小言の火種になる人付き合いそのものが煩わしくなる。人と話せなくなる。ごく自然な連関です。
>>酔っぱらいさん
その躾のひとつひとつにこう加えてみてください。
(一挙手一投足、私が思い描いている通りそのままのやり方で)
もしほんの少しでもそれに違えば何時間も何日も、そのことを掘り返して文句を言われ続けるわけです。
それが自分の日常として相手が死ぬまで延々続くだろう様を想像してみて下さい。
選ばれたひとでなくても、そのくらいはできるでしょう。
「それくらいは出来るでしょう」と言われてもよくわかりません。
具体的に、どこの文を読めば「一挙手一投足、私が思い描いている通りそのままのやり方とほんの少しでもそれに違えば何時間も何日も、そのことを掘り返して文句を言われ続ける」ということがわかるのでしょうか?
母親を悪く書きたいブログ主が、「布団を出しっ放しにした」くだりでも、「靴をきちんと揃えてなかった」くだりでも、そのことで何日でも掘り返して文句を言われたとは一言も書いてないことを考えれば、当然、そのことで何日でも掘り返して文句を言われたりはしていなかったんだと解釈するのが普通だと思うのですがね。
文章を書くことが得意なブログ主が、それほど重要なことを書き忘れるとは思えません。
俺も国語の読解能力にはそこそこ自信がある方ですが、俺以上に読解能力がある人なら全員、君と同じ内容が読み取れるのでしょうか?
ちなみに君はセンター試験の国語では何点くらいとれてたんですかね?
行間を読めてないと人を馬鹿にしてる人が、前のスレでブログ主に反対の意見を書いた人の文を読んで「あなたはこう思っている」と決めつけて文句を言っては、まったく違うと相手に否定されていたように見えましたけど、勝手な妄想をすることを行間を読めていると勘違いしているだけではないでしょうか。
書いてもないことを勝手に妄想している人が、書いてある文章に対して意見を述べている人を馬鹿にしているのに違和感を感じます。
そんな人、「世間様」の基準からしても十分おかしいよ。
当のお隣さんも戸惑う程の極度の見えっぱり。
弟の面倒見ろとか布団しまえ「だけ」見れば普通の家庭でもよく見られる光景だけど、上の話を前提にするとまた違ったニュアンスにならない?
加えて、どれだけ頑張って家の手伝いしても自分の中の及第点に届かないからって努力や母親への労りの心や行動を認めてくれないって事だよね。
うちの親も昔そういう傾向あったから解るけど、こういうのって本当子供の劣等感ばかりを育てるのよ。
で、この二点のせいで娘と母親の間には普通の母娘の間にはあるだろう信頼関係が育たない訳よ。
信頼関係あるって前提で弟の面倒だの布団だの言われても「ああ、オカンは私の事を思って言ってくれてる」って解るけど、信頼してない、その原因作ってる親に言われても
「またどうせあれが出来てないこれが出来てないっていちゃもんつけるんだろ?」
「だったら自分で全部やりゃいいじゃん、私いらないじゃん」
「つーか、養ってりゃ何言っても何してもいいと思ってんのかよ」
って反発だけが膨らんで、それすら無くなると自発的に何かしようって気持ちすら全くなくなっちゃうのよ。
何せ、何しても認めてもらえないんだから。
うちは俺と弟二人兄弟だけど、それで二人とも精神的にダメになったんだよね。
で、そういう親との信頼関係が築けなかった人間に親の気持ちを解れとか親のせいにするなとか自己責任とか言うのは暴力なんだってば。
間接的に「誰に養ってもらってると思ってんだ」って抑え付けられてる気分になる。
親の気持ちとか完璧じゃない事なんか解った上で、それでも人生台無しにされた俺の気持ちは、じゃあどうなんの?怒る事すらダメなの?って話だし、親のせいにするどころかこういう育てられ方した子供って大抵自分が悪くない事まで自分のせいにしてくよくよしがちなんだよ。
現に、俺も仕事で鬱になって行った先の病院で職場環境以前に家庭に問題があるって診断されてから自覚したんだから。
それまで自分は特別出来ない人間だと思ってたけど、親の言う事話半分どころか十分の一くらいしか聞かないようになってから生きるのが凄く楽になったよ。
この人自身は自分の考えと相容れない人に対してハッキリ乞食と罵倒してますよね。
人にされることは些細なことでも許せないけど、自分はどれだけ人を傷つけようが気にならないんですね。
確かに、ある意味可哀想な人だと思います。
私の前のコメント、確かに調子にのって書いてしまいました。不思議に思っただけで、決してバカにしたつもりはなかったけどそう読めるよね。ごめんなさい。で、
>行間を読めてないと人を馬鹿にしてる人が、前のスレでブログ主に反対の意見を書いた人の文を読んで「あなたはこう思っている」と決めつけて文句を言っては、まったく違うと相手に否定されていたように見えましたけど、勝手な妄想をすることを行間を読めていると勘違いしているだけではないでしょうか。
これは私が黒さんに「自分の中に潜んでいる親を恨む気持ちが鎌首をもたげないようするためではないか」というコメントを妄想だって言われたことについて言及しているんですよね?
最初はなぜそのように思うにいたったかを書いたのですけど、削除しました。書いてるうちに、これはしんどいな、て思ったから。だから、「妄想ですか、失礼しました」と自分の意見は引っ込めました。
でもその後、yuhka-unoさんが端的にその理由を埋めてくれたのでもうよいかと思ったのですが、やはり私の妄想も書いておきますね。私が黒さんの甘える人に対する攻撃性が執拗過ぎると感じたのは、下の一文で合点がいきました。
>今でも姉に「子供の頃から、どうして黒ばかりこんなにいじめられるんだろうと不思議に思ってた。」と言われることもあります。
<妄想始まり>
つまり、黒さんは子供の頃から親から"厳しすぎる躾"を受けてきた。それは当時まだ子供だったお姉さんの目にはあまりに強烈で、大人になった現在でも忘れられない理不尽さがあったのだと思います。だから「なぜ〜不思議だった」と今も理解されてない。でも、黒さんはものすごい努力して、親の過度な期待に答え続け大人になり現在に至った。でも、そのことは黒さんに1つだけ暗い影を落とした。それは甘えに対する嫌悪感。子供は親に愛されたし甘えたいものです。でも黒さんにはそれが許されなかった。よその家の子たちみたいに甘えたいけど自分にはできない、でも親のことは当然愛しているわけだから、せめて誉めてほしくて親の期待に答えようと頑張る。だから甘えている人を見ると厳しくなるんじゃないかと。本当は親に甘えたかったのに、それを許してくれなかった親への恨みが、親ではなく、甘える人に対する嫌悪感として表出しているのではないかしら、とね。もっと言ってしまえば、親の"厳しい躾"乗り越えてきたプライドがあるから決して黒さんは認めないだろうけど、黒さんもまた虐待を受けてきたことに無自覚な人なんじゃないかと。
<妄想おわり>
これは人によって感じ方は違うと思うので、あくまでも私の想像(妄想)です。だから、妄想と言われればその通りで反論するつもりは一切ありません。
でもね、「ちなみに君はセンター試験の国語では何点くらいとれてたんですかね?」なんて書くのはナンセンスだと思います。きっとお勉強は出来る人なのだろうけど、この一文があなたの品性を物語っています。
知性とか教養って、人の寛容さをより広くより深くするものであってほしいと思います。
>お隣さんが足が悪いからって勝手に自分の娘を当人に何の相談もなしに町内の集まりに貸し出す
良いこととは思わないけど別に良く聞く話じゃないの? 特別なことかな?
>当のお隣さんも戸惑う程の極度の見えっぱり。
「他人に対して気を遣って丁寧に接するからお隣さんも気を使っちゃう」というだけで、極度の見栄っ張りだからお隣さんが戸惑っているとは書いてないよね。
>どれだけ頑張って家の手伝いしても自分の中の及第点に届かないからって努力や母親への労りの心や行動を認めてくれない
「「良いお姉ちゃん」でいられた時に褒めていた」って書いてあるから、良いことをしたときにはちゃんと認めて褒めてくれてたんじゃないの?
最近はファミレスで子供が騒いでいても注意しない親が増えてるけど、悪いことをしたらちゃんと注意して、良いことをしたら褒めるのが教育じゃないのか?
良いことをしたときに褒めることを洗脳というなら、教育なんて成り立たないよね。
あと、ブログ主の経験と君の経験は別物なんで混同しないようにね。
fさん
外れた妄想の解説を長々としなくてもいいですから。
「ちなみに君はセンター試験の国語では何点くらいとれてたんですかね?」と書くのはナンセンスではないですよ。
あまりに君たちが「行間を読めない人は能力の劣った人間」であるかのように馬鹿にしていたので、君たちは人を馬鹿にできるほどそんなに国語の成績が良かったのか点数を聞いたまでです。
君たちはブログ主に反対意見を述べる人には「できない人の存在も認めろ。言葉の暴力はやめろ」とわめくけど、自分たちが「行間を読めない人を否定して馬鹿にしたり」「乞食よばわりしたりするという言葉の暴力」に対しては、まったく声を上げないよね。
ようは、ここのブログの常連さんさんたちが相容れない意見のよそ者を非難するための詭弁なんだろ?
最後に独り言だけど
悪いことをしても何も言わずに見ないふりをすることが友達だろうか?
友達が悪いことをしたときにはちゃんと注意してやるのが本当の友達だと思うけどね。
私も奮闘中ですよ。気づいたからといって、親から植え付けられた癖が抜けるわけではありませんからね。
気付いた時点は、あくまでもスタート地点に立っただけ。レースはまだまだ、長い道のりですよ。
>なるほど、さん
私は、「全ての親が感謝や尊敬に値するわけではない」「虐待は誰でもする可能性がある」という事実を言っているだけですよ。
幻想に縋り付いていたい、強い先入観を持った人たちは、現実を突きつけられると、決まって怒るものではありますが。
>sugarballさん
母の意識上では、母は私を愛して大切に思っているつもりなんですよ。
でも実際は、母のスペアというか代用物扱いです。「奴隷」という言葉は、実際に弟に言われたことがありましたね。まぁ、弟にその言葉を言わしめたのは、母のそれまでの私たちへの接し方が原因でしたから、私は弟よりも母に腹が立ったのですが。
私は、そういった『日本の美徳』などというものは、所詮幻想に過ぎないと思いますし、もっと言うと、親の欲望の塊だと思いますね。
つまり、それらの言葉が『日本の美徳』として、普通にまかり通っているということは、それだけ親は子供に対して欲望を持っているし、普通の人が虐待をする可能性も、十分にあるということです。
それらの『日本の美徳』を見ていると、「親の愛は無償の愛」なんて言うなよ、と思いますね。
「甘えるな」という言葉も、虐待親が好きな言葉のひとつですね。なぜそういう言葉を子供に言うかというと、自分が子供に甘えたいからです。
thorさんのお父様は、自分の欠点を絶対に認められず、自分の欠点を相手に投影することで、自分の精神を保っておこうとするタイプに思えました。お父様がthorさんたちを罵る言葉は、そのままお父様に当てはまることが多いのではないかと思います。
>kagura s さん
>「そんなに優しかった人がそうなったのはどうして?」などと想像するのは欠片もしません。
子供でさえ、先生の前では良い子に振舞う子が、影でいじめをしていたりするのですから、大人がしないわけがないですね。
知識や勉強、経験も必要かもしれませんが、私は、社会の側に親を受け入れる用意があるかどうかが、大切だと思います。「自分の子供を虐待するなんて信じられない!私は絶対にそんなことはしない!」と言う親ほど、実は虐待親の気質に近いものを持っていたりしますし、親が自分の虐待を相談し助けを求めるのに、壁を作ってしまっています。
虐待は誰でもする可能性があるのだから、子供のことは一人で抱えず相談して当たり前だという空気を、社会の中に作ることが、虐待を防ぐことに繋がると思います。
>mkiyo413さん
許して欲しければ謝るのが筋だと思いますよ。
「困った親」ほど、子供に謝りもしないのに、許して欲しいと思っていますね。
確か、前回記事で、無宗教者か無神論者と仰っていた方でしたっけ。
私は、「切っても切れない親子の縁」というものも、多分に宗教であり神話だと思います。もっとはっきり言うと、自慰行為ですね。
あなたは、自分の自慰行為のために、私から「親に愛情がある」という意味の言葉を引き出そうとしました。言ってみれば、現実の虐待被害者を自分のオナニーのオカズにしようとしたわけです。
あなたのその意図に気がついた私は、現実を突き付けて拒否しました。それがあなたには気に入らなかったのですね。
あなたがここにお書きになった長文も、全てあなたの自慰行為に過ぎません。
まぁこういうことは、さして珍しいことでもありません。例えば、障害者に対して、「障害があっても頑張って乗り越えようとする、健気な障害者」像を勝手に押し付ける、被災者に対して、「与えられた支援に感謝して喜ぶ被災者」像を勝手に押し付ける、その幻想を拒否されると、手のひらを返したように不機嫌になる人は、けっこうよく見かけます。子供に自分の理想像を押し付ける親もそうですね。
まぁ、勝手に期待して勝手に「裏切られた!」と怒っているだけなんですが。
それにしても、個人が無償でやっているブログに、これほど色々と要求して来る人も珍しいものです。そんなに虐待のことがお知りになりたいのであれば、私にお尋ねになるよりも、あとはご自身で、書籍を読むなどされてはいかがでしょう。「毒になる親」が、この手のバイブルとして有名です。
それで自慰行為をしている分には、誰にも迷惑はかかりませんよ。
あなたは、このエントリの最後のリンク先を、お読みになりましたか?
>今日はシラフ さん
こういう場合の読解力というのは、ただ単に学校の成績では語れない部分があります。例えば、昔読んだ本が、その当時は何とも思わなかったのに、年を重ねてから読むと、「なるほどこういうことだったのか!」と、理解できるようになることがあるように、人生経験もまた、理解力には必要だったりするのです。
ここでは「人は、自分の心の奥底の深い傷は、なかなか他人には見せられないものだ」ということを理解しているかどうかで、書かれていない部分に対する想像力が違ってくるということです。
私は、人の知性について判断する時に、あまり学歴やテストの点数を基準にしません。その人が知的好奇心を持っているかどうか、自分自身や人生について深く考えようとしているか、「勉強は一生するもの」と思っているかなどで判断します。これらの要素がある人は、たとえ学歴が低くても、その後もずっと成長し続けますが、これらの要素がない人は、たとえ学歴が高くても、学業を終えた時点で成長が止まります。
たとえ学校の成績が良くても、山月記の李徴のように、己の自意識に囚われ、本質を見ないようでは、せっかくの能力も、伸びる機会を失ってしまうでしょう。
父はジャイアンとスネ夫を足して二で割ったような人です。つまり、自己正当化型ADHDと自己愛性人格障害の併発です。
http://blogs.yahoo.co.jp/kick_butt0302/2320803.html
> それらの『日本の美徳』を見ていると、「親の愛は無償の愛」なんて言うなよ、と思いますね。
人間関係は、大切に扱わなければ脆いものだと思います。
それを不変のものにしようとする行為は、所有物として扱うことに似ていると思います。確かそんな記事も書いておられましたね。
脆いことを知っていて、それでも失いたくないと思ったとき、鎖でがんじがらめにして縛り付けようとするのが境界例なのかもしれません。
だから、境界例と自己愛は、それぞれ動機こそ違えど、他人を所有物として扱う面で行動に共通性があるような気がします。
> 例えば、障害者に対して、「障害があっても頑張って乗り越えようとする、健気な障害者」像を勝手に押し付ける
当事者の立場から言えば、『普通の人並みにできるまで克服しなければ怠け者』という扱いを受けますね。
身体障害ならわかりやすいですが、僕は居眠りと協調性の脳機能障害なので、努力やら根性やらで直せるのに直さないだけの自分勝手な怠け者と思われてしまうらしいです。
僕自身、居眠りが運動不足で疲れやすいだけの努力不足などと言われたくないので、作業着でもフルマラソンできるだけの体力を身につけました。ですが、居眠りは直らないので、今も周りから努力が足りない怠け者と言われ続けています。
徹夜しても居眠りを我慢できる普通の人に「居眠りは甘え」と言われると、以前は自分がどれだけ怠け者であるか思い悩んだものですが、今では、周りは眠気を我慢するのが難しくないから平気で徹夜できるんだな、と思うようになりました。
それからですね。甘えるなって言葉は恵まれた人だから言える言葉なんだって思うようになったのは。
> こういう場合の読解力というのは、ただ単に学校の成績では語れない部分があります。
以前、頭の良さに関する記事で認証エラーで投稿できなかったんですが、知性とは状態であると思っています。
かつて本当に頭が良かった人でも、自分の目を曇らせてしまえば、頭が悪いということになると思います。
ですが、頭が良いのは本人が生まれてから死ぬまで頭が良い人間だからだ、と自分や周りが錯覚してしまえば、誇大妄想に囚われて目を曇らせてしまうことになるのでしょう。
いわゆる老害として非難される人たちは、かつては本当に頭が良かったのかもしれません。
> 本当は親に甘えたかったのに、それを許してくれなかった親への恨みが、親ではなく、甘える人に対する嫌悪感として表出しているのではないかしら
母が依存が強すぎる人だったので、僕も甘えは大嫌いです。
ただ、僕の場合、周りの人のほとんどが甘えに見えています。これはきっと周りから見たら僕を怒っていいことだと思いますが。
自分が甘えを嫌って自分なりに『努力』してきたとしても、それで「周りの人はみんな努力が足りない怠け者」と言ってしまえば、きっと僕はさぞかし頭のおかしいテロリストになれるでしょう。
だけど、甘えているように見える対象が一人だった場合、自分が正しいと思い込んでいるだけの迷惑な人だと自覚できないかもしれません。
なんというかどの矢印も力強く、根っこが土の奥深くから出ている感じがしました。
まず親からの「わかってわかって攻撃」というのはすごい造語ですね。
これは本当に親としてやってはいけませんね。
自分も何度かしたことがあるのです。もう二度としないと思いました。
自分の場合はわかって攻撃ではなく放任だった気がします。とにかくどうでもいい。他のことで忙しい・・・
でも歳をとってくると、なんとなくさみしいと思っているのが伝わって来ます。
もちろん口に出して自分に要求はしませんが、できるだけのことをしたいと思っています。
そうせずにはいられない気持ちを((忍ばずの気持ち))というそうです。
そしてこれは中国の儒教の考え方だそうですが、人間の良心というか・・・そういう意味でそれを美徳というならば、それはきっといいものだと思います。
ただ、thorさんやyuhkaさんがおっしゃっている通り、「「「虐待をしている親」」」は確かに存在する。子どもを愛せない親は確かに存在する。生涯愛せないという親は少ないかかもしれない。でも少なくともある時点では、なんらかの事情(環境的なストレスや忙しさなど)で愛せないという状況はあると思います。
だから、何人かの子どもたちを集めて「親はあなたたちを愛しているのだから感謝しなさい。」などというお説教じみたものをすることには反対です。
それから別のベクトルで褒めることについて書かれていましたね。
とても考えさせられました。
褒めることは一時的なやる気を引き出すことだとthorさんはおっしゃっていましたね。
今考えているのは褒めるというのは、相手を受容することの一部の方法のような気がします。
thoさんのおっしゃる褒めて伸びるタイプではなく、((我慢や忍耐を自信に変えられる))タイプだとしても、我慢や忍耐の下地には、言葉ではなく、誰かが静かに見つめる眼差しがあったと思うのです。あなたの不完全さそのものを許容する大きな愛情がどこかであったと思うのです。そしてそれがそのままthorさんの心に内化され、自分自身の声で自分を大きく見つめることができるようになった・・・そういう意味では本物の愛情ってすごく大切だと思います。
「「応援しているよ。」」「「すごいよ。」」という言葉は誰でも言える。でも本当の意味での愛情ってきっと、目には見えないものなんだと思う。
海老アレルギーで呼吸困難になった人を目の前にしても「アレルギーは甘えだ」という人が存在する。自分は海老を食べても平気だから理解できないのでしょう。また同じアレルギーでも呼吸困難にまでならない人もいるので、余計に食わず嫌いに捉えられてしまうのかもしれません。
心の痛みというのを想像できる人、出来ない人はいます。
無痛無汗症という病気がありますが、同じように心の痛覚の一部がない人もいれば超敏感な人もいる。そういったいろんな人のことを知ることができれば、人との対応は変わっていくんだろうと思います。
ということで、「(文部科学省の)国語の点数がよい事」と「コミュニケーションがうまく出来ること」は違うなと感じました。
体のアレルギーを理解できないように、心の病気を理解出来ない人がいる・・・((心の痛覚))というのがあるのかもしれませんね。
自分は敏感なのか、それとも鈍感なのか・・・考えて見るとまったくわかりません。
これがわからなければ、というか意識しなければ自分とつきあえないですね。新たな命題です。
素敵な生きるヒントをいただきました。
辛辣な物言いは、さすがに長年、お母様との関係の中で獲得してきた自己防衛の賜物ですね。
まるで、針ネズミのような貴女様の姿が見えます。
いろいろと書かせて頂きましたが、私の真の意図が、貴女様自身の自己愛の肥大化を指摘してきたことに勘付かれたことは流石です。
さそがし、気分を害されたことでしょう。
血も涙もない野郎だとお思いですか?
後はご自身でお考えください。
yuhka-unoさんは今までの記事の中で自分を省みることの重要性をたびたび主張しています。だから、その点については承知のことだろうと思っています。
それはまあ、それとして。
yuhka-unoさんの自己愛の肥大化を指摘するのが目的だったという事ですので、僕からも指摘させていただきます。
頭が良い人になるには、「頭が良い人だと思われたい」という願望を捨てること
http://d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/20110720/1311156307
なるほどさんは、他人の自己愛の肥大化を指摘するという行為をしながら、その実、自分の自己愛の肥大化に気づかないという状態にあると、僕は見ています。
リンク先にまさにそういったことが書かれているということは、yuhka-unoさんは既にそういう心のメカニズムを知っているということです。
ですが、なるほどさんは「指摘してあげている」という態度を取っています。
yuhka-unoさんの「あなたは、自分の自慰行為のために、私から「親に愛情がある」という意味の言葉を引き出そうとしました」を「貴女様自身の自己愛の肥大化を指摘してきたことに勘付かれた」と解釈したことは、論理のすり替え、俗に言う『間違いピラミッド』です。
「自己愛の肥大化を指摘するという意図がある」と言わなければ、黙っているつもりでした。
言葉が諸刃の剣というものであれば、なるほどさんの自己愛の指摘はなるほどさん自身にも返ってくるものであるべきでしょう。
>こういう場合の読解力というのは、ただ単に学校の成績では語れない部分があります。例えば、昔読んだ本が、その当時は何とも思わなかったのに、年を重ねてから読むと、「なるほどこういうことだったのか!」と、理解できるようになることがあるように、人生経験もまた、理解力には必要だったりするのです。
君と同じ母親の元で君と同じ経験をした人がいれば人生経験によって理解できこともあるだろうけど、そういう人がいない以上は、純粋に国語の読解能力で比較するのが一番じゃないの?
君の経験と自分の経験を混同しちゃってる人もいるみたいだけど、自分の親が良い親だから君の親も良い親だとか、自分の親が酷い親だから君の親も酷い親だとか決めることはできないからね。
>「人は、自分の心の奥底の深い傷は、なかなか他人には見せられないものだ」ということを理解しているかどうかで、書かれていない部分に対する想像力が違ってくるということです。
君の心の奥底の深い傷になる事柄は書かずに、一般的によくある事柄だけが書かれている状況で、君の母親を悪く思わなければいけないのか?
君の母親を悪くいう人は「書いてある内容自体は普通の家庭でもよく見られる光景だけど」と書きながら、各々勝手に書いてないことを妄想しながら母親を悪者だと決めつけてるだけみたいだけど、具体的に聞くとどれも的外れなことしか書いてなかったね。
それと、君自身も人を「乞食」呼ばわりしたりと、平気で人を傷つけることをしているという指摘に対しては一切無視ですか?
>私は、人の知性について判断する時に、あまり学歴やテストの点数を基準にしません。
相手に対して「行間を読めない能力が劣った人」などと馬鹿にしている連中がいるので、人を馬鹿にするだけの国語の読解力があるのか、たんなる妄想癖を勘違いしているだけなのかが知りたくて書いただけです。
相手の知性まで知りたいとは思ってません。
三児の母さんの「「嘘を処世術として使っていると、嘘に呑み込まれて自分を見失ってしまうことがある」」ということ、いろいろと考えさせられました。
建前と本音と気を遣うという三つの関係が自分の中で繋り整理されていないんです。
自分にとって気を遣うってどういうことなのか・・・?理由はわからないけれど自分をオブラートで包む行為?相手に嫌な思いをさせない行為。他人だと思うからこそ、通り過がりと考えるにはあまりにも悲しい気がする。ほんの一瞬でも出会ったその時のその人を大切にしようという行為。でもやっぱり疲れます。でも疲れるなんていったらもともこうもないじゃない。疲れたくなければ、誰ともつきあわないで家で眠っていればいいんだから。
それから「「価値観が違うと自分が否定されているような気がする。」」んーーこれは自分が陥りがちだと思いました。
本当に気をつけなくてはいけない。価値観が違うだけって割り切ればいいんですよね。このことがつい頭からなくなっちゃうんですよね。
ただ、この一般的な注意に対してのunoさんの反応は一般的な反応とは違っています。ひねくれて過度に悪い方にとらえていることがわかります。
例えば、
母親:「他人に迷惑をかけてはいけませんよ」→unoさん:「他人への「迷惑度」を0することなんてできないのに酷いことを言われた。他人に甘えられなくなった」
母親:「目上の人には言葉づかいを注意しなさい」→「注意されるのが面倒だから目上の人と関われなくなった。私は他人に助けを求めないといけない可哀想な人間なのに」
このように一般的な注意に対しても、素直に聞き入れずに相手を恨むような傾向があるため、unoさんは社会に適応しづらくなります。
現に、友達の注意を聞かないため子供の頃もいじめに会い、会社に勤めてからも上司の注意を聞かずに同じ失敗を繰り返し何度も怒られることになりました。
ここでunoさんが自分に欠けている部分(相手の話を素直に聞く態度)を認めて、それを改善するように努力すれば良かったのですが、unoさんは自分の欠点は一切認めずに、子供の頃の母親の(普通の)教育のせいにしています。
そのため、社会に適応できないままのunoさんは恋人や友達もできず、リアルでの楽しみがありません。
仕方がないのでネット上で「草食系女子で家ガール」と自称しながら、長文のブログを書き流すことになります。
このunoさんのブログには一般的な人が普通に考えるようなこととは違った内容が書かれていたため、「そんなことを考えもしませんでした」と一部の人からある程度の評価を受けました。
リアルでは人から認められることがないunoさんにとって、このブログは唯一、人から讃えられる拠り所となったのです。
ただ、良いことばかりではありませんでした。
あるとき、unoさんの意見の間違いを指摘する人が現れたのです。
「的はずれなことを言っていると思われていは唯一の私の居場所が壊れてしまう」「私は絶対に間違えたりしない頭が良い人だと思われてなくてはいけない」と考えたunoさんは生来の性格もあいまって、自分の間違いを認めることが出来ません。
自分の居場所を守るために死に物狂いで相手を馬鹿扱いしたり、酷い言葉で中傷してしまいます。
もちろん、馬鹿にされた相手も黙っていません。
いろんな人が客観的な見方でunoさんの間違いを指摘しています。
さすがのunoさんもお手上げです。
仕方なく答えられない指摘は無視して「賛同者の意見」と「答えられそうな意見」にだけしっかりと返事をして、「答えられない質問」は無視するか論点をづらしてごまかしながら返事をすることしか出来なくなりました。
ここでunoさんが相手の意見を認め、自分の非を認められるようになれば一歩前進できるでしょうが、それが出来ればここまでこじれたりしていません。
このままでは、結婚もできず友達もいないまま孤独に齢を重ね。
それを母親のせいにしながら、高齢になった母親を虐待(主にネグレスト?)することになるでしょう。
以上、書かれているブログにそって行間を読んで見ました。
どうやらわかってないみたいだけど、その想像の末路がyuhka-unoさんの母親の正体ですよ?
unoさんの部分をunoさんの母親に当てはめればいいのです。
『ひねくれて悪い方に捉える』
『注意されたら被害妄想』
『可哀想なわたし』
境界例について調べれば同じようなケースがいくらでも出てきます。
そして、境界例による虐待も。
境界例は精神的虐待とネグレクトが得意技です。
つまり行間職人さんがそういう想像の元で虐待が行われることを想像できるのなら、その対象を自分の母ではなく所有物である娘に向けたと考えれば、yuhka-unoさんが受けた仕打ちの一部は理解できるのではないでしょうか。
yuhka-unoさんの意図する所を読み解けなかった優秀な方たちが、必要以上に馬鹿にされたと腹を立てるのはプライドの高さからでしょうか?
少なくともこのブログにコメントされた方たちは、言葉は悪くとも、なぜわからないの?という落胆と苛立ちの方が強かったと思うのですが。
逆に読み解けていなかった方たちの方が終始上から目線で小馬鹿にしていたように思います。
なぜ素直に、ああそういう考え方もあるのか、と受け入れられないのでしょう?そのことが残念でなりません。
でも、敢えて言わせて頂きますが、この期に及んでまだ同じ記事の行間云々で思考が止まってるなんて、まるで、よくもこの優秀な私の答えに×をつけたな、そんなの問題が悪いんだ、問題を作った教師が悪いんだ、とクレームをつけてる学生にしか見えません。
でも必死さだけは伝わってきました。よほど悔しかったのですね。それ以外は何も私の心に響きませんでした。
因みに私も9月1日の記事から読みはじめたばかりでまだ関連記事しか読んでいませんが、yuhka-unoさんのテキストは中毒になるような魅力があります。二度と黙ったまま踏みにじられたりはしない、と、腹を括っておられるのでしょう。
完璧な人間なんていませんよ。そして完璧な人間の基準もありません。
ただ、寛容さのない人間は「大人げない人」と言われます。
違いやゆらぎを許容できない人は「狭量な人」と言われます。
yuhka-unoさんも皆様方も心安らかに。
yuhka-unoさんの意図する所を読み解けたという何人かの人の説明を聞きましたが、どれもしっかりとブログを読めば的外れだとわかる程度の妄想でした。
ただ、それでも一生懸命に自分の考えを説明しようとしたところは評価しています。
それに対して、yuhka-unoさんの意図する所を読み解けたと豪語しながら一番相手を馬鹿にしていた君自身は、どこの部分を読めばyuhka-unoさんが母親から虐待を受けていたことが読み取れるのか一切説明をしようとしてませんね。
君自身、実は何も理解出来てなくて、勝手に的はずれな妄想していただけだとバレて恥ずかしいからでしょうか?
読み解けたと豪語するなら、逃げまわってないでしっかりと説明をしてください。
少ないやり取りの中でも、君が卑怯者だということはよくわかりましたが、「なぜわからないの?という落胆と苛立ち」を感じているなら、なおさらちゃんと説明するべきではないですか?
落胆と苛立ちの方が強かったら相手を乞食よばわりしようが馬鹿よばわりしようが許されるってこと?
この人は何が言いたいのかわからないな。
読み解けたってのは確かに言い過ぎですね。
でもなぜあなたが「どれもしっかりとブログを読めば的外れだとわかる程度の妄想でした」って言い切れるの?
yuhka-unoさんのみぞ知ることじゃないの?
それにこの記事でもう母親から虐待を受けていたことはわかったではないですか。
その上でyuhka-unoさんは「自分に人生について教えてくれたり、自分の成長を助けてくれたり、自分に愛情を与えてくれる人は、皆私の「親」だと思って生きていくことにした」と書いています。このことまであなたは否定するの?
「読み解けたと豪語しながら一番相手を馬鹿にしている」の部分は、前にも馬鹿にしたわけではありませんと書きましたが、私が言葉足らずなところがあるのでまあしかたがないですね。でも、恥ずかしいとかは思ってないですよ。
それよりも今日はシラフさんは私の周りにはいないタイプのようなので、私の関心はもうあなたにシフトしてるのですよ。卑怯者だなんて言わないで、よろしくね!
>通りがかりさん
>少なくともこのブログにコメントされた方たちは、言葉は悪くとも、なぜわからないの?という落胆と苛立ちの方が強かったと思うのですが。
これは、何度か書かれていた「行間を読めてないと人を馬鹿にしてる人」に対しての、私の「馬鹿にしてないと思いますよ」という見解(妄想?)です。でも、「感謝乞食」って言いたくなるの、私はわかるなあ。感謝ってするもんで、人から期待されたり、強要されたり、お願いされたりするもんじゃないと思うから。
yuhka-unoさんの母親のしたことを、自分の子どもにしませんし、したくないです。
yuhka-unoさんの母親がしたことに対する解釈は、母親を美化する側より
yuhka-unoさんの解釈のほうが正しいと思います。
顔も知らない、他所の家の母親に対する必死すぎる擁護が不思議です。
>でもなぜあなたが「どれもしっかりとブログを読めば的外れだとわかる程度の妄想でした」って言い切れるの?
行間を読む能力があると自称している割に、この短い文も理解できないのですか?
ブログを読んで、ブログに書いてあることと明らかに内容が違うから的外れだとわかったということですが、君には難しすぎましたかね。
例えば、「どれだけ頑張って家の手伝いしても行動を認めてくれない」と読み取れたと主張している方が居ましたが、これは「良いお姉ちゃんでいられた時に褒めていた」ってブログ主が書いてあるから、この主張は間違いでありブログ主が良いことをしたときには母親もちゃんと認めて褒めていた事が分かりますよね。
君が、ブログ主が母親から虐待を受けていたと主張したいのなら、どの部分の文章を読めば客観的に虐待を受けていたことがわかるのか、わかるように理屈でしっかりと説明してください。
理論立ててしっかりと説明できないのは、君が勝手に妄想しているだけで客観的な事実がないからです。
相手に説明しようとせずに、自分の考えが正しいと押し付けることなどできません。
私のほうは君の質問にも答えているんですから、卑怯だと言われたくないなら「どの文章の行間を読めば、ブログ主が母親から虐待を受けていたことがわかるのか」逃げてないで君なりの意見を述べてください。
それでも意見を述べないための余分な言い訳しか書けないならこれ以上は結構ですけどね。
虐待という言葉が気に入らないなら言い換えてもいいです。
条件付の愛情、モラルハラスメント。
褒められるような行動ではないです。
ニシン丼にしろ、消防チェックのために布団を出していたことにしろ、
きちんと自分の頭で考え相手に配慮しています。
極めて常識的ですし、yuhkaさんに非はありません。
それを母親は「自分のやり方と違う」という理由で一方的に否定しました。
他人への配慮ではなく、「母親への配慮、従順さ」のみを要求しているのです。
「自分で考えるな、従え」
それはしつけではなく、「おしつけ」です。
上記を踏まえますと、よい姉であったときは褒められた、という部分も当然
「母にとって」よい姉だったときに褒められたと想像できます。
逆に、「母にとって都合の悪いこと」は絶対に認めません。
父親と外食が苦痛だとyuhkaさんがどんなに訴えても、無視。
その結果が外食恐怖症です。
娘を外食恐怖症に追い込んだ加害者は父親、共犯者は母親です。
今回は、欲しいオモチャを買ってもらうまで売場の前から離れないで騒いでいる子供みたいですね!ちょっとやっかいですけどなかなか可愛いですよ。
でも、たぶん私はそういうコにはオモチャを買ってあげないタイプ。残念でした。
http://d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/20110614/1308044705
http://d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/20110720/1311156307
君が嘘つきで、実は説明出来るほどの根拠を持ってないことは分かっていたので、最後まで言い訳をしながら説明から逃げるのもわかっていました。
ただ、「オモチャを買ってあげないタイプだから」とは良い言い訳を思い浮かべる頭もなかったらしいですね。
ブログ主が虐待を受けていた客観的な説明ができない以上は議論にならないので終了です。お疲れ様。無駄な時間をありがとう。
あなたも自己愛か境界例ですね。
ターゲットのプライドを刺激することでターゲットを自分の土俵に引きずり込み、重箱の隅をつついて論破したことにして、本題の本質からは大きく外れたところで本題は無価値なのだと結論づける。
答えが存在するものでも悪魔の証明と同じものにしてしまう。
真実から目を背ける者が嘘つきだとするならば、本質から逃げるように誘導する行為はまさしく嘘つきと言えるでしょう。
また、議論の終了を勝手に宣言するのも、相手のプライドを傷つけた上で自分は関係ないですよという風を装って、怒って相手から反論してくるのを待ち伏せしているからです。
ターゲットが落ち着いて隙が無くなると、新しい隙を作るためにそれをします。
つまり、あなたは待ち伏せしているだけで、本当はまだfさんをからかって遊びたい。
見捨てられ不安を持つ人は、相手の見捨てられ不安を刺激する方法を獲得し、そうやって人を操ります。
とするならば、yuhka-unoさんの言う『自分が甘えたい人』であると言えます。
引っかかったfさんにも非があるのですが、リンクで気づいたのなら、僕はそれでいいと思います。
人間は失敗するものです。文章を書くときにも、感情を表明するときにも、その他あらゆる局面で。
失敗への気づきは人を成長させます。失敗しない人は成長できません。
ですが、今日はシラフさんのやり方とは、その必ず存在する失敗や消しきれない不完全の痕跡を使って相手を否定しにかかることです。
それは旧体制の破壊には役立つでしょうが、創造や再生の過程にあってはそれを阻害します。
こんばんは。今は出先なので、帰ったらコメントしますね。
>あなたも自己愛か境界例ですね。
意味がわかりませんがこれは一般的な日本語なんですか?
自分だけが知っていて相手にわからない言葉は使わないほうがいいですよ。
わからない話はしないのと一緒です。
> ターゲットのプライドを刺激することでターゲットを自分の土俵に引きずり込み、重箱の隅をつついて論破したことにして、本題の本質からは大きく外れたところで本題は無価値なのだと結論づける。
答えが存在するものでも悪魔の証明と同じものにしてしまう。
fさんが”読み解いた”、”行間を読んだ”と、読み解けない人を馬鹿にして挑発していたので、読み解いた内容を聞いただけではないですか?
fさんが得意になって自分で言っていた話に乗っただけで、今日のシラフさんが自分の土俵に引きずり込んだりはしてませんよね。
私には、今日はシラフさんは、fさんが読み解いた吹聴しながら内容を話そうとしないから議論ができなくてしかたなく諦めたように見えました。
でも、あなたの中では、今日はシラフさんはfさんをからかった悪者で、読み解いたと吹聴しながら内容を話そうとしないで相手を馬鹿にし続けたfさんは引っかかった犠牲者なんですね。
yuhka-unoさん側の人間は常に正しい人間で、反論する人は常に悪者でなければいけないということだけはわかりました。
僕のコメントを周りの人々がどう読み取るかを決めるのは今日はシラフさんではありません。
周りの人々です。
だから今日はシラフさんが客観的かどうかを決めること自体が元からおかしい。
ですがfさんは最新のコメントを見るとわかっておられないっぽいのであえて言いましょう。
fさんは僕から見てもスネ夫です。
僕から言えるのはそれだけです。
僕はあなたのような虚像に語るこれ以上の言葉は持ち合わせていません。
http://d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/20110825/1314283711
このエントリが「親という」で検索したら上位に出てました。
興味を持ったので、開いてみました。
こういう話題は炎上するんですかね?
しかし、これ(自分の)だと、炎上、批判できないんじゃないかと思いますが・・・
するんでしょうか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1171473886
消えたら 魚拓で (javascriptを無効にすれば見られます。お手数ですがすみません)
http://megalodon.jp/2011-0917-2108-34/detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1171473886
そんな微妙な部分ではなく、私は親に・・・
http://sky.geocities.jp/oooquree/fax.html
長いので全部読まなくても結構ですので。知恵袋の質問用に作ったページなので、参考までに。
サイトを作って呼びかけようと思ってます。
炎上するという事は、それだけ多くの人が見ているという事ですよね?知恵袋は閲覧数少ないです。
炎上して何か良い事があるのかどうかはわからないし、観念的に話が続いていくだけであれば、自分にとっては意味がありませんから、疲れるだけかもしれませんねぇ。
ブログ主様も炎上お疲れ様でした。
なれなれしかったらすみません。では失礼します。