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蓮華寺      (れんげじ)

左京区

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書院からの庭園の鑑賞

蓮華寺は鴨川源流のひとつの高野川のほとり、かつての鯖街道(現・国道367号線)の京都口の傍ら、上高野の地にある。しかし、もとは七条塩小路(現在の京都駅付近)にあった西来院という時宗寺院でありまして、応仁の乱に際して焼失したものを江戸時代初期の寛文2年(1662年)に、加賀前田藩の家臣、今枝近義が再建したものです。
上高野は、かつて近義の祖父、重直の庵があった土地でした。重直は、美濃国出身の武士で、豊臣秀次に仕えた後、加賀前田家に招かれました。晩年に至って得度し、宗二(そうじ)居士と号して、詩書や絵画、茶道に通じた文人として草庵を結びました。また、仏道への帰依の念も深く、上高野の地に寺院を建立することを願っていましたが、果たせずして寛永4年(1627年)に死去しました。近義が蓮華寺を造営したのは、祖父の願いに応え、菩提を弔うためと考えられています。
上述のように、蓮華寺の起源である西来院は本来は時宗寺院でした。しかし、近義による再建に際して、実蔵坊実俊(じつぞうぼうじっしゅん)という比叡山延暦寺の僧が開山として招かれたことから、比叡山延暦寺を本山として、延暦寺実蔵坊の末寺のひとつとして天台宗に属する寺院となりました。また、現在の寺号は、境内地がかつて同名の廃寺の跡地であったことに由来するそうです。
蓮華寺の造営にあたって、詩人・書家で詩仙堂を造営した石川丈山、朱子学者の木下順庵、狩野派画家の狩野探幽、黄檗宗の開祖である隠元禅師や第二世の木庵禅師らが協力したことが、天和元年(1681年)付の黒川道祐の蓮華寺訪問記(『東北歴覧之記』所収)に記されています。また、天明6年(1786年)の「拾遺都名所図会」には境内図が描かれています。上述のような文人たちの協力を得て造営されたことにより、蓮華寺は黄檗宗の様式の建築と江戸初期の池泉鑑賞式の典型ともいえる庭園をもつ寺院となりました。

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