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特集ワイド:なぜここに? 何もたらした? 福島第1原発1号機

建設中の東電・福島第1原子力発電所1号機=1969年12月撮影
建設中の東電・福島第1原子力発電所1号機=1969年12月撮影

 ◇地域開発と試行錯誤の歴史

 東日本大震災で放射能漏れ事故を起こした福島第1原発1号機は、日本で最も早く運転を開始した原発の一つだ。なぜこの地に建設され、地域に何をもたらしたのか。設計から携わった元東電副社長と、事故前からこの原発の歴史を研究していた若手社会学者に聞いた。【宍戸護】

 ◇危険性わからぬまま、いち早く誘致に手を挙げた--社会学者・開沼博さん

 ◇初期はトラブル多く、実際には商業用と呼べるものではなかった--草創期を知る元東電副社長・豊田正敏さん

社会学者・開沼博さん
社会学者・開沼博さん

 セミが鳴く東大・赤門に、東大大学院生の開沼博さん(27)は自転車に乗って現れた。福島原発の歴史を通して戦後成長を論じる著書「『フクシマ』論」を6月に出版し、脚光を浴びる社会学者だ。

 「福島第1原発は日本で最も古い原子炉の一つで、首都・東京に電力を送っている。原発はさまざまな矛盾を抱えた仕組みなのに、なぜ、かくも変わらないのか……。そんな思いで福島原発の歴史を調べ始めたのです」

 福島県いわき市生まれ。実家は原発から約43キロの距離にあるものの、地元にいたときには、原発を意識したことはほとんどない。著書のために06年から原発周辺でインタビューを重ねた約50人の地元住民らさえ「発電所と大きな鉄塔、太い電線は日常風景。毎日意識することはない」と話していたという。

 「『フクシマ』論」では、福島第1原発を抱える双葉郡の土地柄を「平坦(へいたん)地が少ないため農業は難しく、海岸線は絶壁で利用しにくい土地だった」と指摘したうえで、戦中戦後の経緯をこう記す。

 <三八年、軍部は現在の福島第一原発の土地の一部である、台地三〇〇ヘクタールを強制買収する。それは熊谷飛行隊の分校を開設し、陸軍の練習飛行場とする目的だった。(略)敗戦後、数年間放置された荒地は堤康次郎率いる国土計画興業と地元住民へ払い下げされた。堤はここで大規模な塩田を営むようになる>

 西武グループ創始者にして戦後、衆院議長も務めた堤氏が始めた塩田も、海水から直接塩を取る技術が発達し、数年で廃れた。他に産業がないこの地域の開発を目指し、当時の佐藤善一郎知事のもと、木村守江参院議員(後に知事)が57年ごろ、福島県出身の木川田一隆・東電副社長(後に会長)に原発誘致の相談を始めた。

 <他に競合する自治体がいないようななかで原子力誘致に手をあげた>と開沼さんは書く。「けれど当時は、そもそも原発の危険性や、存在としていかなるものなのか、よく分かっていなかった」

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豊田正敏 元東電副社長
豊田正敏 元東電副社長

 「福島第1の土地の入手は容易でした。知事さんや地元の町長さんが誘致に熱心だったし、木川田さんが福島県出身だったこともある」。元東電副社長で、原子力畑を草創期から歩み続けた豊田正敏さん(88)は、東京都内の自宅でとつとつと語り始めた。

 終戦の年、東大工学部を卒業し、日本発送電(東電の前身)に入社。55年に新設の「原子力発電課」に配属される。課長以下4人でスタート。「原子力の実用化はずいぶん先だと思っていたので、配属されがっかりしました」と豊田さん。

 だが、「実用化」は予想以上に早く動き出す。双葉、大熊両町長から誘致の意向を示された60年、「適地」と判断し、佐藤知事に申し入れた。土地買収は順調に進み、東京ドーム42個分に相当する約200万平方メートル(現在は約350万平方メートル)を取得した。

 「原発には立ち入り禁止エリアがあり、広さがほしい。都市部は地価も高く、候補地は必然的に田舎に絞られる。福島県は東電の電気供給区域外ですが、猪苗代湖の水力発電などで戦前から付き合いもあり、地元には納得して受け入れていただきました」

 東電は65年、福島第1原発1号機を大熊町に建設することを決め、原子力開発本部を設置。本部長には当時の常務が就き、豊田さんは42歳の若さでナンバーツーの部長代理に任命された。本社で設計・建設全般に携わった。

 米国の原発メーカー2社に見積もりを依頼。より安い価格で大きな出力、さらに「他国で受注した同型炉の図面や設計図も活用できる」と提案したゼネラル・エレクトリック(GE)社と契約した。国内原発に乗り出していた東芝と日立を下請けとし、原子炉の設計や容器の製作方法を学ばせることでも合意した。

 問題は立地だった。建設予定地は海からの高さ35メートルの高台だったが、10メートルにまで削られた。「高台のままにしていたら……」との批判が今あるが、豊田さんは「重量が重い原子炉やタービンをどう運び込むかが最大の課題だった。高さ35メートルにポンプを設置したら、海から水をくみ上げられないという事情もあった」と語る。「耐震性は当時の基準を満たしていたし、津波も、それほど高いのは来ないと考えられていたのです」

 工事はGE社主導で進み、1号機は71年に営業運転を開始したが、当初からトラブルが相次いだ。運転中に核燃料棒が割れたりし、マーク1と呼ばれる格納容器も内部は狭く、保守点検にはしごを使うなど使い勝手が悪かった。点検に時間がかかり、作業員の被ばく量は増えた。東電とメーカーは約10年がかりで改良を重ねていったが、格納容器を大型化するなどの根本的な対策は福島第2原発以降に持ち越された。

 「マーク1は『商業用原子炉として十分な域に達している』と言われたが、初期にはトラブルが多く、実際には商業用と呼べるものではなかった」。今、豊田さんは率直にそう話す。

 そして、今回の津波で故障した非常用のディーゼル発電機が、原子炉建屋ではなく構造的に弱いタービン建屋に置かれていたことを「私も原子炉建屋にあるものと思い込んでいた」と悔やむ。なぜ40年間も放置されたのか。「東電、安全性を確認する原子力安全・保安院にも事なかれ主義がはびこっていた……」。そう言って表情を曇らせた。

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 さまざまな問題を抱えながらも、40年の歴史をフクシマの地に刻んできた原発。そこには、地元の住民が抜けようとしても抜けられない「しがらみ」が厳然としてある。

 再び開沼さん。「電源開発は、いつの時代も地域開発の有効な手段だった」としながらも、こう続ける。「震災発生直後の3月中は、原発関連の仕事をしている誰もが『もうあそこでは働きたくない』と口にしていましたが、5月ごろになると『普通に働いている』という声が多くなった。ある50代の男性は『原発の仕事を辞めようにも同じ給料で雇ってくれるところがない』とこぼしていました。原発を止めれば済むという単純な話ではない。今後、数十年にわたって放射性物質と付き合わざるを得ない地元の人たちの声に、真剣に耳を傾け続けるしかない……」

 開沼さんの白いTシャツには「PRAY FOR IWAKI(いわきのために祈ろう)」とあった。

 「フクシマ」の歴史が問いかけるものは重い。

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ファクス03・3212・0279

毎日新聞 2011年9月8日 東京夕刊

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