タルコフスキー監督、『アンドレイ・ルブリョフ』。
この映画を観たあと数日の間、私はこの作品について何も書く気が起きなかった。この作品だけでなく、およそ芸術と呼ばれるあらゆる事物についても。
ありふれた表現でいえば、この映画は私の芸術に対する姿勢を揺さぶったのだった。
アンドレイ・ルブリョフは15世紀ロシアに実在したイコン画家である。
彼に関する史料は殆ど残っていない。だからこの映画で語られる様々なエピソードは、タルコフスキーの想像によるものである。
「旅芸人 1400年」、「フェオファン 1405年」、「アンドレイの苦悩 1406年」、「祭 1408年」、「最後の審判 1408年夏」、「襲来 1408年」、「沈黙 1412年」、「鐘 1423年」。
これら八章のエピソードによって、修道士アンドレイ・ルブリョフが美術史上に燦々と輝く傑作『三位一体』を完成させるまでの苦悩が描かれる。
タタールの襲撃、貴族同士の内乱、大公の残虐な仕打ち、異教徒の乱舞、混沌のロシア。
ルブリョフはタタールから白痴の少女を救おうとして一人の男を殺し、その罪の深さから絵筆を捨て、以後長く厳しい沈黙の修行に入る。
1423年、ある少年がロシア大公の命を受けて大きな鐘を作ることになる。少年は苦労の末に立派な鐘を作るが、完成直後に泥の中に倒れ込んで激しく泣く。始めから完成まで少年をじっと見守り続けていたルブリョフは、この時十年以上にわたる沈黙を初めて破り、お前は立派にやり遂げたではないか、と少年に話しかける。少年の姿に神の愛を見出した彼は再び絵筆をとることを決心する。アンドレイ・ルブリョフが偉大な画家への一歩を踏み出した瞬間である。
ラストシーン。それまでの悲愴な白黒の画面が一変し、黄金の煌めく色彩とともに、アンドレイ・ルブリョフが描いたイコンが映し出される。
このラストシーンは、これまでに観たいかなるものも比肩しえないような重さと輝きを湛えていた。
この映画を観終わったとき、私はそれまでの芸術に対する自分の考えが余りに軽薄であったことを知った。
私が芸術と呼んでいたものはおよそ表現されたもの、美学が感じられるもの、「それっぽいもの」のすべてであった。
芸術が、あるいは創造が、苦悩と沈黙とそれらを乗り越えようとする意志の上に築かれるものであること、その重さと深さを私は知らなかった。
重ければ良いというものではない。深ければ価値があるというものではない。けれどこの重さと深さは、暗く悲痛な沈黙の後に、なんと偉大な色彩となってあらわれることか。この色彩を目にしてしまった後には、表現という言葉を笠に着て思いつきをばらまく無数の「自己」たち、世に氾濫する芸術とされるものたちがどうしようもなく薄っぺらいものに思えてしまう。
完成、ということについて考える。
我々の周りは未完成なものであふれている。未完成でいいという風潮、何につけ未完成な状態が当たり前という風潮。無論、社会の中で適度に生きていくためには未完成という境界の曖昧な状態は必要である。
しかし仮にも芸術を名乗るのであれば、それはただの甘えでしかない。
完成の究極の高みへの意志、その覚悟、長い沈黙と忍耐の期間、それらを持たずしてどうして一人の人間に創造が可能になるだろう。
ポール・ヴァレリーのある印象的な一節を引用したい。
「待つことができない、と言った……さようなら、終わりが見えないほど時間をかける仕事、三百年の歳月をかけた伽藍よ!…さようなら、明るい色の薄い層が塗られると、次の色がその上に重ねられるまでには、天才の発露とは無関係に、何週間も待つという、隠し隔てのない仕事の積み重ねによってついに完成する絵画よ!さようなら、推敲を重ねた言葉、文学的省察、貴重な物象や精密機械にもなぞらえられる作品を生み出した数々の探究よ!……今や、我々は刹那に生きて、衝撃や対照効果にのみ気を引かれ、偶発的興奮あるいはそれに類するものが照射するものだけを捕らえるように強いられている。我々はスケッチ、粗削り、草稿で満足し、評価する。完成するという概念そのものがほとんど消えてしまったのである。」
(ポール・ヴァレリー『知性について』恒川邦夫訳)
我々はスケッチ、粗削り、草稿で満足し、評価する。完成するという概念そのものがほとんど消えてしまったのである。…
アンドレイ・ルブリョフは、完成するという概念を我々に思い出させる。その孤高の、ほとんど信仰とさえよべるような概念を。

アンドレイ・ルブリョフ作、『三位一体』