(この記事は3/14「脱出」の続きです)
3月14日の夜に千葉を出て、夜中に静岡県の裾野にたどり着き、友人ハルオの家に泊めてもらった。 ハルオはカメラマンで古くからの友人で、3年ほど前に東京から裾野に移住していた。 写真について困ったとき彼にアドバイスをよく受けた。 逆にぼくが彼の写真学校で特別講義をしたこともあった。 2基目の爆発のニュースに衝撃を受けたのはぼくたちだけではなかったようで、 地震直後から連絡を取り合っていた仲間も合流し、ぼくらは車2台10名になっていた。 そんな大所帯が突然夜中に押しかけてきたのにハルオ葉気持ちよく受け入れてくれた。 人のために自分のできる限りのことを当たり前にやってくれる男なのだ。 着いたときは夜中0時を回っていたが宴会が始まってしまった。 14日は朝から山の開拓をやって、昼に爆発のニュースを聞き そこから脱出の準備、情報収集、移動、と過酷な一日を過ごしたのだが、 気が昂ぶっているのか、眠くはなかった。 やっと東京から離れ一安心してほっとしていた。 東京を抜けるまでは、どこかで大渋滞に巻き込まれるんじゃないか、 トンネルの中で大地震がくるんじゃないか、とハラハラしていた。 ここまでくれば一安心だった。 祝杯を挙げたかった。 合流した神澤さんは日本酒やつまみをたくさん持っていた。 実は地震の翌日から千葉県の神崎町で「寺田本家」の「お蔵フェスタ」というイベントが開催される予定だった。 ぼくはそのためのステージを地震の前日に作ったばかりで、神澤さんは食べ物や飲み物を用意していたのだった。 「お蔵フェスタ」は中止になり、ぼくのステージは使われなかったが、酒とつまみはここで活かされた。 みんなこれからどうなるのか、安全とは何かを話した。 ぼくたちはもう動き始めていたので悲壮感はなく、きっとすべてうまくいくさ、と杯を重ねた。 3時になって、明日は8時に出発だから7時に起きよう、と一斉に寝た。
3月11日。東日本大地震。
ぼくたちは千葉県君津市の自宅でその地震にあったが それがただならないことであることは分かった。 これまで体験したことのない、ゆっくりと大きく、深く長い、揺れだった。 揺れがおさまっても船酔いのようなものが残った。 ぼくらはすぐに車の燃料を満タンにし、あるだけの食料と道具、テントなどを積み、 いつでも逃げられるように備えた。 アクアラインもほかの高速道路も電車も、すべて閉鎖されていた。 その夜は、開拓していた山に登って、ティピで火を焚いて寝た。 10mの津波警報が出ていた。 3月14日、2基目の原発爆発。 この知らせを聞いたとき、ぼくたちは山でのんきに開拓をして、畑を作っていた。 とにかく食べ物を育てようという想いだった。 しかし、いまだに原発が爆発を続けるなら、事態は収束になど向かってはいないはずだった。 これからもっとひどい事態がやってくる。 だれも原発をコントロールなどできていない。 ぼくは、すぐに逃げることを決めた。 ぼくたちの子どもは2歳と0歳。 放射能の犠牲になるのは、まずは子どもたちだ。 ぼくたちには、この子どもたちを守る義務がある。 大人の都合でここに留まるわけにはいかない。 3月14日の夜には千葉を出て、東京を抜け、静岡まで走って友人の家に泊めてもらった。
もともと、このブログは子どものお産と成長の記録として始めました。
ぼくたちは自分たちで(専門家に頼らず)子どもを産もうという呼びかけをやっています。 自力出産のホームページ お産に関する記事は「お産について」というカテゴリーで読むことができます。 そのブログも忙しさにかまけ、放置されていたある日、 2011年3月11日に東日本大地震が起きました。 ぼくたちは首都圏から避難することを決め 和歌山県の山奥にたどりつき、自給自足を目指した生活を始めることにしました。 避難の過程などは「3・11」というカテゴリーで読むことができます。 ぼくたちが向かい合っている問題は地震や放射能だけではありません。 それは表面的なことです。 3・11以降、私たちは生活の全てを見直すことになりました。 自分たちの手で水を引き、食べ物を作り、家を建て、子どもを育てる。 そんな挑戦を始めたいと思います。 お産は、そういった自主独立の原点でもあります。 お産は医療ではなく、生活に属することです。 医療もまた私たちの手に取り戻すことが必要でしょう。 そうした考えからこのブログには お産についてのこと 生活を自分たちの手に取り戻そうとすること などが一緒に扱われています。 どういう生活を次の世代に伝えていくか、ということが私たちのテーマです。 そうした観点では、生活のすべてはつながっています。 それは日本に昔からあった価値観でもあります。 関係ないと思われることも読んでみて、いつかそこにあるつながりに触れていただければ幸いです。
暖かかった気候が一変し、雨の真冬のような日が続いた。
暖かい後の冷え込みは、弱った体に影響することが多いというが、 美和とよもぎは元気に過ごし、晴れた日が戻ってきた。 桜のつぼみが開き始めた。 よもぎは、外気に少しずつ触れていく時期かと思われた。 こうしたことは感覚で決めることであり、何日立ったら外の光を・・・というようには決められないように思う。 いま、赤ちゃんが何を求めているか、どういう状況なのか、を感じること。 それは、知識ではない。 もちろん知識は役に立つが、知識によって自分の感覚が鈍くなる、または感覚を信じられないこともある。 人間は同じように成長するのではない。みな違う。 画一的に何日たったら何を与える、と決めることはできないと思う。 最初の子であるあずきと、今回生まれたよもぎは、生まれてからの様子がずいぶんと違う。 生まれた季節や環境によっても人は、特に小さいときは、まったく異なるのではないか。 暗幕を張っていない窓の傍によもぎを抱いていき、 カーテン越しの光に触れさせると、よもぎは眩しがらない。 うちの二階は風通しと日当たりがいいが、 ちょっと寒いし、トイレやキッチンが一階なので、 これまで美和とよもぎは、窓に暗幕を張った一階のリビングで寝ていた。 昼間も暗い中で一週間を過ごした。 「窓」 の記事を参照。 窓に張った暗幕を外し、二階の部屋へ美和とよもぎを移すことにした。 春の明るい日差しが、入ってくる。 家の中が明るくなり、子どもたちはますます元気になったように見える。 よもぎがいた間はリビングで音楽をかけなかった。 ウチで音響があるのはあとはぼくの部屋だけなので あずきはずっとウチの中では音楽を聴いていなかった。 (ぼくは毎日あずきを外に連れ出していたし、そのとき音楽も聴いてはいた。) ウチに帰ってきた、久しぶりの日の光と音楽に、 あずきは狂喜して美和の髪留めをつけ、踊りまわった。
今回の出産には、ポコ (当時1歳11ヶ月) は参加した。
陣痛の様子も、出産も、すべてを見ていた。 美和がお風呂に入るとポコもついていく。 タライを入れて自分も入る。 この写真は当日のものではないけれど、ポコはこうしてひとりでたらいに浸かっているのが好きだ。 ポコは入浴を「しゃわしゃわ」と言う。 小さいころはお風呂を怖がっていたけど。 高まっていく陣痛の合間に、美和はポコと話していた。 その声は、普段と変わらなかった。 私も美和の股に手を当てて赤ちゃんが出てくるのを待ちながら、ポコに 「もうすぐ出てくるよ。」と声をかけたりしていた。 考えようによっては邪魔だったかもしれない。 誰かに預けたほうがいいかと考えたこともあった。 でも、結果はスムーズだった。 「ポコちゃんがいたから、私たちが過度に緊張したり、構えないで、お産をできたのかもね。」 と美和は言う。 「ポコちゃんがいることで、不安がなかった。」 「ふたりだけだったら、不安で、構えていただろうね。ポコちゃんがいることでその必要がなくなったんだよ。」 私たちがポコを迎えたとき、どこに行ってもいい医者や助産士に会えず、 自力で産もうとしても、多くの人に「無茶だ。」と反対され、 私たちは「きっとうまく行く。」と信じながら、緊張し、最善を尽くさねば、と構えていた。 そうして生まれたポコはあっという間に歩き、話すようになり、 今やすべてのことに参加しようとして、結果、私たちの邪魔をする。 洗って干したタオルをたたんでいたら、わたしもわたしも、とやってきて全部ごちゃ混ぜにしてしまう。 料理していたら、運ぼうとしたり、包丁を振り回したりする。 その姿はカワイイ。 だが、いつもポコを抱えていると、できないことがたくさんある。 今回の出産準備は、ポコを抱えながらだったので、 準備は最低限のことを読み返して、掃除も必要なものの整理もいい加減だった。 どうせポコにめちゃくちゃにされてしまうのだから・・・。 そうしたあきらめやいい加減さが、お産には大事なのかもしれなかった。 そして、私たちにとってポコは安産の守り神だった。 私は、自力出産なんて無茶だという人にポコを見せてやりたい。 こんなに元気でかわいいんだよ。 ポコがいることで私たちは自分たちは間違っていなかったと信じることができる。 そのポコがそばで勝手気ままをやっていることで 私たちは「きっとうまく行く。」と願うことすら忘れて、二人目を迎えた。 久しぶりに見返したポコの生まれたばかりの写真。 お前もこうだったんだよ。
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