ひと晩だけの涅槃境(ニルヴァーナ)

    学者でもなく、僧侶でもなく、ただの社会不適応者ですが……。
    いいじゃないですか、悟りくらい開いたって!

お客様、窓口が違います。

2011-09-15 22:33:54 | 日記
 仏教系新興宗教のご利益主義は鼻で笑うことにしている。

 人は病み、
 人は老い、
 人は死ぬ。
 何人(なんぴと)たりともこの宿命からは逃れられない。

 これが仏教の基本教義であり、釈尊を初め主だった弟子たちも、その教義から外れることはなかった。
 老いさらばえた釈尊は豚肉にあたって下血し、死期を早めた。
 いつまでも生きることはできたのだが、アーナンダがそう求めなかったために、あえて死を選んだのである──などという作り話は魅力的だが、それが現実というもの。
 教団の後継者と釈尊に指名された知恵第一のサーリプッタは、病弱であり、亡くなったのは釈尊よりも早かった。
 そのサーリプッタと並び称された通力第一のマハーモッガラナーは異教徒に撲殺されている。

 こうしたご本尊たちをいくら拝んだところで、病気が治るわけがないし、災厄を避けられるはずがない。
 これは道理というものであろう。


 だけれども、誤解しないでほしいのだが、ボクは何も「この無常の世に無病息災を願うのは愚かしいことである」などと言っているのではない。
 病気になりたくない。
 事故に遭いたくない。
 そう願うのは人として当たり前のこと。
 ボクが言いたいのは「病気になったら医者に行きなさい」ということなのである。
 お経を何時間唱えたところで風邪ひとつ治らない。
 それは「窓口が違う」のである。
 病気になったら医者に行こう。
「体は病いの巣であり、人に病いは避けられない」などと教える仏門など何の頼りにもなりはしない。
 病気になったら医者に行こう。
 釈尊がそうしていたように。
 そうしてもしも、病気や事故の絶え間ないこの無常の世に倦み疲れ、家庭も仕事も何もかも捨てて、終わりのない安らぎを得たいと思ったのなら、そのときこそ仏門を叩こう。
 それは「正しい窓口」である。

                  
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ジャンル:文化
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