仏教系新興宗教のご利益主義は鼻で笑うことにしている。
人は病み、
人は老い、
人は死ぬ。
何人(なんぴと)たりともこの宿命からは逃れられない。
これが仏教の基本教義であり、釈尊を初め主だった弟子たちも、その教義から外れることはなかった。
老いさらばえた釈尊は豚肉にあたって下血し、死期を早めた。
いつまでも生きることはできたのだが、アーナンダがそう求めなかったために、あえて死を選んだのである──などという作り話は魅力的だが、それが現実というもの。
教団の後継者と釈尊に指名された知恵第一のサーリプッタは、病弱であり、亡くなったのは釈尊よりも早かった。
そのサーリプッタと並び称された通力第一のマハーモッガラナーは異教徒に撲殺されている。
こうしたご本尊たちをいくら拝んだところで、病気が治るわけがないし、災厄を避けられるはずがない。
これは道理というものであろう。
だけれども、誤解しないでほしいのだが、ボクは何も「この無常の世に無病息災を願うのは愚かしいことである」などと言っているのではない。
病気になりたくない。
事故に遭いたくない。
そう願うのは人として当たり前のこと。
ボクが言いたいのは「病気になったら医者に行きなさい」ということなのである。
お経を何時間唱えたところで風邪ひとつ治らない。
それは「窓口が違う」のである。
病気になったら医者に行こう。
「体は病いの巣であり、人に病いは避けられない」などと教える仏門など何の頼りにもなりはしない。
病気になったら医者に行こう。
釈尊がそうしていたように。
そうしてもしも、病気や事故の絶え間ないこの無常の世に倦み疲れ、家庭も仕事も何もかも捨てて、終わりのない安らぎを得たいと思ったのなら、そのときこそ仏門を叩こう。
それは「正しい窓口」である。
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人は老い、
人は死ぬ。
何人(なんぴと)たりともこの宿命からは逃れられない。
これが仏教の基本教義であり、釈尊を初め主だった弟子たちも、その教義から外れることはなかった。
老いさらばえた釈尊は豚肉にあたって下血し、死期を早めた。
いつまでも生きることはできたのだが、アーナンダがそう求めなかったために、あえて死を選んだのである──などという作り話は魅力的だが、それが現実というもの。
教団の後継者と釈尊に指名された知恵第一のサーリプッタは、病弱であり、亡くなったのは釈尊よりも早かった。
そのサーリプッタと並び称された通力第一のマハーモッガラナーは異教徒に撲殺されている。
こうしたご本尊たちをいくら拝んだところで、病気が治るわけがないし、災厄を避けられるはずがない。
これは道理というものであろう。
だけれども、誤解しないでほしいのだが、ボクは何も「この無常の世に無病息災を願うのは愚かしいことである」などと言っているのではない。
病気になりたくない。
事故に遭いたくない。
そう願うのは人として当たり前のこと。
ボクが言いたいのは「病気になったら医者に行きなさい」ということなのである。
お経を何時間唱えたところで風邪ひとつ治らない。
それは「窓口が違う」のである。
病気になったら医者に行こう。
「体は病いの巣であり、人に病いは避けられない」などと教える仏門など何の頼りにもなりはしない。
病気になったら医者に行こう。
釈尊がそうしていたように。
そうしてもしも、病気や事故の絶え間ないこの無常の世に倦み疲れ、家庭も仕事も何もかも捨てて、終わりのない安らぎを得たいと思ったのなら、そのときこそ仏門を叩こう。
それは「正しい窓口」である。
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