とんとんとん、とんとんとん、とんとんとん……。
廃墟となった街、横浜。まるで何十年も前に打ち捨てられたように、この街には生き物の気配って者がろくにありゃしない。だけどその代わりに軍は実験施設や基地のぼうえい設備をおったてるもんだから、この街の面影なんてものは廃れてく一方さ。それもこれもBETAの所為だ。あの糞忌々しい化け物どものお陰であたしは生まれ育った町から追い出された。忘れやしないよ、何たってあたしは間近で見たんだ。横浜に宇宙人どもが攻め込んできた時、あたしは戦術機のコクピットの中で震えてたよ。自分の操縦の下手糞さはあたし自身のせいさ。同僚の所為でも教官の所為でも指揮官の所為でもない。だけどね、あたしは忘れやしないよ。まるで地獄の兵隊みたいに、一緒くたな濁流になってやってくるあいつらが、同僚も元教官も指揮官様も、何もかも呑みこんでぶち殺してく様を。硫黄みたいな臭いを振りまきながら、汚い歯をがちがち鳴らして襲い掛かってきたあいつらが、私の撃震をまるで最中みたいにさくさく食い散らかしてくのを。そして、助けを求める奴らを見捨てて、BETA以上に見境なしに文字通り何もかもを呑みこんで、巻き込んで、ぶっ壊して、ぶっ殺したあれを。
私は決して、忘れられない。
「だーかーらー、ね? ちょっとぐらいいいだろ? 別にあんたらの邪魔はしないさ。ただあたしらにもほんの少し、稼がせてくれって言ってんのよ」
『Sorry.We can't allow you to enter this area.(すみません、このエリアは立ち入り禁止なんです)』
「えーい、よくわかんないけどあれね、駄目って言いたいんだね? オーケーオーケー。あー、あいうぉんちゅーいんでぃすべーす、あんどどぅーざじょぶ、ぷりーずみすたー!(Ah,I want to in this base, and do the job, please Mr!)」
『? ?』
「あいあむれでぃー! ゆーあーまん! うぇんとぅーみーつ、どぅーいずおんりー! あーゆーあんだすたん?(I'm lady! You are Man! When two meets, do is only!)」
『I can't understand what you say.please speak English.(何を言っているのか、わけがわからないよ。お願いだから英語をしゃべってください)』
「だぁあ、話にならん! えぇい、日本人を連れてこい、じゃ、ぱ、に、い、ず!」
……なんか凄い事になってるな。
俺がその現場に居合わせたのは全くの偶然だ。夕呼先生のどだい無茶とも言える注文を受けた所為で常軌を逸する難易度になった訓練をようやく終え、殆ど徘徊するように俺は散歩に出た。とはいえ、基地の中に何か見るものがあるわけでもなく、基地の外にも見るものはない。遠出すれば海やら何やら景色が見えるが、わざわざ外出届けを出しにいくのも億劫だったし、第一そんな時間も体力もあるとは思えなかった。結局俺の散歩はふらふらと辺りを歩き回るだけの、完全な徘徊になってしまったのである。つまらん。非常につまらん。これを楽しめるのはきっと半年ぐらい入院してた人間ぐらいだ。ならせめて、普段あまり関わりのない門兵コンビとだべってくるか、とゲートまでぶらつく事にした。だが俺の最大の誤算は、そこにあのいつものコンビがいなかった事である。……まぁ、確かに365日年中無休で居るわけじゃないだろうし、そりゃあ交代とかもするよなぁ……。代わりにそこに居たのは、豊かな金髪とそれ以上に豊かな脂肪を蓄えた若い白人男性、そして彼と口論になっている日本人の女性だった。
「えー、何だ、あいあむびっち、あいうぉんとぅーびーみーる!(I am bitch,I want to be meal!)」
『wanna be meal!? Why!?』
「とぅーらいぶ!(To live!)」
なんというか非常に凄まじい。単語も文法も色々と間違ってる。きっと彼女は自分がその……春を売る仕事をしていて、食べるものが欲しいといいたいんだろう。だがあれじゃあご飯になりたいと言っている事になってしまう。白人の彼もきっとさぞかし困惑しているに違いない。ここで俺がするべきはただ一つ、二人の通訳をしてあげる事だろう。
「Hey,you.Will you alternate? I can speak both English and Japnese.(なぁ、ちょっと。換わろうか? 俺は英語も日本語も喋れるからさ)」
渡りに船、とばかりに彼の顔が明るくなる。きっと彼も日本語が分からなくて、どうしようもなく困ってたんだろう。しかも相手は拙いというか完璧に何か間違ってる、英語に
似た何かを喋っているんだから混乱も倍増だ。同じ思いは女性の方にもあったらし……
「あー、やっとこさ日本人が出てきたかい」
「……はい、あの……誰のところまで案内すればいいんですか?」
「おっ、話が分かるねぇ。お姉さんそういう子、好きだよ」
端的に言おう。この人は布袋奈留<<ほていなる>>、売春婦だ。
俺にとっては非常に馴染み深い人物であるが、それは『前の世界』での出来事である。だが一つはっきりさせておくべきは俺はこの人の世話になった事はない。絶対ない。断じてない。ただ布袋さんの方から俺の方に近づいてきた為に親交ができただけの事だ。
「はぁ……布袋さん。こういうの、ちゃんと相手と打ち合わせしておいて下さいよ……」
「ごめんごめん、何せあちらさんも新兵さんみたいな風だったからね。その辺のやり方ってもんを理解してないんだろ」
「今日は布袋さんが自分で?」
「そ。まぁ、お姉さんほどの美人さんだったら引く手数多だからねぇ」
この布袋という人は中々の女傑であり、旧横浜市街の不法滞在者達を纏め上げている。『前の世界』の話だと、ここに来たのはほんの2,3ヶ月前の事らしいが……。そして、その不法滞在者達の多くは、まるで深海底の鯨骨生物群集のように横浜基地に頼って生きているのだ。とは言っても、何も衣食住の支援を受けているわけではなく、娯楽品や衣服などの物品からそれこそ肉体まで、取引をし合っている。布袋さんの場合で言えば、春を売る代わりに食料や備品を渡してもらっているらしい。こういった事は本当は軍規に反するのだが……まぁ、さして問題にならない範囲なので黙認されてるとか何とか。確かにこういう所で多少緩めとかないと誰だって窒息するしな。俺としては、周りに女性は沢山いるのだから何もわざわざ軍規を犯してまでそんな事をする必要があるのかと気になったものだけど、当時の同僚に聞いた限りでは『商売の関係だから後腐れがなくていい』そうだ。更に言うなら、女性衛士向けに若い男性も用意している、と布袋さん本人から聞いた事もあったっけ。
「へぇ、そりゃあどうも」
「よかったらお兄さんもどうだい? あんた、意外とあたしの好みだよ」
「遠慮しときます」
「どうもつれないね」
さて、問題はここからである。
バビロン作戦が発動してからの人類に敗色ムードが漂い、誰もが半ばやけくそになっていた時ならいざ知らず、流石に普通に機能している軍の基地に一般人を立ち居らせるのは問題がある。こういうのは本来客側が外出許可をとって、彼女達のテリトリーまでいくのが慣例だった。どうせ件の新兵がそれこそコールガールか宅配ピザでも頼むような気軽さで呼んだのだろう。それも当直の門兵に話をつける、といった初歩的な準備もせずに。
「すみません、申し訳ないんですけど基地への立ち入りは勘弁してもらえますか?」
「あら、どうしてだい?」
「さすがに部外者が基地内を歩き回ると、警備体制とか色々と問題になりかねないんで……もしそうなったら、今までの関係もご破算になりかねませんし。布袋さんと約束してた奴には、あとでそっちに行くかそれともキャンセルするか選ぶよう伝えときますんで」
「あらあら、そいつは困ったねぇ。ここまで来たのは骨折り損ってわけかい?」
「そいつに心づけさせますよ」
「……あんた、やっぱりあたしの好みだよ。どうだい、お兄さん。あたしの事買わないかい?」
「いや……だから困りますって」
「……武? どうしたのだ?」
げ。まずい。
「その方はどなただ? 見たところ民間人のようだが……」
こんなタイミングで冥夜が来るなんて予想外もいい所だ。というかそれはまだ何とかなる。頑張り次第で何とか誤魔化せるはずだ。まずいのは――
「あたしはね、布袋奈留。春を売る仕事してるのよ、今日はお仕事でこっちまで」
「なっ……!」
「違うんだ冥夜! これは決して俺がそういうアレをアレしてるわけではなくでだな、」
「そうだよ、お嬢さん。その通り。このお兄さんがあたしの事買ったわけじゃないの」
布袋さん、ナイスフォロー! 俺はあんたの事を勘違いしていたようだ、あんたは善良な人だ、ありがとう!
「この人は仲介役なの」
「」(←ひどく青ざめている武)
「」(←ひどく赤面してる冥夜)
「いやー、このお兄さんがいなけりゃああたしも商売上がったりだったよ、本当感謝してるんだから」
「た、武! この件は私の一存では決めかねる、神宮寺教官に報告しておくからな!」
「冥夜、待ってくれ、違うんだ、誤解なんだぁぁぁぁぁぁあああ!」
だがしかし、冥夜は俺の哀願など耳に入れず、走りさってしまった。
……うん。こりゃ地獄だな。この場で張り倒されるぐらいは勘弁していたけど、多分本気で処罰されるな。営倉とかじゃ済まない。これはあれか? 前に食堂で騒ぎを起こさなかったから、代わりにここでブタ箱行きしなさいっていう神のご意思か?
「う~ん、若いねぇ」
「……あの、今の発言の所為で、俺が若くして生い先真っ暗なの理解してます?」
「あっはっは、大丈夫大丈夫。だってあんた、制服からして訓練兵さんだろ? そんな奴が仲介役なんてできやしないのは誰でも分かるさ。それに、この外人さんも証言してくれるんじゃないの?」
だからといって笑い話じゃすまないだろう。
間違いなく冥夜はしばらく俺と関わりあうのを嫌がるだろう。そして斯衛の連中は「よくも冥夜様の御心を踏みにじったなー!」とか言って俺の事を葬ろうとするに違いない。
うん、俺死ぬな。白銀武永年18才。死因・冗談。……冗談じゃねーよ。
「じゃあね、白銀。……そうそう、あたしの注文主は×××って奴だから。そんじゃ言伝てよろしく」
そして当の布袋さんはというと、風のように行ってしまった。風というか台風のような――いや、スーパーセルのような人だ。魔女と言い換えてもいいかもしれない。そうだった。布袋奈留とはこういう人だった。善良な人間だなんて考えこそが勘違いだったんだ……。
『……Brother,Don't drop mind. (……あんた……気を落とさないように)』
「……Thank you」
……。
……。
……面白い。期待通り、いやそれ以上だよ。
あぁ、こんなにも胸が躍るのは何時以来だろう? あの薄汚い宇宙人どもを殺せないとそう分かったあの日から、いい事なんかなかったんだ。それでようやく、こんなわくわくに出会えたんだ。
『……どうだった?』
小型の無線機から漏れてきたのは、裏切り者の声音。だがあたしにとっちゃ、あたし達にとっちゃ最高の協力者様の声音。獅子身中の虫とはよく言ったもんだよ。あんだけ体が膨れた組織ともなりゃ、そりゃあ我欲の為に寄生主を食い殺す奴だってなんだっているさ。
「いいねぇ、やっぱり。あんたの言ってた彼」
『そうじゃない。入り込めそうか?』
相変わらずつれない御仁だこと。ばかみたいに真っ直ぐものを見る、こんな人間を愚直だって言うのかもしれないね。ま、どちらかというと曲がりくねった性質のようだけど。
「手引きさえあれば。やってくれんだろう?」
『あぁ、それぐらいはな』
「にしても、なんだって自分でやらないんだい? あたしに諜報員まがいの事させるより、自分で嗅ぎまわった方が早いだろうに」
『俺は今、色々と目をつけられてるんでな。何かすればすぐに嗅ぎつけられる』
「へぇ、じゃああたしはそんなあんたの身代わりってわけで」
そんな身に甘んじるだなんて、あたしはよっぽどの馬鹿か善人ってこった。……惚れた弱みって奴かもね。女はつらいねぇ。
『……お前の方で何かミスは?』
「んーそうだねぇ……」
ヘマ、ヘマ、ヘマ……何かやらかしたのは……。
「あぁ、そうだ」
『あるのか!?』
「がなりなさんなって。さっき言った坊やかな」
『何をしたんだ……』
「あの子、あたしの事知ってたみたいだよ。あたしが名乗る前にあたしの事、名前で呼びやがった」
『……どういうことだ? もし気付かれていたら――』
「慌てなさんな。どうせあたしの客だの噂だので、布袋って名前を耳にしたんだろ」
『ならいいのだが……ではまた何かあったら』
「んじゃ、ばいばーい」
……うふふふふうふうふふふふ。
そんなんじゃないさ。何せあいつは――白銀は、あたしの事を見知ってやがった。話に聞いただのなんだので、初対面の人間を何の確認もせずに名前で呼ぶわけないじゃないのさ。せめてあんたが布袋か、って聞くに決まってる。だけど白銀は何の躊躇いもなかった。まるで知り合いに呼びかけるみたいにねぇ。
だからね、あれはお返し。あたしもあいつの苗字を呼んでやったのは。あいつは気付いているのかな? 今頃『なんで苗字が分かったんだろう』って頭を抱えてるんだろうか、それとも馬鹿みたいにあのメイヤとか言う小娘を説得しに駆け回ってんだろうか? 噂の訓練兵なんだ、噂になるからにはせめてそれなりのモノを備えてておくれよ。あたしの名を呼ぶだなんてくそチンケなもんじゃなく、あの二発の爆弾みたいなもんをさ。
あぁ……血が沸く、肉が踊る、胸が弾む、まるで初恋みたいな高揚感と焦燥感。戦場の風に吹き飛ばされ、退屈で醜悪な凪の中に落っことされたあたしの為のこの感覚。
「快感、ってやつだねぇ……」
冬が近い、そんな風が吹いている。だけどいくら木枯らし様だって、じきに始まる大火事は消せないよ。いいや、この風は全てを燃え上がらせてくれる風かな。呪いも復讐も陰謀も罪業もこの土地も、何もかもを焼き払って灰にする、そんな火と風がじきにくる……。
「……てな事があったんですよ」
数時間後、武はその日あった事を訓練のものとあわせて、夕呼に報告していた。それに対し夕呼は、最初こそ興味なさげな様子だったが、段々とその話題に関心を示していた。
「ふぅん、それって『前の世界』ではなかった事なのよね?」
「当たり前ですよ。『前の世界』だと、出会ったのはオルタネイティヴ5以降ですから」
「それってつまり、『この世界』の歴史が変わりつつあるって風に捉えることもできるんじゃないの?」
そうか、と納得しかける武。だがすぐに、果たしてそう受け取ってしまって良いものなのか、という疑問が浮かんでくる。
「見るからに首を傾げてるわね」
「いや……だって食堂の飯とかみたいに俺が介入してなかったものは全然変わってないんですよ? なのにいきなりの事で……」
「一般論としてはね、そんなところにまで影響を及ぼすほど、私達の行動が大事になっているっていう答えが出せるのよ」
教え諭すような口調の夕呼の言葉に、武は考え込むように視線を下げ、そして恐る恐る顔をあげた。
「……じゃあ、一般論じゃない答えだとどうなるんですか?」
これには一瞬面食らった夕呼だったが、それは教え子の成長に驚く教師のそれだった。現に夕呼は、もう喜色を顔に浮かべている。夕呼はわざと溜めるように軽く息を吸い、それからゆっくりと、「そうね……」と言葉を紡ぐ。
「こうも考えられるんじゃない? あなた以外の誰かが、世界を変えうる行動を起こしている――なんて?」
「それって――!」
「勿論ただの仮説よ。でもね、世界を繰り返す白銀武、世界を跨ぐ大十字九郎。そんな人間が二人も居るんだもの、もう一人ぐらい世界に影響を及ぼすような『特別』が居てもおかしくないんじゃない? その行動が意識したものか無意識のものかは別としてね」
その笑みはもう教師のそれではない。純粋な研究者としての、探求する何かを見つけた笑み。何か核心に至りうるかもしれないピースを手にした笑み。
そこに善悪などなく、ただ純粋に『それ』を解き明かそうという思惟があった。それが彼女を探求者たらしめる原動であり、本質なのだろう。究明を第一と捉えるは学究に生きる者の定命である。観測し、分析し、思考し、定理を表すというものが生き様なのだ。
しかし白銀武を始めとして、多くの人はそうではない。故にそれらの肯定を無視し、直感や『なんとなく』という曖昧模糊としたものに基づいて思考が開始される事も多く、寧ろその方が多いのかもしれない。それでも人が理知によって生きる限り、それらのある意味原始的とも言える思索は冷静で論理的な議論によって容易に追放されるのだ。どこの誰とて論拠から結論までが理性的に整えられた弁論を無視してまで勘に頼ろうとはすまい。
だのに今、白銀武の意識は夕呼とは違った答えを求めている。
明確な反証も何もないのに、そうではない、そんなものでなくもっと異様なものだ、と囁く声がするのだ。無論それは耳にするものでなく、ただ武の脳蓋の中に反響するだけのものである。だがそんなものは迷妄であると理性が反論し、結局その些細な響きは黙殺されるのだ。されねばならぬのだ。
「そうだ、夕呼先生。例のOSの件なんですけど――」
話を切り替えたのはその間違った意識を振り払うためのものだ、という自覚はなかった。あるいは単純に、夕呼が仮説を出し、今はそれ以上のものは求められない以上話題は終わったのだ、という簡潔な思考があったのかもしれない。
「そうね、そろそろデータも取れてきたしプロトタイプをあなた達の機体にインストールしてもいいかもね」
「達? ひょっとして207Bのみんなの事ですか?」
「そうよ。だってあなただけのデータじゃ、白銀武専用OSになっちゃうじゃない。目標は普通の衛士が白銀並みに戦術機に扱う事なんだから」
自分が範となるというのは武にしてみればもう慣れきった事である。『前の世界』に於いて前線に立つ事を許されなかった武の、数少ない仕事こそが後輩の育成だった。だがそれはあくまで教本の内容に準拠するものであり、変態的とすら称された武の機動を模倣するなど夢のまた夢、寧ろその機動の価値を正しく評価する人は稀だった。しかし今はその夢を現実に移そうというのだ。これには武とて未知の、何ともいえない感慨がある。照れ隠し半分に、ふと視線をずらすとそこには霞がおり、珍しく口角をわずかにあげ――どうやら微笑んでいるのだろうか。その意図するところはどうあれ、結局武は照れ隠しに失敗し、その部屋に留まるのすら頬を染めうる事である気すらしてきた。
「あー、先生。じゃあ俺、今日はこれで」
不器用さを露にしつつ、武は短く告げるとそそくさと部屋を後にする。そして誰もいない廊下を渡りながら思索に耽っていた。
布袋さんにしろ、OSにしろなんだか『前の世界』とは大分変わってきたな。これも夕呼先生の言うとおり、世界は変わってきてる。でもそれはどうなんだろう? いい方向に変わってるんだろうか。新潟へのBETA侵攻だって、確かに被害は減ったけど本来ならまだ生きてたはずの人が犠牲になってる。もしその中に夕呼先生やラダビノッド司令みたいに、この世界に――人類にとって大切な人間がいるかもしれない。もし出来上がるOSや、俺達の行動がそういう人を殺してしまう切っ掛けになったら……。
どん、と。相も変らぬ、幾度となく繰り返した思考の堂々巡りを打ち切るように、曲がり角で武は誰かにぶつかった。ふと気付けばもう地階にまで来ていたのだ。時間が時間とはいえ、そんな場所を考え事をしながらぼうっと歩いていれば人にぶつかりもする。
「すみませ……冥夜! そうだ冥夜、昼間のあれは誤解だ!」
だがしかし、当の冥夜は聞く耳持たぬとばかりに背を向けて、駆け抜けていった。走り去る中、何人かにぶつかっていったがそれでも構わずに足を止めなかった。見事なまでの拒絶である。逆にここまでくると冗談の類かと思えるほどに。
慌てて追いすがろうとする武の進路を塞ぐようにあらわれたのは『元の世界』で3バカと呼び親しんだ三人のメイド、もとい斯衛である。その後ろを見れば赤い斯衛服を着た長髪の女性が冥夜の名を呼びながら全力疾走しているが、武がみるにあれは月詠だろう。
「白銀武! よくもまあ冥夜様の前に姿を見せたな!」
「聞きましたわよ、その……女性を食い物にしていると!」
「冥夜様のお心を踏みにじったなー!」
「いや、違うんだって3バカ、じゃないお三方! あれにはわけあってだな」
「今3バカと申しまわしわね! 許しませんわよ!」
「冥夜様を傷つけた罪、ただで済むと思うなよ!」
「言い訳は聞かないからなー!」
「話を聞けーーーー!!」
……この騒ぎを迷惑に思う、その心は果たして武にはなかった。
それを何ゆえかと問われても、当の本人とてその答えは持ち合わせてはいない。だがしかしこの喧騒がかつての彼の日常であり、この変わり果てた世界――或いは彼自身すらも――での限りある慰めである事は事実である。たとえそれがひと時の仮初めであるとしてもだ。
夜の空気の向こうではか白い月が暈をかけながら星の中に輝いている。日の光に代わり地上にそそぐ光は、太陽のそれ同様万人に平等である。月光の下で陽気に騒ぐものにも、月輪を見上げながらほくそ笑むものにも、そして月明かりの届かぬ地下深くに潜るものにすらも。