チラシの裏SS投稿掲示板




感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[21053] BETA BANE(マブラヴ×斬魔大聖デモンベイン)
Name: アキ海苔◆a481486d ID:11704c40
Date: 2010/10/25 19:19
どうもはじめまして。
アキ海苔です。

えぇと、この度は拙作ではありますがこのような作品を投稿させていただきました。
作者はどうもエロゲーが大好きでして。んでもって型月とかニトロプラスみたいな熱血系な作品が超大好きでして。
「よし、俺もなんかこう湧き出るアレコレをブチまけてみるんだぜぃ!」
と思い立ったわけです。
その結果、デモベ×マブラヴというものが……


まぁこの子は中二病に感染してるわ! もう助からない!
な残念な内容かもですが、付き合ってくださったら大変嬉しいです。

感想とか貰えたらもっとヒャッホウ! なテンションになるのでよろしくです!


#4で美琴出してもうた。
やっべ、原作だと入院中なのに!
まぁそこは何かこう友情パワーとか愛情パワーとかで即効完治したって事でごまかしといて下さいな。ちょいちょい編集入れてフォロー……できればいいなぁ……。

追記
ちょいちょい知識不足、設定ミスが(主にデモンベイン関係から)出てますが、何かこう……オリジナル設定? ってことで
それと登場人物が結構自由気ままというか原作とは性格的にも能力的にも逸脱した行動をとる事が多々ありますので、どうしてもお気にさわる方はお控え下さい。

すみませんごめんなさい調子こきました。


#13が#12になってることに気付いたので、ついでに色々と修正しました。

それといきなりですが、次の更新をあげたら少し間が空くかもです。理由は作者が1ヶ月ぶっ通し模試と定期試験と入試の素敵月間にinするからです。
わぁい。


すいませんごめんなさいマジでちょっと調子こきましたこれからは頑張らせていただきますので怒髪天を衝いたりしないで下さい。



[21053] BETA BANE #1 旅立つ者
Name: アキ海苔◆a481486d ID:11704c40
Date: 2010/08/26 13:51
 深遠、深淵。
 余りにも遠い宇宙の果て。余りにも広い宇宙の淵。
地球の大地から見る天の川より尚大きい、名も無き紅蓮の大河。
紅く輝き、白く映え、青く燃え、黒く沈む星々の数々。
それらを抱く母の如き漆黒の大海。
そんな静寂と虚空の空間に彼等は、一人と、一冊と、一体は居た。
 一人は、男だった。
 言うなれば常人。なれど人の領域から踏み出した者。
 凡庸と言い切れる範囲でしかない数々の長所を積み上げ、凡人で在りながら異端に、誰もが至れなかった領域に脚を踏み入れた男。
 人外として産まれ、そして邪悪として生きた最悪たる最強を打ち破った、絶対善。
 一冊は、魔導書だった。
 古びれた装飾。そしてそれに相応しく幾千の年月を数えた魔導書。
 とある狂人の手によって記された外道の知識の塊たる獣の咆哮の名を持つ一冊。
 そして可憐なる美少女の形を持つ最高の魔術への道標。
 一体は、神だった。
 人が造りし人の為の、偽者の神。刃金によって形作られた機械の神。
 強大なる邪悪と戦うべく建造された人類最後の、そして最弱無敵の砦。
 出来損ないの神もどきと哂われ、そして真の神に成った無垢なる刃。
 男の名は大十字九郎。
 魔導書の名はアル・アジフ。
 神の名はデモンベイン。
 彼等、三位一体の魔を断つ剣は邪悪と闘い、幾度となくその刃を欠き、そして再び更なる強さを持って立ち上がり続けた、外道の知識を駆りて邪悪を狩る魔を断つ剣。
 そして世界の邪悪たる秘密結社ブラックロッジの大幹部、アンチクロスを破り、その悪の首魁、邪悪と憎悪で満たされた無限の輪廻の中を巡り続けた虚ろな黒き王、邪悪の化身、大いなる獣、聖書の獣、七頭十角の獣―――マスターテリオンをも果て無き輪廻の牢獄から解き放った。
 マスターテリオンが呼び出したヨグ=ソトースの門も閉じ、世界には平和が、人々には笑顔が取り戻され、邪神ナイアルラトホテップによって仕組まれ、歪んだ運命の下に産まれて邪悪に侵された人々もその事実そのものと、そして何よりもその宇宙で起きた怪異ほぼ全ての元凶と云える邪悪なる神、ナイアルラトホテップと共に消えたのだ。
 全ての因果を断ち切り、全ての邪悪を討ち果たし、全ての果てに辿り着いた彼等。
 そこで彼等が見たのは、何処までも広く、何処までも遠い宇宙。
 深淵にして深遠たる宇宙なのだ。
 そしてもう一つ。
 彼等の今漂う宇宙のみが、全てではない事。
 邪悪の影は他なる宇宙で尚も潜み、蠢いている事。
 自身が、それと戦いに征ける事。
 もうただでさえ元の世界とはかけ離れているのに、それをしたらもう恐らく二度とは還れない事。
 九郎と、アルと、デモンベインとはそれを全て、識っている。進むべき道も。だが、アルは九郎の腕の中、今一度愛しい彼に問うた。

「……九郎、総て―――解かっているとは思う」
「ああ、全部解かってるぜ、アル」
「もしも、もしもデモンベインの『獅子の心臓』の力を使えば既に力を使い果たしかけているとはいえ、汝だけでも元の世界に戻れるのだぞ……?」

 ひどく切ない顔をして問う最強の魔道書にして最愛の少女に、仄かに頬を赤らめながらも、九郎は悪戯っぽい笑みで返した。

「アルが居なけりゃしょうがないだろ。元の世界だって」

 ボッ、と火が点いた様にアルの顔が紅く染まった。腕に抱かれた状態からそんな上白糖よりも数段甘い台詞を吐かれたら誰だって頬の一つも染める。例えそれがそんな奥歯の浮きそうな台詞をほざいた本人の数十倍の時を過ごした存在であっても。

「悔いはあるさ。でも、此処でアルを独りぼっちにして自分だけ還ったら、その方が絶対に悔いになる。だから俺は―――」
「もうそれ以上言うな、九郎」

 流石に恥ずかしいのか、白く、小さく、肌理細やかな手が九郎の口元に伸び、強引にそれを閉ざさせた。

「ならもう二度とは聞かん。征くぞ、九郎! 征くぞ、デモンベイン!」
「おうよ! アル!」

 その声に応えるように、もう死に体であった筈のデモンベインがゆっくりと、だが確実に動き始める。
 そう、彼等は三位一体。どれが欠けてもいけないのだ。そして同時に欠けそうになれば例えそれが如何なる危険を孕んでいようとすぐさま立ち上がり、闘い続ける。それが、大十字九郎、アル・アジフ、デモンベインの三位一体なのだ。
 ゆっくり、ゆっくりと宇宙の黒を切り裂き進み、そして本当に宇宙を切り裂いた。
 目の潰れる様な爆光が一度だけ果て無き宇宙に瞬くと、もう既に彼等の姿は其処には無かった。



  BETA BANE



 10月22日。
 白銀武は目を醒ますと自宅のベッドの上に居た。
 壁の一面には彼がかつて通っていた高校、白陵柊の白い制服が垂れ下がっており、机の上には彼の愛する人と、大切な友人達からの贈り物、ゲームガイとそのソフトが置かれていた。
 武は、覚醒後間も無い少し呆けた意識と、周りの余りにも日常的な景色から、取りとめも無く、そして幸せな事を思った。

(……珍しいな、純夏も冥夜も居ないなんて。月詠さんも来てないし、久々に惰眠をむさぼろうかなぁ……最近は霞が起こしに来るのが常になってたし、こういうのも何時以来だろ)

 其処で、漸く気付いた。

(純夏も、冥夜も、月詠さんも、霞も? 霞? 霞って――!)

 白銀武は鍛え抜かれた軍人だ。本来ならばいくらまどろんでいるとはいえ、そんな勘違いを犯すほうがどうにかしているのだ。
 跳ね上がる様にしてベッドから起ち上がり、辺りを見回す。
 此処は何処だ? 自分の部屋だ。
 今は何時だ? カレンダーなどからして恐らく10月22日。
 そう、10月22日なのだ。
 武にとっての『元の世界』に変革が訪れたとも云うべき甘き運命の日。
 武にとっての『BETAと戦い続けている世界』に呼ばれ、自身の日常の甘さを痛感させられる事となった苛烈なる天命の日。
 その10月22日。

「まさか――!」

 武はカーテンのかかった見慣れた窓に向けて走った。
 自分が二つの世界の垣根を飛び越えてしまったあの日であるこの日なら、もう一度の跳躍を以って元々武の住む世界に還れるのでは? あのどこまでもお気楽で、甘くて、切なくて、暖かくて、優しくて……そしてどうしようもないほどに愛おしいあの世界に。
 もしあのカーテンを払えば『元の世界』を代表する様な幼馴染が、白銀武最愛の女[ひと]が待っていてくれるのでは、と。余りに必死な武の様子に驚き訝しがりながらも、『どうしたの~? 武ちゃん。何か変だよ?』と心配してくれる鑑純夏が居るのでは、と。そんな夢見がちで当たり前だった一欠片の希望を抱いて、白銀は走って――。
 少し日に焼けたカーテンが揺れ、ほんの刹那、窓辺に人影を見た気がした。

「純夏――!」

 それだけで武は泣きそうだった。嬉しさに。
 その直後に武は泣いてしまった。現実に。
 人影はなかった。その人が住まうべき家ごと。
 あったのは鉄。純夏の家を押しつぶして横臥する、人の形を持つ巨大な鉄。
 この異世界で武を生かせたその巨人の名は戦術機。戦術歩行戦闘機。
 これは『元の世界』に存在すらしていなかった。何故ならこんなデカブツが存在する必要性が無かったからだ。戦術機は0G、若しくは低G下での戦闘を目的にした兵器開発計画がBETAの侵略に後押しされて実行、開発、生産、装備されたものであるからにして、BETAも何も居ない世界ではその計画は成就しない。
 この世界はBETAと戦う、戦い続ける世界なのだ。未来永劫、過去永劫。
 純夏はこの世界に存在しない。この世界に居るのは人類の敵だけ。なんの希望もなく、ただ戦い続け、荒廃し続けるだけの世界。

「そんなのって……そんなのって……!」

 武は識っている。この世界の末を。荒廃の終焉を。
 自分達は大切な物を失いながら、何処にも進めず立ち止まるだけで精一杯なのだ。救世主の誕生を祝うその日その夜に自分達は『人類』という種を救うために多くの人類を見捨てる、最後の希望にして大いなる絶望への旅路を歩むのだ。母なる地球[ふるさと]を失いながら活路を往き、G弾で母なる地球を汚しながら死出の旅を逝く――。そんな悲劇しかないこの世界を、武は識っている。識ってしまった。
 膝を折り、心を折り、武は嘆いた。眸には涙を湛え、その雫が零れぬ様に最後の一線を守り抜きながら、武は泣き嘆いた。
 そして――――――起ち上がった。
 白銀武は軍人だ。鍛えぬかれた鋼の肉体と鍛えぬかれた不屈の精神を持っている。そsの総てを以って戦えるのだ。現実とだって、自身とだって。どんな絶望にあっても必ず這い上がれるのだ。そう、白銀武が識っているのは何も絶望や悲劇だけではない。この世界の辿るであろう未来も、前回と違い今の自身が戦士である事も、そして何よりも希望も。
 そう、自分は戦えるのだ。
 そう、自分は抗えるのだ。
 そう、自分は救えるのだ。
 世界と戦える。世界に抗える。世界を救える。
 一度右手を滑らせればもう眸に涙などなく、あるのは決意と覚悟のみ。しっかと床板を踏みしめ、白銀武は起ち上がった。
 本来ならもう半年足らずでに卒業式を迎える筈だった白陵柊の白い制服が壁には掛かっている。これはこの世界では横浜基地にいる訓練兵達が着るべき物だ。もう一度基地に入るにはこれ以上に心強いツールは無いだろう。それにゲームガイを掴んで歩き出した。
 一瞬、窓の外の場景が目に映った。

「純夏……。すぐに、還ってくるからな」

 もう武は振り返らない。拭い去った涙の残滓が指の先を離れ、窓の外に広がるこの忌まわしく、されどかけがえの無い世界に飛んでゆき、消えた。窓から香る空気はやはり土煙と硝煙に満たされている。だが、一瞬だけ『元の世界』の香りを嗅ぐ事が出来た気がした。
 そう―――白銀武は、希望を識っている。





[21053] BETA BANE #2 交わる世界 交わる拳
Name: アキ海苔◆a481486d ID:11704c40
Date: 2010/09/30 22:42
 未だ咲かない桜並木。その中央に構える坂道を白銀武は歩いていた。
 『元の世界』が白陵柊に通っていた時はもっとゆっくり、それも多少なりとも疲労を感じながらだったのだが、今はそんな事は一切無い。
 それは白銀武が只のそこそこに運動が出来る高校生から、鍛えぬかれた軍人に成ったからだけではないだろう。
 そして武自身、今更気付いたのだが体が確実に若返っている。『前のこの世界』ではもう幾つか年を重ねた筈だったのだが、どう考えても今の武は学生時代の若さを保っている。だのに肉体は其れ相応の時間を掛けて鍛えてきた物だ。どうも理解が及ばないが、取り敢えず有益な状態である事は確かだ。
 そんな疑問を抱きながらも坂道を上る、登る、昇る。
 考えながら物事をすると意外と早く終わる物ですぐに坂道の頂上、横浜基地が見えた。
 目付きの鋭い東洋系の黄色人と、筋肉質で気の良さそうな顔をした黒人の二人組みが門の所で銃を構え立っており、人影を確認すると同時、身構えた。が、しかしその人影が身に纏っているのが真っ白な学制服、つまりは訓練兵のする服装であるのを見て、顔が緩んだ。

「こんなところで何をしているんだ?」
「外出していたのか? 物好きな奴だな。どこまで行っても廃墟だけだろうに」
「隊に戻るんだろう? 許可証と認識票を提示してくれ」

 前にも聞いたような会話だ。ここはやっぱり前と似たような返事をするべきだろうか……などと考えているときだった。

≪防衛体制基準2、繰り返す防衛体制基準2。尚、これは訓練ではない。繰り返す、これは訓練ではない!≫

 けたたましく鳴り響く警報。それもかなりレベルの高いもの。二人の門兵の顔にも動揺が走り、急な出来事に対応しきれて居ないのが手にとって見えた。そして警報を聞き、更に数人の門兵達が出てくるが、やはり彼らも少なからず動揺している。

「な、何が!?」
「分からん! だが取り敢えずこっちに!」

 そう言うと黒人の門兵が白銀の手を取り、基地内に追いやった。
 いくら非常事態とはいえ、否、非常事態だからこそ、確認もせずに基地内に人間を招きこむなどかなり不味い事だ。『前の世界』で白銀自身思う所があったが、この時期の横浜基地は弛んでいる。此処が後方だと云う状況に甘えているのだ。
 確かに日本国内の縮図では新潟やらに比べれば横浜と云う場所は当然後方だ。だが世界と云う縮図で見た時、横浜も前線の一部であり、あくまで第一線の場所なのだ。
 その中でこんな雑な警備ではいつ何時問題が起こっても当たり前と言うものだ。もし白銀が基地に所属する、又は来訪した重要人物――例えば香月副指令や珠瀬事務次官――を狙う工作員の類であり、彼の共犯者の陽動でこの警報を鳴らされたのであればその目的はいとも容易く為された事だろう。
 だが生憎とこの状況に一番混乱していたのは誰でもなく武だった。
 最初、白銀は『前の世界』と同じ様な行動を取ろうと思っていた。――無論、少ない時間を有用に活かす為に短縮できる物は短縮するという前提の基で、だ。が、いきなりこれだ。歴史は繰り返すと言った人が居たが、もういきなり変わっている。前は観光気分で街(とは云っても殆ど廃墟だが)を歩き回った後に基地に着いたが、今回は明確な意志の下此処に来た。……まあ、それが未来に与える影響が此処までものな訳がないのだが。
 取り敢えず、原因が何であれ基地内に入る事は成功した。
 後は香月副司令――つまりは夕呼先生にコネクションを得るだけなのだが、一番の課題がそれだった。コネクションどころか出会う切っ掛けさえ無い気すらする。多分このま放って置けば、この騒動が終わった後の点呼でお縄だろう。
(どう……するかな)
 兎にも角にも白銀は今は黒人の門兵が自分の手を引くままに任せようと思った。



 処変わって中央司令部。時は戻って十分前。
 それはいきなりというしかない事だった。
 横浜基地独特の緩みと云うか何と云うか、そう云った何処か気だるい雰囲気は何処にでもある。それはそういったものがいの一番に敬遠されるべき、この中央司令部でも、だ。
 無論レーダーや通信機の前に座っているオペレーター達は見た目はしっかりと、中身はそれに随するほどに真面目だ。だが平和ボケとでも云うのか、時たまつい昼食やつまらない噂話の事が脳裏をよぎってならない。
 防空目的の延長線上、軌道上を監視するレーダーを担当していた国連軍通信兵も当然そうだった。ついつい今日の晩飯のメニューを何にするか、という事に思いを馳せていた為か、ほんの、ほんの数秒ながらも『それ』の到来に気付けないでいた。
 レーダーの軽快な電子音が目標の接近を促す。そしてその通信兵は直ぐに行動に移しはせずに当該区域を航行する予定の再突入駆逐艦――武達の世界で『スペースシャトル』と呼称される――を検索し、該当する艦がない事で、初めて非常事態に気付いた。
 慌ててその時の司令部の責任者に報告し、基地全域に警報を出す。高射砲やらミサイルやらの防空兵器を稼動させるが、高射砲の仰角や到達高度はたかが知れてるし、ミサイルなどの誘導弾は大抵が光線級BETA等によって撃ち落とされるために何処でも配備数は多くは無い。
 慌てに慌てる司令部。だがそれはとある男女が脚を踏み入れた瞬間に沈静された。

「何慌ててるのッ! 現状を報告しなさい!」

 まず女性の一喝。その女性の名は香月夕呼。この横浜基地の副司令を勤めつつ、とある計画を推進させる極東最高の頭脳と称される研究者でもある。
 隣に構える壮年の男性はパウル・ラダビノッド。この横浜基地に於いて、唯一人香月夕呼に指図する事の出来る人物――つまりは司令だ。
 基地のトップの二人が出てきた事で取り敢えず場の混乱こそ収まったものの、事態はまだ最悪に向けて邁進中なのだ。オペレーターの一人、イリーナ・ピアティフが冷静に状況を報告する。

「衛星軌道上に謎の物体を確認。全長は50m程です。間もなく偵察衛星からの映像が送られてくる筈です」
「ありがとう。……司令、50mなら……」
「うむ、最悪の事態だけは免れたようだな」

 最悪の事態、というのは何も数kmの巨大隕石が落下してユカタン半島で恐竜絶滅でハルマゲドンな話では無い。それ即ち現行の人類最悪にして最大の脅威、BETAの進行である。BETAは進行の際、ハイヴから直接沸き出る場合が殆どだが、その勢力範囲拡大を目論む時、着陸ユニットと呼ばれるBETAの宇宙船を飛ばし、そこから沸き出て辺りを占領するのだ。残念な事に人類がこれを迎撃できたのはアメリカによる北アメリカカナダ領の着陸地点に戦術核集中運用で領土ごと焼き払った一例のみである。つまり、人類に着陸ユニットによる侵略を防ぐ手立てが無いといっても過言ではないのだ。
 今までその存在が確認できなかったほどの遠方――地球やその付近の惑星の公転軌道外からBETAが降りてきたという事実はない。地球に居るBETAも元を辿れば月や火星、更にその外軌道を回る星々を経由してやってきたのだが、前例がないからといって可能性がないというわけではないのだ。
 だがその事にほんの一かけの安心を憶えたのも束の間、夕呼はまたピアティフの方を向き、問うた。

「で、落下予測地点は?」
「! ――それが……旧横浜市街です」
「何ですって!?」

 旧横浜市街と云えばこの横浜基地とは目と鼻の先である。そんな処に隕石にせよ何にせよ巨大な質量体が落ちてきたら大惨事は免れない。うまく大気圏で燃え尽きれば僥倖、だがそれは明確な計算は行っていないものの、もしその断片でも燃え残り周囲数百mに落ちれば、横浜基地の機能が一時的に麻痺ないし弱体化する事は十分にありえる事だった。

「計算は何度かしましたが、約10分後に多少の差はあれど基地周囲へ――あっ、映像着ます!」
「モニターに映して頂戴」

 夕呼が云うのと同時、映像が投影された。

「……誰だかしれないけどこのクソ忙しい時にふざけないでくれる?」

 そう言いながら夕呼の口元がヒクヒクと痙攣している。眉根に深い皺を刻み、目に殺意を宿らせている。憎悪の一言に尽きる狂相だった。
 今の今まで悠然と構えていたラダビノッド司令も呆れた様に目を見開いている。
 司令部詰めのオペレーター達は慌てて映像を正そうとする者や失意のあまり口を開けて半笑いを浮かべる者、中には何故か目を輝かせている者も居た。
 だが何時までたっても映像は回復しない。いや、回復しようがないのだ。
 何故なら――

「……司令、副指令、映像は本物です」

 とある通信兵が言った。言ってしまった。
 皆が驚き呆れるのもその筈。モニターにデカデカと拡大されていたのは、巨大な人型だった。
 全身を刃金で包み、双眸は燃えている。その背には酷く痛んだ様にゆっくりと羽ばたかれる紅蓮の翼。膝の装甲は腰元を超える程に巨大だ。止めに頭からはビームの輝く髪が生えていた。
 その全高50mの巨体が比較物のない宇宙空間の所為で視覚的にはゆっくりと、だが事実として確実且つ急速に青い地球に向かって進んでいる。
 巨大ロボットだ。紛う事なき、巨大ロボットだった。
 全長50mの巨大構造物なら夕呼は勿論、誰でも知っている。隕石もあれば、宇宙ステーションだってある。電車だって連結する量と機種しだいでは50mの大台に達することもあるだろう。
 人型の巨大構造物という物も夕呼は勿論、『この世界』の人間なら誰でも知っている。『この世界』では、BETA――それも主に光線級BETAと云われる種――に対抗すべく生み出された兵器、戦術歩行戦闘機――通称・戦術機がごく普通に存在し、ごく普通に戦闘を行っているのだ。
 だがしかし、戦術機は20m足らずしかない。一応、50mの大台を超える機体が存在しない事も無いが、その機体はとうの昔に開発が断念され、試作機がモスボール処理の上でお蔵入りという様な代物であるからして、論外である。
 50mを超える、人型の、巨大構造物。
 夕呼やラダビノット指令を始め、幾人かの人間はその余りにも荒唐無稽で唐突な状況に対し、程度の差こそあれど説得力の在る説を頭の内にこねくり回していた。
 『某国の空間戦闘用の新型機』、『クラッカーによる偵察衛星への情報欺瞞』、などといった多少ないしそこそこには現実味のあるものもあれば、『他の星の高度な知的生命体が建造した兵器』、『BETAと敵対する火星起源の生命体』などという完全に馬鹿げた妄想もあったそうな。

 (でも、全て間違いね)

 夕呼は直感していた。普段の彼女が行う論理的な思考でも、データから割り出せる推察でもなく、『直感した』のだ。
 そして、その後に思考と推察が追いついた。まるで、直感を肯定でもするかの様に。
 それを彼女は気付いていない。仮に気付いたとしても、科学者と云えども直感は大事だろう、の一言で済ませてしまっただろう。
 そんな閑話も置き去りにして、尚も彼女の思考は自身の脳内を疾走する。

(異星人のはジョークにしてはつまらないわね。偵察衛星へのクラックにしても、アノ国にしたらここまでする必要ないし、個人じゃここまでの事はできない。新型の戦術機にしてもあの形状は、非効率的過ぎるわ。第一、何処の国の機体系統とも違いすぎる。あんな奇妙な系統、この世界の何処にも存在しない……)

 そして、気付いた。

 (『この世界の何処にも』?)

 そう、『この世界』には、存在しない。『この世界』には。
 (なら、『他の世界』には?)
 ……因果律量子論、というものがある。
 香月夕呼が科学者としての人生を懸けている研究だ。
 曰く、世界の理には強い因果関係がある。起点があるからこそ結果がある。起点さえなければ、結果もまた在り得ない。
 曰く、世界は確立によって成り立つ。2本の道の右を選ぶか左を選ぶかは確立であり、それにより、世界はいとも簡単に変わり得る。
 曰く、起点の存在の有無や選択によって世界は大きく変わる。右の道を進んだAの世界。左の道を選んだBの世界。選択肢すらなかったCの世界。中央の道があったDの世界。……。
 曰く、その世界の全ては並行して存在する。ABCD……の世界が、無数に、無限に、そして同時に。
『この世界』ではあんな機体系統はない。なら、『他の世界』では?
 『他の世界』と『この世界』とでは物理学の法則――例えば、地球の質量が異なり、重力も変動する――が異なっていたら?
 (並行世界で造られた戦術機なら―――!)
 存在し得るのだ。
巨大な、巨大過ぎる程の戦術機も。別の目的の為に作られた巨大なロボットも。
 全て、存在し得るのだ。証明しえるのだ。因果律量子論が立証できれば。

「やっぱり……私は、私の理論は間違っていなかった……!」
「……何か仰りましたか? 香月博士?」

 ラダビノット司令の一言に夕呼は慌てて口元に手を当てた。喜びの為か、夕呼はいつの間にか、本人すら気付かない内に声を漏らしていた。

「い、いえ、司令。何でもありません……。唯……」
「唯?」
「唯、余りに馬鹿げた話だな、と思いまして」
 そう、今はまだ只の馬鹿げた話なのだ。夕呼の理論も、未知の巨大ロボットも、何もかも。今はまだ。

「だが、これも現実だよ」
「そうですわね」

 取り敢えず、夕呼は『国連軍横浜基地副司令』として目の前の現実に対処する事にしたのだった。



 白銀武は走っている。
 無論、それは比喩的な意味でなく、現実的な意味で走っていた。
 走り出して幾許もなく、武は二人の門兵に所属を尋ねられて、とっさに夕呼の直属部隊のものと答えてしまった。それは明らかに武の失態だ。
 いくら急な事態に驚き、適切な対処をし得なかったとはいえ、ここで横浜基地副司令である香月夕呼の名を出したのはまずかった。
 二人も中々に驚いていたが、それ以上に疑いの心も持っていたのが見て伺えた程だ。冷静に考えれば一介の訓練生がまっとうな基地の副司令と繋がりを持っているわけがない。
 黒人門兵の武の手を引くのも、最初はまだまだ未熟な同胞を助けようとする様な柔らかなものだったが、今は犯罪者を連行する様な硬さと強引さがある。更にアジア系の門兵の方はこちらが不審な動きをすぐさま対応できる様に完全に気を張っていた。
 この状況は求める結果に因らず、すこぶる最悪だ。いくら嘆こうとも全ては武自身が招いた悲劇であり喜劇なのだから誰を責める事もできない。
武が自身の犯した失態を猛省していると、ふと脚が止まった。
黒人門兵のが走るのを止めたので、必然的に武が走る必要性もなくなったのだ。
 ふと見るとそこは兵舎の裏であった。『前のこの世界』で武が割り当てられた部屋もすぐそばにある筈だ。
 ほぼ全力に近い速度で走り続けたのは流石の武にも堪えたようで、少しばかり息を切らしており、二人の門兵も似た様なものだった。しかし、自動小銃などを装備している事を考えたら運動量はあちらの方が多い筈だから、武の方が若干体力が下らしい。
 三人が息を整えるのに数秒。今の今まで走っていたので武に体のいい言い訳など考え付く訳もなく、その数秒は武にとってもっともらしい理由を思いつくのには短すぎ、その場の状況で強引に有耶無耶にするのには却って時間が責め苦の様に思えた。帯に短したすきに長しとはこの様な場合に使うのだろう。
 無慈悲にも追及の手は途絶えず、黒人門兵が息を落ち着けながら、口を開く。

「で、……タケル、だったかな? お前副司令の直属ってのはどういう事だ?」

 アジア人の門兵も呼吸を整えつつ、質問の体裁を採った尋問を重ねる

「特殊部隊だ、とでも言いたいのか?」

 当初、特殊部隊とでも言えば何処の部隊にも所属が確認されないのは誤魔化せると武は思っていた。とにかく夕呼まで電話でも何でも渡りをつけて上手く丸め込めれば、と。例えば、一介の訓練生が知る由もない『オルタネイティブ計画』の事でも口にすれば夕呼は少なからず興味を持つはず、などと武なりの思案もあったのだ。
 だがその目論見は基地への緊急警戒によって露と消えた。

「あー、その事なんだが……」

 武にはこの状況を打破する妙案どころかその場しのぎの嘘すら思いつかず、二人の門兵の懐疑の眼に胸中で狼狽する他なかった。つい視線を逸らしたくなるが、それこそやましい事がある証明になってしまう。
 武には必死になって誠実そうな視線を投げかける意外に手はなかった。それが『手』と言えるかどうかは別として。

「……まさか、今の基地の動揺はお前の仲間が起こした陽動じゃ――」
「じゃあタケルは横浜基地への潜入者!?」
「い、いや、そうじゃ――」

 違わない。恐らく彼らの頭にあるのは破壊工作や諜報活動を行うスパイじみた悪意ある敵対的な工作員であり、武が目指すのは人類に助勢する戦士だが、それでも基地の人員に成りすまさんとする外部者という点では同じなのだ。
 それが武の頭に一瞬よぎり、決定的な否定の言葉を紡げずにいた。

「なら早く所属部隊を答えてくれ! 俺だって同じ基地の人間を――仲間を疑いたくはないんだ!」

 黒人門兵の痛切な言葉が武の胸に突き刺さる。
 そう、武の目的は何であれ、自身は今彼らを騙そうとしているのだ。
 罪悪感が水底に溜まる汚泥の様に武を捕らえ、引きずり込んでいた。
自分は何をしているのだ。
世界を救う? 
そんな妄想にも程近い理想を胸に抱えて戦うのはただ無謀なだけの愚者ではないだろうか。現にいきなり躓きだしている。このまま基地の事態が収まろうとそう非ずとも、自分は捕まり、そしてまた『前の世界』同様独房に入れられる。無為に過ぎる日々。そしていつか来る破滅。地球規模の絶望的な消耗戦と焦土作戦。
 また、おしまいがくる。

(それだけは……いやだ……!)

 ……されど武には絶望への拒絶が、希望とすら呼べない灯火が確かに宿っている。無謀でいい。愚者でいい。ただ、絶望で彩られた終末だけは嫌だ。ほんの少しでも理想へ。ほんの指先だけでも理想に手を伸ばせば――
 きっと白銀武はその為に、またここに来たのだから。

「済みませんでした」

 もう武には韜晦も優柔もない。あるのは――決意だ。
 しっかと頭を下げ、確かな言葉を紡ぐ。

「この様な有事に皆さんを惑わせるような言動は、訓練生とはいえ衛士にあるまじき事でした。でも、香月副司令と面識があるのは本当です。すぐは無理かもしれませんが、事が収まった後に副司令に連絡してください! 今は独房でも何でも構いません!」

 嘘でもいい。どうせこの世界の人間でない武に本物などロクにないのだ。
 ならばせめて身のある嘘を。誰かに利するための嘘を。
 武のある種正々堂々とした物言いは、しかと二人の門兵に届いたらしく、二人は見極めるような目で武を見ている。

「……今は、独房行きでもいいんだな?」

 やや呆れるような声とともにアジア人門兵の口が開かれた。その顔に嘲りの色はない。武の誠実なまでの無鉄砲ぶりに微笑みすらたたえてる。黒人門兵もつられるように喋りだす。

「なあ、コイツがスパイなわけないさ。こんな真っ直ぐな奴ががスパイだってんなら、俺はステイツの大統領だぜ」
「確かにその通りだ。だとすると俺はペンタゴンのトップかもな」
「ははッ、違いねぇ」

 和やかになる場の空気を察して、武も喜びに破顔した。

「あ、ありがとうございます!」
「おっと、勘違いするなよ? これはあくまでも俺たちが勝手に信用しただけだから、それなりの処遇は覚悟してくれよな?」
「ああ!」

 その瞬間――
 轟!!
 雷鳴よりも暴力的に、獣の咆哮より強壮に、空に響くけたたましい一声が投じられた。



 ――武達の和解の数分前。
 宇宙を駆ける巨大な人型が見る見るうちに蒼い地球に寄ってくるのを、宇宙観測衛星は捉えていた。
 速度はもはや音速をゆうに越えている。宇宙という広大な空間ではそれすら歩みのごとき速度とはいえ、地球の重力に引き込まれればその速度はもっと上がる。少なくとも、横浜基地に少なからぬ打撃を与える程度には。
いつしかそれは衛星軌道をも越え、大気に包まれた球体へとその身を近づけ、飲み込まれた。
 地表の人類にする術などない声が巨人の内より漏れる。

「アル! 大気圏に入ったぞ! 大丈夫なのか?」

 その声には明らかな動揺と狼狽が見えていた。事実、デモンベインの双眸越しには空気摩擦により赤熱化した大気が、機体を包むのがありありと眼に映っていた。

「分かっておるわ! あのマスターテリオンとの戦いで最も傷付いたのはデモンベインぞ!? 本調子など望めるものではない!」

 マスターテリオンとの戦い――。
 主観的にも、客観的にも、それは死闘というに相応しい闘いだった。
 仮にも世界を汚さんとする者と、世界を守らんとする者。無限の宇宙と、無限の時間軸、そして無限の輪廻を越える決闘は、彼らの過ごした悠久を締めるに申し分ないものだった事だろう。
 だが激しい戦いは、必ず無情なまでの対価を求める。
 その作られた1柱の神はかつてどれ程強壮で荘厳に見えた事か。
 全身を包み込む鉄壁の装甲。破邪を体現したかのような強い眼差し。望むもの全てを抱き、守る巨躯と豪腕。無限の活力を生み出す魔導と鋼の心臓。
 しかし今、その神にかつての姿を望むべくもなかった。
 装甲はそこかしこを破られて筋骨に相当する内部構造を半ば晒し、豪腕は力なく動き、その心の臓腑は砕けかけ、今にも飛び散るかその働きを止めてしまいそうだ。

 ――いや。それでも、それでもその眼は決して揺らいではいなかった。むせび泣く者を、異能を振るいて世を跋扈す者を、世界を跨ぐ悪の全てを決して見逃しはせぬと布告するように!

 ただ、嘆くべきは今彼らの前に立ちはだかるのは邪悪や怪異の数々ではなく、引力だという事だろうか……。

「じゃあどうするんだよ! だぁあ折角あんだけ頑張ったのにここでまさかの墜落死!? どんなエンディングだよ!」
「煩いわ、痴れ者め! とやかく言う前に少しでもシャンタクに魔力を注ぎ込まぬか!」
「もう魔力なんかロクに残ってねぇつーの!」
「いいからやれ!」
「だぁぁぁあ分かった、分かったよ!」

 慌しい声とは裏腹に、シャンタク――デモンベインの背に装備された物理を超越する魔術の翼――に光が宿りだす。
 まるで透明な水が赤い絵の具を薄めて、終いには何事もなかったの如く振舞う様に、デモンベインを包んでいた灼熱と重力加速度も徐々に薄らいでゆく。

「おぉ、為せば為るものだな、九郎!」
「は……ははは、助かったのか、良かったぁ……」

 完全に気の抜けた声を漏らす九郎。それを咎めるようにその魔導書たるアル=アジフは口を尖らせた。

「魔術師たるもの、いつとて冷静でなくてどうするのだ、まったく」
「……お前だって慌ててなかったか?」
「えぇい、黙れ! とにかく、汝は常に冷静さを忘れるな! 良いな!」
「へいへい」

 言いつつ見れば、地表がもう雲の隙間から見え隠れしている。
 そう、大地が、海が、山河が、街が――

「ない――!?」

 何もない、というのは嘘だ。
 白雲の合間から覗く地表には確かに街並みや海があった。だが、大地に芽吹いて然るべき樹々が絶対的に足りなかった。それも、伐採ではない。伐採ならば切り開かれた森林部の面積相応の都市がある筈だ。
 九郎とアル=アジフ、そしてその乗機デモンベインの視界に移った多くは荒涼たる景色、そして結晶の如き巨大な建造物だった。
 思えば地球を宇宙から見たとき、やけに茶や黄土色の面積が多かったのでは――。

「まさかこの世界のブラックロッジがやったのか?」

 驚きよりも、寧ろ深い悲しみの色を含む声で九郎はアルに問うた。

「……いや。この地球――というか、世界そのものから魔術の匂いがあまりせぬ」

 返すアルの声は疑惑と当惑が詰まっている。無論、悲しみもまた九郎と同じく深く大きくあった。

「恐らく人類同士、或いは人類と地球に住まう何がしかの生物との戦いの結果……或いは過程であろう……」
「そう、か」

 歯軋りが聞こえてしまいそうなほど強く、九郎は歯を食いしばっていた。いくら異世界の事とは言え、母なる地球が傷付き、そして荒廃してゆく様など見たくはない。苦しいのだ。哀しいのだ。腹立たしいのだ。アルもまた操縦桿を必要以上に強く握り締めていた。

「なぁ……九郎、我が主よ」
「ん? 何だ」

 搾り出すような苦悶の見える言葉をアルは繰る。

「この世界はもしかすると、善悪で語れぬ闘争が満ちているのやも知れぬ。我らは魔を断つ剣。果たして我らが断つべき魔など、あるのか?」

 それは九郎にも答えあぐねる質問だった。九郎たちは今まで『正義』ともとれる戦いに身を投じてきた。無辜の人々を救い、世界に仇名す外法の輩達を討つ戦いに。故に欲望や打算に因る戦いは経験がなかった。
 そんな九郎の胸中を察して、アルは擁護とも叱責ともとれる言葉を尚も続けた。

「何も全ての世界の全ての戦いに加わる必要などない。もし汝が迷って居るのなら、休息のみを採り、立ち去――」
「ばーか。お前、何言ってんだよ?」

 アルの言葉を遮るように、九郎はアルの頭をくしゃくしゃと撫でた。あくまで朗らかな笑顔を浮かべて。

「善悪とかさ、世界だとかそんな難しいことは俺には何とも言えねぇさ。でもな、アル――」

 九郎がじっとアルの瞳を見据える。そこには九郎自身の姿が映っていた。淀みのない眼をした、一青年が。

「でも、困ってる人を見捨ててく、ってのは……後味悪いだろ? 戦いの原因が何であれ、泣いてる奴が居るかもわからねぇんだ。だったら、やれるだけの事やるしかねぇだろ」

 刹那、二人は無言のまま見つめあった。瞳の奥にしかとある互いの真意を見据えるために。

「……そうだな。汝はそういう男であったな。なら、汝の思うところを為せ。妾はその思いの為の力を貸そう」
「おう、サンキューな! さぁて、いっちょ奇跡の調停者でも演じてみるとするか!」

 今一度正面を見れば地上まであと1kmとない。所々を虫に食われた歪なパノラマが、シャンタクによって軽減された重力により近づいてくる。

「九郎、下手を打つなよ? 注意せねばならんのは着地の瞬間だ」
「分かってるって、アル!」

 雲海を、大気を、空を裂いて地表に向けて降りたたんとするデモンベイン。その翼、シャンタクに九郎は改めて意識を集中させた。

「動かしている汝が一番に感じてるとは思うが、シャンタクの出力と制御が安定しておらん。正直いつ動きを止めようが暴走しようがおかしくはないのが本音だ」

「あぁ。前だったらこんだけ魔力を流し込めば扱えるはずなんだが……やっぱアイツとの戦いが尾を引いてんのか」

 アイツ、というのは他ならぬマスターテリオンの事だ。魔力の全て、心身の悉くを消費するような激戦ののち、それが終わってからしっかりとした補給や休息は取れていないのだ。

(……あるいは、この世界が――)
「まずいな。この調子だと地上に着くトコでギリギリ魔力が切れそうだな……」

 九郎が心なしか、申し訳なさそうにぼやく。その言葉を裏付けるようにデモンベインは大気との衝突でガタガタと細かく震えている。

「地上に着けさえすれば、休養も取れよう。済まないがそれまで耐えてくれ、九郎」
「あぁ、精々頑張るさ、っと」

 だがその言質とは裏腹に、丁度デモンベインの巨躯が一段と大きく、ガタリと震えた。

「まったく……言ってる傍から……」
「す、スマン……」

 震えは依然として収まらない。地表までもう500mを切っただろうか。そろそろ地上の建物の概要が見えてくる頃合だ。後ろを見れば白雲や蒼穹は相当遠くに過ぎたことだろう。
 そしてまた、激しい衝撃が機体を揺さぶる。

「九郎、汝という奴は……!」

 溜息混じりに怒気を込めてアルは九郎の方を見やる。だが――

「違う、アル! 攻撃だ!」

 九郎の顔に浮かんでいたのは、まぎれもない焦燥だった。

「なっ――!!」
「多分飛び道具の類が肩の辺りを掠めた! 調べてくれ!」
「無論だ!」

 アルは慌てて機体の損傷をチェックする。すると、九郎の言うとおり右肩を何かが擦ったのが確認できた。どうやら、敵は魔術理論を含まない、通常の兵器で攻撃を仕掛けてきたようで、魔導合金ヒヒイロカネの装甲に身を包んだデモンベインに打撃を与えるには至らなかったようだ。
 だがそれでも油断は出来ない。いくら超常の存在たるデモンベインといえども今は疲労しきった、人間で言えば内臓を晒したままの重傷に近い状態だ。そこに攻撃を喰らえばただでは済まない。第一、一撃目は様子見で、二撃目からは魔術的攻撃を仕掛けてくるかもしれないのだ。
 九郎もアルもその二点はよく心得ていた。
 そして機体を揺り動かす激しい降下の衝撃と音を掻き消すような暴力的な一矢がデモンベイン目掛けて奔っていた。
 シャンタクによる超物理的機動を描いて、なんとかそれを回避するデモンベイン。そして遅れてやってきた風切り音を聞きながら、九郎たちはその一撃の正体を見た。
 ――銃弾、いや砲弾だ。
 形状こそ銃弾に程近いが、その大きさはまさしく砲弾のそれだ。
 丁度、デモンベインの繰るクトゥグアやイタクァの銃弾があれ程のサイズだろうか。

「アル……こいつはやっぱり!」


 最悪だ。まだ敵は彼らを舐めているのか、魔術効果を持たない、ただの兵器で仕掛けてきている。だが、あんなサイズの銃弾を用いる事ができるのはまぎれもない鬼械神――デウス=マキナに違いない(一応、破壊ロボという可能性もあるが、あんなキ●ガイがそうそう居てたまるものか)。
 だが九郎たちとて歴戦の勇、狙撃を受ければその位置ぐらいなら把握できる。
 その駆け抜けた銃弾の、発射地点を見ればおそらく基地の類であろう施設から、狙撃主のように身体を伏せてその体躯よりも巨大な狙撃銃、いや狙撃砲を構えた人型があった。

「デウス=マキナか……!」

 普段であればクトゥグアかイタクァで打ち返すでも、シャンタクで近寄った後にバルサイの円月刀で切り伏せるでもしたのだが、生憎と今のデモンベイン、正確には九郎達にもにはそれだけの魔力が残っていない。
 今は兎に角どこかに身を隠してやり過ごすしかなかった。
 だが、50mの威容を誇るデモンベインが身を隠せる場所などかなり限られているし、なにより今は空中だ。身を隠すもへったくれもない。シャンタクの力で回避するのが精一杯だ。
 そしてまた、狙撃主の抱える狙撃砲が火を噴いた。
 このままでは直撃する。それがありありとわかる、正確な弾道だ。敵は余程いい腕を持っているらしい。

「九郎――!」
「駄目だ、シャンタクが上手く扱え――クソッタレェ!」

 九郎の怒号が虚しく響く。だがアルは先程慌てたのとは裏腹に、冷静に対処してのける。

「第四の決印は『旧き印』! 怪異と脅威を祓うもの也!」

 途端、五芒星を基とする輝く魔方陣がデモンベインの眼前に浮かび上がる。それこそは旧神の守護の印章、防禦結界エルダー・サインだ。
 轟音を置き去りにしてデモンベインを穿たんと飛来する鋼の塊を、その光の魔方陣は押しとどめ、鍔迫り合いにも似た力と力のせめぎ合いを作り出す。
 普段の彼らであれば、こんなものヒヒイロカネの装甲だけで済むものを、わざわざ『旧き印』まで使うのだ。押し負けるわけがない。
 九郎も、アルもそう思っていた。
 その後をどうするか。速度を出して地上に降り立つか。はたまた強引に狙撃主の付近まで飛び、倒すか。
 そう、『旧き印』で防ぎきれると。

 ――轟!

 ――金属を捻じ曲げるような不快な音が聞こえた。そして、ガラスの割れるような音がした。爆ぜるような音もした。
 『旧き印』が貫かれるのが、見えた。

「なっ――」

 衝撃がデモンベインを――九郎とアルを襲う。『旧き印』で運動エネルギーは殆ど相殺できていたようだが、油断の隙を撃ち抜かれた彼らにとっては、大打撃だった。
 何せ、いくら疲労があるとはいえ、鉄壁を誇るはずの防禦結界が破られたのだ。それも、ただの火器である筈のものに。

「何が起こったんだ!? アル!」

 九郎の声音には驚愕のみならず、あからさまな動揺が見て取れた。

「弾を狙われたのだ! 我らが『旧き印』にて止めた弾を、もう一撃を以て打ち抜いたのだ!」
「だからってただの砲撃で打ち抜けるもんでもねぇだろ!?」
「ただの砲弾であるならな!」

 そう。
 『旧き印』は旧神の力を借りた、絶対無敵に近しい防禦呪法。いくら強力な砲撃を、それもかなりの荒業――もしくは神業を受けたとしても、そうそう壊れるものではない。
 だが、そのイージスの盾ともいうべき代物は、今九郎らの目の前で打ち破られた。

「――やはり、案じていた事が現実となってしまったのか……」
「なんだよ、それ!」
「九郎、取り敢えず今はシャンタクの制御に集中しろ!」

 咄嗟の判断とはいえ、『旧き印』に相応の魔力を喰われた九郎らには今やシャンタクをまともに操るだけの魔力も残っては居なかった。
 波に揺れる小船のように危ない飛び方を――いや、落ち方をするデモンベインはそれでも何とか姿勢を保とうと努力し、そして達成しえなかった。唯一の喜ばしき事は敵がそれ以上の追撃を仕掛けてこなかったことだろう(尤も、墜落に等しい下降を続ける九郎らの目に映ったのは、先の巨人が構えていた砲が所々から煙を噴出しているというものだったが)
 見る見る間に地面が近づく。ありありと無残なイメージが脳裏に浮かぶ。

「――南無参!」

 九郎の祈りに近い叫びがコクピットの中に木霊する。
 それが功を奏したのか、あるいはただの偶然か。デモンベインは何とか脚から着地――しかけたもののもつれるように転がり、無様に地面に投げ出された。

「……痛つ……」

 アルがくらくらする頭を抱えながら、再度機体の損害を確認。そして、またもや頭を抱えた。
 結局弾丸は胸郭に着弾したようで、剥き出しになった右胸の装甲と内部機構からは水銀の血が流れ出している。他にも落下の衝撃を受けて脚は半ば壊れ、四肢は転げまわったせいで駆動率が半分近くまで落ちていた。
 九郎もようやく起き上がり、沈鬱なアルの顔色を見て、苦虫を噛み潰したような苦痛な面持ちに。

「くそッたれ……アル、まだ戦えるか……?」
「正直、あまりよい状態ではないが……このような絶望、もう慣れっこであろう?」
「……そりゃそうだな」

 苦悶に顔を歪めながらも、九郎とアルはまだ屈しては居なかった。それどころか、口角を僅かにあげ、笑ってすら居る。
 九郎にしてみればアルを失って戦っていた時の方がもっと苦しかった。
 アルにしてみれば数々の主を失い、アイオーンを駆っている時の方が辛かった。
 二人にしてみればマスターテリオンとの最終決戦の時の方が絶望的だった。
 三位一体であれば、たとえそれが如何なる苦境であろうとも、彼らは立ち上がるのだ。魔を断つ為に。自らの信念を顕す為に。
 幾度でも。どんな場合でも。どうなろうとも。
 かの狙撃主が構える基地の方に目を向ければ空を駆け抜ける飛行機雲が数条。皆デモンベインに向かってきている。
 モニターを拡大すればその機影はどれも同タイプ――マス・プロダクツ的な固さをありありと出した意匠の灰色の機体だった。

「あれは……やっぱり鬼械神じゃなくて、破壊ロボに近いんじゃないのか?」
「あぁ。彼奴らからは魔術の気配もせぬ。信じたくはないが、この世界にもあのキチ●イのような数寄者が居るようだな。……それと九郎。どうやらこの世界、魔術というものが上手く作用せぬようだ」
「へっ。デモンベインは科学も味方につけてあんだ。問題ねぇさ」

 デモンベインの眼前に降り立つは四機の巨人。菱形の陣形を取り、デモンベインと相対する。その全高は20m足らずで、外観は先の狙撃主とはまた違うが、いずれもデモンベインとは大人と子供ほどの体格差がある。だがマスターテリオンやメタトロンはかつて、数十倍は巨大な機体を相手取り、圧倒したのだ。九郎たちは巨躯ゆえに勝利を得られるなど信じてはいない。
 だがその四機の破壊ロボもどきは違った。彼らのデータベースに記載されていないであろう謎の巨大建造物。外観も大きさも気配も全てが全て異質すぎたのだ。その存在そのものに畏怖すら抱いている。
 九郎たちは油断しない。その動揺を鋭敏に感じ取り、狙い済ます。
 一番近い機体までの距離は、クリティアスとティマイオスを使えれば一瞬で詰められるであろう程の距離。だが、今はそれすら使えない。使えるのは純粋に脚としての機能のみだ。
だがそれがどうした。最初など、覇道の承認を得てからの右掌のレムリア・インパクトしか使えなかった。
 いまはこの身を我が身の延長線として扱える。ならば何をか恐れん。

「征くぜ、アル!」
「応よ!」
「うぉぉぉおぉおおおおおおお!!」

 九郎の咆哮と共に、デモンベインが駆け出す。まずは真正面の突出した一機。超重の下肢を懸命に動かし、一直線に目指す。

『う、うわぁぁ!』
(子供――?)

 あくまで冷静に対処しようとする正面と最後方の二機に対し、両翼に構える機体は完全にデモンベインに恐れをなしていた。
 右手に構えた突撃砲の銃口をデモンベインに向けて構え、引き金を引く。
 まるで巨大な杭打ち機でも運用しているかのような大音声を上げて砲弾めいた銃弾が次々と飛び出すも、その先にデモンベインは居なかった。

『上だ!』

 最後方の一機が吼える。その言葉の通り、デモンベインは空中にあり、理想系のムーンサルトの軌道を描いていた。
 それに射線を合わせようと、突出していた正面の機体までもが突撃砲を両手に構えていた。三機の織り成す、計四門の集中砲火がデモンベインを襲う。
 ――が、当たらない。
 デモンベインは身体を捻り、四肢を動かすその反作用を巧みに利用し、空中機動を行っていた。そして、地響きを立てて着地。四機と一機の距離はもう殆どない。
 そして、その距離すら詰めた。
 負けじと弾幕を張る三機だが、デモンベインはその巨体に見合わぬ低く、地を這うような低姿勢跳躍でその下を潜り抜けた。
 そしてそのまま右の拳を固く握り、慣性を利用した必殺のアッパーカットが、人間で言う臍の辺りを勢いよく殴りぬける。

「でぇいッ!!」

 20mの巨体――デモンベインからしてみれば矮小ともいえるが――が宙に浮き、吹き飛ぶ。

『あぁぁぁぁっぁぁぁっぁ!!』
「やっぱ子供の声! 駄目だ、アル! こいつらまだガキだ!」

 その言葉の通り、相手方の機体を通して聞こえた声はまだたかだかハイティーンにも届くか否か、という程度のものだった。

「っく……だからと言って手を抜くわけにもゆくまいて!」
「でも――!」
『よくもやってくれたな!』

 九郎達の争論を断ち切るように、目の前を刃が通り過ぎた。
 見れば右翼に陣取っていた機体が身の丈を下回る程度の片刃の大剣――東洋の“カタナ”に近しい造形でもある――を、左翼に陣取っていた機体が両手にナイフを握り締めていた。
 今しがたデモンベインの鼻面を通り過ぎたのは“カタナ”を構えた方だった。そして、やはりその声は子供のそれ。

(くそッ――やり辛ぇ!)
『てぇぇぇい!』

 巨大な“カタナ”を自由自在、とまではいかなくとも充分に扱い慣れした様子で振り抜く巨躯を、デモンベインはバックステップで距離をとった。
 瞬く間に戦友を撃破された事からかあちらはかなり驚愕し、動きが硬い。だがそれ以上に九郎は動けずに居た。

「何をしている、九郎! 気を抜くな!」

アルの叱責が飛ぶ。気を抜いていたわけではない。動揺してしまっているのだ。
 以前、敵として対峙したクラウディウスの方が彼らより幼い。だが、それ以上に彼らは弱々しいし、許しえぬ邪悪でもない。
 その事が九郎の闘志を萎えさせていた。
 殺したたくはない。傷付けたくはない。
 その思いを無碍にするかのごとく、彼らは刃を振るう。だがそれはあくまで抵抗に程近いものだ。デモンベインという圧倒的な脅威を前にして、怯えてすら居るのだ。故に彼らは持てる力を振り回してその脅威を遠ざける、或いは打ち倒す事しか頭に浮かばないのだろう。
 九郎にはそれが分かってしまった。かつてミスカトニックの秘蔵図書館で出会った怪異に対して怯え、竦み、逃げ回るしかなかった九郎だからこそ、それがよく分かった。
 だがしかしそんな道徳云々だけでは決して突き出された矛は収まらない。
 ナイフの二重奏と“カタナ”の独奏――何とも歪で不出来な旋律が織り成す斬撃の数々はいとも簡単に避けられている。それでも彼らはその事実を押し込めようとするかのごとく刃を振り続ける。

「アル! せめてアトラック=ナチャだけでも使えないのか!?」
「使えればこやつらごときとうにひっ捕えておるわ!」

 そこで三つの刃が空を来る音に混ざり、更に新たな異音が紛れ込む。
 銃声だ。
 最後方に構えていた機体が、デモンベインの脚を止めるべく牽制射撃を繰り返していた。更に悪いことに、足元が覚束ないながらも先程腹部に一撃くれてやった機体までが起き上がってきた。
 どうやら機体の損傷を理由に戦線から離脱するという算段を味方機と打ち合わせて居るようであり、もしそうなれば間違いなく援軍が来る。その時は九郎たちが敗北するときでもあろう。
 九郎は迷っていた。
 自分と自分が救えるかもしれない命を捨てるか。目の前の命を奪うか。
 そもそも自分に他者の生き死にを選ぶ権利などあるのか。それは驕りではないのか。自分が欲するままに命を救い、奪う。
 それではまるで己が断つと決めた悪の業。
 ひょっとすると自身に向けられる刃は、銃弾はその悪を断ち切る為の断罪者からの引導だったのかもしれない。
 殺されても、いいんじゃないのか――?

「――九郎!」

 思考の海へと沈みかけた九郎の意識を、アルの一声が浮き上がらせた。

「何を迷っておるのだ、九郎! 汝はその程度の選択もできぬ男なのか!?」
「その程度って――」

 アルの無慈悲で、無思慮な言葉に九郎は憤慨した。悲しみすら抱いた。それほどまでに人の命を割り切れるのか、と。

「妾の知る汝ならば、答えは一つであろう? 『誰も殺さずに相手を圧倒し、撃破する』と、そう答えるのが汝の役目であろうに! そんな誰もが笑う理想を唱えるが汝だ、それを叶えるのも汝だ、それが――大十字九郎だ!」
「……アル……」

 そうだった。
 アル=アジフという少女は、いつでも大十字九郎を支えてくれた。理解してくれた。信じてくれた。
 ならばどうしてその期待を裏切ろう。
 ならばどうしてその言葉を疑おう。
 もう、九郎に迷いはない。
――倒そう。立ちはだかるならば、最大の慈悲と温情を込めて打ち倒す。
魔なるを切り裂き、聖なるを顕せ。強きを砕きて弱きを救え。悪しきを憎みて善を愛せ。それこそ、それでこそ魔を断つ剣<<デモンベイン>>の名を冠せよう。

「ありがとう、アル。目が覚めたぜ」

 もう何も迷わない。何よりも強く、九郎の目はそう語っていた。
 刃は刃。銃弾は銃弾。そこにあるのは敵意のみ。断罪も邪悪も何もない。
 まず、“カタナ”による、右から左に駆け抜ける横薙ぎの一閃が九郎に、デモンベインに迫り繰る。

「無駄だッ!」

 それに九郎は拳を握り締め、裏拳を刃の腹に叩き付けた。軌道を逸らすなどという生易しい挙動ではない。圧倒的な硬度と靭性を誇るべき大剣を、叩き割った。

『む、無茶苦茶だッ!?』

 敵パイロットのわずかに幼さの残る、悲鳴めいた声がコクピットから漏れ聞こえた。だからといって手を抜きはしない。狼狽えるばかりの敵機をデモンベインの右脚が狙い済ます――。

『ぅわああぁぁぁぁああ!!』

 ――衝撃!
 倍以上の体躯を持つデモンベイン水面蹴りの一撃は、しかと相手の両脚を粉砕せしめた。余りある力が水面蹴りにも関わらず20mの巨体を吹き飛ばす。その馬鹿げた破壊力はその戦場に居た全てに驚嘆と畏怖、そして紛れもない恐怖を植えつけるのに充分だった。

「まぁだまだぁ!」

 返す刀――いや、足刀は跳躍からの踵落としへと変化。今度はナイフを装備した機体の両腕が爆砕した。
 もし誰かがデモンベインを見ればその姿は悪鬼、あるいは鬼神に見えるだろう。九郎はそれすら厭わなかった。それで、それだけで済むならば鬼だろうが修羅だろうが何にでもなってやろうと思ってすら居た。それが、憎むべき邪悪以外であれば、何にでも。

『――ッ! よくもやってくれたな!』

 残る二機はその異常なまでの近接戦闘能力を恐れてか、距離をとって銃撃を加える。どうやら逃げるという意思は何処かにうち捨てられてしまったようだ。
見れば二機の両腕のみならず、長大なホルスターにも似たサブアームまでもがトリガーを引き、計8門の銃口から放たれる銃弾の数々がデモンベインを打ち抜かんと駆け抜けている。
弾幕とも表現できる、異常な弾数だ。その相当数がデモンベインに着弾し、それ以上の数がその周囲へと着弾。絶叫をも掻き消せそうな大轟音がその場を席巻する事十数秒。それが収まったのは、射手たちのコクピット内に銃声の代わりに弾切れを示すアラームが鳴り響いてからだった。当然の如く、そこには視界を覆い尽くす土煙。
そこで二機はようやく気付く。
――そこにはあの巨大な化物だけでなく、両腕を壊された僚機が居たはず――。
 あの熾烈極まりない射撃に、耐えられるわけがない。おそらくあの化物と一緒に鉄屑になってしま――。
 そこまでだった。
 次第に晴れゆく土煙の向こうから現れ出でたのは無残な鉄屑などでなく、両腕を交差させ片膝を着きながらも尚も健在なデモンベイン、そしてその後ろに倒れる今だ両腕を失っただけの僚機の姿。その姿はまるで、彼らの僚機を庇う様で――。
 デモンベインの五体には無数の銃弾が穿った穴や削り取られた装甲――いや、ヒヒイロカネの鎧はわずかにその表面を焦がすのみ。だが所々を曝け出したままのデモンベインからは、破れた装甲の隙間を射抜いた銃弾の跡が幾つもあり、水銀の血が流れおちてゆく。
されど、その意思には屈するところなどないとばかりに力強く立ち上がって見せた。
 その姿に気圧され――いや、神々しさすら感じたのか、銃弾の嵐を見舞った片割れは、何も出来ず諸手を上げていた。
 だがもう一機は片割れの有様――彼には醜態と見えたのかもしれない――を一瞥した後、

『だ、黙ってやられるわけには行かないんだよぉぉお!!』

 まるで己を鼓舞するように雄たけびを上げて、殴りかかってきた。
 未だマウントされたままのナイフや“カタナ”は用いず、ただ鋼の拳のみを以て、無謀にも接近戦を挑んできた。
 デモンベインはそれに応じるように腰を深く落とし、半身に構える。

『てぇぇぇぇえいッ!!』

 子供のような勢い任せの拳が振りぬかれる。
 それより遅く、されどその速度はより素早く放たれるはデモンベインの正拳突き。
 結果など見ずとも理解しえた。デモンベインの一撃が極まる。
 だが――二つの拳が二つの目標に達する一刹那の前。
 二人の、二体の間を銃弾が降り注いだ。

『そこまでだ。両機、戦闘を中断してくれ』

 女性の声。見上げれば空に舞うは十一筋の飛行機雲と、白雲の尾を持つ同数の巨人。
 それらが次々と大地に降り立ち、陣形を形作る。約半数が決して近寄りすぎず遠過ぎずの距離でデモンベインを包囲し、残りは更に遠くで銃砲を構えていた。その機体は一機種とその武装変更のみで固められている。が、つい今しがたまで戦っていた連中とは違う機体だった。

「……援軍、来ちまったな……」
「あぁ、腕の一本や二本は覚悟しろ、九郎」

 絶体絶命の危機、ともいえるのか。だがその様な地獄に一筋の光明を探り当て、生き延びてきたのが九郎たちだった。

『……アンタら、何処の所属部隊だ』
『所属は教えられない。だが、我々は正式な作戦部隊だ』
『アンタらまさか……』
『済まないな。それ以上は何も言えない。……さぁ、悪いが部隊の連中を連れて、帰ってくれ』
『……了解』

 先程まで恐慌と戦意のみに駆られていた筈の機体が唐突に悄然として、引き下がった。それほどまでに援軍部隊の階級が上だったのだろう。
 その様に一握の疑念を抱く九郎。

(ただの階級如何ぐらいで、ああもあっさりと引き下がれるのか……?)

 だが事実として彼らはぼろぼろの機体を引き摺り、何とか帰路に着く。どうやら半壊していても、跳ぶぐらいの事ならばできるらしい。剛性と耐久性の高さではデモンベインにも届くやもしれない。それは、それらを破壊すべく作られた『この世界』の兵器はデモンベインをいとも簡単に破壊し尽くせるかもしれない、という事でもあり、アルは心中で唖然としていた。
 その途端、ズシリと重い衝撃が走った。
 発信源は数十m先の、さっきからてきぱきと話を進める女性の機体。それが抱えていた銃が大地に突き刺さる音だった。
 見れば彼女の機体は先程のデモンベインに銃撃をくれた機体の片割れのように諸手を挙げている。

『我々の国家ではこれと、白旗が闘争の意思がない事を示すのだが……了承してくれるか?』
『なっ――伊隅大尉、何やってるんですか!』

 またもや女性の声――この世界には戦場に立つのは女子供、とでもいう決まりでもあるのだろうか。ともかく、慌てた声だった。
 その慌てぶりを見る限りでは、どうやらこの行為は操縦者、『伊隅大尉』という人物の独断専行であるようだ。

『涼宮少尉。お前も見ただろう。この機体が圧倒的な威力で横浜基地の警備部隊を蹴散らす様を』
『だから言ってるんですよ! そんな危険な真似――』
『だからこそ、だよ。我々に勝てると思うか?』
『きっと……伊隅ヴァルキリーズが全力で当たれば勝てますよ』
『そうなれば死傷者もでる。だが、和平が叶えば誰も傷付かない。そうだろう?』
『そりゃ、ですけど……』

 無線で話しているのであろうその声は、偶然周波数でも合ったのかデモンベインのコクピットにも聞こえてきた。

『済まない、お待たせした』

 伊隅大尉はそう言うと、部下と思しき人物との会話を断ち切るようにデモンベインの方を向く。

「あー、事情は良く分からないが、一時休戦だってんなら応じるぜ」
『!……聞こえていたのか』
「ああ。ひょっとして聞いちゃまずかったのか?」
『いや、少々見苦しい姿を見せてしまったな、と』
「……その子、アンタの事えらく心配してるみたいだったぜ」
『あぁ。いい部下に恵まれたものだよ。……取りあえず、一旦『投降』という形をとっては貰えないか? そうでもしないと基地の連中に示しがつかない』

 九郎は『投降』の文言を聞き、アルにその如何を目でそれとなく尋ねた。

「汝に任せよう」

 何か思うところでもあったのか、無愛想な返事を返されてしまう。

「じゃぁ、その『投降』させてもらえるかな? えぇと……イスミさん?」
『あぁ。それと、名前を尋ねてもいいか?』
「ん、俺の名前は――」








[21053] BATE BANE #3 Who are you?
Name: アキ海苔◆a481486d ID:11704c40
Date: 2010/09/30 22:44
「大十字九郎、ねぇ……」

 事が収まってもう30分も経つだろうか。香月夕呼は自身の研究室兼応接間で伊隅が簡潔に纏めた資料と、眼前の二人を見返していた。

「で、何度も悪いけど伊隅に話した事、私にもう一度話してくれるかしら?」
「えぇと……俺たちは『この世界』とは違う世界、違う時代から来たんだ。その世界では結構魔術も隆盛で、魔導技術を応用したものも沢山じゃないけどあって……デモンベインとかは科学と魔術の合いの子だな。で、俺らはその世界の邪悪の親玉みたいなのをぶっ飛ばしに時空の神様の領域に足踏み込んだ結果がこれだよ。デモンベインはずたぼろ。直そうにもパーツがないし、動力部は半分壊れてて使えないって状態かな……」
「……じゃあ、あなたたちの話を証明するものはあるのかしら?」

 きり、と夕呼の眼光が一段と鋭く光る。

「証明、つったって……『この世界』じゃ魔術もあんま作用しなくて……」
「別に貴方達の言葉を頭から否定するわけじゃないわ。でも、頭がぶっとんだだけの人間じゃないって事を証明するものが欲しいの」

 あくまでその身の興奮を隠し、夕呼は迫る。
 現状に於いて最も冷静に対処しているのは恐らく彼女だが、同時に最も興奮しているのもまた彼女なのだ。もし九郎らの言質の裏を取れれば、それ即ち世界の価値観を頭から変えかねない。夕呼の仮説など通り越した、荒唐無稽の塊が目の前にあるといっても過言ではなかった。
 そんな怜悧な興奮をよそに、今まで押し黙っていたアルがようやく口を開く。

「証拠が欲しいのなら、デモンベインで充分であろう」

 確かにアルの言うとおり、この世界には存在しえない技術の結晶たるデモンベインを探れば、その証明足り得るだろう。だが夕呼はそれに満足していなかった。

「あれは、分からなすぎるのよ」
「汝らとて機械の巨人どもを作っているではないか。それでも分からぬのか?」
「私たちの作ってる戦術機と、貴方達のデモンベイン。その両者に共通しているのなんて、人型を模している事ぐらいだわ」
「一応、戦闘のときに魔術とか使ってたんだけど……」

 申し訳なさげに九郎が申し出る。が、夕呼は視線すら合わせずに、

「そんなの未知の防御技術かもしれないじゃない。私たちにだって空間を操作して自機を守る兵器ぐらい見聞があるわ」
「……そうか、ならば――」

 諦めるようにふとアルは息を深く吸い、吐いた。
 途端、魔導書の精霊アル=アジフの輪郭が崩れ、無数の紙片へと変化してゆく。瞳に驚きの色を覗かせる夕呼をそのままに、一少女はまた一枚また一枚へとその身を肉から紙に換え、そして一冊の書となった。
 ――AL=AZIF
 表紙にはその文字が読み取れた。
 邦語では屍霊秘法とも呼んだか。夕呼はそれを識っていた。ただし、フィクションとして。
 BETAなぞが来襲する遥か以前、人類が未だ存続でなく繁栄を望めた時代に発行された恐怖神話小説体系に出てくる、有名な魔導書。それが夕呼の識るアル=アジフ――いわゆるネクロノミコンであった。
 その知識を根底から覆すように、先程の過程の逆再生よろしく魔導書はまた一冊から一人へとその身を変える。

「これで、分かったか?」

 その顔はしてやったり、という自身に満ち溢れていた。対して夕呼の顔もまた満足しきった表情であった。

「……ありがとう、大十字九郎。アル=アジフ」
「えっと……じゃあ、信じてくれるのか?」
「えぇ。元々大体のところは信じていたしね。これで確信が得れたわ」

 どうしてだろうか。悠然と笑う夕呼の笑みが狂的なまでの喜悦に見えたのは。
 事実、彼女は嬉しかったのだろう。狂おしいまでに。
 自分の知る世界とはかけ離れた世界の人物が、自身の近くへと降って湧いたこの奇跡が。或いは、幾度となく御伽噺と揶揄された自身の理論を、最強の御伽噺を伴って実証できるこの好機が。

「じゃあ、俺らもういいかな?」
「あぁ、ちょっと待って……伊隅大尉、居るかしら?」

 夕呼は机の片隅に置かれた電話を取ると内線につなげてそう告げた。

『……お話はお済みになりましたか?』

 繋がるまで暫しの間を置き、ややハスキーな女性の声が受話器に届く。

「えぇ。大成功。霞はどう?」
『証言に嘘はまったくないそうです。ただ、やはり警戒心や猜疑心は相応に……』
「まぁ、そりゃそうよね。そのぐらいなら全然構わないから」
『分かりました』
「じゃあ、入ってきて」
『はっ』
「二人とも、ちょっと待っててね」

 受話器が置かれ、数十秒ぐらいだろうか。夕呼に言われたとおり行儀よく待つ二人の正面のドアが開くと、そこには伊隅みちるが居た。

「失礼します」

 夕呼に向けて畏まって敬礼をし、そして九郎たちに向き直る。

「彼女の事はもう知って居るとは思うけど、彼女は伊隅みちる大尉。この横浜基地、正確には私直属の特務部隊A-01を率いてもらってるわ」
「伊隅みちるであります、お二人とも今後ともよろしくお願いします」
 わざわざ二人に対しても敬礼を捧げる伊隅に対し、九郎らは困惑の表情を浮かべていた。
「今後とも?」
「彼女からは、しばらく『この世界』の常識を教えてもらって。もう身をもって実感しているだろうけど、あなた達のいた世界とこの世界では大きな違いが幾つもあるの。だから、もし疑問に思う事があったら何でも聞く事。勿論、彼女やあたし以外には駄目だけど」
「色々と勝手が違って大変でしょうが、我慢してください」

 生真面目そうな外見同様、中身も誠実なのだろう。伊隅大尉の目には遥々やってきた異郷の人物に対する同情と労いが宿っていた。

「あぁ、何か悪いな。伊隅さんって、大尉だから結構偉いんだろ?」
「それ程ではありませんよ」

 照れ隠しとばかりに笑う伊隅に釣られ、というか彼女の見目麗しさからか、九郎もまた笑っていた。そしてアルに足を踏まれていた。ついでに言うならそれを堪えていた。

「……痴れ者め」
「では、行こうか。大十字訓練兵」
「……くんれんへい? 俺が?」

 態度を一変させて、踵を返し部屋を後にしようとした伊隅の足を、素っ頓狂な九郎の声が止まらせた。

「あ、ごめんなさい。言うの忘れてたわ。大十字九郎、あなたは横浜基地に所属する訓練兵、って設定ね」

 自分の非など最初からなかったような軽い声音で夕呼が告げる。

「待て、どういうことだ香月の!」
「そうだよ、まったく意味がわからねぇんだが」

 アルと九郎がつい大きな声を上げて、夕呼に問う。

「アル=アジフ、大十字訓練兵。副司令を呼び捨てとはどういうつもりだ?」

 つい先刻、この部屋に入ったばかりの柔和な表情と態度はどこへやら。伊隅は完全にその態度を硬化させ、有無を言わせぬ上官然としたものになっていた。それでも九郎たちは有無を言う。

「だって意味が分からねぇものは分からねぇんだよ。何だよ、訓練兵って! いつから――」
「大十字訓練兵ッ! いい加減にしないかッ!」
「はいいッ!」

 まるで猛火の如く怒鳴りつける伊隅に恐れをなしたのか、九郎はもう何も言えなかった。アルもまた、伊隅の叱責は受けたくないのか余計な口は閉じた。

「大十字訓練兵。軍人というのは、命令がなければ口を開くのも禁じられる人種なのだ。分かったか?」

 九郎はまるで言語機能を喪失でもしたかのように口元を固く結び、忙しく首を上下させた。若干涙眼になっている。

「いいのよ、伊隅大尉。これは言ってみれば私のミスなんだから」
「いえ、これも教育の一環です。第一、上官に対して友人に接するかの態度は、軍人として問題でしょう」
「お堅い事。ともかく、大十字九郎、あなたにはさっき言った体で暮らしてもらうわ。その理由としては、あなたはまだこの横浜基地に居た方が良いから。――私にも、あなたにもね。その為には何かしらの肩書きが欲しいのだけども……正規の軍人はちょっと難しいから、衛士候補生って事にしとくわ。これなら国連のデータベースを改竄するのも楽に済むしね」

 九郎は先より首振り人形の真似でもしているかのごとく、ただ首を縦に振っていた。

「アル=アジフはちょっと兵士ってのは難しいから……まぁ、何か適当な肩書きで私の下に着けとくから」
「せめて、もう少しましな地位は貰えぬのか?」
「無理ね。あなた達の存在をひた隠しにするのすら面倒なのに……それ相応の階級を与えるだなんて、無茶もいいところよ」
「そうか。済まぬ相談であったな」
「じゃあ、今度こそ伊隅大尉に任せるわね」
「はい。それでは失礼します。……ほら、二人とも行くぞ」
「イエス、マムッ!」

 早くも下っ端兵隊らしくなってきた九郎と憮然としたままのアルを連れて、伊隅は夕呼の研究室兼応接間を後にした。
 それをやや満足げに見送り、ほんの暫し。その後に夕呼はまた卓上の電話機を取った。

「……えぇ、じゃあ彼――連れてきて貰える? 白銀、武だったっけ……」



 コツコツと、靴音が地下の回廊に木霊する。
 国連の女性用制服に指定され、伊隅の履いている靴音。九郎の履いている安物の靴の音。アルの履いている少女然とした靴の音。
 三者三様の靴の音が反響し、廊下に響いていた。
 そして、それに新たに混じる音。
 革靴が三つ。うち二つは余りに硬質な革靴の音。履いている者がそれなりの体重があるのだろうか、重々しい音を立てている。残る一つは学生が履いているような使い古された革靴の音。こちらも確かな重みを讃えている。
 三つと三つ、計六つの足音が廊下に木霊する。
 そして、近づくにつれて大きくなり、交差し、そして遠ざかり小さくなってゆく。

「……今のは……」

 少女の靴の音が変わる。無表情に歩むのを止め、今しがたすれ違った男の――学生のような革靴を履いた男子を振り返る。

「どうした、アル?」

 国連指定の靴を履く女性が怖いのか、安物の靴を履く男は響かぬよう小声で少女に問いかける。

「今の白い服の男――微かだが魔の気配を感じた」
「そうなのか? 緊張していた所為でまったく分からなかった」
「汝という奴は……もう少し緊張感というものを持て。緊張ではなくてな」
「ほら、二人とも何をぐずぐずしている。行くぞ」

 立ち止まっていたのが見つかり、国連指定の靴の女性が二人を叱る。怒られた二人は恥じ入るように顔を俯け、小走りで女性の許へと駆け寄った。女性はそれを確認するとまた前を向かって歩き出す。
 魔の気配――。
 魔術の気配。禁忌の気配。魔物の気配。邪悪の気配。外法の気配。
 それらに共通するその匂いを、少女は鋭敏に察していた。――そう。それらに共通する、外なる神と呼ばれる災厄の匂いを。




[21053] BETA BANE #4 『はじめまして』
Name: アキ海苔◆a481486d ID:11704c40
Date: 2010/08/26 14:03
 呼ばれてきてみれば、そこに居たのは夕呼先生――『この世界』と『前の世界』での香月副司令だった

「座りなさい、白銀武」

 やわらかそうな黒張りのソファーを指して、夕呼先生が言う。
 言われたとおりに座るとそれは案の定柔らかかった。『前の世界』の時はよく確かめなかったが、もしかしたらそこらのベッドよりも寝心地が良いかもしれない。

「……で、白銀。アンタ、面白い事言ってたじゃない。『前の世界』がどうとか」

 そう。俺はあの騒動の後、門兵達を頼って夕呼先生に連絡をとってもらったのだ。そして、事後処理の合間の忙しさからか大分制限された通話時間で夕呼先生の興味を惹きそうな事を並べ立てた。
 自分が当初別の世界から来た事。この世界、正確には地球が滅亡するのを体験したこと。もう一度今日に辿り着いた事。
 無論初めは夕呼先生もロクに話を聞いてくれはしなかった。だが、その証拠とばかりに現在国連の主導の下で極秘に行われているオルタネイティブ計画の話を言葉の端ににじませる事で、ようやく夕呼先生は俺の話に聞く耳を持ってくれた。
 その上、事後処理が一段落した所で面会を許してくれたのだから、これはある種奇跡に近い事なのだろう。それも、二人きりでの面会を、だ。無論ここまで俺を連れてきたMPは部屋のすぐ外で待機しているはずだが。

「あなた、何者?」

 暫し意識が別の方に働いてしまう。慌てて視線を夕呼先生に向けると、その眼差しはとても冷酷なものに見えた。眼差しだけではない。おそらく俺を自室に入れる前から隠し持っていたのだろう。自動拳銃の暗い銃口がこちらを見据えていた。

「米国かどこかの回し者? それとも反戦主義者?」

 ここで注釈を加えると、反戦主義者とはBETA大戦への批判を訴える人々の事だ。彼等曰く、BETAの到来は聖書に記された終末を呼ぶ神の御使いであったり、人類の挙動に対して過剰な防衛反応を取っているだけの平和的な種族であったり、と中々荒唐無稽な存在であるが、兎にも角にもそういったBETAとの闘争を極端に嫌う連中の集まりなのだ。ここまで絶望的な状況だと支持者も結構な数に上るらしく、活動が活発な地域では国連や各国の基地にテロを起こしているらしい。

「俺は……どちらでもありません。この世界を、変える為に来たんです」
「はぁ? 頭おかしいの?」

 夕呼先生の柳眉が眉根に寄る。何か目にしてはいけないものを見るよな目つきなのは、きっと気のせいだ。

「さっきも言ったとおり、俺は『この世界』を以前に体験していて――」

 先程電話で掻い摘んで話した事をもう一度、今度はいきさつを含めて話しなおす。裕子先生はその間、結局銃を降ろしこそしなかったものの、しっかりと俺の話を聞いてくれていた。

「じゃあ、あなたは『前の世界』で経験した未来の情報を駆使すれば、世界を変えられる、といいたいわけね」
「まぁ、要約すると」
「……それは、無理なんじゃないかしら?」
「えっ?」
「だって、あなたは『前の世界』でこんなにすんなり私とコンタクトがとれた?」
「そりゃあ取れませんでしたよ。気絶させられて何日かは営倉にブチ込まれてましたし」
「つまりあなたはもう既に未来を変えたわけだわ。そうしたら、あなたの過ごすであろう数日の影響で未来が変わり、結果的にあなたの知る未来とは違う未来が訪れるんじゃないの?」
「あっ……」

 そこまで考えてはいなかった。
 正直面倒ごとを片っ端から未然に処理する事して、憶えている限りでBETAの襲来地点と日時にあらかじめ防衛線を強化する、ぐらいの事しか頭になかった。
 もし未来が変われば俺の持っている未来の情報は妄想にしかならない。つまり、未来を確実に知りたければ『前の世界』と同じ行動をとらねばならないのだが、それでは世界はまたバビロン作戦――世界的なG弾の大量使用によるBETA殲滅を決断してしまう。
 しかももう既に世界は変わり始めている。『前の世界』ではあんな警報でなかった。ひょっとしたら、俺の記憶は無力なのか?

「じゃあ白銀、アンタがもし世界を変えようとしたら、どうするのが一番かしら?」
「えぇと……一番重要な時に、一度だけ変える……とか?」

 夕呼先生は一瞬驚いた風な顔をした。まずい。選択を間違えたのか。
だが、その一瞬後には夕呼先生はにっこりと笑って見せた。

「よくできたわね、白銀」

 そうなのか。単純にゲームとかの分岐を考えたんだけど……まぁ、現実でそうだからゲームでもそうなるのかもしれない。ともかく、具体的な方針が固まった事は喜ばしい限りだ。

「まぁ、実際にはあまり未来を変えないように配慮しつつ、あなたの知る記憶を頼りに物事に対処した方がいいけど……まぁ及第点、ってところかしら」
「はぁ……」

 及第点なのか。
 しかし現実主義者でもある夕呼先生にとっての及第点、というのは実際結構大きい。手前味噌ではあるが、これは期待してもいいのではないだろうか。

「……あ、それで俺の処遇の事なんですけど……」

 ふとある事を思い出した俺は、おずおずと申し出る。

「衛士訓練生、って事にしてくれませんかね。『前の世界』でも、夕呼先生はそうしていましたし……」
「そうね。あたしなら確かにそうするわ。……それとその先生って何? あたし、貴方みたいな教え子持った覚えないんだけど」

 うむ。『前の世界』でもそう言われた。

「えぇと……『元の世界』では、香月副司令は高校で物理の先生をやってらして……」
「あたしが? 教員? ……信じられない」
「でも、本当にどうだったんです。だからつい、『夕呼先生』って呼んじゃうんですけど……すいません」
「ま、呼び方ぐらいどうでもいいわ。……でも、ここでのあたしの立場は副司令だから、人前では気をつけなさい」
「はい!」

 夕呼先生、の呼称を許可されてしまった。まぁこれぐらいなら、いいだろう。

「じゃあ白銀。あなたの事は衛士訓練生として記録を改竄しとくから。精々頑張りなさい。……あたしはやる事が沢山あるからね……」

 その顔は大分憔悴している。恐らく、さっきの騒動の後処理を――

「そうだ! 忘れてた!」

 何をやってるんだ俺は! 一番伝えなきゃならない事を忘れるだなんて!

「何よ。まだ何かあるの?」
「さっきの警報! アレなんなんですか!? 何か大気圏外から云々とか未確認の巨大戦術機がどうとか聞いたんでけど……」
「え? 白銀、知らないの?」
「知りませんよ。ひょっとして、HSSTが突っ込んできたんですか? 狙撃もやってたみたいですし」

 俺が覚えている、この時期に起きた大気圏外から何かが落っこちてくるなんて話はそれぐらいだ。

「HSSTねぇ……。そんなものだったら、楽だったんだけど……。ひょっとしてあなたが経験した世界では、落ちてくるのはHSSTだったの?」
「いやまあ、落ちてくるには落ちてきましたけど、まだまだ先の事ですよ」
「……じゃあ、今回みたいな事はなかった、と」
「まぁそういう事ですね」
「……」

 なんだか、夕呼先生はすごく険しい顔付きをして考え事をしているようだ。
 その原因は分からないでもない。早くも俺が知っている未来は書き換えられているのだ。もしかすると俺の知っている未来とはかけ離れた展開が待っているんじゃないのか?
 そうなれば俺の記憶は……言わずもがな、だ。

「あの……夕呼先生?」
「白銀」

 自分の世界に没頭しかけていたところから、急にこちらに声をかけてきた。

「はい?」
「取り敢えず当面は前と同じ行動をとりなさい。それでもしも前と違う事が起きたら、どんな小さな事で報告しなさい。いいわね?」
「あ……はい。分かりました」
「それと、大十字九郎とアル=アジフ。この二人に近々会うと思うけど、警戒しつつ親睦を深めときなさい」
「誰ですか、その二人。というか最後の矛盾してません?」
「仲良くしても心を許すな、って事」
「そうですか……」

 なんだかその人たちを騙すみたいで嫌な気もするが、まぁ夕呼先生なりの考えがあるのだろう。ここは言われた通りにしておこう。
 そして、俺は少しこの後の『予定』を夕呼先生と話すと、IDとかなりレベルの高いパスを渡され、早々に帰された。驚くべきか、もう俺の為の宿所は用意されていたのだった。『前のこの世界』と同じ部屋割りだったのは、使い慣れた部屋という意味では非常に嬉しいもであって。愛着すら湧きかけたベッドはやはり、使用年月の違いからか弾力に溢れていて、寝転んだ俺の身体を柔らかく受け止めてくれた。
 しかし……何だか怒涛の半日だった。
 よく分からない警報は出るわお陰で相当な距離を走るわの騒動はいくら『前のこの世界』で鍛えた、といっても大分堪えた。
 ぎゅうぅる。
 その所為か、中々派手に腹が鳴ってしまった。そういえば、朝から何も食べてない。部屋の外を見ればまだまだ日は高く、昼過ぎといったところだろうか。
 PXかどこかで食事でもとろう。
 そう思い、ベッドから身を起こすと、小さく二度、ノックの音がした。

「白銀訓練兵。ここを開けなさい」

 鈴の音を転がすような綺麗な声。まりもちゃんの、声だ。
 その声を聞いて、俺は懐かしさすら覚えた。『前のこの世界』で、207訓練小隊が解散してまもなくまりもちゃんは国連軍本部へ転勤となってしまい、メールで連絡を取ってこそいたものの、声を聞く事などもう無かったのだ。

「白銀訓練兵? 居ないのか……?」

 などと感傷に浸っている暇ではなかった。まずい。上官を待たせるなど論外だ!

「あぁ、すみません今開けます!」
 急ぎドアまでゆき、ドアを開けるとそこには若干不満そうな顔のまりもちゃんが居た。
「何をしていたんだ、まったく……」
「すいません、ちょっと考え事を……」
「上官の時間よりも大切な案件があったのか。後で是非教えてくれ」

 まりもちゃんはそう言うと意地悪く口角をあげた。やはり彼女はまりもちゃん、などという気安い女性でなく神宮司軍曹と呼んだ方がいいのかな……。

「まぁともかく、事情は副司令から仰せつかっている。小隊の連中に会わせるから、着いてきなさい」
「ハッ!」

 短く返事をすると、神宮寺軍曹は踵を返して歩き出した。言われたとおりに俺もその後に着いてくる。歩き出して少しのところで、神宮寺軍曹は話し始めた。顔は正面を向いたままだったが。

「私は神宮司まりも。階級は軍曹で、この横浜基地で教官をやっている。貴様は私の預かる207訓練小隊へと編入される事になった。何か質問は?」
「いえ、ありません!」
「そうか。ならよし。後で小隊メンバーにこの基地の案内をさせるから、それまでくれぐれも迷うなよ?」
「はっ!」

 とはいっても俺は『前の世界』で横浜基地に居たのだから、ここはもう自宅同然。というかずっとここで暮らしてきているからブランクがある分自宅より勝手を知ってるかもしれない。そんな場所で迷うわけもない。
 神宮寺軍曹が先行する経路と前回の記憶から、行く先は屋外訓練場だと分かった。時たま神宮寺軍曹より先を行きそうになって訝しがられたが、きっと誤魔化せた事だろう。
 そんな中、訓練場まで距離にして100mといったところで、神宮寺軍曹が唐突に口を開いた。

「……しかし、訓練兵が今日から二人も増えるとは……珍しい事もあるものだ」
「へ? どういう事ですか? 二人って」
「ん、あぁ。貴様とあともう一人、我が隊に編入されたのだ」
「それって……誰ですか?」
「言われても分からないだろう? まぁ、そう急くな。じきに会える」

 そう苦笑する神宮司軍曹の言うとおり訓練場にはもう着き、若干離れたところに懐かしの207分隊の皆の姿が見えた。彼女達とは『前の世界』でも再編される事無くそのまま繰り上がって207B訓練分隊から207B分隊に成ったので、神宮寺軍曹よりかは覚えがある。だが、やはり戦死したメンバーも少なくは無く、美琴と彩峰はかつて帰らぬ人となった。
 その二人が今、目の前で楽しげに喋っているのを見るとやはり感慨深いものがある。6人は訓練を休めて和気藹々と談笑を――いや待て、6人?
 委員長。彩峰。たま。美琴。冥夜。5人だ。第一美琴も入院中の筈だから4人じゃ?
 何で6人? 美琴はともかく見知らぬ人が居るぞ? いや、どこかで見たような気も……。
 そして、見知らぬ人は長躯の男性で――



 彼が紹介されたのは、午後に入ってまもなくの時間帯だった。
 午前に起こった謎の巨大飛翔体襲来事件は目撃者の証言で未知の巨大戦術機ではないか、という話が持ち上がってきている。緘口令が敷かれているはずなのだけど、人の口に戸は立てられないもので、基地中の人間が噂している。
 馬鹿馬鹿しい話だと思った。戦術機が単独で大気圏に突入できるわけも、するわけもない。
 だが、その巨大飛翔体にかなり深く関わっている人物が、私の部隊に居た。
 彼女の名前は珠瀬壬姫。我が部隊の誇る狙撃手で、おそらくその実力は東洋で五指に入るものだろう、と自負している。
 緘口令などあってないようなものになりつつあったが、部隊長という肩書きの手前、自分から規則を破るのは流石に気が引け、聞き耳をたてるだけにしていたが皆の話を聞いているうちに好奇心が首をもたげてしまった。
 彼女曰くそれは人型を為していて、物理的に有り得ない機動を行い、挙句の果てに魔法のような盾を用いて狙撃を防いだのだという(尤も、狙撃自体はその盾を貫通したそうだが)。
 部隊の皆が角度を変えて聞いてみたが、彼女の証言は一貫しているし、その話をするときにおかしな雰囲気はない。どうやら、司令部が命じた虚言や作り話ではないらしい。
 では、本当に戦術機が単機で大気圏を突入してきたのだろうか。その上、その戦術機は謎の防御兵器を装備している?
 もしかするとこの事件は、私や私たちが考えるよりももっと大きく、深い事なのかもしれない。
そういえば昔聞いた噂で、謎の巨大戦術機というのがあった。何でもそれは、単機でハイブに突入し、制圧するような圧倒的性能を持つ代物なのだけど、それを操縦できる人が居なくて開発を中断する羽目となり、今も横浜基地地下の巨大格納庫で眠っているそうだ。
 だが、所詮噂は噂。単機でハイブに攻め込めるわけもないし、それが動かせない程複雑な操縦系統ならば多人数で分担すればいい事だ。第一横浜基地が出来たのはつい数年前の事。その戦術機がこの横浜基地に眠っているという事は、それがこの地で開発されたという事だ。こんなまだ出来立てで、箇所によっては未だ増建築途中の基地に戦術機を開発するような余力はない筈。
 それでも基地の人たちはその話と今回の事件を結び付けたがる。
 謎の巨大戦術機は完成し、実機試験の段階に入ったのだ――と。
 事件のほとぼりも未だ冷めず、浮き足立つ最中でも私たちは訓練に入る。――は、やはり身が入らない。そんな私たちを見兼ねてか、私たちの教官神宮寺まりも軍曹はいつもより少し早く、午前の訓練を切り上げた。
 昼食の話題は、やはりあの事件の事。そして、新たな戦友の事。
 神宮寺軍曹は訓練を終え、点呼をとった後にこう言った。

「今日から、207訓練分隊に新たな訓練兵が配属される。いじめるなよ?」

 と。最近作られた部隊などいくらでもあるのだから、何もわざわざある程度訓練を積んだ207に入れなくても良いのでは、とも思ったが、私達の部隊の特異性を考えればその答えは自ずと出た。
 ――その人もまた、特別なのだ。
 部隊の皆も私と同じ考えに至っていることだろう。
私達は、お互いに深く関わらない。私はせめてその人が、今あるこの均衡を乱すような人でなければ、と心の隅で念じていた。
そして午後。その人は――彼は異質だった。
 まず、年齢が私たちとはかけ離れている。どう見ても成人した男性だ。
 その上、日本人ではないようだ。名前も顔付きも日本人のそれだが、喋るのは英語。本人曰く、日系アメリカ人との事だ。一応、国際標準語として英語はある程度習得しているから、とりあえずは問題ないが多少なりとも話しづらさは残る。
 もっと悪い事は他者とのコミュニケーションをかなり密にとりたがる人らしい。
 正直、好ましい人とは言えなかった。だけど何故だろう。私達207訓練分隊の皆は彼を――大十字九郎を嫌いにはなれない気がした。



 その見知らぬ男性こと大十字九郎は武とまりもの存在に気づくと、嬉しそうに英語で話しかけた。

「こんにちは、まりも軍曹。そっちは?」

 それにまりもは流暢な英語で返した。

「彼は白銀武。あなたと同じ、今日から207の一員となる人間よ」
「そうかい。武、よろしくな。俺は大十字九郎ってんだ」

 九郎は武に右手を差し伸べ、握手を求めた。米国流、という奴だろう。『前のこの世界』で様々な人種、国籍の人々と関わった武は何の疑問も持たずにそれに応じた。

「アンタが……大十字、九郎……。俺は白銀、白銀武。こっちこそよろしく」
「あぁ、よろしく!」

 九郎はその外見同様に快活な態度で武を迎え、若干オーバーなぐらい握手した手を上下に振った。
 まりもは二人が挨拶を交わしたのを見届け、その場に居る全員に告げる。

「207訓練小隊、整列!」

 その号令に従って、武と九郎そしてまりもを除く計五人が横一列に並ぶ。その姿はまだ十代後半の女子とは思えないほど軍人然としたものであった。

「白銀。彼女たちが今日から貴様が編入される207B訓練分隊の先任達よ。皆、これは白銀武。何でも、副司令のお墨付きだそうだから、期待して良いわよ」
「期待って……そんなんじゃありませんよ」
「教官、発言の許可を願います」

 謙遜するように武が苦笑いを浮かべると、丸眼鏡と三つ編みといういかにもな個性を有する、榊千鶴が手を挙げた。

「宜しい。許可しよう」
「本日付で着任するのは、大十字訓練兵ではなかったのですか?」
「白銀も、大十字も今日から207の人間よ。二人ともね」

 千鶴のもっともな発言に207の四人は胸中で同意していて、そしてまりもの返答に疑問を抱いていた。
九郎は既に紹介を受け、第一印象からしてこの部隊に組み込まれる特異性は分かる。だが、そのほんのすこし後にいきなり新たな人物を目の前にすれば、驚くのも無理は無い事だ。只単純に二人一度に紹介されたのなら、それはそれで珍しい事なだけで、何かしら説明がつく。
だがこう微妙な時間差で紹介、というのはまるで急遽配属が決まったようではないか(事実、彼らの207への編入は急遽決まったものだが)。この異様な編成の部隊に、そんな突拍子もない事がそうそうあるものではない。
 しかし武としてもかつて友情を育み、死線を共にした戦友たちにそんな怪訝な顔をされるのは不本意であった。しかし今彼の思考を埋めているのは、大十字九郎という男の存在。こんな人間は居なかった。出会わなかった。知らなかった。
 それでも大十字九郎はここに居る。もう出会い、知っている。
 ――今じゃない。さっき横浜基地の地下、夕呼先生のところに行くときにすれ違ったじゃないか。
 猜疑心がむくりと首をもたげる。
 大十字九郎とは何者だ? なんであんなセキュリティの高いエリアに居た人が、一介の訓練兵なんて――。
 そうして、武は気付いた。
それは俺も同じだ。じゃあ、大十字九郎も俺と同じ? なら彼は異世界の人間で、もしかしたら彼も……

「……がね? 白銀? 聞いてる?」
「え、あぁ。聞いてる」

 ぐちゃぐちゃと考えを進めていると千鶴の声で現実に引き戻された。どうも外界の事が頭に入っていなかったようで、まりもは武を困った子供を見るよな目で見据えていた。確かに、武は部屋でも呆けてまりもを待たせてしまったからそういった印象を持たれるのも仕方がないことだ。

「じゃあ、今言った事言ってみてくれる? 私は?」

 千鶴は『聞いてる』と答えた武の言葉を、咄嗟に出た言い訳と思った様子で、若干怒り気味に武に問い詰めた。
 武は実際話をろくすっぽ聞いていなかったが、幸い千鶴が聞いているのはおそらく千鶴が誰かという事。武としては忘れるはずも無い話だ。

「榊千鶴だろ? 207Bの分隊長」
「そ、そのぐらいは聞いてたのね」
「ま、意外と」

 負け惜しみとばかりに皮肉たっぷりに言う千鶴だが、武も対して意にせず流す。が、武としては要らぬ恥をかかせてしまった罪悪感がないわけでもない。

「じゃあ、僕はー?」

 能天気に言うのは中性的な顔立ちに加え、一人称が『ボク』という少年的な少女、鎧衣美琴だ。彼女の男性めいた部分は父親の教育の所為であるが、それはまた別の話。

「鎧衣美琴」

 そう言うと鎧衣は単純に関心していた。何とも言えないマイペースさを誰にでも感じさせるのも、彼女の気質というもの。

「じゃあ私の名前は……」

 そう逡巡を交えて切り出したのは、武の胸の高さほどの身長しか持たない少女。武の知る女性陣はどれも強烈な個性を持っているが、彼女は何と言うか別格である。もし小学生女児向けの格好を着せればきっと似合う事だろう。

「珠瀬壬姫。合ってるよな」
「よかったぁ……」

 彼女は妙に心配性めいたところもある。おそらく自分の紹介だけ聞き逃したのでは、などと思ったのだろう。
 と、続く三人を答え武は何となく、このまま残る二人にも同じ事を聞かれるのでは、と想起していた。ならさっさと答えても問題はないはず、とも。

「で、そっちのポニーテールにしてるのは御剣冥夜。一番端に居るのは彩峰慧」

 冥夜は男子顔負けの凛々しさと、人形のような端整な顔立ち、そして武家のような言葉遣いと態度が印象強い(尤も、端整な顔立ちは武の知る女性の多くに言えることではあるが)。彩峰は獣のような鋭い眼差しと、よく言えば感情を抑えている、悪く言えば何を考えているのか分からない、表情の少ない少女だ。

「ふ、ふぅん。ちゃんと全員の紹介を聞いてたみたいね!」
「……負け惜しみ」
「……何ですって……?」

そして慧は千鶴とは犬猿の仲だ。
 普段から冷静であろうと心がける千鶴も、彼女と相対するときは必ずといっていいほど感情的になってしまう。現に今も慧は含み笑いを引っさげ、千鶴は眼鏡の奥で爛々と瞳を輝かせている。

「ほら二人とも喧嘩は止さぬか。白銀と大十字に笑われるぞ?」
 呆れたように冥夜が仲裁に入る。
 武はこの問答になれていたからか、いつも通りの光景として笑いを歓喜するほどのものではなかったが、大十字はというと苦笑――いや、微笑を湛えていた。

「本当だ、大十字さん笑ってるー」

 喜色が入った声音で、美琴が言う。彼女のマイペース加減は、敢えて言うならば空気を読むというそれから遠くかけ離れ、無縁ともいえるものなのかもしれない。

「あぁいやなんていうかさ、仲良いんだなって思って」

 九郎の声音も特に隠すものなどなく、本心を何の気兼ねもなく言葉にするようなものだったが、それが千鶴と慧の諍いを一層大きくしてしまう。

「私が、彩峰と仲が良い? そんなわけないじゃない」
「……確かに、それはない」

 いつもは互いに互いの意見とは真っ向から対立する二人も、このときばかりは同じ意見を持てた。

「でもほら、言うじゃないか。喧嘩するほど仲が良い、って」
「じゃあ本当に仲が良くない時はどう表現するのかしらね?」

 千鶴は若干脅しの要素を含む声で、九郎に問うた。

「いや、それはそうだけど……」

 流石にこんな態度を取られては九郎も言葉が詰まるというもの。それを見兼ねてまりもが助け舟を出す。

「こら、親睦を深めるのは一向に構わんが、あまりおしゃべりが過ぎるのは関心できんぞ?」
「あ、すいません教官……」

 何故か当事者ではない壬姫が謝っているが、そこに九郎以外の人間は疑問を持っていない。そして当然ながらそれに続くように千鶴らも謝った。

「では取り敢えず、彼らに基地内の設備を案内しろ。それが終わり次第報告ののち別命あるまで待機。自由時間とする」
「「はッ!」」

 まりもの命に対して、五人の一糸乱れぬ返答と敬礼。それを見てまりもは満足そうに踵を返し、訓練場を後にした。

「じゃあ、行きましょうか」

 分隊長である千鶴を先頭に、新生207B訓練分隊とも言える七人は歩き出した。





[21053] BETA BANE #5 九郎の苦労
Name: アキ海苔◆a481486d ID:11704c40
Date: 2010/09/30 22:50
 まりもさんが一つ二つ命令を下すと、207Bの連中はメガネの……千鶴だったか? まぁ、なんか雰囲気とか物腰とか学校の学級委員長っぽいから委員長さんでいっか。ともかく委員長さんが皆を纏め、移動を始めた。
 と、何かに気付いたように委員長さんがこちらを振り返って言う。

「大十字さん。今からあなたと、白銀の為に基地を案内します」
「おっ、サンキューな」

 無論、彼女が喋ってるのは日本語じゃなく、英語だ。日本語だったら俺には分からん。
 しかし驚いたもんだぜ。俺も魔導書を読む為にミスカトニックの陰秘学科何ヶ国語かを勉強したが、それでも文章を読む事も難しく、会話にいたっては殆ど出来なかった。それなのに委員長さんや香月博士は結構流暢に英語を喋ってる。ホント、日本語と英語って文法とか全然違うってのに凄ぇよなぁ。ひょっとしたら日本人って皆こうなのか? 流石東洋の神秘だぜ。
 んで、歩きながら彼女達は俺と武に説明をしていく。
 俺には委員長さんが、武には冥夜って人がそれぞれ英語と日本語で話してくれてるから当面は問題なさそうだ。
 強いて言うなら武が大抵、ものすごくこっちを見てる。アレか? 武ってそういう奴なのか? 男性がいいんですか? イヤ確かに洋服越しに見ても、歳の割にはかなり鍛えてるみたいだけど……まさかな。
 あと武は結構冥夜の話を聞かずにこっちを見てるが、大丈夫なのか? まぁ使ってる内に慣れるか。
 そんなこんなの内にあらかたの施設の説明が終わった。PX、分かりやすく言えば食堂と売店の合いの子みたいなところはすごく活気があって印象深かった。おばちゃんはかなりいい人で、俺と武が新規配属なのだと委員長さんが言うとお勧めメニューを教えてくれたし、こっそりと全員に飲み物を奢ってくれた。だがコーヒーがコーヒーの味と若干違ったのは何故だろう? なんか日本語で“コーヒーモドキ”って言葉が聞こえたけど。後で委員長さんにでも聞いとくか。
 そして今向かってるのは、戦術機ハンガー。
 そう。あの20mぐらいの巨大ロボットは『戦術機』という名前らしい。戦術歩行戦闘機の略だから戦術機。なら戦略歩行戦闘機とかってないのかと思って聞いてみたけど笑われた。壬姫ちゃんみたいな小さい子にも笑われたのは少し恥ずかしかったけど。

「着きましたよ、大十字さん。ここが戦術機ハンガー。ある意味では横浜基地の心臓ともいえる場所ね」
「うぉぉ、凄ぇ! これ全部戦術機って奴なのか」

 そこに並んで居るのは数え切れないほどの巨人達。種類自体はそんなに多くないが、どれも強そうだ。
 しかし、こんなのが世界的に量産されてるなんて改めてこの世界の凄さを実感した。多分この世界だったら、もしブラックロッジが居ても真っ向から戦えそうだ。こんな光景を見たらあのキ●ガイはなんて言うだろう。アイツの事だから取り敢えずドリルをつけそうだな……。

「機体の事はまた今度座学で教えてもらえると思いますから」

 と、委員長さんは言う。一応伊隅大尉が道すがら教えてくれたのによると、俺を狙撃してきたのは吹雪。次に戦って壊しちまったのが陽炎。そんでもって伊隅大尉たちが乗ってたのが不知火、って名前らしい。

「それじゃあ、行きましょうか」

 正直もう少しこの戦術機、ってのを見ていたかったがここは博物館じゃないわけで。しょうがなく委員長さんに着いていく。

「大十字さん、ひょっとしてもう少し戦術機を見てたいんですか?」

 こっそりと振り返ってそう言ったのは壬姫ちゃん。うむ。この子はすごく気が利く子のようだ。将来きっといい嫁さんになる事だろう。

「まぁ、少しは」
「男の人ってやっぱりこういうのに憧れるんですかね?」
「そうでもないだろ。ほら、武なんか全然興味なさそうだし」

 俺の言うとおり、武は戦術機にあまり興味を持っていない様子だ。俺は初めてデモンベインを見た時も、敵としてでなく改めて戦術機を見た時も、胸の中に高鳴るものを感じたのだけど、それはひょっとしたら間違った感情なのもしれない。

「ほら、珠瀬、大十字さん。いきますよ」

 いかんいかん。壬姫ちゃんと話していたら一行から遅れてしまった。慌てて小走りでそのその中に戻る。
 そしてそのまままた少し歩くと、また別の一室へ。
 今度の部屋は中々広めの部屋だったけど、何か箱みたいなのが所狭しと詰まってる所為でどうも窮屈に感じる。

「ここは、戦術機のシミュレータールームです。戦術機の操縦系統は他の兵器と比べたら大分複雑だから、この筐体でしばらく訓練を積むんです」

 丁度他の部隊がシミュレーターを使っていて、それをモニターで見させてもらった。今は何か球体みたいなのと、戦術機――確か吹雪が戦っている。とは言っても球体はその場を動かずに攻撃をしてきて、それを幾体かの吹雪が次々に撃ち落とすだけなので、戦いというよりもそういう遊びに見えた。

「へぇ。何か面白そうだな」
「面白い? 本当にそう思ってるんですか?」

 委員長さんのメガネがキラリと光る。まずい。何か触れちゃいけない何かに触れちまったみたいだ。

「これも立派な訓練用の設備なんですよ。遊びじゃないんですから」

 言葉は静かだけど、その顔は剣呑そのものだ。
 ……確かに、彼女達みたいなまだ大人じゃない、それも女の子が戦ってるんだ。生半可な状況や、覚悟じゃない筈だ。俺はそれを侮辱するような言葉を吐いちまった。最低だ。

「……済まなかった。反省してる」
「……分かってくだされば、結構です」

 そう言い委員長さんは振り返り次の施設へと向かってゆく。
 あとでまた何かフォローしておかないとな。
 何となく彼女の背を見ているのはいたたまれなくなって、つい横を見やると武と目が合ってしまった。武は気まずそうに一旦視線を離すと、それでもまた視線を合わせる。

「……大十字さん。あとで、話があるんですけど」
「……あぁ」

 武の瞳に合ったのは、別に男色とかそういう浮いた話じゃなかった。
 敵対の色だ。獣が、自分のテリトリーに土足で踏み込んだ異端者に対して使うような目だ。お前は誰だと。何の用だと。そう唸っている。
 そして俺はアルに言われた事を思い出していた。
――微かだが魔の気配を感じた。
記憶を手繰れば、あの時廊下ですれ違ったのは武だった。神経を集中させれば、確かに武からはそういう嫌な気配がしないでもないし、現に彼は俺に敵意を向けている。武は悪い奴には見えない。それでもかつてのエンネアのように、只の人間の皮を被っている可能性もある。

「……」

 武は何も言わずに前に向き直ると、少し足を速めて一行の前の方に逃げるように去っていく。
 結局施設の紹介が全て済み、親睦会の名目の下、PXで休憩を取っても武と目が合う事はなかった。
 そうして、俺はせめて気を紛らわせようと207Bの女の子達と益体の無い会話を繰り広げている。基地の中で一番印象に残った場所の事。アメリカ人から見て前線はどう思えたか。ここでやっていけそうか。
 経歴や価値観については、伊隅大尉にあらかじめ叩き込まれていたしさして問題はなかった。
 そんな話の中で聞いたのだけの、どうやらシャンタクで降りてきた俺を狙撃したのは、壬姫ちゃんらしい。人は見かけによらないと言うけど、彼女はこんななりでも極東一のスナイパーなのだとか。確かにあの狙撃からは何処に行っても逃げられなそうな雰囲気すら出てたし、実際かなりキツかった。
 一つ気になったのは、誰も家族や素性の事などは突っ込んでこない。正直一番話のタネになるかと思って、一番根を詰めて考えを練っていたのだけれども、精々美琴が日系人なのか聞いてきたりしたぐらいだ。これもアメリカと日本、或いは俺の生きてた世界とこの世界の価値観の差って奴なのだろうか?

「ごめん。俺ちょっとトイレ」

 武がそう言い、立ち上がる。一瞬、俺に視線を投げかけて。

「じゃあ俺も行ってくるわ」
「主賓が一辺に居なくなってしまっては寂しくなるな」

 そう言うのは冥夜。ひょっとして俺達が本当にトイレに行きたいわけじゃないの見抜いてるんじゃないのか?

「まぁなるべく早く帰ってくるからさ。ほら武、行こうぜ」
「あぁ」

 後ろから美琴が「行ってらっしゃ~い」と手を振っている。アイツは本当にマイペースなんだな。というかアイツやっぱり男なんじゃ……?
 俺はずんずん歩いていく武の後に着いていく。
あれ? そういえば俺らトイレの場所教えてもらってないな。一応壁に埋め込まれたプレートに多国語で表示されてるから大丈夫だけど、武はそれすら見ていない。まるで自宅のように何の迷いもなく進んで、なんなくトイレに着いてしまった。
トイレは都合よく無人。内緒話にはうってつけだった。

「武。お前……何者だ?」
「それはこっちの台詞ですよ、大十字さん」
「――えぇと、俺はアメリカの方で民間の航空機会社に勤めてて、それで何か人類の為に働ければと思って国連軍に入ったんだよ。そしたら衛士適性が見つかって……」
 つらつらと並べ立てるのは考えに考えた“国連軍の訓練兵大十字九郎”の設定だ。まさかこんなところで使うとは思わなかったけど、しっかりと考えてて良かったぜ。
「違う、そういう事じゃない!」
「何も違わねぇよ」
「だったら何で地下に居たんだよ! ……どうせその経歴だって夕呼先生にでも言われて作ったんだろ?」
「いや、それは……」

 夕呼先生、というのは香月博士の事だろうか。彼女の部屋から出て、廊下を歩いているときにすれ違ったのはやっぱり武みたいだ。問題は俺がコイツの姿を見たように、俺もまた見られていたらしい事。

「あんたは夕呼先生と――どう関わってるんだ?」

 その言葉が、男女関係云々を言うものならばどんなに楽だったろうか。だが違う。武はそんな事言っちゃいない。
――大十字九郎の持つ、香月夕呼に興味を持たれる程の何かとは、何なんだ。
武はきっとそういう意味で言っている。
 だが俺はおいそれと魔術や異世界の事を口にするわけにはいかない。第一信じてもらえないだろ。デモンベインの事も話せば信じてもらえるかもしれないが、もしその事を打ち明ければ俺が陽炎をぶっ壊した事もあるし、相当な数の敵を作る事になりかねない。
 ならば――

「実は俺は……」

 ――嘘を吐き通してやるぜ!

「……国連の誇るスーパーエリートソルジャーの一人なんだ!」

 流石の武もこれには驚いたらしい。その場しのぎとはいえかなり出来はいい筈だしな!

「その中でも俺は00ナンバーを持つ最後の兵士、009なんだ! 名前の九郎もそのコードから与えられた偽名だ。無論この事は秘匿情報だけど、お前にだけは教えておく。他の奴らには話すなよ? 上に消されたくなかったらな」

 対する武は一度その目を見開き、あとはずっと無言で下を向いている。まさか本当に通じるとは……。

「……はは、はははは」

 と思ったら、唐突に笑い出した。……ひょっとして、通じなかったのか?

「ははははは……!」

 武の笑いは止まらない。
それだけじゃない。今の武はまるで気でも違えたのような異様な雰囲気をまとってすら居る。

「……ははは、大十字さん。アンタ本当に何者だよ、なァ!」

 突如として武は駆け出し、俺の襟首を掴んでトイレの壁に押し付けた。その力は尋常じゃない。俺も腕力には多少なりとも自身があったが、武はそれ以上だ。まるで何年も修行を積んだみたいな――。

「確かにその嘘は『前の世界』で俺が冥夜についちまったもんだよ! なんでアンタがそんなのを知ってるんだよ、大十字九郎!」
「『前の世界』……? 武、お前一体何を……!?」

 まさか武はナイアルラトホテップの化身? 確かにそれならこの魔の気配の説明もつく。

「夕呼先生の言葉の意味が分かったぜ、アンタは何かを知ってる……! この世界の、何かを!」
「……そいつはこっちの台詞だぜ、武!」

 襟首を掴む手を引き剥がすように武の前腕を掴み、内側に捻りこむ。だが武はその直前にその手を引っ込め、手を伸ばしてもギリギリ届かない程度の距離を取る。

「この世界の有様は手前が――ナイアルラトホテップがやったのか!?」
「そんなわけないだろ!」

 武は取った距離を縮めようとも広げようともせず、その位置関係を維持しようとしているようだ。これが武の間合いってわけか。

「誰が好き好んで人類を滅ぼさせるものかよ!」

 右の拳を硬く握り、武が突っ込んでくる!

 かなり速い。身体の出だしも、拳もアンチクロスやエルザ程ではないが――

「ぐっ!」

 俺もマギウススタイルじゃない。いつもならばなんなく避けられる筈の一撃が、防御で手一杯になってしまう。それに拳を受けた右腕が痛みを訴えている。無茶苦茶な戦闘経験が、今はそのイメージと現実との差異で明らかに邪魔になっている。俺の中ではもっと軽く動けて、もっとキレのある体さばきがあるんだけど、それに引っ張られてうまく体が動いてくれない。
 ひゅう、という風切音を連れて、今度は左足のミドルキックが迫る。パンチへのガードで空いた右脇が狙われていた。右手は間に合わない。

「やらせるかよ!」

 右手が駄目なら左手がある! 大分強引な形だが俺は武の蹴りを左の掌で受け止めた。かなり痛むが、モロに喰らう事を考えれば安いものだ。
 そしてそのまま左の足首を掴み、放り投げるようにして押し倒す。
それでも武は転ばない。どういう体幹してんだ!?
 だがこっちだってやられっぱなしってわけにはいかない。この一度の攻防で分かったのは、武の動きが大分洗練されている事。俺や俺の今まで戦ってきた相手のように、身体能力や技に頼った無茶苦茶な戦い方とは違う。だが、それならば手立てもある。

「うぉぉおお!」

 咆哮と共に駆け出しせば、武は待ってましたとばかりに左の拳を突き出してきた。だがその拳が俺の顔面にめり込む直前で、しゃがみこむ様にして水面蹴りで足元を掬う。そう、武の綺麗過ぎる形は、逆に読みやすいのだ。
 カウンターの最中ってものあってか水面蹴りは綺麗に入り、武の両足が地面から浮き――浮いたままだ。加えて言うならば別の脚があった。

「え?」

 次の瞬間、俺の右腕がギリリと捻り上げられた。

「痛だだだだだ!!」

 何だ!? 何が起こった!?
 見上げれば武も羽交い絞めにあい、手足をバタつかせている。そしてその後ろを見れば、強面で黒服の奴が居た。
 頑張って背後を確認すれば俺も似たような格好の奴に押さえつけられている。
 そう。俺はこの連中に見覚えがある。確か伊隅大尉に『投降』を申し出た後、俺を香月博士ん所まで連れてった奴らだ。

「何でMPが居るんだよ!」

 武が吼える。だが黒服達は何も答えない。
 彼らが居る理由はまぁ予想がつかないわけでもない。俺達が特殊な人間だから、見張っていたんだろう。おそらく武も分かってるとは思う。
 MP達はそのまま何も言わず、俺を立ち上がらせ、トイレから出させた。勿論、腕はしっかりと捻りあげられたままで、だ。武の方はさすがに羽交い絞めを解かれてはいたが、やっぱり俺と同じ様に腕は後ろで極められている。
 そしてそのままMP達が歩き出したので、当然のように俺たちは注目の的となった。

「何処に連れてくのか、教えてくれねえかな?」

 黒服軍団の一人が硬く口を結んだまま、軽くあごをしゃくって見せた。

「……そうだよな、やっぱり」

 MPが示したのは、壁のプレート。そこにはこう書いてあった。
 『営倉⇒』



[21053] BETA BENE #6 I [am] like you.
Name: アキ海苔◆a481486d ID:11704c40
Date: 2010/08/26 14:15
 まりもが呼び出されたのは、彼女が教鞭を取る訓練部隊に新入生への基地案内を命令して二時間も経たない頃。丁度彼女が二人の経歴などを記した書類に粗方目を通し、PXで行われてるであろう親睦会に顔を出そうとした時だった。
 部屋に来たのは黒服のMP。何事かと訝しがる彼女にそのMPはそれまでの経緯を話し、共にある場所へと向かう。
 それが15分ほど前の事であった。そして今。

「で、貴方たちは何をしているわけ?」

 まりもの視線の先に居るのは、それぞれ別の営倉に入れられた件の二人だった。

「えぇと……営倉に入ってます」

 答えたのは九郎。だが勿論まりもはそんな事を聞いてるのではない。小動物程度なら殺せそうな目付きで九郎をにらみ付けると、小さく悲鳴をあげて彼はまた縮こまった。

「白銀、説明しなさい」
「……喧嘩です」
「喧嘩?」

 武の一言にまりもがつい素っ頓狂な声をあげてしまう。

「喧嘩って……二人で喧嘩をしたわけ? 会って早々?」
「……はい」

 申し訳なさが苛むのか、武はそう言うとまた項垂れてしまう。九郎もまた縮こまったままだが、未だにまりもに恐れをなしているわけでもない様子だ。
 二人は別々の営倉に入っているが、示し合わせて居るわけでもないのに背と背を向かい合わせていた。男子特有の気配や直感というものだろうか。

「まったく呆れたものね。副司令から貴方達は特別だって言付かってたけど……悪い意味で『特別』な様ね」

 返す言葉もなく、二人は押し黙ったままだ。まりももそれを見て、これ以上の会話の無為を悟ったのか、警備兵の方に身体を向ける。

「私はこの二人の教官の神宮寺まりも軍曹です。うちの者がご迷惑をおかけしましたが、何故彼らは営倉入りとなっているのですか?」

 その言葉の裏にあるのは、何故まりもへの報告や事情聴取もなく彼らがここに居るのかという意味だ。まりもとしても彼らは一応教え子ともいうべき存在であって、そう勝手に扱われては嬉しいものでもなかった。

「いや、私は何も……」
「知らない? 何か報告もなしに、無断で営倉を使われているという事ですか?」
「まぁ……そういう事になります」

 話にならない。Need to knowの原則はまりもも知っている。だがこの事態はある種不可解すぎた。まるで何かが裏で全てを監督しているような――。
 一瞬、まりもの脳裏にとある人物がよぎる。
 この場所でそれだけの事を行える能力と権限、そして本当にするのはあの人しか居ない。時に横浜の女狐とまで揶揄される、この基地最高峰の策士しか。

「あら、まりも。あなたも来てたのね」
「香月副司令……!」

 コツコツと靴音も高らか、MP数人と見慣れぬ少女二人を連れて入ってきたのは国連軍横浜基地副司令香月夕呼その人だ。そして、おそらくはこの状況を作り出した人物。

「そういう言い方は止めてくださいと以前から申し上げている筈です。それ以前にこれはどういうことですか!」
「いいじゃない。まりもはまりもなんだし」
「そうではなく……」
「彼らが営倉に入ってるのは、あたしが命令したからよ」
「――やっぱり、そうだったんですか」

 人を食うような夕呼の態度に、呆れているのか疲れたのかの曖昧な表情から一転、まりもの顔に真剣みが戻る。

「彼らが何かコトを起こしたら問答無用でブチ込むように怖いお兄さん方に言いつけておいたのよね~」
「……ならどうして私に一言、同じ事を教えてくれなかったのですか? 彼らは一応私の部下です。せめて一言仰ってくれれば……」
「でも現に貴方は彼らを監督しきれてない。言わなかったのは……Need to knowってとこかしらね」

 まりもの歯を噛む音が営倉の中の二人にも聞き取れるほど強く鳴った。
 だがそれは決して夕呼に対する恨み辛みや怒りから生じたものでなく、まりも自身に向けられたものだった。何も出来ない自分。権限も能力も、彼女の話に関わるほどのものを持ち得ない自己が呪わしい。そんな自己嫌悪にも似た表情を湛えながら彼女は歯噛みをする。

「まぁ、まさか私もこんな早く二人がぶつかり合うとは思ってなかったけどね」

 そんなまりもを見てか、フォローするように夕呼は言う。彼女とてまりもを責めたいわけでも、責めさせたいわけでもないのだ。

「ちょっと、そこの貴方」

 そう言い夕呼に視線を投げかけられたのは先程まりもに『何も知らない』と答えた警備兵。彼は少し戸惑いながらも夕呼が指したのが自分である事を確認するように、「自分ですか?」と返事をした。

「そう。そこのあなた。悪いけど、ちょっと部屋の外に出てて貰えるかしら。ここの警備兵も全員連れてってね」
「しかしそれでは警備が……」
「大丈夫よ。まさかあたしが脱走の手引きでもすると思ってるの?」
「まさか!」
「じゃあすぐに。ほら、貴方達も」

 追い立てられるように――いや、実際追い立てられて、MPと警備兵は全員が全員、部屋の外に出て行ってしまった。この部屋の外には警備兵とMPが整然と並び、その前を通った人に何事かと思わせる事だろう。

「……まりも。あなたも出てってくれる?」

 まりもはこの部屋の中で、唯一異世界の話を知らず、また関係者以外で残っていた。

「私も、彼らの上官という意味では関係者です」
「神宮司軍曹」

 身分というのはどの社会にも何らかの形で必ず存在し、力を振るう。
 ことに軍隊というものは身分は絶対だ。
二等兵は一等兵には逆らえない。
一等兵は上等兵に逆らえない。
 軍曹は、副司令には勝てないものだ。

「……」

 まりもはそれを誰よりも熟知していた。彼女は教官の身。誰よりも模範的な衛士でなくてはならないのだ。
 今はそれが嫌だった。自分の知らないところで自分の教え子がどうにかなってしまいそうなのが。それでも彼女は、国連軍横浜基地所属の神宮寺まりも軍曹だった。

「……失礼しました、香月副司令」

 歯噛みをするのも無礼、とばかりにまりもはもう歯を食いしばりはしなかった。ただそのやりきれない気持ちを飲み込むように一度喉を鳴らさんばかりに唾を飲み込み、彼女は扉の向こうに去っていった。

「……さて。貴方達、何でこの――」
「こっの大うつけがぁぁあああ!!」

 ドガン、という盛大な爆発音と共にアルが叫んだ。どうやら彼女にはまりもと違って上を立てる思想はないらしい。幸いだったのが爆発が魔力によるもので指向性があり、その犠牲となったのが九郎のみだった事。

「汝という奴は何を考えているのだ! いや、どうせ何も考えておるまい!」
「待て待て待て! いきなりすぎるだろ!」
「いきなりも何もそれはこちらの台詞だ!」

 魔力の爆発の所為で些かにみすぼらしい姿となった九郎を逃さぬように、アルは檻越しにその胸倉を掴む。そしてついでとばかりに拳骨を一発。

「何故お主とあ奴が喧嘩などしておるのだ!」

 あ奴というのは状況的に武のことだろう。九郎もそれぐらいの察しはすぐにつく。

「いや、お前が言ったとおりアイツからは魔の気配がしたし、それに『前のこの世界』とかいうからてっきりこの世界のナイアルラトホテップかなんかかと……」

 ごきん、と大分痛々しい音が営倉全体に響き渡る。見れば九郎の頭には髪の上からでも分かりそうなぐらいのこぶが出来ていた。
 夕呼はつい『脳挫傷とか大丈夫かしら。寧ろあの打撃力も魔法関係?』と、客観的な意見を持ってしまったが、生憎とこの痴話げんかめいた騒乱に首を突っ込む気にはなれなかった。
 というか九郎はうなだれている。落ち込みだとか情けなさといった精神的なものでなく、物理的要因によって。だがたかがそれぐらいのことでアルの怒りが収まるべくもない。彼女は気付けとばかりに九郎の頬を二、三度叩くと尚も言葉を続ける。

「うぅ……」
「汝はもう何だ、人の言葉では表せぬ大うつけだ! 白銀武が邪神の眷属? そうであったならもっと禍々しく濃密な魔の気配を垂れ流すか、或いはまったく漏らさぬに決まっておろう! 第一、妾がすれ違った邪神の眷属をみすみす逃すか!」
「その通りです……」
「もっとしゃんとせぬか!」

 そしてまた九郎の顔に一発。
今度は正面から。
それもグーで。
 鼻血を噴きながらもんどりうって倒れる九郎を捨て置き、アルは夕呼の方を向く。

「済まなかったな、副司令殿。どうしてもこの阿呆だけは自分の手で殴らねば気がすまなかった」
「その阿呆は死に掛けてるようだけど大丈夫?」

 確かにその阿呆は鼻血の海を遊泳するする勢いで出血大サービスの真っ最中だ。人間は体重の約8%の血液を持ち、その1/3を失えば失血死だと言うがそれが本当なら死んでるぐらいに盛大な出血っぷりだ。

「なに、普段の事だ」

 さも当然のように言われれば夕呼も驚かぬわけがない。
それが本当で、もし日常的にそれだけの量の血液を失って大丈夫な理由を見つけられれば衛士の死亡率を下げられるかもしれない。その程度なら気分転換に片手間でやるぐらいの価値はあるだろう――と、夕呼が思いを巡らせたのも束の間。
どうやら彼らの話の限りでは魔術関連の勘違いがこの騒動の原因のようだ。

「社、どうなの?」
「……武さんも、九郎さんもお互いにお互いを黒幕か何かと思ってます」
「やっぱりね……」

 夕呼が霞を連れてきたのも、彼女の持つとある特殊な才能故だ。それならば言い訳も虚言も通じない。

「アル=アジフ」
「何だ、副司令殿」
「貴方達の喧嘩の原因は単純な勘違いでしょ」
「まぁ……その通りではあるな」

 渋々と答えるアル。やはりただの勘違い程度で一悶着あったばかりで、きまりが悪いのだろう。策謀からくる笑みを隠し、夕呼はぬけぬけと申し出る。

「なら、いっそ全部教えちゃえば?」
「なっ――!」
「は……? 何言ってるんですか、夕呼先生!」

 アルのみならず、今の今まで静かに話を聞いていた武までもが檻越しに夕呼に詰め寄っていた。

「だって、そんな事をしたら歴史が……」

 そこまで言うと、武はふたたび口を閉ざした。どうやらこれ以上喋るのも未来を変えかねない、という事実に気がついたらしい。あるいは、武の妄想めいた話を信じてくれ、彼が信頼していた夕呼に裏切られたような惨めさを感じたのかもしれない。

「白銀、此処まで来たらもう歴史を変えないなんて無理なのよ。本当に未来を変えたいだの救いたいだの思うなら、時には踏ん切りつけて転進する覚悟もいるのよ」

 武は何も返せない。先程までと同じ様に押し黙っている。だが今度は話を聞くためでなく、ただ自分の胸の中にあるものを纏めようとしているようだった。

「待ってくれよ、香月博士。歴史だの未来だの、聞き捨てならない言葉が飛び交ってるんだけど……」

 九郎もあの状況から復活を遂げ、檻の鉄格子の隙間から彼らの会話を伺っている。だが夕呼は彼らを無視して、当事者の中では最も冷静な考えを持てそうな人物――アル=アジフと向き合い、言の葉を繰る。当然、牢獄の中の二人には聞こえぬ声量で。

「聞きなさい、アル=アジフ。貴方と大十字九郎はこの世界の中では異端中の異端よ。でもね、それは貴方達二人だけじゃないの。白銀武も、この世界を動かす鍵なのよ」
「……それは、分かっておる」
「貴方達は生まれや経緯は違うでしょうね。でも、私を含めて当面の目標は同じじゃないの? だったらこんなところで足を引っ張り合ってる場合でも、敵対してる場合でもない筈よ」
「人類の為に敵やもしれぬ者と手を取り合えと。汝はそう言いたいのか……?」

 アルの目が射抜くように香月夕呼を見据えていた。まるで内面までもを見透かすような眼力だ。
 だが、香月夕呼は怯まない。彼女が恫喝などに怯えるべくもないのだ。
 アルは知らないが、香月夕呼は横浜基地の副司令であるだけでなく、無謀なまでの大願を為すための計画の責任者でもあるのだ。
 圧力を受けた。脅迫を受けた。事故を装い殺されかけた。刺客を差し向けられた。
 それでも彼女は今ここに居る。その身に受けた数々の困難など一蹴し、彼女を狙う人々を一笑して。
 今更外道の集大成の人外ごときに臆するべくも無かった。

「……負けだよ、妾の。良かろう、手を携えてともに行ってやろうではないか」

 観念したようにアルは呟いた。
 その顔は妙にスッキリとして、満足めいたものだった。

「……ありがとう、アル=アジフ。じゃあ、あたしは帰るわね」

 言うが早いか夕呼は霞に一度目線を遣ると早々に踵を返して扉に向かっている。

「待て、何を帰ろうとしている!」
「あたしは貴方達と違って忙しいのよ。喧嘩まで起こすから後始末が大変じゃない。それでなくたって貴方達がここに居るための準備で忙しいって言うのに……」

 アルの引きとめも虚しく、夕呼は行ってしまった。まぁ彼女の言う事は正しい。異邦人の喧嘩の仲裁や仲直りを見るほど暇な基地副司令というのは居ないだろう。ましてや彼女は巨大なテーマを研究中の学者。暇など全く無いはずで、今まで時間を割いていた事が異常なくらいだ。
 アルもそれがわかっていないわけではない。だが……

「情趣というものもあるではないか……」

 それでも彼女の顔は、笑っていた。

「あぁそうそう」
「っ~!」

 見れば今しがた帰ったはずの夕呼が扉からひょっこりと顔を覗かせている。

「人払いはそのままにしておくから、話が済んだら声を掛けなさい。それと、そこのバカ二人は今晩はその中に居させとくから」
「あ、あぁ」

 そしてまた夕呼は去ってゆく。上機嫌に鼻歌まで奏でながら。アルはまた夕呼が出てこぬかと勘ぐりながらも、咳払いを一つ。そして厳かに口を開く。

「……して、二人とも。よく聞け。我らはこれより共同戦線を――」



 牢獄の中から見る月は、どこで見た月よりも輝かしく見えた。本当は差なんてあるわけも無いのに。

「はぁ。驚きだな」

 そう言ったのは隣の房に入れられてる大十字。夕呼先生の計らいか、今この営倉の中には俺たち二人以外には猫の仔一匹居ない。そのお陰で俺と大十字はかなり自由に会話も出来る。夕子先生に感謝だ。

「アルが共同戦線を張るって言い出したときはおったまげたけど……お前も、この世じゃ普通じゃないんだな、武」
「まぁな。だけど驚いたのはこっちだよ。魔術とかいきなり言われてもさ」

 そう。夕呼先生が帰った後、大十字とは大分親しい様子の女の子――確かアル=アジフは俺に大十字とアルの素性を話してくれた。
 魔術のこと。異世界のこと。デモンベインという名前の巨大な……鬼械神、だったかな? まぁとりあえず巨大ロボットのこと。邪神のこと。どうやら俺はその邪神とやらと間違えられて大十字と戦うことになったらしい。まぁ俺も色々と勘違いを起こしてたから、おあいこってところか。

「まぁ俺たちの世界でも、魔術とかは信じてない奴も多かったしな。それよか、お前だって無茶苦茶すぎるだろ」
「確かに、『前のこの世界』とか『元の世界』だなんてな……」
「あぁ。正直、ナイアルラトホテップが関わってるもんだとばかり思ったよ」
「邪神、ってヤツだっけ?」
「そ。今ん所の俺の怨敵」
「大十字も大変なんだな」
「九郎でいいよ」
「分かった、九郎」

 大十字――いや、九郎が言うにはそのナイアルラトホテップは『シャイニングトラペゾヘドロン』なるマジックアイテムを扱える存在を生み出す為に九郎たちの宇宙――世界ともいえるものをループさせてきたらしい。世界は血の涙を流して、そしてまた全てが無かった事にされる。それを幾千幾万と繰り返して、そしてその終端に大十字九郎が生まれた。
英雄の道を決め、極め、そして望まれた位階へと駆け上がり、そして望み以上に昇ってしまった。
 仇敵を滅し、邪神を滅し、無限の宇宙に潜む無数の邪悪を滅す為に彼は駆け上がり続けている。

「なぁ、武。お前言ってたよな。この世界を、お前は繰り返してるって……」

 そう。話半分なら俺と同じだ。話半分だけなら。

「違うよ、九郎。俺は邪神なんか会ってないし……世界を救い損ねたんだ。戦いには負けて、愛した人を護れたのかも分からず、恋焦がれた奴にも会えなかった。俺は、大十字九郎にはなれなかったんだよ……」

 オルタネイティヴ4はオルタネイティヴ5に接収されて断絶された。
 バビロン作戦の後、無限の戦いの果てには破滅以外の一体何が残っていたのだろうか。
 夕呼先生はオルタネイティヴ4の責任を取らされて行方知れずになった。
 『前の世界』で俺が愛した冥夜は宇宙の彼方で平穏を生きていたのだろうか。
 委員長も、彩峰も、たまも、美琴も皆次々にBETAに殺されていった。
 社霞は地下のシリンダーと別れて幸せだったのだろうか。
 純夏には最期まで会えなかった。
 純夏は何処に居たのか。
 ――すみかにあいたい。
 どれだけ願った事か。どれだけ祈った事か。どれだけ泣いた事か。
 それでも純夏には会えなかった。『元の世界』の皆が居る中、純夏だけがぽっかりと抜けてしまった様に居なくなっていた。

「……なれるさ」
「え?」
「お前は確かに俺にはなれない。でも、『世界を救う英雄』白銀武になら、きっとなれるさ」
「……なれるかよ。俺は何も出来なかったんだぞ? 今日だってつまらない勘違いであんたに喧嘩吹っかけて――」
「俺もそうだったよ」

 九郎が、そうだった?

「俺も最初は皆に迷惑かけっぱなしで、世界の怨敵――マスターテリオンには手も足も出なかった。でも、沢山の人たちが俺に思いを託してくれて、力を貸してくれた。無限の俺が積み重なって、頂を掴む力をくれた。だから俺は、今の俺になれた」
「でも俺には……」

 俺には、世界が希望を持ってくれる英雄性も、それに応える力も無い。俺はまだたった二人分しか世界を経験していない。

「大丈夫だよ、武。お前には人類っつー仲間がついてる。俺は沢山の後押しを受けた一本の針だったけど、お前は沢山の仲間と肩を並べる剣だぜ? 針に出来たんだ、剣に出来ないわけないだろ」
「九郎……」

 あぁ。そうか。
 九郎が世界を救えたわけが、分かった気がした。
 九郎は前を向いている。俺が脇に目を向け、後ろを振り返えい、視線を逸らしている間も九郎は前を向き続けているのだろう。たとえ勢い余って転んだときも、泥と擦り傷に塗れて泣いても、きっと立ち上がってまた前を向いて走り出すに決まっている。
 だから九郎は世界を救えたんだ。

「……そういえば、九郎。一つ聞いてもいいかな?」
「ん、何だ?」
「何で、あの時国連のスーパーエリートソルジャーなんて言い出したんだ?」

 アルと九郎から二人の世界の話は聞いたが、それでも俺が『前の世界』で垂れた妄言を何故九郎が知っていたのかが、未だに理解できない。

「あぁ……あれな」

 九郎の表情は壁越しには分からないが、その声はなんとも気まずそうな、気恥ずかしそうだ。そんなにまずい事を聞いてしまったのだろうか。

「いや、その……普通に思いつきで……」
「は?」
「だからさ、その場でお前を納得させられそうな嘘を考えたら、あれが思いついて……」

 暫し沈黙。そして……

「っぷ、ははははははははは! マジかよ、それ! ありえなすぎだろ!」
「お、お前だって『前の世界』で言ってたんだろ!」
「だからありえないんだって! まさかこんなの思いつくバカが俺以外に居たなんて…!」

 きっと、牢獄の窓から見上げる月が輝かしくて美しいのは、感傷に浸るだけの余暇と、それが決して届かぬものだと知ってしまう為だと思う。
 でも、もう俺は今晩の月を輝かしく、美しいものだと感じる神経は持てなさそうだ。





[21053] BETA BANE #7 かくかくしかじか
Name: アキ海苔◆a481486d ID:11704c40
Date: 2010/08/26 14:19
 軍隊には起床ラッパというのがある。
 その名の通り、朝に軍人を叩き起こすべく吹かれるラッパで、横浜基地ではそれが毎朝吹き鳴らされるのだ。これが鳴っても起きない輩にはそれ相応の処罰が為されるというのもお約束、というか立派な軍規だ。
 一応それより早く起きるのは禁止されているわけでもないが、だからといって基地内をうろつき回っていいわけもなく。
 しかし、起床ラッパも未だ鳴らぬ、夜明け間際の横浜基地を闊歩す影二つ。
 一人は少女。残る一人も少女。
 その歩みは決して忍ぶつもりなどなく、悠然と、超然としていた。あたかも、今自分たちがここを歩く事は断じて間違っていないとばかりに。

「誰だ!」

 歩哨の者だろうか。安全装置のかかったままのアサルトライフルを携え、銃口の下部に取り付けられたライトでその二つの影を照らす。
 たじろぐ影。だが、影は己を照らしているのが歩哨である事に気付き、歩哨もまた己が照らしているのが少女二人である事に気付くと、警戒を緩めた。しかし、歩哨は尚も彼女らが何をしているのか尋ねようとしたところ、片方の影が動く。
 二言、三言会話を交わし、何かを見せ付けているようだ。
 歩哨はそれだけの事で追及を止め、敬礼を以て彼らを送り出す。その姿にはある種の萎縮すらあった。
 その影二つが歩き、歩き、そして歩いた先にあった一画。そこでもやはり影は先程のように二、三言葉を交わし何かを見せる事で通行を許可され、それどころか何かの鍵すら受け取っていた。
その一画に示された文字は――
 『営倉』
 影の片割れこと、アル=アジフは檻の前に居た。収監されているのは彼女の主、大十字九郎。
 牢獄の中だというのに、何とも気持ち良さそうな顔で寝ているのが何とも憎たらしい限りだ。そしてもう一つ言うならばすこぶる寝相が悪い。アルが聞いた限りでは、今は十月ももう終わる頃だというのに、目の前の九郎は腹を出して寝ている。そして掻いている。

「九郎、起きぬか九郎」

 アルがささやかな怒りを、盛大な呆れを抱きつつ声を掛けるが、返答は無い。強いて言うなら健やかな寝息が返ってくるのみ。
 隣を見れば、もう一方の影――社霞は武を起こす事に成功したようだ。彼は寝ぼけ眼ながらも霞と会話を成り立たせている。

「九郎、起きろ」

 やはり返事はない。流石にアルもこれには頭にきた。
 受け取った鍵で錠前を開け、檻の中に。そして僅かながらも魔力を掌に込め――
 ばがんっ。
 九郎のこめかみを引っ叩いた。

「痛ってぇぇえ!」

 まぁ魔力を込めて殴られれば当然起きる。それがたとえ深い眠りにあっても、問答無用にたたき起こせる。ただ、殴られた側のダメージは尋常ではないが。

「シッ! 静かにせぬか、馬鹿者。あまりおおっぴろけな行動は慎めと言われているのだ」

 アルの正しくも理不尽な注意を受け、九郎は酷く不機嫌そうに小声で答える。

「なんだよ、アル。というか何で檻が開いてるんだよ」
「香月副司令が許可したのだ。『あのバカ二人もいい加減反省してるだろうし、今日の準備もあるだろうから出してやりなさい』、とのことだ」
「そいつはありがたいけどよ……」

 起こし方ってものがあるだろ。
 九郎はそう言いたかったが、これ以上何か言えば、何をされるか分かったものではない。命までは取られずとも、痛い目にあうのは確実だ。出かけた言葉をぐっと飲み込み、何事もなかったのように振舞う。

「何か言いたい事でもあるのか?」

 ありまくりだ。

「いいや、何も」

 ――うん。何もない。何もないんだ。ないったらないんだよ!
 九郎はそう言い聞かせようとしている。もしかしたら彼の精神力とは、この理不尽ともいえる非日常的日常が育んでいるのかもしれない。
 武の方はというと目が覚めてきたのか、覚束なかった所作も徐々に確かなものになってきている。霞はそんな武をあくまでサポートしたいのか、しっかりと傍についたままだ。

「……あちらさんは平和でいいな」
「何か言ったか? 九郎」
「いや、何も」

 もう緩慢とは呼ばせぬ、毅然とした態度と動作で二人と二人は営倉から脱け出た。尤も、その二人と二人の態度には明確な差があったが。
 ――あぁ、武はいいな。あんな優しい子に起こされて。
 九郎がそんな心情と目付きを以て武を見れば、たちまち隣のアルが鋭い目付きで彼をねめつける。
 九郎があと幾度、武達に憧憬と羨望の念を抱き、幾度アルに睨まれるなり小言を言われるなりし、幾度謝る羽目になるのか。それは当の九郎も――いや、九郎だからこそ分からないものだった。



 夜明けも過ぎて朝焼けの中、影は立派な姿となってその身を陽光の中に晒していた。

「んじゃ、この辺で」
「あぁ、また起床ラッパの後な」
「……起床ラッパって?」
「目覚ましみたいなものだよ、軍隊用の」

 そして別れる四人。正確には二人と二人になって、それぞれの部屋に吸い込まれていく。



「しっかし……改めて思うと無茶苦茶だよなぁ……」

 部屋に入ってまだいくばくも経たないうち、シャワールームの前で服を脱ぎながら九郎はそうぼやいていた。

「何がだ?」

 アルはその脱いだ服をつまみ上げ、洗濯籠に放り込む。マスターテリオンとの闘いからこっち、ずっと着ていただけあってかなり九郎のにおい――要は汗やら体臭やらが染み付いていた。
――なるだけ早く洗濯に出してしまおう。
などと、質問の間もアルはまるで倦怠期の中年夫婦のような事を考えていた。

「俺が軍人、って事。まぁまだ見習いみたいなもんだけどよ」
「確かに、汝は集団生活や規律からはかけ離れた人間であるからな」
「……なんか他に言い方ってものがあるだろ」

 九郎は服を脱ぎきると、そのままシャワールームに入る。蛇口を捻れば冷たい水が湧き出て、そして段々と湯に近いそれが出てくるようになる。
 ――シャワールーム付きの個室って、結構待遇良いんじゃねぇのか?
 ふとそう思いついた九郎だが、彼の人生経験に軍隊経験というものはなく、あくまでコミックや映画で知った限りでしかない。それでもシャワールーム付きの個室は珍しいものに思えた。

「……なぁ、アル」
「何だ?」
「勝手に軍隊に入ったりして悪かったな」
「何をいきなり……妾は汝に任せておったし、第一あのまま戦っていれば只ではすまなかったはずだ。汝の決断は間違ってはおらぬよ」
「そっか、ありがとよ」
「……そうだ、後で汝に渡すものがある」
「制服とか――衛士の装備か?」
「それもある。だが、この世界では妾か汝専用の代物だ」
「ん、わかった。期待してるぜ」

 九郎の耳にはシャワールームの扉越しにアルがベッドサイドへと戻ってゆく足音が聞こえた。
 本当の所を言うとアルと『仲良く』したい九郎であったが、よくよく考えずとも此処は軍隊。そんな真似を晒せばどうなるかは言うまでもない。事実九郎の記憶には、一人でしているのを上官に見咎められ、全裸でマラソンをするという映画のワンシーンが浮かんでもいた。
 そんな益体のない――むしろ悪いぐらいの想像を、欲望と共に洗い流すかのように、シャワーの水勢を少し強める。
ささら、と流れる温かく心地よい水音が、シャワーそのものの触感を伴い九郎の耳朶を打っていた。


 ――やっぱりこの部屋は落ち着くな。
 武は扉を開け、室内の空気を吸い込むなりそう思っていた。
 端から見れば白銀武は昨日この部屋を割り当てられたばかりの新兵で、この部屋に愛着など湧くべくもない。しかも昨晩は営倉で一夜を過ごしたのだ。部屋に居た時間など本当にわずかだ。
だが、彼の主観ではこの部屋にはもう三年以上住んで居るのだ。
 たまの任務で時折基地外の寝所に身体を預ける夜はあっても、武は『前の世界』で横浜基地にたどり着いて以来、訓練兵時代も衛士時代も常にこの部屋で夜を過ごしてきた。自宅のあの柔らかなベッドと寝比べればどちらに違和感を抱くかも分からぬ程に。
 だが霞の手前、そういった素振りは見せるわけにはいかない。
 それは誰にも――夕呼や九郎達こそ除くが――知られてはならない秘密なのだ。もしかしたら霞は夕呼から何か聞かされているかもしれないが、そうでない可能性の方が高い以上無闇やたらに秘密を振りまくべきでない事ぐらい、武にも分かっていた。

「霞、案内ありがとな」

 武の礼に対し霞は表情を変えずに、コクリと小さく頷いた。

「それと、昨日は副司令の任務で急遽呼ばれたものの、謎の飛翔物の件で命令伝達に齟齬が生まれ、間違って連行された――ということになるそうです」
「あぁ……流石に初日から喧嘩しました、なんて印象悪いもんな」

 おそらく公式の記録の方も夕呼が手を加えてくれているだろうし、まりもは基地の上層部が関わっていると知れば余計なことは言わないはずだ。

「……武さん、ばいばい」

 それだけ言うと霞は扉を開け、室外に出ようとしたいた。
勿論、霞がここまでの道案内を買って出たのも、武が基地に不慣れである、という設定故のこと。それさえ済めば早々に帰るのが道理である。というか、いくら年齢差があるといっても二人は初対面の上、霞は容姿に優れた女性であり、武は若い男子だ。ともすれば霞が部屋に長居したがる由などない。
「なぁ、霞」

 それが分かっていながら、武はあえて霞を呼び止めていた。

「……はい?」
「別にもう会わないわけじゃないんだろ? だったらさ、“ばいばい”とか“さようなら”じゃなくて、“またな”だ!」

 武の言葉を聞き、霞は首を傾げている。
 無理も無い。初対面の人物――それもつい今しがたまで投獄されていた人間に親しげに話しかけられて、あまつさえ言葉の使い方まで指示されれば誰とてそうなる。だが、霞の表情は怪訝なものではなかった。

「……ばいばい」
「またな、霞」
「……またね」

 扉が開き、そして閉まる。霞の背中はもう見えなかった。
 武の根気に負けたのか。
 或いは、この場をやりすごすには素直にそう言ってしまった方が早いと思ったのか。
 はたまた、単純に武の考えに同調したのか。
 何れの理由かは分からないが、霞は確かに武に“またね”て言ってのけた。ささやかながら武にはそれが嬉しく思えたのだ。

「一歩前進……ってとこかな?」

 ふと時計を見れば起床ラッパまであと三〇分もない。慌てて武はシャワーや今日一日の準備を始めた。



 朝の横浜基地に起床ラッパが高らかに鳴る。
 新たな一日の到来を示す音を聞いて慌てて起きる者も居れば、既に覚醒していて朝を再確認するものも居る。
 彼らに一貫していたのは点呼の為に部屋を出て、所属部隊毎に整列し、上官を待つことだ。
 それは無論、とて例外ではない。いつも通りの五人に加え、昨日より新たに配属された二人の計七人が分隊長である千鶴の号令の下、横一列に並んでいた。
 幾許かの時が過ぎ、彼らの前にも上官――神宮寺まりもが現れた。

「全員敬礼!」

 九郎を除く六人は完全に軍人然とした動きで、九郎は些か頼りない動きで敬礼を向けると、まりもは答礼。今はまだまりもも、九郎が下手なのは看過していた。そして千鶴達は『気を付け』の姿勢に戻る――勿論、九郎は1テンポ遅れて。

「第207衛士訓練小隊B分隊、欠員なし!」
「よし、では解散」

 代表して千鶴が声を張り上げると、まりもは満足そうに頷く。

「「「はっ!」」」

 そして再度敬礼。相変わらず九郎は下手だが咎めるものなど居ない。寧ろ、新兵である武がここまできっちりと軍隊流の動きをこなしていた事に、207の乙女達は内心驚いていた。
 まりもは軍靴を鳴らして、去ってゆく。点呼の後は食堂に朝食を摂りに行くものが大半だが、彼女には彼女の仕事があるのだろう。207の面子はまりもの姿が見えなくなるのを確認してから、口を開く。

「白銀、あなた敬礼がすごく様になってるわね」
「ん、そうか?」
「そうよ。普通、新兵なんて大十字みたいな情けない感じになるわよ」
「情けないか……」

 千鶴の何気ない一言に、九郎はあからさまに肩を落とす。千鶴にも悪気があったわけではないと分かって居るので、その動きはどこかコミカルだ。

「あら、ごめんなさ……大十字さん、あなた日本語分かるの?」
「まぁ、そうなった」
「大十字さん、すごい……」

 九郎の胸の高さの辺りから驚きの声が漏れる。どうやら壬姫が呟いたようだ。

「そんな、あなたどうやって……」
「つーかその前に食堂に行きながらでいいかな? 結構、腹減ってるんだ」
「……そうね。じゃあ、行きましょうか」

 廊下を歩けば当然他の部隊とも出会う。
 流石に朝食間際という事もあり、食堂への道は人でごった返していた。横浜基地に勤める人員の相当数が集まって居る以上、無理もない光景だが、初めて見る九郎には圧倒的な図だった。

「うお、すげぇな」

 人が集まりに集まる光景ならば彼とて幾度と無く目にした。九郎がかつて住んでいた街は大黄金時代にして大暗黒時代の大混乱時代が常のアーカムシティ。人口密度や総数では一軍事基地などと比べるべくも無い。だが、九郎が驚いたのは雑談こそしているが、その集団が非常に整然と動いている事。アーカムシティの住人達は基本的に雑多な目的で動き回っていたし、嘗ての決戦で目にした覇道の私設軍や地球連合艦隊は所詮外から見たもの。中から見たものとは大違いだ。

「……ねぇ、大十字さん、結局なんで急に日本語分かるようになったのー?」

 混雑の中、美琴が話しかけてくる。

「急にじゃないさ。実を言うと元々、大体分かってたんだけど……やっぱ少し自信がなくてな」
「だから昨日は英語で喋ってたんだー」

 勿論、嘘だ。日本語なんてロクすっぽ憶えていない。
 種は首に巻かれたチョーカーだ。アルの言っていた彼女か九郎専用の代物、というのはそれの事――

九郎がシャワーを浴び終えると、アルは律儀に国連の衛士訓練兵の真っ白の制服を用意してくれていた。彼女曰く待つ時間が勿体無いからわざわざ用意しておいたのだという。
 それを着た九郎が、九郎自身にもアルにも『まったく似合わない』という印象を持たせたのも束の間、次にアルが渡してきたのは制服とは間逆の黒いチョーカー。

『……何だこれ?』
『翻訳機だ。魔力が込めてある。汝が発した言葉を魔術的に自動翻訳し、聴く者の母語に変換する。尤も、魔術に係わり合いの無い者が着ければ只の装飾にしかならぬがな』


――と、半信半疑で着けてはみたもののアルが相手では効果も分からない。アルを信じつつも、出たとこ勝負の気概で挑んだが、207Bの面々の言葉の限りではどうやら翻訳機は無事に機能しているようだ。

「ひょっとして昨日だけで日本語を覚え直したの?」

 美琴は更に言葉を重ねてくる。

「いや。ちょっとした発音とかを復習しただけだから、そんな大したことじゃねぇさ。本当は昨日の親睦会でちょっと日本語喋って驚かそうと思ってたんだけどさ……」

 それも嘘だ。
 昨日の時点で日本語を喋られても半分も分からなかったはずだ。

「そう言えば、昨日そなたと白銀はどこに行っていたのだ? 急に主賓が居なくなるものだから皆で探したのだが……」

 冥夜はまるでふと思い出したように口を開いた。
しかし、それは昨日から抱き続けてきた疑問だ。その実、皆が皆同じ思いを抱いていたものの、口に出せずにいた。それは、207Bに配属された武と九郎が自身らと同じく、『特別』な存在であると、分かっていたからだ。

「あぁ……その事だけどな」

 こっそりと九郎が武の方へ視線を遣ると、武も頷くように視線を返した後に、九郎に代わって武が語りだす。

「いや、ごめん。それ俺の所為なんだ」
「武さんの所為……ですか?」
「それってどういう事よ?」
「……喧嘩を売った?」

 珠瀬と榊、そして彩峰が口々に喋りだす。
 彩峰の妙な鋭さは、おそらく天才的で動物的な勘のなせる業だろう。武には彼女の異常な勘は既知のことであったが、まだ会って二日目の九郎にはそんな事は知る由も無く、背筋に冷たいものを感じていた。
 尚悪い事はそれを彩峰が見逃さなかった事。

「……大十字、顔色悪い」
「ッ! あ、大十字も昨日の事思い出してたのか、あれはちょっと思い出すだけで肝が冷えるもんな!」
「そ、そりゃあ初日からMPに引っ張られればな!」
「え、MP!?」
「そなた達、本当に何をしでかしたのだ!」

 慌てて武がフォローに回るが、九郎はまた墓穴を掘ってしまった。かなり大きな声を出してしまったらしく、207Bのみならず、身も知らぬ近場の人々もこちらを向いている上、時折『あ、昨日捕まってた奴だ』『初日からって……とんだ英雄だな』などと声が漏れてくる。
 ――落ち着け。落ち着け俺。
 武は自分にそう言い聞かせる。
 ――大丈夫だ、こんなの『前の世界』でバビロン作戦の後の戦場に比べれば何もビビることはないよな、俺! 第一MPに捕まったのを言うのは筋書き通りじゃないか。
 言い聞かせ終えたのか、武は口角の両端を上げ、破顔してみせた。

「いやさ、実は夕呼せんせ――香月副司令のところでちょっとした手伝いやっててさ、それで呼ばれたんだけど……ほら、昨日色々あって命令系統が混乱してたらしくて、何故か『召集』が『連行』に変わってたんだよ」
「そうそう、いや~あんときは焦ったぜ!」

 ――よし言い切れた。笑い顔も作れたから冗談っぽさも交えてる。大丈夫だ。九郎も乗ってくれた。
 しかし207Bの面々は今一合点がいっていないようで。怪訝な顔付きをされていて。到底その話を信じているようには見えなくて。

「ならば何故大十字まで……」

 皆の疑問を一身に背負うように、冥夜が問う。

「偶々一緒にいたから、連れてかれたんだ」
「第一、訓練兵のあなたが副司令の手伝い……?」

 次いで千鶴も問う。

「Need to knowって奴だ、副司令の許可が無ければ喋れない」

 さすがにそこまで言われれば誰も反論は出来ない。だがやはり彼女たちは納得しきった面持ちでない。

「ほら、取り合えず列に並ぼうぜ、ぐずぐずしてると飯がなくなっちまう!」

 何時のやらにか食堂に着いていたのを良い事に、やや強引に話をずらす。
 ――まぁ、きっと訓練で良いトコ見せれば納得してくれるだろう。

「これ、味噌の匂いだな」
「うん、今日の朝ごはんはサバミソ定食みたいだね」

 九郎の疑問に答えたのは、美琴だった。こういう時は彼女のマイペースさが素晴らしく頼もしい。どうやら先までの疑問は彼女の中では当面、先送りになったようだ。
 武もひとまず安心し、サバミソの匂いを鼻孔に吸い込む。
 ぎゅるる。

「武さん、お腹減ってるんですね」

――そう言えばあれだけ動いたのに、昨日から何も食べてないな。
 武がふとその事を思い出せば、腹の虫はより一層激しく暴れだす。
 ぎゅるぎゅるるるる。
 また腹が鳴ってしまった。というか別の音も混じっている。

「すまん、俺も鳴っちまった」
「ちょっと二人とも、みっともないわよ!」
「わ、悪い。でも抑えられるもんでもないし……」

 頬を赤らめながら千鶴が声を殺しながら二人に怒鳴る。確かに今の音量なら朝の食堂の喧騒の中でも充分に響き渡るだろう。
 そして当然の事ながらそれを聞いていたのは、彼の周囲の人々も同じ事。誰よりも一等、食に関わるあの人――

「ほら、お腹が空いてるのは分かったから、もうちょっと待つんだよ! 大盛りにしたげるからね!

 ――食堂のおばちゃん。京塚のおばちゃん。食の鉄人。数々の異名を誇る京塚曹長にも。

「あぁ、よろしくな!」

 やけくそ気味に叫ぶ九郎のお陰で、207B一行はその朝一番の注目を集めてしまったのは最早言うまでもない事だった。






[21053] BETA BANE #8 俺たちゃ楽しい兵隊稼業!
Name: アキ海苔◆a481486d ID:11704c40
Date: 2010/10/01 22:13
 白い雲に蒼い空。
 昨日のあの騒動とは打って変わって、今日の空は酷く静かだ。
 私――神宮司まりもが物心ついたときには、このBETA大戦は始まっていた。だから戦前の空は記録映像で見た限り。
 その中の光景は、私の知る地球とは大違い。
 山野は何処までも緑に溢れ、川は澄み渡り、命は何処にでも芽吹き、そして人は都市や農村で笑っていた。
 だが今はどうだ。あの異星起源種たちにより山野はならされ、川は土砂と死体に淀み、命は根こそぎ奪われ、そして人はもう滅多な事では笑えない。私の教え子たちもそうだが、もっと前線に近づけば、諦観に近い笑いばかりが溢れている。辛いから、笑うしかないのだ。
 それでも。
 それでも空は変わらない。
 飛行機こそ飛ばなくなったが、さしものBETA達も空までは手がだせないようね。
 まぁ、制空権を握られるだけじゃなく、活用までされたらもう人類も終わりというもの。出来ればこの蒼い空はそのままであって欲しい。

「神宮司軍曹、207B分隊集合しました!」

 そう言いながら敬礼するのは、私の可愛い教え子の一人。名前は榊千鶴。見た目の通り生真面目で、とりわけ人を纏める力は父親譲りで、今は分隊長をやらせている。尤も、生真面目すぎるのが玉に傷だが。

「そうか。今行く」
「はっ!」

 榊は走って隊に戻る。私は悠々と歩いて彼女たちの――教え子たちの許へ。
 眼前に並ぶはまだまだ若く、世が世なら青春を謳歌している筈の少年少女。一人、違うのもいるけど。
 それでも、彼女たちがその若さを人類に捧げるのは彼女達自身の意思――といえば聞こえはいいが、その意思に頼っている人類が居るのもまた事実だ。

「それでは全員、戦闘装備でランニング一〇週!」
「「「はっ!」」」

 敬礼をして、装備を取りに行く。ちょっと前までヒヨっ子だと思っていたのに、いつのまにか軍人らしくなって。白銀はともかく、てんで素人の大十字と比べるとよく分かる。

「そうそう。白銀と大十字は完全装備でやりなさい」
「はいっ!? 本気ですか!?」
「何で俺たちだけ!」
「昨日騒ぎを起こした罰だ。……なんなら二〇週でもいいんだぞ?」
「白銀武、完全装備で一〇週走らせていただきます!」
「大十字九郎も右に同じですッ!」
「ならさっさと行ってこい!」
「「はっ!」」

 うん。男の子は元気が一番だ。いきなり完全装備で一〇週は少しハードかもしれないが、まぁ二人とも結構いい体格をしているから大丈夫でしょう。
 周りを見渡せば、もう既に走り終え、息を切らせている部隊も居る。彼らもまた、私の教え子とそう変わらない年頃だ。
 ……寒い時代ね。
 願わくば、少しでも早く子供たちが戦場に出る事なき時代が訪れん事を――。



「白銀……あなた本当に……何者よ……!」

 息を切らせながら、委員長が言う。

「しがない訓練兵だよ、お前らと同じ」

 対する俺はさして息も乱れず、疲れもロクにない。

「我らより、重装備で、あるのに……ふ、精進が、足りぬという事か……!」

 冥夜は委員長よりかは余裕があるが、それでも呼吸は乱れている。まぁ、もう七周目だしな。今息が切れてないのなんて、俺と九郎ぐらいだ。
 冥夜と彩峰でさえ、若干ながら息が上がっている。

「つーか喋ってると余計疲れないか?」

 九郎は汗こそかいているが、まだまだ涼しい顔をしている。この分なら、体力面での問題はないだろう。

「まぁ、それはあるだろうな。それより、無駄口叩いてるとまりもちゃんに走る量増やされなかねない」
「そいつは嫌だな……」

 と、それきり誰も喋らない。まぁ、ランニング中に喋る方が変だから無言で当たり前か。走って、走って、走って。
 そうこうしていると、まりもちゃん――もとい、神宮寺軍曹の前へ。これで八週目。っこまでまったく息の乱れていない俺と九郎を見て、さすがのまりもちゃんも驚いているみたいだ。何せ完全装備といったら一〇キロはゆうに越えている。何の訓練も無い奴がそれを持ったり背負ったりしたままグラウンド一〇周分の距離を走れるわけもないし。

「なぁ、武。これって全員一緒に走らないとまずいんじゃねぇのか?」
「あ、やべ」

 そんなことを考えていると、つい列から出て先に行ってしまいかけていたっぽい。九郎の言うとおりこれはまずい。慌ててペースを落とし、一行の中に。
 そしてまた走り続けて、まりもちゃんの前を通り過ぎる。
9周――
 9周と3分の1――
 9周と半分――
 9周と4分の3――
 そして――

「一〇周ッ!」
「終わり、っと」

 ほぼ同時のタイミングで俺と九郎が言う。
 後ろを見れば息を切らせ、大分ぐったりしている207Bの皆。『前の世界』ではもっと元気だったんだけど……。

「お前達、白銀達に負けじと頑張るのはいいが……もう少しペースを考えろ……」

 まりもちゃんが呆れと溜息交じりに呟く。
どうやら、俺と九郎がトばしすぎたらしい。確かに、『前の世界』では後半は俺に合わせて遅らせてた感もあるしな……。

「いや、しかし意外と疲れんだな、こんだけ荷物持つと」

 九郎がそうは言うがどう見ても疲れているようには見えない。俺も息こそ上がってないが、結構脈上がってるのに、九郎はもう完璧に回復してる。……こいつ、俺より体力あるんじゃないのか?

「小休止の後、近接格闘訓練に入るぞ!」
「「「はッ!」」」

 と、なるとおそらく模造刀を使った剣術になる筈。
 まぁ、さすがに冥夜に勝つのは無理だろうけど……善戦ぐらいにはなるだろう。むしろなってくれ。他の面子にはまだ身体能力の差で勝てると思うんだが、九郎が鬼門だ。この前の喧嘩の時は五分(?)だったから、素手ならともかく剣術は未知数。アメリカに居たって事だから刀を扱う機会はそうそうないと思うんだけどな……。

「白銀、大十字さん……あなた達、本当に新兵なの?」

 委員長が息を整えながら、問いかけてくる。

「まぁ、俺は俺で色々鍛えてたから」
「アメリカつっても、ヤバイ場所になると生きるか死ぬかだから自然と体力とかはつくんだよ、委員長」
「……委員長?」

 委員長。何と懐かしいその響き! 俺以外に榊をその名で呼ぶ奴が居るとは!
 だが当の本人はひどく嫌そうな顔をしていた。

「学校の委員長みたいだからさ、千鶴は。だから委員長」
「九郎もやっぱそう思うか?」

 うむ。あのスーパーエリートソルジャーの件といい、何故か九郎とは妙な所で波長が一致するものだ。

「ちょっと、私は分隊長よ!」
「まぁまぁ、代わりに俺の事は九郎でいいよ」
「代わりになってないわ!」
「……委員長。お似合いかも」

 クスリ、と彩峰が笑う。そしてそれにしっかりと反応する委員長こと榊千鶴。

「似合ってないわよ、そんなの!」
「あ、ちなみに俺の希望だと珠瀬はたま、彩峰はそのままで、鎧衣と御剣は下の名前で美琴と冥夜な」
「何だか私、ねこみたいですね……」
「……私だけ、ふつう」
「ボクと冥夜さんは下の名前なんだね~!」
「め、冥夜だと? そんな気安く……!」

 それぞれがそれぞれに、自分に付けられた仇名と呼称への反応をとるが、若干不満が多い。まぁ、まだ会って二日目の奴にそんな態度とられたらそうもなるか。

「あ、じゃあ俺もそう呼ぶわ」

 そこに賛同の声をあげるのは九郎。あとは美琴が満更でもなさそうだが、それ以外の皆はちょっと嫌そうだ。

「ほら、おしゃべりをする元気があるなら休憩じゃ終わりだ! 近接格闘訓練に入るぞ!」
「「「はっ!」」」

 そんなことはお構いなしとばかりに、まりもちゃんの声が響く。このまま不満をぶつけられるよりも、話をはぐらかしてしまう方が得策と考えた俺は、早々にまりもちゃんの指示に従うのだった。

「ほら、訓練訓練」
「……そうね」

 俺が先んじて装備の中に含まれている模造刀を取り出していると、またしてもまりもちゃんからお声がかかった。

「白銀、誰がそんなものを使うと言った? まだ指示も出していないだろう」

 ……あ。やべ。確かにまりもちゃんは何を使うか、或いは何も使わない徒手空拳なのかすら告げていなかった。

「すいません、まりもちゃ――教官」
「……おい今『まりもちゃん』と言おうとしなかったか?」
「そんなことはありません! 神宮寺軍曹!」

 すいません。そんなことあります。うっかりまりもちゃんって呼びそうになりました。
 さすがに軽い怒りを含む視線でこっちを見てきている。

「……まあいい。今日はナイフを使った訓練だ。いいな?」
「「「はいっ!」」」

 剣術じゃ、ないのか。
 良かった。それなら俺にも分がある。多分冥夜にも負けることは無いだろう。むしろこれなら勝てるかもしれない。
 ……というか、これは俺の行動が歴史を変えた事になるんじゃないだろうか……?
 うむ。これからは気を付けて行動しよう、俺!



 207Bのナイフを用いた近接格闘訓練は、三組に分かれて行われた。
 彼らは二人×三組で、余りは一人。その人は見学。
 勿論ある程度訓練を行うと、グループ替えが行われるからずっと見学という事は無い。
 今、というか始めに行われているのは、武と榊、彩峰と美琴、そして珠瀬と九郎の三組だった。冥夜は取り敢えず彼らの動きを見ているだけだ。
 その組み分けで冥夜が余りとなった理由は実に簡単。
 冥夜に人を見る目があるからだ。
 まりもは彼女の能力が、彩峰のような先天的な才覚でなく、弛みなき研鑽によって培われたものであるという事を重々理解していた。
 だからこそ、他者がどれだけの鍛錬を積み、今そうあるのかを彼女は最も深く、強く、鋭く察する事ができる。
 冥夜もまた彼女の教官が、何を言わんとしているのか口に出さずとも分かっていた。武と九郎の様子を見ろと。つまりはそういうことだ。

「……御剣。どう見る? あの二人」
「二人ともかなり強いですが……まだ本気には見えません」
「……そうね」

 二人とも、外観からでも分かるほどに良い体つきをしているが、その筋肉は魅せるためのものでなく、実用的なものだ。マラソンで見せた持久筋だけでなく、瞬発筋まで兼ね揃えた良い肉体を持っている。
 ナイフによる格闘は剣術よりも身体能力の差がより露になる。
 今二人の目の前では武と九郎はその身体能力の高さを存分に見せていた。既に半年以上は基礎訓練を積んでいる榊と珠瀬を、二人は圧倒しているのだ。
 それも、冥夜の言うとおり本気にならずに。
 そればかりか、二人とも相手が疲弊していると律儀に回復を待っている。

「しかし……真逆ですね。彼らは」
「まぁそれは見ての通りね」

 真逆。
 そう。彼らは余裕綽々で戦っている、という点では一致しているがその中身は大いに違っていた。
 武はというと、まるで教本の再現のような理詰めで、効率的な戦い方。
相手の攻撃に対しては出されるであろう軌道を読んだ上で、躱すなり途中で潰すなりをしながらきっちりと反撃を入れている。今回は軽く訓練用のゴムナイフで小突いたり、添えるだけのような浅い打撃を放ったりだが、どれも本気で打ち込めば榊を戦闘不能に追い込み、簡単に命を奪えることだろう。
 対する九郎は無茶苦茶だ。
 攻撃の軌道を動体視力のみで読み取り、躱している。攻撃も防御も反撃も、全てに於いて教本とはかけ離れた動きだが、そこに無駄は殆ど無く、実に洗練されていた。その動きの中には普通ではありえない動きが多々混じっているせいで、珠瀬はその軌道を全く読めず、翻弄され続けている。

「よし、そこまで!」

 まりもが手を叩きながら声を張り上げる。榊と珠瀬はようやく解放され、安堵と情けなさから溜息を零していた。

「なんて様よ……」
「九郎さん、何であんな動き出来るんですか……?」

 珠瀬は元々格闘の方はそんなに得意ではなかったところに、こんな無茶苦茶な男が現れたのだ。今まで頼りにしていた教本に対する信頼は彼女の中で、降下を始めていた。

「……榊、無様」
「……何よ、じゃあアンタが戦いなさい」

 泣きっ面に蜂、とばかりに彩峰が痛いところをつつく。彼女も己の無様は嫌というほど分かっていたので、いつものような威勢がなかった。彩峰も燃え上がらず、いつものような大喧嘩は起こらない。

「……そうしましょうか。彩峰は大十字と、珠瀬は榊と、御剣――あなたは白銀とよ」
「「「はっ!」」」

 返答するや否や、戦いの火蓋が切って落とされる。

「やぁぁぁ!」
「たぁッ!」

一人取り残された美琴は笑みすら浮かべながらその三組の戦いを眺めていた。

「凄いですね、武も九郎も!」
「見ていたのか?」
「横であんな戦いされたら嫌でも眼に入っちゃいますって~。慧さんだってそうだったみたいですし!」

 武と九郎に専心していて、彩峰と美琴の戦いまではしっかりと見れていなかったまりもは、自分の見る目の甘さを痛感していた。

「……実戦では脇目は禁物だ」
「はい、すいませんでした」

 自分もきちんと見れていなかった手前、美琴にばかりきつくは当たれない。まりもの尊に対する叱責はいつもの比ではないほど甘いものだった。

「でもやっぱり凄いですよね、あの二人!」

 流石の二人も彩峰と冥夜には手こずっているようだ。
 何せ彩峰は身体能力と運動神経だけなら訓練兵どころではなく、冥夜は平和な時代であれば剣道道場を開いてもおかしくはない腕前なのだ。
――そんな二人に対して手を抜く余裕などあるまい。
 まりもはそう思い、二人の本気を見るべくこの組み合わせにしたのだが――どうやら彼女の目論みははずれたようだ。
 彼らは、まだ本気を出していない。
先程までとは明らかに違う、動きの鋭さだがそれでもまだ顔付きは余裕を保っている。

「たぁぁ!」

 彩峰の俊敏極まりない突きの一閃を九郎は易々とくぐるように避け、そのまま下から救い上げるようにナイフの刃で撫でるように半月を描きだす。その刃が紛いも無い鋼鉄であり、彼に確とした殺意があったならば、今頃彩峰の腸はその綺麗な腹から零れ落ちていただろう。

「せいっ!」

 右足を踏み出し、裂帛の気合と共に放たれた逆袈裟の一振りを、武はその動きを見慣れ、最初からそこを刃が通り抜けることを知っていたかのようにゆるりと避けてみせ、そのまま踏み出してきた右足を払う。武は冥夜がバランスを崩して倒れかけたところに追撃は加えず、敢えて彼女が体勢を整えるのを待っていた。

「なんだか、自信失くしちゃいますね~。今まで訓練してきたのに、あそこまで差をみせられちゃうと」

 近くで戦う榊と珠瀬の戦いとは、攻防の質も展開の速さも段違いだ。先ほど武と九郎に完膚なきまでに手酷くやられた彼女達も、やはり九郎達と武達の戦いをつい見てしまう。

「榊、珠瀬、自分の戦いに集中しろ!」
「はいっ!」
「す、すいませんっ!」

 注意を受け、一旦は眼前の相手に集中するが……やはり、少し立てば彼らの方に気が散ってしまうようだ。

「――止め!」

 これ以上やらせてもしょうがないとまりもが思えば、時間も都合よく過ぎていた。やはり彩峰と冥夜は疲労困憊。対する九郎と武はわずかに汗を滲ませているだけ。
 武と九郎の実力と、207Bの先任達の力量とではそれほどまでに差があったのだ。それを咎めることの出来る人物など、今は居なかった。
 こうなれば、彼らの本気を見る手段としては――

「――白銀、大十字。二人で戦いなさい、本気で。あとは見学」

 まりもはこれが一番手っ取り早い方法であると、もう分かっていた。そして下手に余所見をさせるよりも、いっそ見ることに徹させた方が彼女達にも良いということも。

「「「……はいっ!」」」
「――! 分かりました!」
「了解っ!」

 彼女達は期待にも、緊張にも似た胸の高鳴りを伴った声で。
 猛は緊張と、ささやかな興奮を交えた声で。
 九郎は興奮と、期待に満ちた声で。
 それぞれが応えた。
 ゆっくりと確かめ合うように向かい合う二人。その姿はまるで決闘を重ねた長年の好敵手同士でもあるようで、何気なく出くわした知己の友でもあるようで。
 向かい合って二人の間で転じるは、平穏から剣呑。そして静寂から――喧騒!

「でぇぇぇぇぇい!」
「うおッ!」

 土が爆ぜるほどに大地を強く蹴り、九郎が飛び出す。
 突進の勢いそのまま、一突き。
 そんなもの当たるわけもない、とばかりに悠々と右手の外側に避ける武。
 そしてそのまま横から、九郎の右腕にナイフの刃を突き立てんと振り下ろす。
 だが九郎は身体ごと回し、左から横薙ぎに一閃――!
 パキィン、というゴムのナイフらしからぬ音を立てながら武のナイフが慌ててそれを受け止める。
 だがそれで押し留まる九郎ではない。回転の勢いを殺さぬ、右脚での後ろ回し蹴りが奔る。
 寸でのところで身を引き、それを躱す武だが軍靴の先が鼻先を掠める。

「――危っぶね!」

 それでもまた身を戻す。そこにあるのは後ろ回し蹴りを当て損ねた後の致命的な弱点――体勢の整わぬ無防備な九郎の半身。
 それ目掛けて左の掌を平らにして打ち込む。
 押し出すような、押し込むような、押し返されるような感覚の先にあったのは、九郎の左肘。

「そこまで甘くもねぇさ!」

 左手にほのかな痛みが流れる。さすがにあの位置から肘を完全に入れるには無理があったらしく、少しの痛みで済んだ。
 だがその少しが流れに響くかもしれないと思った武は素直に後ろに下がる。
 九郎も掌底をに肘を返した反動で素早く振り向き、追うことは叶わない。

「デタラメな動きしやがって!」
「そんなデタラメかな?」
「デタラメすぎだッ!」

 次いで駆けだすは武。
 九郎のような大振りでなく、小刻みに腕を振り、手首をしならせ、刃先を滑らせる。
 不規則で読みようのない筈の刃の連続。
 常人であれば――いや、訓練を施されたものでも無傷とはいかないその連撃を、九郎は先読みでなく、動体視力と直感だけでナイフの刃で受けて、受けて、受けて、受けきる!

「嘘だろ!?」
「残念だったな、武!」

 あの魔術師同士の壮絶な戦いを潜り抜けた九郎は、常人でも戦士でもない。筆舌しがたない強力で、強大で、強壮な何かだ。
 そして刃の間隙を縫い、お返しとばかりに九郎の刃が走る。愚直なまでに真っ直ぐに、武の腹目掛けて。
 しかしその安直な一撃が読めても、武には避け難かった。
 別段変化の気配も何も無い。ただ、速すぎるのだ。
 気合を振り絞り、腹筋が悲鳴をあげるのも無視して強引に身を捩じらせる――ちり、と刃先がシャツを撫でてゆくのが見えた。

「右腕、もらいっ!」

 左膝を、左肘を突き出された九郎の右腕目掛けて挟み込む要領で叩きつける。
 が、打ち合ったのは武自身の腕と脚。
 ――九郎の右腕はど――!
 ドズン!

「こっ――!」

武の思考が、衝撃に止まる。その衝撃の源は、右の脇腹に入ったナイフの柄と、右手。
九郎はあの体勢からほぼ一回転してのけたのだ。
無防備な横っ腹を打たれ、思考どころか呼吸まで止まる武。肺に残った酸素をかき集め、何とか意識をつなぎとめる。武はあくまで九郎から目を離すまいとした。
だが、それは無駄なことだったのかもしれない。
武が見たのは――自分の左こめかみを蹴りぬく寸前の、九郎の右脚だった。

「俺の勝ちだな」

 ぴたりと。毛髪を擦り、皮に触れた瞬間で、九郎の脚は止められていた。

「……お前、この前手加減してたな?」

 脇腹を強かに打ち据えられた所為で、話すのも億劫な武が苦々しげに言葉を漏らした。それは疑問というより確信に近いもので。

「……まぁ、殺したらまずいぐらいにだけど。つーかあん時は体をうまく動かせなかったんだよ」

 九郎はすっと脚を下ろして、まりも達の方へ向き直る。

「で、終わったぜ? 次は、何をするんだ?」

 それに答える者は居なかった。これまで数多の訓練兵を教練してきたまりもでさえ――いや、そのまりもだからこそ答え難かったのだろう。
 時間にして約一分程度の比較的短い攻防だった。だがその内容の何と荒唐無稽なことか。あのありえないような急加速と急停止の連続。異様な速度での刃のぶつかり合い。到底真似できない身のこなし。
 まりもだけでなく、見た者皆――偶々近くを通っていた正規の軍人や、訓練兵とのその教官すらも――が唖然としていた。こんな戦いが、あるものかと。
 そんな彼女達の中で一番恐ろしかった事――それは、九郎がまだ必死の、本当の“本気”な様子でなかった事だろう。



夕食どきの食堂は朝ほどではないが、それでも混み合っていた。そんな中に、溶け込む七人――207B分隊だった。

「ほら、武。かきあげうどんで良かったんだよな?」
「ん、あぁ。ありがと」
「それじゃ、いっただきまーす!」
「「「いただきます」」」

 ムードメーカーたる美琴が先んじて合掌すれば、それに続くように皆が手を合わせた。

「しかし……同じ事ばかり聞くようだが、本当にそなた達は何者なのだ?」

 合成鯨の竜田揚げ定食の付け合せのキャベツを摘みあげながら冥夜が問うた。その視線の先に居るのは勿論武と九郎の二人。それぞれかきあげうどんときつねうどんを仲良く啜っていた。

「ん……はははほへはははのほほはいほっほはほ。ほへほ、ひんはんほ」

 九郎が答えるが、うどんを啜りながら言う所為で何を言っているのかさっぱり分からない。そしてすこぶる行儀も悪い。

「……済まなかった。うどんを飲み込んでから答えてくれ」

 呆れ顔で冥夜が諭すように言う。

「んぐっ、く……ぷはぁ。だから俺は只の元パイロットだよ。それも、民間のな」
「えー、本当に?」

 興味津々、といった口調で美琴も話に入ってきた。ちなみに彼女が食べているのは合成ミートスパゲッティ。見もせずに、くるくるとフォークにパスタを巻きつけている。

「本当だよ」
「だって、射撃訓練だって凄かったし!」
「アメリカって物騒だからさ、大抵の人は銃を扱いなれてるんだよ」



 結局あの近接格闘訓練は九郎の異常ともいえる戦闘能力を基地内に噂させ、そして207Bの各位には自分が如何に弱いかを知らしめさせる事になった。まりもも驚愕の色を隠せず、素直に彼の戦闘に対する姿勢やどう動くかの判断などを説明させようとしたのだが、九郎は自分でも説明が出来ずに、方針は技術を『教わる』から『盗む』に路線変更した上で午前一杯続けられた。
 その後の昼食では榊を始めとして九郎の来歴からその格闘術の始点と過程を探るべく話し合ったのだが、無論そのときに異世界での激闘で問答無用に鍛え上げられた事を語れば、よろしくない結果が待ち受けてるのを知っていた九郎は、武に話したのと同じ、民間パイロットとしての過去を語るだけで結局彼女達に収穫は無かった。
 続く午後の訓練は、射撃を行ったのだがここは勿論珠瀬の独壇場――と思っていた皆の期待は、良い意味でも悪い意味でも裏切られる事となった。
 事の発端は、武が榊に忠告を与えた事。
 それは慨して、『榊が的を訓練に慣れすぎて、トリガータイミングが早くなりすぎている。実践では障害物などもあり、それでは無駄弾が出る為もう少し引き金を引くのを遅らせた方が良い』というもの。
 榊は理論派の筆頭――彩峰に対する態度を除けば――ともいえるだけあって、その忠告をしっかりと受け止め、あまつさえ隊全員に同じ事が言えるから改善すべきとまでまりもに進言した。
 それは良い事だ。
 だが、彼女達としても自分たちが武と九郎に全ての面で劣っている、という構図は面白くなく、遠距離狙撃の訓練をまりもに頼み込んだのだ。
 極東一のスナイパー。彼女の――珠瀬壬姫その異名を知るものは決して少なくない。
 ややあがり症な気質こそあるものの、さすがに普段からやっている訓練では殆ど緊張しなかったのか、彼女は見事一射目から八五〇m先の的の中心を射抜いてみせた(九郎は何故かひどく驚くような、むしろ悲しむような顔すら見せていたが)。
 だが問題はその後。
 彼女達は武にも遠距離狙撃をやらせたのだが、武も成功させてしまったのだ。それも一発で。
 勿論ど真ん中、とはいかずに中心点からは一〇cm近く離れているし、第一照準の調整などは珠瀬が使ったものをそのままやったのだから完璧に近い。
 それでも皆の自信を打ち砕くには十分すぎる結果だった。
 そんな彼女達の救いとなったのが九郎であり、彼は八五〇mなど一〇発近く打っても的でなく、的が書いてある板の端を撃ち抜く程度。二〇〇mの距離でさえかなり外していた。
 そこで彼が発した一言が『拳銃だったらいけたかも』。
 常識的に考えれば銃身の長さも、初速も、照準も、軍用の突撃銃が拳銃に劣るわけがない。初めは皆これを冗談か、負け惜しみだと思ったが、まりもが持っていた国連軍制式自動拳銃であるH&K P8を九郎に貸し、冗談半分で一〇〇mを撃たせてみた所その考えは一変させられた。
 H&K P8の装弾数は十五+一の計十六発。
 そしてその内の六発を撃ったのだが――的には、穴が一つしかない。
 九郎はそんなに狙いを定めていなかったし、撃ったのは速射のような勢いであった為、観測員がわりに双眼鏡を除いていた珠瀬がそう報告したとき、皆は『やっぱりか』という思いだった。
 だが次に珠瀬はこう言った。
 ――中心にしか、弾着が認められない。
 九郎は、寸分違わず、とまでは言えないが穴が一つになるほどの精度で、六発全てを中心に叩き込んだのだ。
 種類や使用する弾丸にもよるが、大抵は拳銃の最大射程は1km程度。更に有効射程ともなれば、一〇〇mもない。精々五、六〇mだ。
 ――あぁ、私はきっと夢を見てるんだな。
 言葉は違えど、それを見ていた彼や彼女達は一様に同じ思いに満たされていたのだった。


「……あれは、凄いっていうより異常よ」
「榊よ、拳銃とはあそこまで届くものだったのだな……」

 心なしか、夕食の箸が鈍っている。
 ――実は九郎はわずかに宿った魔力を用いて、弾道の補正を若干ながら行っていたのだが、魔術の力を欠片たりとも知らぬ彼女らからすれば、それは異常そのものの光景でしかない。突撃銃や対物ライフルでなく、拳銃を選んだのも単にクトゥグアとイタクァで慣れた弾道をイメージし易いというだけのものだったのだ。そもそも『実はあれ魔法を使ってたんだ!』などといわれても信じようもないが。

「ねぇ二人とも」

 榊は箸を止め、箸置きの上に休めた。その視線は武と九郎に向けられ、どこまでも真剣だった。

「ひょっとして貴方達……本当は徴兵経験があるんじゃないの?」
「確かに……今まで徴兵逃れてたってのも何だか変だし……」

 一瞬、二人の箸が止まりかける。だがここで箸をとめたりしたら、それは『はい! 前に徴兵されましたぁ!』と答えるようなもの。何事も無かったかのようにうどんをつまみ上げ、啜り込む。

「まっさか。人よりちょっと鍛えてただけさ」
「つーか徴兵経験なんかあったら、もっと敬礼とかビシッと決まってるぜ?」
「……まぁ、武さんはともかく九郎さんは……」

 珠瀬の言うとおり、九郎の軍人としての態度はまったくなっていなかった。敬礼はへたれているし、集団行動からは時折ずれる。酷いときは常識的なことすら知らない。
 冷静に考えれば、彼が軍人に見えるわけもなかった。

「……白銀は、軍人っぽい」

 彩峰が白米を持ち上げながら、ぼそりと呟いた。

「確かに、その通りよね」

 普段は決して相容れぬ彩峰と榊。一方が白といえばもう片方は必ず黒という。それ程に考え方の違う二人が、今回は珍しく同じ意見を持った。持ってしまった。

「千鶴さんが慧さんの意見に賛成した!」

 まず美琴がフォークを取り落としながら言った。その声音は驚愕に満ち、自分で言った事も目にした事も嘘に聞こえてならない、という顔をしている。

「し、信じられん! もう一度確かめたまえ鎧衣訓練兵!」
「えぇッ!?」
「真か……!?」

 次いで武が話をうやむやにすべく、便乗する。
 更に珠瀬が元より大きな目を、更に大きく見開かせて、その上二人の顔を交互に確認しながら。
 おまけに冥夜は持ち上げたばかりの合成鯨の竜田揚げを皿の上に落としつつ。
 九郎はそんな珍しい事なのか、と一同の顔を何度も見渡している。

「ちょ、ちょっとそんな驚くべきこと!?」

 慌てて榊が尋ねるが、皆が皆、ゆっくりと首を縦に振った。

「……私も驚き」
「あ、今度は意見が割れた!」

 美琴の声に合わせ、軽く歓声めいた声が榊と彩峰を除いた207Bの皆からあがる。

「何なのよ、もう!」

 それが何なのか。きっと答えられる人も、答えたがる人も居ない。
 ただ一つ言えたのは、何とか話題を逸らす事に成功した武と九郎は、無事にかきあげうどんときつねうどんを啜る事ができるという事だった。
 ずるるるる……。
 うどんを啜る音は喧騒に交わり、消えてゆく。





[21053] BETA BANE #9 THE SECRET
Name: アキ海苔◆a481486d ID:11704c40
Date: 2010/10/01 22:15
 訓練も終わり、訓練兵としての一日も終わり。
 それでもまだ武にはすべき事が残っていた。
 香月夕呼への報告と、未来の展望の説明。
 その為に武は横浜基地の地下深くへと潜っている最中――九郎と出会った。

「や。お前も?」
「まぁな。あんたの方も報告か?」

 どこ、とまでは言う必要が無かった。このエリアに彼らが来る目的など、その殆どが夕呼関連のことだ。

「いや、俺はアルに用事があるんだ。アイツ、香月博士ん所で働いてるらしいから」
「そうか」

 それから後の会話が続かない。
 二人とも普段は決して無口ではないのだが、何故か今だけはすらすらと言葉が出てこなかった。聞きたいことは山ほどあり、教えたいことも海ほどあるのに。
 そんな中、九郎の中で、あまり実のないと思える疑問が脳裏を過ぎった。

「……なぁ、武?」
「何だ?」
「何でお前、あんなに身体鍛えてたんだ? 戦術機に乗って戦うんだから、体力はともかくそこまで鍛える必要なんてないだろ?」
「ん……そうなんだけどさ……」

 武が隔壁に備え付けられた読み込み機と入力機にパスとコードを打ち込むと、外見からは予想もつかない滑らかさで隔壁が開く。

「なんていうかさ……落ち着かなかったんだ」
「体を使わないのがか?」
「いやさ……ほら、何も衛士だからってずっと戦術機に乗ってるわけじゃないし、勿論休憩だってもらえる」
「まあそうだろうな」
「でもさ、俺はその休憩が怖かったんだ。……自分が遊んでたり休んでたりしてるときがあって、でもその間にどこかで誰かが死んでる。それが嫌だったんだ」
「……後味、悪いもんな」
「……だから俺は休むことから逃げて、でも戦術機の整備とかもあるからずっと乗ってるわけにもいかない。シミュレーターだって使えない事もよくあった。だから、がむしゃらに体を鍛えるしか思いつかなかった」

 また隔壁が現れる。
 今度は九郎があけようとするが、『前の世界』でよくこのエリアを使った武に比べればその手つきは覚束ないものだった。
 やや時間をかけて、隔壁が開く。

「ま、『前の世界』ではその姿が勤勉な衛士に見えたらしくてさ。自分で言うのもなんだけど、戦術機の操縦も上手い方だったから、これでも勲章は結構貰ってたんだぜ?」

 冗談交じりの話をするような顔で武が笑う。だがその笑いは楽しさや喜びは見えず、乾いていて虚しさすら見えてしまうようなものだった。

「でも、結局BETAにはやられちまったんだ。憶えてる限りでも人類の総人口は一億切ってたし、占領されてなかったのはアメリカの西側と日本の帝都と横浜、それとオーストラリアだけだったしな……」

 武の顔は、もうあの乾いた虚しい笑いすら浮かべていなかった。
 その顔は凛と引き締まり、躊躇う事もなく前を向いている。まるで、未来を見据えるかのように。

「だから、今度こそ世界を救いたい。――いや、救うんだ」
「お前、今すげーいい顔してんな、武」
「……恥ずかしいこと言うなよ」
「……なんかそう言われたら自分でも恥ずかしくなってきた」

 そして、武がまた現れた隔壁にパスとコードを通し、扉は開かれた。



「あら、早速来たのね?」
「まぁ、話すことは色々と積もってますから」
「俺も似たようなもんです」
 夕呼の部屋の扉の向こうは、とてもではないが基地副司令の部屋とは思えぬほど散らかっており、魔窟という表現がぴったりだった。
 しかも恐ろしいのはそれを形作るのが全て彼女の研究に必要なものや、彼女がしたためた書類の数々である事。

「じゃ、俺からいいですか?」
「えぇ、どうぞ。……大十字、あんたはアルと話でもしてきたら? あっちにも用の一つや二つはあるんでしょ? 彼女、隣に居るから」
「えぇ。そうします」

九郎が書類やファイルを踏まないように注意しながら、隣室へと去ってゆく。彼はこの部屋にはまだ一度しか来ていない筈なのに、何故か床に散らばったり積んであったりするものを踏まず、するすると歩んでゆく。
 そして、彼が扉を開けて隣室へと足を踏み入れた瞬間――。

「ぬぉぁああああぁぁ!?」

 ――この世のものとは思えぬ悲鳴と共に、九郎は帰ってきた。

「五月蝿いぞ、九郎!」

 それを追うようにアルも夕呼の部屋に駆け込んでくる。

「ののののの、脳みそが! 香月博士、何であんなど真ん中に脳みそがぷかぷか浮いてんですか!?」
「あぁ、アレ? 気にしないで」

 真っ青どころか真っ白になりつつある美白九郎とは反対に、アルも夕呼も武も、みな平然としていた。開いたままの扉の向こうをよく見れば、隣の部屋の霞も至極冷静なまま。寧ろ脳みそと親密そうだ。
 自分が異常者なのか、と問うような眼差しで九郎は周囲の面々を見渡し、怯えながら続けた。

「気にしますよ! なぁアル、あれは一体何なんだ!」

 夕呼では埒が明かないと踏んだのか、九郎は傍にいたアルの肩を揺さぶりながら、半ば悲鳴に近い声すらあげている。

「ぁああ! 鬱陶しい! 汝とて脳髄の十や二十ぐらい見たこともあろう! 何をそんなに怯えておるか!」
「いやいやいや、確かに昔よく見たけどよ! だって部屋に入ったらいきなりど真ん中にオブジェみたいなノリで脳みそがあんだぞ! 普通ビビるだろ!?」
「普通でない汝が普通を語るな!」

 もう正直無様すぎて見てもいられない九郎の有様に、武はこの男が本当に昼間の訓練の時の男と同一人物かと疑いたくなった。正直疑った。そして『あぁ、こいつは大十字九郎だ』と分かってしまった自分が鬱になった。

「えぇい、あんた達少しは静かにしなさい! 書類が散らばったらどうするの!」

 心なしか夕呼が母親か何かに見える。母性とは一天文学単位はかけ離れているような夕呼が。
 それでようやく九郎は落ち着きを取り戻しかけたが、まだ脳みそが怖いらしい。
 ガタガタと震える様子はまるで犬が怖い子供。差し詰めアルは犬が怖くないと分かってる姉。
 母親が夕呼。姉がアル。弟が九郎。
 もう荒唐無稽というか宇宙の因果が捻れに捻れて捻れきったような異様な組み合わせが、一瞬武の脳内を過ぎった。父親は誰なのか非常に気になる武だったが、これ以上考えたら精神汚染が始まりSAN値が大変な事になりそうなので、思考はそこで中断させた。
 霞の方を一瞥すると、霞も同じ事を考えでもしたのか、一瞬何か見てはいけないものを見てしまったような目を武に向けて、視線を逸らした。
 ――え? 何? 俺の所為なの?
 激しくそう問いたい武だったが、それを問答無用に叩ききる声が響く。

「あれは標本よ、ひょ、う、ほ、ん!」
「標本……?」
「そう、標本よ! あたしだって科学者の端くれよ? 研究室にに脳髄の標本ぐらいあったっておかしくはないでしょ?」

 だが九郎はまだ信用していない。まるで餌を与えようとしている観光客に対する野生動物のように、警戒が目に見えている。
 武はというと『前の世界』からの疑問の一つが以外にもあっさりと解けてしまった妙な気分になってしまった。

「……じゃあ何で他の標本がないんですか?」
「研究の関係で、人の脳のモデルが欲しかっただけだからよ」
「……本当に、ただの標本なんですよね?」
「そうよ」

 ようやく夕呼への信頼が回復したのか、あるいはもう久々の脳みそに慣れたのか。九郎は段々と普段の振る舞いを取り戻してゆく。

「……まぁ、確かに脳みそは驚くよなぁ……。俺も最初は怖かったし」
「……逆に何でお前らがそんな冷静なのか聞きてぇぜ」

一同、一度顔を会わせ……

「いや、もう『前の世界』で慣れた」

 と、武。

「別に脳髄であれ臓物であれ、儀式や薬を作るときに使うものだ。そもそも魔術師の汝がそこまで怖がるほうがおかしい」

 と、アル。

「誰だって毛髪と頭皮と頭蓋骨の下には脳みそがあるんだから。それを一々怖がる?」

 と、夕呼。

「怖くなんて、ないです」

 と、霞。
 九郎は自分がおかしいのか、周囲がおかしいのか本当に迷い始めたが、そんなことを気にしていても仕方がないような気もしてきた。

「そんなに恐ろしいのなら話す場所などいくらでもあるぞ、九郎?」
「いや、もう何かいいや……。アルのいう通り、よくよく考えればよく見てたものだしな……悪い、霞ちゃん。後から来て何だけど、部屋空けてくれるかな?」
「……分かりました」

 霞はそのまま滑るように部屋を抜け、廊下に出ていこうとするが、その前にもう一度だけシリンダーの中の脳を見遣った。
 ――まるで愛しい人との別れを惜しむように。
 その視線がとても儚く、哀しげだったのを九郎は見逃さなかった。

「……」
「いつまであの小娘を見ているのだ、このロリコン男め」
「なっ、ロ、ロリコンだとぅっ!?」
「そうであろう。あぁ、ナイアルラトホテップを刺した時の汝の言葉はとてもではないが、忘れられるものではないな」
「九郎……」
「大十字、あんたに倫理観って……」

 どうした事だろう。
 九郎を見る夕呼と武の目は、さっきとは違う意味で酷く哀しげだ。むしろ哀れみとか蔑視感に満ちている。満ち満ちている。

「ほら、行くぞロリコン」
「アル、手前憶えてろよ……」

 敢えて付け加えるのなら、アルを睨みつける九郎の視線には彼女に対する憎しみでなく、別の何かもまぎれていた事は自明だった。
 改めて隣室に踏み込み、脳髄に向き合った時、九郎にははやり言いようもない薄気味悪さが残っていた。
 グロテスクな人間の中身を見てしまったからではない。霞が脳に向けたあの視線がどうしても頭から離れないのだ。
 加えてこの脳髄を見ていると感じられる、部屋全体に染み出して染め上げるような異様な感覚。それは単純にシリンダーの放つ青白い光の所為かもしれない。だが九郎には――九郎だからこそ、その感覚には幾度と無く顔をあわせていた。
 そう。
 それはまるで――

「汝も、気付いたか」

 九郎の横顔を見て取ったアルがそう呟いた。だが反対に九郎からその横顔をのぞき見ることは適わなかった。
 そしてアルが顔を上げた時、青白い光が彼女の顔を、まるで恐怖の蒼白のように染めていた。

「……あぁ。これは――」



「で、話って何?」

 夕呼は九郎たちが隣室へと消えていった事を確認してからようやく真面目な顔をしてみせた。

「……俺の……記憶のことです」
「まぁ、でしょうね……」

 夕呼はまるで何度も読み、そして読み飽きてしまった本を手に取るように気だるげな面持ちで武を見据えた。

「そうでしょうねって……まさか、予想してたんですか?」
「当たり前でしょ? 私は天才なのよ」
「……そうですか」

 武は夕呼に聞こえるほど大きな溜息をつく。
 彼からしてみれば、予想通りに自分は無力であると告げれたようなものだ。無論、夕呼が歯にもの着せぬ物言いなのは重々承知していたが、それでもやはり嫌なものがある。何より、夕呼という武が知る限りでは最も学のある人間に自身の無力感を肯定されたようなものだ。

「そこまで気落ちする事? 大十字が来た時点で歴史が変わることぐらい分かってたんじゃないの?」
「そりゃぁそうですけど……でも、これじゃ俺の未来の記憶なんてただの妄想もいいとこじゃないですか」
「……そうでもないんじゃない?」
「えっ?」

 武は思いがけない一言に、顔を上げた。
夕呼はまるで見世物の滑稽ごとを見るように――いや、実際夕呼には一喜一憂する今の武はひどく滑稽に見えたのだろう――一笑した。

「ど、どういうことですか?」
「ちょっと落ち着きなさい、白銀。あんた達に対する207Bの連中と教官の態度や接し方に変化はあった?」
「そりゃあ大アリでしたよ。特に九郎には唖然としてました」
「じゃあ、夕食のメニューや天候は?」
「えぇと……詳しくは憶えてませんけど、大して変わってませんでしたよ」

 その言葉を受け、彼女の中で何か確信したものがあったようで、夕呼は勝者の笑みを浮かべた。
 
「それらの違いって分かるかしら?」

 うぅむ、と唸りを上げながら頭を抱える武。
 今彼の中では様々な憶測が飛び交っているのだが、どうも上手くまとまらない。というか寧ろ纏まる以前に、個々の憶測の正否も分からない。
 207Bの皆やまりもちゃんの態度が変わったのは、自分が素人同然でなく優秀だったから。だからそれに応じて接し方も変わった。夕食のメニューが変わらなかった理由はまったく分からない。天候だって分からない。そもそも今日の天気ってよほどの事が無い限り、数日前から大体決まってるんだからそうそう変わるもんでもないし、メニューだって――。

「あ」
「分かった?」
「変わったのは、俺達が関わったものだけ……とか?」
「……アンタだったらあたしの教え子として認めてあげるわ!」

 よくやった、と言わんばかりに破顔する夕呼。武はひとまずの正解に安堵し、笑みを零した。

「そうよ。あんた達が関わらない、或いは関われない事象の変化はないか極めて小さい筈。力学と一緒よ。力は物体に無関係に働けば物体に変化は起こらないし、物体の質量が大きければ力による状態の変化も少なくなる」
「えぇと……よく分かりません」
「だから、あんた達個人じゃどうしようもないような事とかはこのまま起こるのよ。例えばどっかの大陰謀とか……BETAの侵攻とか」
「! じゃあ――」
「そう。あなたの記憶は十分に利用価値があるわ」
「良かった……あの、じゃあまず11月に――」
「ストップ」

 嬉しそうに武が語りだした矢先に、夕呼はそれを言葉と共に手で制した。

「あんただってアタシがどれだけ疲れる研究してるか知ってるでしょ? だったら、そういう事で頭脳を無駄使いしたくないの。だから事が起こる少し前まで教えないで」
「あ……はい。分かりました」
「で、後は何かある?」
「えぇと、『前の世界』と変わった事の報告なんですけど、訓練の内容が変わったぐらいです」
「分かったわ。じゃ、そろそろ出てってくれる? 何せ急がないとオルタネイティヴ4が打ち切られるんでしょ?」

 夕呼が意地の悪い笑みを浮かべて書類の山に向き合うと、武もお返しとばかりに苦々しい笑みを返す。そしてそのまま部屋を出ていこうとして、大事な事を聞くのを忘れていたのに気付いた。

「夕呼先生」
「何よ?」

 ひどく不機嫌そうな声が返ってくる。どうやら武にさっさと帰ってほしいようだ。だがそんな顔をされても尚、武は出て行かなかった。
 それが彼にとっては大事なものだから。

「鑑純夏って……知りませんか?」
「カガミ、スミカねぇ……」
「知らなかったら、いいんです。『前の世界』でも見つからなかったんですけど……」

 鑑純夏。
 その言葉を聞いたとき、積み重なった書類の影で夕呼の表情が微かに変化したのは長けるには到底見えなかった。だが、彼女の声と気配が一瞬不穏なものに変わった事は、察していた。

「白銀? あたし言ったわよね。余計な事で頭脳の無駄遣いをさせるなって……!」
「すいませんでしたッ!」

 ただ一つ言うならば、武は勘違いをしてしまった。
 夕呼の変化を、韜晦でなく憤怒によるそれだと。
 逃げるように走り去った武の姿を見て、部屋の外に控えていた霞が代わる様に部屋の中に入っていく。

「純夏さんのことは、隠しておくんですね?」
「当たり前でしょ。それと社、あんたも白銀達に気付かれないように気を付けなさい」
「……はい、香月博士」

 部屋の空気が重く沈んでいるのは、この部屋が日の光を浴びぬ地下深くにあるからか。それとも、この部屋の主は深い闇が隠し持っているからか。
 それを知るのは、きっと夕呼と霞と――誰とも知れぬ脳髄だけだった。



 暗い部屋に光るのは青白い輝き。
 その光源は人の脳を秘め、悶えるようにうねるシリンダー。
 それが輝きを放つのは人間の脳という人知の源でありながら、人知では解き明かせない神秘性故、それにそぐう空間作るべく、青白い光が勝手に溢れたのか。
 その一室に居た青年と少女はその青白い光を真っ向から浴びながら、神秘と向き合っていた。

「これは――魔のものだ」

 青年――大十字九郎が重苦しい声で呟いた。少女、アル=アジフは冷徹な無表情でその脳をねめつけている。

「武から出てる気配よりずっと濃い。まさかこれが武の言ってたループを生み出してるのか?」
「それは分からぬ。だがな、九郎。聞いた限りではあの女――香月夕呼にとってこの脳は随分と大事なもののようだ。無論、汝に偽った『標本』などというような陳腐な代物でなくな」
「やっぱあれ嘘だったのか……で、こいつどうするよ?」
「暫しは様子見としよう。だが、これがもしかの邪神にまつわるようなものであったなら――分かっているな?」
「あぁ」

 こうして液の中に浮かんでいるのを見ているだけならば、脳髄は無害そのもので、やはり神秘性すら併せ持つ。
 だが、魔術の触媒に使われる事もあるように、それは人間という存在の最奥であり、人間の悪意も善意もないまぜにした混沌なのだ。
 脳は何も語らない。だが決して何も考えないわけでは、ないのだ。

「……この世界には、やっぱり魔術とか、邪神の影は潜んでる」
「汝もそう思うか」
「今なら分かる。俺達が受けた、あの砲撃もまともな攻撃じゃねぇ」

 世界がまともでないのなら。
 もしも善悪で語られるべき、絶対的な価値観を持たざるを得ない存在があるのなら。
 それは誰が祓うべきか。
 それは人や、脳髄が祓うべきでない。それは、それは、

「……デモンベインの方は?」
「……駄目だ。ヒヒイロカネもなく、パーツの生産設備もない以上、直す手立てはない」
「マスターテリオンとの戦いの時みたく魔術で直せないのか?」
「この世界には魔力が足りなすぎるし、魔術の効きも悪い。それは汝も実感しただろう」
「獅子の心臓<<コル=レニオス>>で強引に魔力引っ張ってきてもか?」
「そんな無茶を行えば獅子の心臓<<コル=レニオス>>が壊れかねん。元々あれが壊れかけの状態なのは汝も知っておろう。まずは魔術の効く世界でそこから直すほかないだろう」
「じゃあマギウススタイルで戦うので一杯一杯ぐらいだよなぁ……」
「……まぁ、そこまで悲観するな。この世界には戦術機もある」
「……精々頑張ってみるよ」





[21053] BETA BANE #10 私と貴方と皆と誰かの……
Name: アキ海苔◆a481486d ID:11704c40
Date: 2010/09/20 20:28
 俺や九郎が『この世界』に来てから、もうどれだけの時が過ぎただろうか。
 ……そんなに経ってないな。せいぜい10日とかそんなもんだよな。だってまだ11月も始まったばっかだぜ? まだ新潟にもBETAは来てないし、HSSTだって落ちてきてない。戦闘技術評価演習だってまだまだ先だ。
 でも俺の目の前では……

「へぇ~、じゃあ九郎さん壬姫さんに狙撃習ったら~?」
「うぅむ。本当にそうしようかな……流石に狙撃が拳銃以外無理ってキツいよなぁ……」
「わ、私なんかでいいんですか!?」
「そう謙遜するな、珠瀬。そなたの射撃の腕は横浜一……いや、極東一といっても過言ではなかろう」
「……拳銃なら大十字は異常だけどね」
「異常かな?」
「異常だよ~、もう九郎さんったら~」

 はい。この通り凄い慣れ親しんでます。
 あれ? 俺の時はもっとこう……時間かかってなかったかな?
 まぁ『前の世界』での俺が完全にお荷物で、『この世界』での九郎が立派って差が大きいんだとは思うけど……。
 何だかこうしてみると九郎を含めた皆が古くからの友人みたいだ。
 PXでの夕食も非常に和気藹々とした和やかなもので、随分居心地が良い。

「あ、そうだ九郎。まりもちゃ――神宮寺軍曹からの課題できたのか?」

 国連軍の糧食に於いて唯一『合成』とつかないラムネ(といっても元からラムネ自体人工のものだけど)を口にしながら俺が尋ねると、途端に九郎の顔が青ざめていく。
 どうやら出来てないらしい。

「そなた、未だに神宮司軍曹の事を蔑称で呼んでいたのか?」
「蔑称じゃなくて愛称だよ、愛称。それに本人も居ないから今はそれは置いとこうぜ」

 以前からちょくちょく本人の前でも“まりもちゃん”と呼びそうになっている俺は、まりもちゃんに完全にマークされていた。
 教官の事を裏で蔑む仇名を付けるのはよくある事らしく、どうやら俺もそのクチだと思われているようだ。別にそんなんじゃないんだけどなぁ……。

「でも、九郎さん本当に課題やらないとまずいんじゃないんですか?」
「うっ……」

 たまの一言に九郎の顔がより一層険しくなる。
 そうそう。この10日弱で分かった事の一つに九郎の人となりもある。第一印象のとおり、気のいい奴で裏表も特にはないし、人の頼みごともよく聞く。本人曰く最後のは前に探偵をやっていた所為で人の悩み事とあらば解決するのが基本的なスタンスになってしまったようだ。
 だがその中にも若干傾向があるのを、俺は気付いてしまった。
 九郎は207Bで言えばたまの言う事をよく聞く。本人はちゃんと全員の話や物事を公平に扱おうとしているが、その中ではたまに纏わる事の割合がほんの少しだが多いのだ。
 結論。
 大十字九郎は小さい子に真摯である。
 この事は分隊の皆を含めて、誰にも言っていない。だがもしかしたら皆も心なしか気付いているのかもしれない。

「ま、一応俺たちも手伝うぐらいのことはしてやるさ」

 と、まるで電気を流したように早々に九郎の顔が希望に満ち溢れていく。

「あ、ありがとう武!」
「いいってことよ!」

 何だか爽やか系青春ドラマのようなノリだが、これが普通に行われるほど今の俺たちは仲が良いのだ。ぶっちゃけ『元の世界』の尊人と同じかそれにちょっと劣るぐらいに仲が良い。

「でも、まさか大十字がここまでとは思わなかったわよね……」
「うむ。私も最初は何故大十字ほどの人材が訓練兵などやっておるのかと思ったのだが……」
「まぁ、あれじゃしょうがないですよね……」
「だって九郎さんだし……」
「……大十字は残念な子だった」
「俺はそこまで言われなきゃ駄目なのか!?」

 皆が口々に九郎の悪口に近い評価を下していく。確かに皆の言いたい事は俺もよく分かる。
 九郎はついこの前衝撃の新人訓練兵としてデビューした。その無茶苦茶っぷりは体力面で横浜基地の記録のみならず国連軍の記録をも塗り替える勢いだったのだが、元々正当な手段で入ったわけではないので勿論記録にはなっていない。
 だからといってその無敵っぷりが変わるわけではない。
 100mを走らせれば10秒台を叩き出す。長距離を完全装備で走りぬいてもロクに消耗しない。砲丸を投げさせれば20mに届かなかったなどと妄言を吐く。格闘では人知というか人間の稼動限界を超えた動きをする。垂直跳びでは1mの大台に乗る。拳銃で狙撃を行う。
 ……どんな化物だ。
 だが九郎のとある残念さが発覚したのはその直後、訓練二日目のこと――。



 うつらうつらとしたくなる昼食前の座学。
 正直俺としてはこの授業は2度目だ。冥夜達も2度目なのに良くやるな。それでも真面目に座学を受けているのは、自分たちが手を抜けばそれだけ誰かが血と涙を流すと知っているからだ。あるいは単純にまりもちゃんが怖いから。
 そもそも今日の座学は俺と九郎の為に行われているのだから俺たちは一番真面目に聞かなければならないわけで。実際九郎は凄く真面目に聞いているし、教本を穴が開くほど見ている。

「では、大十字。この場合どういった行動が望ましい?」

 まりもちゃんが指している図を見ると、敵――といってもBETAでなく人類なのだが――のレーダー施設への工作活動が問題になっているらしい。状況としてはおそらく、友軍の進攻の前に警戒施設を無力化して援護する潜入作戦だろう。
 俺も『前の世界』で習ったっけなぁ……。
 まりもちゃんは恐らく格闘訓練やらで大分型破りな様を見せた大十字なりの回答を期待しての指名なのだろう。207Bの皆も興味津々といった目で見ているのだが、肝心の大十字が中々答えない。

「大十字?」
「えぇと……」

 まだ答えない。どれだけ焦らすんだよ、と俺が内心突っ込んだ矢先に――。

「正面から、一気に突破……とか?」
「はい?」

 思わず俺が言葉を漏らしてしまった。まりもちゃん達は自分達の耳を疑っている最中のようだ。

「……大十字、もう一度言いなさい」
「正面突破で、施設を潰す……じゃ、駄目ですかね……?」

 駄目だろ!
 そう大声で叫びたかったが、何とか自制。きっと九郎なりの秘策があるに違いなんだと頑張って自分に言い聞かせる。どうやらまりもちゃんも俺と同じ事をしているらしく、肩がぷるぷると震えていて、他の皆はぽかんとしている。

「……大十字……説明を」
「だって悪い奴らが使ってんだったら、2度と使えねぇように徹底的に叩くべきですし、別に後ろめたい事もねぇから正面から――」
「馬鹿か貴様はァぁあー!!」

 ごぎん、と重々しい音が轟いた。見ればまりもちゃんの拳骨が九郎の頭に突き刺さっているところだった。

「痛ってぇえ!」
「当たり前だ、殴ったんだからな! 貴様は何を考えている! 正面突破ぁ!? そんなことをすればどれだけ人的、装備的被害が出ると思っている! 挙句の果てに施設を完全に使用不可能にだと……!? 小学校からやり直したいのか!?」

 まりもちゃんの言う事は正論だ。寧ろ正論でしかない。
 確かに九郎のポテンシャル――魔術云々を含めての――なら単独で正面突破だってできるかもしれないが、これはあくまで部隊単位での話。隊員は全員超人という設定もないのだから正面突破を目指せばおそらく部隊は壊滅するだろう。

「白銀ッ、貴様が答えろ!」
「は、はいっ!」

 九郎を除いた訓練兵の中では俺が一番正気に見えたからか、はたまた九郎と同時期に入隊し尚且つ九郎ほどでもないが体力面で好成績を叩きだした同類だからか、何故か俺に回ってきた。
 まぁ、さっきの通り『前の世界』で習った事だから大丈夫だけども……。

「……目標を施設そのものでなく、送電線とします」
「ほぅ……何故だ?」

 今の今まで怒り心頭といった様子だったまりもちゃんの顔付きが瞬時に切り替わる。

「第一に携行爆薬の量も減らせるので、多くの人員を裂かないですみます。第二に敵施設も送電線の警備にまで人員は裂いてないと思いますし、居たとしても少数の巡回な筈ですから、部隊が発見され交戦に入るリスクも損耗も減らせるはずです。第三に、目標が『破壊』でなく『無力化』である事から、送電施設の破壊だけに留めておけば友軍が設備を鹵獲した後、速やかに修理し、再利用できるからです」

 沈黙。
 室内の全員が九郎の時とは違った意味で押し黙っている。

「よく分かったわね……。施設の再利用まで考えての行動はこのケースでは完全といっても良い回答よ、皆も白銀を見習いなさい」
「「「はっ!」」」

 ふと目線を遣れば、九郎が尊敬の眼差しでこちらを見ていたので、俺はしたり顔を返してやった。まぁ九郎はこういう事に関してはそんなに得意でもないんだろう。何せこの性格な上、あれだけの力を持ってればそりゃあ考えるより先に行動したほうが早いんだろうし。
 そしてまら座学の続きが始まる。九郎は前にもまして真面目に教科書を熟読して、話を聞いている。余程まりもちゃんが怖かったか、自分が情けなかったのか。



 ――まぁ、初日からあれじゃあしょうがないよなぁ。
 加えて言うならば、銃器の分解整備と組み立てもやらされたのだが、これも九郎は不得手な様子だった。いくらアメリカが銃社会だからって九郎にとっては未来の軍用突撃銃をばらせるわけもないし。
 だが、九郎はこう見えてもアメリカのかなり頭の良い大学に行ってたこともあるようで、勉強は大分できる。
 最初こそ銃器の扱いも作戦立案もてんで素人同然だったが、わずか10日ばかりしか経っていないのに今ではもう並みの訓練兵並みにはできるようになってしまった。
 初めは単純に出来が悪いから課題を出していたまりもちゃんも、この急成長を見込んで更なる進歩を望んでいるのか、未だに九郎に課題を出している。前に少し内容を見せてもらったが、あれはどうみてもついこの前訓練兵になった人間にやらせる内容ではない。あれが完璧に答えられれば即戦力間違いなしの問題だったが、これも愛の鞭って奴なのだろう。

「じゃあ九郎、後で部屋に寄るから課題はその時にな」
「あぁ。マジで助かるぜ」
「……そういえば、大十字もその『マジ』って言葉をよく使うわよね。やっぱり英語圏の言葉なの?」
「まぁ……そんなトコだな」

 委員長の疑問も最もな話だが、九郎と俺が使う言葉にはちょっとしたクセがある。それは『元の世界』で普通に使ってた言葉の幾つかが『この世界』では使われていない事が原因だ。例えば、今言った『マジ』とか『モテモテ』とか。だのに何故か九郎と俺は同じスラングを使っているのが不思議だ。
 まぁ奇遇にも俺と九郎は外国で暮らしてったっていう嘘――もとい設定を言いふらしてあるから何とかなっているのだけど。
 何度か使っている所為で冥夜達もそういった言葉を理解するようにはなってきた。

「そういえばなんでタケルって国連軍に入ったの? だって本当だったら徴兵も免除だれて安全な所に居られたんでしょ?」

 美琴がひどく明るい口調で問いかけてくる。
 だがその顔は普段の美琴とは何か違う、まるで薄皮の上に笑顔を貼り付けたような笑顔だった。美琴にもこんな顔ができるとは思ってもみなかったけど……これは俺を試してるのか?

「九郎さんも。アメリカだったら自給率100%だからご飯だって美味しいし!」

 ふと辺りを見渡せば、今まで騒がしかった皆がすっかりと静まり返っている。
……どうやら打ち解けたところで本音を語らせたいようだ。

「……俺にも出来る事があるって、そう思ったから。……いや、ただ単にそう思いこみたいだけだったのかもしれないけどさ。でも何処かで誰かが命張ってるのに、自分だけのうのうと暮らすなんて出来なくてさ……それで志願したんだ」

 当たり障りのない、まるで模範のような回答だ。それでも、俺はそう言うしかないんだ。

「俺は――人類の勝利が、誰かが命を張らなくてもいいような明日が欲しい」

 格好を付けていると思われたかもしれない。
まるで現実も見れない子供のようだと笑われたかもしれない。
本音の一つも語れない臆病で卑怯な奴だと看做されたかもしれない。
 だけど、そう心から思っているからしょうがないんだ。
 人類の敗北も、地球の滅亡ももう御免だ。そんな無情な未来が見たくないから、だから俺はまた此処に来た。

「……大十字は、どうなのよ」
「ん、俺か……そうだな……」

 俺の話を聞き終えた委員長が合成玉露を手の中に納めて、九郎の方をきっと見つめる。

「俺は武ほど立派な意識とかはないんだけど……ただ、嫌なんだよ。だってこのまま放っておいたら人類は負けて、それで終わっちまうなんて言われたらそりゃ居ても立ってもいられなくなるじゃねぇか」
「九郎さん……怖くは、ないんですか? BETAと戦うんですよ?」
「怖いさ。だけど、何もしなかったらやばいって分かってて、それでも何もしないで……やっぱりその通りになってしまう方が怖い!」

 余りに堂々と、余りにも悠々と。
 九郎は言ってのけた。
 ……あぁ、やっぱりこの男は強いんだ。
きっと九郎は誰よりも臆病で、誰よりも痛いのが嫌で、誰よりも逃げ出したい筈なのに。
きっと九郎は誰よりも勇敢に、誰よりも傷付きながら、誰よりも踏み止まって生きてきたんだ。
だから彼は、大十字九郎なんだ。
 俺の答えも、九郎の答えも、美琴や委員長が想像していたもの通りのつまらない答えだった事だろう。でもそれは紛れも無い俺たちの本音で、そこに嘘偽りなんか微塵も無い。たとえ無茶で無謀と笑われても他に答えようの無いものだ。
 ――俺は今度こそ絶対に、人類を救ってみせる。
 皆も俺と九郎の心が分かったのだろう。心なしか口の端が僅かに吊りあがっている。

「逆にさ……皆にはあるのか? 護りたいものとか、成し遂げたいものとか」

 今俺が自分の答えを出して、九郎の答えを聞いて、それで自分の意思が再確認できたように、皆にも自分自身を見つめなおすいい機会になるだろう。

「少なくとも、俺にはある。さっき言ったのがそうだ。でも、世界中の人々が同じ思いを持っているかなんて分からない。自分の国が永らえる事を望む人もいれば、自分に関わるもの全部護らなきゃ気がすまない人も居るはずだ。……でも、もしそれのどこかに共通するがあるなら、俺たちは手と手を取り合わなきゃならない。……たとえ、お互いの道が違っていても。人は絶対に一人じゃ何もできないんだ。だから、仲間が必要なんだ……! 皆で一丸にならなきゃ人類が負けちまうのは目に見えてるんだからよ……!」

 ……!
 まずい。熱くなりすぎた。俺は一体何を言ってるんだ。
 今の俺はただ少しばかり訓練の成績が良い新参者なんだ。別にヒーローでも、皆が尊敬する大人物でもないのに……。ただのでしゃばりな馬鹿でしかないな、これじゃ……。

「……白銀、あなたは本当に……何なの……?」

 現に皆だって呆れて――
――呆れて――?

「そなたのその言い様、悲劇を見てきたようではないか……」
「タケルさん、やっぱりどこかで兵役に?」

 ――違う。
 これは呆れているんじゃない。皆は、俺を心配してくれているんだ。

「い、いや、違う! これは知り合いの衛士から聞いた話で……」
「しかし先程のそなたの顔は真実、辛苦に満ちていた! あれは実際にそうあった者の顔だ!」
「気のせいだよ、心配しなくても大丈夫だから……」
「馬鹿者、仲間の心配ぐらいさせぬか……!」

 仲間として、俺を心配してくれているんだ。俺が過去に辛い思いをした事を察して、それで……それで……。
 俺は馬鹿だ、本当に馬鹿野郎だ……!
 皆の人となりが『元の世界』の皆と同じなのは、『前の世界』で分かってたことだったのに、それなのにこんな皆の事を変に勘ぐったり、わざわざ鼓舞しようとしたりさ。
 皆がそんなに卑怯な人間か?
 皆がそんなに惰弱な人間か?
 そりゃあ、誰かを疑うさ。そりゃあ誰だって弱いさ。
 でも俺なんかが一々引っ張っていかないと駄目なような、そんな奴らだったか?
 あぁ、そんなこと言うまでもない!
――そうだよ。彼女達はいつだって自分の足で歩いてきたんだ。

「ごめんな……皆」

 冥夜は孤高の存在かもしれないが、それでも隔たりを失くすように努力して、自分からも歩み寄っていくし。
「俺さ、何か勘違いしてたんだと思う」

 委員長は堅っ苦しいトコもあるけど、それは皆がもっと高い位置に立つ為には真面目さが必要だと思っているからで。

「人類は負けるなんて信じたくなくてさ」

 彩峰は不思議で一匹狼かもしれないけど、だからといって周りを省みないような奴じゃない。

「だから、だから周りが目に入らなくなりかけてたんだよ」

 たまはあがり症でいつも緊張してばっかだけど、自分で克服する勇気を持ち合わせていて。

「今更だけど、ようやく周りの景色が見えてきたんだと思う」

 尊人も、美琴もマイペースで独特な奴らだけど、真っ直ぐな心を持ってたじゃないか。

「こんな俺だけど、皆の仲間にしてくれ。俺は皆の力を借りたいんだ……!」

 拒否されることは、あるかもしれない。もしかしたら誰の力も得られずに世界の終わりを迎えるかもしれない。
でも、そんなのは嫌だった。
でも、皆が一緒になれば出来ないことなんてないかもしれない。

「……総合戦闘技術演習、近いのよね……」

 皆が俺を見つめる中、ぽつりと委員長が呟いていた。

「僕らも、タケルの力は借りたいな」
「そなたを不要とするほど、我々も人類も余裕ではないぞ、武」
「これからも、よろしくお願いしますね、タケルさん!」
「……周り(の空気)が見えてきたのは、気のせいだけどね」

 委員長が、美琴が、冥夜が、たまが、彩峰が、

「……いいのか、俺なんかで……?」
「『俺なんか』とか言うなよ、武! ほらもうちっと背筋も伸ばせって!」

 九郎が、言ってくれた。

「私達はね、もう後が無いのよ。だからいくらでも歓迎するわよ、白銀」

 涙は流れない。嫌な汗も流れない。ただ、言葉が勝手に流れ出た。

「……ありがとう、皆……!」



 夜空には半ば欠けた月が、大地とそこに根ざす全てに青白い光を振りまいていた。
 消灯時間までもう間もない。白銀武はそんな時間にも関わらずグラウンドに通ずる道を歩いていた。
 というのも、食堂でのあの恥ずかしい事件の後、先からの約束どおりに彼は九郎の部屋に赴き、課題を解いていたのだが……予想以上にひっかけどころのある問題で、ようやく一段落したときには、相当な時間が経っていた。それだけの時間脳だけを使っていれば当然頭が疲れて。そういう時には軽く夜風に当たるとすっきりとするもので。故に、彼は広いグラウンドを一人で満喫しようとしていた。

「……しっかし、アルもアルで手伝ってやればいいのにな……」

 アル=アジフは九郎と寝食を共にする仲であるが――それゆえに、九郎には手厳しいところもある。
 今日も本来ならもっと早く解けたのだが――

「本人が解かずしてどうするのだ」

 ――と切り捨てたアルのお陰で、武は考え方や、教本の調べたい項目のページを教えてやるに留めた。
 まぁ、あの子の言いたい事も分からんでもないけどな……。
 と、武が苦笑しているうちに、もうグラウンドは目と鼻の先であった。
 普段から広いグラウンドも、無人ともなれば更に広大に見えるもので、武は占有による優越感と清清しい開放感、そしてどこか寂しい孤独感をない交ぜにした捉えようのないもやもやとした感情に浸っていた。

「……ちょっと……走ってみるか」

 そう思い立ったのはきっと気紛れだろう。今の武は別段、夜中に走りこまねばならないほどのスタミナ不足も、ましてや走って全てを忘れたくなるような危機感もなかった。
 靴紐を普段より少しきつめに締め、少し関節の柔軟をしていた所――そこで武は気付いた。
 この月下の空間が、自分1人のものではない事――先客の存在に。
 その先客は蒼白なまでの月明かりを頼りに、このグラウンドにそれ本来の目的を果たさせていた。
 月の光と建物の影から除くその姿は実にリズミカルに大地を蹴り、肩を揺らしていた。そしてトラック上を巡り、徐々に武に近づいていったその影――

「……む、そなた……?」

 ――御剣冥夜もまた、武の存在にようやく気付き、脚を止めた。

「や。冥夜は自己鍛錬、ってやつか?」
「あぁ。そなたや九郎が来てからというもの、つくづく己の未熟さを思い知らされるようだ」
「ははっ、九郎はともかく、俺はそんな大した人間じゃないよ。少なくとも、こんな時間にまで走ってるお前の方がよっぽど偉いさ」
「ふっ、冗談の上手な奴だな、そなたは」

 ふぅ、と息を付きながら、冥夜は首に下げたタオルで汗を拭う。その汗の量からも彼女がどれだけの時間を走っていたかは見て取れた。

「そなたも走りに来たのか?」
「いいや。俺は夜風に当たりにきただけ。走ろうと思ったのはそのついでだよ」
「そうか」

 冥夜は汗を拭いきると、そのまま武の横に立ち、月を仰ぎ見た。その眼差しは月そのものでなく、月に写される誰かの面影を見ている様でもあり、同時に強い意思を感じさせるものだった。

「……明日が欲しいと、そなたは言ったな。誰もが命を張らない明日が欲しいと」
「……あぁ、言ったな」
「月並みだが……私にも護りたいものがある」

 ふと月を指していた冥夜の視線が緩まり、未だに残る山々を、そして荒廃した街並みを指す。

「私はこの星と、この国と――そこに住まう人々を護りたいのだ」

 国。
 そのとても短く、普遍的な一言が一体何を指すのか。
 ある人は主権と領地と国民を併せ持つ組織の事であると答えるだろう。
 またある人は、そこに根ざす人々の織り成す文化であると答えるかもしれない。
 だが、少なくとも御剣冥夜が思う国とは、それらとは全く違っていた。
 彼女の思う国とは、そこに住まう人と、彼らの信念――あるいは魂とでも言い表すべきものだ。自身がその国の一員であるという自覚と、己達が為すべき事への志。それこそが冥夜の護りたいものだ。
 武は初め、何も分からなかった。彼は元来国というものを語らう立場の友も、状況も与えられなかった世界の人間だ。それが何の因果かこのような戦々恐々たる世界に目覚め、そしてその流れを掴めずにいた。
 自分が戦う事。大きなものの歯車となる事。国の為に殉ずる事。何処かの誰かの為に命を懸ける事。戦地へ赴く仲間の背を見送る事。人の生死を間近で見る事。命よりも大切なものがある事。そして、この人の世界と共に眠る事。
 何一つ理解できなかった。『この世界』の、『前の世界』の人々が須らく持ち合わせていたものを白銀武はまったく理解できず、衝突を繰り返していた。
 だが、激流の中にある岩が徐々に徐々に削られて、そして砂となって流れていくように、彼もまたいつかこの憎らしい世界を愛しく思えたのだ――尤も、それは彼にとっての成長であったのだが。
 天元山での一件――火山の活発化による危険性からの不法帰還民の避難任務――を機に、彼は変わっていった。とある老婆の心を知り、冥夜の志に触れ、日本人の魂を見た。そして、そして……。
 彼も、いつしか国というものを解していた。
 だが嘆くべきはその頃には既に日本というのは国でなく、世界そのものとなりかけていた事。
 BETAの侵攻は留まるところを知らず、人類の領域はまるで映画のコマを送るように塗り替えられてゆき、いつしか残る土地は地球の陸地の三割にも満たない程度になっていた。当然、残っていた日本には多くの難民や兵士達が入り込み、よくいえば多文化――歯に絹着せぬ物言いをするならば、混然とした土地となっていた。
 民は嘆き、国が荒れ、世は乱れる。
 収入源を持たない難民達と、明日を見失った軍人達は本能に従い――いや、それは現実からの逃避であり、自分は強力だと自分自身に言い聞かせたかっただけだったのかもしれない――奪い、喰らい、犯し、殺した。
 着ているものを剥ぎ取り、乳飲み子を煮て、男をも辱め、命を刈った。
 それも束の間、瞬く間に世界は――。

「そなたは、世界を護りたいであったな」
「……あぁ」

 『前の世界』で何より実感したのは、己の愚かさと無力。
 『この世界』で何より実感したのは、宿った覚悟と好機。

「俺はこの星と、人類を――必ず護り抜いてみせる」

 それは冥夜に返された言葉ではなかったのかもしれない。『前の世界』え己の中に住み着いた諦観への宣戦布告であったのかもしれない。

「やはりそなたは、強いのだな」
「そんなことないさ」

 微笑を浮かべる冥夜に、武もまた微笑を返した。

「そなたには……信念がある。その目を見れば、誰とてそなたの決意の強さは分かる」
「“目的があれば、人は努力できる”、って奴か」
「! ……良い言葉だな」

 一瞬戸惑ったような顔を作った冥夜は、その言葉を噛み締めるようにきと口元を固く結び、立ち上がった。

「武。私は、まだまだ未熟だ。だがいつか――いつか、そなたのような強きものを持つ者になってみせよう」
「俺なんかでよければ」

 そして冥夜を追うように武も立ち上がる。二人は何も示し合わせず、駆け出した。
 だのに、二人は並んでいた。その晩、消灯時間になるまで肺活量もスタミナもまるで違う二人の距離が変わる事は無かった。



「なぁ、アル……やっぱ手伝ってくれよ」
「汝の為だ、九郎」
「だって武はどっか行ったっきりだし……」
「ならば素直に汝の教官に教えを請え」
「まりもさんにか……」

 その晩、武がどこかに行ってしまった所為で、消灯時間になっても九郎に課された宿題は終わる事は無かった。






[21053] BETA BANE #11 島をゆく……?
Name: アキ海苔◆41a5b219 ID:aea193cc
Date: 2010/09/20 22:46
 南の島。
 そう言われると現代人はつい浮かれたイメージを持ってしまいがちだ。
 陽気なムード。人の暖かみ。すさまじい活気と熱気。
バカンス! バカンス! バカンス!
あぁ、天国なるかな南の島よ! あぁ南の楽園よ!
それは戦時下の訓練兵にも同じ事で、尚且つ彼女達は既に一度南の島に行った経験があった。
だがそれがいけなかった。

「ど、どういう事ですか、教官!」

 分隊長榊千鶴の叫びは空に虚しく消え――



「南の島でバカンスだ」

 そう言ったのは神宮寺まりも軍曹だった。
 彼女は横浜基地に勤務する職業軍人であり、207Bの教官でもある。
 額面だけ見れば喜ばしいはずの彼女の一言で、前に控えている207B分隊の顔が青ざめていくの九郎は見た。

「それはやっぱり……」

 それは半年前に彼女達が同じ言葉を聞かされたからだろう。本来であれば、候補生とはいえ衛士という休みもロクにない職務に就いているのだ、たまの休みは浮かれてもかまわないはずだ。事実、彼女達は半年前にはそういったリアクションをとった。

「何だ? いい事じゃないのか?」

 さすがに九郎も空気を読み、浮かれたムードを顔に出してはいない。だがてんで状況が理解できていなさそうな九郎を見かねて榊が溜息混じりに説明を始める。

「あのね、大十字。南の島でのバカンスっていうのはね――総合戦闘技術評価演習の事なのよ」
「そうごうせんとうぎじゅつひょうかえんしゅう?」
「総戦技評価演習っていうのは、衛士訓練兵の最終試験みたいなものよ。戦術機を破棄、強化外骨格も使用不可能の状態で、戦闘区域から如何に脱出するかが問われるの。……まぁ勿論ただ逃げ回るだけじゃなくて後方撹乱とかもするんだけどね」
「へぇ。大変そうだな。……つぅか前に壬姫ちゃん、戦術機に乗ってなかったか?」
「それは珠瀬が極東随一の狙撃手だからだ。匍匐体勢から砲撃を行うだけならば、補助次第で訓練兵でもどうにかなる」

 と、九郎の疑問にはまりもが代わって答えた。
 武や榊といった一部は何故他にも優秀な狙撃手である衛士は居たはずなのに、何故珠瀬が選ばれたのかとも思ったが、到底それを聞ける様子ではなかったし、仮に聞いていたとしても、おそらくまりもは答えてはくれなかっただろう。
 訓練兵にもかかわらずそんな大任を預かる珠瀬の凄さに改めて感心する九郎に――いや、その場の全員にまりもは楽しそうな顔で続けた。

「聞け、今回は以前のような『バカンス』とは違うぞ! 行き先も変われば内容も変わる、喜べヒヨっ子共!」

 行き先も内容も違う、という言葉を受け取り心機一転、207Bの面々の間に僅かな動揺と中々の疑問、そして確かな喜びが走った。
 何が起こるかわからないのは心が揺らぐ。何故そうなのかが分からない。だが、もしかしたら休みが――それも遊べるかもしれない休みがとれた事が何よりも喜ばしい。
 日々自分達に先立って戦う誰かを思い、研鑽を重ねている彼女らは積極的に遊びたいと思ったことは殆ど無い。だが、研鑽に研鑽を重ねた刃は薄く割れやすい事も彼女達は知っていて、それ故に束の間の休息の大切さをより深く知っている。
 だからこそ、罪悪感や不安よりも嬉しさが勝った。

「じゃあ本当にバカンスですか!?」

 調子に乗って武が手を上げる。本来だったら生真面目に注意する榊も今回ばかりは説教を垂れようとはしなかった。

「まぁそんなところだ。一応任務なのだが、未体験の新鮮な感動を思う存分期待して、そして味わえ!」

 だが彼女達は間違っていた。いや、気付けなかったというべきか。
 まりもの笑顔が、決して純粋無垢ではない事に。注意してみればその表情があくまで作り物であり、彼女が教え子達を偽っている事は見抜けなくもなかったかもしれなかったのだが、生憎と今の彼女達にそこまでの観察眼は失われていた。
 それから3日間気分も高揚し、十分な志気を持って訓練にあたり、余暇とあらば浮かれた様子で何処に行くのかを考えつつ、その日を待った。
 そして出発当日、自らが用意すべきものが必要最低限の装備のみで、他のものは全て現地に用意されているという好待遇に加え、何故かアル=アジフと名乗る九郎と武の顔見知りらしき少女の同乗に若干の疑念を抱きつつも、やはり浮かれたまま兵員輸送機に乗り込んだ。
 そして――その十数時間後、榊は叫んでいた。



「どういうことも何も、総合戦闘技術評価演習に決まっている」
「総合戦闘技術評価演習!? 結局!?」
「やっぱりそうだったんですか……。いえ、本題はそこではなく、何故こんなところで――!」

 思わず素っ頓狂な声を上げた武はさておき、総合戦闘技術評価演習が行われる運びになったのも驚きだが、榊が『こんなところ』でと形容したのは、他でもない地理条件ゆえだった。
 ここで地球儀を思い出して欲しい。
 南の島に熱帯の気候を思い起こすのは、それが日本人――つまり、赤道より北側に住む人間の視点に因るものだからだ。当然赤道に近づけば近づくほど、熱くはなる。
 では逆に北に行けば?
 当然寒くなる。
 それは平均的には赤道付近が温暖で、極付近が寒冷であるという事実からくるものだ。南が暑いのは南側に赤道があるからで、北が寒いのは北極があるから。
 では、赤道以南の人間からしてみればその思想はどうなるのだろう。それは当然――

「――なぜ、雪山なのですか!?」

 ――南は、寒くなる。
 そう。ここはオーストラリアの更に南の名も無い島。南緯60°近い緯度を誇る、北緯でいえばロシア並みの赤道からの遠さを持つ場所。
 そこにあったのは、雪と氷と凍土の重なる冷たい風景だけだった。
 通常、横浜基地で教練を積んだ訓練兵達は北半球側のとある南の島――こちらは比較的低緯度な為に温暖な気候である――で総合戦闘技術評価演習を行わされる。それは彼女達より一足早く任官した207Aや半年前の彼女らも同じ事だ。だが、ここはどうみてもそこではない。

「榊、残念ながら今回は私もまだここで総戦技演習をやる意味や目的は聞かされていない」
「教官。まだ、ということは……」

 榊の鋭さに師として喜ばしいものを感じたのか、封印のなされた茶封筒を取り出しながらまりもは笑ってみせた。

「……『今回の急な総戦技演習で驚いてると思うけど、これにはあたしなりの意味があるわ。その意味を察しろなんて無茶はいわないから、せいぜい頑張りなさい。内容は別紙を見ること。あと、その辺りは海流と気流の関係で季節に関係なく吹雪くような土地だからまりもは死人を出さないように気をつけなさい。』……。」
「「「……」」」

 朗々と読み上げたまりもは勿論の事、寒空の下でそんな事を聞かされた他の皆としては中々に恐ろしい具合で。
 死人がでないように気をつけなさい。
 なんとも気まずい一言だ。一応演習なのだから緊急連絡用の無線機ぐらい携行させられるとは思うが、それでも吹雪にあいでもしたら命に関わる事はいうまでもない。
 死の可能性をつきつけられた訓練兵一同の不安はもとより、まりもの不安もまた大きかった。
 彼女らが各界の重要人物の子女であり、そんな人物に何かあれば自分の身がどうなるかぐらいはまりもでも分別がつく。だが、それ以上に自分の教え子が死んでしまうのが怖かった。それも人類や自らの目的の為でなく、こんな荒唐無稽な訓練の為に。
 さりとて神宮司まりもは軍人であり、教官だ。教官たるもの模範たらずしてどうする。まりもには命令書に意義を申し立てることなで、できるわけもなかった。
 まりもは同封されていた残り数枚の命令書に軽く目を通す。

「では、全員5分以内に強化装備を着用の後ここに集合。着替えについてはあそこの小屋の中の男女別更衣室でできるらしい」

 その言葉の通り、まりもの指差す先には小屋――それも隙間風でも吹き込みそうな掘っ立て小屋があった。

「なお、これに関してはアル=アジフ。あなたもです」
「む、妾もその強化装備とやらを着けねばならんのか? 聞いておらんぞ」
「貴官の所属は知りませんが、教えなかったのでしょう。取り敢えず命令書には『全員』強化装備で試験に臨む由が書いてあります」
「……わかった。機の中にあった装備に含まれていれば良いのだが……」
「恐らくあるはずです」

 誰の差し金かに心当たりでもあったのだろう。意外にもアルは反発せず、まりもの指示に素直に従った。
 まりもが寒風の中待つ事5分。
 小屋の中で強化装備に着替え、その上に防寒ジャケットを着てきた皆は、改めてまりもの前に整列した。見る限りでは、どうやらアルの分の装備もあったようだ。
 強化装備元来の性能に加え、防寒ジャケットもありさほど寒くはないと見え、寧ろその点については普段より厚手の野戦服を着ているだけのまりもの方が寒いかもしれない。事実海からの風が強めに吹くたび、彼女の整った顔が些かに動くのだ。

「では、命令書を引き渡す。では、榊」
「はっ! 確かに受領いたしました!」

 敬礼と共に茶封筒に入れられた命令書を受け取る榊。こういった事は手慣れているはずなのだが、半年前の事が頭に染み付いているのか、その動きには若干の逡巡が見え隠れしていた。

「では、第207衛士訓練小隊B分隊、健闘を祈る!」
「「「はっ! ありがとうございます!」」」

 それは形而上の言葉だったのかもしれないし、はたまた前回の事もあっての励ましだったのかもしれない。
 だが207Bの彼らと彼女らは幾度と無く練習し、非常に軍人然とした一糸乱れぬ敬礼を以てそれに答えた。――ただその動作は正真正銘の感謝がこもっていた。



「『状況設定は寒冷地での任務中、戦術機が動作不良を起こし脱出。強化外骨格は使用不可能。当該地域は人類の支配下にあるものの、対立国内であるため5日以内の早急な脱出が望まれる。尚その際には指定区域の通信基地を使用する事。』……だそうよ。今回は隊を分割しないで済むようね」

 早速封筒を開け、命令書を見れば小屋の使用を許されている事が判明し207Bはその内部で命令書や同封されていた幾つかの書類を広げていた。分隊長である榊は命令書を読み上げたのち、皆と一緒に状況の分析を始めている。

「仮想敵国ってのはやっぱ攻撃とかしてくるのかな?」
「残念ながらそこまで明記されていないわ。でも、その可能性は考慮しておくべきね」
「となると偵察や哨戒が要るな……珠瀬、その地図をこちらに寄こしてくれ」
「はい、どうぞ冥夜さん」

 地図を見る限り、着陸地点と目標までは島の丁度反対、直線距離で50kmほど。だが、連なる等高線や個々の目で実際に見た様子では直線で島を横切れば山岳地帯――それもそこそこの標高がある――にぶつかるようだ。

「雪山をこれだけの装備で進むのは危険ではあるまいか?」
「そうね……。確かに海側を進んでも距離としては2倍ぐらいなんだけど……」
「……それでも山を行ったほうが早いのは確か」
「安全性の問題が解決されない以上、それはどうかしら」

 いっそ清清しいまでに意見を対立させる榊と彩峰。だが二人とも喧嘩などに割く時間などないと分かっているのか、相手の意見に抗議するでもなく、目線を交わすだけにとどめた。

「美琴、お前はどう思う?」
「う~ん、確かに雪山を行くのは危ないんだけど、海側も時間が無いし、それにこれ」

 そう言って美琴が指したのは山の中腹や頂上付近に幾つか描かれた小さなポイント。

「僕らの今居る場所にも同じマークが打ってあるから、きっとこれは小屋か何かを表すと思うんだ。もしかしたらそこに何か助けになるものが置いてあるかもしれないし、何よりゆっくり休める場所があるのはいい事だし……」
「そういえば、俺ら食料とかどうすんだ?」
「装備の中のじゃもって3日分だから……それももしかしたらそこに置いてあるのかも……」
「ならやっぱ山を突っ切るしかないんじゃねーのか?」
「でも、迂回ルートの方が断然安全だし……」
「大十字、あなたはまず自分の体力が半分以下になったぐらいの気持ちで物事を考えなさい」

「――――」

「……」

「」

 ……喧々諤々、とでもいうべきか。
 会議は踊り、そして進み。時間とて無限ではない以上、何とか平行線を辿る事だけは避けたかったからか、彩峰と榊の対立も表面化こそすれどそこまで深刻なものとはならなかった。
 とりあえず、挙がった問題としては『迂回ルートをとるべきか、危険を覚悟してゆくか』『敵勢力への警戒度』『行軍速度』といった所に収まった。
 無論浮上した議題はそればかりではない。だが、彼女らは政治屋でも司令官でもない、衛士候補生なのだ。ただ議論をつきつめれば良い訳ではないので、雑多なものはその状況に即して判断を下すことになった。
 まず、『迂回ルートをとるべきか、危険を覚悟してゆくか』という話。
 山を突っ切るという道は結局美琴らの猛反対にあい断念。だが、海側だけを行くのも種々の問題から現実的とは言いがたかった。結局、この話は山の中腹辺りまで登り、そこを回りこむという事に落ち着いた。このルートならば道中に山小屋もあるし、天候が変わるのも山頂よか遅いので、それ相応の支度も出来る。極寒の地といえども暦の上では夏のはずなのだから、うまくすれば山の恵みにありつけるかもしれないというのも、各所の小屋に必ず食料があると決まってはいないのでありがたい話だ。
 次に『敵勢力への警戒度』。これは常に周囲を確認し、定期的にエレメントで周りの探索を行う運びになった。彼女――あるいはその関係者――達の社会的立場を鑑みればおそらく周辺には試験の監査も含め、それ相応の人数がいるかもしれない。だが、それが積極的に妨害活動を行わないという保障はどこにもないのだ。皆、警戒をしておくに越した事はないと結論を下した。
 最後に『行軍速度』。早ければ早いほど良い気もするのだが、吹雪きかけている雪山で道に迷ったり、あるいは憔悴してしまってはどうなるかぐらい、誰とて容易に察しがつく。それでも今回はとびとびに小屋が配置してある関係で、比較的早い速度で進めそうだ。あまりゆっくりしていても兵站が尽きてしまいかねない上、試験の評価も下がる事だろう。
 まだまだ突き詰めるべき場所はあるにはある。だが、進むべき理由の方が多かった。

「それじゃ、行きましょうか」

 分隊長榊千鶴のひどく静かな声を機に、それぞれが軽く頷くと纏めた装備を持って立ち上がる。
 その顔が決意に満ちていればどれだけ喜ばしかった事か。
 その顔が熱意に溢れていればどれだけ頼もしかった事か。
 嘆かわしくも彼女達の顔は決して晴れやかとは言えず、まるで通夜のような緊張に満ちていて、且つ暗い面持ちだ。
 それでも彼女達は歩みださねばならないのだ。かつては彼女達と並び、今ではもうずっと先にいる人たちに追いつく為に。

「13:00、行軍を始めるわよ」



 神宮寺まりもはここまで乗ってきた兵員輸送機に乗りなおし、目標と定められた通信施設に居た。元々は国連軍の基地だったようだが、BETAの侵攻以来この島自体殆ど管理をされなくなったようで、そこかしこが薄汚れている。だが今は国連軍の野戦服にジャケットを羽織った十数名が必死になって掃除や整備を行っているため、大分片付いてきている。

「ご苦労様です」

 軽く挨拶を交わし、ずんずんと基地内部へとまりもは脚を進めてゆく。その足取りは一見規則正しく、丁寧なものだが――もし普段より彼女をよく知るものが見れば、いかに彼女が怒っているかが分かるだろう。
 だがこの地に彼女を知る者は反対側で試練に当たっているか――

「……やはり、ここでしたか」
「あら、もう来たの? まりも」

 ――彼女が怒る要因を作り出した、張本人かだった。
 基地司令室。
 一番早く清掃が始められただけあって、この一室が数時間前まで放置されていたなどとは思えない清潔感に満たされている。逆に、もう掃除がすんだからか司令室という役割とは裏腹に、この部屋には彼女しか、香月夕呼しか居なかった。

「何故ここに居られるのですか? たかだか一介の訓練兵の総戦技演習をご覧に地球を四半周するほどお暇な立場ではありませんよね?」
「そうね……バカンス、ってのはどう?」
「ふざけないで下さい……! 207Bの演習地を急遽ここに変更したのもあなたの仕業でしょう」
「一々怒らないでよ。第一、あたしはあなたの上官よ? そんな口利いていいのかしら?」
「くっ……」

 階級や役職を盾にされてはなす術もなく、まりもは口を閉ざした。

「冗談よ。あたしとあなたの仲じゃない。それに今は聞き耳立てるような奴も居ないんだから、もう少しぐらい砕けてもいいわよ」

 けらけらと笑う夕呼はいかにも楽しそうで、まりもは反対に不愉快そうだ。
 彼女らは知己の仲、とまではいわないものの旧知の関係だ。初めて会ったときからどことなく馬が合い――勿論意見が違う事も大分多かったが――、上下関係の壁が隔たるまではよくつるんだものだった。無論夕呼はざっくばらんと『立場なんてころころ変わるんだから、一々気にしなくていいわよ』と言っていたのだが、上官に無礼な口を利くのも居心地が悪く、ましてや教官になってからはもし誰かに見られては本格的にまずいので、滅多な事ではかつてのような関係を表にしようとはしていない。
 苦虫を噛み潰すような表情のまま、まりもは改めて部屋の中に誰も居ない事を確認し、夕呼を問いただす。

「なら、夕呼。なんであの子達をこんな場所にまで連れ出したのよ。そこまでする必要があるの? わざわざ時間と金をかけてまで、こんな僻地に連れ込むだけの必要が」
「……あるわよ。でも、今のあなたには教えられない」
「どうして!?」

思わず大声をあげてしまったまりもが自制するように口に手を当て、床を見下ろす。夕呼はまりもが自分の知るとおりの、しっかりとした理性を持っている人間である事を再確認したのち、小さく息を吸い込む。

「――これはね、世界に直で関わるような大きな話なのよ」
「……噂になってる、あなた主導の国連の計画って事……?」
「違うわ。でもね、今の私にはそれと同じぐらい重要な事があるの」
「それは、私には教えてはくれないのよね?」
「えぇ。残念ながら。文句があるなら偉くなっとくべきだったわね」

 自嘲気味にまりもは笑みを浮かべると、夕呼とはほどほどに離れた一席に腰を落ち着かせる。
……その表情はどこか寂しげで、それでいて自らを苛んでいるようにも見えた。
 香月夕呼は悪くない。神宮司まりもも悪くない。悪いのは二人の間にそびえる壁なのだ。もうかつてのような浮かれた日々は送れない。
 それを如実に感じながら、まりもは教え子達の無事を祈った。



 もうどれぐらい歩いたんだろう。
 確か今のルートだと、出発地点から目標までの総距離は80kmぐらいだろうか。平均的な行軍速度は小部隊なら1日80kmを越える事もあるが、山岳地帯でもある事や俺達がまだ未熟な訓練兵である事を考えれば一日20kmぐらいがいいとこだろう。
 歩き始めてから大体1時間前後。予定ではもう2kmを越えてるはずだ。
 最初は足手纏いとばかり思っていたアルも、順調に脚を運んでいる(まぁ、装備の大半は九郎に持たせているのだけど)。
 1歩脚を踏み出すたび、浅く積もった雪がザクザクと靴底に踏み鳴らされる感覚が伝わってくる。もし俺が昔みたいな学生の身分でここに遊びに来ていたなら、どれだけテンションが上がってただろうか。きっとはしゃぎまわって、雪合戦とか雪達磨とか作って、遊びつかれて倒れたりしたんだろうな。
 でも今の俺は訓練兵とはいえ国連軍に籍を置く身。遊び心を出すなんてことは許されないし、その気もない。もう雪なんてものは移動の邪魔ぐらいにしか考えられなかった。

「アル=アジフ、そちらは支障ない?」
「あぁ。装備は全て九郎に持たせておるのでな」

 一番の不安だったアル=アジフと俺達以外の207Bの皆がうまくやれるかどうかは、どうやら俺の杞憂で済んだみたいだ。あくまで憶測だけど、色々と無茶な出来事に直面したせいでいい具合に感覚が麻痺しかけてるのかもしれない。

「その分俺は大分辛いけどな!」

 俺の隣で、都合二人分の装備を背負わされた九郎が必死に雪を踏みしめながらがなる。

「九郎さん、あんまり大きな声出すと疲れちゃうよ?」
「ここで常識的な思考を!?」

 うむ。なんというか九郎に対する扱いも段々と酷くなってきている気もする。まぁめちゃくちゃ尊敬されっぱなしってのも居心地が悪いものだろうし、このぐらいの対応の方が楽でいいのかもしれないか。
 そんな掛け合いを経て、アルや九郎の独特……という特異なキャラクターのお陰か、出発した直後はあんなに張り詰めていた皆の表情も、どこかやわらいでいる気もする。だがそれでもやっぱり緊張が残っているものまた事実なわけで。ちょくちょくこっちに注意を向ける美琴とは対照的に、委員長なんて時折こっちの様子を気にするだけで、ずっと前を向いて歩いてる。まぁその姿勢の方が試験に臨むに相応しいんだけどな。
……ただ、あんま張り詰めてるといつか切れちまうぞ?
 少し脚を速めて、先頭をゆく委員長の隣へ。

「なぁ委員長、休憩とかとらないで大丈夫か?」
「大丈夫よ。それとも、もう疲れたの?」
「まさか。でも、5日間もあるんだ。頭からそんなトばしてると後々大変な事になるぜ?」
「5日間しかないのよ、私たちには! 5日後にまた後悔したくないの、だから、だから……」

 普段らしからぬ大声をあげるもんだから皆驚いてる。
 ……やっぱりだ。
 委員長は生真面目だから、前の総戦技演習の失敗を自分の責任だと思ってるんだろう。だからそれを気負いすぎてる。
 皆もきっとそれには気付いてるんだろう。でも、どうする事もできないんだと思う。『前の世界』でも感じたことけど、皆は責任感が強い分自分のミスで皆に負担がかかるのが怖いんだ。それどころか、口で何を言おうが自分が関わる問題は自分が悪いんだと心の中では苦しみ続けてる。

「……ごめんなさい。ちょっと熱くなりすぎたわ。でも、大丈夫。今度こそ皆で総戦技演習に受かるのよ」
「……なぁ、委員長。新参者の俺が言うのもなんだけど、焦りすぎじゃないのか? もっと気を楽にしていいんだぜ? 誰かがミスをしたら、皆でカバーしあう。それがチームってもんだろ?」
「でも、だからといってそれにかまけてミスを犯していいわけじゃない。特に指揮官の私はね。違う?」
「そりゃそうだけどよ……」

 うぅむ。『元の世界』でも『前の世界』でも頑固だとは思ってたけど……何もこんな時にまで……いや、こんな時だからこそ生来の頑固さが前にでてきちまうのか。

「ま、何かあったら皆を頼っていいんだぜ、隊長」
「……」

 委員長は相変わらずむすっとした表情のままで、苛立ちを紛らわすように脚を速めた。俺は追いかける事も出来ずに、その後についてゆく。
 こんなことしか言えない自分が悔しい。
 もしも俺がもっと委員長のことを知っていれば。
もしも俺がもっと人の心を知っていれば。
もしも俺がもっと頼りになる人間であれば。
 きっと『前の世界』でもあんなことにはならなっかたんだ。俺はもっと強くならなきゃならないんだ。衛士としても、人間としても。

「何辛気臭い顔してんだよ、武」
「九郎……」

 声の方向に顔を向ければ、いつの間にか九郎が俺の隣に戻っていた。

「お前委員長になんかアドバイスしてたみたいだけど、寧ろお前の方が張り詰めた面してるぜ?」
「あっ……」

 言われてみて、顔を触ってみれば確かに筋肉が強張っている。

「ごめん、九郎」
「別に謝んなくてもいいさ。つぅか何でアドバイスにいったお前の方が深刻そうな顔してるんだよ」
「う……」

確かにその通りだ。俺だって自分より重傷そうな奴に気を使われたって反応に困るだけだ。そりゃ委員長だって不機嫌にもなるよなぁ……。

「なんで元気出てないのかは知らねぇけどさ、何でも自分で抱え込むのは良くないぜ」
「……似たようなこと、今委員長に言ってきちゃったんだよな……」
「……あー。なんつーか、ご苦労様だな。でもアレだ、良かったら何でそんな辛気臭い面してるか教えてくれよ」

 少し考える。これってやっぱ言ったほうが良いのかな。その方がすっきりしそうだし……。

「アルには、言わないでくれよ?」
「おう、言わねぇ」

 ドン、と胸板を叩きながら答える九郎。頼もしそうだが、正直ここまで即決だとちょっと不安になるのは俺の気のせいか?
 ……まぁ、気のせいって事にしとこう。
 俺は雪山の冷たい空気を一口吸ってから、九郎に向き直る。

「……俺さ、『前の世界』では役立たずだったって言ったよな」
「あぁ。基地のトラック走らされると皆に2週ぐらい抜かれたんだろ」
「最初の方はな。それで俺地球の滅亡まで見てきたんだ。……そしたらさ、何だか無性に自分の無力さが悔しくって、また『この世界』に来たんだから自分に出来ることは全部やろうと思ったんだけど……」
「……んー。なんつうかさ、お前ちょっと高望みしすぎなんじゃねぇのか?」
「へっ?」
「いや、だってさ。お前は仲間が沢山居るのに、自分の力で物事を解決しようとしてねぇか? それじゃ駄目だろ。もっと皆に頼らなきゃよ」

 九郎の言いたい事は痛いほどよく分かる。
 だってそれは言葉こそ違うけど、俺が委員長に言いたかったことそのものだ。

「別にお前一人の力だけで世界が救えるわけじゃない。武がいて、武と一緒に戦ってくれる奴が居て、武を支えてくれる奴が居る。そうだろ? 俺だってそうだった」

つまるところ、俺は空回りしてたんだ。
 『元の世界』や『前の世界』で知った皆の人柄や情報を握って、自分には何でもできるって、自分なら皆に何かしてやれるって。
 でもそれは間違いなんだ。
 ついこの前それを気付かされたばっかなのに、また前が見えなくなってたんだ、俺は。
 皆がぴりぴりしてて、その空気を乗り越えてるって勘違いして、結局その空気に飲み込まれてて。
 あー。なんか凄い恥ずかしいな、俺。

「……じゃあさ、九郎。一つ頼んでいいか?」
「何だ?」
「悪いけど、人生の先輩として委員長のフォロー頼んだ」
「よしきた」

 正直ここは自分でやるべきなのかもしれない。
 でも、九郎に頼ってみるのも悪くないと思った。
 通常の倍の荷物のせいかそれ以外のせいか、一回りも二周りも大きく見える九郎は委員長に駆け寄り、二言三言会話を交わし始め――
 ごん。
 ――ここまで聞こえないこともない音をたてて殴られた。
そしてそのまま荷物の重さに引かれて、倒れてゆく。皆が何事かと目を丸くする中、俺は慌てて九郎のところまで駆け寄った。

「だ、大丈夫か九郎!」
「駄目……かも」
「よし、大丈夫だな。というかお前なに言ったんだ?」
「『あんまり怒ると肌が荒れるし、男がよりつかねぇぞ』って……」

 うむ。理解した。
 こいつは絶対女性の説得に向いてない。
 多分こいつは熱血大バトルとか男vs男の中でしか説得とかはできない奴なんだ。

「痴れ者め」

 いつの間にか後ろからのらりくらりと追いついたアルがそう呟くのが、何よりの証明でもあった。






[21053] BETA BANE #12 咆哮と眠れぬ夜
Name: アキ海苔◆e4b3ecb6 ID:aea193cc
Date: 2010/10/06 20:52
 吹雪く。吹雪く。吹雪く。
 暴力的なまでの風に乗った雪達は、その身の不自由と自由を一杯に表現するように、強く、激しく舞っていた。
 それは彼らの前に晒されたものを、生物無生物に関わらず凍てつかせ、引き摺り倒してゆく。
 ――だが、それに屈せぬものが居た。
 まるで略奪者のように乱舞する雪達をものともせず、自身こそがこの地の主であるとばかりに、威風堂々と吹雪きに立ち向かうものが。

 Wooooooooooooooooooooooooooooon!!

 高らかにそれは吼える。

 Wooooooooooooooooooooooooooooon!!

 雪たちを蹴散らし、そして彼の地に入り込んだ異物達の『におい』を感じながら。
 己こそが王だと。己こそが支配者であると。己こそが覇者であると。
 そう言わんばかりに。
 彼には物言う口はない。
 だが、何よりも雄弁に語る叫びがある。誰よりも屈強な肉体がある。何者をも恐れさせる瞳がある。
 寒さをものともせぬ毛皮を纏い、必殺の爪牙を持ち、不屈の筋肉を秘めた『彼』は――彼は――。



「あ゛ー。こりゃ死ねるわな」
「良かったな。こうも早く山荘が見つかって」

 山荘――というにはあまりにも侘しく、『山小屋』と形容するのが最も相応しい。そんな小さな建物の中に、彼らは居た。

「ジャケットもべちょべちょだよー」
「暖炉、点けますねー」

 少女6人と少年1人と青年1人。
 彼らは一様に肌に張り付くラバーのような半透明の奇妙な服装をしていた。だがそれより奇妙なのはそのような格好をしているにも関わらず、誰一人として強烈な寒さを訴えない事。外は猛烈に吹雪いており、いくら小屋の中とはいえ寒さが完全に和らぐわけでもない。
 そしてもう一つ。彼らは羞恥を見せない。
 誰とて裸同然の異性の姿を見れば恥らうし、見られれば尚の事だ。
 だのに彼らの中に恥ずかしがっているものは、わずかに1人。まだまだ未熟な体を隠すように腕を組み、窓の外を覗いている

「ふむ……山の天気は変わりやすいものだが――」

 顔立ちでも体つきでも、彼女が弱弱しい少女である事は一目瞭然。だが、それは間違いだ。彼女は悠久を生きる魔導書アル=アジフの精霊。その少女らしからぬ眼光を見れば、その事がいやというほど分かる。

「なんだ? イタクァでも居るってのか?」

 ひどく小さな声で囁きかけながら、魔導書の主たる大十字九郎が彼女に歩み寄る。その姿を見て、アルは不機嫌そうに眉根を寄せた。

「そのようなわけがあるまい。妾のイタクァの記述もそのままだ」

 返すアルの声も、勿論九郎にしか聞こえぬほど小さなもの。

「美琴、どうだ?」
「んー、天候が崩れかけてからは大分急いだお陰で、一応予定よりかは少し早いけど……でも2時間をきるぐらいだけだから、正直これからどんどん予定は遅れてっちゃうねー」
「そう……困ったわね……」

部屋の中央のぼろぼろの机で悲観的な話をしているのは、美琴と武と榊。どうやら位置確認や時間の把握を行っているようだ。

「多分、昨日と今日で歩いた距離は34,5kmぐらいだと思う。それに、ここ。今日行軍を初めて30分ぐらいで近くを通った崖はこの崖だと思うから、今僕らがいるのはこのマーカーの山小屋だね」
「早く吹雪が収まればいいんだけども……御剣、そっちはどう?」

 呼びかけられたのは端から見てもごちゃごちゃとした戸棚の中に上半身を突っ込んでいる冥夜。どうやら戸棚の中で使えそうなものがないか漁っているようで、榊の問いかけに対しては捜索を続けたまま答えた。

「取り敢えず合成牛肉の大和煮が6缶、合成サバミソが3缶。それに750mlのミネラルウォーターのペットボトルが12本。もう少し探せばあるかもしれぬのだが……」
「分かったわ」
「なぁ、委員長」

 溜息をつきながら床を見下ろす榊をなだめ、励ますように武はあえて場にそぐわぬ明るい声を出した。
 状況が状況だけに不機嫌をそのままに声に出しそうになるのをぐっとこらえ、榊も勤めて冷静に返す。

「何?」
「今日は、もう休もうぜ? この天気じゃもう今日は行軍は無理だろ? 時間ももう遅いし、それなら明日に備えてゆっくり休んだほうが良いと思うんだ」
「……私も、そう思う」

 決して武は無神経だったわけではない。それどころか彼女の心情はそれ相応に分かっていたつもりだった。
 だが彼の誤算は、前日に彼が彼女を怒らせていた事が、榊自身も無意識の内に彼女の中に澱の様に溜まっていた事と、自他共に認める犬猿の仲の彩峰慧が彼と同じ意見に立った事。
 そして――

「――そんな余裕あるわけないでしょッ!」

 ――彼女の中で、半年前の失敗がまるで錆のように硬くこびりついたままだった事。それも、誰もが予想していたものよりもずっと分厚く、強固に。
何も自分達の事を知らないくせに知った風な口を利く。
 彼女はつい昨日、武の発言をそう受け取って激昂した。
 そして、今日もだ。
 自分達に後がないのを知っていながら、それを念頭に入れてくれない。その場その場でしか物事を考えられない、後でどうにかなると思っている楽観主義者。
 榊本人としては、榊が武の人格をそう判断し、見習うべきだった背中を見下すのは、ある意味尤もなことだったのかもしれない。

「明日になっても吹雪が収まらなかったら、今日の残りの行程を後日消化しきれなかったら、もし下手に休んで緊張が切れたら、あなたはそれを考えて言ってるの!?」

 武とて何も考えていないわけではなかった。
 だが、下手に気を焦らし続けるのは体力を無為に消耗し、今後に響くという事はそれ以上に支障となると、『冷静』に考えていたのだ。
 だが榊の『冷静』は如何にして演習を突破するか――その一点にその殆どを持っていかれていたと評しても、間違ってはいなかった。
 天候不順は試練。疲労は気力で補える。立ち止まるのは惰弱。
 榊は自分を追い詰め、追い詰め、追い詰め尽くしていた。遂には隊全体を追い詰めかねない程に。

「天候が良くなり次第、行軍は再開するわ……! それまでは各員小屋の中の物資の探索、終わり次第即応態勢で待機、いいわね!」

 憎々しげに、吐き捨てるようにそう言い榊は奥の別館――ともとれる、打ち捨てられた廃墟のような、増設された一室――へと苛立たしげに脚を踏み鳴らしながら去ろうとする。
 武は慌てて榊の肩に手をかけ、止めようとし――また、怒らせた。

「――ッ、委員長! 待てって!」
「委員長なんかじゃない! 分隊長よ!」

 肩に置かれたその手を、打ち据えるように叩き落として、結局榊は扉をくぐり、叩きつけるように閉めた。
 あとに残された武は伸ばしたままの手を収める事もできず、ただ呆然と立ちつくしている。
 だが、それ以上に呆然としていたのは他の面子だった。

「……タケル、その……あまり落ち込むでない。榊も分隊長としての責を全うしようとしているだけなのだ」

 今しがたまで戸棚で食料や装備をかき集めていた冥夜が、気まずそうに武に声をかけた。
 冥夜も決して武が一方的に間違っていたわけではなく、それどころか武の意見も考慮すべき一つの選択である事をわかっていた。
 だからといって榊の独断を陰で糾弾して武をなだめられるほど、冥夜は姑息な正確をしていない。もしそうすればどれほど楽であったとしても。

「あぁ、冥夜。サンキューな。でも、あいつ……っていうより、皆にとってこの総戦技演習がそんだけ大事なのも事実だから。それを汲んでやれなかった俺の失敗だ」

 それきり皆は、言いようもないその場の空気を誤魔化すように榊に言われた通り自分の仕事を黙々とこなし続けた。



 Woooooooooooooooooooooon!

 彼は、その生涯に於いて無敗を誇っていた。
 はちきれんばかりの筋肉で満たされたその体躯は、爪を振るえば子供の胴体ほどもある木々を一撃の下に打ち砕く。
 たとえ俊敏さと軽快さ、そして連携力に優れた狼の集団を前にしても決して怯む事なく立ち向かい、そしてその悉くを圧倒してみせた。
 今ではこの山――いや、この島に彼を恐れぬものなどいない。
 たとえ武器をもった人間といえど彼の前には恐怖を禁じえない。

Wooooooooooooooooooooooooon!

 彼が一度咆哮を上げれば、全ての生命が畏怖と恐怖を同時に抱いたものだ。ただ一声叫べば鳥達は一目散に飛び上がり、鹿や狸は勿論、狼や彼の同族達も逃げ出す。
 だが彼が追えば獲物達は逃れようがなかった。
 彼の最も恐るべき点はその強壮無比な肉体でなく、理知さえ併せ持つその頭脳だった。
 地形を活かし、圧倒的な脚力で追い詰め、時には簡素な罠すら張る彼は、紛れもないその山の主だった。

 Woooooooooooooooooooooon!

 だが今、その彼を――一頭の異常な熊を冒涜するものがあった。
 彼の咆哮を以てしても、殺意と敵意を孕んだ雄叫びに物怖じしない不貞の輩が居たのだ。
 その輩には彼の声が届いているはずだ。“俺の山で何をしているのか”という声が。
 だがそれは引き返すでも留まるでもなく、ましてや彼を目指すでもなく、彷徨うように山中を練り歩く、そして見つけた命を殺し尽くす。
 それは彼にとっては挑戦であり、宣戦布告であった。
 故に彼は咆哮を続ける。
 自らの領地への侵攻を続ける『敵』へと。未だかつて出会ったことのない、自らを恐れぬ冒涜者へと。



 窓の外に見えたのは暗闇に踊る雪の粒だけだった。
 皆は小屋に着いた時に委員長が漁っていた別館で寝ているのに、俺――白銀武は眠る事も出来ずにただただ無駄に起きている。
 もうこの小屋に着いてから相当な時間が経つ。正確にはわからないが、そろそろ日付も変わる頃だろう。暖炉の火ももう消え、炭に宿る熱も冷めかけだ。
 だがそれでも結局吹雪は止まず、委員長の判断は皆を無駄に疲れさせるだけに終わり、この時間にもなれば寝る事を許された。
 これは結果論で言うならば分隊長たる榊の指揮は間違っていて、俺の進言が正しかったって事になる。あくまで結果論だけど。
 それでも皆は委員長に対してそれとなく不信感を抱き始めているもの事実だ。反対に『正しい』判断をした俺への信頼は深まっているけど、俺に信頼が集まったところでどうしようもない。委員長をお飾り分隊長に仕立て上げるなら話は別だけど。
 でも委員長の判断は間違ってたって言えるのか?
 もし吹雪が早々に収まって、だのに俺の言ったとおり皆で寝てたりしてたら時間がどれだけ無駄になったか分からない。
 皆もそれは考慮に入れてるはずだ。
 ……でもやっぱり、他人の意見を聞かずに独断した委員長は駄目なんだろうな。

「……白銀?」
「彩峰……」

 呼ばれてみて振り返れば、そこには別館の扉をくぐっている彩峰の姿があった。彩峰も眠れなかったのだろうか?
 ……いや。違うな、きっと何かの拍子に起きてしまったんだろう。彩峰の目はまだどこか眠たげで、閉じたがってるように見える。

「……なんで白銀は起きてるの?」
「俺は単純に眠れなくってさ……」

 ふと外を見れば一瞬、雲と雪の隙間に月の光が見えた気がした。だがそんなものは幻想だといわんばかりに吹雪は自由気ままに吹きすさぶばかり。
 もしかしたら彩峰を起こしたのも強風と、それに乗って壁に突っ込む雪からなる騒音なのかもしれない。彩峰はそんな取り留めない思索にふける俺の横で、就寝前に各々に配られたミネラルウォーターの水を2口、3口と口にしながら、唐突に呟きだした

「……白銀は、榊の判断をどう思う?」
「ん……俺?」

 そう言われても判断に困る。
 正直あれが本当に正しかったとは言えないけど、間違ってたって言うのもなんだか嫌な感じがする。
 俺は委員長の部下って体でここに居る。なら、それこそ何も考えない手足のように委員長の命令に従うのが軍隊としてあるべき姿なんだろうけど……それは違う。そんな気がしてならない。

「……白銀が榊の判断をどう思うのかは、私には分からない。でも、もし榊がこれ以上判断を誤り続けるのなら、私はもう榊には従うつもりはない」

 !

 おいおい、そりゃあまずいだろ!
 今しがた自分で軍隊としてあるべき姿云々とかそれは違うとかほざいたけど、それは確実に間違ってるし、そんなんじゃ絶対委員長がキれるに決まってる!

「無能な司令官の所為で、死ななくてもいい人間が死ぬ事はよくある。なら、その司令官の下に就かされた前線の人間は勝手に考えて、行動するぐらいの自由は与えられるべき。少なくとも、私はそう思ってる」
「いや、それはちょっと……」

 まずい。これはまずいって。
 委員長と彩峰の仲が悪いのはよくわかってるけど、ここまで来たらさすがにまずいだろ!
 もし彩峰が委員長の指示を耳に入れなくとも、今までは皆は委員長の命令に従おうとしてた。でも、あんな失敗を犯した直後じゃ、どう転ぶかも分からない。
 もしかしたら、本当にもしかしたらだけど、皆が彩峰みたいに独自行動主義に目覚めたり……。
 今の状況で、それがどんなに危険な事か俺にでも分かる。
雪山だぞ?
 下手したらちょっと寝転んだつもりが永眠になりかねない場所だぞ?
 そんな中で内部分裂なんて起こした日には、総戦技演習突破どころか生命の限界突破であの世逝きか、衛士を辞めるべきってぐらいの特大の落第点を喰らう事だろう。
 どちらにせよ、空中分解を起こして試験に落ちた日には、上から解隊指令がおりてきても不思議じゃない。……というか皆の性格を考えれば、そんな醜態を晒した日には自分たち自身で自分たちを責めて、自己崩壊する事間違いなしだ。
 歴史が――未来が変わるってのも大きいけど、それ以前の問題だぞ、これは。
 そうにかしなければ! でも俺にどうにかできるのか?
 ほんの少し前に委員長の説得に失敗した俺に、彩峰を押さえる事なんてできるのか?
 ――でも、やらなくちゃ駄目なんだ。今怖がってやらないでいたら、あとでもっと恐ろしい目にあうのは分かってるんだ。なら、やるしかないだろ。

「……なぁ彩峰。お前、委員長のこと嫌いなのか?」
「個人的に、好きじゃない。いつも自分が偉いと思って、自分の考えが正しいと思い込んで行動するから」

 前者はともかく、後者は確かに委員長の悪い癖だ。
 一度こうだと決めたらてこでも動かないし、計画立てて行動して、その計画に則らないことは基本的に認めないって所は確かにある。

「そうだな。自分だけで話を進めたりする所とか、あるのは駄目だよな。じゃあ逆にお前は自分のこと、好きか? 寧ろどう思ってる?」
「え……?」
「だーかーら、自分で自分をどう思ってるかって話だよ」
「……それは……」

 顔を伏せるようにして顎に手を当てて、うむと考える彩峰。
 4,5秒も黙りこくったかと思っていたら、急に顔をあげてきた。

「結構嫌な奴だと思う。命令違反もするし、個人プレーも多い。コミュニケーションが下手」
「結構ずたぼろに言うな……なんか褒める場所ないのかよ?」
「……胸?」
「よし分かった、何も聞いてないぞ俺は」
「白銀のいけず」

 しかし……思ってた以上に自分を冷静に見ているみたいだ。普段が普段だから、ちょっと驚いたな。
 というかそれだけ冷静に物事を見られるならどうして委員長と仲良くする方法とか考えないんだ……?

「じゃあさ、俺から見た彩峰だけど、確かに個人プレーとかは多いけど、その場その場での柔軟性と判断力は群を抜いてると思う。それと運動神経が彩峰の長所かな」
「それで、何が言いたいの?」

 じとり、という効果音がついてきそうな視線でこっちを見てくる彩峰。
 持ち前の無表情もあいまって、これはこれで相当心臓に悪い。この顔の前では、企みも何もかも見透かされている気がしてならないのは、気のせいだろうか。
 普通にこちらの考えてる事なんて手に取るように分かってたりしそうで少し怖い。

「何ていうかさ、彩峰は短所よりも長所の方が多いんだよ。それは委員長も同じで、二人とも絶対無能なんかじゃないんだ」
「それは私もよく知ってる。落ち着いてる榊は良い判断力と計画性を持ってる」
「だろ? だけど今委員長は大分焦ってて周りが見えてないだけなんだ。もしこれで皆があいつから離れていったら、あいつはますます焦りだしちまう。だからさ、少しだけ待ってみようぜ。あいつが落ち着いて物事を考えられるようになるのを」

 さすがに彩峰も即断はしてくれない。俺が説得が下手なのは正直否めないけど……。
 もしこれで『嫌だ』なんて言われたら、お手上げだな。
 ……その時は、彩峰か委員長か。どっちかを切るぐらいの覚悟をしなけりゃだ。俺にそんな権限も権利もない。でもそれが本当に必要な判断なら、俺はそれをしなくちゃならないんだと思う。
 また俺は周りが見えてないのかもしれない。それでも、もしその時がきたら……俺は本当に、選べるのか?

「……どうかな、彩峰。俺もなるべく委員長が早く落ち着くように頑張ってはみるからさ」

 つい催促するように聞いてしまう。俺もやっぱり凄く焦ってるんだろうな。
 彩峰はこちらの表情を伺うように一瞥してから、少しばかり躊躇いがちに答えた。

「……白銀がそこまで言うなら、いいよ」
「本当か!?」

 時間も考えずに大声で、諸手をあげながら飛び上がりかけてしまいそうな自分を抑えながら、小さく拳を握り締める。
 『前の世界』では二人の仲を温めるのにどれだけ時間が掛かったかを考えると、前途は洋々って奴か? ともかく前よりずっと早く歩み寄らせる事ができたんだ、このまま少しでも二人の仲が改善されれば、大きな時間短縮になる筈。

「でもね、白銀」
「ん?」

 大喜びする俺を尻目に、彩峰がいつもどおり――いや寧ろ少し沈んでいるぐらいの声で俺に語りかけた。
 俺は若干その声に嫌な予感を感じながらも、笑みを浮かべたままの顔で彩峰の方を向くと――声以上に沈んだ、というより冷えた彩峰の表情があった。

「……もし白銀がいくら努力しても榊が間違った判断を続けるなら、私は容赦なく榊を追いやるつもりだから」
「――ッ!」

 前途洋々?
 間違いなくそれは間違いだった。感極まりかけていた俺にそんな思いを抱かせるほど、彩峰の目は本気だった。
 本当に委員長が駄目なら、多分彩峰はそれこそどんな手を講じてでも委員長から分隊長としての地位や権限を奪い取るだろう。もし委員長が役立たずの暴君であり続けるなら、それが正しい判断なのかもしれない。
 ……でも、総戦技演習の結果はどうあれ、その後に――もしくは総戦技演習の最中に――この部隊はどうなってしまうのだろう?
 俺が彩峰を引きとめようとした時には、もう彼女はとっくに別館の方に戻っていた。結局彩峰は何をしに来たんだろう? 本当にたまたま目が覚めてしまって、水を飲みに来ただけなのか?

Woo……o…………ooo…n……!

 ふと窓の外で吹雪と風の織り成す音とはまた違う、咆哮じみた異音が流れているのが聞こえた気がした。何かが雪景色の向こうで吼えているのだろうか?
俺に一抹どころか二抹、三抹の不安を抱かせながら、吹雪の夜は尚も深まってゆくのだった。



 同刻。
 彩峰が通常装備に含まれていた寝袋から抜け出すのを、榊は音と気配で感じていた。
 白銀武が眠れぬ夜を過ごしているように、榊千鶴もまた眠れずに居たのだ。それはただ単純に小屋についてすぐのあの件から気が立ったままというのもあるが、それ以上に彼女の中で内なる声ともいうべきものが彼女を苛み続けている事が、その最たる理由だった。

『何故あのとき白銀の意見を受けつけなかったのよ』
『私<<あなた>>が失敗すれば、皆に迷惑をかけるって事をまだ理解してないのかしら』
『あーあ、駄目な奴。それで分隊長気取りで命令命令の繰り返し……』
『分隊長、辞めた方が皆の為になるんじゃないの?』

 幾度も幾度も、まるで反響する音のように。それでいて同じ言葉は出ず、様々な語句を用いて彼女の精神を削り取るように何度も何度も繰り返される。それに抗うべく自分の正しさを主張しようにも、自らの正当性を示すものがどうしても見つからなかった。必死になって考えても浮かんでくるのは恥じるべき行いの数々のみ。本当は見つかるはずのものも見つからずに、ただ声は繰り返されるのだ。

『きっと皆も失望してるでしょうね、こんな体じゃ』
『そもそも誰かが私<<あなた>>に望みを託したのかしら?』
『父親に反発して軍人になって、結果は出たの?』
『半年前に失敗したのは、誰の所為でしょうね……』
『加えて、男女の差はあるかもしれないけど、入ってきたばかりの白銀と大十字に劣っているだなんて……』

 普段から自分の選択が正解だったのかと悩む事はよくあった。
 教本ならば解法も解答も載っていたから、自分の正しさを信じる事ができたが、現実は違う。自分の出した答えを褒める人も居れば、責める人も居た。そんな時は夜ベッドに入ると決まってこの声が聞こえてきたのだ。初めは自分によりよい選択ができたのではといういくらかポジティヴな、高みを目指した思考だった。それが今ではただ自分の失敗をひたすら挙げ連ねてはなじり続けるだけの悪夢めいたループになってしまった。

『どうせ誰も期待なんてしてないんだから、いっそ他の人に任せてしまえば?』
『白銀は頭脳の方も大分優秀だから、丁度いいと思うわ』
『彩峰だって私<<あなた>>さえ居なければもっと自由に振舞って、成果を出せるでしょうね』
『結局私<<あなた>>の存在価値って、あるのかしら?』
『総理大臣の娘なんだから、いっそ政略結婚でもしてた方が楽だし、人の為になったんじゃないの』

 ――いつのまにか疲れて寝てしまえば忘れられる。
――このまま耐え続けて朝が来れば全部消える。
 それだけを頼りに今晩も乗り切れればどんなに喜ばしいことだっただろうか。だが非情にも今晩の声は、悪夢はとびきりの大声でわめきたて、彼女の心に一際大きな波風を立ててくるのだ。
 眠る事も耐える事も許さぬとばかりに。ジグジグと、彼女の内面を抉ってゆく。
 ジグジグジグジグジグジグジグジグジグジグジグジグジグジグ……

「~~~?」

 声が聞こえた気がした。
 だがそれはやはり気のせいなのだろう。そうでなければ白銀と彩峰の会話が漏れてきたか。

『どうせ私<<あなた>>の判断ミスの事を非難して、今後も従うかどうかを議論しているに違いないわ』

 榊はもう半ば自分すら諦めていたのかもしれない。あたかも画面の中で自分が動かしているキャラクターを見捨てるように、無能な自分を、無益な自分を見限りかけていたのかも。

「~~き? おい」

『やっぱり誰かに指揮権を委ねるべきよ!』
『委ねた相手が成功すれば、あなたの人選。失敗すれば問題が大きすぎたって事にできるのよ?』
『楽でしょうね、何もかもを放り出ししたら……』

「榊、聞いておるのか?」

 声を寸断するように。有象無象を断ち切るように。声は、やはり聞こえていたのだ。寝ている者達を起こさぬように配慮しているのかそれは小さい声で、それでいてよく通る声だった。
 声の主は――彼女の横で寝ていたアル=アジフ。

「汝もまだ起きておるのだろう?」
「……何か用かしら? ないのなら、寝たほうがいいわよ」
「そういう汝が一番寝付けなそうなのでな」

 榊自身がアルに背を向ける格好――正確には、壁に一番榊が壁を睨みつける形――で横になっている為、彼女からアルの表情を読み取る事はかなわなかった。
 だが榊はアルの方を向く気にもなれず、そのままの体勢でアルとの会話に臨んだ。

「汝は悩みを抱えておるな? それも、汝自身を押しつぶすほどに大きく、重く、そして逃れ得ない悩みを」

榊としては眠れぬわけのど真ん中を一撃で暴きだされ、穿たれたようなもので、とてもではないが即答できるものでもなかった。その上に、人はどうしても図星を挙げられると素直にはなれなく、榊もまたそうなのだ。

「……あなたに、一体何が分かるのよ」

ひねり出すようにして零れ落ちた声はアルの声よりも更に一段小さい声だったが、その声には怨嗟に程近い感情が含まれていた。

「誰も彼もが私の事を理解してるみたいな口ぶりをして、丸め込もうとしている事ぐらい私だって分かってるのよ……! 悩み? えぇあるわよ。こんな状況でも悩み一つ持たないような奴が、居るって言うの?」

 その言葉は彼女自身の心からのものなのだろうか。それはあたかもつい今しがたまで彼女を苛んでいた内なる声のようでもあった。ただ己の内に溜まった澱を吐き出して、ずるずると何もかもを巻き込みながら深みへと誘うような声。今の榊の声にはそれに加えてその内面からの声に晒され続けたお陰で、むき出しになりつつあった常ならざる攻撃性も含まれて居る。

「第一この部隊が本当に合格させてもらえると思ってるの? 私達は特別な人たちの子女で、前線に出て死ぬ事なんかないように扱われてるのに? 皆もどうせそれを分かってるのよ。でも私は、それでも皆と一緒に受かれるように努力してきたじゃない。その私の何が駄目なのよ? ……~~、~>>%6=―!……~~……」

 アル=アジフは何も応えなかった。ただ超然とした態度で榊がブチ撒ける言の葉を互いの背中越しに受け止め続けた。たとえ榊がその中で謂れのない誹謗中傷や被害妄想を持ち出しても、アルの姿勢が変わる事はなく、榊が溜めてしまったものを吐き出し終えるのを待っていた。
 そして5分近くをかけ、ようやく彼女の言が止まる。

「……私って、間違ってるかしら?」

 自嘲するような笑みを浮かべながら、榊は壁に向けて最後の一言を搾り出した。
 アルはその問いに答える事もなく、くるりと体を反転させ、榊の背を見つめる。

「……のう、榊。悪いがつまらぬ話を聞いてはくれないか?」

 5分前の彼女ならば、すぐに怒りだしていたかもしれない。『私の質問をはぐらかすな』、と。
 だが今の榊は全てを出し切った事からの、奇妙でささやかな満足感と開放感があり、今まで一方的に語り続けたことへの罪悪感も浮かびだしていて、アルの話を聞いても構わない――寧ろ聞くべきだというような思考が生まれつつあった。

「……構わないわ」
「そうか。……昔、とある者が居た。その者は己が父に託された遺志と目的の為、戦い続けようと決めたのだ」

 アル=アジフは滔々と語りだす。
――どうしてだろう。
まだアルのいう“話”は始まったばかりなのに、その語り口はどこか空虚さを孕んでいて、胸の内の何かを駆り立てるような不可思議な雰囲気を持っていると、榊は感じた。

「その在り様を否定する者も、肯定する者も大勢居た。特にその者の賛同者は、その者と共に戦ってくれさえしたものだ。だが、彼女が目的を達成する為には、その協力者達の正気と魂、そして命すらをも削らせる必要があったのだ。戦いの旅路を作るのは彼らの屍、道の先にあるのは虚ろな闘争。その者は、もう自分は滅びても構わないとすら思ったものだ」

 榊は思う。
 ――それは悲劇に他ならない物語だと。
 だがアルは決してそこに哀しげな色を含ませようとはしなかった。まるで無機質に綴られた史実を読み上げるように、あくまで冷静に、淡々と言葉を紡ぐ。

「そして、ある時その者はまた協力者を得、そして戦った。戦い、そしてその協力者の為に滅びを選んだ。その時その者を包んだのは死の虚無でも、苦難からの解放でもない。非難だ。道の一部と成り果てたかつての協力者達からの、無限の非難。『何故道半ばに脚を止めるのか』『私たちを犠牲にしてえおきながら、勝手に滅びる事など許されない』とな。一度は屈しかけもしよう。……だが、ふと気付いたのだ。その死者達は決してその者を責めているわけではなかったのだ。その者が再び立ちあがれるよう、檄を飛ばしているのだとな……」

 そこまで語り終え、アルはふぅと一息ついた。
 榊はその話を自分の中で噛み締め、反芻するように目を瞑って考えていた。

「……誰とて、悩む時はある。だがその時一番悩んでいる者が、決して一番辛い者というわけではない」
「……なら、私にどうしろっていうのよ。判断は失敗するし、信頼はなくなるし、どうしようもないじゃない」

 榊の声に、微かに涙の色がこもる。
 淀みきって溜まっていた澱は、彼女の悲観を抑える蓋の役目をなしていたのかもしれない。最早その重みはなくなり、溢れる感情は榊自身の――たかだか10代後半の少女の――自制心によってのみ抑えつけられている。どれ程強くあろうとしても、どれだけ強くあっても、榊千鶴という一少女の精神は華奢なのだ。今まで軍隊の重圧に、滅亡の恐怖に、日々の呵責にこれまで耐えてきた事のほうがおかしいぐらいに。

「ならば、全て任せてしまえ」

 積み重なった淀みの壁を解き放ったアルが口にしたのは、奇しくもその淀みそのものがのたまっていた文言と変わりないものだった。
 ――そうか。私は、楽になってもいいんだな。
 榊がそう思ってしまうほどに、それは今の彼女にとって甘美な囁きだったのだろう。
……だが、違う。
アル=アジフはそんな甘い人となりをしていない。そんな堕落を許すほど、彼女は残酷ではない。

「部下を信じ、その者に任せるのだ。上手くゆけば共に成功を笑えば良い。そうでなければ失敗を共に笑って、汝が次善策を打ち出せば良い。それがリーダーというものだ」

 何もかもが変わってゆく気がする。初めて眼鏡をかけてみた時、ぼやけた視界にすっきりとした線が引かれたように。

「この2日、汝を見てきた。汝は誰かを信ずるべきだ。さすれば、おのずと誰かからも信頼を得よう」

 あるべき指揮官の姿を書いた本にはいくらでも出会い、読んできた。その中には様々な種類の理想像が示されており、アルと同じような考え方はいくらでも載っていた。学んできたつもりだったのに。倣ってきたつもりだったのに。

「さすれば、人は脆くはなくなる。いくらでも強くなれる」

 アル=アジフというが同じ事を言っただけなのに、ひどく違って聞こえる。大十字や白銀が自分を宥めに来た時にはあれほど昂ぶっていた苛立ちが、まるで嘘のように引いていた。それは単にアルに全てを吐き出したからかもしれない。
 だけど、それをさせたのはアルという個人の性質だった。姿形は一介の少女ながら、その精神性にはまるで海のような広大さと、深淵さがあったから。少なくとも、榊は無意識にそう感じた。
だから、全てを吐き出せた。
吐き出して、その空きに色々なものが雪崩れこんできた。

「……榊、悪いがこちらに顔を向けてはくれぬか?」

 若干の気恥ずかしさを感じながら、榊は言われたとおりにアルに振り向く。

「うむ……良い顔だ」

 夜の暗がりと、眼鏡を外した視界の悪さで榊には何も見えなかった。
 だが、それでもきっとアルは笑ってくれていると分かった。



 Wo……o……oo…………n!

 武と彩峰の、榊とアルの話が終わり、白銀を除く207Bは眠りに就いた。
 結局、白銀も眠れなくとも寝袋に入っていたほうがマシだという結論に至り、皆と同じ部屋で寝ている。
 ――委員長もちゃんと眠れてるみたいだし大丈夫かな。
 彩峰が武との話を終えた時には、榊達の話も済んでいたようで気まずいかち合いかたはせずに済んだのも僥倖だったのだろう。
 しかし、憂いはまだ消えていない。
 武はどうしても寝れないでいた。彩峰の不穏な言葉もさることながら、あの咆哮めいたものがどうしても耳から離れない。何故かは分からない。だが、あれがただ威嚇や敵意を示しているわけではないのかもしれない

…………o……ooo…on……

 白銀武の眠れぬ夜はそうは続かなかった。午前3時を越える頃には、さすがにまぶたも重くなり、夢の世界にうつりゆく事もできた。
 だが、その中でも叫びは止まない。

Woooooooooooooooooooooooon!!





[21053] BETA BANE #13 Fight or Flight
Name: アキ海苔◆e4b3ecb6 ID:aea193cc
Date: 2010/10/25 19:22
「ふわぁぁ……」

 まばゆいほどの銀景色。あれほど強かった吹雪も一晩明けるとまるで何事もなかったかのようで、今は太陽が燦々と大地を照らし、視界一杯の雪からの照り返しが大分眩しい。
 その優美で爽快な景色の中で、白銀武は大あくびをついていた。
 時刻は9時を少し回ったほど。あくびをするには別に疑問もないような時間だが、彼が軍人であり且つ軍隊生活に慣れている事を考えればかなり珍しい事だ。

「ちょっと白銀、みっともないわよ」
「悪い、昨日ちょっと中々寝付けなくて……」

 早速、分隊長の榊から叱責を受ける。
 だが榊の顔や口調も、昨日までのような緊張感と焦燥感に駆られて無為に厳しくあたるようなものではなくなり、今は剣呑さは微塵もなくただ注意すべき事を注意する、まさに学級委員長のような雰囲気だ。
 それを証明するように、今朝方彼女は出発の前、皆に対して今までの自身の態度について謝罪し、これからは改めると言って頭を下げて見せた。当然皆が面食らう中で、彩峰は最も驚いた様子ながらも、いつもの通りの皮肉を垂れ、榊はそれに笑顔を崩して怒気を表に出す。いつも通りの――まるで総戦技演習に入る前、いや寧ろ武が『元の世界』で過ごしてきた『日常』のようなある種ほほえましくもある光景だった。
 お陰で隊全体の雰囲気も和やかになり、無駄にぴりぴりとした空気はもう見られない。嫌な圧迫と重圧もなくなり、個々人の気分も良くなったからか自然と行軍速度も上昇している。病は気からとはよくいったもので、それは良い意味にも転化できるのかもしれない。
 このままあと1日も歩いていれば、すぐにで昨日までの遅れは優に取り戻せるだろう。もしその後もペースが持続できたなら、予定以下の時間で雪中行軍を済ませる事も有り得る。そうなれば、いかに彼女ら207Bの合格ラインが通常より高めに設定されていたとしても、不合格の烙印は押されずにすむ筈だ。
 そんな期待もあり、体力消費を抑えるために速度を上げすぎないように留意しながらも足は自然と速まってしまう。だがそれでも、精神には気力が漲ってきたからか疲れはまだまだ見えてこない。
 先頭を行く九郎の足元で、じゃくりじゃくりと融けかけの新雪が踏みしめられて固められてゆく。そしてその後を通れば次の者はより楽に道程を進め、更にその次の者はもっと楽になる。
 当初は榊が先行していたのだが、今日からは素直に体力のある九郎と武が先頭役を任されている(尤も武の方は寝不足の所為で完調とは言えず、専ら九郎が1番、武は2番の状態だ)。
 まるで昨日までの事が嘘に思えるほど、今の207Bは順調だ。ただ一つを除いて……。

………………o……o……

 地鳴りのような、遠雷のような低く轟く異音。いや、最早異音とは言うまい。その正体は、もう8人全員の知るところとなってしまっているのだ。

「まだ遠いみたいですし、大丈夫ですよね?」
「多分大丈夫でしょ~」

 珠瀬がひきつった笑顔を無理に浮かべながら、前を歩いていた美琴に問い、美琴は無邪気な笑顔でそれに答えた。正体が知れているからこそ恐ろしいものもある。今回はその典型とでもいうべきものだった。今朝方、出発した時からその音は微かなものながら山びこによって何度も反響を繰り返しつつ聞こえており、皆でそれを何かしら悪い予兆――例えば昨晩の積雪による雪崩――ではないかと勘ぐったものの、美琴は実にあっさりとそれ声と、熊の鳴き声だと断定した。
 思えばここは南半球に位置する島なのだから、季節は夏なのだ。生息してさえいれば熊が活動していてもなんら不思議はない。
 だが野生の個体であれ、野生化した個体であれ、熊が恐ろしい存在であるのもまた事実。たとえ向こうが1頭だけだったとしても、真っ当に戦えるものでもない。特にその咆哮が敵意や示威を表すもので、その熊は相当気が立っていると美琴が言ってしまってからは、心中に一抹の不安すら覚えなかった者は居なかった。珠瀬に至っては掠れた咆哮が聞こえるたびに美琴や手近な人に大丈夫かと尋ねる始末である。

「ほら、大丈夫だってたま! 熊だって無闇に人に寄ってきたりしないさ、なぁ美琴?」

 そんな珠瀬を心配してか、明るい声で武もやはり美琴に話を振る。その真意は、勿論珠瀬の不安、ひいては隊全体の不安を少しでも取り除けたらというものだ。正体は熊の雄叫び説を挙げたのも、山や動植物に最も深い造詣を持つのも美琴である。ならばその本人の口からひとまず安全の一言が出れば、珠瀬も物怖じする事はなくなるだろう、と武は踏んだのだ。現に、武の美琴に遣る視線には『空気を読めよ?』という意思がぎっちりと詰まっていたのだが……

「う~ん。でもどっちかって言うとボク達が熊のテリトリーを侵してるんだと思うから……いつ熊が出てもおかしくはないよ」
「ひっ……」

 ……鎧衣美琴には通じなかった。
 武の目論見は儚くも崩れ落ち、かえって珠瀬を刺激した結果に終わったようだ。

「で、でも大丈夫よ珠瀬。イザとなったら大十字だって白銀だって居るんだし……」
「そうそう、どうしてもヤバかったら発信機で位置を知らせればすぐにでも救助が来てくれるぜ!」

 慌てて榊と九郎がフォローに入るのだが、正直フォローになっているかどうかと言われたら、それは果てしなく微妙だった。

「無理だよ、2人とも! 動物が本気になったら、人間は中型犬にだって勝てないんだよ!」

 そしてとどめとばかりに美琴が致命的な発言をしてしまう。突き刺さらんばかりの視線の数々が彼女に向けて放たれているが、それの意味するところを察する彼女ではない。勿論、大分恐ろしい事を聞いてしまった珠瀬は若干涙眼だ。
 確かに美琴の言葉は正しいだろう。軍人としての鍛錬を積んだ人間であっても、武器がナイフ程度しかなければ犬にすら負けるのだ。子熊ならいざ知らず、成長した大人の熊に勝てたならば、それはもう人間ではない。人外の何かだ。

「……何と言うか……また嫌な雲行きになってきたな」

 自分を含む207Bの無様を見てか、呆れ顔でアルがぼやく。

「え? そう?」

 アルの漏らした言葉を聞き入れた美琴が空を仰ぎ見れば、そこには昨日とは大違いの晴れ渡った青空があった。そこには雲一つなく――というのは些かに誇張があるが、それでも晴天と呼んで差し支えのないもの。怪しげな雲の動きなどどこにも見られはしない。
 そう。アルの言う『怪しい雲行き』は気象ではない。
 それに気付いていないのは、天気の崩れる予兆がないかどうか幾度も確かめる美琴だけだったのはいうまでもなかった。





 Wooooooooooooooooooooooooooooooon!!

晴天は『彼』が待ち望むものでもあった。
 いかに強靭な『彼』とて吹雪の中を歩き回るのは骨が折れることで、進んでしたいとは思わない。
 だが、今その雪と風の重厚なカーテンは取り払われた。
 今こそ自らの領地に入り込んだ異物を駆逐せんと、『彼』は力強く歩き出す。
 獲物とも、敵とも知れぬその存在のにおいを逃さぬよう、熊らしからぬ鋭敏な嗅覚と聴覚でその位置を探りながら。
 そして、気がついた。
 そのにおいが今までに出会った何者とも異なるにおいだと言う事に。

 狐? 否。
 狼? 否。
 熊? 否。
 大鷲? 否。
 毒蛇? 否。
 人間? 否。

 ――ならこれは何のにおいだ?
 どこか懐かしいような、それでいて胸糞が悪くなるようなこの奇妙なにおい。
 これは――――――――自分のにおいだ。
 自分のにおいのとある一部分を煮詰めて、それを腐りきらせたような異様なにおい。

 Woooooooooooooooooooooooooooon!!

 それは怒りや憎しみを込めた叫びではなかった。あるいは自分と同等の存在に出会えた喜びを謳う歓喜の咆哮であったのかもしれないし、そんな不可思議に対する哄笑であったのかもしれない。
 ぺろりと真っ赤な舌が這いずり回る蛇のように、口腔から這い出て、口の周りを舐める。それはまるで馳走を目の前にした大食漢のようでもあり――





「じゃあ今日はそろそろこの辺で止めとくわよー」

 歩きに歩いた。歩いて歩いて、そしてようやく今日の分の行軍が終わったらしい。時間を見れば、もう6時近い。確かに空も夕暮れの青ともオレンジともつかない微妙な色に染まってる。
 さすがに4日目ともなると、柔らかなベッドが恋しくなるもんで……つっても、俺がそんなベッドにありついたのは『こっちの世界』に来てからなんだけど。
 つうか俺の自宅兼事務所にあった、下手したら寝袋よりも寝心地の悪かったあれは一体何だったんだ? あんなものに寝ていた俺はそれだけ不幸だったんだよ。

「美琴、今日歩いたのってどのぐらいだ」

 食事の用意の為に携帯型のガスバーナーを設置するタケルが、俺や他の面子と一緒に野営の準備をしてるミコトに尋ねると、「ん~大体20kmを少し下回るぐらいかな?」と答えが返ってくる。
 今日はあの声が聞こえなかったが、それでも脅威は脅威。皆の志気が上がってるから、歩くスピードは多少なりとも上がってるけど、警戒を強めてるのはやっぱり時間をくう原因になってるみたいだ。
 それでも昨日今日は中々順調に歩を進められたようで、これなら一昨日の遅れも確実に何とかなる。現に残りの行程は5kmにも満たないものだけど、夜間行軍で雪中行軍なのはさすがにまずいということで今日の分が終わりになったぐらいだしな。
 ……と、そうそう。この残り5kmってのも中々重要っぽい。ちょっと前の委員長なら「残り5kmぐらい夜だろうがなんだろうが頑張りなさいよー!」ぐらいのことを言ってたかもしんないけど、一昨日から大分落ち着いてきてる。事実今日の行軍の終了を決定したのも委員長だしな。

「九郎、お前とアルの分出してくれ」
「ん、ああ。悪い悪い」

 ふと見ればタケルが全員からレトルトタイプの携帯食料のパックを集めていた。俺とアルの分で最後だったらしく、それを雪を溶かして作ったらしいお湯の中に放り込んでく。時は金なりの精神に基づくのか、1分ほどの加熱で食べられるようになる携帯食料のパックが湯の中を踊るのを見るのもこれで何度目だろう?
 普段食ってる食堂のおばちゃんの料理が上手すぎるからか、大分味気なく感じた飯だったけど、これと明日の朝ぐらいで終わりとなると何だか名残惜しいものがあるかもしれないなぁ……。

「あれ-? 大十字さん、ひょっとして名残惜しいなぁ、だなんて考えてるんじゃありませんか?」

 と、そんな俺の顔を覗き込むようにしてミキちゃんが尋ねてくる。見事に図星だ。どうやらミキちゃんはミコトとは正反対で周りを観察するのが得意なようだ。ただ、ちょっと他の人を気にかけすぎかもな。

「まぁ、ちょっとはな」
「案ずるな、大十字。一人前の衛士ともなればこのような食事が基本ともなるやもしれぬぞ」
「さすがにそれはちょっとなぁ……」
「ボクは断然京塚のおばちゃんが作るご飯の方がいいなー」

 やっぱりゴールが見えかけてる、ってだけあって今日の皆は何だか饒舌だ。委員長と彩峰も、直接的に向き合う事こそないけどそれでも今までと比べれば大分いい具合だし。
 ……それでも、まだしかめっ面をしてる奴も――

「皆、出来たから皿持ってきてくれー」

 一人鍋の様子を見てたタケルが声を張る。それを合図に皆自分のバッグからセラミック製の皿ともトレイともつかない――強いていうなら小学校の給食トレイみたいな――器を取り出す。
 晩飯のメニューはタケルが温めた合成カレーと合成米、それと前に山小屋で見つけた奴と元々持ち合わせてた奴、両方のカンヅメを幾つかだ。
 合成食の中でもカレーは結構イイ線をいってるから、最後の方の楽しみにとっておいただけあって皆心なしか嬉しそうだ。だけど、このカンヅメの合成ホウレン草は正直いただけない。こいつは最初の晩飯に食ったが、なんとも言えない味がした。もともとの合成ホウレン草が悪いのか、調理や保存過程が悪いのかはしれないが、食べなくてもいいなら食べたくない味をしてるのだ。
 ……カレーに混ぜればどうにかなる味になるか?

「なぁ、アル。どう思う? これカレーに混ぜても大丈夫だと思うか?」

 そんな他愛もないけどある意味深刻(?)な問題をふとアルにぶつけてみる。だけどアルは「……汝の好きにしろ」と面倒そうに小さく呟くとしかめっ面のまま自分の分の飯を口に運ぶばかり。
 ……そう。何故かはしれないけど今日の昼過ぎ頃からずっとアルはこんな調子なんだよな。まるで何かに気を取られっぱなしって感じだ。
 これ以上聞いても思うような回答は得られなそうだし、何より怒らせても厄介だからしょうがなく一人思索にふける。
 一気にかきこんで、それをカレーでごまかすか。
 はたまたカレーの中に直接ブチこんじまうか。
 あるいは我慢して素直に食べるか。
 そんな事を悩んでるうちに皆は自分の飯を半分以上食い終わっ――早ッ!
 ちょっと早すぎるだろ! 軍隊生活やってっとそんな早食いスキルが自然に学べるのか? 俺そんなに長い時間考え込んでないぞ?

「ん、どうした? 九郎食べないのか?」
「あ、いやいや、食う食う」

 しょうがない。先に合成ホウレン草のカンヅメを食うか……。

Woooooooooooooooooooooooooooooooooooooon!!

 俺が合成ホウレン草のカンヅメを口いっぱいに含んだ瞬間だった。ミコト曰く熊の、だけどそれ以上に凶暴で獰猛な叫びが辺り一帯に響き渡る!
それぞれがないよかマシとばかりに国連使用のナイフを手に取る一方で、「火を消して!」、と委員長が叫ぶよりも早くミコトが未だに点いたままのガスバーナーに雪をかけて消火。そのままコックを閉めてガスも止める。
よく野生動物は火を恐れるなんて言うけど、あれは嘘だ。動物は知らないものに対しては好奇心を持って近づいてしまう。火を恐れるのは、火で痛い目を見た――例えば山火事で死に掛けたとか――経験のある奴ぐらいだ。
 夕暮れはもうほとんど沈み、宵闇が辺りを満たす。

 ――ゴゥ。

 小さく、だがそれでも十分な猛々しさを孕む音が流れた。何の音だ?
 『動物が本気になったら、人間は中型犬にだって勝てない』。ミコトの言葉が嫌な感じに頭の中で木霊する。

「皆、視界はとれてる?」

 囁くような声で委員長が薄暗い闇の中に言葉を吐く。緊張感が暗順応を早めたのか、それとも下が白雪なせいで光が反射されているのか、薄っすらとだが視界はとれ始めている。皆も同じ様な状態らしくそれぞれが委員長に返事をよこす中、

――ゴゥ。

 まただ。またこの音だ。
 この音には覚えがある気がする。ごく最近に聞いた音だ。どこで聞いた、何で聞いた、どう聞いた?

「誰か、声の聞こえた方向分かる?」
「榊から見て7時方向、山頂の方」

 委員長の問いかけに彩峰がすかさず答えた。確かに俺もその方向であってると思う。再確認の為にそっちに意識を寄せ……る……と…………?

 ――気配がした。

 熊の気配なんて、そんなもんじゃない。
 圧倒的で、暴虐的で、衝動的なこの全身を貫き、嘗め回すような醜悪な感覚。

「アル!!!」
「気付いておるわ!!!」

 神経をより集中させればもっと鮮明にその気配が捉えられた。如何な動物を模していようが、それは間違いなくこの世から外れた醜悪極まりない存在。
 外道にして外法、いや外世と言ってもいいかもしれない。
                                          魔だ
 旧支配者。外なる神々。奉仕種族。信奉者。異世界存在。
 何かは知らない。知ってはならない領域に住まう者達。何故こんな所にいるのかは分からない。それでも確実に、ここにいる。

「どうしたの、大十字!」
「皆、逃げろ! 斜面の方向に一気に駆け抜けろ! ここは俺が持たせるから!」

 そう言う間にもその世界の異物がゆっくりゆっくりと歩みを進めてくるのがつぶさに分かった。分かってしまった。
 魔というものはその認知の外にあっても、人に影響を与えるもので皆もそれを魔とは分かっていないはずなのに嫌な汗を垂れ流し、その存在の方向に恐怖を漏らしている。

「でも、そうしたらあなたは!」

 まだ理性が残っているのか、誰一人として逃げ出そうとはしない。だけどこのまま放っておけば、精神の基盤ごとその理性を粉々に打ち砕かれるのは確実だ。現に彼女らの脳の最奥部に刻み込まれた意識が、彼女らの歯の根を震わせてる。

「全員助かるのが一番だけど、誰かが殿をやんなきゃならねぇんだ、なら一番強い俺がやる!」
「そんな……無茶よ!」
「無茶でもなんでもやる。大丈夫だ、ちょっと時間稼いだらすぐに俺もズラかるから、だから全員さっさと逃げろ、あとで必ず合流する!」

 今にも叫びだして飛び出したくなる衝動を必死に押さえ込みながら、無理矢理に笑みを浮かべる。強がりなのはもろにバレてるだろうけど、ヤバそうな面貼り付けてるよか幾分マシだろ。

「演習、受かんなきゃヤバいんだろ?」
「……くっ……! じゃあ皆、先に言っておくわね。私は、こんな演習どうでもいい!」
「……えっ……?」

 何言ってんだよ、委員長、しかもこんなときに――
 そう言いたげな表情のタケルをそのままに、尚も委員長は続ける。

「私は全員が生き残る事を優先します! それが207B分隊長榊千鶴の判断です!」

 言うが早いか榊はいつの間にか手にしていた信号弾――演習のリタイアを宣言するための道具――を上空に向けて放っていた。
 ひゅるる、という情けない音と共に光の筋が大気に刻まれてゆく。
 同時に彩峰が2つの――同じくリタイア宣言用の――ビーコンのピンを抜き、起動させた。

「榊、御剣、パス」

 作動を意味する赤い点滅がチカチカとメイヤと委員長の顔を照らす。
 皆は頷くように目を見合わせると、一目散に麓に向けて駆け出した。

「四足歩行の動物なら、降りるスピードは遅いはずだから!」
「榊分隊、御剣分隊の二手に分かれて逃走! この天候ならと基地からの距離なら15分以内に救助が来るはず! だから皆、生き残って!」

 叫びながら、駆ける。駆ける。駆ける。
 榊千鶴は全員で生き残る事を優先したのだ。なら、俺は皆を生き残らせる。
 アルと軽く目配せをして、俺も皆と同じ様に、だけど逆の方向に――その脅威に向けて、駆け出した。





 Woooooooooooooooooooooooooooon!!
 
 雄叫びが聞こえる。
 だが、もう5分近くも走り続けただろうか。その甲斐もあって彼らの耳に聞こえた声は、先程よりも大分小さかった。だがそれは単純に距離の問題だけではない。また吹雪いてきたのだ。あの小さくも猛々しい音は吹雪の前触れだったのだろう。まだ弱いものの、立派な吹雪が舞いつつあった。
 そして、べちょりと脇から眼鏡に雪がはりついたお陰で視界を奪われた榊が雪の積もった浅い斜面を転がり落ちた。

「大丈夫か、委員長!」

 慌てて僅かに先を駆けていた武と彩峰が彼女の元に戻る。

「無理すんな、少しだけだけど距離が開けたんだ、少しペースを落とそう」
「ごめんなさい、足引っ張って……」
「んなことないって。ほら、肩貸せよ」

 彼女の肩を自分の肩に預けて、武はそろそろと雪原を下る。辺りを確認した上で、手近な木の下に座らせた。
 あの圧迫感に加え、雪と斜面という足場の悪さと、吹雪という視界の悪さという最悪級のコンディションの中、全力疾走してきたのだ。武の目の前に座り込む榊は、見るからに疲弊していた。

「大十字、は……?」

 わずかに切れる息が白み、そして風に乗って掻き消えるように、榊の質問も答えは返ってこなかった。ただ辛そうに武は首を振った。

「……そう」

 榊は、心のどこかで覚悟していたのかもしれない。
 彼が――大十字九郎が有言実行の人である事を。あの恐怖に立ち向かってしまうであろう事を。そして、そのお陰で自分たちが逃げおおせる事を。

「……榊、どうしてあの時すぐに助けを呼んだの?」

 偶然か意思か、彩峰が榊を見下す態勢で榊に問うた。
 榊はふと視線を手にしたビーコンにやり、そして場にそぐわぬ自嘲的な笑みを浮かべた。

「……確かに、皆で逃げて、その後に5kmを頑張っても良かったし、そのまま基地に逃げ込むのもアリだったでしょうね。でも……」

 ふと、榊が顔をあげた。当然、その視線の先には彩峰が居る。
 だが榊の視線は彩峰の顔でなく、その先の遠い空を見つめていた。

「私、死なせたくなかったのよ。誰かが死ぬかもしれない。それが、凄く嫌になって……そしたら、こんな試験の為に命を捨てさせるのが、ひどく馬鹿らしくてね……」

 そしてそのまま膝を抱え込むように頭を埋め、小さく「ごめんなさい」と呟いた。
 その謝罪は、誰に向けられたものだったのだろう。
 試験の不合格の道連れとなった7人の同胞へだろうか。
 一人残り、戦う事を決めた大十字九郎へだろうか。
 試験への合格を何より望んでいた数日前の自分へだろうか。
 小さく、小さく。水圧に負け、潰れてゆく潜水艇のように縮こまる榊。自らの肉体を苛むように、強く強く自分の足を、肩を、体を抱き締め、締めあげる。

「…………なら、起って」

 ぐい、と彩峰が榊の前腕を掴み、強引に立たせる。

「謝るぐらいなら、起ちあがって、逃げ回って、それで皆で生き残る」
「彩峰……」
「あなたの判断が間違ってても、途中でその判断から出るものから目を背ける事も投げ出す事も私は許さない。絶対に。…………それにさっきの判d――」
「起ち上がるわよ」

 彩峰の言葉を断ち切り、腕を振り払い、真っ直ぐに目を向けて、榊が言葉を紡いだ。
 過労に震える脚を踏ん張らせ、恐怖に怯える心を叩きなおし、威風堂々を装って。

「たとえ無様でも、独断専行と呼ばれようと、私はこの判断から逃げ出さない。私は何が何でも、せめて今居る皆を生き残らせる」

 風に乗る雪を融かすほどに、雪を運ぶ風を裂くほどに強く、かの山頂を睨みつける。
 そしてほんの1秒にも満たない時間で腹を決め、榊は自らが進むべき道に目を向け、脚を踏み出した。

「……逃げる<<生きる>>わよ、二人とも」

 吹き付ける風と雪をものとものせずに、ただ一直線に。活路かどうかも分からない道を、ただ一直線に。走って、走って、走り続けて。
 何度も転びそうになりながら走る中、武はふと思っていた。
 ――彩峰は最後に、何を言おうとしていたのか。
 そしてそれは考えるほどの事でもなく、武には答えが知れていた。
 ――彩峰と委員長の仲が悪い? そんなの関係ない。そうさ。あの時、彩峰はな……。


――さっきの判断は、間違いじゃない。







[21053] BETA BANE #14 外道相対す
Name: アキ海苔◆e4b3ecb6 ID:aea193cc
Date: 2010/10/30 19:34
 Wooooooooooooooooooooooooooon!!
 
 声が強まる。
 その訳は九郎が魔たる獣に近寄っているからだけでなく、その獣がより強く吼えているからだ。自らの領域を侵した害意への恫喝として放たれたその剛声の影で、またあのゴゥ、という奇妙な音が鳴る。
 魔の一端も知らぬ身とて今にも逃げ出したくなるその雄叫びは、魔を識ってしまった者にとってはまさしく恐怖そのものだった。重く響くその一声一声に狂的で冒涜的な魔の気配が混じり、溶け込んでいるのだ。精神を根こそぎ奪い取られ、砕かれたくなければ逃亡の他の手立てはそうはない。
 だが、そうはないというのは決して皆無ではないのだ。
 例えば、天性の強靭な心を持ち合わせているでも、鍛錬で不屈の魂を培うでも、あるいはそれと土壌を同じくする外道の法によって精神を鎧うでも。
 今雪に覆われた山肌を駆ける男――大十字九郎は、不屈の魂と呪術保護を以てその声の孕む異端に対抗していた。

「九郎、よく聞け!」
「なんだ!?」

 そして傍らにはその伴侶にして所有物たる魔導書、アル=アジフが華奢な少女の身に似合わぬ速力で疾走している。それもこれも、魔力による肉体の強化の恩恵というものだ。数百、数千の時と輪廻によってその身の深くに刻まれた原初にして初歩たる魔術はこの魔術の存在を嫌うが如き世界にあっても、その衰えは他のそれと比べても遥かに少なかった。

「知っての通り、この世界での魔術は効力が相当に限られている! それはマギウス・スタイルでの戦闘も同じ事!」
「だろうな! で、どのぐらい持つ!」
「普段の通りに戦えば持って1時間程度だ!」

『九郎の世界』同様の魔術の運用効率であったなら、今や人の領域から足を踏み出しつつある九郎の戦闘持続時間は1時間程度ではない筈だ。
無論、そこまで長引くような戦いは今まで数えるほどにしか経験していなかったし、その大部分がデモンベインに搭乗した上でのもの。正直な話人間大の戦いともなれば、特にこの魔術とは縁遠い世界もあって、そう長くはならない筈。
 だがそう言っても、やはり改めてこの世界での身動きの取り辛さと、自身の力がどこまで有用なのかという不安が九郎の心を埋めてゆく。

 Wooooooooooooooooooooooooooooooooon!!!

 また一際声が強まる。高揚と憤怒をない交ぜにしたような、異様で異常な声が。
 九郎の頭の中、ぎちぎちと脳を揺さぶるような感覚もそれに伴って強まってくる。そう、その声の主がかなり近いところにいるのだ。
 今ならばはっきりと分かる。いや、思い出したと言っても良いだろう。
 この気配はイタクァの性質――正確には、その眷属か何かだ。先より聞こえていたあの奇怪な音は吹雪の音色。魔術によって歪められた自然が悲鳴を上げ、そしてその歪みそのものがあげる音。
 そしてもう一つ。ここまで距離を詰めるまでは気付かなかったが、氷の異能ともいうべきそれの影に、別の気配、別の宇宙的恐怖が潜んでいる。
 それはこの宇宙の全てを笑い続ける存在。それは万物に混沌と狂気をもたらすべく暗躍する走狗。それは外なる神々のメッセンジャーたる旧支配者。
 ――Nyarlathotep!

「……早くも最終決戦ってか?」
「痴れ者め。本当にそうならば、この程度で済むわけもあるまい」

 アルの言うとおり、怪異が放つ気配は本物の邪神の出すそれとは比べるべくもないほどに希薄だった。『九郎の世界』で味わった如何なる怪異の足元にも及ばぬ、最早魔のものとも言いがたいほどに。恐らくはこの程度ならば一般の人間が対峙したとしても、精々恐怖を与えるだけで済むだろう。

 Woooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooon!!!

 だが、気配が薄いからといってその存在が弱小とは限らない。魔術師同士の戦いがそうであるように、魔に属するものの力もまたその位階や格によって決定されるわけではなく、地理にも使い方にも気候にも体調にも、ありとあらゆる要素が複雑に絡み合い、ぶつかりあってようやく結果が見えるのだ。

「そろそろだ、九郎!」
「じゃあいくぜ!」

 応、という返事の代わりにアルが脚に力を込め九郎に跳躍。そしてそれに伴ってアルの体の皮が一枚ずつ剥がれるように――いや、実際に強化服を雪上に残して幾百幾千の頁となって解けてゆく。旋風のように舞う無数の頁はそのまま九郎の体を覆うように張り付き、そしてその外観と魔術的な存在を変化させ――。
 この地球上の何処にも見当たらぬ材質と構成からなる、魔人ともとれる異形の姿を織りなした。黒髪は腰ほどまである銀髪となり、その肌は死人のように白く、目は赤く爛々と光っている。
 これこそが魔術師としての装束にして戦闘形態、マギウス・スタイル!

「マギウス・ウイング!」

 九郎の掛け声と同期して変化の過程を延長するように、背からは頁の集合体からなる鋭利で軽やかな翼が広がり、そのままばさり、と漆黒の翼が大気を打てば九郎の体が銃身を滑る弾丸のように一挙に加速し、雪と風を押しのけて飛ぶ。今までの疾走も中々の速度だったが、これまでとは比べるべくもない猛烈な速度の飛翔は瞬く間に害意との距離を詰めてゆく。

「見えたぞ!」

 マギウス・スタイルとなった九郎の肩にちょこんと乗った、さながら人形か何かにも見えるアルの声が吹雪の中にあっても尚響く。だが魔術的な強化を施された九郎の目にはアルが見るそれよりもはっきりと、2つの異端の姿が見えていた。

 Wooooooooooooooooooooooooooooooon!!!!!

 一体は装甲のように毛皮に氷雪を纏う、2m半はある巨大な熊。凍てつく眼光と凍てつく息吹。その呼気は白み――いや、呼気そのものに雪が混じっている風にすら見える。おそらくはこの魔獣こそがイタクァの力を持っているのだろう。その証拠とばかりに熊は吹雪を纏った爪牙を雪原に振るってみせた。

「――っくぅッ!」

爪の軌跡をなぞって延長するように雪や凍土を巻き上げながら異能の力が走る。目に付いた虫けらを払うように振るわれたそれに続く追撃はなく、熊は九郎とはてんで異なる向きに憎悪を向けていた。よくよく見れば魔獣の身にも幾多の擦過傷や打撲痕がある。

「まさか、こいつは俺を待ち受けてるんじゃなくて何かと戦ってんのか?」

 Wooooooooooooooooooooooooooooooooooon!!!!!!

 熊が意識を向ける先に向けて雄叫びをあげる!
 それに合わせて魔の気配と鋭くとがった氷の欠片を孕む一陣の風が視線の先の木立に吹きすさび、吹き飛ばした。

 Gyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyy!

堪らぬ、とばかりに風を真っ向に受けながら木立の残骸から飛び出したそれは――

「!! ――アル、あいつ……!!」
「闘士級だ!」

 奇ッ怪な声ならざる声を上げ、逆関節の足で跳ねるように雪原を疾走し、正真正銘の化物が熊に襲い掛かる。熊はそれを受け止めるように太く逞しい腕を突き出し、2体は組み合うように手と触腕を合わせ、怪物そのものの筋力を総動員して押し合いを始めた。
 ――闘士級。学名:Barrus naris<< バルルス ナリス >>
 九郎がこの世界に来てまもなく、旧支配者やその眷属――あるいはそれらの奉仕種族と睨んだのはBETA達だった。だが夕呼が手配したそれらの写真や記録映像、そして観察記録や調査書を見る限りでは、外道の知識の集大成とも言うべきアル=アジフにも記述はなく、そもそも彼らがそういった存在ならば、直接干戈を交わした衛士や軍人達が今尚正気を保っていられるはずもないという考えに至り、結果BETAはただの地球外生命体に過ぎないという判を押された。
 だが、それは間違いだった。
 その嘶きを肌で感じられるほどに近づけばありありと分かる。この生物も、紛れようもない異物。宇宙的怪異とはかけ離れているが、たとえそれが宇宙からの飛来物であっても、その存在はこの地球の生命史に載る事のなかった、寧ろ載ってはならなかった存在なのだ。

 WooooooooooooooooooooooooGyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyyy!!!!!!!

 悲鳴とも怒号ともつかない叫びをあげる2体が組み合っていたのも束の間、闘士級が熊に押し負け、そのまま豪快に投げ飛ばされた。
 如何に人間の数倍以上の膂力を持つ闘士級も、考えてみればたかだか人間の数倍以上でしかないのだ。熊という動物は元々人間とは比べるべくもない圧倒的な筋力の質と量を併せ持ち、この怪物的な熊は更にその数段上をゆくであろう、字義通りの化物。たかだか一介のゲテモノ風情が適うべくもないのだ。
 だが、問題はその投げ飛ばされた闘士級の落下予測位置。空中を舞う闘士級は丁度九郎らの真上に居て――

「叩っ斬ってやらぁ! マギウス・ウイ――」
「よけろ、馬鹿者!」

 九郎がそのまま闘士級を切り刻もうとしたのを大分小さくなったアルが強引に蹴り飛ばした。
 無論その程度ならよろめく事もないだろうが、アルの思うところに気付いた九郎がマギウス・ウイングをカミソリ状の鋭利な刃物としてでなく、元の通りに翼として羽ばたかせ、重力に惹かれるままの闘士級の巨体から逃れる。
 積雪を盛大に巻き上げつつもしっかりと足から着地した闘士級に追撃を加えるべく、熊が先程九郎に放ったのと同様の一撃を闘士級に向けて繰り出した。
 もし九郎が闘士級を切り刻んでいたならば、降り注ぐ屍体に押しつぶされかけている間に熊の一撃を喰らっていたことだろう。
 慌てて避けにかかる闘士級だが、落下の衝撃がまだ尾を引いているのか、或いはこの積雪が強力すぎる二本足を受けきれないのか、動きが些かに鈍い。元来の軽快さを発揮する事のかなわない鈍重な体では回避もままならず、熊の放つ一撃は直撃こそしないものの着実に闘士級の体を削っていった。
 だが削られたのは闘士級だけではない。その近くにいた九郎も力の奔流に巻き込まれかけ、必死にそれを避け続けている。

「なめんな熊公!」

 九郎の片手に刻まれた紋章が輝き、一丁の自動拳銃――クトゥグアが顕現する。それは炎の属性を持つ旧支配者に相応しき、苛烈なまでの赤の色彩と、暴力的な威容を併せ持つ、まさしく魔銃だった。

「喰らいやがれ!」

 爆!
 吹雪もものともせぬ大音声が轟き、その凶暴なまでの威力が山々に木霊する。
 熊もその旧支配者の力を乗せた魔弾の威力を感じ取ったのか、氷雪の爪牙を以て迎撃を行う一方で四肢にありったけの力を注ぎ、その場から駆け出す。
 クトゥグアの弾丸は爪牙の力を灼いてもなお十分すぎる威力を保ったまま、寸前まで熊の居た場所をまるで榴弾の炸裂のように激烈に吹き飛ばし、雪と氷を蒸発せしめた。
 だがその代償とばかりに普段とは比べものにならない量の魔力が体から失われてゆくのが、九郎とアルの2人には如実に感じられた。ただでさえ魔力を喰う魔弾を、『この世界』で撃ったのだ。その疲労も決して予想だにしなかったわけではない。
 それでも熊に九郎らの力量を示す一撃としては過ぎるほどに十分なものであり、距離を置いた位置から九郎と闘士級に向けて喉を鳴らしている。
 九郎が真横に近い向きに意識をやれば、そこには熊の絶え間ない攻撃が止んだお陰で態勢を直しつつある闘士級の姿があった。体中を吹雪の爪牙によって痛めつけられても尚、闘士級の無数の瞳から闘志が消える事はなく、全身から湯気を熱らせながら、両者に対して敵意を表している。
 互いを警戒しあい、睥睨しあい、牽制しあう三者。
 その均衡を破ったのは闘士級。
 気合い付けとばかりに一声上げ、九郎目掛けて一直線に突っ込んでくる。熊はというと九郎と闘士級の衝突の隙を虎視眈々と狙っているようで、若干ながら間をつめ、且つ攻撃の用意に移っていた。
 闘士級を迎え撃てば、その隙に熊はあの爪の一撃を振るってくるだろう。それは考えるほどの事でもなかった。だからといってその突撃を放っておけば間違いなくダメージを受けるし、回避を行った所でやはり熊は仕掛けてくるだろう。

「だったら手前からだ!」

 クトゥグアを握った手とは反対の手の甲に刻まれた紋章が光を放ち、一瞬の内にその手の中に銀色に輝く回転拳銃――イタクァが握られていた。同じ魔銃とは言っても、イタクァの外観は非生命的で冷酷な白銀と、ある種の優美さすら伴う程に洗練された装丁で、クトゥグアのそれとは真逆とも言っても良いほどにかけ離れていた。

「どっちがイタクァの力を出せてるかなッ!」

 シリンダーの中の6つの弾丸の内の2つが超音速の矢となって漁夫の利を狙う熊目掛けて疾走する。拳銃弾の描くべき軌道から大きく外れたそれは、急転換を繰り返し、直線と曲線の両方を混ぜた特異なラインを空中に刻みつけながら熊の急所を抉りぬかんと差し迫る。
 内1発が熊の肺腑を、もう一発が肝臓を射抜くべくその肉体に接触する寸前――

 ギチィッ!

 ――分厚い鉄板に思いっきり槌を打ち付けたような奇妙な音が辺りに響いた。発信源は熊に相違なく、見れば先程まで攻撃に使っていた吹雪の異能を鎧っているではないか。威力を大幅に殺がれた魔弾は、熊の命に喰らいつくことはなく、鋼の如き筋肉の壁を破りきることも出来ず、ただ肉と皮を裂くに留まった。
 おそらくは銃弾などというものは全て叩き落すか避けるかでもしてきたのだろう、今までにない衝撃と痛みを受けた熊は、動物らしからぬ驚愕と憤怒をその顔に表情豊かに表現していた。
 大打撃、とはいかずともようやくに打撃を与えられた小さな達成感と、あれだけの魔力を用いながらも熊一頭仕留められない『この世界』での無力感に九郎が気を取られていた所に、闘士級がそのまま象の鼻にも似たその触腕を伸ばし、九郎とアルに迫る。
 人間の頭を『引っこ抜く』その怪力にかかれば、マギウス=スタイルの九郎とてただでは済まないだろう。当たり所次第では、骨の一本や二本は持っていかれるかもしれない。

「静かにしてろや、象もどき!」

 ――ヒュン

 あまりに呆気ない音が、吹雪の中に埋もれてゆく。あるいはそんな小さな音はこの吹雪と、その中での喧騒からしてみればなきに等しいもので、離れた熊は勿論の事、闘士級もあるかどうかも分からない聴覚が聞き取れるようなものではなかったのかもしれない。
 だが、その音源は――マギウス・ウイングの刃は確かに一つの事を成していた。
 九郎の首を捥ぎ取らんと蠢き、先端を開いていた闘士級のその腕とも鼻ともつかぬ触腕が、先から付け根まで、開ききっていた。いや、開かれていたのだ。
 干物に加工された魚よろしく、丁度触腕の中心軸で二枚におろされ、紫と赤と黒に彩られた不快な内部構造を露にさせている。

 Ggggggayayygyygyyygyyyyyyyyyyyyyyyy――

 二つに裂けたその器官を振り乱して喚く闘士級に九郎は今一度、刃を叩き込む。今度は真っ直ぐ脳天と思しき部位に。
 血ともとれる体液をブチ撒け、虚しいほどに白い雪原を醜く染めながら闘士級が崩れ落ちる。どうしてなかなか、生命力は抜群に強いようで、さながら潰されたゴキブリのように体液と雪とがぐちゃぐちゃに混じったみぞれの上をびくびくと痙攣し、のた打ち回っている。
――この様子ならば放っておいても死んでくれるだろう。
 瞬間的にそう判断した九郎とアルは直ちに熊に意識を戻す。
 目の前で闘士級という今までに体験した事とのない強敵だった存在がいとも簡単に倒された事もあり、熊は急速にショックから立ち直る。

Wooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooon!!!!

 遠吠えにも似た雄叫びが響く。
 それは九郎がこの山で聞いた如何なる咆哮よりも強く、高らかなものだった。
 だがそれは今までの如く自らの威厳を誇示するものではない。己よりも格上であろう存在を前にした、恐怖の絶叫であり、尚且つその恐怖を吹き飛ばし、闘志を奮い立たせる為の切実な叫びだった。
 当初の暴君めいた貫禄は何処へやら。余裕も何も『彼』にはもうなく、あるのはただ眼前に映る敵の姿のみ。

 Wooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooon!!

 怒号とも取れる咆哮が轟き、それにあわせて持てる全ての異能を湧き上がらせ、展開してゆく。血液を沸騰させ、筋肉を膨張させ、脂肪を燃焼させ、脳を回転させ、魔術を用い、吹雪を纏い、氷雪を鎧い、全身全霊を全力全開で賦活。
 もうそのシルエットは熊のそれとは思えなかった。ただ物理的に形を見ればそれはどこまでも動物的で、誰もが熊だと断言できよう。だが、最早それは見る者から物理を忘れさせかねない超自然的な要素を乱立させた、異形にして異常の存在。どうしようもない程に歪なBETAですら、調和の中にあると錯覚してしまう程に、それは人の定めた『動物界脊索動物門哺乳綱食肉目クマ科』からかけ離れていて、外れていた。

「……なぁ、熊公」

 普段の『彼』であれば、九郎の喋っている言葉の内容自体は理解できずとも、言葉の調子や雰囲気で何を言わんやとしているのかが分かった事だろう。だが、もうその歪な存在の中には闘争の他にあるものはなく、ただ眼前にあるものを駆逐する事がその存在意義に等しかった。

「手前がどうしてそんなんになっちまったかなんて今更聞かねぇさ。だけどな……」

 WOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

異界と現世、交じり合わぬべき二つが一つの叫び――いや、叫びとも言えぬ、『音』としてその熊であったものの口から、熊の雄叫びのように飛び出て響く。
 それを起点に『彼』が動き出す。
 吹雪を背に受けつつ、『彼』が熊であった名残のように4つの足を振り上げて、ひた走る。

「手前が殺る気だってんなら、俺もその気でいってやらぁ!!」

 風の如く、とはお世辞にも言えないが、それでも尚理不尽なまでの速力で迫る『彼』に対し、九郎は両の手を掲げた。
 その手に握られていたのは二丁拳銃。
 ばがん、という銃声なのかと疑うような音を立て銃身を滑走し、空気と吹雪を穿ちながら銃弾は駆け抜ける。
 放たれたのは炎の神性の力を宿した大口径の弾丸。
 その権能を存分に振るえば、星そのものを焼きかねない旧支配者の力の一部を銃弾として制御したそれは如何なるものよりも強壮に、強力に世界を突き抜ける。
 前もってその圧倒的な力を目にした『彼』が一度は防ぎ損ねた己が異能で、クトゥグアに対抗せんとする。今回のそれは先の防御よりも遥かに分厚く、強固だった。

 ――爆!
 クトゥグアの余りある力がその盾を易々と打ち抜き、目標たる肉の体を目指す。

 ――爆!
 防壁が破られるのと同時、『彼』が新たな吹雪と氷雪の力を前面に押し出し、そしてまた打ち抜かれる。

 ――爆!
 2枚の魔術障壁を打ち破ったクトゥグアは、『彼』の纏う氷雪にも牙を立て、食い破る。
 その先にあったのは『彼』を護る最後の砦にして、『彼』自身。即ち、分厚い筋肉の鎧。だが既に3枚分の壁を突き抜けたクトゥグア――それも『この世界』では元来の威力より大分下がっている――に筋肉の鎧を打ち抜くだけの力は最早残されていなかった。最後に旧支配者の力としての意地か、胸板とそれを覆う毛皮の中央に握りこぶしほどの焦げ付きと、親指の先が入る程度の穴を残して止まった。
 そして、『彼』がこの攻防での勝ち鬨をあげんと口腔を開けたとき――。

 ――『彼』の口からは、歓喜の声でなく、胃液と唾液と血液の混じったものが噴き出し、垂れていた。
 何が起きたのか分からず、『彼』が自分の肉体を見下ろす。胸板には確かに自分が止めた銃弾。だが、その他に腹と胸、そして喉笛に穴が開いている。雄叫びを上げるべく肺から供給された空気は、喉笛の穴からひゅるひゅると滑稽な音をたてて、漏れ出ていた。それだけでない。口からと同様、その3つの穴からも血がだらだらも零れ落ち、足元の雪を南国の花よりも鮮烈な色に染め上げてゆく。
 ――――九郎は、『二丁拳銃』を構えていた。
 クトゥグアの弾丸を破城槌とし、3発のイタクァを矛として、ほぼ同時に放ったのだ。クトゥグアの弾に導かれたイタクァの弾は、幾重にも及ぶ防壁を穿って出来た穴を潜り抜け、そしてその身を守るのが筋肉の鎧だけとなったとき、『彼』に致命傷を与えうる箇所に殆ど減衰していない力を捻りこみ、撃ち貫いたのだ。
 三点の銃創からは魔獣の血が――生が流れ出てゆく。

 ――もう、長くはない。

 そう悟ったのだろうか、はたまた死を目前にその力が失われただけなのか、『彼』を包んでいた魔術の鎧が解け、風に舞う。そして風はその魔の残り香を掻き消そうとでもするように、幾許か強まると止んでいった。思えば、この吹雪も『彼』の編んだ魔術が絡んでいるのだろう。術者が果てれば、魔術も断つ。道理といえば道理だ。
 止みゆく吹雪のその下に、ただ残ったのは勝者独りと、骸がふたつ。
 だが『彼』の死体はその死を晒すのを拒みでもするかのように、崩れ落ちてゆく。おそらくは身を弁えぬ魔力の浪費による枯渇と、外道の法たる魔術にその身を染めた代償がたった今支払われているのだろう。
 じゅくじゅく、じゅくじゅくと瘴気を発しながら溶け崩れるそれを視界に納めて、マギウス・スタイルから通常の形態へとその身を変えながら、アルが呟いた。

「……九郎。これが、魔術を行使し、そして魔術に取り付かれた者の末路だ。汝とて一歩道を過てばこうなる」
「知ってるさ、そんなこと……」

 九郎の視線の先、かすかな魔術のかおりを孕んだ風が山々に吹き抜ける。

 …o…ooo………o…………oo…

 どこか谷の底で風が鳴いたのだろうか。まるで獣なりの悲しげな調べのように聞こえたそれは、山々を木霊し、やはり消えてゆくのだ。
 『彼』の存在は、消えてなくなる。
 このまま亡骸は土にも還れずに世界に吹きてゆくのだろう。
 それが魔の行く末。それが魔に手を出した者の旅路の果て。魔を知る者は、皆それを知る。その魔を持たぬ存在が無力な事も、魔を得た存在が無為な事も。それでも尚、魔を欲する者はいるのだ。
 ……この風は一体、何でできているのだろう。





「……何なのよ、これ」

 震える口で、神宮寺まりもが呟いた。言葉こそすぐ横に居る香月夕呼に向けているものの、視線はモニターに釘付けとなったままで。
 この部屋に言葉の不敬を問うべき人間は誰一人としておらず、居るのは夕呼とまりも、そして霞だけなのは無論夕呼の権限に因るものだが――それはまりもに楽をさせる為のものなどではない。寧ろ、これから彼女に無理難題をふっかける為のものだ。
 3人の視線の先の大画面に映っていたのは、不釣合いな一組の男女とその近くに転がるぐちゃぐちゃの屍骸、そしてそれらの戦いの余波と体液とでみぞれ状になった汚らしい雪景色――。
 
「まほーよ、ま・ほ・う」

 如何にも冗談めいたその口調は、その内容とあいまって香月夕呼という人間性を知らずとも冗談であると受け取れるものだった。事実もしこの映像を見ずに言われていたならば、まりももその発言を一笑に附していたことだろう。
 だが、その大画面に映った忌まわしくもある情景は、まりもに信用を余儀なくさせる。
 最初に見たのは、彼女の教え子たる207B分隊の皆が幾多の衝突を経ながら行軍を始め、そして続けるシーン。きっと随伴部隊か何かが遠距離からこっそりと撮っていたのだろう。いかにも悪趣味なものだったが、ある種の心配さもあったし、何より見ているように『上官命令』をされてしまった(この命令はまりもにとっては悪趣味を続ける良い言い訳でもあったが)。
 正直趣味が良いとは言えないが、小屋に設置された盗聴器や超小型の定点カメラなどもあり、彼らが何に悩み、そして衝突しているのかも十分に分かった。それでも彼らは衝突するたびに壁を越えてゆくようで、その成長が何よりも嬉しかった。特に榊の成長具合は素晴らしいものがあり、まりもの中には彼女がじきに良い指揮官になるだろうという確実な期待も生まれるほどだった。
試験の中、危機が迫った際に殆ど迷わずに救援を呼んだ時は、総戦技演習に掛ける彼女の執念めいた感情を、まりもがどこかで気付いていた事もあり、出来る事ならば試験の合否に関わらず思いっきり抱きしめてやりたいぐらいだった。
 だが、自分も彼女らの救援部隊に入ろうと部屋を後にしようとした時だった。『いいから見ていなさい。ここからが、本当にあなたが見るべき所なんだから』と、夕呼が制すのでいやいや部屋に残って画面を見ていると――。
 まず、最初に感じたのは異質さだった。大十字九郎と、アル=アジフというらしい少女が圧倒的な速力で持って雪に覆われた山肌を駆け抜けてゆく光景は、元より異常とも言える成績を示していた九郎はともかく、あの華奢な少女にそこまでの芸当が何故できるのかということ。何せカメラを抱えていたとはいえ、随伴していた連中が完全においてけぼりをくっていたほどだ。
 そして、別の班が撮影していると思しき映像に切り替わったときも、そこには異質さがあった。何せ熊とBETAが戦っていて、それも闘士級が押されている様子だ。
 異質さはさらに加速する。その戦いに乱入した九郎はいつのまに珍妙な格好になっており、傍らにはアル=アジフの代わりとばかりに手乗り大のぬいぐるみのようなものを連れている。しかも、それが奇妙な衣装から刃物を出すわ、半ば空を飛ぶわ、しまいには虚空から拳銃を取り出すわの大盤振る舞いである。その上熊の化物と闘士級をああも呆気なく葬ってしまえばもう何も言う事はあるまい。

「香月副司令、一つ伺っても宜しいでしょうか?」
「何よ、言ってみなさい」

 真空におかれた水が一度沸いてから凍るように、この未知の体験が沸騰しかけた脳みそが、逆に脳に溜まった熱を吐き出し、冷ましてくれる。
 魔術云々などとは信じられない。魔術がどうなどと考えが及ばない。それは真っ当に生きてきた人間の、真っ当な答えだ。
 だが、香月夕呼がまりもにこれを見せたという事は、そこにはきっと意味がある。いや、意味があらねばならないのだ。

「私にこれを御すことが出来ると思いますか?」
「あんたの教え子でしょうに。なに? 出来ないの?」

 ある種嘲笑的でもある薄ら笑いを浮かべて、夕呼がまりもの目を覗きこむ。それに対しまりもは視線を逸らすでも、反抗するでもなく、素のままの視線を返した。

「してみせますよ、教え子ですから」

 にかり、と小気味良い笑いを浮かべて。





 ゆらり。ゆらり。
 星の狭間で。人ごみの中で。
 炎の向こうに。その手の中に。
 両の目に映らぬ。その耳に聞こえる。
 画面の中のどこかで。中庭にあるベンチで。
 とある木漏れ日の下で。とある砂漠の太陽の下で。
 人の悪意の真っ只中に。人の善意のその最奥部に。
 ゆらり。ゆらり。
 ゆらり。ゆらり。
「結局、この騒動はこれ以上の盛り上がりを見せなかったというものでね。207Bの合否? あぁ、あれは野生の熊と戦うのを主眼においてる試験じゃないし、寧ろ熊が居たのは事故扱いって事にされてね……。本当はあの熊と戦っていたあの化物が殺して回ったんだけども、そこら辺には野生動物の屍骸がごろごろしててね……あの熊がとても危険な存在って事にされたこともあって、試験の続行なんてものより、部隊の生存を選んだ――なんだったかな、あの娘の名前は? まぁいい、とにかく彼女の判断が評価を受けたらしいよ。それにあんな事がなければ、次の日の朝には無事に試験を全うしていただろうしね。勿論、それにあたって命令違反をしてしまった九郎君達は皆から大いに怒られたようだけれど。 
……でも、怒ったのはあの魔導書も同じこと。どうもね、彼女は香月夕呼と密約を結んでいたようでね。まぁどうせ魔術を見せるための舞台装置の話だろうよ。ここまでやるやらない、ってね。演出家の経験もないのに無理をするから、齟齬が生まれる。少しは僕を見習って――いや、僕も失敗したばかり。あまり調子に乗るのも良くないかな。
 ともかく、こうして麗しの乙女達は無事に物語の第一関門を突破したことだ、祝いの言葉の一つでも捧げようじゃないか!
 『おめでとう、おめでとう、おめでとう!』ってね!
 …………でも、勘違いをしちゃならない。
 関門を抜けた、ってのは何も良い事づくめってわけじゃないんだ。その関門は誰が用意したと思う? その関門は何処に続く道にあるのだと思う?
 物語はどこまでも加速してゆくのさ、不埒な舞台荒らしがどれほどその場を盛り上げようが、どれだけ台本を無視しても、どのぐらい周囲を引っ掻き回しても、全ては結局丸く収まる。丸く収めてみせようじゃないか。それが一流の演出家の務めってものさ。
 さぁ、そろそろこの章も終わりにしよう。次の章の幕開けを、早く早く、もっと早く!
 さてさて、それでは皆々様、その目を大きく見開いて、とくと舞台をご覧あれ!
 物語を――最高の役者達の、有り得ざる幻の共演を見逃さぬようにご注意を! あぁ狂おしい、狂おしいよ、早く彼らがその結末までたどり着いてくれれば良いのに!
  あーっはっはっははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは…………」
 ゆらり。ゆらり。
 何処にでも居る。何処にも居ない。









[21053] BETA BANE #15  閑話休題 男達の哀歌(?)
Name: アキ海苔◆e4b3ecb6 ID:aea193cc
Date: 2010/11/21 18:55
「おめでとー!」

 横浜基地の小会議室の一つを借りて、その小さな祝宴は催されていた。
 学校とかでもよく見かける、折りたたみ式の長机の上には、沢山の料理が湯気を立てて並んでいる。普通ならこんな注文は食堂のおばちゃんも受け付けてくれない事が多いけど、今日ばかりは乗り気で応じてくれた。
 何故なら今日は!

「ほら、鎧衣皆にジュース回して」
「あ、ごめんごめん、今回すね~」
「大十字さん、お酒の方が良かったですか?」
「いや、酒はまずいんじゃないか? 色々と」
「九郎って成人してるよな」
「当たり前だ!」
「……下戸?」
「まぁ本人が良いというのだ。無理に勧めずとも良いではないか」
「そういえばまりもさ……神宮寺軍曹は?」
「忙しいから途中で顔出すだけだそうです」
「皆、ジュース持ったわね。それじゃあいくわよ……」

 みんなの顔を見回してから、委員長がジュースの入ったグラスを高く掲げ、声を張る。

「総戦技演習突破、おめでとう!」
「「「おめでとう!」」」

 かちり、とみんなのグラスが宙でぶつかった。





「なんかこのジュース妙な味しないか? なんていうかオレンジジュース以外の味が混ざってるっていうか……」
「そんなの合成食料だったら当たり前だろ? まだ慣れないのか?」
「まぁ……そっか」

 委員長が音頭をとってから、はや数分。
 総戦技演習突破を祝うささやかなパーティーは、十代後半の若さも相まって異様な盛り上がりを見せつつある。というか、皆はしゃぎすぎだろって心配になるぐらいだ。
 まぁ、一度落っこちてるのに受かったんだし、何より今回の受かり方が奇跡的だったからな。想定外のアクシデントに対する委員長の咄嗟の判断が試験の決め手になるとはまさかの展開だったぜ……。
 ともかく今のみんなの様子を見る限りだと、あの雪山での色々な経験がプラスに働いてるのは確かだ。『前の世界』だと、みんなの関係はまだまだ疎遠な印象があったけど、今のみんなは『元の世界』を思い出しかけたほど仲がいい。……純夏は、居ないけどな。
 そしてもう一つ、今回の立役者とも言うべき人が一人、この場にはいない。

「そういや、アルは?」
「ん、アイツは夕呼さんところ。なんか約束を反故にされたとか何とかいって怒ってたから、文句でも言いに行ってんだろ」

 正直、夕呼先生に文句を言ったところでなんやかんやの内に丸め込まれそうだけど……ま、アルだったらきっと上手くやるんだろうさ。

「九郎さん、九郎さん! 今日こそあの日の事詳しく教えてもらうからね!」
「ミコト、だから結局熊には出会わなかったって何遍も……」
「じゃあ何であんな変な臭いしてたの? 硫黄臭かったり、硝煙臭かったり、鉄臭かったり、凄く変だったよ?」
「それはあれだよ……山を歩いてたら硫黄が沸いてる所にブチ当たってだな……」
「じゃあ硝煙と鉄は? あれって血のにおいだよね」
「救助に来た国連兵のが移ったんだろ」

 ……大分苦しいぞその説明。
 と、俺が言うまでもなく、その説明がアレであることはモロにばれてる様子だ。美琴も疑いの眼差し以外の何者でもないもので九郎を見てる。まぁそんな嘘に引っかかるようなアホの子はきっと純夏ぐらいだろ。……何だよ、俺。そんなに純夏が気がかりなのかよ?
 ふと湧いて出た自問自答を掻き消したかったのか、俺は一気にグラスの中のオレンジジュースをあおる。うむ。確かにこれはオレンジジュースとは言い難い代物だ。ていうか味違いすぎだろ。若干苦いし。
 見れば美琴はまだ九郎に絡んでいた。その辺にしといてやれよ、と美琴を嗜めつつ、俺は京塚のおばちゃんが存分に腕を振るった似非タコスを一つ摘み上げ、口の中に放り込む。やっぱりおばちゃん凄ぇや。大分旨い。

「タケルさん! 私っていらない子なんですかぁ~!!」
「た、珠瀬何を言っておるのだ!」

 そんな所に半泣きの状態のたまと、それをどうにかしようと頑張ってる冥夜が乗り込んでくる。一体何があった。

「どうせ私は銃がなければ役立たずなんですね、そうなんですね!?」
「そ、そんな事はないぞ珠瀬! そなたは立派に隊の一員として頑張ったではないか!」
「でも私が居なくなっても問題なんてないじゃないですかぁ~!」

 しまいには本当に泣き出すたま。待て待て待て、ここまでなるって流石におかしいだろ。本当に何があったんだよ!
 慌てふためく俺の横で、すかさず九郎がジュースや料理を持ってきてたまを慰めようとする。なんか九郎って妙にたまに優しいような……。俺の気のせいなのか? でもアルがパートナーってのもあるしまさかこいつロリk……んなわけないか。気のせいだよな、気のせい。
 そんな余計な邪推をはびこらせる俺に、冥夜がついと寄ってきて耳を貸せと訴えてきた。

「済まぬ、タケル。じつは……(かくかく)……というわけであって」
「そうか、……(しかじか)……ってわけか」

 納得。
 どうやらたまが総戦技演習で活躍の場がなかったことをこぼしていたところ、冥夜がつい『銃がなかったからしょうがない』という旨の発言をしてしまったらしい。冥夜にしちゃあ珍しい失言で、寧ろそういうのは美琴の役回り――つぅか待てぇい!
 納得、じゃねぇよ! 納得、じゃ!
どんだけたまの心弱いんだよ! そんだけのことでここまでだったら完全に被害妄想入ってんだろ!

「あのなぁ、たま。ちょっと落ち着いてだな――」
「こらぁ、白銀! 珠瀬泣かすんじゃないわよ、この女たらし!」
「女たらし!?」
「……しかも性病持ち」
「どんだけ俺の素行は最低なんだよ!」

 何だ何だ!
 なんかみんな異様な熱気が出てるぞ! いや、なんて言うかこれは普通じゃない。こう大宇宙の外の方みたいに混沌としてて狂ったフルートの調べが……て俺も何言ってんだ!?

「歯ぁ食いしばれぇええ!!」
「シーバットッ!!」

 無情にも食いしばる暇も与えずに、委員長の鉄拳が飛んでくる。そこはせめて平手にしてください、いやマジで。

「君が、泣くまで、殴るのを、止めないッ!!」

 痛だだだだだだだだだ!
 何か色々と危ない台詞を吐きながら、委員長が拳を振り上げては振り下ろしてくる。かろうじてそれを避けての防いでので凌ぐが、それでも肩とか腹とかに結構当たって、これがまた痛い。何だ、委員長は俺に人間でも止めて欲しいのか?

「居らない子だなんて言わせません、だって私緑でも黄色でもありませんから!」

 たまが立ち直ってくれたのはいいことだけど、もうちょっと別のベクトルで立ち直れなかったのか? 九郎はどんな慰め方してんだよ。そして一つ言うなら俺の腰の辺りにしがみつかれると……

「ペプチドッ!!!」

 ……委員長の肘打ちが……俺の鳩尾に……。
 そのまま足元がぐらつき、机に倒れこむ。

「タケル、大丈夫か!?」

 大十字がちらばりかけた机の上を戻しつつ、俺を引き起こす。オレンジジュースやらラムネやらの瓶が倒れたらしく、甘ったるい香りが俺の鼻孔を刺激――あれ? それに混じってなんか妙な匂いが。医務室とかでよく嗅ぐ、この匂いって……。

「……『オレンジサワー・サンダーボルトⅡ』?」

 九郎がよく分からなそうな顔つきで、そのオレンジのイラストが書かれた瓶のラベルをまじまじと見つめる。

「酒じゃねぇかあああああああああ!!!!」

 オレンジジュースにしちゃあ変な味すんなって思ったよ! だからってそれはなしだろ! 誰だよこんなもの紛れ込ませたバカは!
 道理でみんなトチ狂ってるわけだぜ! にしても酔うの早すぎだろ!

「……『オレンジジュース風の味だけど、アルコール度数はバッチシ! 上官にもバレずらいから隠し持って出撃前に呑むのにピッタリだね!』」
「馬鹿じゃねぇの!? そんなの出撃前に呑むなっつうか寧ろ造るんじゃねぇよ!!!」

 はい、みんな目ぇ座ってます! 九郎は元々成人してるし、俺は『前の世界』で結構呑んだ経験あるから大丈夫だったんだろうけど、飲酒経験がロクにない皆様にはどストライクでしたぁ!!

「はぁい、隊長! 提案があります!」
「言ってみなさい、鎧衣!」
「人工呼吸の訓練、いきましょう! 今すぐ! この場で! 九郎さんとタケルで!」

 無茶を仰るぜ!
 そんなの絶対に通すわけにはいかん。通したらそこで俺の人生というか貞操観念が終わる。

「了承!」
「おめでとうございます、タケルさん、九郎さん!」

 めでたくねぇええええええええええええええ!!
 めでたいのはお前らの頭だよ!

「男同士だときがひけるなどとは申すまいな」
「人工呼吸だったらな!」
「……男同士じゃなければ問題なし」
「じょーそーうーだー!」
「大十字、あんた意外と似合いそうね?」

 絶対無茶だろ!
 俺も九郎も筋肉付きすぎだし結構体格もいいし、こんな女子居ないだろ。どこの星の女性だ、そんなの。女装って言ったら尊人の役目……って今の『美琴』は元々女か。

「あれ? こんな所に化粧道具が」

 美琴お前いま何処から取り出した、その明らかに場違いなアイテムの数々は。そして何で俺と九郎は羽交い絞めにされてるんだ。そしてどこからか取り出されたロープで縛られてるのもなんでかな。

「止めろ、お前らシャレにならな、ぬおわぁぁぁああああああ……」

 哀れ、九郎の懇願も虚しく、種々の化粧用品が九郎の肌に張り付き、その容貌を変えてゆく。俺はそれを見るのも躊躇われた。いや、違う。きっと俺はそんな良心の呵責などという清廉なものでなく、恐怖ゆえに視線をずらしたのだろう。友というべき人間が、自分の目の前でそうでないのものに、刻一刻と変えられてゆく。それも自分にはその結果が醜悪なものになるであろうという一つの心があったのだ。これを恐怖と呼ばずして、なんと呼ぶのだろう。あぁ、俺の目の前で繰り広げられる狂宴のなんと背徳的なことか。これが人の邪知によって為されることなのか。ならば俺は……(以下略)





 十分後。

「……誰?」

 そう漏らしたのは、誰だったのだろう。きっとそう漏らしていたのはその場に居た――俺と九郎を除く――全ての人間だった。
 それは九郎に化粧を施していた彼女ら自身が最も驚いていたことだった。初め、やけにファンデーションのノリが良いなとは皆思っていた。だがそういう人間は老若男女を問わずしているもの。みんなもさして気にしてはいなかったことだろう。
 だが口紅やら何やらといったものを塗り重ね、挙句の果てにどこからか調達してきた国連の女性用制服を着せられたとき(といっても上半身だけだけど)、事態は急展開を迎えた。

「……いや、俺だけど」

似合ってる。
 大方の予想を盛大に裏切って、九郎の女装は大変様になっていた。このまま基地内を闊歩しても特に違和感はないことだろう。いや、むしろその女装は違和感がないどころか普通に美人だった。
 俺が九郎と美琴とのかぶりに奇妙な不安を覚えたのも束の間、「それじゃあいってみましょうか」と楽しげな声が聞こえた。

「大丈夫ですよ、人工呼吸の訓練ですから」
「なぁたま、少なくとも縛られた二人が無理矢理頭を押さえつけられて人工呼吸を強要されてる状況は、訓練内容に入ってないぞ!」
「そうだ! 俺たちは断固拒否する!」

 だが俺たちの抵抗も虚しく、二人の距離は確実に縮まってゆく。あぁ、九郎の女装姿に普通にときめきかけてる自分が死ぬほど憎い。俺はこんなことをする為にこの世界に戻ってきたのか? お願いだから誰か違うと言ってくれ。
顔近いって!
近くでよく見ると九郎の瞳凄い綺麗って言うか瞳だけじゃなくて唇とかも大分艶があるしって俺は一体何考えてんだぁぁあ!

「さーさー、気にしない気にしない! それじゃあいってみようか!」
「気にするうぅぅぅぅぅ!!」

 もう呼気が直接顔に掛かってる。一つだけ嘆くとしたら九郎の吐息は決して女性らしい甘い香りを漂わせてはいなかった。どうせならそこまで凝ってくれれば――。
 駄目だ。もう駄目だ。
 俺の口の貞操はもう破れることだろう。
 きっと口だけじゃない。酒の力を借りて、西太后ばりの暴君となりつつあるこいつらの事だ。きっと色々されるに違いない。そして翌朝には全てさっぱり忘れやがって俺と九郎が気まずくなるだけって言う最悪な展開が待ってるんだ。
 これもきっと俺がこの世界の行き先に干渉した結果だってのか?
 なぁ、俺の望みはそんなに許されないものだったのか?
 ただ平和な世界に戻りたいって願っただけじゃないか。自分の生まれ故郷に帰ることがそんなに罪なことなのか? 畜生、畜生、畜生!
 あぁ、もう駄目だ…………。





 悪夢、というのは何を以て悪しき夢と断ざれるのだろう?
 とある人にとっては眼の覚めたうちに見えた現実と違うものこそが悪夢である。
 とある人にとっては理知の及ばぬ夢の中ならではの不可思議こそが悪夢である。
 とある人にとっては己を苛むものがただ一片でも存在する夢こそが悪夢である。
 極彩色の夢が、無彩色の夢が、その悉くが悪夢足りえるのだ。
 無論、それは眠りの中に見る夢に限らず――ある意味言葉のあやとも言えるのだが――
現実でさえ、悪夢と称される事柄も間々ある。
 たとえば、ここに一人の女性が居る。
 女性は軍人である。より詳細に言えば、輩達を鍛える教官の職に就いている。
 そして彼女は先日、教え子達が常よりも厳しく設定された試練を乗り越えた事に心浮かれ、そして遅れこそすれど祝いの席にも赴こうとしていた。
 ようやくに種々の職務を片付け、或いは明日に持ち越すことでようやくに作り出した自由の時間。それもこれも、此度の教え子達の成長を思えば無理に時間を作る事など何ら苦しい事ではなかった。
 勇み足勝ちに宴の場所として用意されている部屋に脚を向けて、その扉が見えてきた頃、異変は起こった。
 彼女の前方――それも、おそらくは小宴会が催されている筈の部屋から、小さな叫び声が漏れ出してきたのだ。しかも尚悪い事に、その断末魔の叫びとも取れる悲痛な声は、何者かによって途中で遮られたような風ですらあった。
 彼女の体に緊張が走る。
 ここが如何に基地内といえど、だからといって絶対的に安全なわけではない。厳重な警備を掻い潜り、工作を行う事など特殊部隊ならば出来うる事であるし、何より基地に詰める人間が何か事を起こしたのかもしれないのだ。
 常から携帯している国連軍採用の拳銃に手をかけ、自らを安心させるように武器の存在を確認する。実際にそれを抜く事はなくとも、武器を持っているという事が人に与える心理的効果というのは非常に大きいものだ。
 そして、いつでも異変に対処できるように身構えつつ、ゆっくりと小会議室の扉のノブを回す。不快な金属音一つ立てず、実にスムーズに開いた扉から見えた光景は――そこ光景こそ、彼女――神宮司まりもにとっての悪夢であった。





 ある歩哨の証言。

「えぇ、丁度私が基地内を巡視しているときでした。私はいつものように使用中でない大小の会議室を見て回っていたのですが……その時、声が聞こえたんです。一度だけ。途方もなく大きくて、何より悲痛な声音でしたからよく憶えてますよ。……というより、耳から離れないんです。声を聞く限りだと男性の声で、『アッー!』と……。まぁともかく何事かと思って声のした所に走っていったら……神宮寺軍曹が居られたんですよ。神宮司軍曹は有名ですからね。特殊部隊の教鞭を執ってるとか、富士の教導隊の出だとか、酒乱だとか。噂には事欠かない人ですよ、あの人は……(ここで歩哨は一度身震いをした。何か彼女に関する恐ろしい経験でもあるのだろうか?)。丁度部屋の前に立っておられたので、何があったか知ってれば、と思って話を伺おうとしたら……『問題ない』の一点張りで……。いや、確かにおかしな話でしたよ。でも、その場では従ったわざるを得ませんでした。階級? いやいや、そんなものじゃなくて……(そこで歩哨は辺りを伺うように左右を見回した)……その時の軍曹、怒気というか……殺気を放ってたんです」

 後日、一時的に装備課から国連の制服(女子用)が一着紛失していた事が判明。制服が何者かによって窃取されているのを点検時に確認し、その旨の報告書と始末書を書いた装備課の職員が両書を提出した数時間後、同装備が洗濯されて元の位置に戻されているのが確認された。尚、同装備には明らかな着用の痕跡が見られたが、何れの工作もなされていないのを装備課及び各部署が確認した。
 また、証言の中に登場した神宮寺まりも軍曹の担当する第207B衛士訓練分隊が懲罰人事として基地内の各種雑用(便所掃除、床磨き等)を行っているのを多くの人間が確認している。理由は酩酊状態での問題行動とされているが、その詳細は基地上層部には報告されていない。また、当人らも『何をしたかは憶えていないが、悪い事をしてしまった気がする』と口にしていた。尚、その中に第207B衛士訓練分隊の中でも一際有名だった2名の男性訓練兵の姿は確認されていない。





 噂というのは何処にでも必ずあるものだ。

「のぅ、九郎。いい加減立ち直れ」

 荒唐無稽で滑稽な漫談もあれば、なんとも真実味にあふれた真剣な話もある。

「落ち込んでいたところで事態が好転するわけでもあるまい? な?」

 例えば、著名な軍人の幽霊が出る、所属不明の実験機が各地で活躍している、各国の要人はBETAと取引をしている、BETAは人類の作った戦闘生物が脱走したものである、等々……。

「大体今回女装などというものは以前インスマウスで経験したではないか! 2度目ならばさしたる羞恥もなかろうて」

 ここ横浜基地に新たなる噂が生まれた。

「……はなかった」

 曰く――

「あの時はキスまではさせられなかったんだよぉぉぉぉ!!!」

 ――横浜基地には女装の麗人が怨嗟と悲哀の声をあげる。









[21053] BETA BANE #16 There is a hero, but―
Name: アキ海苔◆e4b3ecb6 ID:b8effacf
Date: 2011/04/10 11:25
「……副司令殿。重ね重ね悪いのだが、今汝はなんと言った?」

 地下深く――今はもうかつての繁栄を垣間見ることもできなくなった横浜の、数少ない廃墟ならざる一画、国連軍横浜基地の地下19階。国連軍横浜基地の副司令にして国連軍の一大計画の中枢たる才女、香月夕呼に割り当てられた一室には当の本人と、その厳しい肩書きの部屋にはどうも似合わぬ少女達と青年とが居た。

「手配したBETAはどうだったって聞いてるのよ。あなた達の追いかけてる邪神だったかと関係ありそう?」
「待ってくれよ、夕呼さん……! あんたがあいつと俺達を戦わせたってのか!?」

 困惑と怒気の入り混じった表情で青年――大十字九郎が立ち上がり、がなる。当人としては抑えたつもりなのだろうか、怒鳴り声にしては凄みがなく、かといって冷静な声音とも言えなかった。
 当然とも言える怒りを抱く九郎の傍ら、もう一人の少女とはまるで対になる純白のワンピースを着た少女、アル=アジフは直情的な相方と違って押し黙ったままただ夕呼を見ていた。だが、その内にある感情は九郎と同じか、それに近いもののようでその目は明らかな敵意を映している。

「……夕呼さん、俺はあんたを味方だと思ってた。できる事なら味方であってほしい。だから答えてくれ、あんたは敵なのか、味方なのか?」

 落ち着きを取り戻し、やや躊躇いがちに零された言葉をじっくりと噛みしめるよう夕呼は目を閉じた。
 返答がない。その静寂が地下室ゆえの圧迫的な雰囲気とあいなって、部屋中の空気を居心地の悪いものに変えてゆく。その束の間とも長きとも分からぬ不快な静けさの中、九郎は一度だけ部屋中を見回した。アルは先と変わらぬ顔で夕呼の答えを泰然と待っていた。この部屋の片隅で立っている少女――社霞はあくまでその会話に参加する意図はないようで、まるで人形のように隅で佇んでいる。

「……今はまだ何とも言えないわ」

 唐突に夕呼が呟いた。
 否定でも肯定でもない、答えというには曖昧に過ぎる返事を。 その後に続く言葉は彼女の口からは出てこなかった。九郎とアルに向けられた視線が、今度はその言葉に対する二人の返答の番なのだ、と言外に語っているようだった。そしてその要求に応えるようにアルが抑揚を欠いた声を発する。

「……早まるなよ、九郎。味方かどうかは分からぬが、取りあえず敵ではないと言っているのだ。今はな」
「……」
 
 まるで手綱を握られた軍馬のように、九郎は身の興奮を押さえつけ、外から見る限りでは冷静な風でソファに座りなおした。

「副司令殿、説明願おうか。何故あれと我等を戦わせた。そもそもどうやってあれを仕入れた」

 あれ、とは先日二人が遠く離れた極寒の島であいまみえたBETA、そしてこの世の理より外れた獣の事だろう。

「いいわ。まず、あの闘士級は私達が研究用の名目で拘束してるBETAの内の一体よ。表向きには手違いで死なせてしまったものを実験に再利用、って事にしてあそこまで運んできたわけ。勿論、本当は薬品で仮死状態にしたんだけどね」
「それは大体のところで察しがつく。妾が訊きたいのはもう一体の事だ。あれは一体なんだ? この世界に魔術は存在していないのではなかったのか?」
「あれ、ね……。そう、あれは私たちも全く知らないことよ」
「じゃあ、事故だって言いたいんですか?」
「いいえ。あれには確実に誰かの意思が絡んでる。私でもなく、あなたたちでもない誰かの意思がね。……ちょっといいかしら?」

 そう言って夕呼はパソコンの画面を起動し、二人を手招きした。起動ラグや煩雑なパスコードのチェックを終えて呼び出されたのは一つの動画ファイルだった。

「……これは……」
「……やはり記録しておったか。それとなく違和感は感じていたが」 「あら? 熟練の特殊部隊員にやらせたのに意外ね。……まぁともかく、見ての通りこれはついこの前の戦いの記録映像よ」
 
 その言葉の通り、吹雪のために大分見えづらいものの、画面に映っていたのは闘士級BETAと熊、そしてマギウス・スタイルになった九郎であった。まるでアクション映画のように縦横無尽に雪原を駆け抜け、飛び回り、あまつさえ超常の力を振るう様は現実離れが過ぎていて、その場に居たものでもなければ映画の中の出来のいいバトルシーンにしか思えないような代物だ。
 九郎としては撮られる経験などあまりなく(とはいってもアルやデモンベインと出会ってからというもの事件を巻き起こし巻き起こされの毎日ゆえに人並み以上の経験はあるが)、こうして動き回る自分の姿を見るというのも中々気恥ずかしいものだった。

「この映像でもこの……なんていうか、熊モドキ? が魔法めいたものを使ってるのは見て取れるわ」

 イタクァの力だ、と九郎が呟いた。イタクァの存在はネクロノミコン――即ちその原本たるアル=アジフにも――に記述されている。九郎や熊モドキは専ら氷雪の異能としてその力を行使していたが、あくまでその本来の性質は風や大気を象徴する神であり、風の属性を持つハスターの眷族でもある。
 この魔法世界の住人らと出会ってから夕呼もクトゥルー神話として集約された神話体系の資料(『この世界』ではあくまで只の著作物でしかない以上、種々の書籍や有志による『まとめ』でしかないが)を読み漁っては居たので、その程度の知識は修めていた。
 だが、だからこそ分からないこともある。
 『この世界』を形作っているものは科学であり、またこの世界を動かすのも科学だ。この科学文明隆盛の世界に於いて、魔術とは異端であり、或いは迷信でしかなかったはずだ。死人に今更問うことは叶わないが、ラヴクラフトとて真に外なる神々や旧支配者のような宇宙的恐怖の存在を信じていたわけでもあるまい。それはあくまで彼自身――あるいはその周囲の人物や世相――にあった宇宙や地球、人種や人という存在そのものへの探究心や恐怖感を作家として著述し、刊行したものであって、狂える詩人も怪異の影もページの中にしか存在しないものだ。
 ならば、この目の前の異次元の戦いは何なのだ。 ダーレスの描いた風の神の権能でもって戦う彼らは、ラヴクラフトが物語の中に記した狂気の書物で武装する彼は、そしてそれらを内包してしまった世界は、どうなっているのだ。 ここにきて、夕呼の頭の中には堂々巡りの果てない思索がまた始まりだす。そもそも、大十字九郎たちの世界がおかしいのだ。聞けば、彼らの世界にH・P・ラヴクラフトなる人物は存在しておらず、彼の記した奇妙で冒涜的な存在の数々は、同じく狂気的で冒涜的な魔導書の中に記述されているのだという。 そして――今、『この世界』にもその忌まわしきものどもが跋扈しているのだ。

 ……、ゆ……さ……

 『この世界』にそんな存在がいままであっただろうか? 別段、人間の知ることが絶対だとは言わないがこれまでの人類の歴史に於いて魔術という体系が未発見であるということは考えづらい。それが密林に潜む生物などでなく、魔術師が伝承するものである以上は。当然あくまでこの世界を形作るものは科学なのだ。いや、今となっては形作っていたものと言うべきかもしれない。今の世界には確たる事実として魔術が存在する。

 お……い……、ゆう……さ……

 ならばそれはいつからだ?
 もし魔術が古来から続くものならそれはとうに世に出ていて然るものだ。なら逆に言えば、その出発点近現代――いや、もしかしたら。もしかしたらだが、ほんのつい最近なのでは?
 そう。たとえば魔術を感染症に喩え、そのキャリアとなる動植物がどこからか現れたとき、免疫のない現地の生き物はその感染症の影響を多大に受けることになるように。魔術に『感染』した大十字九郎が『この世界』への魔術の呼び水となったのではないだろうか。

「夕呼さん!」

 ぷつり。突然の大声に思考が行き止まる。

「夕呼さん、いきなりどうしたってんですか? 黙りこくっちまって」

 ――いや、違う。行き止まったわけではない。辿り着いたのだ。

「……反射」
「え?」
「そうよ、反射よ! こいつは『この世界』からの反射なのよ!」

 夕呼の頭の中でどんな思索が駆け巡っていたかを露と知らない九郎らが呆気にとられているのも構わず、夕呼は喜色を浮かべてホワイトボードに自らの仮説を書き出してゆく。

「今まで『この世界』に存在していなかった魔術の存在は、『この世界』にとっては異    物だったのよ! そこで局所的に『この世界』でも魔術に順応したものが発生、発生して……」

 目を輝かせて自論を展開する夕呼だったが、唐突にその口が淀む。その顔はいかにも不機嫌――いや、不可解、といったふうだった。何が一体どうなっているのか追いつけないでいる九朗がおずおずと申し出る。

「あの……夕呼さん?」
「……発生、しただけなのよ」
「怪異が、か?」

 何か釈然としないことがあるのだろう。アルの方も決して夕呼が何を言わんやとしているかを理解しきっているわけではなかったが、それでも九郎よか理解は進んでいるようで、その顔は漫然とした夕呼の思惑を掴みかけている風だった。

「そう。なんだか世界を操る神様が居るか、世界そのものに意思があるようで嫌な言い方だけど――もしもこの現象が『この世界』からの免疫であるなら、わざわざ異物である魔術を生み出すわけがないし、第一あなた達の排除に時間がかかりすぎてる。でもね、『この世界』が魔術を受けいれ、変化してるにしても、反応がなさすぎるのよ」
「確かに、魔術が使いやすくなっただのといった事はないな」
「そもそも、こんなあなた達が来た事の波及効果がどれほどのもので、完全に影響がで        るまでどれだけ時間がかかるかも分からないから、今は何も言えないんだけどね……でもね、この熊モドキは確実にマホーを使ってるわ。それが誰かの意思であれ、それ以外であれ」

 狭い画面の中では、熊モドキと呼ばれた獣が機械的な視覚越しでも分かるほどに存在を変質させ、九郎に挑まんとしていた。二丁拳銃から放たれた幾発かの魔弾が世界の常識から外れてしまった怪物を貫徹し、断罪する。蕩け、腐り落ちるように塵となって崩れてゆく様はやはりある種の吐き気を催すもので、その場の誰もがそれをまじまじと眺めてはいられなかった。

「気をつけなさい。あなた達を狙ってる存在は必ずいるわ」
「汝でないことを祈るよ」

 苦笑のような含み笑いを浮かべて、アルは夕呼の目を見据えた。

「あら? 疑いは解けたの?」
「解けぬさ。だがな、汝より頼りになる者もそうは居ないのは事実だ」

 おおよそ好意的とも言いがたいアルの態度に、夕呼もまた悪戯っぽい笑みで応える。九郎としては何故彼女らが発言とはまるで逆な表情なのかがまったく分からなかったが、207Bの中でも九郎と武にしか通じないものがあるように、女同士でこそ分かるものというものもあるのだろう、と適当な所に結論付けた(尤も、霞も二人の関係がよく分からない様子だったので、『計算高い』女同士で分かり合えるものかもしれないのだが)。

「あのー、すみません……」

 噂をすれば、なんとやらとはよく言ったもので、武がおずおずと部屋に入ってくる。どうやらアルと夕呼の間に嫌な空気を感じ取ったようで、大分警戒されているのが九郎にはよく分かった。

「あー、新潟の?」

 至極なんでもないことのような雰囲気で、夕呼が問う。が、武の表情を見ればそれがなんでもないどころかとんでもないような話ということが推察できた。九郎とアルには関係のない話。そう告げるような夕呼の視線を受け、二人は早々に部屋を出た。

「悪いな、追い出すみたいで」
「いや、どうせこっちの話も終わったとこだったしよ。どうせ夕呼さんに追い出されてた」

 2,3の軽口も束の間、九郎たちは過剰なぐらい足早に去っていった。というのも、他ならぬ夕呼が殺気をモロに出して九郎の背中を睨みつけていたからだ。

「それで……どうなんです?」
「大成功よ、だ・い・せ・い・こ・う」

 だが、発言とは裏腹に夕呼の表情は不機嫌そうなものだった。
 ついいましがた不機嫌になるようなことがあったのはともかくとして、それを全くといっていいほど関係のない相手に、八つ当たりめいた不機嫌を見せるような夕呼ではないことは武も重々承知していた。
 だから地雷を踏んでしまった。

「あの……何か、何かあったんですか?」
「何もないわけないでしょ? そりゃ」

 じろり、と寒気をもよおす冷たく、沈んだ眼光が武を射抜いた。

「勿論、作戦は大成功よ。きっとあのまま放っておくより被害は少なかったでしょうね。でも、だからって0じゃないのよ」
「でも、減ったんなら……」
「あなた、これを見ても同じことが言える?」

 夕呼は机の引き出しの一つを開けると、数頁からなる書類の束を武に寄越した。どうやら先日の新潟の件での報告書らしい。武が不安そうに「見てもいいんですか」と尋ねると、夕呼は「あんたに寄越したやつぐらいならどうせそのうち報道されるでしょ」と不機嫌そうに吐いた。
 書類に目を通すと、そこに載っていったのは華々しい戦果と、少なすぎるほどの損害。今回のBETA撃破数から換算される、次回のBETA侵攻の見積もりや、新潟への臨時の兵力派遣などなど……。そしてBETAの進撃ルートから帰巣本能の有無も取り沙汰されていた。

「帰巣本能……ですか?」
「そうよ。最近明らかになってきたから、そのうち座学でもやるんじゃないの?」
「でもこの方向にハイヴなんか……」
「そこは後で説明してあげるから」

 面倒ごとを後回しにするような性格ではない夕呼が、こうもあからさまにしているのだからここはさして重要でない。
 武が今更理解し、書類に改めて目を落とすと――

『尚、BETAが侵攻ルートを途中変更したため一部が旧市街地の難民キャンプに流入。さ れど迅速に追撃、殲滅されたため損害は軽微』

「これって……!」
「原因は人間側からの順調すぎる迎撃。……ようは、私達のリークのお陰ってこと」
「そんなことって……ありですか……」
「ありも何も、あったのよ。事実として。結果だけを言うなら、私達は大多数の軍人を救って、少数の難民を殺させたのよ。道徳的な罪悪感から言うならね。勿論私達が望んでそうさせたわけじゃないから、責任が問われることはないわ。寧ろ損害を減らす手助けをしたんだから功績があってしかるべきでしょうね」

 普段から饒舌ではあるという印象を持ってはいたが、今日の夕呼は饒舌に過ぎる――武もなんとなくそういった考えを抱きはしたが、それが何なのかということは分からなかった。だが、それが決してよいものではないというのは直感的に感じ取れた。


「先生、あの、俺……」
「何よ。まだ何かあるの?」

 それは恫喝でも脅迫でもない、ただの視線だった。誰かを射竦めさせる強さも何も無い視線こそが武には恐ろしく感じられた。
 まるでそれは深い井戸のそこを覗き込むような、暗い色をした感覚。

「ないなら、もう今日は帰りなさい。私にもやらなくちゃならないことがあるの」
「……すいませんでした、時間をとらせて」

 踏み込めばその暗い色をした何かが見える。
 だが、見えてどうなる? そもそもそれは見てよいものなのか?
 疑問が自制と――あるいは逡巡と――なったのは、行幸でもあったのかもしれない。武にはその先に踏み込むのが、何かいけないことのようでならなかったのだ。

「またな、霞」
「ばいばい、白銀さん……」

 小さく手を振る霞の顔は、とても悲しそうだった。悲しいのでなく、悲しそうだった。





 ――兵舎・武の部屋。


 難民の、被害か……。
 確か『前の世界』ではなかった話だったな。
 それはつまり、『この世界』を変えた――俺が殺した人、ってことか。
 『前の世界』の新潟でどれだけの人死にが出たのかはしらないけど、今回よりは圧倒的に多いはずだ。但し、その防がれた死の一部が何の関係も無かった難民に降ってかかってきたんだ。
 その量は所詮一部で、『前の世界』の死に比べたらずっと少ないはずだけど、それでも少なくない人達が死んだんだ。

「俺が、殺したんだ」

 俺が世界を変えようだなんて思わなければ、その難民の人たちは死なずにすんで、天元山のばあさんみたく今も大切な人やモノを想って生きていただろう。
 でも俺にはそれしかできないんだ。
 今回だって、かなりの軍人や装備が損なわれずにすんだ。それは計り知れない利益になるし、その人たちの活躍でこの先死ぬはずだった人たちも救われるかもしれない。
 なら俺には、俺にできることをする以外ないんじゃないのか?
 何人かを見捨てて百人を助けられるなら、何十人かを諦めて千人を救えるなら、俺はそうするべきなんじゃないのか?

「そんなの……」

 それが間違いなのか、そうでないのかすら分からない。
 世界を救う近道の一つは、そうやって人類側の被害を減らしていくことなのは分かってる。だけどそれをやってしまっていいのかが分からない。
 それは自分の手で誰かの生死を決めてしまうことで、それは俺が決めていいものじゃないはずなのに……。

「何なんだよ、くそっ……」

 俺は、この世界の未来を知るたった一人の人間として、どう生きていくべきなのだろう……。





 ――翌日。

 空は鉛色の雲に覆われ、本格的な冬の到来を感じさせる木枯らしが吹き始めていた。
 その不機嫌な空の下、横浜基地ではいつもと変わらぬ日常が――絶え間ない訓練が行われていた。廃墟同然の旧市街地を見れば撃震が噴射跳躍でもって飛び回り、ペイント弾の雨をばら撒いて、仮想敵機を追い詰めてゆく。巨体に似合わぬ機敏な挙動からは、それに搭乗している衛士が相応に熟練した乗り手であることが伺える。
 そして、訓練は何も実機を繰って撃ち合うだけがすべてではない。機体にプログラムを打ち込み、限りなく機体を駆動させるに近しい成果を狙うものや、専用のシミュレーターを用いるものもある。特にシミュレーターでの訓練は誰でもはじめに経験するものであり、それの出来によって衛士の行く末も決まるといっても過言でもない。
 そのシミュレーターの中でも、ひどく敬遠される一基がある。
 理由は単純、臭いからだ。なぜ臭いかというと――

「ぅぅう……戦術機なん……て考えたの、誰よ……」
「吐くなら袋の中にしろ。余裕があるなら便所に行って来い!」

 ――数多の衛士訓練兵が吐瀉物を散らし、それを無理やり打ち消すべく大量の芳香剤が置かれているからである。
 総戦技演習を突破した衛士訓練兵を待ち構える第一の関門が、衛士適性検査だ。行うことは比較的単純で、シミュレーターが実際の戦術機の機動を模して上下左右前後に揺れ動き、それに対する搭乗者の耐性や適応力を見るというもの。勿論、検査を受ける衛士も先行して行われる座学や、戦術機による戦闘や訓練などの見学を経るのである程度はどれだけ強いGがかかるか、どれほど三半規管にくるか、という予備知識は持っている。だがそれでも不規則に予測不可能な方向にシェイクされる実体験などというものは大抵が持ち合わせてはいない以上、かなりの数の衛士訓練兵が胃の中を空っぽにしてシミュレーターから降りることになるのだ。

「榊は……軟弱」
「なら、あんたが、乗ってみなさいよぉ……うぇっぷ」
「そうだな。彩峰、次は貴様だ!」
「はっ!」

 そうとも。あの厳しい総戦技演習に比べればなんのその。たかが揺られるぐらいじゃないか。あの厳しくつらい訓練を思い出せば何てことは――
 これが検査前の衛士訓練兵の多くがのたまう言葉である。

 ――数分後。

「……」
「おい、彩峰」
「……」
「……袋は自分でかたしておけ」

 戦術機が花形だって言うなら俺は裏方でいいや。いえ、裏方がいいです。
 検査後はグロッキー状態でこう呟く人間も多いのだ。
 無論彩峰も例外でなく、エチケット袋の中には朝食が詰まってるのは言うまでもない。
榊に対抗して十数秒だけ遅くシミュレーターの非常停止ボタンを押したことは、こういう形で彩峰自身に返ってきた。シミュレーターの中はきっと換気用のファンと芳香剤が必死に稼動していることだろう。

「次は――白銀か。無理をするなよ? 無理をすると彩峰と同じことになるからな」

 正確に言うならば彩峰と美琴、である。美琴は今便所で袋の始末をしているところだ。

「任せてくださいよ、軍曹」
「軽口を……。後で後悔するなよ?」

 まりもを筆頭とし、その場にいた全員がどうせ武も数分後には死に体で出てくるだろうと思った。そう思うには十分すぎる先駆者達が居り、今や実体験すら持ち合わせているのだから。そして付け加えるならば、それは予想というよりある種の期待だったのかもしれない。ほんの近頃になってから衛士としての訓練を始めたという触れ込みにもかかわらず、自分たちより頭一つぬきんでている武の、たまには自分たちと同程度の場面というのも見てみたくなるのも人情というものだ。
 当の武はというとそんな道徳的とは言えない視線を浴びているのも気付かずに――いや、気付けずにいた。

「白銀。何度も言うようだが、衛士適性検査は今までの訓練とは方向が違う。いくら今までの成績がいいからといって、あまり自分を過信するな? 限界を感じたらすぐに停止させろ」
「分かってますって」

 前部ハッチが閉まり、外界が遮断される。
 束の間の静寂。その束の間さえ過ぎたなら、すぐにプログラムが立ち上がり、状況が開始されると分かっている。
 だがその一瞬の暗闇が、武にはねっとりとからみつく泥のように重く、淀んだものに感じられた。武にもその理由は分かっている。昨日の夕呼との会話が――自分の生み出した死が脳裏にこびりついているのだ。
 誰かと居て、何かを聞いて、喋っている間ならば小さく押し固めた罪悪感は、火種のままくすぶり続け、はたと忘れられるのに。そうでないとき、ふと気がつくと火種は火種としての在りようを忌まわしいまでに全うしてしまう。罪悪感という、良心ぶった言葉で覆った、ただの恐怖が沸々と湧き上がり、ぐじゅぐじゅと身の内を蝕んでいく。
 この不快な感情は誰にも打ち明けられない。戦友にも、恩師にも。もしこれを洗いざらい吐露し、許しを請えたならどんなに楽だろうか。だがそれは不可能なのだと胸中がざわめく。これは誰もが聞き流すものだと、これは誰にも許しえぬ事なのだと。

 ――ぶぅん。

 重く低く唸ったのは、モニターだった。状況が開始されたのだ。一息つく間もなく、戦術機のコクピット内を模して作られたシミュレーターは、自動車の急発進や急停車などとは比べようにならない荷重を搭乗者――武の身に与えてくる。この機動は吹雪のものか。
 真っ当な人間ならば負荷と衝撃で胃の中身がこみあげてくるようなGに、武は心地よさすら抱いていた。それは『元の世界』でバルジャーノンの筐体で遊び倒した事と、『前の世界』での戦術機の訓練が経験値として働いてくれているからだろう。だが、心地よさという現状からは凡そ近からぬ感情を抱いているのは、その絶え間ない振動が、頭の中で燃え広がりたそうに疼く火種を抑えてくれるからだ。

(……やっぱり、何だかんだ言っても乗りなれてれば何とかなるよな」

 そしてプログラムは滞りなく進行し、終盤に差し掛かる頃――。


 影だ。
 馬鹿げたほどに大きく、禍々しい影。
 生物的でありながら、非生物的な造形。合理的とは程遠そうな形態とは真逆に、しかと与えられた合理性。

「要撃級ッ……!?」

 情報制限の為に薄っぺらな影として表現されていようとも、その化け物然としたシルエットは、紛れも無いBETAのものだった。
 遊園地の乗り物にでも乗っているつもりだったものが、一気に脈拍があがる。『前の世界』と同じような愚は犯すなと神経に指令を流し込んでも、今の武にはBETAというものが圧倒的な死の恐怖の象徴に思えるのだ。

(手前らがッ……、手前らがぁッ……!!)

 昂ぶる感情は一転、確かな熱量となり血管を通して武の体中に行き渡る。だがしかし、今の武には戦うための武器どころか機体を操縦すら不可能なのだ。逃げることも戦うことも叶わず、それでもモニターを殴りつけてやりたいのを武は必死になって抑えた。
 そして武の戦意を表すように、仮想の戦術機が動く。無感情に構えられた36mmチェーンガンからばら撒かれた高速徹甲弾が、歯を食いしばる人面にも似た感覚器官があるべきシルエットをさんざに食い散らし、吹き飛ばした。
 要撃級の制圧と前後して新たな要撃級、そして戦車級、兵士級が画面上に湧き出す。だがそれも大した量ではない。要撃級が2、戦車級は7――いや、8。兵士級も10から20というところだろう。計測器の数値は兵士級については未だ定まらない。武が登場している体になっている吹雪は兵士級の個体数の算出を待たず、またしても弾丸の雨を降らす。チェーンガンの連射力を鑑みれば当然のことながら、その銃声は途切れるに途切れずそれは雨というより虫の羽音にも似ていた(尤も、音量は瀑布並だが)。
 盲目的な突撃以外の手段を持たないBETAはその降り注ぐ銃弾に撃ちぬかれ、千々に砕かれ、肉塊と血だまりへと変えられる。十数秒も突撃砲が唸ると、もう眼前にも計器にもBETAは居なかった。それが確認され数秒、コクピット内の電気が落ちた。状況の終了、ということだろう。

「後悔、しませんでしたよ」
「……さすがに驚いた。状況終了まで保った奴は久々だ」

 言葉は皮肉ではなく、素直な賞賛だ。それはまりもの唖然とした表情からも受け取れる。確かに思い出せば、『前の世界』でも褒められたがそれはBETA出現まででだ。今回は更にBETAとの戦闘も行われ、状況終了まで保たせたのだから武も相当の評価を得るだろう。

「何なの? 完璧超人なの? あなた本当に従軍経験ないんでしょうね?」
「うむ。確かに榊の申すとおり、そなたがどこかで衛士をやっていたという方が納得できるな」
「冗談、第一それなら九郎の方がよっぽど決まってるだろ」
「……確かに、そうですよね。九郎さんの場合」

 失敗を望んでいた、といえば悪い言いようにしかならないが、それは決して悪意からなるものではない。無理に出所を探るなら悪戯心からだろう。故にその成功は妬まれるでもなく、顰蹙を買うでもなく笑顔で賞賛されるのだ。

「……さて。最後は大十字か。覚悟はいいな?」
「いや、ちょっと……」
「そうか。ならさっさとはじめろ」
「無視!?」

 コクピットの中に蹴りこむ方も、蹴り込まれる方も、それを見る方も笑顔だ(尤も嬉しい楽しいだのの笑顔とはかけ離れている気もしないではないが)。
 ついで数秒もしないうちにシミュレーターは奇妙奇天烈で殺人的ですらある機動を再現し、縦横無尽に揺れまわる。中からは悲鳴めいた絶叫が聞こえたのも束の間、すぐにそれは収まった。

 ――ゲロか?

 皆が皆そう疑う。だが、そこまでであれば緊急停止ボタンが叩かれ、シミュレーターが停止するはず。そうでないという事は、つまりは適応したのだ。
 思えば、この適性検査で最も訓練兵達を苦しめるのは震動、衝撃、Gといったものがなす、酔いだ。肉体的に振り回され、視覚的に揺り動かされれば――特に、その多くがそういった経験に欠ける『この世界』の人間は――三半規管に過負荷がかかるのも当然。だが逆に言うならそれさえクリアーすれば、この適性検査の関門は半ば開かれたも同然だ。適性検査で測られるのは直接的な操縦技能でなく、戦術機そのものに対する適応性――要は耐久力テストとも言えるのかも知れない。耐久力、剛性、持久力といった純粋な体力を鑑みるならば、大十字九郎は最高の衛士にも匹敵しうるのだ。実際は衛士適性検査は体力だけを見るものではない以上、九郎の成績はその他諸々の技能適正も考慮したものになるだろう。だがそれでもこの調子で乗り続けていれば、九郎の適性検査の結果は上々のものになる。それは自明の事だった。
 (希望、なんてね……)
 彼等なら、きっと何かをやってみせてくれる。そんな展望がまりもには自然と幻視できていた。



[21053] BETA BANE #17 ―but he don't hope that he is so.
Name: アキ海苔◆e4b3ecb6 ID:b8effacf
Date: 2011/04/09 21:49
「はー、でも何なんでしょうね。自信なくしちゃいますよー」

 夕日の茜色も落ち、暗い紫に空が染まる頃、食堂の一画で私――珠瀬壬姫は呟いていた。すぐに他人と自分を比べて、自分がだめな人間だと思っちゃう。それが私の悪い癖だとみんなは言うけど、私にはそれがよく分からない。私は実際、だめな子だ。他の人よりちょっと射撃がうまいけど、それだけ。それ以外に何か長所があるかと言われたら何もない。

「私達、これでも結構訓練積んできたつもりだったんですけど……」
「いやほら、元々俺パイロットだったし」

 ただのパイロットがあんな凄い体術を修めてるわけないじゃないですか。『ただのパイロット』が。
 そう言ってしまいたいけど、それは駄目なんだともうちょっとのところで自制がかかる。たけるさんも、大十字さんも普通の訓練兵じゃない。いい意味でも、あまりよくない意味でも。何か秘密があるのはもう分隊のみんなが分かってるけど、それは公然の秘密って呼ばれるものなんだと思う。

「じゃあたけるさんは?」
「そうよね……。本当に、鬱になるわ」

 衛士適性検査の結果は、意外とすぐに出た。
 私はみんなのなかで一番下。戻したりはしなかったけど、それはすぐにシミュレーターを止めてしまったからだ。神宮寺教官は合格ラインをどれだけ越えたかは話さなかったけれど、きっと私はぎりぎりの所か、本当は駄目なのを温情で合格させてもらったかなんだ。たけるさんは歴代トップで、大十字さんも凄くいい成績だったのに。

「まぁ自慢じゃないけど、昔から乗り物には強いほうで……」
「……それは、自慢」
「うむ。彩峰の言うとおりだ。過度の謙遜は怒りを呼ぶというが、真だな」

 でも私には怒る気力も湧いてこない。だって、それは私には壁が見えてるからだ。たけるさんや大十字さんだけじゃなく、みんなと私との間にも差があるのは分かってるもの。それは怒るのが馬鹿馬鹿しくなるほど、厚くて高い壁で。

「でもすぐにみんな乗りこなせるさ」
「そうそう巧くいくとは思えないけどね……」
「大丈夫だって。俺だって最初はヒーヒー言ってたけど、そのうち慣れちまったし」
「それは飛行機の話ではないのか?」
「あー……ま、そんなとこだけどな~」

 みんなは苦笑交じりに二人を見る。そこには追いついてやろう、追い抜いてやろう、っていう気持ちがこもっている。私みたいに、すぐに諦めて投げ出すような気持ちじゃなくて。私はそんなにまっすぐに生きられない。私は、弱い人間だから。

「……たけるさんたちと、一緒にしないでください」
「へ?」
「たけるさんに出来ることが、みんなに出来るわけじゃ――」
「珠瀬!」

 御剣さんの一喝で初めて気がついた。自分が何を言っていたか。ほとんど気付かずに口にしていた。私、なんてことを……。

「どうしたのだ、珠瀬……?」
「……なんか俺、ちょっと配慮が足りなかったかな」
「そ、そんなことありませんよ、たけるさん!」
「でも――」
「ちょっと気が滅入ってただけなんです、ごめんなさい、たけるさん、大十字さん」

 駄目だ。空気が悪い。私が悪くした。明るい顔をしているのは……鎧衣さんぐらいだ。

「そうだ、たける~。もしよかったらなんだけど、コツとかあったら教えてよ~。あ、戦術機の乗り方だけどね」
「あ、あぁ。う~ん、コツかぁ……」
「大十字、飛行機乗る時の心得とかってあるの? 参考になるかもしれないから聞きたいんだけど」
「いや、それはだな……」

 フォロー、してもらったんだ。
 ……迷惑とか心配とかかけてばっかりだな、私。いやな子。





 夕食を終えると、その日は207B分隊は誰しも特にやることも何もなかった。適性検査での疲れを鑑みて与えられた休息であり、初の戦術機搭乗(といってもシミュレーターだが)での自己分析の時間でもあった。
 訓練兵は或いは戦術機の興奮に浸り、或いは自身の無力を痛感し、或いは戦術機の殺人的機動への対策を練る。だがそれらの一般例と反し、白銀武は暇をもてあましていた。
本当に暇だった。彼は『前の世界』で出撃を許されなかったお陰で訓練はそこらの特殊部隊にも負けないほどの難易度と回数をクリアしている。その武がたかだか揺れる椅子に座ってるだけの時間に疲労するわけないし、特段分析すべき事もなかった。あったのは、自分の出した新潟での難民の犠牲者に関するとめどない思索だけだった。だがそれも真正面から長々と向き合うのも気が引け、結果としては何もせず、ぼへらっと無駄な時間を浪費するだけのこと。彼は暇を持てあまさざるを得なかったのだ。
 普段なら霞辺りが来てもよさそうなのだが、今日という日は来てくれない。一度は地下に行ってみようかとも思った武だったが、夕呼のカミナリが落ちるのが怖くていかれず、今に至――

「あのー……」
「ん? たまか?」
「たけるさん、入ってもいいですか?」
「別に構わないけど」

 武の許可を得ても珠瀬はしり込みしているようで、おずおずと身を縮こませながら入ってきた。まるで小学生が職員室にような風情だ。

「どうした? お前も美琴みたいに戦術機のコツでも訊きに来たのか?」
「いえ、その……そうじゃなくて……」

 笑いながら話す武とは対照的に、珠瀬の表情はどこか暗い。というか恥じ入っている風だった。
 さすがに武もけらけらと笑っている場合でもないと察し、口元を引きしめる。

「謝りに、きたんです。私晩ご飯の時に酷いこと言っちゃったから……」
「あ゛ー……」

 気にすんなよ、そんなこと。
 そう言ってやりたかったが、目の前に居る人がそう言ったところで素直に気を持ち直すようなタイプではないのを、武はよく分かっていた。誰よりも子供っぽい姿だけど、周囲への心配りとかは十分大人で、だけどネガティヴなものへの対処が見た目どおりに子供――それが武の珠瀬に持っている印象だった。

「まぁ、あれだよ。誰だってそういう時はあるよ」
「でも……」
「俺だって九郎とか見てるとさ、アイツみたいに出来たらいいな~とか思うし、同じようなのは皆にだって持ってるから、よく分かるよ」
「嘘言わないでくださいよ。だって私、誰かに尊敬されるようなところなんて……」
「沢山あるよ、ほら、たとえば射撃だって滅茶苦茶上手いし」
「そんなの練習さえすれば、誰だって出来ますし」
「違う、そうじゃない。その練習が一番難しいんだろ。毎日毎日努力するなんて、そうそうできることじゃないさ。それが出来るたまは、凄いと思うぞ」
「……」
「だから俺だって何も出来なかった頃は素直にたまみたいな人たちを尊敬してたし、僻んでもいた。尊敬なら今だってしてるさ! それにだなぁ、えーと……」

 ストレートに励ますのが駄目だと分かっていても、だからといって変化球じみた説得法を持ち合わせているわけでもない。それがもどかしかった。どこぞの女衒のように、ポンポンと相手をのせる言葉が出せたらどんなに良いことか。だが武は舌先三寸で相手を手玉にとるような技量を持ってはいなかったし、それが心底すばらしい技術だとは思えなかった。それでも、今ばかりはそんな能力があったならと思ってしまう。

「なんつーか、そういうのは誰だってそうなんだよ。そういうもんなんだよ、やっぱ。でもたまは、頑張ることが出来る奴だから、頑張れると思うんだよ。……ってなんか文脈がおかしいな……」

 一人空回りするさまが可笑しかったのか、はたまたそれ以外か。
 くすり、と珠瀬が笑みをこぼした。

「嘲笑われた!?」
「あ、そうじゃなくて……」

 目に見えて落胆する武に弁明するように、珠瀬は続ける。

「私、ここに来る前に大十字さんのところにも行ってみたんです。そしたら、大十字さんも同じようなこと言ってて……」
「そうなのか?」
「たけるさんと大十字さんて、やっぱりそっくりですね。何でも出来ちゃいそうなのに、どこかぶきっちょで、真っ直ぐで」

 何でも出来る、とは誤解だ。
 何でも出来る人間など居ないのは、武は知っている。何も出来ないからこそ努力して、届かないからこそ力を尽くし、叶わないからこそ身を削る。そうこうしている内にようやく何かを出来るようになって、あとはその何かが多いか少ないか、大きいか小さいかだ。白銀武の求めた何かは途方も無く大きく、誰もが求めながら誰もが無謀と諦めるような性質のものだった。それでも諦められず、足掻いた結果が今の白銀武だ。だからこそ、武は自分の万能など信じないし、大十字九郎の万能も願わない。

「やっぱり、少し憧れちゃいます」
「……そうか。たまも、俺の憧れだよ」

 だが、だからこそ、目の前の少女に自分はただ重ねた年月の分だけ人より勝っているだけだと伝えることは何があっても出来なかった。自分に憧れるな、だなんていえるわけがなかった。もしもそう言い、自分は新潟の難民を自分の都合で殺したと言えたならきっと胸のうちに溜まった澱も少しは減るだろう。――代わりに何が溜まるかは別として。
 だがそう言い放ってしまったならどうなるのだろう?
 自分に期待してしまった人は、自分に憧れてしまった人は、自分を信じてくれた人は、どうするのだろう?
 今の武には出来たのは、さしたる効果があるとも思えない気障ったらしい台詞を吐き、意気消沈の珠瀬を少しでも励ませたらと。
 そのぐらいの事しか出来そうになかった。

「たけるさん、きっとみんなもたけるさんと大十字さんのこと、すごいと思ってます。眩しいんです、二人が。だから、私には……」

 まっすぐに、見れないんです。
 珠瀬は最後までは語らず、口中に漂わせるに甘んじた。それは自制であり、珠瀬の厚顔の限界点だった。子供のようにただ憧れるでも、ひねた大人のように背を向けるでもなく、それが十代の際に立つ少女であり、女性の限界点だったのだ。
 或いは武も珠瀬の口中に押しとどめられた言葉を理解できたのかもしれない。だが、ただ理解できたからどうこうできるという事でもないのが世の常、白銀武もその理に頭を垂れざるを得なかった。
 相手を傷つけたいわけでも、縛りたいわけでも、苦しめたいわけでも、悩ませたいわけでも、惑わせたいわけでも、何でもない。出来うることなら喜ばせたい。安堵させたい。癒したい。励ましたい。『前の世界』で、『元の世界』で、日常として彼等が享受していたかの日々のように、何気ない会話で相手との絆を深めたい。

 だが、夢は現実から乖離するからこそ夢なのだ。

 珠瀬壬姫が暗澹たる面持ちで敷居を跨ぎ、白銀武が己の無力をかみ締めるまで、ついぞ彼らには何も出来なかった。





 それは、何気ない会話だった。
 どこにでもあるゴシップであり、都市伝説であり、マクガフィンではないと誰にも断言できず、寧ろ誰もがそれらであると察してしまうような他愛も無い会話だった。
 朋友との朝餉を盛り上げる為に無作為に引き出しから出され、浅く薄く語られるような日常的で感情的な会話だった。
 上官を、下士官を、旧友を、大敵を、戦況を、国政を、収入を、犯罪を、吉報を、企業を、風習を、宗教を、経済を、雑誌を、とりとめもなく噂するだけの会話だった。
 そんな、ただの会話だった。

『新潟の』
『被害は寡少』
『大戦果』
『人類の勝利の兆し』
『一部難民に被害』

 今現在、最も話の種として大繁盛しているのは新潟の事件だ。あれからまだほんの数日しか経っていないのにそれは広く浸透していた。軍の広報が久々の大勝利をプロパガンダとして流布したのか、或いはその内容の衝撃ゆえ、自然と噂されたのか。いずれにせよ、その大事は日本の――或いは世界の――至る所に行き届いていた。半ば無意識にそれを聞くのを躊躇っていた武だが、ここまでくると耳を塞ぐのも限界だった。207B分隊の皆は武がその話をしたがらないのを察してか、話題から外していたが自然と聞こえてくる周りの会話は避けようがない。

「そうだ、確か今日でしたよね、私達の吹雪が搬入されるの!」
「でも妙な話だよなー。戦術機って有り余ってるわけじゃないんだろ? そんなすぐに来るもんなのか?」
「まぁ確かに大十字の言う通りかもね。今までが今までだったし、もっと遅くなると思ってたのに……」
「ま、気にしててもしょうがないだろ」

 武も会話には入るが、その姿は消極的であり、どこか心ここにあらずという体だ。あからさまに興味を見せずにいて、関係を悪くするのも避けようと、表面だけでも取り作らねば、と考えた末の事だった。……その有り様が他者にすくなからぬ心配をかけてるものまた事実だが。
 だが、淡々と箸を進めようとしても、聞こえるものは聞こえてしまう。なぜ目蓋はあるのに耳蓋が無いのかと武が内心愚痴りだし――

『知ってるか、難民のウワサ』

 どうせなら五感全部に蓋があったら楽かもしれないとも思い――

『何でも、その難民犠牲者の中に』

 触覚はどうやって塞ぐかと勘案し始め――

『ボランティアで民間の医者が居たらしくて』

 夕呼先生に意見でも貰おう、と決めたはいいが――

『それが』

 よくよく考えればそんな事をわざわざ訊きに言ったら殴られると気付いた時。

『ウチの副司令の姉妹だったらしい』

「し、白銀!?」
「おい、武!」

 気付いたとき、武は走り出していた。皆が気づいたときではない、武自身が気付いたときだ。恐怖に駆られるように必死になって、全速力で走り出していた。
 食堂のおばちゃんが怒鳴り、仲間が呼び止めようと声をあげ、ぶつかった見知らぬ人が悪態をつき、巡回兵が何事かと呼びかけても、武は止まらなかった。いや、止まってはいられなかったのだ。
 何故ならば白銀武は気付いてしまった、知らされてしまった。自分が誰を殺したのか、誰が殺されたのか、香月夕呼が何故あんなに殺伐としていたのか。

                  姉なり妹なりが殺されたのだ。
                白銀武と香月夕呼の選択が殺したのだ。

 ようやくエレベーター前まで辿りつく。筐体が着き、扉が開くまでのいとまが煩わしい。扉を殴っても待ち時間が縮まるわけがないのに、殴ってしまう。痛い。幸いにも周りにそれを咎める人はいない。蹴る。開いた。フリーパスで行ける階層まで降りる。数十秒の間も足踏みが止まらない。扉が開く。パスをかざし、暗証番号を打ち込む。エレベーターが着く。乗る。

 何て言えばいいんだ?
 すいません、ご姉妹を殺しちゃって? 馬鹿か。
 でも俺が殺した、意識無意識には因らず、俺が殺したんだ。そもそもあの話は本当なのか? 本当なわけがないよな、所詮噂だよな、違うよな?
 なら何で俺は走ってんだ!

 扉が開いて走ってパスをかざして走って走って転びかけて走って転んで立ち上がって辿りついて扉を開けて転がり込んで、香月夕呼を見上げた。
 夕呼は何でもない風な顔をしていた。何でもない風な顔をして、写真を見ていた。

「夕呼先生……あの、その」
「どうしたのよ、白銀」
「……」

 ――どうして、そんな何でもなさそうな顔してるのに、
 ――どうして、そんなにも辛そうなんですか。

 訊けなかった。武にはずけずけと香月夕呼の領域に踏み込み、不躾に尋ねられるわけもなかった。もしそれを何の遠慮もなしにできるほど鈍感で無思慮だったならそれは気楽だっただろう。だが武にはそこまで厚顔でも傲慢ではなかった。

「……噂、聞きでもしたのかしら」

 ずぐり、と胸に野太い木杭でも突き刺さったような気分だった。なんの噂か、と改めて聞き返す必要も無い。あの医者の話だ。

「……嘘、ですよね。あんなの只の噂ですよね?」

 知らぬ内に武の声は震えていた。走る事しか知らない生き物のように、今まで駆けてきたから息切れしていたのもあるが、それ以外の要素の方が大きい。それは武が答えを知ってしまっているからかもしれない。

 答え。そう、答えだ。

「……私ね、姉妹がいるの。写真家と、医者の」
「……はい」
「一番上の姉が医者でね、世の為人の為、だなんて言う聖人君子じゃなかったのよ、あの人は」
「…………はい」
「でもどうしたのかしら。私、あの人のこと誤解してたのかしらね……思いの外、聖人君子やってたみたい」
「………………」

 写真が、落ちた。三人の女性。一人は夕呼。他の二人も負けず劣らずの美人で、三人ともどこか似てる。写真は、濡れていた。雨漏れした水滴でも落ちたように、ぽつりぽつりと、濡れていた。

「でも、私は振り向かない。あの人を殺したのは私よ。私があなたとつるんで未来を変えようとしなければ、軍の被害と引き換えにあの人も、難民も死ななかった。だから、香月モトコを殺したのは私よ」
「夕呼、先生ッ……」
「いい、白銀? これが私達の選んだ道よ。これからも私達の選択が、死なずに済んだ人を死に追いやっていくの。大勢を救うために、少なからぬ少数を殺していくのよ。私たちにとっての、大事な人も、嫌い人も、どうでもいい人も。沢山、殺していくのよ」

 それは王者の弁論のように力強く、明朗な口ぶりだった。――誰から見ても過剰な程に。誰から見ても崩れかけた中身を補強したいがために使われる虚勢なのだと分かってしまう程に。





 結局、武は何も言えなかった。
 夕呼の言は正しく、何かしらの責任を取るべきはいつだって決断者だ。白銀武は決断者である。香月夕呼は決断者である。二人は共に主犯であり共犯者だ。少なくとも夕呼はその点については覚悟をしていて――それでも足りなかった。香月夕呼という人間の事だ、世界という大勢の為ならば死ぬ筈のなかった人間の100人や200人は生贄に捧げる事になる事ぐらい分かっていた筈だ。……白銀武と違って。
 大勢を救うために、『少なからぬ』小数を犠牲にする。
 それは英断だ。100万人が死ぬよりも99万9999人が死ぬ方が悲しみも損失も少ない、というのは紛れもない正論だ。それは理解ができる。そこに問題があるとすれば、後者が誰かの選択の結果であるとき、その誰かがどうなるかと、ただそれだけの事だろう。
 ……英断が英雄の務めであるならば、人は英雄になれるのだろうか。









[21053] BETA BANE #18 そして……
Name: アキ海苔◆e4b3ecb6 ID:1a8e1123
Date: 2011/08/15 00:32
 とある国連軍少尉の話をしよう。
 彼はどこにでもいる衛士だった。戦友達が初陣をそのまま墓場にする中、方々の体で帰還し、ようやくの事で一人前の衛士となった。
 ほんの幾度かの出撃を経ると、彼にはいつしか後輩も出来、後輩たちは彼に死の8分間を潜り抜けた感想や、BETAと戦う時の感触を聞き、彼は自分のささいな武勇伝と共に話した。
 そして、つけくわえるなら彼は人間としてはあまり模範的ではなく――むしろひどく人間的な人間だった。
 妬み、羨み、憧れ、諦め、立ち上がり、挫折し、屈折し、虐げ、戦い……。気に入らないことがあれば八つ当たりすることもよくあった。だがそれも人間としてはごく普遍的なレベルの事であり、勿論彼の八つ当たりの対象は階級が下の人間だ。軍隊における階級は絶対。だから彼も上官のイビリは甘んじて受け入れたし、後輩たちには強く出ていた。

「歯ぁ食いしばれぇっ!!」

 それは昼、食堂での事である。
 朝食の後、故障が見つかった愛機の様子を見に行くと、なにやらハンガーが忙しない。どうやら訓練兵の戦術機が搬入されたらしい。その中でも一際目立つのが一機。
 ここまではいい。彼も、『うわー。アレかっけぇ……。いいなぁ、ああ ゆーのいつか乗ってみたいなー』程度にしか思わなかった。まだその時は。だが問題はここからだ。彼が手近な整備兵に自機の具合を尋ねると、どうもまだ手をつけてすらいないとの返事を受けた。曰く、戦術機の搬入が忙しくて手がつけられなかったらしい。
 これには彼も怒った。修理を依頼したのも自分が先であるし、社会的地位だって上だ。なぜ士官たる自分の機体よりも訓練兵の機体を優先するのかと。
 整備兵は、搬入された内の一機の特別性を理由としたのだが、恐らくその答えが一番まずかったのだろう。結果として彼はその『特別』な機体の搭乗者となる『特別』な訓練兵にケチを付けにいったのだが……。

「これに懲りたらつまんねぇことすんじゃねぇッ!」

 その訓練兵がいる部隊は分隊ご一行で昼食を摂っていた。それも間の悪い事に戦術機の話をしながら。ついカッとなった彼はその内の一人に詰め寄り、あの紫色の戦術機――武御雷が誰のものかを問うた。すると、その訓練兵は自分のものだと答える。その粛々とした態度が逆に彼の琴線に触れたのは、すぐに彼がその訓練兵に悪辣な絡み方をしたことからも明らかだ。
 すると更に彼を怒らせたかったのか、いかにも正義感が強そうな大柄な男
――その訓練兵と同じ分隊に所属する様子――が仲裁に入ろうとしたのだが、無論彼は例のごとく階級を笠にその男を突き飛ばし、訓練兵の尻に軽く膝を入れたり肩を殴ったりといった横暴を働いた。

「て、手前……!」

 そして、その直後殴られた。思いっきり。顔面のど真ん中を。ぐーで。先ほど突き飛ばした大柄な男に。彼も『歯ぁ食いしばれぇっ!』などと言われたのは訓練兵時代以来である。正直前歯がぐらぐらいってる気もした。
 更に不幸は続く。彼は痛む鼻を押さえながら立ち上がり、退散しようとした所に帝国の斯衛と思しき四人組が詰め、要約すると『あんま調子こくなよ』『ちったぁ恥ってものを知れ』『ウチの武御雷のパイロットに絡むな』と脅迫されたのである。
 最終的には逃げ帰った後も上官に呼び出され、色々とキツい罰則を受けもしたのだが、それは語るに及ばない話というものだろう。




「で、ご覧の有様というわけか……」
「面目ねぇ……」

 説明しよう!
 ここにいる大十字九郎は一般的な国連軍の訓練兵だ! だがそれはあくまで仮の姿、その正体は時空を超えてやってきたエルダー・ゴッドである! だが一応身分上はただの訓練兵なので上官をぶん殴ったりした日には無論営倉にブチ込まれるのだ! 如何なる理由があろうとも上官をドつくのは厳禁だぞ!

「本当は俺の役目だったんだよ……わりぃ」
「気にするなこやつとて軍隊をナメてかかるのが悪い。よい気味だ」
「まぁ、何だかんだすぐに出れるさ、きっと」

 他人の感情を利用するような振る舞いは決して褒められるものではないが、九郎もそれなりに部隊の皆とは関係を持ち、好感を受けている。ならば『前の世界』での自分と同じような展開になるのだろう、という意識が武にはあった。
 だが、彼はまだ気づいていない。
 『前の世界』では終始一貫として攻撃を受けていたのは武だ。そうであるからこそまりもの同情と憐憫を得ることも出来た。だが、今回は一方的に上官を殴り飛ばしただけの話である。冷静に考えれば嘆願ごときですぐに出てこられるわけもない。
 しかし残念な事に九郎とアルは軍に所属していた経験すらない以上、そういった事にはとんと疎いし、武は――武は、まだ頭を十全に使える状態ではなかった。自分と夕呼の選択と、彼女の覚悟。それが思考の大部分を圧迫し、いまだに武を思い悩ませてくるのだ。
 大を生かすべく小を殺す。その小がいかな立場にあろうとも、大のために殺害せしむ。
 それは大義であり、正義なのだろう。その殺戮により救済が成るならば、それは一つの英雄像足りえる。事実、夕呼が決意したのはそういった道であり、その死と生の不均等を繰り返した末、『この世界』に人類の勝利――生存も約束されるのも、武には理解できる。
だが、理解にしか留まらないのだ。それを選択し、実行するのはどうも躊躇われる。或いは怖気づく、と表現するべきか。白銀武の脳髄の最奥が、それは嫌だと拒んでいるのだ。
 道徳、と言えばそうに違いない。だがその清く正しい言葉に、何か大きなずれを感じるのだ。それは違う、と。それは道徳ではない、と。

『――恐れては、ならない――』

 ずぐり、と何かが浮かび上がる。誰の言葉かも分からず、それどころか誰かが本当にその言葉を口に出した事があるのかすら怪しい。先に出た違和感を打ち消すべく湧き出たその言がより大きな違和感になるとはなんと皮肉なことか。

『――みずからの手を――』

「っ痛――」

 あと少しで何かを掴めそうな際の事だった。まるで漫画のように、まるで思い出すべきではない記憶を掘り起こそうとした時のように、武の頭に鋭い痛みが走った。痛み自体は大したものでなく、だがしかしそれでも思い出しかけたそれを忘れさせるには十分だった。

「ん、どした?」
「こやつの馬鹿でも伝染りかけたか?」
「いや、何でもない。ちょっと頭にズキっときただけだから」
「そっか、気をつけろよ? イザって時になったら相手は何でもつけこむからな」
「そうだぞ。だからこやつの馬鹿が伝染りかけたと思ったらすぐに抗生物質を――」
「何かさっきからやけに風当たりが厳しいぞー!?」





 そして一週間。
 結局、九郎が娑婆の空気を吸うには一週間もの日数がかかった。上官を一方的に殴った、という罪状は重いものの、相手の態度や状況、更には分隊全員からの嘆願もあってこのような下りとなったのだ(尤も、夕呼が手を回したからというのがかなり大きな理由ではあるが)。
 一週間の間には様々な事があった。九郎以外の全員が訓練機・吹雪への搭乗設定と着座調整を行う事で自機としての登録を済ませ、シミュレーターと実機訓練の初期段階を終え――その途中、武のかなり特殊な技術の部隊共有への運びもあった――、訓練の本格化に入った。即ち実機による模擬戦闘である。とはいっても戦術機同士でドンパチをやらかすわけでもなく、射撃場を数十倍に押し広げたような場所で、飛び跳ね駆け回り禍々しい面をひっさげたBETA(?)の看板にペイント弾をぶつけるだけだ。だがそれでもシミュレーターや、ほんの少し前までやらされていた戦術機で飛んだり跳ねたりの繰り返しと比べれば大分実戦的だ(指導教官のまりも曰く、戦術機で運動会をやるぐらいの体力や技術がなければとても戦場には出せないそうらしい)。

「よっと」

 武の場にそぐわない気楽な声と共にバラまかれた36mmチェーンガン用ペイント弾をしこたま浴びせかけられ、実際のBETAと比べて大分アメコミチックな造型にされた的がひっこんでいった。

『こちらHQ、207各機へ。状況を終了、帰投せよ』
「20706よりHQ、状況の終了が早すぎませんか? まだ50も叩いてませんよ」
『どこかの馬鹿がようやく出所するらしい、説明は以上だ』
「……じゃあ!」
『大十字が帰ってくるのだな!』
『長かったですねー、一週間ですか?』
『というか、一週間で出てきたのは十分早い方だと思うんだけども……』
『でも、これでようやく207Bも面子が揃うね~』

 …
 ……
 …………と、皆で希望的観測を話してたのがつい一時間前だ。
 美琴の言うとおり、面子は揃った。ようやく揃った。九郎の奴がしょっぴかれる前に見せた適性検査の結果もあったし、何より九郎が今までにたたき出してきた冗談みたいな成績を考えれば、誰だって期待する。というか期待していた。

『機関部、コクピットブロック、両主脚大破。状況を終了します』
『関節部に負荷が掛かっていたため、関節部が破損しました。搭乗衛士は機体操作マニュアルを再読しましょう。』
『機動に推進剤を使用しすぎです。搭乗衛士は弾薬・燃料・推進剤・機体状況の確認を怠らないようにしましょう。』
『各BETAには種ごとの弱点と脅威が存在します。搭乗衛士は各BETA種への対処マニュアルを再読しましょう。』
『戦闘中、機体に過負荷が掛かり、機体保護のために一部のコマンドが強制的に停止、代わりに機体OSが保護動作をしました。搭乗衛士は保護動作プログラムの起動条件を確認し、再発がないように注意しましょう。』
『操縦系統に過負荷が掛かり……。』

 シミュレーターから読み上げられる数々の忠告、警告!
 勿論これは衛士の技術向上を目指して、シミュレーター使用中の修正すべき点を申告するものだが、今読み上げられてるのはその中でも特に致命的なミス――それも実戦であれば死に繋がりかねないような代物――の指摘だ。要約するなら『これだけはまずいから本気で直せ』という事で、そんな注意を受けるのはそうそうない。例え新兵でも普通にやっていれば十回に一回、それも一つぐらい流れるかどうかというやつだ。それが今狂言回しの長台詞か読経のように滔々と流れているのはどういう事だ? コクピット内の様子と九郎の身体状況をモニタリングをしていたまりもちゃんが絶望しきった体で頭を抱えているし、後ろで訓練を見ていた皆は深刻なシステムエラーではないのかと囁きあったり修理の必要性がうんたらかんたらと言っている。

『……報告は以上です。搭乗衛士は訓練映像を見直す、訓練教官・同僚のアドバイスを受けるなどして技術向上を心がけましょう。』

 やっと筐体からの報告が終わった。
 普通ならこの後、筐体では判断しかねるような部分を周りの人間に注意してもらうのだが……。正直、注意のしようがない。注意するべきところがないのでなく、ありすぎて困るのだ。
 極端に下手、だというのならいくらでも注意のしようがある。棒立ちになってずっと引き金を引いているだけ、無駄に飛び跳ねて照準すらままならない、徒手空拳でBETAに挑む、よく分からない口上を垂れている、必殺とか言い出す……いたなーそんな奴ら。『
前の世界』では嫌というほど見てきた。
 だが九郎の操縦は何と言うか……違うのだ。どこがどうおかしい、と具体的に指摘する事はできるだろう。実際シミュレーターがつらつらと報告を上げていた。だが、それではないのだ。根本的に何かがずれている。まるで木材で組み上げられた精密電子機器のような、表現すらままならない齟齬がある。その奇妙な齟齬をどうにかするのに適切な指導がどういうものか考えあぐね、まりもちゃんも頭をかかえているのだろう。
 ――だが、俺にはそのずれに覚えがある。
 慣れだ。
 自分のよく知る、戦術機によく似た何か。だが確実に違う何か。
 それを動かす時の経験が却って邪魔になるという皮肉。俺も『前の世界』ではそれを度々体験した。『この世界』に来てごく当初のうちは気にもならなかったものだが、月日を重ね、戦術機の操縦も慣熟するにつれてそれは現れだした。バルジャーノンを動かす気分で戦術機を乗り回すと、バルジャーノン同様の動作をさせてしまいかける。だがバルジャーノンは所詮SFの産物であって、俗に言うリアルではあっても現実そのものではない。それ故に慣性や反作用といった物理も現実とは大きく異なるものだ。だからバルジャーノンを意識した機動をすると、どうしても細かい部分でミスが発生する。もし新任衛士や訓練兵の行うような粗のある機動なら気にもならないそれは、ある程度戦術機を乗りこなせるようになり、精密さが要求されるような動作を行うようになると致命的なものになるのだ。
 その度合いが明らかに異常なのはさておき、九郎の奇妙奇天烈というか何をしたいのかよく分からない結果の主な原因はそこにある。
 そしておそらくもう一つの主要因は単純に九郎の操縦が下手なのだろう。つーかそれがかなりでかい。そうでなかったらいきなり180°回転して大地に頭突きしてそのまま数百m滑走したりはしない。ついでに言うならBETAを前にして推進剤の切れるまで錐揉み回転をしたりもしない。
 前に九郎から聞いたが、九郎の駆っているあの巨大ロボ・デモンベインは二人で動かしているらしい。機体の操縦は九郎だが、実のところはどう動かすかはイメージ的なものや、九郎の動きのトレースであって操縦桿を握ってはいないらしい。操縦桿らしい操縦桿を握って機体を動かすのはアルの役目だそうだ。ならば九郎は機体を動かす事は慣れていても操縦自体は素人なのだろう。うむ。問題だらけだ。
 
「……」

 しかしあれだけの無茶をやらかしても、九郎はピンピンしている。さすが、としか言いようのない屈強さだが、その代償は平常心のまま全員からの哀れみの視線や嘆息を浴びせかけられることだった……。





 国には闇というものがある。
 国には光というものがある。
 闇とは土台である。己が天日の下にいてはならぬ事を悟り、自ら身を引くのだ。あるいはその手を汚しに汚し、果てにはその五体を染め上げることでその者は闇の中に沈む。その汚れゆえ、誰もがその者の事を忌むことだろう。その一者――あるいは数多の者共が何を想い、何を考えていたかを多くの人は鑑みてはくれない。彼の者がもし己の清廉だけを追い求めたならばその基礎はたちまちに崩れることを、誰もが知ろうとはしないのだ。土台に甘んじる者は、元来ならば表舞台で役者を張れる傑物であったことだろう。だがそれでも自らの主演たるを捨て、国家という舞台を立てることに殉ずることで、その上で誰もが脚光を浴びることができるのだ。
 さらば光とは天守閣だろう。何人なりとも手の届かぬ高みにて遍くを見下ろすそれは、絶対の一者だ。だが忘れてはならない。その者がそこに至る道程は決して容易ならざるということを。その者が高みに至るまでに踏みしめてきたのは、自らを押し上げてくれた同胞達なのだ、その階段が苦渋に満ちていることは言うまでもない。されどその者は高みにゆかねばならず、そこにたどり着いたとしても降りることはゆるされない。そして頂上にあれば日の光を誰よりも強く浴び、そしてそれ故にその身を焦がし続けるのだ。
 誰もが焦がれはせぬ闇も、誰もが艱難を悟ってはくれぬ光も、なくてはならない。
 そして、闇は思う。光を思うのだ。
 ついに、光は思う。闇は思うのだ。
 闇は汚れきった手にて己が許に堕ちてきた奴腹を受け入れ、飲み込もう。そして膨れ上がった腹を抱えて、闇の奥底にて眠ろう。せめて飲み込んだ者共を光に近づけぬために。
 光はその身を灼いて、全てを照らそう。自らに頭をたれ、庇護と救済をこいねがう民草が枯れてしまわぬように。たとえその身がいずれ燃え尽きる事を知ろうとも。
 闇は思う。光よ、消えてくれるなと。お前はもう十分に輝いた。もうお前は苦しまずともいいのだと。ただその身を卑賤の衣で覆い、ただ市井の中に飛び込めばもうその身は削られることはないのにと。
 光は思う。闇よ、消えてくれるなと。お前はもう十分に耐えた。もうお前は嘆かずともいいのだと。ただその身に高貴の香りを漂わせ、ただ衆生の中に混じればもうその身は嘲られることはないのにと。
 だが両者は互いを知る。互いの責務を、互いの覚悟を、互いの意思を知る。あなたは決して逃げてはくれない。いつまでも自分の業の深さを呪い、自らの無力と過ちをさいなみ続け、そしてその身が滅びるまで自らの職責を果たすのだと。それこそが自らの道すがらにおいていった者たちへのせめてもの贖罪であるのだと。
 されば両者は互いを想うのだ。手を差し伸べることは許されず、労いの言葉さえかけられぬのだから、せめて相手を想うのだ。
 ……しかし、闇は闇なり。光は光なり。
 闇は光を呑まんと染み渡り、光は闇を祓わんと降り注ぐのだ。両者の相克は最早個人の意思も集団の決定もさしはさむことのかなわない、強いて言うならばそうなるべく取り決められた世界の規約なのだ。いかに闇が光を、光が闇を想おうとも両者が対峙したならば彼らは必ず互いの存亡をかけて食い合わねばらならない。

「あなたは……私を恨むでしょうか」

 そして朽ちた家屋の仏壇の前に一人、その定めに組み込まれようとする男がいる。

「あなたが守ろうとしたものを、私はきっと傷つける。どれほど流血を望まずとも血は流れてしまいます」

 男は軍人だった。何かを守るためには、その対敵を殺すしか術を持たない歪な防人――その手が血の赤に染まっているように、彼には武というものしかもてるものがなかった。

「ですがこのままではあなたが守ろうとしたものは何一つ守られない。陛下は傀儡とされ、国は傾き、山河は荒れ、民は虐げられてしまう! そんなことが……!」

 おそらくは、彼が求めていたのはただ真っ当な生だったのだろう。師の下で学び、誰かと恋をし、仕事に就き、子供を育て……なんと凡庸な夢だろうか。そんな叶えようとさえすれば誰とて遂げられる些細な幸せを、きっと彼は心底望んでいたのだ。世界が動乱の最中にあるからこそ、そんな平凡なことを彼は願ったのだ。かつて彼には師がいた。彼の人生の中でその人以上に尊敬できる人間はいなかったと、彼は今でも思う。義に厚く、利を求めず、人を思い、そして才能に満ち溢れた師だった。そして恋もした。恋人というにはまだまだ未熟で、ただそれとなく相手を想い想われていただけの間柄だったし、現にどちらも告白はしていなかった。仕事にも就いた。尊敬する師の後を追うように、彼も軍人になったのだ。そしてその中で己を磨き、そして天賦の才も手伝ったことで彼は若くして多くの人の上に立つようになっていた。そこまでは良かった。そこまでだけが、良かった
のだ。

「私は、立ちます。立たねばなりますまい」

 その後、彼の師は失脚する。民を守るべく戦うは軍人の務め、と自らの信念のために多くの将兵を死に至らしめ、戦線の崩壊を招いた罪で彼は処刑された。そして彼の派閥に居た者も、ある者は迫害を受け、ある者は閑職に追いやられ、そしてある者は別の者の傘下に下っていった。その中でも彼は自分の立ち位置を変えられずにいたが、絶望的なまでの人不足と彼の能力がそうあることを許していた。だが逆に彼は自分自身を許せてはいなかった。
 ――自分は一体、何をしていたのだ?
 できる事があるはずだった。多くの将兵を死なせずに民衆を救う手立てはあったはずであり、自分もそこにいたのならばそれができたかもしれない。もっとうまく弁護をすれば死罪は避けられたかもしれない。師の思いや為した事をふれてまわれば世論も納得し、死後も尚愚将だの何だのと罵られずにすんだのかもしれない。もう少し立ち回りがうまければ師の下にいた多くの賛同者を守ることができたかもしれない。何度悔いたのだろう、何度嘆いたのだろう。全てはもう過ぎたることであり、もう取り戻すことはできないのだ。
さればこそ男は立つ。自分が今そうしているように、過去に後悔はしたくはないから。
 そして彼は師の位牌と遺影に頭をたれ、踵を返す。
 彩峰秋閣が愛弟子、沙霧尚哉。決意の日だった。



[21053] BETA BANE #19 汝何者なりや
Name: アキ海苔◆e4b3ecb6 ID:0abc84fe
Date: 2011/09/14 20:40




 ――なぜ死人がここにいる?
 それは武がその日の訓練を終えて、自室に戻ろうとしていた時の事だった。まるで待ち構えていたかのように――いや、実際に待ち構えていたのだろう、日本帝国斯衛軍中尉月詠真那は武の部屋の前で睨みを利かせていた。それ自体は武も『前の世界』で体験した事であり、違いといえば時と場所、そして相手が月詠ただ一人だったことだ。そこで告げられたことは以前と同じ。貴様はすでに死んだはずだ、国連のデータベースの改竄までして何が目的だ、帝国城内省を甘く見るな、冥夜様が狙いならば斬る――と概ねそういったところだ。
 対する武には抗弁の方法も見つからず、黙りこくるほかなかった。これも『この世界』の自分がどうなっているかすら分かっていない以上、下手な言い訳をすればそのツケは自分に返ってくると理解していたからであり、かといって自分の素性をありのままに告げればふざけるなと怒鳴られ殴られるか、あるいは斯衛からの圧力で精神病院に送り込まれるだけだろう。ただ彼にできたのは誰かを害するつもりはない、と告げることだけだった。無論月詠とてそれで納得するわけがない。『前の世界』でも身を挺して冥夜を庇った為に上官にどつかれ、独房に入れられたからこそ信用を得ることができたのだ。ただ言葉を吐いただけでそう易々と懐柔されるほど月詠真那は軽い人間ではないと武自身もよくわかっていた。故にその晩の月詠と武の会話はさしては進まず、あとは月詠が二、三の警句を発したのみで終わった。
 月詠との問答を終え、武が向かったのは自室でなく地下の香月夕呼の研究室。そもそもだ、『前の世界』に於いて切り札どころか手札一枚もない状態の武に興味を示し、拾い上げたのも夕呼である。今の『この世界』の武であれば未来の情報という最上級の手土産を持っていたからいざ知らず、何ら特別な能力もない不審な人間を軍に組み込むとは一体如何なる由縁か。武にとってはそれを知る事と、『この世界』に元居た白銀武がどうなったのかはどこかで繋がっているような気がしたのだ。
 そう、もし月詠の言ったとおり白銀武が亡き者になっているのなら、それは一体何時のことで、どういう状況だったのか。武が最初の思い浮かべたのは昔『元の世界』で読んだSF小説原作の漫画だった。己の発明した時空航行機によって、一人の科学者が平行世界に渡るという物語だったが、その中ではその渡った先の世界――仮に元の世界をA世界、渡った先をB世界とおこう――の科学者は渡航した時間ぴったりに死亡した。作中ではその死因を同一人物が同時に複数存在するというパラドックスを解消するためにとられた世界そのものの自己防衛作用だと説明されていたが、今回にもそれが当てはまるかというと望み薄だ。だがそれでも自身の到来と『この世界』の白銀武の死には何らかの関係があるのではないかというのが武の考えだった。それを説明する理論は何一つ思いつかないし、そもそも自分にそれが可能であるなどと思っていなかったのは、武の自分への真っ当な評価の賜物である。そういった事を説明できる人間は、武の知る中ではただ一人、香月夕呼その人だけだった。
 しかしそれでも夕呼に全てを投げ出すつもりは毛頭なかった。『前の世界』でも問うだけの事はしたし、正式に任官してからは自分の階級でできるだけの調査はしてきた。それにも関わらず、『この世界』本来の自分がどうなったか――加えて純夏の存在の有無も――分かりはしなかったのだ。香月夕呼の事であるから、せめて武自身に関しては本人がその気になれば武だけに分かるよう、何か仕組んでいてもおかしくない。だのにそれをしなかったという事は明確な意思を以て韜晦したとみるのが打倒なのだろう。それに加え、武の脳裏に過ぎったのは先日の事――新潟の件である。あれは元来武と夕呼が共に背負うべき業であったが、その役目を果たしきれたかというと、夕呼が背負ったものに比べて武の背負ったもののなんと少ない事か。その事実が武に、夕呼の世話にかかる事への逡巡を感じさせていた。
 ……。
 『前の世界』から足を運び続け、最早学校の玄関から教室に向かうのと同じ程度に慣れてしまった道だが、夕呼の部屋を前にして二つの懸念――特に後者がそのドアを開けるのを阻んでいた。ここまで来て……と思う反面、踵を返して兵舎に戻り、さっさと寝てしまう方がよいのではないかという思いが湧き上がってくるのを、武はしかと感じていた。

「何をしておるのだ、武?」

 武の後ろ、正確に言うならば後ろで下側から放たれた声に驚き、彼があわてて振り返ると案の定そこにいたのはアル=アジフであった。

「扉の前に立たれると邪魔だ、退くか入るか決めぬか」

 素っ気無く何気ない口ぶりだが、その声音の中には武を後者を勧めるような色が入っていた。あぁ済まない、と短く返事をしつつ、武は先行して夕呼の研究室に入ってゆくと、そこには当たり前の事ながら部屋の主である香月夕呼がおり、そしてあたかも当たり前のように大十字九郎もいた。

「あら、珍しい組み合わせね」
「いや、こやつとは部屋の前で偶然な。何やら愚図っておったからのう」
「……」

 ふぅ、と夕呼が一息つく。そのため息にも似た一呼吸が何を意味するのかを推測する暇も与えず、とばかりに夕呼は武に詰め寄った。

「白銀、あんたまさかこの前の事引きずってんの? 私がいつまでも気にしてるんじゃないのか~とか、今まで通り協力してくれるのか~とか」

 対する武は肯定するでも否定するでもなく、ただ口ごもった。だがこのような時に沈黙を選ぶのは肯定も同じである。思惟を秘めようとしたがゆえに、図らずも真意を表明してしまった武はますます気まずそうに口の端を強く締めるしかなかった。が、逆に夕呼はその口の端を――正確にはその両の頬をつまみ上げ、左右に引っ張った。

「!? ゆ、夕呼先生!?」
「……あのね、白銀。いいこと教えたげるわ」

 突然の――それも普段の彼女からは考えられない行動だったので――動揺する武をそのままに、夕呼は尚も言の葉を繰る。

「私はねぇ、白銀。そりゃあ辛いわよ。ようやく姉の行方を知れたと思ったら、自分の所為で死んじゃったんだから。何度悔やんだって悔い足りないし、もしもやり直しが利くっていうならそうしたい。でも、そんな事許されるわけないじゃない。これから誰かを救う為に別の誰かを犠牲にしようだなんて企んでる悪人が肉親だけはどうしても死なせたくないだなんて。だから私は、逃げない。もう一人の姉妹だって、霞だって、勿論あなただって、それが必要なら黄泉路に送り出す覚悟はできてる。……だから、ね。私は……大丈夫よ?」

 嘘だ、と声を上げたかった。それならばどうしてこの前はあんなに辛そうにしていたんですか、と問い質したかった。
 ……しかし誰にそんな無粋な真似ができるというのか。香月夕呼の覚悟を語らうそれはかつては虚勢でしかなかった。あちらこちらに綻びがあり、ぼろぼろと零れてゆく悲痛な姿が見て取れた。だが今の香月夕呼はどうだろう。堂々と、そして平然と口に出した言葉には淀みなどなく、つらつらと思いのたけを言ってのけたよにしか見えないだろう。だがしかしそれは本心でない。本心であろうものか。血を分けた人の命を見も知らぬ人間のそれと等価に量れる者がどこにいる。それでも横浜基地副司令として、オルタネイティヴ4の責任者として、そして未来の改変者としての香月夕呼に求められたのは、厳格に人命を量る心であった。ゆえに彼女はそうあらんとし、その境地へと一歩ずつ進んでいるのだ。それは彼女の立場がそうさせるからであるという理由もあるが、何より彼女がその責を他者に負わすまいとしているからだろう。嘘がどうした、虚勢がどうした。そんなものを暴き立ててどうなる。言葉を並べ立てる意味などどこにもないというのに。
 ゆえに白銀武は何も言わず、そして共に荷を背負うことも叶わず。ただ香月夕呼という人がとても強く、何にも動じない心を持つのだという虚ろな幻想を信じる事しかできなかった。たとえそれが実などない幻そのものだと知っていても。





「陽炎……D型、ですか」

 九郎達が何の用で夕呼の部屋まできたのか、という質問への答えがそれだった。
 何ですかそれ、と武が問いかけるより早く、夕呼は手元の書類の束を手渡した。そこに載っていたのは陽炎の三面図やカタログスペックといった説明図であり、分厚くなっていたのはそれぞれの部位の説明が長々と記されていたからである。が、それは武の知っているそれとは幾つかの差異があり、例えばそれは機体重量や外観に始まり、そして最も大きな違いはコクピット周り――そこに記されていたのは、二つの座席。即ち、複座型の機体であるということだ。書類を読み進めてみるに、どうやらそれは操縦者と観測手による期待の簡易且つ高度な運用によって生還率を高める事が目的とされるようだが、武はそこに違和感を感じ取った。第一には現在複座型の機体はソ連系のものしかなく、その開発ノウハウがない日本がなぜそんなものを開発しようと思い立ったのかという点。疑問点はそれだけではない。少なくない部品や技術が米国製のものを利用しているし、どうみても機体運用時に操縦者側に負担がかかりすぎている。火気管制から索敵まで、すべて操縦者のみによって行えるように設計されており、これでは観測手は手助け程度の事しかできないし、しかもその割には生存性や居住性の優先順位は観測手の方が遥かに高い。極め付けには予定の生産台数は2桁初頭であり、コストパフォーマンスは最悪という始末だ。企画書のサインやらを見る限りどうやら十数年前の計画であり、武の知識にないということは少なくとも実戦配備はされていないのだろう。

「何と言うか……Dって駄目のDなんですか?」
「デュアルのDよ、残念な事に」
「え、デモンベインとか大十字のDじゃねーんですか!?」
「……」

 黙れ、という無言の脅迫を受け、萎縮する九郎を尻目に夕呼は説明を続けた。

「大十字の操縦が素人以下の代物なのはあなたも知ってるでしょう?」
「そりゃあ目の前で要塞級にスタナーかけようとして推進器壊すのとか見ましたし」

 そもそも要塞級にプロレス技をかけたところで利くわけがない、と武は続けようとしたが九郎が泣きそうな顔をしているのを見咎め、さすがにやめた。

「でもね、大十字の言い訳によるとアル=アジフが居れば大丈夫だったらしいのよ」
「……どう大丈夫だって言うんですか」

 体格差をものともせず、要塞級の頭部と思しき部分をクラッチする陽炎。必殺のスタナーが重要器官のつまったそこを粉砕し、体液をぶちまけさせる。更には光線級の猛攻を重金属の毒霧で防ぎ、突撃級の突進を華麗な機動で避けて後ろからドロップキックをかます陽炎。要撃級の一撃で頭部が舞い――と思いきや陽炎の覆面がとれ不知火の素顔が現れる、実は不知火だった陽炎。
 一瞬そんな迷妄が武の頭をよぎったが、無論妄想は妄想にすぎない。もしそんな愉快な世界だったなら人類は存亡の危機どころかきっとタコ型火星人からどうやって関節を極めるかの危機に陥っているに違いない。

「まぁ俺も九郎から事情は聞きましたけど……それでこれですか」
「そ、それでこれ。ま、実際には大分弄くり回すから別物になるけどね」
「はぁ……」
「何でも、大雑把な操縦とかイメージは俺がして、実際に機体管制をすんのはアルなんだと」
「デモンベインと近しい操縦形態の方が良いと思ってな」
「にしても、何だってわざわざ……」

 一個人の為に機体を改装する。
 フィクションではおなじみの事であり、中には専用の機体を一から開発することも多々あることだ。だがそんなものは所詮フィクションの中でしかない。いかにエースパイロットや高級将官が座乗するからといって一々そんな事をしていたらコストがかかりすぎてしょうがない。やったとしても精々某国大統領専用機のように防御性を向上させたり、搭載機器を更新する程度だ。そしてそれは多くの場合特別機という理由でなく、ただの装備更新やマイナーチェンジという形で現れるために専用機とはならない。

「……九郎さんは、特別なんです」

 と、言葉を濁した先の疑問に答えるように霞が呟いた。「そりゃあそうだろうけど」、と武が返すと、霞は首を横に振る。どうやら武の言いたい特別と、霞の表す特別には隔たりがあるようだが、今更な事に霞は率先してそれに答えようとはせず、室内に一瞬の静寂がよぎった。

「ただの概念実証よ。あと気分」
「はい?」
「あなたも見てたでしょ? こいつらのデモンベインがウチの陽炎叩き壊したトコ。あれだけの戦力なんだから、もし戦術機で再現できたら面白いと思わない?」
「いや、俺が気にしてるのは気分の方です」
「何よ、気分で複座機作っちゃ駄目って言いたいの?」
「はい。気分で複座機作るのは駄目じゃないかと思います」
「いいのよ。私みたいな天才でも気分転換は必要なんだから。それに建前もあるからいいの」
「今の戦術機の生産台数考えれば二人で一機動かすのはすごい効率悪いとおもうんですけど……。あ、そうだ。そういや、訓練見てて思ったんですけどね、OSっていじれませんか?」
「OSを? どういう仕様にしたいの?」
「大した事じゃないんですけどね……」

 仕様頻度が高い動作を予め登録、あるいは運用過程で学習させる事による操作性の向上。またその登録された動作や、あるいは着地時の固定といった既に実行されているプロセスへの割り込み。そして視覚や触覚へのリンク。武の提案は概ね以上のものだった。

「なんだなんだ、よくわからねぇけど面白そうだな」
「いえ……結構面白いこと考え付くじゃない、白銀」
「いや二人で納得してねぇで俺にも教えてくれよ」
「あぁ、いいぜ。まず動きを登録して、って奴だけどな……『元の世界』じゃ娯楽が断然発達しててな、バルジャーノンっていう戦術機のシミュレーターみたいなゲームがあったんだよ。勿論操縦系統も簡単で、精々レバーとボタンがいくつかってぐらいだったんだ」
「でも戦術機並みの機動をそれだけじゃ再現できないでしょう?」
「その辺を補う為にあったのが、コンボです。これは連続してある入力をすると、それに応じて特別なアクションをするんです。例えば、AとBを同時に押すと主兵装とは違う特殊装備を使ったり、あとは接近して近接格闘とか。でも、当然それだと隙ができる」
「そうね、それだと動作の途中に攻撃を受けたら……あぁ、それで割り込みね」
「はい。流石夕呼先生、もう気づきましたか」

 九郎がちらりと視線を動かすと、夕呼もアルも合点がいった風な顔である。霞は相変わらずの仏頂面だったが、少なくともいかにもわかってなさそうな顔だったのは九郎だけであり、その事に気付いた九郎は武に、早く説明をと言わんばかりの目を向けた。

「あぁ。悪い悪い。この割り込みはキャンセル、って呼んでるんだ。さっきの例で言うと、接近してる最中に相手にその意図を気付かれたら、簡単に見切られるだろ? だからこっちも途中でその動作を止められるようにしておかないと駄目なんだ」
「あー、そうかそうか。確かに俺もあの時シャイニングトラペゾヘドロン使うの直前でやめなけりゃ大変な事になってしな」
「(何の喩えだろう?)あとは自動の受身とか踏ん張りとかもキャンセルできたほうがいいしな。……で、最後の感覚のリンクだけどな、」
「それは俺にもわかるぜ! 戦術機の見たり聞いたりしたものを、直接体に伝えるって事だな」
「それなら今も網膜透写をしてるじゃない」
「いや、それと近いんですけど、厳密には違うんです」

 武は何かを探すようにきょろきょろと辺りを見回すと、すかさず霞が紙とペンを手渡してきた。まるで相手の考えが察せられる、旧知の間柄のような気分を覚える武だったが、取り敢えずはそれらを使って簡単な図を描くほうに専念した。見れば、正直あまり上手とは言いがたい図だが、口頭で説明する助けとしては十分である。

「例えば、機体が木とかビルとか、何かに触れている時ってそれを教えてくれる事はないじゃないですか。装甲内に圧力感知系のシステムは組み込んでありますけど、それが機能するのは精々着弾時とか強力な負荷がかかってるときだけですよね」
「機体にもよるけど、大体はそうね」
「でもそれだけじゃ不十分なんです。生身だったら何かにうっかり触ったりしたら気付くのに、戦術機だとそれがわからない。ベテランならともかく、新米には結構それが原因の事故とかも多いんです。『前の世界』でも戦闘中に山岳地帯で足を滑らせて、それが命取りになった奴もいましたし。あとは単純に視線を動かしたら自動で機体の方のカメラを動かしたり、目にあわせてピントを調整したり、とかですかね」

 一気に説明を終え、一息つく武。夕呼はというと何かを考え込んでいるようで床の一角をじっと見つめていた。

「あの……やっぱ駄目ですかね?」
「……悪くない、悪くないわよ。にしても、コストや開発にあたっての労力が……でももしこれで白銀の変態機動の一部でもトレースできるようになれば……いけるかしら……?  
あぁでもここまでくると……」

 どうやら、というか見るからに利害計算をしている。だがそこは流石というか、即座に計算を終えたのか、はたまた打ち切って決断したのか、急に面をあげると武にその顔を向けた。その目を見る限りでは、損得勘定は得という決になったらしい。あるいは、もっとなにか事情でもあるのか。

「白銀、あなたの機体でデータとるから、これからはどんどん教本にない動きをしていきなさい。あと、訓練が終わったらそれがどういう機動なのかを説明できるようにしておくこと。いいわね?」
「あ、はい! わかりました!」

 勢いに呑まれたというのか、はたまたこちらも快諾したのか。どちらにせよ武は威勢のいい声で返事をし、そしてその顔にはささやかな高揚感が宿っていた。九郎はというと当然のように取り残されていたが、これでも元ミスカトニック大学隠秘学科主席の秀才である。頭の中で反芻し、それをアルと確認することで概略は把握したようだ。だが彼の場合、戦術機のような兵器として大量生産されたものへの造詣は決して深くはないので、それのもたらす恩恵というものを完全に理解しているかというとそうではない。対して夕呼は九郎以上の頭脳の持ち主であり、かつこの世界での経験のおかげかその改良の生み出す効果というものを正しく理解し、そしてまたその難しさを知っている為か早々にああでもないこうでもないとアイデアを練り始めている。無論、その思索に当たっては工業的な技術面のことであるからにして、武や九郎は勿論のこと物理にはとんと疎いアルも部屋からは追い出された。

「あの、夕呼先生!」

 部屋から追い立てられ、強引に蹴り出される直前、武が訴えた。これにはOS改良の案を出したご褒美という形か、夕呼が珍しく己の意を貫徹せずに耳を傾けた。

「『この世界』の俺って、どうなったんですか? 何だか斯衛の人に「何で死人がここにいる!」って怒鳴られたんですけど……」

 武としては重い話題ではなかったのだろう。だが、夕呼にとっては相応に重要な――あるいは隠しておきたいものに触れうる――話題だったようで、その顔が一瞬固まる。だが、殆ど蹴り出される間際とあってはその一瞬の硬直を察するものは居なかった。すぐに平常の気勢を取り戻した夕呼は、「こっちでも色々あるんだから後にしなさい!」と、何事もなかったかのように武の尻を蹴飛ばし、扉をしめた。

「……武さん、気付いているんでしょうか」

 ふと、それまで黙っていた霞が唐突に口を開く。

「大丈夫よ。あいつなら最悪、たどり着いても自分の生死だけでしょ。あいつにそれから先に踏み込む人脈はないわ」
「……はい」
「それよりも、面白いわよね。あいつの要望も。こんな無茶苦茶な事、現状の戦術機のコンピューターじゃ処理できないわよ。今の奴じゃね」

 ……香月夕呼、という一科学者の話をしよう。
 彼女は万能の学徒である。その主たる研究分野は量子論と一括りに纏められがちである。なぜなら彼女の研究は量子物理学や量子工学といった複数の分野をまたがって行われるという、通常では考えられない代物であるからにして量子論と大まかに割り振るのだ。しかも更に言うならば細分化されたそれぞれの分野で、彼女は最先端というに相応しい功績の数々を表しているのだ。が、その中でも今彼女の最も集中しているものは、量子コンピューターに代表される量子工学である。
 並列処理の半導体150億個を、手のひらサイズに。
 そんな法外な理想を唱える彼女をせせら笑うものも多い。だが、彼女は百里のうち九十里を達成したといってもいいだろう。現時点からすれば極小で高機能の仕上がりのものはできているのだ。
 そして、次に白銀武の提唱した機能をOSに持ち込んだとき、最大の難点はその処理能力にある。武が求めた仕様は、大雑把に言うならば各種機能の自動化という一点に収束するといっても過言ではないのだ。連続した動作など手動でやっていたものであるし、その時点ではコンボのキャンセルなど不要だった。自動の受身をなくせば、それだけ機体や乗員への負荷が大きくなるため、例えばこのまま倒れれば衛士が死にかねない、という時など結局コンピューターの判断が必要になる。感覚共有に至っては明らかにパイロットの仕事を機体任せにしているのだ。つまり、これらの要求を満たす為には、機体側には高速且つ高度な処理能力が求められる。そう、それこそもう一人有能な操縦補助をつけるかのような……。
 香月夕呼の研究と、白銀武の要求。その奇妙な交点で、孤独なシリンダーが青い光を放っていた。







[21053] BETA BANE #20 出会いはいつも唐突で
Name: アキ海苔◆e4b3ecb6 ID:cb8af484
Date: 2011/09/14 20:41




 とんとんとん、とんとんとん、とんとんとん……。
 廃墟となった街、横浜。まるで何十年も前に打ち捨てられたように、この街には生き物の気配って者がろくにありゃしない。だけどその代わりに軍は実験施設や基地のぼうえい設備をおったてるもんだから、この街の面影なんてものは廃れてく一方さ。それもこれもBETAの所為だ。あの糞忌々しい化け物どものお陰であたしは生まれ育った町から追い出された。忘れやしないよ、何たってあたしは間近で見たんだ。横浜に宇宙人どもが攻め込んできた時、あたしは戦術機のコクピットの中で震えてたよ。自分の操縦の下手糞さはあたし自身のせいさ。同僚の所為でも教官の所為でも指揮官の所為でもない。だけどね、あたしは忘れやしないよ。まるで地獄の兵隊みたいに、一緒くたな濁流になってやってくるあいつらが、同僚も元教官も指揮官様も、何もかも呑みこんでぶち殺してく様を。硫黄みたいな臭いを振りまきながら、汚い歯をがちがち鳴らして襲い掛かってきたあいつらが、私の撃震をまるで最中みたいにさくさく食い散らかしてくのを。そして、助けを求める奴らを見捨てて、BETA以上に見境なしに文字通り何もかもを呑みこんで、巻き込んで、ぶっ壊して、ぶっ殺したあれを。
 私は決して、忘れられない。





「だーかーらー、ね? ちょっとぐらいいいだろ? 別にあんたらの邪魔はしないさ。ただあたしらにもほんの少し、稼がせてくれって言ってんのよ」
『Sorry.We can't allow you to enter this area.(すみません、このエリアは立ち入り禁止なんです)』
「えーい、よくわかんないけどあれね、駄目って言いたいんだね? オーケーオーケー。あー、あいうぉんちゅーいんでぃすべーす、あんどどぅーざじょぶ、ぷりーずみすたー!(Ah,I want to in this base, and do the job, please Mr!)」
『? ?』
「あいあむれでぃー! ゆーあーまん! うぇんとぅーみーつ、どぅーいずおんりー! あーゆーあんだすたん?(I'm lady! You are Man! When two meets, do is only!)」
『I can't understand what you say.please speak English.(何を言っているのか、わけがわからないよ。お願いだから英語をしゃべってください)』
「だぁあ、話にならん! えぇい、日本人を連れてこい、じゃ、ぱ、に、い、ず!」

 ……なんか凄い事になってるな。
 俺がその現場に居合わせたのは全くの偶然だ。夕呼先生のどだい無茶とも言える注文を受けた所為で常軌を逸する難易度になった訓練をようやく終え、殆ど徘徊するように俺は散歩に出た。とはいえ、基地の中に何か見るものがあるわけでもなく、基地の外にも見るものはない。遠出すれば海やら何やら景色が見えるが、わざわざ外出届けを出しにいくのも億劫だったし、第一そんな時間も体力もあるとは思えなかった。結局俺の散歩はふらふらと辺りを歩き回るだけの、完全な徘徊になってしまったのである。つまらん。非常につまらん。これを楽しめるのはきっと半年ぐらい入院してた人間ぐらいだ。ならせめて、普段あまり関わりのない門兵コンビとだべってくるか、とゲートまでぶらつく事にした。だが俺の最大の誤算は、そこにあのいつものコンビがいなかった事である。……まぁ、確かに365日年中無休で居るわけじゃないだろうし、そりゃあ交代とかもするよなぁ……。代わりにそこに居たのは、豊かな金髪とそれ以上に豊かな脂肪を蓄えた若い白人男性、そして彼と口論になっている日本人の女性だった。
 
「えー、何だ、あいあむびっち、あいうぉんとぅーびーみーる!(I am bitch,I want to be meal!)」
『wanna be meal!? Why!?』
「とぅーらいぶ!(To live!)」

 なんというか非常に凄まじい。単語も文法も色々と間違ってる。きっと彼女は自分がその……春を売る仕事をしていて、食べるものが欲しいといいたいんだろう。だがあれじゃあご飯になりたいと言っている事になってしまう。白人の彼もきっとさぞかし困惑しているに違いない。ここで俺がするべきはただ一つ、二人の通訳をしてあげる事だろう。

「Hey,you.Will you alternate? I can speak both English and Japnese.(なぁ、ちょっと。換わろうか? 俺は英語も日本語も喋れるからさ)」

 渡りに船、とばかりに彼の顔が明るくなる。きっと彼も日本語が分からなくて、どうしようもなく困ってたんだろう。しかも相手は拙いというか完璧に何か間違ってる、英語に
似た何かを喋っているんだから混乱も倍増だ。同じ思いは女性の方にもあったらし……

「あー、やっとこさ日本人が出てきたかい」
「……はい、あの……誰のところまで案内すればいいんですか?」
「おっ、話が分かるねぇ。お姉さんそういう子、好きだよ」

 端的に言おう。この人は布袋奈留<<ほていなる>>、売春婦だ。
 俺にとっては非常に馴染み深い人物であるが、それは『前の世界』での出来事である。だが一つはっきりさせておくべきは俺はこの人の世話になった事はない。絶対ない。断じてない。ただ布袋さんの方から俺の方に近づいてきた為に親交ができただけの事だ。

「はぁ……布袋さん。こういうの、ちゃんと相手と打ち合わせしておいて下さいよ……」
「ごめんごめん、何せあちらさんも新兵さんみたいな風だったからね。その辺のやり方ってもんを理解してないんだろ」
「今日は布袋さんが自分で?」
「そ。まぁ、お姉さんほどの美人さんだったら引く手数多だからねぇ」

 この布袋という人は中々の女傑であり、旧横浜市街の不法滞在者達を纏め上げている。『前の世界』の話だと、ここに来たのはほんの2,3ヶ月前の事らしいが……。そして、その不法滞在者達の多くは、まるで深海底の鯨骨生物群集のように横浜基地に頼って生きているのだ。とは言っても、何も衣食住の支援を受けているわけではなく、娯楽品や衣服などの物品からそれこそ肉体まで、取引をし合っている。布袋さんの場合で言えば、春を売る代わりに食料や備品を渡してもらっているらしい。こういった事は本当は軍規に反するのだが……まぁ、さして問題にならない範囲なので黙認されてるとか何とか。確かにこういう所で多少緩めとかないと誰だって窒息するしな。俺としては、周りに女性は沢山いるのだから何もわざわざ軍規を犯してまでそんな事をする必要があるのかと気になったものだけど、当時の同僚に聞いた限りでは『商売の関係だから後腐れがなくていい』そうだ。更に言うなら、女性衛士向けに若い男性も用意している、と布袋さん本人から聞いた事もあったっけ。

「へぇ、そりゃあどうも」
「よかったらお兄さんもどうだい? あんた、意外とあたしの好みだよ」
「遠慮しときます」
「どうもつれないね」

 さて、問題はここからである。
 バビロン作戦が発動してからの人類に敗色ムードが漂い、誰もが半ばやけくそになっていた時ならいざ知らず、流石に普通に機能している軍の基地に一般人を立ち居らせるのは問題がある。こういうのは本来客側が外出許可をとって、彼女達のテリトリーまでいくのが慣例だった。どうせ件の新兵がそれこそコールガールか宅配ピザでも頼むような気軽さで呼んだのだろう。それも当直の門兵に話をつける、といった初歩的な準備もせずに。

「すみません、申し訳ないんですけど基地への立ち入りは勘弁してもらえますか?」
「あら、どうしてだい?」
「さすがに部外者が基地内を歩き回ると、警備体制とか色々と問題になりかねないんで……もしそうなったら、今までの関係もご破算になりかねませんし。布袋さんと約束してた奴には、あとでそっちに行くかそれともキャンセルするか選ぶよう伝えときますんで」
「あらあら、そいつは困ったねぇ。ここまで来たのは骨折り損ってわけかい?」
「そいつに心づけさせますよ」
「……あんた、やっぱりあたしの好みだよ。どうだい、お兄さん。あたしの事買わないかい?」
「いや……だから困りますって」
「……武? どうしたのだ?」

 げ。まずい。

「その方はどなただ? 見たところ民間人のようだが……」

 こんなタイミングで冥夜が来るなんて予想外もいい所だ。というかそれはまだ何とかなる。頑張り次第で何とか誤魔化せるはずだ。まずいのは――

「あたしはね、布袋奈留。春を売る仕事してるのよ、今日はお仕事でこっちまで」
「なっ……!」
「違うんだ冥夜! これは決して俺がそういうアレをアレしてるわけではなくでだな、」
「そうだよ、お嬢さん。その通り。このお兄さんがあたしの事買ったわけじゃないの」

 布袋さん、ナイスフォロー! 俺はあんたの事を勘違いしていたようだ、あんたは善良な人だ、ありがとう!

「この人は仲介役なの」
「」(←ひどく青ざめている武)
「」(←ひどく赤面してる冥夜)
「いやー、このお兄さんがいなけりゃああたしも商売上がったりだったよ、本当感謝してるんだから」
「た、武! この件は私の一存では決めかねる、神宮寺教官に報告しておくからな!」
「冥夜、待ってくれ、違うんだ、誤解なんだぁぁぁぁぁぁあああ!」

 だがしかし、冥夜は俺の哀願など耳に入れず、走りさってしまった。
 ……うん。こりゃ地獄だな。この場で張り倒されるぐらいは勘弁していたけど、多分本気で処罰されるな。営倉とかじゃ済まない。これはあれか? 前に食堂で騒ぎを起こさなかったから、代わりにここでブタ箱行きしなさいっていう神のご意思か? 

「う~ん、若いねぇ」
「……あの、今の発言の所為で、俺が若くして生い先真っ暗なの理解してます?」
「あっはっは、大丈夫大丈夫。だってあんた、制服からして訓練兵さんだろ? そんな奴が仲介役なんてできやしないのは誰でも分かるさ。それに、この外人さんも証言してくれるんじゃないの?」

 だからといって笑い話じゃすまないだろう。
 間違いなく冥夜はしばらく俺と関わりあうのを嫌がるだろう。そして斯衛の連中は「よくも冥夜様の御心を踏みにじったなー!」とか言って俺の事を葬ろうとするに違いない。
 うん、俺死ぬな。白銀武永年18才。死因・冗談。……冗談じゃねーよ。

「じゃあね、白銀。……そうそう、あたしの注文主は×××って奴だから。そんじゃ言伝てよろしく」

 そして当の布袋さんはというと、風のように行ってしまった。風というか台風のような――いや、スーパーセルのような人だ。魔女と言い換えてもいいかもしれない。そうだった。布袋奈留とはこういう人だった。善良な人間だなんて考えこそが勘違いだったんだ……。

『……Brother,Don't drop mind. (……あんた……気を落とさないように)』
「……Thank you」




 ……。
 ……。
 ……面白い。期待通り、いやそれ以上だよ。
 あぁ、こんなにも胸が躍るのは何時以来だろう? あの薄汚い宇宙人どもを殺せないとそう分かったあの日から、いい事なんかなかったんだ。それでようやく、こんなわくわくに出会えたんだ。

『……どうだった?』

 小型の無線機から漏れてきたのは、裏切り者の声音。だがあたしにとっちゃ、あたし達にとっちゃ最高の協力者様の声音。獅子身中の虫とはよく言ったもんだよ。あんだけ体が膨れた組織ともなりゃ、そりゃあ我欲の為に寄生主を食い殺す奴だってなんだっているさ。

「いいねぇ、やっぱり。あんたの言ってた彼」
『そうじゃない。入り込めそうか?』

 相変わらずつれない御仁だこと。ばかみたいに真っ直ぐものを見る、こんな人間を愚直だって言うのかもしれないね。ま、どちらかというと曲がりくねった性質のようだけど。

「手引きさえあれば。やってくれんだろう?」
『あぁ、それぐらいはな』
「にしても、なんだって自分でやらないんだい? あたしに諜報員まがいの事させるより、自分で嗅ぎまわった方が早いだろうに」
『俺は今、色々と目をつけられてるんでな。何かすればすぐに嗅ぎつけられる』
「へぇ、じゃああたしはそんなあんたの身代わりってわけで」

 そんな身に甘んじるだなんて、あたしはよっぽどの馬鹿か善人ってこった。……惚れた弱みって奴かもね。女はつらいねぇ。

『……お前の方で何かミスは?』
「んーそうだねぇ……」

 ヘマ、ヘマ、ヘマ……何かやらかしたのは……。

「あぁ、そうだ」
『あるのか!?』
「がなりなさんなって。さっき言った坊やかな」
『何をしたんだ……』
「あの子、あたしの事知ってたみたいだよ。あたしが名乗る前にあたしの事、名前で呼びやがった」
『……どういうことだ? もし気付かれていたら――』
「慌てなさんな。どうせあたしの客だの噂だので、布袋って名前を耳にしたんだろ」
『ならいいのだが……ではまた何かあったら』
「んじゃ、ばいばーい」

 ……うふふふふうふうふふふふ。
 そんなんじゃないさ。何せあいつは――白銀は、あたしの事を見知ってやがった。話に聞いただのなんだので、初対面の人間を何の確認もせずに名前で呼ぶわけないじゃないのさ。せめてあんたが布袋か、って聞くに決まってる。だけど白銀は何の躊躇いもなかった。まるで知り合いに呼びかけるみたいにねぇ。
 だからね、あれはお返し。あたしもあいつの苗字を呼んでやったのは。あいつは気付いているのかな? 今頃『なんで苗字が分かったんだろう』って頭を抱えてるんだろうか、それとも馬鹿みたいにあのメイヤとか言う小娘を説得しに駆け回ってんだろうか? 噂の訓練兵なんだ、噂になるからにはせめてそれなりのモノを備えてておくれよ。あたしの名を呼ぶだなんてくそチンケなもんじゃなく、あの二発の爆弾みたいなもんをさ。
 あぁ……血が沸く、肉が踊る、胸が弾む、まるで初恋みたいな高揚感と焦燥感。戦場の風に吹き飛ばされ、退屈で醜悪な凪の中に落っことされたあたしの為のこの感覚。

「快感、ってやつだねぇ……」

 冬が近い、そんな風が吹いている。だけどいくら木枯らし様だって、じきに始まる大火事は消せないよ。いいや、この風は全てを燃え上がらせてくれる風かな。呪いも復讐も陰謀も罪業もこの土地も、何もかもを焼き払って灰にする、そんな火と風がじきにくる……。





「……てな事があったんですよ」

 数時間後、武はその日あった事を訓練のものとあわせて、夕呼に報告していた。それに対し夕呼は、最初こそ興味なさげな様子だったが、段々とその話題に関心を示していた。

「ふぅん、それって『前の世界』ではなかった事なのよね?」
「当たり前ですよ。『前の世界』だと、出会ったのはオルタネイティヴ5以降ですから」
「それってつまり、『この世界』の歴史が変わりつつあるって風に捉えることもできるんじゃないの?」

 そうか、と納得しかける武。だがすぐに、果たしてそう受け取ってしまって良いものなのか、という疑問が浮かんでくる。

「見るからに首を傾げてるわね」
「いや……だって食堂の飯とかみたいに俺が介入してなかったものは全然変わってないんですよ? なのにいきなりの事で……」
「一般論としてはね、そんなところにまで影響を及ぼすほど、私達の行動が大事になっているっていう答えが出せるのよ」

 教え諭すような口調の夕呼の言葉に、武は考え込むように視線を下げ、そして恐る恐る顔をあげた。

「……じゃあ、一般論じゃない答えだとどうなるんですか?」

 これには一瞬面食らった夕呼だったが、それは教え子の成長に驚く教師のそれだった。現に夕呼は、もう喜色を顔に浮かべている。夕呼はわざと溜めるように軽く息を吸い、それからゆっくりと、「そうね……」と言葉を紡ぐ。

「こうも考えられるんじゃない? あなた以外の誰かが、世界を変えうる行動を起こしている――なんて?」
「それって――!」
「勿論ただの仮説よ。でもね、世界を繰り返す白銀武、世界を跨ぐ大十字九郎。そんな人間が二人も居るんだもの、もう一人ぐらい世界に影響を及ぼすような『特別』が居てもおかしくないんじゃない? その行動が意識したものか無意識のものかは別としてね」

 その笑みはもう教師のそれではない。純粋な研究者としての、探求する何かを見つけた笑み。何か核心に至りうるかもしれないピースを手にした笑み。
 そこに善悪などなく、ただ純粋に『それ』を解き明かそうという思惟があった。それが彼女を探求者たらしめる原動であり、本質なのだろう。究明を第一と捉えるは学究に生きる者の定命である。観測し、分析し、思考し、定理を表すというものが生き様なのだ。
 しかし白銀武を始めとして、多くの人はそうではない。故にそれらの肯定を無視し、直感や『なんとなく』という曖昧模糊としたものに基づいて思考が開始される事も多く、寧ろその方が多いのかもしれない。それでも人が理知によって生きる限り、それらのある意味原始的とも言える思索は冷静で論理的な議論によって容易に追放されるのだ。どこの誰とて論拠から結論までが理性的に整えられた弁論を無視してまで勘に頼ろうとはすまい。
 だのに今、白銀武の意識は夕呼とは違った答えを求めている。
 明確な反証も何もないのに、そうではない、そんなものでなくもっと異様なものだ、と囁く声がするのだ。無論それは耳にするものでなく、ただ武の脳蓋の中に反響するだけのものである。だがそんなものは迷妄であると理性が反論し、結局その些細な響きは黙殺されるのだ。されねばならぬのだ。

「そうだ、夕呼先生。例のOSの件なんですけど――」

 話を切り替えたのはその間違った意識を振り払うためのものだ、という自覚はなかった。あるいは単純に、夕呼が仮説を出し、今はそれ以上のものは求められない以上話題は終わったのだ、という簡潔な思考があったのかもしれない。

「そうね、そろそろデータも取れてきたしプロトタイプをあなた達の機体にインストールしてもいいかもね」
「達? ひょっとして207Bのみんなの事ですか?」
「そうよ。だってあなただけのデータじゃ、白銀武専用OSになっちゃうじゃない。目標は普通の衛士が白銀並みに戦術機に扱う事なんだから」

 自分が範となるというのは武にしてみればもう慣れきった事である。『前の世界』に於いて前線に立つ事を許されなかった武の、数少ない仕事こそが後輩の育成だった。だがそれはあくまで教本の内容に準拠するものであり、変態的とすら称された武の機動を模倣するなど夢のまた夢、寧ろその機動の価値を正しく評価する人は稀だった。しかし今はその夢を現実に移そうというのだ。これには武とて未知の、何ともいえない感慨がある。照れ隠し半分に、ふと視線をずらすとそこには霞がおり、珍しく口角をわずかにあげ――どうやら微笑んでいるのだろうか。その意図するところはどうあれ、結局武は照れ隠しに失敗し、その部屋に留まるのすら頬を染めうる事である気すらしてきた。

「あー、先生。じゃあ俺、今日はこれで」

 不器用さを露にしつつ、武は短く告げるとそそくさと部屋を後にする。そして誰もいない廊下を渡りながら思索に耽っていた。
 布袋さんにしろ、OSにしろなんだか『前の世界』とは大分変わってきたな。これも夕呼先生の言うとおり、世界は変わってきてる。でもそれはどうなんだろう? いい方向に変わってるんだろうか。新潟へのBETA侵攻だって、確かに被害は減ったけど本来ならまだ生きてたはずの人が犠牲になってる。もしその中に夕呼先生やラダビノッド司令みたいに、この世界に――人類にとって大切な人間がいるかもしれない。もし出来上がるOSや、俺達の行動がそういう人を殺してしまう切っ掛けになったら……。
 どん、と。相も変らぬ、幾度となく繰り返した思考の堂々巡りを打ち切るように、曲がり角で武は誰かにぶつかった。ふと気付けばもう地階にまで来ていたのだ。時間が時間とはいえ、そんな場所を考え事をしながらぼうっと歩いていれば人にぶつかりもする。

「すみませ……冥夜! そうだ冥夜、昼間のあれは誤解だ!」

 だがしかし、当の冥夜は聞く耳持たぬとばかりに背を向けて、駆け抜けていった。走り去る中、何人かにぶつかっていったがそれでも構わずに足を止めなかった。見事なまでの拒絶である。逆にここまでくると冗談の類かと思えるほどに。
 慌てて追いすがろうとする武の進路を塞ぐようにあらわれたのは『元の世界』で3バカと呼び親しんだ三人のメイド、もとい斯衛である。その後ろを見れば赤い斯衛服を着た長髪の女性が冥夜の名を呼びながら全力疾走しているが、武がみるにあれは月詠だろう。

「白銀武! よくもまあ冥夜様の前に姿を見せたな!」
「聞きましたわよ、その……女性を食い物にしていると!」
「冥夜様のお心を踏みにじったなー!」
「いや、違うんだって3バカ、じゃないお三方! あれにはわけあってだな」
「今3バカと申しまわしわね! 許しませんわよ!」
「冥夜様を傷つけた罪、ただで済むと思うなよ!」
「言い訳は聞かないからなー!」
「話を聞けーーーー!!」

 ……この騒ぎを迷惑に思う、その心は果たして武にはなかった。
 それを何ゆえかと問われても、当の本人とてその答えは持ち合わせてはいない。だがしかしこの喧騒がかつての彼の日常であり、この変わり果てた世界――或いは彼自身すらも――での限りある慰めである事は事実である。たとえそれがひと時の仮初めであるとしてもだ。
 夜の空気の向こうではか白い月が暈をかけながら星の中に輝いている。日の光に代わり地上にそそぐ光は、太陽のそれ同様万人に平等である。月光の下で陽気に騒ぐものにも、月輪を見上げながらほくそ笑むものにも、そして月明かりの届かぬ地下深くに潜るものにすらも。







感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.657334089279