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09年マニフェストの「政治主導」 - 内閣の理念と挫折
民主党の09年マニフェストには、冒頭の見開きのページに、「鳩山政権の政権構想」と題して次の5策が掲げられている。(第1策)政府に大臣、副大臣、政務官、大臣補佐官などの国会議員約100人を配置し、政務三役を中心に政治主導で政策を立案、調整、決定する。(第2策)各大臣は、各省の長としての役割と同時に、内閣の一員としての役割を重視する。事務次官会議は廃止し、意思決定は政治家が行う。(第3策)官邸機能を強化し、総理直属の「国家戦略局」を設置し、官民の優秀な人材を結集して、新時代の国家ビジョンを創り、政治主導で予算の骨格を策定する。(第4策)事務次官・局長などの幹部人事は、政治主導の下で業績の評価に基づく新たな人事制度を確立する。政府の幹部職員の行動規範を定める。(第5策)天下り、渡りの斡旋を全面的に禁止する。官・民、中央・地方の役割分担の見直し、整理を行う。国家行政組織法を改正し、省庁再編を機動的に行える体制を構築する。以上だが、読みながら苦い溜息をつき、鬱々とした気分に落ち込み、失意の底に沈むのは私だけではないだろう。あの男の甘い言葉を信じてプロポーズに応じた私がバカだったと、20年前の結婚の後悔に苛まれる妻の心境だろうか。しかし、これは2年前の話である。実に、政治とは人を騙すことだ。真面目に考えれば、これほど空前で壮大な詐欺行為はない。


この「官僚主導から政治主導へ」の政策課題は、2年前の選挙で民主党が政権交代の意義を訴えるとき、有権者に最も強調したポイントだった。この「政治主導」の行政指針が、そのまま予算207兆円を組み替える財源政策に繋がり、16.8兆円を捻出して新政策を実施するマニフェストの構造になっている。今や、マニフェストと言えば、デフォルトで09年の民主党のマニフェストを指すほど、固有名詞と普通名詞の意味の順番が入れ替わったマニフェストは、決して子ども手当の支給などの政策カタログが要点なのではない。そうした表面的な見方は、自民党やマスコミによる狡猾なスリ替えであり、情報工作と観念操作による本質の隠蔽である。キーとなるプログラムのコンセプトは、官僚から政策と予算の主導権を奪い、議員がそれを主担することで、官僚による税金の浪費を廃絶するところにあった。これこそがマニフェストの基本である。これが基本だと確認するとき、官僚に頭を下げ、官僚との協調路線で政権運営しようとしながら、国会では「マニフェストの基本を守る」と言う野田佳彦の二枚舌が、いかに悪質な欺瞞であることか。国民への背信と愚弄であることか。また、それをそのまま積極的に報道し、野田佳彦を持ち上げるマスコミの論調が、どれほど欺瞞的で民主主義を犯すものであることか。事実は、野田政権の政策は2年前の民意とは全く逆のものなのである。

マニフェストに記されている「政治主導」の5項目は、裏切られた契約内容だが、憤懣を押し殺して一片の紙として対面すると、そこには民主党らしさの微香がある。この言葉に国民が裏切られる結果になったのは、騙した方が上手だったからと言うことができよう。ペテンの張本人は菅直人である。この「政治主導」の中身は、岩波新書の『大臣』に書かれている理論が、そのまま公約に落とし込まれたものだ。『大臣』の刊行は1998年。この年、民主党は、日本新党とさきがけを母体とする発足時の旧民主党から、そこに新進党崩れの右派と社会党崩れの左派を大量に組み込み、旧民社を包摂し、巨大勢力化した新民主党として新しいスタートを切っていた。党首は菅直人である。菅直人の『大臣』は、政治学の教科書として適切な内容で、法学部の公法・政治コースに入った1年生に推薦したい一冊だった。日本国憲法の統治機構の理念が何か、それと現行の権力体制がいかに乖離しているか、民主主義の基本原理が現実とのギャップの中でよく説明されていて、こういう本が過去に政治家によって書かれていないことが日本の政治の後進性を示していると評価できる佳作だった。敢えて言えば、この市民主義的な本が、民主党の(永久に確立することのない)綱領の左半分を代用するものだと、われわれはそのように理解していた。一言で言えば、そこで展開されていたのは内閣論である。内閣とは何かだった。

内閣が行政権を持つ。この、小学6年のときから教えられ、中学3年の公民、高校3年の政経と、何度も何度も社会科の授業で登場するところの、われわれの常識の概念について、それが現実には逸脱され、戦前と同じ官僚支配が続いていて、議会制民主主義が機能不全になっている事実を、菅直人は本来の理念と共によく説得していた。内閣論は民主主義論でもあった。民主主義の機能不全は内閣の機能不全によってもたらされ、したがって、内閣を本来的なものに実現(改造)すれば、日本の民主主義は憲法の理念に近づくという主張。ベーシックな正論である。自民党政権においては、事実上、内閣の存在が消えていて、実体として機能せず、大臣は在位1年のお飾りの名誉職であり、内閣ではなく官僚と族議員に行政権が委ねられていた。09年マニフェスト冒頭の「政治主導」の5項目は、この『大臣』のセオリーが政策に具現化されたものだと考えることができる。党政調を廃止して政策を内閣に一元化するという方針もそうだ。簡単にはできないだろうと思いつつ、それでも幾許かは期待したのは、このマニフェストの「政治主導」論が突然降って湧いたように登場したのではなく、菅直人の著作から10年の歴史がある提議と構想で、民主党の中では唯一見どころのある政策理念だったからだ。菅直人は、政権を取った後も、2010年1月に財務相に就任するときまで、「大臣は役所の代表ではなく国民の代表だ」と言っていた。

信じた私がバカだったとはいえ、ずいぶん手の込んだ騙しを系統的に続けたものだと、稀代のペテン師の努力と執念に舌を巻く。ウェーバーは、政治家は執念深くなければいけないと言っていたが、岩波新書の名著は、詐欺師による詐欺の手口を教える教科書になってしまった。詐欺師の虎の巻。1年間首相の座に就くために、20年間ずっと人を騙し続けた。詐欺商法を成功させるためには、そのくらい準備と待機を要するということだろう。こうして、菅直人の裏切りと、それによる幻滅によって、内閣の理念も地に堕ちたものになり、民主主義の統治機構論も色褪せたものになった。野田政権は、権力体制を名実共に自民党時代とフルコンパチブルなシステムに変え、菅直人的な、官僚に対立的で否定的だった要素を根絶する動きに出ている。おそらく、政経塾生の野田佳彦は、これまで一度も、菅直人的な「内閣の理念」などに共感を覚えたことはないだろう。野田佳彦の内面においては、憲法の民主主義や統治機構などは、唾棄すべき左翼思想の戯画であり、条件反射的に拒絶する醜穢だったに違いない。前原誠司も同じだろう。彼ら右翼政経塾生にとっては、日本のあるべき統治機構は1945年以前の原状にあり、政友会と民政党の二大政党制の時代こそが、あるべき保守本来の政治体制なのだ。それでよく、菅直人を党首に戴いて我慢していたものだと呆れるが、押忍の根性が野田佳彦の哲学であり、また、野田佳彦は菅直人の詐欺師の本性を見抜いていたに違いない。

常人の不可知な、究極の狸と狐の化かし合いの図であり、国民を嘲弄した呉越同舟と同床異夢の政治の世界である。それが、山口二郎の「政治改革」だった。この、地に堕ちた「内閣」や「政治主導」の理念は、果たしてこれからどうなるのだろうか。私は、これらは手の届かぬ遠い目標になり、紙の上の言葉になり、マスコミに冷笑される失敗談になったと、そうは思うけれど、他方、政治として息絶えたとは思っていない。このマニフェストの5項目は、依然として国民が達成しなければならない宿願であり、これなしに経済を立て直すこともできない焦眉の課題だ。そして、民主党が政権奪取した直後から今日までの過程を検証し、禁止と言っていた天下りが巧妙に禁止解除になり、長妻昭の首が刎ねられ、事務次官会議が堂々と復活した経緯を見ると、この5項目の実現が、いわゆる保守政権によって果たされる可能性のないことを直感する。これらを実現するのは革命的な政治勢力によってだろうし、それだけ、この「政治主導」という課題は日本の政治にとってラディカル(根源的)な問題なのだ。将来、誰かがこれを強力に断行するだろう。それを想像するとき、私の念頭に一つのアナロジーが浮かぶ。社会科学の世界では、マッカーサーの農地解放を戦前の共産党の32年テーゼと重ねて考えるのは一つの常識である。つまり、寄生地主制の廃絶の問題で、戦後日本の近代化と民主化の問題に他ならない。その課題を遂行した革命勢力はGHQだった。32年テーゼの中身については、ここでは詳しく立ち入らない。

課題を提出したのが32年テーゼで、実際に実現したのがGHQ。寄生地主は階級として清算され、日本の農村から地主小作制は消え、土地は小作に分配されて自作農の王国となった。革命である。フランス革命と同じ。09年マニフェストは、ひょっとしたら、32年テーゼのような歴史的な革命文書になるかもしれない、と、そう思うのである。戦前の寄生地主が、現在の霞ヶ関の官僚である。今、マスコミはマニフェストの意義を貶め、袋叩きにし、トロイカを罵倒し、国民の中の2年前のマニフェストへのコミットを消そうと躍起になっている。その政治を、官僚と自公と民主党主流派が総がかりでやっている。政治の表面で、「マニフェスト殺し」は圧倒的多数で、擁護する者は漸減し、小沢派だけになっている。だが、天下り禁止とか、特別会計の廃止とか、内閣による予算編成とか、課題は課題として生きるのであり、騙されても裏切られても、国民はしぶとくそれを求め続けるのだ。同期入省で最後に事務次官が残る慣行の廃止とか、もっと進んで、国家公務員上級職試験の廃止とかは、日本を変えるために断行しなければならない政治課題として残る。それらは、「政治主導」とか「行政改革」とか、目眩ましに名前を変えられ、マスコミと政治家に弄ばれながら、国民の中で09年マニフェストの原点に帰ろうとするだろう。米国や英国の政治を語るとき、「官僚」という悪性の言葉は出て来ない。「ワシントンの官僚が」云々という批判的意味の表現はしない。日本のような、天下り法人とか居酒屋タクシーとかマスコミとの癒着の問題がないからだ。

日本の官僚と政治主導の問題は、戦前の寄生地主制の問題のような政治学的様相を呈しつつある。



by thessalonike5 | 2011-09-15 23:30 | その他 | Trackback | Comments(0)
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