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野田佳彦による官僚権力の公認 - 官僚主導の極致へ
昨日(9/13)、野田佳彦の所信表明演説があり、全文が今日の新聞紙面に載っている。昨夜のテレビ報道では、野党の党首たちから、官僚の作文に終始していて、持論の政策機軸が打ち出されておらず、具体策が何も盛り込まれていないと辛辣な批判が浴びせられていた。首相の所信表明演説とは、首班指名された直後か臨時国会の冒頭に行われるものを指し、特に前者については、その政治家の積年の政治理念を説き、それを政策化した中身と決意を述べる本懐の機会である。来年9月の代表選を考えたとき、野田佳彦に二度目の所信表明演説の登壇があるかは疑わしい。本人もその点は自覚していたはずだが、理念や哲学の開陳はまるでなく、理論や概念の提示がなく、官僚の平板な作文に体育会系の根性論を塗した空疎な内容になった。野田佳彦の中にそうした契機がなく、意味や必要性を感じていないのだ。一生に一度の、歴史に残る所信表明演説ですら、官僚が書いた作文を読めばよいと、そう思っている。あるいは、体育会系の表現を塗り込むことが、理念や哲学だと思い込んでいるのである。政経塾生らしく。この男の演説には知性の要素がないのが特徴で、それ以上に、現実に対する緊張感や問題意識がない。あるのは、官僚に対する全幅の信頼である。官僚に国政を操縦させておけば安心だという信念だ。


官僚に任せておけば誰が安心で安全なのか。野田佳彦がである。この国の最高権力者である官僚に逆らわず、言いなりに徹し、政策の操舵を委ねていれば、官僚が政敵を排除し、マスコミ報道の支持率を維持し、長く総理の御輿に座らせ続けてくれる。それが、自らの無能を心得る野田佳彦の「哲学」であり、野田政権の「所信」の本音なのだ。野田佳彦の「哲学」はそれで自己完結するのだが、国民と国家にとってはまさに政治の喪失であり、民主主義の後退であり、官僚独裁の純化と強化が宣告されている不幸を意味する。野田政権誕生以降の急激で露骨な官僚権力の台頭については、何とも寒気がするもので、官僚が政治を仕切る程度が尋常でなくなっている。最近の政治報道は、そうした動きを伝えるものばかりだ。事務次官会議の復活もそうだし、八ツ場ダムの建設復活もそうだし、3次補正の提出を10月下旬に回す政治日程もそうである。私が特に驚かされたのは、9/6に官邸に事務次官を集めた会議で、野田佳彦が公然と「官僚機構の協力」を求めた事実である。野田佳彦は、「政治家だけで、この世の中を良くしていくことはできません」と言い、官僚に頭を下げ、官僚の協力が政権運営に不可欠だと明言、それをマスコミ各社に報道させている。これまで、このような発言をした首相がいただろうか。そもそも、官僚というのは、政治家(内閣)に協力する存在なのか。

同じ問題が、昨日(9/13)の所信表明の中にも見られ、「官僚は専門家として持てる力を最大眼に発揮する」という一節がある。おそらく、このように「官僚」の語を肯定的な意味で所信表明の中に登場させた例は、野田佳彦が初めてだと思われる。普通、政治の表の世界での発言や文面で、このような意味で「官僚」という語は出現しない。国会での大臣の答弁でも同じだ。「官僚」の語は、「官僚支配」とか「官僚主導」のように、通常は悪い意味で使われる。特別な批判言語である。悪性の政治シンボルだ。もともと官僚は黒子の存在で、黒子である官僚を指すときは、政治の世界では「役人」という語を用いていた。片山善博とか石原慎太郎の会見の場での言葉遣いを想起していただきたい。決して「官僚」という語をプレーンな一般名詞としては使わないはずだ。その文脈には「役人」の語を該当させ適用する。それが、官僚について語る際の正規のコードでありプロトコルなのだ。「官僚」と「役人」の二つは、物理的存在としては同じだが、表象と意味が異なる。役人の語の方は、中性的で、権力性がなく、下働きの事務員さんというニュアンスがあり、両腕に黒い袖カバーを付けた町役場の助役の姿が念頭に浮かぶ。謙った感じがある。実は、これこそが、日本国憲法が想定する公僕なのであり、片山善博が「役人」と言うときは、文脈として憲法15条の前提があるのである。正規のコードとプロトコルとは、憲法15条の原理なのだ。

今、野田政権が行っていることは、官僚の実体をその言語と共に正統化することである。「官僚」の語を悪性のものから正規のものへ、「官僚」のシンボルをマイナスからプラスへと転換する恐ろしい政治だ。憲法15条の規定には、戦前の「官吏」に対する批判の思想がある。高級公務員が官吏となり、民主主義を脅かすことへの警戒があり、彼らが民意を無視して政治を壟断する悪弊を阻止しようとする目的がある。「官僚」の語は、こうした文脈で批判的に使われてきたのであり、鳩山由紀夫も、菅直人も、片山善博も、さらに(発言だけを見れば)石原慎太郎も、同じコードとプロトコルに準拠していたと言えるのである。憲法15条の官吏批判の思想を共有していて、官僚というのは戦前の官吏と同じ体質を持った危険なもので、民主主義にとっては要注意の存在だという認識がある。そもそも、「官僚」という語は憲法の条文に存在しないし、内閣法にも国家行政組織法にも登場しない。官僚は、法的に認められた地位や職務ではなく、日本国の統治機構の中で権力を分与された存在ではない。したがって、首相が官僚を官邸に呼んで、政権運営に当たって官僚機構の協力を仰ぐという行為そのものが、厳密には憲法違反なのであり、本末転倒した違憲状態そのものなのだ。官僚と呼ばれる公務員は、大臣の指揮命令に従う現場作業員であり、政治や政策について独立の意思や権利を持つ主体ではない。政権に「協力」する立場など最初から持たない。

今、その原理と常識が覆され、憲法上存在しない「官僚」という権力機関がオーソライズされているのだ。野田佳彦は、「官僚機構」の内閣に対する独立性を認め、その独自の意思を尊重し、官僚の国政への関与を積極的に認めている。野党と同じような、国政における重要な勢力として位置づけ、政権にとって協調する対象としているのである。つまり、官僚は大臣に無条件に従う必要はなく、政策の判断と策定について、内閣から独立した意思と論理を持ってよいという意味に他ならない。手っ取り早く言えば、省利省益が正当化されたということだ。憲法は、国会を国権の最高機関と認め、国民に選ばれた議員が国の政策を立案し決定するものと定めている。その点から言えば、野田佳彦による官僚権力の公認は、議会制民主主義と議院内閣制の本義を崩すもので、「国のかたち」を大きく変える逸脱である。これまで、霞ヶ関の官僚権力と憲法の民主主義とは、ホンネとタテマエの緊張関係を続けてきて、官僚権力はあくまでモグリの実権の存在だった。その官僚権力が、民主党が政権交代で試みた政治主導に対して反撃し、奪権して原状回復する中で、自民党時代にすら持たなかった強大な権力の地平に到達したと言えよう。民主党の政治主導の理念は、菅直人の岩波新書『大臣』に書かれた内容であり、現状を憲法の統治機構の理念に近づけようとするものだったはずだが、カウンターを受け、逆に極端で異常な官僚主導の体制を現出させる羽目になった。皮肉な政治の弁証法である。

ここには、政経塾生である野田佳彦の新保守主義のイデオロギーがあり、鳩山由紀夫や菅直人には見られない積極的な憲法否定の態度が看取できる。野田佳彦の内面では、官僚を公僕とする憲法の思想は容認できないのだろう。それを官吏として認める戦前の体制の方が、野田佳彦にとっては自然なのに違いない。国民の前で平身低頭を演出しながら、こうして着々と政治体制の原理を戦後から戦前に戻している。狸だ。小泉純一郎と安倍晋三と麻生太郎が積み上げてきた路線を、さらに前に進化させようとしている。さて、この異常な官僚主導の政治現象について、別角度からもう少し掘り下げると、五公五民から六公四民への移行という本質が伏在するようにも思われる。もともと、憲法の言うような、国民が選挙した議員による政策の立案と決定などなかった。戦後も戦前と同じく、政策を決め、予算を組み、法律を書いてきたのは官僚である。一貫して官僚主導だった。官僚は、憲法の理念を形骸化させ、省利省益を貪欲に追求し、天下り法人を増殖させ、国民の税金を裏金庫(特別会計)に入れ、基本的には戦前の官吏と同じ特権階級の収奪と放蕩を続けていたのである。しかし、官僚の利害と国民の利害が一致しているような擬制が成立し、国民が官僚に対して怨嗟することがなかったのは、経済成長で国の収入が増え、税金が国民にも配分されていたからだ。全体のパイが小さくなったとき、官僚は江戸期の武士と同じく、自分の取り分を減らせないので、五公五民を六公四民に変更せざるを得ない。

国民への分配を減らすドラスティックな措置に出る。支配階級たる本性が出る。官僚権力の突出の基礎過程には、どうやらこういう内実がある。



by thessalonike5 | 2011-09-14 23:30 | その他 | Trackback | Comments(0)
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