9月11日(日曜日)に新宿で「反原発」だかのデモ行進があったようで、
これに反対する勢力との小競り合いの結果、主催者側の人間が12人ほど逮捕されたようだ。
警備の警官に対して殴ったとか何とかの公務執行妨害と主催者に対する公安条例違反だとからしい。
逮捕の模様をニコニコ動画で観たが、なんとも言いようがない。
反原発のデモ隊が極左・左翼勢力なのかそれに挑発された一般市民の集まりなのか、私としては知る由もないが、
彼等の逮捕に対し諸手を挙げて歓声をおくる反対派=原発推進派の態様が稚拙にみえる。
逮捕者周辺を取り囲み、警官に向って「早く逮捕しろ」「逮捕だ。いえーい」「射殺しろ」と無責任な言動で騒ぎまくる。
まあ、思想運動とは無縁の人々だから当然の対応であろう。
反原発という現体制に対する抵抗勢力が、いとも簡単に国家権力によって逮捕される現実に対しては、何の危機感も持たない人々なのである。
主催者が逮捕された理由と言うのはデモ隊を歩道にまで広げた公安条例違反だとか。
この程度でも逮捕する理由付けになるというのが、いずれは自分たちにも還って来る現実が予想できていないのだろうか。
国家権力側からすれば、原発推進を唱える所謂保守と称される人々の方が、遥かに要注意の対象になっていることが分からないのか。
昨年の渋谷デモの際にも書いたが、デモ隊に乱入した在日朝鮮人に対し、
デモ隊側から「警察は何をやっている。早く逮捕しろ」、との罵声が飛ばされたが、反対勢力から身を守るのは自己責任。
安易に警察権力を介入させるべきではない。
警察権力を介入させるのが当たり前となれば、我々が左翼・反日勢力のデモ・集会に抗議した際に、否応なく警官隊によって排除される訳で、
そこには民主主義の片鱗も見られない事になる。
それは米国大使館や支那大使館に対する抗議でもしかり。
全ての政治活動が官憲によって規制されて当然と言う社会が構築されていく。
だから政治活動に対する刑罰というのは軽いに越したことはない。
政治的主張を掲げた非合法の行動に対する司法の判断とは、「自らの主張を通すために、暴力に訴えた行為であり、厳罰に処するべきである」、として
重罰を下すのが常となっている。
本来であれば「自らの経済的利益のため」、「己の性的欲求を満たすため」の犯罪に比べれば、減刑されてしかるべきととろ、現実はその逆である。
これは、国家権力を掌握する現体制からすれば当然の帰結である。
体制側がもっとも恐れるのは私利私欲に捉われない、国家改革勢力である。
現体制が崩壊して自分達の既得権益が奪われることを最も危惧している。
そういった意味では、自らの性的欲求を満たすために幼女を誘拐殺害した犯人の方が安全であるから、
こういった輩に対しても死刑判決が下されることは、まづありえない。
所謂保守と称される人々の訴える原発推進とは思想運動に立脚した上で、国家のエネルギー政策を論じているものではないだろう。
原発事故を契機として盛り上がる、左翼系市民運動に対する反発のようにしか見えない。
思想運動であれば、官憲による安易な逮捕が自らの運動に適用されている実態に眼を向けない訳にはいかないからだ。
自分達の行動が規制された時には「不当な弾圧」、と抗議するのに同じことが反対勢力に向けられた時には歓迎しているが
どうしてこのような対応がとれるのか。
自分達が権力側から如何なる眼で見られているかを冷静に判断できていないのであろう。
10年前に靖国神社に左翼が乱入してきた。
今までは「反靖国」を標榜しても神社の敷地内に入る事はなかった。
首相小泉による靖国参拝をめぐりこの年から左翼・反日勢力が堂々と境内に入って声を挙げるようになった。
8月の終戦の日の間近、「左翼乱入」の一方を受けて靖国神社に急行すると
大村益次郎像の前で30人ほどのヘルメットにタオルで覆面の集団がハンドマイクで「反靖国」の集会を開催。中核派だ。
周りは機動隊が楯を持って丸く取り囲み、外部からの抗議を遠ざけている。
右翼団体や保守系の人々が「やめろ」「やめさせろ」、と訴えているが警官によって押し戻されている。
現着したばかりの私は通行人の振りをしてゆっくりと周囲を徒歩で通過。
機動隊の楯と楯の間に隙間が生じ一瞬に飛び込んで行って、演説者に体当たり、マイクのコードを引きちぎった。
周囲の者が覆いかぶさってきて転倒したところに警官隊が入って、離れた所に隔離された。
現場にいた公安が「被害者」側に事情聴取。
相手が告訴すれば威力業務妨害・器物損壊は当然だろう。
しかし、そこは中核派。告訴しないで集会を中止して、その場を立ち去った。
で、私は放免されたわけだ。
彼等は立場上は反対の位置にいるけれども、彼等なりに思想を持って行動している。
そして、安易に警察権力を介入させることが、長い眼で見れば自分達の運動にマイナスであることを知っている。
それは長年に渡って反体制の立場で活動として経験がある。
社会運動を実践するにおいて、自分の立ち居地は何処なのか。
現体制とそれに追随する暴力装置であるところの国家権力とは、如何なる位置関係にあるのか熟考することが肝要なのである。