東日本大震災発生から4日目の3月14日午後9時40分すぎ。福島県南相馬市役所1階にいた江井(えねい)芳夫課長(56)は、正面入り口から入ってきた迷彩服姿の自衛官が発した言葉に驚いた。
「原発が爆発します。退避してください」
自衛官は階段を駆け上がり、各階で「100キロ以上離れて」と呼びかけた。
25キロ南の東京電力福島第一原発では、12日午後3時36分に1号機で爆発が発生。約3時間後、政府は半径20キロ圏内に避難を指示した。南相馬市では1万4千人の避難が翌日までにほぼ終わったが、この日の午前11時1分、今度は3号機で爆発が起きていた。
原発の状況は、放射能汚染は……。市は情報を集めようにも、地震と津波で通信網がやられ、外部とつながるのは災害用の衛星携帯電話一つだけ。県の災害対策本部からは情報がほとんど来なかった。
駐車場の自衛隊車両は赤色灯を回し、内陸方面に向かっていく。職員たちは色を失った。
7万人の市民をどうやって100キロ動かすのか。高野真至主査(41)は「防災無線で流せばとんでもないことになる」と思った。自衛隊がなぜ動いたのか、いまも分かっていない。
情報は正しいのか。急いで県の災害対策本部に真偽を確かめた。「原発にそうした動きはない」と確認が取れたのは午後10時5分ごろ。その10分後、桜井勝延市長(55)も県から同じ回答を得た。市職員が説明のために避難所を回った。
しかし、市民は目の前の光景を信じ、情報はメールや口づてで広がっていた。避難所を出ていく人が続出。石神第一小学校では、1100人の避難者が翌朝には800人に減った。
ほかの自治体でも、情報の乏しさが混乱を生んでいた。
南相馬市で自衛隊に動きが出始める少し前の14日午後9時ごろ。第一原発の西25キロにある葛尾村役場では、松本允秀(まさひで)村長(73)らがテレビを囲んで情報収集していた。電話はすでに使えなくなっていた。
役場裏の浪江消防署葛尾出張所から消防職員が駆け込んできた。
「消防無線で聞いたんですが……」。第一原発の南西約5キロにある指揮所・オフサイトセンターに撤退の動きがあるという。国や県、東電などの幹部が集まり、事故の制圧にあたっているはずだった。
「我々で避難の判断をするしかない」。決断した松本村長は午後9時25分、防災無線で村民1500人に避難を指示した。
オフサイトセンターは震災当日から機能を失っていた。停電したうえ非常用電源は故障。電源は12日午前1時ごろに復旧したが、屋内で使える電話は1台だけ。ファクスは使えなかった。14日午前11時すぎに内部の放射能汚染が分かり、15日に閉鎖した。
もう一つの拠点、県の災害対策本部は、耐震性に難がある本庁舎を避け、隣の自治会館に置かれていた。初めは電話5台とファクス2台、防災無線2台だけ。ファクスは大量の送受信ですぐにパンクした。市町村に電話連絡しようにも、ままならない状態だった。
情報伝達と対応の拠点となるべき二つの拠点が機能を失い、市町村は孤立していた。15日朝、第一原発2、4号機で相次ぎ爆発が発生。政府は午前11時、半径20〜30キロ圏内に屋内退避を指示した。原発の状況がつかめない中、市町村は判断を迫られた。=肩書は一部当時
◇
3月11日から6カ月。原発事故のあと、情報はどう流れ、滞ったのか。住民の避難への影響は。自治体の現場から改めて検証した。
*2011.9.11朝日新聞朝刊
浪江町 東電から事故通報なし 検証・住民避難
大熊町役場に残っていた農業委員会の石田仁事務局長(57)が避難する車に乗り込んだとき、地鳴りのような音が響いた。12日午後3時36分、第一原発1号機で水素爆発が起きた。
少し走った後、石田事務局長は振り返った。原発から茶色っぽい煙が北の方に流れていく。「浪江町や双葉町に放射性物質がいく」と思った。
浪江町では、第一原発から29キロ離れた同町津島地区への避難が進んでいた。住民1400人の地区に約8千人が避難した。
道路は渋滞した。午後3時ごろに役場を出た馬場町長が3時間半をかけてようやく到着したころ。政府は避難指示の区域を半径10キロから20キロに広げた。原子力安全委員会の防災対策指針が重点を置くのは、半径8〜10キロ圏内だ。
県災害対策本部にとって想定外だった。「20キロ圏内って、どこなんだ」。地図を広げ、手作業で範囲を調べ、書き込んだ地図を壁に貼っていく。第二原発から20キロ圏内も対象という誤った情報が交錯。いったん発表したあと、修正した。
似たような混乱が市町村でも起きた。午後7時、南相馬市役所で災害対策本部会議が始まったとき、ニュースを見た防災安全課の職員が駆け込んできた。
「20キロ圏内に避難指示が出たようです」
国からも県からも連絡はなかった。首相名で出された避難指示の文書は、県と原発周辺4町だけに宛てられ、南相馬市など6市町村の名はなかった。
重要な連絡は県は本来、西庁舎から市町村に一斉ファクスなどで流す。だが、地震で西庁舎は立ち入り禁止に。代わりの電話連絡もうまくいかなかった。
西庁舎にはSPEEDI(スピーディ=緊急時迅速放射能影響予測)の端末もあった。風の強さや向き、地形などから放射性物質が降る範囲を予測する国のシステムだ。
運用する原子力安全技術センターは、地震発生の約2時間後から第一原発について解析を始めていた。
12日午後11時54分、県災害対策本部の求めで、解析結果をメールで送った。以後、1時間おきに送ったが、原発事故に対応する本部の原子力班には渡らなかった。
13日朝、原子力班の片寄久巳主幹(57)が原子力安全・保安院から、12日午前3時〜13日午前8時の解析結果32枚をファクスで取り寄せた。だが、データが古いなどとして県は公表を見送った。
南相馬市 報道で国の指示知る 検証・住民避難
3月11日午後2時46分、東京電力福島第一原発1〜4号機がある福島県大熊町を震度6強の揺れが襲った。町役場の秋本圭吾・企画調整課長(59)は、揺れが収まると、席の後ろにある第一原発との専用電話の受話器をつかんだ。
電話はつながらなかった。仕方なく第二原発に問い合わせると、稼働中の第一原発1〜3号機は「自動停止した」と言う。
「とりあえず大丈夫」。胸をなでおろした。
第一原発から異常を知らせるファクスが届き始めたのは、午後7時すぎだった。菅直人首相は緊急事態を宣言。国や県、東電などの幹部は、第一原発の南西約5キロの大熊町にある指揮所・オフサイトセンターに集まった。
昨年11月の防災訓練では、まず東電が国や県、周辺自治体に事故を通報。第一原発5、6号機がある双葉町と、大熊、富岡、浪江の各町はオフサイトセンターに幹部を派遣し、センターから町の災害対策本部に状況をテレビ電話などで伝える手順などを確認した。
だが、この日のオフサイトセンターは停電し、通信機能も失っていた。
午後9時23分、政府は第一原発の半径3キロ圏内の大熊町と双葉町の住民約1100人に避難を指示した。指示は、経済産業省の対策本部から両町へ。大熊町には電話がつながらなかったが、警察庁から福島県警ルートで伝わった。
12日になるころ、東電は原子炉の圧力を下げるため、放射性物質を含む蒸気を放出するベントの準備に入った。周辺地域の汚染は免れない。大熊、双葉町には午前1時43分以降、実施したときの被曝(ひばく)量の予測がいくつも届いた。
第二原発3、4号機がある富岡町にも同日未明、ベントの情報が入った。
第二原発との専用電話がある町役場1階の生活環境課に、町職員7、8人と東電社員2人が詰めていた。停電中の室内で、電話の声をメモする東電社員の手元を佐藤邦春係長(42)が懐中電灯で照らした。
「放射能が多少漏れるらしい」。東電社員の言葉に佐藤係長はゾッとした。
午前5時45分ごろ。大熊町の渡辺利綱町長(64)に細野豪志首相補佐官から電話が来た。「総理から避難指示が出た。協力していただきたい」
その直前、政府は半径10キロ圏内の大熊、双葉、富岡、浪江の4町の4万8千人に避難指示を広げた。
大熊町職員の武内一恵さん(37)が全町民に避難を求める声が防災無線から流れた。何度も原稿を読んで練習し、「落ち着いて行動を」と4回繰り返した。
浪江町は4町で最も多い1万6千人が避難対象になった。馬場有(たもつ)町長(62)は午前6時ごろ、テレビで原発の危機を知った。
「これは大変だ」
町役場は地震の影響で、電話やファクスが使えなかった。第一原発やオフサイトセンターからは何の情報も届かなかった。
浪江町は1998年に東電と、第一原発でのトラブルを通報連絡する協定を結んでいた。「スパナを落とした」「作業員が手を切った」。細かいことも広報担当者が役場に来て報告していた。
それなのに、この日は梨のつぶてだった。
午前10時17分、ベントが実施された。双葉町の井戸川克隆町長(65)は、災害対策本部がある役場2階の窓際に線量計を置いていた。メーターの針は上がった。「原子炉が爆発するよりはマシだ」。そう言い聞かせ、町民を避難先の川俣町へと送り出した。
だが、思いもしない爆発の瞬間が近づいていた。
葛尾村「自分で判断するしか」 検証・住民避難
14日午前11時1分、第一原発3号機で水素爆発が起きた。その直後、建屋から巨大な煙が立ち上る映像がテレビで流れた。
葛尾村役場にいた松本允秀(まさひで)村長(73)は衝撃を受けた。金谷喜一総務課長(59)に、県災害対策本部へ電話させた。「万が一に備え、受け入れ可能な市町村を紹介してほしい」
県は取り合わなかった。「半径20キロ圏外に避難指示は出ていません」。松本村長は「自分で判断するしかない」とあきらめた。
同日午後6時半、同じ山間部で交流がある川内村の遠藤雄幸村長(56)に電話した。「こっちは避難の準備が終わった。そっちはどうする?」。遠藤村長は「おれのところは、多分様子見だな」と答えた。
川内村には村民の1.5倍の約4300人の避難者が富岡町などから来ていた。軽々しくは動けない。だが、遠藤村長も避難に気持ちが傾いていた。
放射性物質は目に見えない。どこにどう広がっているかがわからず、人々をより不安にさせていた。
夜、富岡町総務課の菅野利行課長補佐(54)は、避難していた三春町の役場でパソコンの画面をにらんでいた。ドイツや米国などの放射性物質飛散予測サイトに、第一原発から伸びる雲のようなものが映っていた。
これから東風が吹き、雨になりそうだった。第一原発は48キロ東。「こっちさ、やって来る。明日は山場だよ」。川内村に12日から避難していた富岡町役場に連絡を試みたが、電話はつながらなかった。
屋内待避 一部市町村に届かず 検証・住民避難
15日午前0時55分。川内村の遠藤村長は避難の決意をほぼ固め、県災害対策本部に電話した。「原発は大丈夫か?」。答えは「20キロ圏外は安全です。避難は必要ありません」。直後に原子力安全・保安院に電話した富岡町の遠藤勝也町長(71)への回答も同じだった。
このあとの川内村と富岡町の合同対策本部会議で、避難の話は出なかった。
午前6時ごろに第一原発4号機、約10分後に2号機で爆発音が続いた。まもなく原発の正門付近の放射線量は上昇、1時間あたり約12ミリシーベルトに達した。
情報は県災害対策本部に届いた。「一体どれだけの放射性物質が放出されたのか」。原子力班はどよめいた。
爆発の少し前、浪江町の馬場町長は、二本松市の三保恵一市長(62)に「会いたい」と連絡していた。前の晩、隣の葛尾村が独自の判断で全村避難したことを町民から聞いていた。
午前7時。二本松市役所4階の暖房の切れた市長室で、馬場町長は急な訪問をわび、切り出した。「避難させていただきたい。雨露がしのげればいい」
作業服に厚手のジャンパーに長靴。真っ赤に充血した目。ただならぬ形相に、三保市長は「わかりました」とすぐ答えた。午前10時、馬場町長は二本松市への避難を指示した。
1時間後、政府は第一原発の半径20〜30キロ圏内の住民に屋内退避を指示した。県災害対策本部は市町村に連絡を取り始めた。だが一部は連絡がつかず、午後1時にあきらめた。担当者は、連絡がつかなかった自治体の名前を「南相馬市、浪江町、川内村、葛尾村、飯舘村」と書き残した。
その一つ、飯舘村ではこの日、避難者が1300人を超えていた。ガソリンスタンドの給油待ちの列は1キロに延びた。間もなく売り切れになり、スタンドを経営する北原博史さん(42)は雨がっぱ姿で「すみません」と頭を下げて回った。
午後6時20分。村役場近くの放射線量計が1時間あたり44.7マイクロシーベルトを記録。村民や避難者は初めて、20キロ圏外にも高い汚染地域があることを知った。
朝から放出された大量の放射性物質は風に乗り午前は川内村など、午後は浪江町津島地区や川俣町山木屋地区、飯舘村などに流れ、午後は雨で地表に落ちた。
放射性物質の広がりや濃度は、スピーディの予測とほぼ重なっていた。
遅れた東電対応、動けなかった県 検証・住民避難
5月4日、浪江町の馬場町長のところに東電の清水正孝社長が謝罪に来た。町長は「原発事故の通報連絡がなかったのは、協定違反じゃないか」ととがめた。
1カ月を過ぎた6月14日、東電社員が回答を持ってきた。「通信手段の不調により、着信に至らなかったものと思われます」
馬場町長は怒った。「電話が通じなくても、車で15分、歩いても1時間かそこらで来られる」
そして、思うに至った。「原発の立地町ではない浪江町なんて、東電の頭に毛頭なかったんだ」
県がスピーディを公表していなかったことは5月6日に明らかになった。同月15日、県の課長が謝りに来た。「我々の命をどう思っているんだ」と責めたが、国に物言えない県職員の姿を日ごろ見るにつけ、国の指示がないと判断できないのだろうと思えてきた。
復興関連の要望は、いまは直接国に言っている。県の役割は何なのか。そんな思いに駆られている。
県の松本友作副知事(61)は、市町村に情報が十分伝わらなかったことを認め、「反省点はある」と自戒する。政府などとの連携不足、オフサイトセンターの機能不全、通信手段の途絶。「どの方向にどう避難するか指示できるだけの精度の高い情報を得ていたとは言えない」と思う。
「共生という言葉以上に原子力を推進してきた。最大限やってきたつもりだが、どこかに隘路(あいろ)があったのかもしれない」=肩書は一部当時(木原貴之、小島寛明、清水優、茂木克信)
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「原発が爆発します。退避してください」
自衛官は階段を駆け上がり、各階で「100キロ以上離れて」と呼びかけた。
25キロ南の東京電力福島第一原発では、12日午後3時36分に1号機で爆発が発生。約3時間後、政府は半径20キロ圏内に避難を指示した。南相馬市では1万4千人の避難が翌日までにほぼ終わったが、この日の午前11時1分、今度は3号機で爆発が起きていた。
原発の状況は、放射能汚染は……。市は情報を集めようにも、地震と津波で通信網がやられ、外部とつながるのは災害用の衛星携帯電話一つだけ。県の災害対策本部からは情報がほとんど来なかった。
駐車場の自衛隊車両は赤色灯を回し、内陸方面に向かっていく。職員たちは色を失った。
7万人の市民をどうやって100キロ動かすのか。高野真至主査(41)は「防災無線で流せばとんでもないことになる」と思った。自衛隊がなぜ動いたのか、いまも分かっていない。
情報は正しいのか。急いで県の災害対策本部に真偽を確かめた。「原発にそうした動きはない」と確認が取れたのは午後10時5分ごろ。その10分後、桜井勝延市長(55)も県から同じ回答を得た。市職員が説明のために避難所を回った。
しかし、市民は目の前の光景を信じ、情報はメールや口づてで広がっていた。避難所を出ていく人が続出。石神第一小学校では、1100人の避難者が翌朝には800人に減った。
ほかの自治体でも、情報の乏しさが混乱を生んでいた。
南相馬市で自衛隊に動きが出始める少し前の14日午後9時ごろ。第一原発の西25キロにある葛尾村役場では、松本允秀(まさひで)村長(73)らがテレビを囲んで情報収集していた。電話はすでに使えなくなっていた。
役場裏の浪江消防署葛尾出張所から消防職員が駆け込んできた。
「消防無線で聞いたんですが……」。第一原発の南西約5キロにある指揮所・オフサイトセンターに撤退の動きがあるという。国や県、東電などの幹部が集まり、事故の制圧にあたっているはずだった。
「我々で避難の判断をするしかない」。決断した松本村長は午後9時25分、防災無線で村民1500人に避難を指示した。
オフサイトセンターは震災当日から機能を失っていた。停電したうえ非常用電源は故障。電源は12日午前1時ごろに復旧したが、屋内で使える電話は1台だけ。ファクスは使えなかった。14日午前11時すぎに内部の放射能汚染が分かり、15日に閉鎖した。
もう一つの拠点、県の災害対策本部は、耐震性に難がある本庁舎を避け、隣の自治会館に置かれていた。初めは電話5台とファクス2台、防災無線2台だけ。ファクスは大量の送受信ですぐにパンクした。市町村に電話連絡しようにも、ままならない状態だった。
情報伝達と対応の拠点となるべき二つの拠点が機能を失い、市町村は孤立していた。15日朝、第一原発2、4号機で相次ぎ爆発が発生。政府は午前11時、半径20〜30キロ圏内に屋内退避を指示した。原発の状況がつかめない中、市町村は判断を迫られた。=肩書は一部当時
◇
3月11日から6カ月。原発事故のあと、情報はどう流れ、滞ったのか。住民の避難への影響は。自治体の現場から改めて検証した。
*2011.9.11朝日新聞朝刊
浪江町 東電から事故通報なし 検証・住民避難
大熊町役場に残っていた農業委員会の石田仁事務局長(57)が避難する車に乗り込んだとき、地鳴りのような音が響いた。12日午後3時36分、第一原発1号機で水素爆発が起きた。
少し走った後、石田事務局長は振り返った。原発から茶色っぽい煙が北の方に流れていく。「浪江町や双葉町に放射性物質がいく」と思った。
浪江町では、第一原発から29キロ離れた同町津島地区への避難が進んでいた。住民1400人の地区に約8千人が避難した。
道路は渋滞した。午後3時ごろに役場を出た馬場町長が3時間半をかけてようやく到着したころ。政府は避難指示の区域を半径10キロから20キロに広げた。原子力安全委員会の防災対策指針が重点を置くのは、半径8〜10キロ圏内だ。
県災害対策本部にとって想定外だった。「20キロ圏内って、どこなんだ」。地図を広げ、手作業で範囲を調べ、書き込んだ地図を壁に貼っていく。第二原発から20キロ圏内も対象という誤った情報が交錯。いったん発表したあと、修正した。
似たような混乱が市町村でも起きた。午後7時、南相馬市役所で災害対策本部会議が始まったとき、ニュースを見た防災安全課の職員が駆け込んできた。
「20キロ圏内に避難指示が出たようです」
国からも県からも連絡はなかった。首相名で出された避難指示の文書は、県と原発周辺4町だけに宛てられ、南相馬市など6市町村の名はなかった。
重要な連絡は県は本来、西庁舎から市町村に一斉ファクスなどで流す。だが、地震で西庁舎は立ち入り禁止に。代わりの電話連絡もうまくいかなかった。
西庁舎にはSPEEDI(スピーディ=緊急時迅速放射能影響予測)の端末もあった。風の強さや向き、地形などから放射性物質が降る範囲を予測する国のシステムだ。
運用する原子力安全技術センターは、地震発生の約2時間後から第一原発について解析を始めていた。
12日午後11時54分、県災害対策本部の求めで、解析結果をメールで送った。以後、1時間おきに送ったが、原発事故に対応する本部の原子力班には渡らなかった。
13日朝、原子力班の片寄久巳主幹(57)が原子力安全・保安院から、12日午前3時〜13日午前8時の解析結果32枚をファクスで取り寄せた。だが、データが古いなどとして県は公表を見送った。
南相馬市 報道で国の指示知る 検証・住民避難
3月11日午後2時46分、東京電力福島第一原発1〜4号機がある福島県大熊町を震度6強の揺れが襲った。町役場の秋本圭吾・企画調整課長(59)は、揺れが収まると、席の後ろにある第一原発との専用電話の受話器をつかんだ。
電話はつながらなかった。仕方なく第二原発に問い合わせると、稼働中の第一原発1〜3号機は「自動停止した」と言う。
「とりあえず大丈夫」。胸をなでおろした。
第一原発から異常を知らせるファクスが届き始めたのは、午後7時すぎだった。菅直人首相は緊急事態を宣言。国や県、東電などの幹部は、第一原発の南西約5キロの大熊町にある指揮所・オフサイトセンターに集まった。
昨年11月の防災訓練では、まず東電が国や県、周辺自治体に事故を通報。第一原発5、6号機がある双葉町と、大熊、富岡、浪江の各町はオフサイトセンターに幹部を派遣し、センターから町の災害対策本部に状況をテレビ電話などで伝える手順などを確認した。
だが、この日のオフサイトセンターは停電し、通信機能も失っていた。
午後9時23分、政府は第一原発の半径3キロ圏内の大熊町と双葉町の住民約1100人に避難を指示した。指示は、経済産業省の対策本部から両町へ。大熊町には電話がつながらなかったが、警察庁から福島県警ルートで伝わった。
12日になるころ、東電は原子炉の圧力を下げるため、放射性物質を含む蒸気を放出するベントの準備に入った。周辺地域の汚染は免れない。大熊、双葉町には午前1時43分以降、実施したときの被曝(ひばく)量の予測がいくつも届いた。
第二原発3、4号機がある富岡町にも同日未明、ベントの情報が入った。
第二原発との専用電話がある町役場1階の生活環境課に、町職員7、8人と東電社員2人が詰めていた。停電中の室内で、電話の声をメモする東電社員の手元を佐藤邦春係長(42)が懐中電灯で照らした。
「放射能が多少漏れるらしい」。東電社員の言葉に佐藤係長はゾッとした。
午前5時45分ごろ。大熊町の渡辺利綱町長(64)に細野豪志首相補佐官から電話が来た。「総理から避難指示が出た。協力していただきたい」
その直前、政府は半径10キロ圏内の大熊、双葉、富岡、浪江の4町の4万8千人に避難指示を広げた。
大熊町職員の武内一恵さん(37)が全町民に避難を求める声が防災無線から流れた。何度も原稿を読んで練習し、「落ち着いて行動を」と4回繰り返した。
浪江町は4町で最も多い1万6千人が避難対象になった。馬場有(たもつ)町長(62)は午前6時ごろ、テレビで原発の危機を知った。
「これは大変だ」
町役場は地震の影響で、電話やファクスが使えなかった。第一原発やオフサイトセンターからは何の情報も届かなかった。
浪江町は1998年に東電と、第一原発でのトラブルを通報連絡する協定を結んでいた。「スパナを落とした」「作業員が手を切った」。細かいことも広報担当者が役場に来て報告していた。
それなのに、この日は梨のつぶてだった。
午前10時17分、ベントが実施された。双葉町の井戸川克隆町長(65)は、災害対策本部がある役場2階の窓際に線量計を置いていた。メーターの針は上がった。「原子炉が爆発するよりはマシだ」。そう言い聞かせ、町民を避難先の川俣町へと送り出した。
だが、思いもしない爆発の瞬間が近づいていた。
葛尾村「自分で判断するしか」 検証・住民避難
14日午前11時1分、第一原発3号機で水素爆発が起きた。その直後、建屋から巨大な煙が立ち上る映像がテレビで流れた。
葛尾村役場にいた松本允秀(まさひで)村長(73)は衝撃を受けた。金谷喜一総務課長(59)に、県災害対策本部へ電話させた。「万が一に備え、受け入れ可能な市町村を紹介してほしい」
県は取り合わなかった。「半径20キロ圏外に避難指示は出ていません」。松本村長は「自分で判断するしかない」とあきらめた。
同日午後6時半、同じ山間部で交流がある川内村の遠藤雄幸村長(56)に電話した。「こっちは避難の準備が終わった。そっちはどうする?」。遠藤村長は「おれのところは、多分様子見だな」と答えた。
川内村には村民の1.5倍の約4300人の避難者が富岡町などから来ていた。軽々しくは動けない。だが、遠藤村長も避難に気持ちが傾いていた。
放射性物質は目に見えない。どこにどう広がっているかがわからず、人々をより不安にさせていた。
夜、富岡町総務課の菅野利行課長補佐(54)は、避難していた三春町の役場でパソコンの画面をにらんでいた。ドイツや米国などの放射性物質飛散予測サイトに、第一原発から伸びる雲のようなものが映っていた。
これから東風が吹き、雨になりそうだった。第一原発は48キロ東。「こっちさ、やって来る。明日は山場だよ」。川内村に12日から避難していた富岡町役場に連絡を試みたが、電話はつながらなかった。
屋内待避 一部市町村に届かず 検証・住民避難
15日午前0時55分。川内村の遠藤村長は避難の決意をほぼ固め、県災害対策本部に電話した。「原発は大丈夫か?」。答えは「20キロ圏外は安全です。避難は必要ありません」。直後に原子力安全・保安院に電話した富岡町の遠藤勝也町長(71)への回答も同じだった。
このあとの川内村と富岡町の合同対策本部会議で、避難の話は出なかった。
午前6時ごろに第一原発4号機、約10分後に2号機で爆発音が続いた。まもなく原発の正門付近の放射線量は上昇、1時間あたり約12ミリシーベルトに達した。
情報は県災害対策本部に届いた。「一体どれだけの放射性物質が放出されたのか」。原子力班はどよめいた。
爆発の少し前、浪江町の馬場町長は、二本松市の三保恵一市長(62)に「会いたい」と連絡していた。前の晩、隣の葛尾村が独自の判断で全村避難したことを町民から聞いていた。
午前7時。二本松市役所4階の暖房の切れた市長室で、馬場町長は急な訪問をわび、切り出した。「避難させていただきたい。雨露がしのげればいい」
作業服に厚手のジャンパーに長靴。真っ赤に充血した目。ただならぬ形相に、三保市長は「わかりました」とすぐ答えた。午前10時、馬場町長は二本松市への避難を指示した。
1時間後、政府は第一原発の半径20〜30キロ圏内の住民に屋内退避を指示した。県災害対策本部は市町村に連絡を取り始めた。だが一部は連絡がつかず、午後1時にあきらめた。担当者は、連絡がつかなかった自治体の名前を「南相馬市、浪江町、川内村、葛尾村、飯舘村」と書き残した。
その一つ、飯舘村ではこの日、避難者が1300人を超えていた。ガソリンスタンドの給油待ちの列は1キロに延びた。間もなく売り切れになり、スタンドを経営する北原博史さん(42)は雨がっぱ姿で「すみません」と頭を下げて回った。
午後6時20分。村役場近くの放射線量計が1時間あたり44.7マイクロシーベルトを記録。村民や避難者は初めて、20キロ圏外にも高い汚染地域があることを知った。
朝から放出された大量の放射性物質は風に乗り午前は川内村など、午後は浪江町津島地区や川俣町山木屋地区、飯舘村などに流れ、午後は雨で地表に落ちた。
放射性物質の広がりや濃度は、スピーディの予測とほぼ重なっていた。
遅れた東電対応、動けなかった県 検証・住民避難
5月4日、浪江町の馬場町長のところに東電の清水正孝社長が謝罪に来た。町長は「原発事故の通報連絡がなかったのは、協定違反じゃないか」ととがめた。
1カ月を過ぎた6月14日、東電社員が回答を持ってきた。「通信手段の不調により、着信に至らなかったものと思われます」
馬場町長は怒った。「電話が通じなくても、車で15分、歩いても1時間かそこらで来られる」
そして、思うに至った。「原発の立地町ではない浪江町なんて、東電の頭に毛頭なかったんだ」
県がスピーディを公表していなかったことは5月6日に明らかになった。同月15日、県の課長が謝りに来た。「我々の命をどう思っているんだ」と責めたが、国に物言えない県職員の姿を日ごろ見るにつけ、国の指示がないと判断できないのだろうと思えてきた。
復興関連の要望は、いまは直接国に言っている。県の役割は何なのか。そんな思いに駆られている。
県の松本友作副知事(61)は、市町村に情報が十分伝わらなかったことを認め、「反省点はある」と自戒する。政府などとの連携不足、オフサイトセンターの機能不全、通信手段の途絶。「どの方向にどう避難するか指示できるだけの精度の高い情報を得ていたとは言えない」と思う。
「共生という言葉以上に原子力を推進してきた。最大限やってきたつもりだが、どこかに隘路(あいろ)があったのかもしれない」=肩書は一部当時(木原貴之、小島寛明、清水優、茂木克信)
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