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目の前で次々に参加者が逮捕されていった/私が体験した9.11新宿反原発デモ



昨日、新宿の反原発デモに行った。
前回、二名の逮捕者が出たと聞いていたので少し不安があったが、
この前は渋谷に行ったし、今度は新宿を歩いてみたいという軽い気持ちだっだ。
終わったらカフェで休憩して、その後は紀伊国屋で新書でも探すつもりだった。

デモは届け出た東口方面が許可されず、西口南口方面にコース変更されたというこ
とだった。だが集合場所の新宿中央公園に行ってみると、既に不穏な雰囲気である。
まず警察の警備が普通じゃない。
警察官がズラッと並んでいる姿は、それだけで威圧感がある。
しかも写真を撮りまくっている。
紫外線よけのサングラスをかけてきてよかったと思ったが、逆に目立つ・・・

一方デモ隊の方も、先頭のサウンドカーに乗るパンクロッカーたちが、既にエキサイトしていた。
彼らは前回、仲間を逮捕されている。
いつもいつも、こうして過剰警備されることへの怒りが爆発寸前だったようだ。

さて、大勢の人が集まっていよいよデモ行進が始まった。
混乱を避けるためもあるだろうが、小さなグループに分けて10分おきに出発するから、
道往く人はからは少人数にしか見えないだろう。
残念だ。

出発時刻が近づくと、空気がぴりぴりして緊張感が走った。
警察が本格的な警備体制に入ったのがわかる。
そして出発時、先頭集団にいきなりすごい規制がかかった。
道がふさがれて、細々としか出発できないのである。

初めての人もいただろう参加者たちの多くは、不可解な気持ちを抱きながら歩き始めたと思う。
しかも出発と同時に警察官が、いつもは帽子ひさしの部分にかけている紐を一斉に顎にかけた。
私は恐怖を感じた。後で知ったのだが、この時点で既に逮捕者が出ていたらしい。

とにかく規制がすごい。
車道を歩くのだから、事故を起こさないためにも規制が必要なのは認めるが、これは過剰である。
参加者が多いから、汗にまみれた体がぶつかり合う。
それで広がろうとすると、中に押し込まれる。

それを避けて、歩道に出る参加者が増えていった。
だが一度歩道に出ると、もう隊列には戻れない。
これではデモにならないではないか。
息苦しい雰囲気が漂い、デモ隊にストレスが溜まりはじめた。

そのストレスは、甲州街道に入って新宿駅南口に差し掛かった頃、沸点に達した。
私は先頭集団の前の方、サウンドカ−が近くで見える位置にいた。
突然サウンドカ−が止まり、揉み合いになっている。
サウンドカ−と後続のデモ隊との間に、警察官たちが割り込んでいる。
訳がわからない。なぜ警察官たちが割り込んできたのだろう。

と思ったら、後ろでもトラブルが起きている。
参加者たちが何事かと近寄ろうとするが、警察官に制止されて近づけない。
一方、警察官らは集団で誰かを取り囲んでいる。
人が倒れているのが見えた。
私の横にいた男性が、連れていた子どもを一緒にいた知人らしき人に預けて、跳んでいった。

やがて警察官が参加者を逮捕しようとしていることがわかって、私は愕然とした。
こういう光景を目の当たりにしたのは初めてだったので、声もなく見ているだけで何もできなかった。
こんなにあっけなく逮捕されるものなのか。
子どもを預けて跳んでいった男性が、地面に抑え込まれているのが見えた。

「血を流している人がいる!」。近くで叫び声が聞こえた
手を繋いで参加していたカップルや子連れの若夫婦が、驚いて立ちすくんでいる。
日本を危機に陥れている原発推進政策に異を唱えようという気持ちだけで、つまり愛国心から、
貴重な日曜の午後に炎天下を歩いているのに、このような事態になるとは。
逮捕の指揮を取っているらしい公安刑事の怒鳴り声が凄くて、全身から血の気が引くのがわかった。

聞くところによると、ここで離脱した参加者が大勢いたらしい。
誰だって警察沙汰には巻き込まれたくないし、勇気を出して初めて参加した人は恐れをなすだろう。
私は以後、嫌な気持ちで歩きつづけた。
右隣にいた学生風の若者も、警察官がいくら「もっと中に入って!」と言っても、顔を強張らせたまま、頑として言うことを聞かなかった。

私の左側にいた若い警察官は人の好さそうな顔をしていて、方向音痴の私がきょろきょろしていると、「もうすぐ靖国通りですよ」などと、親切に教えてくれる。
だがそういう警察官も突然、別人のようになるから恐い。
私の実感では私服警官もかなりいた。

靖国通りでは在特会が待ち受けていた。
在日特権を許さない会である。
私は初めて噂の在特会を見たので、目が釘付けになった。
彼らは日の丸と旭日旗と、「原発デモは過激な反日デモ」というようなことが書かれた幟を持ち、「極左!」などと叫んでいた。

デモ隊の中には近寄って口論し、結局は小競り合いになって逮捕された人もいたらしい。
もう逮捕の嵐である。
そのどさくさの中で、誰かがお腹を蹴られていたようだ。

デモを覆い続けた不快感は、新宿中央公園に戻った時に頂点に達した。
高い車の上に乗った警察官から、即解散を命じられたのである。
「君たちのデモは終了している! すぐに解散しなさい!」。
この言い方にも驚いた。

みんな二時間歩いて疲れている。
トラブルもあったし、精神的にもけっこう参っていた。
ここで少し休みたいと思っていた。
それがいきなり解散命令である。
私は善良な一般市民で、社会に迷惑をかけたこともないし、人からこんな言い方をされたこともない。

座り込んでいた若者がぽつりと言った。
「どうして命令口調なんだ」。
こういう声もあった。
「初めから潰しにきたとしか思えない。これじゃデモにならない」。
「どうして公園にいてはいけないのか」と抗議に行った人がいたが、
また逮捕されるのではないかと、私は気が気ではなかった。

高い所から解散命令を叫び続けていた警察官は若かった。
恐らくキャリア組なのだろう。
デモ参加者は完全に見下されていると思った。

この新宿デモ自体が見下されているのである。
最初から狙われていたのだ。
エコロジー系が多く参加する渋谷のデモでは、ここまでの警備はなかった。
解散命令もなかった。

19日の代々木公園の集会やデモも、こういうことにはならないだろう。
大江健三郎や落合恵子ら、文化人が呼びかけているからである。
だが新宿デモは、素人の乱が主催するサブカル系である。
サウンドカーに乗っているパンクロッカーたちは、お行儀も口も悪い。
怒りに任せて叫ぶ。
新宿デモは挑発しやすく、叩きやすかったのだ。

だが、それで逮捕されるとは思わなかった。
彼らは上手にスピーチすることができないし、感情的本能的に行動する。
良識的とは言えないし、怒鳴ることもある。
だが社会的には何の力もなく、人を傷つけているわけでもない。
いま多くの人が傍観している中、多大なリスクを背負い、何の得にもならないことに必死で取り組んでいるのだ。

確かに彼らのやり方は下手だし、大企業の良識的な正社員が見たら眉をひそめるだろう。
だが原発が日本社会を危機に陥れ、国民の生命と財産を脅かしていることに対する彼らの怒りは正当だ。
今は怒るべき時なのである。
目の前で進行している、このあからさまな不正義を許していいのか。

彼らは少なくとも傍観者ではない。
一体誰が反原発デモの先頭に立つだろうか。
世の中、全てわかっていて何もしない常識人や評論家ばかりだ。

私は、数十年に及んだ水俣病原因究明の過程を思い出した。
水俣の漁師たちは上京し、チッソ本社前で座り込みをし、声の限りに叫び、幹部たちを怒鳴った。
端から見たら、下品で乱暴に見えただろう。

だが海で体を張って生きてきた漁師たちが、東大出の幹部や官僚を冷静に理路整然と説得できるだろうか。
彼らには怒りに任せて叫び、全身で訴える以外になかったのだ。
そんな漁師たちの「行儀に悪さ」に対する世間の冷たい目が、
原因究明と問題解決を送らせた原因の一つだったと私は思っている。
問題の本質を見るべきだ。

翌朝の新聞は逮捕者の数ばかりを伝えた。
中には「違法デモで12人逮捕」といいう見出しもあった。
違法デモ! ちゃんと許可を取って行なったのに。
しかも参加者を2千人と矮小化していた。

法律では認められていても一般人は参加しなくなっていたデモが、原発を機に復活した。
恐らく、それを快く思っていないのだろう。
その切り崩しの端緒として、新宿デモはうってつけだったと思われる。
また過激な連中が集まって何かやっているという、悪い印象を広める上で。
実際には、本当に普通の一般市民がたくさん参加していたのだ。

民主主義はかよわい。
法制度をいくら整えても、すぐに空洞化する。
ストもデモも違法ではない。

たとえそれが上品なものではなかったとしても、逮捕の理由になるのか。
私たち一般市民は、これを肝に命じるべきだろう。
公権力を行使できる立場と行使される立場の、圧倒的な違いを知らなくてはならない。
非暴力の反原発デモで12人が逮捕されるなんて、異常事態としか言いようがない。

私は今までこういう話を聞いては怒りを感じていたが、実際に見てみると信じられない光景だ。
聞くと見るとは大違いである。
今思い出してみても、どうしてあそこでいきなりトラブルが起きたのか、現場にいたのに理解できない。
警察官が割り込んでくれば当然、体もぶつかるし混乱も起きる。
何が起きているのかわからないうちに、あっけなく逮捕だ。
まるで悪夢である。

新聞などによると、主催者を逮捕した理由の一つは「デモの隊列を広げた」ことだそうだ。
こういうことが逮捕の理由になるなんて、どういう法律なんだ。

ドイツのメディアはこう報じている。
「デモが、誰でも参加できる楽しい祭りにならないよう圧力をかけている」
確かに、アングラ文化やフォークゲリラなどの伝統がある新宿で、
若者が参加するデモができないようにする狙いがあったのかもしれない。
もしかしたら初めから、南口の人通りの多いところで逮捕劇を繰り広げる作戦だったのか。

今、恐怖は悔しさに変わっている。
連行されていった若者の一人は、初めてデモに参加したような感じで、茫然自失状態だった。
今、どういう思いで勾留されているのだろうか。

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新大久保コリアンタウンを見て思う/日韓関係と日中関係の違い
テレビ東京の「ガイアの夜明け」で、新大久保コリアンタウンが取り上げられていた。
いま日本で一番元気な街で、多い日には一日六万人が訪れるとか。
人気焼肉店は留学生のイケメン店員を揃えた上、韓国から特殊部隊出身者を呼んでチーフにしている。それはもう、韓国の男性なら皆言う事をきくだろう。

日本人にとって韓国は今、初めて経験する身近な外国になっている。
もともと隣国だから当然のようだが、何しろ近くて遠い国だった。
それが本当に近くなった。

外国語にしたって、ほとんどの日本人にとっては使う可能性があるかどうかのものだったが。韓国だったら気軽に行けて気軽に使えるから、学ぶ楽しみがある。
うまく話せなくても、白人を相手にする時のような緊張感や羞恥心を感じずに済む。

一方、韓国人が話す日本語に特有な舌足らずの発音が、今やかわいいと受け止められている。これは画期的だ。
私も韓国人のマイミクさんが、「お父さん」を「おっとさん」と言うのをかわいいと思っている。関東大震災の時にはこの発音が命取りになった事を思うと、感無量だ。

ただ韓流ファンの女性が、軍隊に行く韓国人男性は強くてカッコいいと言うのは困ったことだ。何か勘違いしていないか。
誰も喜んで行っているわけではない、本心では。

それと、改めて中国はまだまだ日本人にとって遠い国だなぁと痛感する。
俳優の顔も日本人好みではないし、やはり感覚がかなり違うのである。
これだけ経済関係が緊密になっているのに、日中関係は難しい。

ところで、SMAPが九月に初めて北京で海外公演を行うという。
結成二十年目にして初めての海外公演だというから驚き!
全くアジア進出を考えていなかったなんて。
もっとアジアで日本のコンテンツを売らなくちゃ。

そのSMAPの公演だが、日中の大物や政治家がたくさん賛同していて、
どうやら日中関係改善の梃子にしようとしているらしい。
エンタメ交流が今一つである日中関係は、どうしても既成の日中友好路線になってしまう。
つまり官製の日中友好路線だ。
ここをどう突き抜けるかが最大の課題だろう。

日韓関係と日中関係は、政治とは関係なく安定していることが重要だ。
それが東アジアの安定のためにも、日本のためになる。
もちろん個々の様々な懸案事項に関しては、きちんとに対処していく必要がある。
そうしないとネット右翼が増殖するばかりだ。
フジテレビなどのビジネスモデルも、是正していかなければならないだろう。

ま、色々あるが日韓関係はかなり安定してきた。
だが日中関係はまだまだだ。
おまけに韓国と中国との関係も良くない。
さて日本の役割は・・・





イギリスの暴動を見て考えた、OECDが大人の学力調査を始めなければならない理由/経済成長が終わった社会と教育
ノルウェーの事件に続き、今度はイギリスで暴動が発生した。
当初、参加者はアフリカ系やアジア系の若者たちとされていたが、実際には白人もいて最年少は11歳。少女も混じっていたという。

日本社会が目標にしてきた北欧、落ち着いた生活が羨望の目で見られてきたイギリスで、驚くような事件が起きている。
数年前にはフランスで、イスラム系の若者たちが大暴動を起こした。
その内情をよく見てみると、それが日本人にとっても他人事ではないことがわかる。

キーワードはグローバル化、格差、新自由主義だ。
こういった時代の流れに、ヨーロッパはどう向き合ったらいいのか。
OECD経済協力開発機構が、大人の学力調査を行なおうとしている理由の一つがここにある。

先月末、OECD事務総長の教育政策特別顧問、アンドレア・シュライヒャー氏が来日し、講演した。テーマは「PISAから見た21世紀の教育」。
PISAというのは、毎回結果が出る度に大騒ぎになる、例の国際学習到達度調査である。
私は常々この騒ぎを不快に思っていたので、文句の一つも言ってやろうという気分で出かけた。
ちなみに日本ではピサと読まれているが、ヨーロッパではフランス式にピザと読むそうだ。

シュライヒャー氏は背が高く、目も髪も色が薄い、これぞドイツ人という風貌だ。
来日後、被災地を見て回ったとのことで、深い憂慮の念を表明。
その言い方に誠意が感じられて、私の反感は少し薄らいだ。

まず驚いたのは、そのビジネスライクに洗練された講演のスタイル。
ほとんどビジネスマンのプレゼンテーションである。
「不都合な真実」のゴアを連想させた。
BGM入りのインタビューフィルムまで駆使して、澱みなくテンポよく展開する。
とても、こういう立場の人間の講演とは思えなかった。
色々考えさせられるものがある。 

で、とにかくわかったのは、PIZAは学力を測るものではないということだ。
シュライヒャー氏はこれを繰り返し強調した。
PIZAは制度のパフォーマンスを測るための、一つの基準だと。

実はPIZAの設計自体、手探りで行なわれているらしい。
実施は三年毎だが、次回は一層、社会的関係における知識の応用を問うものになる。
さらにその次の段階として初めて、グループ内での問題処理能力を問うものにする予定だそうだ。

そして講演は次のような言葉で締めくくられた。
競争に参加できない人間を抱えているのは、社会のコストだ。
デジタル化し、知識を共有する社会の中で、誰もが能力を伸ばすことができるようにする必要がある。全ての生徒が高い教育を受け、成功すべきなのだ。

う〜む・・・人間をコストだ何だと表現するのは感心しないが、この人自体は感じのいい人ではある。だから、講演後の休憩時間にコーヒーコーナーで鉢合わせした時、思わずダンケシェーンと言ってしまった。
Oウムラートがうまく発音できずに無念。

終了後、一緒に聴いていた大学教員たちと夕食を摂りながら、意見交換した。
中にPIZAに詳しく、フィンランドにも視察に行った人がいて、補足説明をしてくれた。

元々PIZAは、レーガン政権時代にアメリカがOECDに対し、実施を要求してきたものだという。受け入れないと金を出さんよという態度だったらしい。
そこでOECDは、受け入れる代わりにアメリカの世界支配に対抗すべく、違う方向を模索するという判断をしだそうだ。

つまりPIZAは、経済成長が終わったヨーロッパ先進国が、21世紀にどういう社会を築いていったらいいのかを、教育レベルで考えるものとして始まったわけだ。

それが国家間の競争に巻き込まれ、特に東アジアが猛烈に頑張っていることに戸惑っているのである。だから東アジアからお呼びがかかると、フットワークも軽くやってきて、こうしてプレゼンテーションしているのではないか、というのである。

前回2009年の調査では、数学的リテラシー、読解力、科学的リテラシーの三分野で上海がトップ。その他、韓国や香港、台湾が上位に入った。
デジタル読解力では韓国が一番だった。

肝心のヨーロッパでは唯一、フィンランドが健闘しているのみ。
日本はそれぞれ、9位、8位、5位である。
アメリカもフランスもイギリスもドイツも、ベスト10には入っていない。
いわゆる先進国の中で、日本が上位であることがわかる。

中国が、上海という都市単位で参加したのは意図的だし、韓国の躍進も手放しで讃嘆できない。韓国の青少年の幸福度は、同じOECDの調査で最下位である。
それに韓国は高校入試を全廃し、大学入試をPIZA向けに変えたのだそうだ。
そういう中国や韓国と、日本が競争するべきなのだろうか。

ちなみにシュライヒャー氏が言うには、フィンランドは教員に対する社会的評価が非常に高く、最も優秀な学生が教員を目指すそうだ。
ビジネスマンが教員を見下しているような社会とは違う。

教育を対費用効果で測る風潮もないのだろう。
報酬も高いし、定期的に大学に戻って研究して資質の向上を図るという。
要は、ビジネスの論理と新自由主義に振り回されていないということではないだろうか

私はイギリスの暴動を見て、「競争に参加できない人間を抱えているのは、社会のコスト」という言葉を思い出した。
サッチャー政権時代、イギリスはいち早く新自由主義を受け入れた。
その後、EU統合が進展するにつれて様々な問題が起きてきた。
そして今、社会の荒廃と分断は私たちの想像を超えている。

低所得者住宅に住む子どもたちの中には、テストの問題も読むことができない子もいるらしい。
今回の暴動には、そういう若者たちが多数参加していた。
イギリスの現状は他人事ではない。
夜の10時頃、塾に子どもを迎えにくる熱心な親がいる一方で、もはや教育を放棄したような親子もいる。

一方で、学校は「デジタル化が遅れている」おいしい市場として狙われている。
触っただけで三角形や台数が描けて、ゲーム感覚で学べるデジタル黒板やデジタルノートで、果たして知性は育つだろうか。

経済成長というモチベーションが消えた社会で、学校はどういう存在であるべきか。
教育は子どもや若者に何を提供するのか。
私たちの社会はこれから、何を目指してどういう道をいったらいいのだろうか。

本当に考えなくてはいけないのはこれだろう。
教育が国家間競争の手段になっている現状は虚しい。
いや、教育自体がいつまでも競争の手段では、未来は危うい。
そもそも雇用を不安定にしておいて、平等な教育も何もあったものではない。

OECDが大人の学力調査を始めざるを得ないのは、状況が逼迫しているからだと思う。
多くの人間が不安定な状況に置かれているからだ。
しかし、大人の学力調査など始めたら、リクルートやベネッセあたりに利用されるのは目に見えている。
新自由主義が蔓延している限り、OECDの意図がどうであれ、教育も社会も荒廃するだけだ。



OECDが大人の学力調査を始めるらしい/IT活用能力も調べるそうな
OECD経済開発協力機構が、ついに大人の学力調査まで始めるらしい。
読解力や計算能力の他、IT活用力も調べるという。
例えば容量の決まっているファイルに、一定の時間内に決まった数の楽曲を収める能力などを問うらしい。(もしかしたら技術的な説明を間違えているかも)

正直、読解力以外は受けたくない。
数学は今でも悪夢を見るぐらい嫌いで、高校卒業まで体重は40キロしかなかった。
高校を卒業したとたんに50キロになったのだから、いかに理系が嫌だったかわかろうというものだ。身体は正直である。

IT活用能力なんて、もっとダメだ。
そもそもそういうことをする必要を感じないし、ipodも持っていない。
今後、スマートフォンに替えるつもりもない。

理由は第一に、これ以上指を細かく使わなくなると認知症になりそうだから。
今の若者世代は将来、深刻な状況になるのではないかと推測している。
それに、今以上に大量の情報を瞬時に、いつでもどこでも入手したいとは思わないからだ。

そもそも、いつでもどこでもネットにアクセスしたくない。
というより、今でも充分に情報浸けだと感じていて、むしろそこからの脱却を模索しているぐらいなのである。

Twitterは使い方によっては本当に貴重なツールだが、一方で集中力のない人間をつくる。
私は今でも注意散漫だから、これ以上思考力が衰えたら困る。
実際Twitterが普及してから、ブログを書く人が減った。
みんなTwitterやSNSに時間を取られて、ブログを書く暇がないのではないか。

お陰で、ネットで中身のある文章を読むことが少なくなった。
真面目な話、140字以上の文章を読んだり書いたりできなくなるかもしれない。
ネットが求めるのは身体的リアクションだし、しょせん情報を流すだけのツールだから、それで構わないじゃないかという意見もあるだろうが。

先日、数人の大学教員と食事を共にする機会があった。
驚いたのは、隣に座っている男性がひっきりなしに、スマートフォンを撫でていることだ。
メールチェックもしょっ中している。

メールは娘さんから来ているらしい。
「あ、娘からメールが来た」と嬉しそうだ。
いつでもどこでも家族と繋がっているのは、父親として嬉しいことだろう。
娘さんとのコミュニケーションを楽しむ麗しい光景は祝福すべきものだろうが、今いる場も大切にしてもらいたいものだ。

しかもこの男性は私より年上で、専門分野に関しては立派な識見をお持ちなのである。
そういう年齢と立場で、スマートフォンを使いこなしているのは賞讃されるべきなのかもしれないが、私には違和感があった。

でも今や、そういう人はたくさんいる。
私と向かい合って話しながら、スマートフォンから目を離さない。
喫緊の用事があるのかと思ったら、Twitterのタイムラインを見ているだけだったり、Facebookにログインしていたり。
私が知らないうちに世の中の常識が変わったのかもしれないが、違う価値観があってもいいと思う。

話は戻って、大人の学力調査までやるとは、OECDは一体何を考えているのか。
いよいよこれから佳境に入るのだが、前置きが長くなったので続きは明日書くことにする。
長いと誰も読んでくれないだろうから(笑)



高岡蒼甫、韓流と嫌韓の狭間に沈む
高岡蒼甫がTwitterで韓流漬けのフジテレビを批判し、事務所を実質解雇された。
所属事務所のスターダストはフジテレビと親密だから、トラの尾を踏んだ形である。

高岡の不幸は、韓流と嫌韓の二項対立に巻き込まれてしまったことだ。
少なくとも当初、高岡は韓流や韓国を批判したわけではなかった。
あくまで、韓流コンテンツへの依存を批判したのである。
だが嫌韓と一緒にされた上、一部で人種差別主義者の烙印を押されてしまった。

高岡のツィートには、すぐにネット右翼が群がってきた。
そして、かの田母神元幕僚長までが賛同するに至った。
あっという間に政治化されてしまったのである。

窪津洋介は「GO!」で在日コリアンの役を演じた後、民族派へ変貌した。
高岡は「パッチギ!」で朝朝高級学校の番長役を演じて、注目された。
彼も窪塚と同じ道をたどるのだろうか。

この二人の共通点は不安定なところである。
だがそれは、役者としての可能性でもある。

芸能界には、不安定さを抱えたまま活動しているタレントが多い。
Kinki Kidsの堂本剛もその一人で、パニック障害を抱え、絶えず生き方を模索している。
スピリチュアルへの嗜好も強い。
北海道大学準教授の中島岳志は、「彼は非常に利口で繊細な若者だ」と言って、その彷徨を注視している。

高岡蒼甫の言動は、今の若者の「ある感覚」を代弁していると私は思う。
だから切って捨てることには賛成できない。
そういう無神経さが、ネット右翼を育てるのではないだろうか。

Twitterにおけるリベラル派の発言は、多くが上から目線だった。
こういう態度が一番良くない。
知的な上から目線ほど、彼らを激昂させるものはない。
中には知的レベルを揶揄するような批判もあった。

そういう態度は傲慢である。
それに彼の言っていることは、それほど的をはずしていない。

彼は東日本大震災に大きなショックを受けたと、ブログに書いている。
日本の現状に危機感を持ち、将来を危惧しているのである。
グローバル経済で日本が傷ついていると感じている。
そういう心情を笑っていいのだろうか。

私は自他共に認める韓流ファンである。
韓流が来るずっと前から、韓国の大衆文化に接してきた。
本まで書いてしまったぐらいだ。
そんな私から見ても、今の韓流ビジネスには疑問が多い。

テレビがひっきりなしに韓国ドラマを流すのは、自前で制作するより簡単だからだろう。
視聴率も取れる。それに加えてKpopの大ブームが来たことが、韓流に席巻されているという印象をもたらしている。

しかも売り出し方が怪しい。
「少女時代」がまだほとんど無名だった昨年夏、初来日の様子をNHKのニュースウォッチ9がトップニュースとして流したのである。
いくら何でもこれはおかしい。

そこでNHKと電通の共謀説が囁かれたわけだ。
それに最近になって、大手コンビニが全てKpopアイドルと提携した。
CMも流れている。
そういうビジネスモデルがつくられたことは一目瞭然だ。

だがどんなブームも、たいては仕掛けられたものだ。
魅力が無ければ受け入れられない。
韓流には人を惹き付ける魅力があったから、受け入れられたのである。

韓流コンテンツの強みは、韓国が近代化の最終段階にあるということではないか。
勢いが違うし、若者も必死だ。
芸能人として成功することが、重要な出世コースになっているのだろう。
彼らはプロフェッショナルだ。

社会は近代化の最終段階に差し掛かった時、一番輝く。
今まで日本式しかなかった西洋文化の受容と創造に、韓国式が誕生したのだ。
選択と集中という戦略も成功している。
次の段階に進めずに右往左往している日本とは違う。

だから韓国ドラマはわかりやすい。
地域全体が経済発展に向かっている今のアジアに、ちょうどいいのである。
そういう意味で、アジアのスタンダードになれる位置にいる。

それに韓国の音楽業界は今、日本でいう小室時代だ。
今まで培ってきたもの全てが開花する、収穫期なのである。
韓国映画は少し前にその時期が終わり、難しい段階に入っている。

だがアイドルグループの大成功は、韓国社会に様々な波紋を広げている。
一番の問題は外見至上主義と、消費文化の低年齢化だ。
中学生までが「少女時代」のようなメークを始めて、教育現場を困惑させている。
親や教師がいくら注意しても聞かない。

日本でもSPEEDのデビュー以後、小学生までが消費市場に参加。
渋谷109に買い物に来て、成人男性に監禁されるという事件が起きた。
こういう社会は一度幕を開けたら後戻りできない。

Kpopの成功はそんな危うさも孕んでいる。
だが人口5千万の韓国は、国内市場だけではやっていけない。
結果として、怒濤のように押し寄せてくることになる。

一方、韓国が上手にコンテンツをつくるのなら、もはや任せてこっちは楽しむだけでいいではないかという考えも成り立つ。
外注である。だが、大衆文化は社会の活力と密接に結びついていると私は思う。
コンテンツづくりを止めたら、活力も低下してしまう。

自国の大衆文化を意識的に振興するのは、排外主義ではない。
エンターテインメントは農林水産業と同じで、グローバルビジネス一辺倒では何かが消えてしまうのである。ジーンズの海外生産とは違うのだ。

例えば宇多田ヒカルは、母親譲りの演歌的感性と震える声が、独特の魅力を放っていた。
早過ぎるデビューによって消耗し、活動停止に追い込まれたのが惜しまれる。
無常観が魅力だった浜崎あゆみは、Avexを支え続けてボロボロになった。
そのAvexはBEASTと共同レーベルを立ち上げた。

いつも、今成っている実を刈り取るだけ。
Kpopブームの波が引けば倒産するだろう。

それに、何だかんだ言ってもまだCDが売れる日本市場は貴重だ。
日本人が心から共感できるミュージシャンを育てていくことも、必要ではないか。
その努力もせずにKpopに依存するのでは情けない。
高岡蒼甫は、そういう仕組みを批判したのである。
日韓のエンタメ界は双方とも、人の褌で相撲をとっている。

また韓流ファンとして、私にはKpopブームに対して言いたいこともある。
韓国の良き伝統との繋がりが、全く感じられないことだ。
知り合いの韓国人も「空虚だ」と批判している。
ビジネスが上手であることは認めるが、それだけでいいのか。
もっと堅実に、国内市場も大事にするべきではないか。

フジテレビも、最初は意欲的に合作ドラマを製作していたのである。
ウォンビンと深田恭子が共演した「フレンズ」は、記念碑的な作品だった。
だが、その志も今は昔。ただ安易に依存しているだけだ。

「国境なんかいらない」「国民の物語は全て幻想だ」「日本は一度どん底に落ちればいい」
リベラル派はずっとこう言い続けてきた。
だが、文字通りどん底に落ちた日本社会を見ても、平気でいられるのだろうか。

いまグローバル経済は強者の論理となって、日本人を圧迫している。
それに敏感に反応している若者は少なくない。
完全に国境を越えられる人間は少数だ。
私もまた、汚染列島にへばりついて生きていくしかない日本人の一人だ。
だから高岡蒼甫の叫びは、私にとって他人事ではなかった。

それにしても、韓流ビジネスが成功によって、圧力をかけたようにも見える側にまわるとは予想外だった。「韓国映画なんか観ているの?」と小馬鹿にされていた頃を思うと、私は複雑な心境である。