2011年9月6日11時08分
■ハルキとハルヒ 阪神間文学の風1
「やれやれ」
先月封印を決意したばかりの感嘆詞が口を突いて出たが、なに、気にすることはない。
「やれやれ」と僕は言った。やれやれという言葉はだんだん僕の口ぐせのようになりつつある。
前者は小説「涼宮ハルヒの消失」の一節。ゼロ年代を代表するライトノベル作家、谷川流(ながる)の超人気シリーズの1冊で、アジア各国でも高い支持を集める。
高校を舞台に、美少女ハルヒが結成した「SOS団」と繰り広げる大騒動。仲間たちは、閉鎖空間を作り出す力をもつハルヒを見張るため派遣された超能力者や未来人だったというSF学園ものだ。シリーズを通してハルヒの同級生男子キョンが語り手となり、ユーモアたっぷりにぼやくのだ。
後者は、村上春樹の「羊をめぐる冒険」から。「やれやれ」は村上作品の主人公が現実への距離感を示すキーワードでもある。
「谷川文体は村上春樹の影響を受けているようだ」と書評家の大森望はいう。それだけではない。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」「1Q84」など「村上作品は世界の分岐がカギになるものが多い。学園生活の日常と、超能力者たちの戦いといった非日常を行き来するハルヒの世界観も同じです」。
一見、何の接点もないハルキとハルヒの世界もパラレルワールドのようにつながる。共通するのは2人が育った阪神間の風景だ。
大阪と神戸の間に広がる兵庫県西宮市・芦屋市、神戸市東灘区を中心に六甲山系と海に挟まれた地域。大正期から開発された名だたる住宅地で、近代ブルジョアジーが根づき、モダニズム文化を支えた。そんな空気がいまも残る。
村上は東京の大学に入学するまで過ごした故郷について、「静かでのんびりとしていて、どことなく自由な雰囲気があり、海や山といった自然にも恵まれ、すぐ近くに大きな都会もあった」と書き、自らを「阪神間少年」と記した。
かたや、谷川は第1作「涼宮ハルヒの憂鬱」の冒頭、こうつづる。
高校に進学したキョンが最初に後悔したのは、学校がえらい山の上にあること。「延々と続く坂道を登りつつ手軽なハイキング気分をいやいや満喫」。明記されていないが、キョンやハルヒが通う「北高」は、谷川の母校の県立西宮北高だという。このほか、祝川(夙川(しゅくがわ))などおもに西宮市内と思われる場所が舞台になっている。
村上の小説には、まれに神戸が登場する以外、関西の地名はほとんど現れない。だが、初期作品などに阪神間を思わせる街が出てくる。作家の土居豊はそんな「原風景」を探し求めて「村上春樹を歩く」(浦澄彬(うらずみ・あきら)名義)を書いた。
夏のある日、ハルヒが通う西宮北高と、ハルキの母校・神戸高校を訪ねてみた。どちらも、だらだらと長い坂道を登った高台にある。たどりついた学校から振り返れば、阪神間の街並みと、その先に広がる海が一望できた。
「こんなに軽やかな言葉で文学が表現できるのだと、村上春樹は示した」とドイツ文学者の池内紀は、かつて言った。デビュー作「風の歌を聴け」のタイトルそのままに、風のように自由な文学が登場したのだと。ライトノベルの旗手として谷川もまた忽然(こつぜん)と現れた。坂道から街へ、吹き渡る軽やかな風が、作家を育んだのだろうか。(河合真美江)=敬称略
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世界にインパクトを与えている2人の作家を生んだ阪神間。その風景を4回にわたって歩きます。
■もっと知りたい
阪神間地域は、古くは万葉集に有馬山や武庫の海といった地名が詠みこまれ、「伊勢物語」では主人公が芦屋に住んだと語られる。江戸期には上島鬼貫を中心として伊丹で俳諧が盛んに。
1923年、関東大震災に遭った谷崎潤一郎は西宮、芦屋、神戸を転々とし、「猫と庄造と二人のをんな」や「細雪」など数々の名作を執筆した。このほか、井上靖の「猟銃」「闘牛」、遠藤周作の「黄色い人」、小松左京の「くだんのはは」、野坂昭如の「火垂るの墓」、宮本輝の「青が散る」「錦繍(きんしゅう)」、田辺聖子の「姥(うば)ざかり」、小川洋子の「ミーナの行進」など、阪神間ゆかりの文学作品は数々ある。