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9-11から10年
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9.11テロから10年 - 事件の総括をしないマスコミ報道
昨夜(9/12)の報ステの後半で、五十嵐浩司がNYの街を歩き、朝日の支局長時代に遭遇した10年前の9.11テロを回想する特集があった。そこで、こう言っていた。WTCの跡地であるグラウンド・ゼロの隣にビジターセンターがある。そこには、9.11テロで犠牲になった2750人の写真が飾られていて、現場に立つと息をのんで言葉を失ってしまう。けれども、考えなくてはいけないのは、テロとの戦争で犠牲となったアフガンやイラクやパキスタンの17万人を超える民間人については、一人一人の物語が何も語られることなく、世界の人々によって追悼されることもないということだと。事件後10年を記念する特集報道のコメントとして秀逸であり、一般市民の胸中をよく代弁した言葉だったと思う。9.11テロのマスコミ報道を聞きながら、いつも私が思っていたことだ。非対称。人間の命の重さの差別。17万人は純粋な民間人の数で、米軍の誤爆や自爆テロに巻き込まれて命を落とした人々である。米軍と戦って殺された戦士の数を含めると、その数は23万人に膨れ上がる。テロとの戦争の敵兵だ。マスコミが、最初はテロリストと呼び、やがて武装勢力と呼んだ者たちである。多くは貧しい農民の出で、米国が侵略戦争を始めなければ、武器を手にすることなどなかった者たちであり、米軍に家族や親戚を殺され、復讐のために立ち上がった者たちだ。


日本がまだ豊かだった遠い昔、ロックフェラーセンターを日本の不動産屋が買い占めて物議を醸し、顰蹙を買っていた頃、私はNYに行き、島南端のWTCノースタワーの最上階にあるレストランで食事を楽しんだ。Windows on the Worldという有名なで、観光客に人気の一軒だった。107階までのエレベーターが速くて快適で驚いたことを覚えている。そこは限りなく楽しくて心地よく、人を浮き浮きとさせてくれる空間だった。店内のフロアは、自由の女神が見える海のサイドとマンハッタンの摩天楼が見える島のサイドの二つがあり、私が座った席は後者の方だった。料理もそっちのけで、子どものようにガラス窓に顔をくっつけて眺望に見とれていた。当時、日本で市販されていたNYの旅行ガイドブックの表紙には、ツィンタワー・ビルの写真が必ず大きく使われていた。WTCはNYの象徴であり、あの建物があるからNYの摩天楼は個性的な絵になった。NYの景観をNYたらしめ、NYのコンセプトを押し出し、憧れを誘っていたのは、間違いなく島南端に立つ2本のタワーだった。コンテンポラリー・モダンのWTCビル。そこは思っていたとおり機能的で、オープンでユースフルで、シンプルでフレンドリーで、NYの良さを私に実感させ堪能させてくれた場所だった。もう一度行きたかった。WTCビルを失い、NYは本来の豊かさを失い、街の魅力を失ったのかもしれない。

マスコミ各社は、9.11テロ後10年を特集した報道を出しているが、どれも表面を撫でるだけにとどまっていて、ジャーナリズムとして失格な内容だと言わざるを得ない。現在の米国の経済危機の深刻さに触れ、中東の民主化の情勢に触れるのみで、9.11テロがなぜ起こったのか、テロとの戦争とは何だったのか、その本質的な問題を問い返そうとしない。10年の節目で現代史を検証し総括しようとしない。一連のマスコミ報道の中で、最も取材と構成に力が入っていたのは、9/8に放送されたNHKのクローズアップ現代の73分拡大枠『世界を変えた9.11』だったが、結局、国谷裕子が語ったのは、テロなど暴力を使ってイスラムの聖戦を煽ったアルカイダも、軍事力で中東を民主化しようと企てたブッシュ政権も、二つとも失敗して潰え去ったという結論であり、両者痛み分けという認識と整理だった。その総括を藤原帰一と山内昌之が補強した。果たして、このようなレベルの議論で済ませていいのだろうか。9.11テロはなぜ起きたのか。その問題が日本では全く語られない。質問と回答が浮上しない。突然、アルカイダによるテロが、雷が落ちるように降りかかったという説明になっている。善良な米国市民の上に、不条理に悪魔が襲いかかったという物語のままで、9.11テロに至る経緯や背景や犯人の動機に関心が向けられない。議論の焦点が当たることがない。だから、テロとの戦争が否定されない。

あと1年半後の2013年3月に、今度はイラク戦争開始10周年を迎える。そのメモリアルの日に、米国経済がどうなっているかを考えると興味が尽きないが、そもそもイラク戦争はなぜ起こったのか。米国は、フセイン政権がアルカイダと繋がって支援しているとし、大量破壊兵器を隠し持っていると言い立て、国連安保理の場で武力制裁を正当化しようとした。仏独露が迎合せず、その外交工作に失敗し、単独(コアリッション)で軍事行動に及んだわけだが、パウエルが強情に言い張った大量破壊兵器はなく、米国が掲げた戦争の大義名分は否定された。結局、マスコミとアカデミーは、米国による正当性なき戦争と言い、事実誤認による失敗の戦争だったという始末で論を止めている。そういう安易で浅薄な総括でいいのだろうか。米国は、イラク戦争も「テロとの戦争」として位置づけ、その正当化の延長線上で侵攻を行っている。無論、事実誤認(大量破壊兵器)というのはタテマエの話で、米国にはこの戦争について重大な目的があった。石油資源の強奪もその一つである。また、軍産複合体に市場と利益を提供し、武器の在庫を掃き、性能を確かめることもその一つである。だが、イラク戦争にはもっと大きな目的と論理がある。それは、イスラエルの安全保障という問題だ。イスラエルをイラクの軍事的脅威から守るため、イスラエルの安全保障上の阻害要因を取り除くため、米国がイラクに侵攻したのである。

9.11テロが起きた直後、チェイニーとラムズフェルドがこれを好機と捉え、イラク戦争へと持ち込む恰好の材料にしようと策謀し、ウォルフォウィツらと着々と計画を進めて行った事実は、サイードの『戦争とプロパガンダ』(みすず)の1-4集にも書かれているし、今日、それを疑う者は誰もいない。要するに、10周年に論じなくてはいけないのは、まさにこの視点であり、サイードが説き訴えた「テロとの戦争」批判の真相なのだ。大量破壊兵器の錯覚が問題なのではない。そんなものは最初から捏造した口実なのであり、虚構であることはブッシュ政権は承知の上だ。意図的で計画的な侵略戦争であり、イスラエルの代理戦争だった。宗教右翼の狂気による戦争であり、米国のユダヤ系への奉仕の軍事行動だった。その意味で、イラク戦争もアフガン戦争も宗教戦争である。それによって、26万人のイスラムの者たちが犠牲になり、今も増え続けている。中東の民主化などと、そんな事は最初から考えていない。単なる名目である。イスラエルを脅かさないイラク、欲しかった果実はそれだけだ。こうしたサイード的な「テロとの戦争」の構図は、これから次第に正論となり、誰もが認める真実となり、一般的な現代史認識になって行くだろうと私は思う。2900人の犠牲者を悼む前に、そのイベントに参加する前に、その100倍の犠牲者がテロとの戦争で出ていること、そのあまりの非対称こそが不条理だと、ジャーナリストはそう断じなければならないはずだ。

9.11テロも、ある日突然起こったわけではなかった。事件の背景にはイスラエルとパレスチナの紛争がある。その事実が、いまマスコミ報道によって消されている。アラファトとラビンが中東和平で握手したのは、9.11テロ事件から8年前の1993年である。その「歴史的和平」を仲介したのは、誰あらぬ米国大統領のクリントンだった。オスロ合意の前後の数年間の時期は、パレスチナとイスラエルは今とは比較にならないほど安定した関係だったのである。それが破られたのは、2000年9月のシャロンによる岩のドーム侵入の挑発で、そこから激しい衝突と殺戮が始まり、イスラエル軍による残酷な虐殺事件が続発し、パレスチナ過激派による自爆テロの報復へと連鎖する。覚えているのは、10人ほどのイスラエル兵が家の塀の前を取り囲み、父親と小さな子どもの2人に一斉に銃撃を浴びせ、数十秒間の長い発砲の時間が終わった後に、男の子が殺されて死んでいた映像だ。父親が死体を抱いて号泣していた。5歳くらいのかわいい子どもだった。何であのような事が起きたのか、理由は説明されておらず、私は今でもそれが分からない。ただ、一部始終が撮影され、衝撃の映像が全世界に報道された。覚えている者も多いだろう。なぜ、男の子は殺されたのか。それは、インティファーダ当時の鎮圧行為、すなわち、投石する少年に対する実弾による狙撃の延長と言えばそうかもしれないが、私は納得していない。そして、覚えていて、機会があればこうして言う。

そこから、ダイナマイトを腹に巻いた「テロリスト」の若者が、バスの中や店の中でドカンを爆発させる事態になり、「24時間以内に、数倍規模の」イスラエル軍による残虐な無差別報復の流血があり、心を痛めているときに、WTCに2機の旅客機が突入した。シャロンの岩のドーム侵入事件から1年後である。私は、テレビでNYの中継映像を見ながら、咄嗟にパレスチナ・ゲリラの一派による暴発だと思ったし、翌日にアラファトが米軍の手で殺害されるのではないかと案じた。それが、パレスチナとは無関係なアルカイダという名の過激派だと分かり、米政府もすぐに犯行組織を特定し、私は安堵を覚えたものだ。それだけ、当時の米国は、ブッシュ政権になっていたが、クリントン初期の中東和平の立場から離れ、イスラエルに一方的に肩入れし、イスラエルによるパレスチナ人虐殺を黙認し、それに積極的に加担していた。仲介者でありながら、パレスチナ側だけを「テロ」だと責め、イスラエルを不当に擁護していた。日本の教室のいじめで屡々見るところの、教師によるいじめの加担行為によく似ていた。これらのことは、こうして書き連ねたものを読めば、人は当時を思い出し、ああそうだったと認識をあらたにする。しかし、マスコミ報道は決して当時の中東の状況を言わない。9.11テロの背景と構造を映像で示そうとしない。検証しない。9.11テロは、イスラエルを支援する米国への攻撃だったのである。犯人の動機は米国一国にあるのではない。イスラエルの存在がある。宗教右翼とユダヤの神聖政権と化したブッシュ政権にあった。

9.11テロから10年、その節目に私が聞きたいのは、次の3人の言葉である。サイード、チョムスキー、筑紫哲也。ネグリもいるが、この3人以上に言葉を聞きたい相手ではない。3人のうち、2人は死んで天国へ行ってしまった。サイードは2003年9月25日に死んだ。筑紫哲也は2008年11月7日に死んだ。サイードと筑紫哲也は同い年で、2人とも1935年生まれだった。2人が生きていれば、10周年にこう言っただろうと、そう思うことを、私は言わなくてはいけないと思う。どれほど拙い言葉であっても。



by thessalonike5 | 2011-09-13 23:30 | その他 | Trackback | Comments(0)
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