少し前にブーム(?)だった事業仕分けでは、記者の質問がそのままUstream等に流れて、現場では見学者が失笑し、視聴者があきれかえっていたことが度々ありました。その他でも、記者のお行儀のわるさを目にすることがあります。もちろん、全ての記者ではなく、一部の記者です。
大臣会見のみならず、不祥事のあった企業のトップが会見する際にも、ずいぶんとひどい言葉が飛び交っているようです。
05年には、JR西日本の福知山線事故をめぐり、大手新聞社の記者が、同社幹部を
「そんなことないやろ、人が死んでんねんで!」
「あんたら、もうエエわ。はよ呼んで。そこから先は(社長に)聞くから。はよ呼んでよっ!」
「あんたら、みんなクビや!」
などと罵倒。週刊新潮が「『記者会見で罵声』を浴びせた『ヒゲの傲慢記者』の社名」という記事を掲載し、記者の態度を批判したこともある。
「いつから民間企業の社員が、他社の経営者をクビにできるようになったんだっけ」、という嫌味を言われてもしょうがない気がします。そういう事を口にする記者を、他誌の記者が目に余ると思うから、こうやって記事になっているのですよね。
先日「「品がある人」→「キレイな日本語を話す人」と考えています」というブログを書かせていただいたばかりですが、改めてキレイな日本語の大切さを感じます。僕自身も、口が悪い記者の方々の言いたいことは分かるのです。でも、言い方がわるいから「う〜ん・・・」となってしまう。
腹が立つのも分かるし、煮え切らない記者会見をされると苛立つのも分からないではないですが、それでも言葉遣いによってこういう評価を受けることは、我々も認識しておかないといけない。そう感じた火曜日です。
Special
- PR -NewTama | 2011/09/13 16:17 |
テクニカルにはクライシス会見での記者(主に社会部)は圧迫質問を社会正義という大義において実行している一兵。その生業を考えるとすべてを批判はできないのですが、時代が変わったことで、その記者が晒されるリスクへの対応がメディア側にできていない、ということが言えるかもしれません。また、記者(主に社会部)は、社会の利益代表であることをすべからく求められています。それは、私たち大衆がもしも被害の当事者だったらどう思うか、という同化(アシミレーション)思考がどこまでできるかということになろうと思います。失礼な記者に向かって批判するだけでは、私たちとて野次馬の一人にすぎない、という自覚をしています。 |