ドキュメント鑑賞☆自然信仰を取り戻せ!

テレビでドキュメントを見るのが好き!
1回見ただけでは忘れてしまいそうなので、ここにメモします。
地球環境を改善し、自然に感謝する心を皆で共有してゆきたいです。
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サルサ 熱狂と興奮のリズム Cubaキューバ



サルサはスペイン語で“ソース”のこと。
様々なラテン音楽のエッセンスが混ざり合って生まれた。
名曲♪タブー♪は1934年、Cubaで生まれた。


カリブ海最大の島Cuba島、首都ハバナ(Habana)から、アメリカまではわずか150km、スペイン植民地時代の名残を留めるHabanaの旧市街地は、1982年世界文化遺産に登録された。
カリブ海の真珠と謳われた美しい町を見ようと、年間200万人の人が訪れる。
18世紀に造られた石畳、カテドラル広場は観光の中心地。
2つのドームを持つ大聖堂は、1750年に建てられた。


1800人収容できるガルシア・ロルカの劇場(Teatro Garcia Lorca)では、オペラやバレーの公演が行われる。
壁の荘厳な飾り、建築当時ヨーロッパ全土で流行していたバロック様式の建物。


コロンブス来航以来、Cubaはスペイン人による400年以上にも及ぶ支配を受けてきた。
旧市街地に程近い繁華街にあるCasa de La Musica、Habanaでサルサを楽しむことは造作ないこと。
夏は観光客が多く、毎週末ほとんどのようにライブが行われる。
Habanaでは夕方から夜にかけて公演が行われ、深夜の2時過ぎまでライブを堪能することができる。


この日のライブはハバナっ子に今一番人気のサルサバンド、バンボレオ(Bamboleo)
♪彼なしではいられない♪
バンドの顔であるボーカル3人、ラフな衣装と大きなアクションで、客の視線を惹きつける。
キューバ音楽にジャズやヒップホップなど、現代的な音楽を取り入れ、デビュー以来一気にスタータムへ。
オシャレで都会的にアレンジされたサウンド、高い音楽テクニックを持ち合わせたBamboleoは若者達のカリスマ的存在。
舞台右側の金管楽器がメロディを奏で、中央に陣取る打楽器がリズムを刻む。
リズム楽器はサルサの基本中の基本だから真ん中にいる。
サルサはピアノの華やかなリズムが決め手。
総勢12人、その内5人がかりで作り出すのがリズム。
多彩なリズムにダイナミックな歌が加わることで、Bamboleo独特のスピード感と迫力のあるサウンドが生まれる。


Cubaのバンドがここまでリズムに重きを置くのは、観客に踊れる音楽を提供しようと一途に考えているから。
一方たとえ歌や演奏ができなくても、踊れないキューバ人はいないというほど、Cubaの人は踊りの達人。
ダンスは曲の調子によって踊りのスタイルが変わってゆく。
1人でも踊ることができる、腰を中心に小刻みにリズムを刻みながら、体を前後左右に揺らす。
デスペローテは今Cubaで最も刺激的な踊り。


Bamboleoリーダー、
Lazaro Valdés「Bamboleoの音楽は刺激的なサウンド作りを目指している。
女性が腰を振って踊るためにはエキサイティングな音楽が必要。」


Habanaの海岸通沿いHotel Riviera、元々アメリカの資本で建てられたホテル。
訪れる人をCubaらしい彫刻が迎えてくれる。
『キューバのリズム』踊っている男女がテーマ、キューバを象徴するものとして作られた。


つい最近までサルサの伝道といわれたレストランシアターCopa Room、数多くのサルサバンドをこの世に送り出した伝説の舞台。


ニューヨークはサルサの聖地と言われ、今から30年前、陽気な歌と踊りがこの地で誕生したとされている。
ニューヨークにあるS.O.B's、サルサライブの演奏を楽しみながら、気軽にフロアーで踊れる、くつろげる空間が魅力。
ボーカルがメインのバンド、メンバー全体で音を作り出すキューバサルサとは少し趣が異なる。
肩肘はらないニューヨークサルサは幅広い年齢層に受け入れられている。
ダンスフロアーに言葉は必要ない。


ニューヨークでサルサブームに火がついたのは、今から30年前の1970年代。
5番街110Street、プエルトリコ人(Puerto Rico)が多く住む町。
1917年アメリカから紙面剣を与えられたプエルトリコ人は、夢を求めてここに移り住んできた。
しかし現実は厳しく、彼らは貧しさやアメリカ社会から向けられる差別にさらされてゆく。
彼らは自分達が1つになれるものを探し始めた。
それは母国語スペイン語で話せる文化だった。


当時の様子を語るアナ・フローレス「夜寝る時、どこからともなくパーカッションの音が聞こえてきた。
私はその音を聞きながら育った。
町には音楽が溢れていた。
その頃この辺りのアパートにはクーラーがついている部屋はなく、夏の暑い日は外で過ごすしかなかった。
それで自然と音楽に親しむようになった。
それがサルサだった。
私達はサルサに誇りを感じ、サルサを愛している。」


共にスペイン語を話すプエルトリコやドミニコの演奏家達が中心となって演奏していた音楽が、やがてサルサと呼ばれるようになった。
スペイン語で料理に使う“ソース”のことをサルサという。
スペイン語を話す国々の音楽要素を混ぜ合わせて作ったものがサルサ。
その時もとになったのはCubaの音楽。

↑ナイトクラブCopacabana

サルサがムーブメントを起こした頃、キーボード奏者として活躍していたLarry Harlow「私達はアメリカで演奏されていたCubaの音楽をニューヨーク風にアレンジし、歌詞を変えて演奏した。
それがキッカケ。
当時1960年代後半は、アメリカではウッドストックが注目されたり、黒人達の公民権運動が華やかなりし頃で、サルサはこうした時代のうねりの中で生まれた。」
サルサが世に出た頃、Cuba国家評議会議長Fidel CastroによってCubaのミュージシャンはすでにアメリカへの道を絶たれていた。
時代の申し子サルサ、しかし当初の曲に込められた力強さは時と共に力を消していった。
サルサは徐々にスタイルを変えていった。
しかしニューヨークのサルサの世界に再び光が差し込み始めた。
サルサイベントのプロデューサー、ロジャー・バー「ニューヨークのサルサはハードなサルサから始まり、ロマンティックはものへ変わってゆくなど、いくつかの変換期を経てきた。
しかし今ではダンスのために演奏されていた創世記のものが主流になっている。
かつてのハードなサルサがニューヨークに戻ってきたのだ。」


アメリカから最短距離で150km、CubaのHabana、革命後Cubaとアメリカは近くて遠い国となった。
Cubaは2004年革命45周年を迎えた。
これまで両国の間には多くの問題が生じてきたが、その試練を乗り越えながら、Cubaはカリブ諸国で初の社会主義国家としても国作りを進めてきた。
アメリカによる経済封鎖でCubaは困難な状況にあるが、最近ではヨーロッパからの外資導入に成功、政府は観光産業の振興に力をいれている。
カピトリオ(Capitorio 革命前の国会議事堂)、革命前Cubaとアメリカは深い関係にあった。


1939のネオンサインが示すとおり、革命前からあるキャバレーCabaret Tropicana、華やかなステージは、Habanaがかつてアメリカの歓楽街であったことを伝える。



スペインに代わり新たにやってきた支配者はアメリカだった。
旧市街Habanaの町の名物クラッシクカー、タクシーなど庶民の足として利用されている。
車はほとんど1959年の革命前の時代からあったもの。
アメリカの経済封鎖でCubaには車や物資が不足している。


CibaNo.1と言われるバンドLos Van Van、革命後の苦しい時代、国民を励まし続けたバンドは2004年35周年を迎えた。
リズムを重視するCubaのバンドらしく、中央に打楽器が陣取り、バイオリンを加えた総勢14人が厚みのある迫力満点のサウンドを作り出す。
Los Van Van最大の特徴はエレキバイオリン、エレキギター、エレキベースなど電子楽器を取り入れ、新しいサウンドを作り出したこと。
“Van Van”の名で親しまれる国民的バンド。
Cubaでその名を知らない人間はいない。


Habana市内にある国営のレコーディングスタジオ、Cuba音楽界のスーパースターが新しくレコーディングした曲の最終仕上げに立ち会う。
1969年結成以来Los Van Vanのリーダーを務めるJuan Formell「サルサはCubaの伝統音楽のリズムがもとになって作られたもの。
それはグァラーチャ、マンボ、チャチャチャなどのリズム。
サルサはこれまで多くの人に受け入れられてきた。
これからもずっと支持されてゆくだろう。
私達にとってもCubaの伝統音楽は大切なもので、それをベースに常に新しいサウンド作りを心がけてきた。
ブラジルやアメリカで生まれた新しい音楽も今は伝統となったように、サルサも今後大いに発展し、伝統音楽となってゆくだろう。」


夜Los Van Vanのライブが行われた。
23:00開演という深夜のライブにも関わらず、大勢のファンが詰め掛けた。
Cubaのトップバンドの入場料はおよそ2000円、Formellは開演前にファンとひと時を過ごす。
♪Esto Te Pone La Cabeza Mala♪
Formell「私達Los Van Vanは国民に約束した。
常にCubaの人に素晴らしい音楽を提供することを。
35年間そのことだけを念頭において活動してきた。
最近ではメンバー交代を重ね、常にリフレッシュした音楽を新しい世代のために作っている。」


Habana市内には古くからこの町に暮らす人が大勢いる。
朝フルーツを行商して歩く売り子、アボカドはご飯の付けあわせとして食べるポピュラーな食材で、キューバ人には欠かせない。


道路とバルコニーとのやり取りが残っている。
日が高くなると町角ミュージシャンの出番、音楽大国Cubaでプロのミュージシャンと呼ばれる人はおよそ14000人、この国では800人に1人が音楽で身をたてていることになる。
社会主義国Cubaでは、音楽家の活動は全て国で管理され、営業許可証を保持した上で活動を行う。


町の辻々から音楽が聞こえてくるのがCubaの町。
あるお宅からサルサの曲が聞こえてくる。
この日は娘さんの誕生日、親戚が集まり始まったのがサルサダンス。


サルサのもとになったCubaの伝統音楽はどのようにして生まれたのだろうか?
海岸線の突端にある灯台、Morro要塞はスペイン植民地時代重要な役割を担っていた。
スペインの船を敵の攻撃から守るため、石を積み上げ兼備に作られた要塞を造るためにも奴隷が必要だった。


Habanaの港近くにあるサンフランシスコ広場、かつて奴隷市場が開かれていた場所。


コロンブス来航後、Cubaでは早くからサトウキビの栽培や砂糖作りが行われていた。
その労働力として連れてこられたのがアフリカの人々、18世紀後半サトウキビ栽培が本格化、炎天下での刈り取りなど、血の出るような毎日を送る活力にしたのは故郷アフリカから持ち込んだ音楽だった。


サルサの源流を訪ねる旅。
週末の午後Habanaはアフリカの町と化す。
Habanaの町からはアフリカの音楽を受け継いだキューバ伝統の音楽が生まれた。


太鼓は手のひらと指を使って音を出す。
太鼓と歌だけのルンバ(Rumba)はアフリカ色の強い音楽。
歌はソロの後にコーラスが続くコールアンドリスポンスという形式で、アフリカの太鼓歌に多く見られる。
黒人達がアフリカから持ち込んだ太鼓や歌は、元々宗教音楽として行われていたが、その後町に出て現在のような形になり、キューバ音楽に多大な影響を与えてきた。
Rumbaには踊りがつき物。
女性が男性を刺激し、男性が女性に挑んでゆく。


青空の下スペインから入植したスペイン人達が盛んに歌ったのがCampesinoという農民音楽。
ラウーはスペインから持ち込まれた12弦の小型の弦楽器。
軽快な音色がのどかな田園風景にマッチし、独特の音楽の世界を作り上げている。


歌い手は日常の出来事や社会風刺を題材にして、歌詞を即興で作る。
この農民音楽が基になって、ワヒーラというキューバ音楽のジャンルが出来上がっていった。


Tumba Francesa
は100年の伝統を持つCuba東部地方の古い音楽。
フランスの文化を受け継いだもので、フランスのご主人の下で働く召使が宮廷サロンのダンスを風刺して踊っている。
すましたポーズと衣装がポイントで、隣のハイチからもたらされた。
太鼓はサルサのバンドが使う打楽器に受け継がれたと見られている。


映画『Buena Vista Social Club』、並居るキューバ音楽界のアーティストの中で、際立っていたのが
Omara Portuondo、情感のこもった歌声に、世界中は拍手を送った。
Portuondo「サルサはCuba音楽のリズム“ソン”を基本にしてできているから、良い音楽だと思う。
でも私達がキューバ音楽で一番大事にしているのは、心があるかということ。」


サルサの源流となるキューバ音楽Sonを訪ね、Guantanamoへ。
世界中でヒットした名曲♪Guantanamera♪。


Guantanamoの町から車で1時間半ほど山間に入ったところに、Sonと深い関わりを持つ音楽があるという。
この町はCubaでもコーヒー豆の産地として知られている。
Guantanamoの町には日々の暮らしから生まれた古い音楽が残っている。
Pipiさん率いるグループが手がけるのは
Changüíと呼ばれる音楽。
古い楽器マリンブラ(アフリカ伝来の共鳴楽器)を使ったこの東部地方で生まれた音楽。
演奏はトレスと呼ばれる3コース6弦の楽器がメイン。
メロディーを奏でてリードしてゆく。
シンプルな楽器で演奏される音色とPipi達の優しい歌声のように、Changuiは昔から仕事に疲れた人たちの体と心を癒してきた音楽。


Pipiが歌っている歌の内容は、お祭りの日に一目惚れした男が、その女性といつまでも踊り続け、楽しいひと時を過ごした思い出の話。
Changuiの踊りには独特の踊り方がある。
足を上げないですり足で踊るのは、疲れないようにしていつまでも踊るためだと言われている。
その昔コーヒー園で働いていた人達は、お祭りのような休日に演奏されるChanguiがわずかな楽しみだったという。
Pipiはプロの音楽家だが、今でも昔ながらのやり方でコーヒー豆を栽培している。
サルサの基となったSonは、Changuiのような地方に伝わる古い音楽の影響を受けたといわれる。
Guantanamoの町ではChanguiを演奏するバンドが減り、7組と少なくなってしまった。
Pipiはこの町の伝統を守ろうと、仲間を引きつれ数年前このバンドを結成した。


Habanaからおよそ900km、海辺の町Santiago De Cuba、Cuba第2の都市。
Habanaが首都になる前、この町がCubaの中心都市だった。
Sonはこの町で生まれたという。
町の中心地にある、この町の音楽の伝道Casa de la Trova、東部地方に伝わる古い音楽が今も数多く守られている。
Melodías Cubanas姉妹が歌っているのはTrovaというスペイン歌謡の流れを組む歌。
歌詞は即興で作られ、恋愛や日常の暮らしを歌い継いでいる。
クラーベという拍子木から響く音が、曲のリズムを保ってゆく。


Melodías Cubanas「ハーモニーには決まりがある。
ソプラノとアルト、お互いの声を耳で確かめながらハーモニーを作り上げている。」
壁にはSantiago De Cubaで活躍したミュージシャン達の肖像画が誇らしく飾られている。


この音楽の都で生まれたSonとは一体どのような音楽なのだろうか?
トレスギターのソロで始まった曲がSonというダンス音楽。
Sones de Oriente♪ポプリ・アル・ソン・イ・ア・ラ・トローバ♪


Sonは大きく2つのパートに分けることができる。
メロディアスは前半部分とテンポアップした後半部分。
前半部分では踊りも緩やか、金属音を合図に曲調が変わってゆく。
Sonの後半部分へ差し掛かり、踊りは躍動感のある動きへ。
歌もソロとコーラスの掛け合いとなりグッとにぎやかなものに変わる。
スペイン形のメロディアスな音楽を受け継いだ前半、そしてアフリカ形のリズミカルな音楽を受け継いだ後半。
この2部構成がSonの基本。
サルサが手本にしたのが前半と後半の特色をそれぞれ確立させた音楽Son。
Sonはスペインとアフリカの音楽が交わって生まれた音楽なのだ。

♪マリア、ボールを放っておくれ(Maria Belen)♪
Sonの故郷Santiago De Cubaでは、町のあちこちでSonを聞くことができる。
Sonはダンス音楽、楽しく踊れないと意味がない。
SonはCubaでは国民音楽と呼ばれるほどの重要な音楽。



Moneda Nacionalリーダー(Santiago De Cuba音楽協会)Gustavo Reve「植民地時代、Cubaは様々な文化を持った人が集まった。
主にはスペイン人、アフリカ人。
しかしそれらの文化は最初1つ1つ別の文化だった。
時が経つにつれ、2つの文化は歩み寄っていった。
それは音楽の世界で起こった。
スペインとアフリカの文化の融合の理想の形がSonだった。
スペインでもアフリカでもない、初めてCubaで生まれた文化。
だからSonは私達キューバ人のアイデンティティであり、国民音楽なのだ。」
キューバ人のアイデンティティとなったSon、その魅力は楽しさかもしれない。


Sonを基本に活動を続けてきたグループがある。
1932年にスタートし、今も続く女性だけのバンドAnacaona
Anacaonaとはカリブ海に伝わる伝説のヒロインの名前。
7人の姉妹で始めたAnacaonaはその後、より華やかな音楽を求めてフルバンドを結成。
やがて彼女達はキューバ音楽の大使として世界各地への演奏旅行を重ねる。
Cubaを代表するバンドに成長したAnacaonaは、その後メンバーチェンジを経て新しい音楽を吸収してゆく。
こうした72年(2004年)の歴史を作り上げたのは、今のメンバーを含む全部で59年の女性達。
Anacaonaテーマ曲♪あなたが待っていたもの♪


Anacaona結成72周年パーティーにて。
16年間リーダーを務めているはGeorgia Aguirre、Anacaonaに全てを捧げてきた。
創成期のメンバー
Xiomara Castroは、トランペット、パーカッション奏者として活躍した。
同じく創成期のメンバーYolanda Castroは、サックス奏者で力強く切れのある演奏が評判だった。
彼女達は後輩達をいつも見守っている。
この日は彼女ら2人のおばあちゃん、卒業生となったOG、バンド関係者合せて30人がリーダーの呼びかけに喜んで応じてくれた。
メンバーの子供達9人、Anacaona予備軍も参加した。
女性だけの歌とダンスの協演が始まった。
各世代の音楽をつなぐのは、Cuba伝統のSon。
しめはXiomaraおばあちゃんしかできないマラカス演奏。
72年前のキューバ音楽の音と切れがよみがえった。


Aguirre「Anacaonaは私の宝物の1つ。」
Marambe Maramba♪は、Anacaona代々のメンバー達によって受け継がれてきた曲。
即興のパーカッションが聞き所。


国立芸術大学学長ロバート・チョレンス「Cubaでは音楽家を育てるのは町。
町こそCubaの精神的な宝物の1つ。
では町や音楽が何故宝物なのか、それは音楽産業がもたらしたものではなく、日々の暮らしの中から生まれたもので、経済性を重視した音楽ではないから。
Cubaはまだ大きな音楽産業を持っていない。
しかし音楽の強さは持っている。
町や人々の暮らしの中から生まれた音楽の強さだ。」


夜の帳につつまれるHabana、Habanaでは2004年夏に予定されていたカーニバルが延期になり、ダンス好きの市民のために真夏の夜の音楽フェスティバルが開催された。
2004年ハバナ・サマーミュージック・フェスティバル。
Cubaでは現在2500人のプロのグループが活動している。
観客を躍らせることができるか、Cubaのバンドが背負った命題。
遠いところからやってきて、仮に演奏がつまらないものだとすれば、誰も見向きもしない。
Cubaでは観客がバンドを育てるのだ。
競争が激しい音楽界の中、第2のLos Van VanやBamboleo、Anacaonaの誕生を待ちわびているのはこの国に暮らす多くの人達。


キューバ音楽の未来はどうなるのだろう?
音楽評論家ギイーエ・ピラール「近くて遠い2つの国、Cubaとアエリカの若者が自由に行き来できるようになった時世界の音楽は新たな大きな一歩を踏み出すことになるだろう。
そのためにアメリカのCubaへの経済封鎖が解かれることを心待ちにしている。」


Habanaの中心部から車で30分ほどの所にあるGuanabacoa地区、革命後は工業地帯として賑わった。
町の中心部でお店を出していたのが靴の修理やさん。


物が不足する中、使えるものは少しでも長く使わなければならない。
修理代は1回30円ほど。


この町にHabanaで最も古い音楽学校がある。
Guillermo Thomas音楽学校、創立は1904年、この100年間音楽学校として門を閉ざしたことは1度もない。
今学校には8〜18歳まで500人あまりの生徒が通っている。
彼らはマンツーマンによるクラッシックの授業を受け、卒業すると交響楽団への入団資格を得ることができる。


Cubaではこのような音楽学校への入学希望者が多く、この学校でも10倍以上の競争率を勝ち抜かなければならない。
マリア・クリスチーナ校長「この学校にはサルサだけでなく、ジャズやロック、Cubaの伝統音楽など、音楽家として生きてゆきたいと考えている生徒がたくさんいる。
その夢がなんとか実現できるよう、私達学校関係者はできる限りのバックアップをしている。
カリキュラムをはじめ楽器の貸し出し、施設の提供、ポピュラー音楽を子供に教えるのにふさわしい教師を集めるなど、努力と援助を続けている。
この学校は優れた音楽家を要請するのはもちろん、自分の国に誇りを持ち、Cubaの文化を身につけた人間を育成することも大事な使命の1つ。」


学校内で結成されたサルサバンド、Sabor Latinoは、夏休みを利用し猛練習を続ける。
リーダーのユリスベル・ヘルナンデス(愛称ユリ 18歳)はトランペット担当。
ユリの父親カルロス・ヘルナンデスは教会がある広場で演奏しているプロのミュージシャン。
ユリと同じトランペッターだが、ここは観光スポットの中心地、トランペットの演奏が禁止されており、マラカスをふっている。
お父さんがどうしても来られない時、ユリがピンチヒッターを務める。
ユリはトランペットだけでなく、たいていの楽器を演奏することができる。
小さい頃からお父さんの背中を見て育ったユリは、根っからのミュージシャン。
ユリは音楽一家に生まれ、物心ついた頃から音楽に親しんできた。
ユリのお祖父さんもトランペットを吹いていた。


ユリは久しぶりに実家へ向かう。
Cubaでは公共の交通機関が満足な形であるわけではない。
そこで大概の人はヒッチハイク。
バス、馬車を乗り継ぎ実家のある町へ。


ユリの実家は今、お母さんと義理の弟がいる。
ユリの父母は数年前に離婚してたのだ。
お母さんとお祖母さんが迎えてくれた。
一息つくと家族や親戚がHabanaの様子を聞こうと勢ぞろい。
地方に暮らす人達にとって、都会から戻ってきた若者の話を聞くのは何よりものお土産。
ユリは音楽学校へ行くため、9歳で家を出た。
久しぶりに幼馴染達と音楽を共にする。
ユリの傍で楽しそうに踊る親戚の伯父さんと伯母さん、元プロのダンサーだったお母さん。
ユリはトランペットを持ち出し、演奏を披露した。
これまでこうと思っても突き上げてくるものがなく、足踏みをしていたユリ。
この日家族や故郷の仲間の笑顔、町の臭いに後押しされて吹いたのだ、とそっと教えてくれた。
ユリ「音楽は僕にとってなくてはならないもの。
音楽は家族と同じで、なくなると絶えられない。
家族にはとても感謝している。
家族がいるから音楽が続けられる。
家族は僕の命で音楽は僕の未来。」

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サルサ 熱狂と興奮のリズム Cubaキューバ
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