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[21738] 【習作】野口直也のGPO【GPO白の章】
Name: らーてん◆61e9dbff ID:4e9aac41
Date: 2010/09/13 11:23
 GPOの限定版の設定資料やら何やらで調べてはいますが、細かい点で間違っているかもしれませんので、作者の脳内設定ということでお願い致します。

 また、この作品は世界の謎、戦闘描写、恋人とのらぶらぶちゅっちゅにはあんまり興味ありません!

 それでも読んでやんよ、という方は↓へスクロールなう。

 利用規約をすっ飛ばしてすいません。









 仮の話になってしまうが、人類に未来っていうものが存在していたとして、この日記は百年後の人類にどんな感想を抱かせるのだろうか。まぁ、どうせ学者連中が好き勝手に言い立てて、人権団体がこれみよがしに『これが戦時中の方々の真実の独白です』、なんて言うのかもしれない。あるいは、誰の目に留まることも無く朽ちていくのかもしれないし、俺の名前を題名にしたベストセラー本になる可能性だってあるだろう。結果を知るためには、結局百年先まで続くように俺達が頑張るしかない、ってのが辛い所だ。


 ヒロイン天国小隊のとある隊員の日記より抜粋。


          ※


 野口直也は凡人である。と言うより、凡人としての典型例が野口直也だった。出自、思想、学歴、能力、展望、十把一絡げの平均的な人間としての完成形が野口直也という青年であり、凡そ凡庸であるとか凡夫という形容は野口直也にこそ相応しいと言えた。本人自身も己が『ただの人』である事を十二分に自覚し、多少なりとコンプレックスに感じてはいた。

容貌は十人並でしかなく、悪過ぎるというものでもないが少なくとも特長的とも特徴的とも言えるものではない。石を投げれば相似した印象の人間には五万と当たり、一山幾らという人間である。性格は事なかれと少々の生真面目さ、微量の節介焼きを撹拌したようなものだった。普通、印象というものは個々人によって十人十色の見方をするものであるが、野口直也に対しては皆いくらか言い澱むような仕草を見せた後、大抵は異口同音にこう口にする。

 曰く、普通であると。

直也のその非凡の対極に位置する生は両親すら首を傾げる有様であり、最早運命付けられているとしか思えない。そういった経緯があるためか、何時の頃からか直也は害にならない程度に嘘を吐くようになっていた。と言って、根が比較的善良であるために悪意を持って誰かを貶めるような嘘は吐くような真似はせず、せいぜいその場の冗談で済ませられるような類である。元々己が平凡であることへのささやかな抵抗ではあったが、染み付いた習慣はそのまま直也の人格形成と思考に影響を及ぼしたのだった。

まず、直也は内心を隠すようになっていた。自問自答の繰り返しは何時しか他者への興味や好奇心を減殺させ、自己完結させることで現実との折り合いをつけ始めたのである。実質自己満足の世界で成り立つ趣味とマラソンを始めてからは、他人への関心の希薄さは拍車をかけた。と言って、適度に真面目で適度に適当で適度に節介を焼く性分であったため、完全に第三者への関わりが断裂する事は無かったのだが。

 さて、直也の無味乾燥として面白味の少ない平坦な人生譚であるが、かと言って直也を取り巻く周囲の環境は泰平楽とは言い難い。往年のアニメ風にナレーションを入れるならば、『人類は危機に瀕していた!』、という所であろうか。少々使い古され気味で陳腐ではあるが、これほど的確にして明確な言葉は無いだろう。

 『幻獣』。

 音も無く此方へと現れ出で、声も無く彼方へと消えて行く。圧倒的な物量と外見通りの化け物染みた能力を多用し、幻獣の名を冠するその生物は瞬く間に大陸に住まう人類を殲滅せしめ、遂に日本列島の九州へとその魔手を伸ばしてきたのである。日本は戦力の大半を割いて防衛に徹したものの、歴史的な大敗という形で初戦に幕を下ろすこととなる。と言って、当時の自衛隊員が無能だったわけではない。寧ろ、前代未聞のSF染みた天敵を相手取って一糸乱れず戦い抜いた事は称賛に値するだろう。しかし、弾幕、ミサイル、地雷、支援砲撃、救援物資、戦争を継続する為の物資が目減りすることはあれども、地球の体表に存在する陸地の殆どを制圧されてしまっている状態で、生産が追いつく筈はなかった。その結果が、後に軍事教練の教本にまで記載される事となる八代平原会戦での敗北へと繋がるのである。

戦える大人が激減したことにより、日本政府は最後の非常策に着手した。徴兵可能な年齢を十七歳以下の未成年にまで及ばせ、兵士として戦場に放り込む選択を取ったのである。それは、かつて人権や倫理と呼ばれたものを捻じ曲げ、子供の命の価値を二束三文に叩き売る行為だった。

強制的に戦闘に巻き込まれる事への士気の低下は当初より予測されていたが、しかし、それは事実の一端のみを見た場合の話である。確かに徴兵の憂き目にあって絶望している者も数多いが、議員の懸念とは裏腹にこの危急の事態に立ち上がる若者は数多く存在していたのだ。

 『何処かの誰かの未来の為に』。

大人達に訓示を垂れられずとも、双肩に圧し掛かる重圧は年端もいかない子供達の間にこそ伝播していく。そういうものだった。

そして――――死は慈悲無く振り撒かれた。

老若男女、老兵新兵、古参新参、分け隔てなく死の長い腕は彼等を薙ぎ払い、絡め捕り、握り潰し、引き摺り込んだ。分かり切っていた事であったが、戦士とは名ばかりの練度の低い少年少女が真っ先に死人に変わり、足を引っ張られた大人が肉塊となって地に伏した。連鎖的に崩壊していく戦線は人類が末期的な状況にある事を否応無く見せつけ、幻獣は人間の抵抗を嘲笑うかのように各地で猛威を振るい、壊滅的な打撃を与え続けていた。かくして屍山は数多築かれ、血河は止め処無く流れた。現世に描かれた地獄は現実に成り替わり、一時の安息は次なる悲哀への気休めでしかなく、闘志は儚く刈り取られ、絶望と悲しみは際限無く生み出された。

何もかもが破壊され、何もかもが奪われていく中で、『だが』、『それでも』、ほんの小さな、一条の煌めきだけは誰しもの胸に燦然と輝いていた。『それ』は恐怖に震える者を勇気づけ、臆病者を最後の最後まで戦場に踏み止まらせていた。

歌〈ガンパレード・マーチ〉と――――希望〈5121小隊〉が。

第5連隊第1大隊2中隊旗下第1小隊――通称5121小隊。遊撃隊として九州各地の戦場を転々と巡り、運用が極めて困難な三機の人型戦車を駆る今や伝説の小隊があった。

現在でこそ5121小隊は解体されて存在してはいないが、5121小隊の隊員が成し遂げた数々の比類無き功績は戦史に太字で記載されることとなる。彼等が存在していたからこそ学兵達の士気はかろうじて留まり、後の熊本城攻防戦において圧倒的な劣勢を逆転するまでに至った、というのは最早周知の事実である……のだが、「どうにもなぁ……」とひとりごちるのが野口直也という人間である。

確かに5121小隊の戦功は華々しいものがあるが、文句の垂れようが無くてどうにもこうにも嘘臭い。伝聞での話はそれこそ御伽噺のような、一種の物語めいたものがあり、いかにも士気向上を狙った軍部の工作であるように感じてしまう。

絢爛舞踏速水厚志にしても、彼の戦歴にはいくらか下駄を履かせてもらっているのではないだろうか。英雄などというものは、何時の時代も時の権力者によって都合良く生み出されるものなのだから。まぁ、何にせよ、虚実は兎も角として彼等5121小隊が九州奪還の立役者であり、彼等がある限りは多少なりとこの戦争にも張り合いが出るというものである。と言って、直也は真面目に戦争をする腹積もりは欠片も無い。一応、直也は志願という形で青森に飛ばされて来たのだが、その内実は相当情けないものである。思い出すだけで両親を呪い倒したくなるので、わざわざ不快な記憶を呼び覚ます事は無いが。

不幸中の幸いと言うべきか、ラインオフィサーではなくテクノオフィサーとして振り分けられたのは本当に運が良かった。マラソン選手としてそこそこ体力があった為に偵察兵として配属されるものだと思っていたが、何時の頃からか『多少』機械類に興味があって弄り回していた経験と体力が決め手になったようである。で、野口直也の配属先である処の第108警護師団に含まれる小隊の一角であるが、現在この隊は正式に稼働していない。と言うのも、指揮官の着任が数日遅れているのである。理由は知らないし、知った所で直也にはどうすることもできない事柄である。

しかし、少なくともその間は出撃する必要も無く――そもそも裏方の直也にはあまり関係は無いが――過ごす事が出来るのは良い事であり、可能であればもっと遅れてくれも構わないとさえ直也は考えていた。何故なら、出撃頻度が下がればそれだけ手塩にかけて整備している戦車が壊される事は無く、時間が許す限りは愛しい機械達を愛でていられるからだ。

話が少々脱線したが、どういった人物であるにせよ直也の理想とする指揮官は有能『ではない』人間である。無能な指揮官は最悪と言っていいが、有能過ぎる指揮官もまた最悪の次くらいには面倒な手合いであると、直也は信じていた。

世の中には勲功を数多く蒐集する事に余念が無い人物がおり、特に部隊指揮官なんぞにはエリートが多く、他人との競争を勝ち抜く事にこそ血道をあげる手合いがひしめき合っている。上昇志向の無い直也としては、糞真面目に戦争をしようとしている指揮官は願い下げだった。叶うならば、明日着任が決まっている指揮官殿が生き残る事にこそ優秀である事を祈るばかりである。

 という、直也のささやかながらも切実な期待は、翌日に谷口竜馬を伴った石田咲良との初遭遇によって脆くも打ち砕かれる事となった。


          ※


 仲良くなれそうにないな、というのが、直也から見た石田咲良への第一印象であった。と言うのも、校門を潜った直後の開口一番に「私の命令に従いなさい!」という喧嘩腰の挨拶を敢行した見知らぬ少女――直後に石田咲良だと察した――は、他人とは半歩離れて接する直也にとっては天敵に近い存在である。正反対ではあるが行動と言動が得体の知れない鈴木真映もまた石田咲良と同類項に成り得るが、真映は怪獣なので扱っている言語が根本からして隔絶しており、意思の疎通が図れないのはある意味仕方が無いと言えた。

しかし、この少女の一方通行な物言いには悪感情を覚えずにはいられない。二級線の学兵と言っても軍人であることには変わりなく、命令される事には従順でいる心算ではある。だが、それをわざわざ御丁寧にお教え下さる必要なんぞは何処にも無い。それでも遅ればせながら直也が咲良に敬礼で返してみせた理由は、視線で必死に拝み倒す竜馬の大量に苦虫を噛み潰した様な表情が視界に映ったからである。

真冬の盛りであるにも関わらず、竜馬の厳しい顔には脂汗が滲み、謹厳実直な上に不器用である為に咲良を諌める言葉も出せず、ただ只管この苦行にも近似した時間を耐え忍ぶ様に対し、直也は同情の念を禁じ得なかったのだ。少なくとも、直後に放たれた咲良の言動の直前までは。

 男同士相通じている事も露知らず咲良は厳しい表情を崩して満足気に頷くと、

「じゃ、朝のHRまで時間も無いし、アンタも付いて来なさい。まだアンタで『一人目』なんだから。今日中に全員と顔を合わせるわよ」

「え?」

 直也は思わず神経接続から現在時刻を呼び出すと、HRの十分前となっている。現時点で言葉を交わしたのが自分一人、というのは余りにも不自然である。特に真面目一辺倒の横山亜美が遅刻間際に登校する筈が無く、竜馬と咲良が何時から此処で待ち伏せしていたとしても、まず亜美と面識が無いというのはどう考えても前後の辻褄が合わない。つまり、これは、そう、たった今脳裏を横切ったように、この二人は正しく待ち伏せていたのだ。

 直也は慌てて竜馬を見やると、気まずさからか竜馬の視線はそこかしこを遊泳している。

(俺……まさか……嵌められた……?)

 はたして、直也のその予想は的中していた。竜馬はある程度与し易いと見て最初に直也に声をかけさせ、HR間近である事を言い訳に同道させることにより、教室や廊下で耳目を集めて実質的に立場を咲良寄りに仕立て上げるつもりなのだ。この場合、直也の意思には然程意味は無く、咲良に引き連れられて現れる直也を他の小隊員がどう判断するのか、という事だった。当然ながら、隊員はこう思うだろう。『野口は早速小隊長と組むらしい』、と。無論、認識は大なり小なり違ってくるだろうが、其処に竜馬が付いてくれば俄然説得力が増してくる。

何故ここまで強引で拙い運び方を実行しなければならないのか。簡単だ。直也自身が感じているように、石田咲良という少女は相当の難物である。仕草や言動もそうだが、それ以前に感情表現が随分と稚拙なのである。一直線だと言い換えても良いだろう。それ故、感情を受け止める部分が柔軟ではない人間は容易に咲良に反発し、小隊内に不必要な敵愾心が生まれる事になる。

小隊とは個々が寄せ集まった群体である事が最も重要なのであり、頭脳があっても手足が損なわれていれば群体の機能は著しく減じてしまう。隊内の軋轢はそのまま戦場での生存率を減退させ、最悪直也自身が戦闘の矢面に立たされる可能性がある。それは直也にとってよろしくない事態であり、竜馬は直也が保身に走るであろう事を見越していた。つまり、直也が咲良と小隊の緩衝材として存在し、隊内が上手く回っていれば直也の安全は保障されている。故に、直也は断れない。断ったとして、竜馬が咲良にラインオフィサー云々と脅迫紛いの忠告をしようものなら、直也の明日は風前の灯となってしまう。

本来なら、竜馬も当初はあくまでも小隊の運営は咲良に任せ、自身は小隊員との折衝に励む心算でいたのだ。だが、その甘い目論見が咲良という一人の少女によって覆されてしまい、頭を抱える事態となってしまった。

ただでさえこの小隊の隊員は我が強い者――特に女性陣――が多く、小隊長と隊員という不和の構図が出来上がるのは時間の問題である。と言って暴走気味の咲良から目を離す訳にもいかず、かと言って隊員にかまけていれば咲良は本当に隊内で孤独に陥ってしまう。不器用な人間である竜馬では両者をバランス良く取り持つという事は非常に難儀な事であり、本人もそれをよくよく理解していた。そこで、苦肉の策ではあるが、竜馬は彼なりに一計を案じたのである。

それが、野口直也を自陣に引き込むことによって自身が咲良に付き、咲良の命令と隊員の意見の繋ぎを直也に一任する、というマッチポンプ紛いの歪な運営方法だった。直也に白羽の矢を立てたのは消去法による選別であり、常識的な人物を選り抜いた結果である。特に深い意味は無い。直也としては何故俺が、というやさぐれた思いであったが、何となく竜馬の気苦労も察する事が出来るだけに、文句も言い難い。運悪く貧乏籤を引かざるを得ない状況なのである。何せ、こと小隊の運営に関して頼りにならない人間がこの小隊には多過ぎる。

直也はがしがしと頭を掻くと、竜馬に軽く肘鉄をくれた。

「……今度何か奢れよ……んで、チャラってことで」

 竜馬は微かに目を見開くと、神妙に頷いた。

「……すまん」

「?」

 いまいち男同士のやり取りに付いていけていない咲良は二人を交互に見やり、頭上に疑問符を浮かべて小首を傾げた。眉間の皺が解れて純粋に困惑している様子は幼子のようなそれで、先程までの張り詰めた雰囲気よりも余程似合っているように思える。間が抜けているような、と言うと言い過ぎであろうか。

 幼稚な小隊長、苦労性の手綱持ち、能力の劣る相談役、どうにも暗澹たる先行きである。

 小、中、大の凸凹三人組が漸くその場を離れたのは、HR間近のチャイムが鳴ってからのことであった。


          ※


 十二月四日。放課後。時刻は七時を回り、十二月ともなれば周囲は既に薄暗い。直也はハンガーから出て寒気に追い立てられるように足早に運動場を横切り、食堂から薬缶と陶器のコップをちょろまかす。

そのまま保健室へと直行し、電気を点け、椅子を窓際に寄せ、旧式のストーブに火を入れると、その上に薬缶を置く。蓋を開けて昼間買っておいた牛乳とコーヒーを各二本投入し、砂糖代わりに味の微妙な板チョコを親指大に割って放り込む。その間に戸棚を漁って細長い計量スプーンを取り出すと、一応アルコールスプレーで消毒して乾いたガーゼで表面を拭き取り、薬缶の中に突っ込んで緩々とかき回す。

明りの大部分を落としてしん、と静まり返った校内とは対照的に、ハンガーからは光と機械音が絶えない。精密機械である戦車は毎日のように手入れをしてやらなければ途端に湿気や水気に錆びつき、機嫌を悪くするので困りものである。いやまぁ、そこが可愛い所なのであるが、と直也は内心で独り呟く。

直也は足踏みを繰り返しながらコートの襟元を引き寄せ、ようやく室内に漂い始めた安っぽいカフェ・オレの香りに口元を綻ばせた。直也はいそいそとベッドの下のダンボールから毛布を引っ張り出すと、椅子の上に放り投げ、陶器のコップを装備。薬缶が十二分に温まった事を確認し、注ぎ口からそっとコップへと中身を注ぐ。湯気が鼻先を擽り、手の平にじんわりとした温もりが伝わる。

直也は放り投げた毛布を自身に巻き付けると、小さく悲鳴を上げる椅子へと腰を下ろした。コップを傾けて熱い液体を口内へと導き、ゆっくりと嚥下する。カフェ・オレが食道を通って胃へと広がっていく感覚を味わうように楽しむと、直也はようやく疲労が多分に含まれた吐息を吐いた。直後に腰と足に疲労による重みが加わり、直也は背もたれに身を預けて全身から力を抜いた。粘ついた熱の籠もった眼球を休ませようと瞼を閉じ、瞼の上から揉み解す。苦みと微かな甘みの余韻を舌で転がした。

「……ぶぁぁあぁあばばぁ」

 無意味な呻き声。野口直也、至福の瞬間である。

 そのまましばらくの間ぼんやりと暖かな室内でカフェ・オレを啜っていると、目の端にちらちらと横山亜美が校庭を走っている姿が映った。亜美が躍動する拍子に合わせて彼女の馬の尻尾がばたばたと揺れ、白くなった呼気が遠目にも判別がつく。制服とトレンチコートの代わりに体操服を着込み、身を切るような寒風の中を走り続けている。

 横山亜美、一言で言えば、今時珍しい――否、今時だからと言うべきなのか――古式ゆかしい大和娘である。容姿は恵まれたものがあり、肩まである髪を後頭部で纏めて尻尾にしている。剣道で培われたのか、性格は溌剌として真面目。谷口竜馬とは面識があるらしく、小隊の設立当初から竜馬とは親しい様子であった。竜馬爆発しろ。

 幸いにして、と言うべきなのか、亜美はそれほど石田咲良に対して抵抗がある様子は無かった。亜美は貴重な戦闘要員であるため、石田陣営に引き込むにしても有望で、希望が持てそうである。そしてその石田咲良であるが、三日間で予想以上に隊内を引っ掻き回していた。

 現在隊内は三つに分かたれた。即ち、石田咲良を筆頭とした石田陣営、渡部愛梨沙、菅原乃恵留、両名以下による反石田同盟、両陣営にはまったく興味が無い第三者組である。喧嘩を二束三文で売って顰蹙を大人買いした結果がこれ。頭が痛い。不幸中の幸いだったのは、大部分の人間が第三者組に流れてくれた事であろうか。

 直也は改めてコップの中身を飲み干すと、深く深く溜息を吐いた。

 考えなければならない事は山積しているというのに、兎にも角にも人手が足りていない。今の所石田陣営の各々が二足の草鞋を履いているので表面的には問題は出ていないが、戦場に出るようになり、戦車に関する消耗品の消費が加速していけば間違い無く直也がまず整備に出ずっぱりになる。すると、当然会計や消耗品の把握にまで手が回らない。隊員の訓練や戦闘を担当している竜馬に任せられる筈も無く、皺寄せは咲良に重く圧し掛かる。だが、咲良の手が普段の業務に加えて事務レベルの仕事に忙殺されるのは非常によろしくない。

「石田咲良……石田……ねぇ」

 石田咲良。ブルーヘクサ。未熟な人格に反し、不自然なまでの優秀さを備える少女。

 こんな噂がある。政府は深刻な指揮官不足を解消するため、指揮官の能力と疑似的な記憶を埋め込んだ人間の促成栽培を行い、これをもって人材の不足を補おうとしていると。仮にそれが事実であるとするならば、本格的に人道などというものは地に堕ちたのではないか。無論、本人に直接問い質した訳では無いので、彼女が本当に調整された人間であるのかどうかは分からないが……。

 基本的に、直也はこの戦争に関しては悲観的な立場である。最終的に人類は敗れ去ると信じていたし、幻獣共生派が主張するように人類と幻獣が共生可能などと思ってもいない。精々日一日生き延びる事が出来れば、と慎ましく考えていた。腐らずに仕事を丁寧に仕上げているのも死の瞬間を今日では無く明日に延ばす為に行っているだけに過ぎず、戦争に勝利する為に働いているわけではない。しかし、良心すら打ち捨てた行いに遣る瀬無さを覚えぬ程、直也は絶望してはいなかった。だが、現実的にそうせざるを得ない、というのもまた事実の一端である。

「そう考えると、多少なりと憐憫の情が湧くのも仕方が無い、か?」

 直也はそこで思考を打ち切ると、今度は何の気は無しに窓を見やり、

「どぅおわ!?」

 見事にずっこけた。

「んな、な、ななっ」

 と言うのも、窓の外、窓硝子に密着せんばかりに咲良、竜馬、亜美が張り付いていたのである。寒さに震えるその様は、凄まじく間抜けな絵に見える。

「俺ってこんなキャラだったかなぁ……」

 どちらに対して向けられたものなのか、直也は呆れたように笑うと、薬缶の中身が足りるだろうかと頭を巡らせた。






[21738] 野口の憂鬱
Name: らーてん◆61e9dbff ID:4e9aac41
Date: 2010/09/13 11:27
 衣食住で最も必要とされているのは食糧であり、胃袋さえ握っていれば小隊は常に上手く回るのである。例えそれが悪循環一歩手前であっても、だ。特に現在は戦時中で物資が滞り、餓死する危険性は常に孕んでいるのだから尚更である。故に、印象操作の一環として食料を大量に陳情すべきだと進言したんだが、古米が詰まった米俵よりも林檎を大量に発注してどうすんだと。馬鹿なの? 死ぬの? 当然ながら保存なんぞ利く筈もなく、仕方が無いので小隊内での林檎パーティーと洒落込んだんだが、意外に好評だったので複雑な気分である。山口葉月が林檎の乾物の作り方を知っていたので、何とか腐らせずに済みそうだ。


 ヒロイン小隊のとある隊員の日記より抜粋。


          ※


 話は少々前後する。

 十二月三日、晴れ、午前十二時三十七分四十三秒、開戦の火蓋はこの瞬間に切って落とされた。後に直也が脳内で勝手に『第一次女ってマヂで怖い会戦』が勃発したのは、各々が適当に昼食を摂っている時の事である。その時直也はちょうど食堂でカレーを食べていたのだが、渡部愛梨沙の怒声に引っ叩かれてカレーソースを制服に落としてしまい、慌てて手近にあった布で拭いていた。のだが、その布が生乾きのフキンであったため、何か微妙に湿った匂いが制服に染み付いてしまい、陰鬱な気分になる。

 さて何の騒ぎかと首を巡らせてみると、成程、分かり易い構図が出来上がっていた。

 渡部愛梨沙と菅原乃恵留に対するは我等が小隊長石田咲良。聞くともなしに聞こえてくる会話の内容から察するに、愛梨沙がテクノオフィサーからラインオフィサーへと異動させてくれ、と頼み込んでいるようなのだが、これを咲良が頑として受け入れようとしないので、口論に発展してしまったようである。元々両者とも我が強く、気性も激しいようなので、一度火が付けば燃え広がるのはある意味必然的と言えよう。愛梨沙の背後に乃恵留が居る事が気にはなるが、今の所手も口も出す様子が無い。と、直也が呑気に考察していると、「やめんか!」と愛梨沙以上の声量で騒動の中心へと踏み込んで行く竜馬の姿。

「ありゃ、火に油だろうな」

 喧嘩を仲裁するつもりなのかもしれないが、相手が悪い。何せ、相手はあの渡部愛梨沙である。わざわざ死亡率の高いラインオフィサーに転向しようとしている辺り、その決意は相当のものだろう。少々怒鳴られたとしても、逆に反発するのがオチである。ああいった手合いは、正論で武装しても意味が無い。感情に対して感情で当たるのは下策であるし、竜馬のように明らかに咲良寄りの人間に注意されれば、身内贔屓だと思われるだろう。

「だろうねぇ」

 隣席からのんびりとした声音で岩崎仲俊が同意し、更にその隣では竹内優斗がおろおろとした様子で座っていた。優斗は普通に食堂のラーメンを食べているようだが、仲俊は誰かの御手製らしい小さな弁当を広げている。誰の手によるものかと訊ねると、「葉月さんだよ」と短い返答が返って来た。

 岩崎仲俊。自称食客。ヒモではない。容姿は男前であるし物腰も柔らかく、男女共に気配りを忘れない男である。ただし、第三者から見た決定的な欠点として、自活能力の欠如があげられるだろう。そのため、常日頃から誰かしらの世話にならなければ、夏場の蜻蛉よりも儚く死にそうな男であった。現在は山口葉月宅に世話になっているらしく、彼女には一切頭が上がらない様子である。しかし、その生き方に関して微塵も恥じている様子も無く、寧ろ堂々と公言している辺りなかなかに神経が図太い。また、その人当たりの良さもあってか事情通・情報通でもあった。

 竹内優斗。小隊の中では特に直也と話が合い、直也が機械類全般に愛を注いでいるのに対し、優斗は航空関連の機体に絶大な愛情を持ち合わせている男である。その航空機好きが高じて半軍半民の飛行機学校に籍を置いていたらしいのだが、現在の戦況と相まって学兵として徴集されたらしい。何故か岩崎仲俊の生き様を尊敬しているらしく、よく仲俊にくっ付いて回っている姿を校内で見かけられる。

「……で?」

「で、って、何が?」

「今、俺に同意しただろ? お前の事だから、何か確信があるんだろが」

「まぁ、ねぇ?」

 仲俊は意味深に微笑むと、食堂のメニューから定食を指先で指し示す。直也はじろり、と仲俊を睨みつけると、ラーメンをとんとん、と突く。格別こだわっているわけではないらしく、仲俊は機嫌が良さそうに頷いた。直也は財布の中から五百円玉を仲俊に手渡すと、胸元から小遣い手帳を取り出して記入する。日記と同様に、何となく直也が継続している数少ない手遊びの一つである。

仲俊が「御釣りは貰って良いか?」などと訊いてくるので、直也は気前良く「駄目だ」と一刀のもとに切り捨てた。


「まぁ、つまりね。誰が悪いって訳でもないんだけど……」

 ラーメンを注文して戻ってきた仲俊は水で唇を湿らせると、何処か面白そうな口調で口火を切った。

 仲俊曰く、渡部愛梨沙、佐藤尚也、鈴木真映の三人を取り巻く状況が、事の発端であると言う。今でこそ鈴木真映は鈴木ファンタジアと呼ばれるほどに電波発言を繰り返す不思議系少女であるが、かつては本当に普通の少女であった。また、同様に天才佐藤尚也もまた、ただ一人の少女に恋をする普通の少年であった。悲劇なのか喜劇なのか、ある日何某かのきっかけで鈴木真映は道を外れてしまい、普通の人間である以上は尚也が真映の隣に立つ事すら叶わなくなってしまった。何しろ、相手は既に鈴木ファンタジアという名の怪獣であり、同じ次元にいながら異次元に身を置く元人間である。普通ならばその時点で諦めてしまうのが人間と言うものであったが、尚也には世界全てを打ち捨てるほどの原動力が存在していた。

 それが、全身全霊の恋である。

 恋は盲目とはよく言ったもので、現在の天才佐藤尚也は己の存在全ての価値を周囲の世界から切り離し、遥かな別次元の怪獣と成り果ててしまった真映のみを見据えた結果だった。怪物〈女王〉を護り、敬い、慕う騎士は世界全てと引き換えに才能という剣を手にしたのである。此処で話が終えていればボーイ・ミーツ・ガールであるが、ところがどっこい登場人物はもう一人。

 それが、悲恋の物語に巻き込まれ、未だ翻弄されている少女、渡部愛梨沙だった。

 実の所、渡部愛梨沙が軍に志願した理由の十割が佐藤尚也を追いかける為である。此処まで言えば察しの通り、愛梨沙は尚也に恋心を抱いているのである。それは言動の端々や周囲に漏らしているので裏付けが取れていて今更という感じであるが、好いた相手に一途という点では決して尚也には劣らない命懸けの恋だった。しかし、鈴木真映のみを興味の対象とし、その他の一切合財を不要と断じる尚也が相手では分が悪い。

 実際、尚也が小隊内の人間と会話を交えている場面など皆無と言っていい程で、真映以外の人間を喋る土塊か何かだと認識していたとしても不思議ではないな、と直也は思った。

 最初から旗色の悪い愛梨沙が導き出した結論は戦場で尚也と比肩し、自分という存在を認めてもらう事にしたのである。これが愛憎劇の顛末であり、物の見事に口撃の矛先を向けられた竜馬が被害を被っている喧嘩の原因であった。

 そしてその竜馬であるが、勢い込んで両者の間に割って入ったものの女性陣の剣幕に完全に押されている。一気呵成とはよく言ったもので、愛梨沙の論理と理性と支離滅裂な逆ギレ理論は止め処無く竜馬を打ち据えていた。大の男が小柄な少女に気圧されている光景は何処か苦い笑みを誘い、最初の刺々しい雰囲気は既に駆逐されていた。

「なる、ほど、ねぇ……。そりゃあ確かに、誰が悪いってわけでもねぇわな」

 敢えて言うなれば人事に私事を持ち込む愛梨沙に非があって然るべきであるが、誰も彼もが不幸であるならば、愛梨沙ともども既に罰は受けている。怪獣に成り果てた真映は孤独であるし、報われぬ尚也は風車に挑む騎士と同じく滑稽で、愛梨沙は踏めぬ影に向かって延々と縋りついている。しかし、彼等の事情に関して言うならば、何一つとして直也の心に波風が起こる事はなかった。何故なら、結局の所その選択肢を掴んでしまったのは当時の当人達の問題であるし、殊更言ってしまえば他人事である。対岸の火事が飛び火さえしない限り世はなべてこともなし、という事だ。

 問題なのは、こういった個人の事情を知り得ている仲俊の情報収集能力である。無論、仲俊の創作という点も考えられるが、話の内容が『らしい』ので判別し難い。何より恐ろしいのは、この男に自分の与り知らぬ所で自分の事を知られてしまっているのでは、という事だ。それは、凄まじくよろしくないが、非常に有用である事に疑問の余地は無い。問題なのは、この仲俊が必ずしも石田陣営に対して有利な人物ではない、ということである。仲俊がこういった情報を知り得ているのは、あくまでも誰にとっても――山口葉月は除く――平等な人間であるからだ。

 相変わらず柔和で悪戯っぽい表情で微笑んでいる仲俊を直也は胡乱な瞳で見つめ、ややあって直也は自分のトレイを持って立ち上がる。合成材料をふんだんに使った業務用の味気無いカレーであったが、安価で手軽に満腹感を得られるカレーは学兵の強い味方だ。不自然な酸味さえ無ければもう少し口当たりが良いのだが、定期的に食事を摂れるだけ有難いというもの。この御時勢、あと数年もすればマトモに食えなくなるのは目に見えている。今の内から保存食と避難場所を探しておくべきだろうか、と脳内の項目に走り書きでメモを取る。

 騒ぎに関わる必要性も感じられないし、昼飯は既に腹の中。雑談に興じる気分でもない。さっさと教室に戻ってしまおう。下手にこの場に居座ると、竜馬に助けを求められかねない。まぁ、無視するけど、と見捨てる気満々の直也。ちなみに、竜馬へのささやかな意趣返しも含まれているので、薄情とは言うまい。

「あれ? 竜馬君を助けなくて良いのかい?」

 喧々囂々と姦しい場から立ち去ろうとする素振りを見せた直也に、仲俊は不可思議な光を瞳に浮かべて引き留める。まるで、直也の一挙一動を探るような視線に直也は妙に居心地が悪くなり、その視線を何事も無く引き剥がせない自分に微かに苛立つ。持ち主の意思に反して勝手に周囲の音を拾ってくる耳が遂に菅原乃恵留の参戦を認め、騒音が二乗になる。合間に漏れ聞こえる竜馬と咲良の声量と勢いから鑑みるに、劣勢に立たされているのは間違い無いようだ。

 直也はがちがちと奥歯を噛み鳴らす。

 直也は迷っていた。今ここで助け船を出すような真似をすれば、これから先本当に咲良の為に奔走しなければならないような、ならなくなるような、そんな気がするからだ。

 いや、そもそも、助けてやらねばならない理由が何処にあると言うのだ。ああいった面倒事に骨を折るのは自分の性分ではないし、押し付けられた役目なんぞ放置してしまえば良い。かと言って白熱する口論を竜馬が即座に収束できるとも思えず、これ以上の亀裂は修復を困難にしてしまうだろう。反発するのは構いやしないが、反目されるのは困る。だが、万一渡部愛梨沙と菅原乃恵留に目の敵にされ、整備の仕事に支障をきたすのはより困るが……。

(えぇい、仕方がないっ)

 直也の内心の葛藤に一応の決着をつけると、ずかずかと返却口に近付いてトレイを置く。傍らを見て返却された同色のトレイが山積みになっている事を確認し、直也はもう一度この選択を後悔しないかを自らに問う。

打てば響くように答えは出た。

「後悔するに決まってんだろ……畜生ッ」

 直也は後ろめたい気分になりながら手の平でトレイを押し出すと、トレイの山は重力に引かれてリノリウムの床にぶち撒けられた。その際に大量のトレイは『少々』けたたましい音を立て、響いた音が収まる頃には食堂の中は唖然としたような沈黙が降り立った。

 背中に無数の視線が突き刺さっていることを嫌と言うほど意識しながら、直也は相当の勇気を振り絞りながら振り向いた。

 凡そ数名を除いて、ほとんどの人間が呆然とした表情で直也を見つめている。直也の行動の意味を悟ったらしい竜馬は珍しく満面に喜色を浮かべ、咲良は不満気に頬を膨らませていた。「俺は母親かってーの」、と口の中で呟き、尚也は出来得る限り平然とした様子を装って肩を竦める。緊張で声が震えなければ努力賞、と言う所であろう。

「悪ぃ。続けてくれて結構だぜ」

 再起動した愛梨沙と乃恵留の両名は冷や水を浴びせられて自分が何処に居るのかに漸く思い当ったらしく、互いに気まずげに視線を交わし合う。口論の様子を見守っていた他の数名も興醒めとばかりにめいめい動き出し、停滞していた空気が再び動き出す。

 直也は自分の行動の後悔に苛まれながら溜息を吐き、トレイを拾い集めようと腰を屈めた。すると、視界の中に三人分の靴が映り込む。顔を上げると、優斗、仲俊、そして美少年と銘打ちたくなる容貌の小島航が居た。

 小島航。無愛想で捻くれ者、そんな冷たい印象が様になる美少年。互いに接点が存在せず、このように親切を受けるような間柄ではない筈なのだが。

 呆気に取られていると、優斗が代表してにっこり笑う。

「大丈夫ですか? 手伝いますよ」

「あ、悪い……」

 流石に四人も居れば片付けるのも早く済み、多少埃のついたトレイは元通りに返却口の脇に積み上がる。

「サンキュ、助かった」

 仲俊と優斗は「いいよ」と短く返答し、航は無言でその場を離れた。

航自身は何事も無く去ったつもりなのかもしれないが、若干頬が染まっていた事に三人は気付いていた。

 仲俊は遠ざかっていく航の背中を見つめながら、確信を込めて言う。

「優斗君、あれがツンデレだよ」

 直也達はうんうんと頷いた。


          ※


 同日、放課後。運動場にて。

 基本的にテクノオフィサーはラインオフィサーと違って訓練に然程時間を取られるわけではないので、一通りの点検と武器・弾薬・整備用具などの在庫整理を終えてしまうと暇になる。大抵の人間は時間に空きが出来れば市街地に出て数少ない娯楽を堪能してくるのだが、直也は走る事が多い。マラソンの世界からは程遠い場所に居ると、時折どうにも無性に走りたくなる事があるのだ。走っている間は余計な事を考えなくて済み、身体に適度な負担をかけるのは気分が良い。

 吐いて吐いて吸う。吐いて吐いて吸う。一定の呼吸を心掛けながら、肺に酸素を送り込む。錆び付いた勘を取り戻すように肺と心臓が膨張と収縮を繰り返し、身体を前へ前へと進ませる。曲げた腕をぴったりと身体の脇に付け、歩幅を狭くして脚の回転を速め、背筋を伸ばす。生地の薄い体操服では凍りつくのではないかと思えた寒気も、熱を発する身体にはちょうど良い。

 直也にとって、走る事は意識から他人を排除する行為の事を指していた。生活すると言う事は否応無く他人の存在を感知し、常に念頭に置きながら行動しなければならない。人間が社会を構成する上でその煩わしさを許容する必要があるのだが、ストレスは雪達磨式に増える。そらもう増える。容赦無く増える。どんどこ増える。そのマイナスの意味での残高を一発で帳消しにする方法が、直也にとっては走る事に相当する。両脚をひたすら前に進めている間、向き合っていなければならないのは自分のみ。現実の全ての事情から切り離され、自己の限界との擦り合わせだけを心に留めておけば良い。何もかもが単純で、やらなければならない事はしゃっきりと決まっている。だから、直也は走る事が好きだった。しかし、反面それは現実逃避の一環でもあり、精神の安定を図ろうとする直也の防衛本能でもあったのかもしれない。

 さて置いて、直也は限界の三歩手前で体を冷やさぬ内にさっさとクールダウンを済ませ、会議室で手早く着替える。風邪を引かないように全身を拭うのも忘れない。ほぼ下着一丁になるので、滅多に人が来ない会議室は都合が良いのである。後々試験期間が近くなるにつれて無駄な悪足掻きをする人間が教科書とノート片手にひっきりなしに現れる事になるのだが、今の直也には関係が無い事だった。

「ん? あぁ、野口、此処にいたのか」

 背後でがらり、と扉が開き、野太い声が野口の存在を認めた。振り返ると、胃の辺りに手を添えた竜馬が図体と反して頼りない足取りで会議室に入ってくる。竜馬はそのままよろよろとパイプ椅子にその身を預けると、心底疲れ切った様子で長机にうつ伏せになった。背中には黒々とした縦線が入り、滲み出る苦労人の気配が濃厚に会議室の空気を浸食していく。隊長に付いて三日でこの結果である。

 直也はにやにやと嫌な笑いを浮かべつつ竜馬の背中を叩くと、

「はっはっはっ。いやぁ、お疲れさん谷口クン。随分と苦労なさっているようで」

「野口……貴様、少しは労わろうという気持ちは無いのか……」

「無いな。ざまぁみさらせ。で? 俺らの隊長殿はどうしたんだ? 早速愛想でも尽かされたか?」

 竜馬は顔を上げて恨みがましくも迫力の失せた目付きで直也を睨むと、次いで深々と溜息を吐く。

「……あぁ、隊長は小島先生と連れ立って何処かへ行ってしまったのでな」

「成程、降って湧いた希少な自由時間ってわけか」

「まぁな……」

 竜馬が言い辛そうに同意を示し、特に話題も無く沈黙が訪れた。竜馬は未だ懊悩しているのか眉間に皺を寄せ、長机の一点をじっと見つめている。直也もまた立ち去る素振りも無く壁に背中を預け、天井を見上げた。

 窓の外ではしんしんと雪が降り始め、味気無い世界にささやかな彩りを添える。まるで、柔らかな粉雪で地上の万障全てを埋め尽くそうとするかのように。窓の外に鈴木真映と佐藤尚也が連れ立って歩いているのが見え、身長の関係から傍から見ていると恋人と言うより姉と弟のそれのようだ。遠目なのでよく分からないが、不機嫌そうな表情ばかりの尚也が普通の子供のように笑っている事に直也は少なからず驚いた。

 直也は不意に口を開いた。

「なぁ谷口。割とマジな話、あの隊長殿に俺達は命を預けられるのか? こう言っちゃあ悪いが、ここ一日二日で隊長の評価は最低を通り越して最悪。今はまだ良いが、戦場でヘマをやらかしゃもう関係の修復は不可能。隊長に乗っかった俺らの信用も地に落ちる」

「……」

 竜馬が無言で頷く。

「俺ぁわざわざ火中の栗を拾う馬鹿には成りたくはないぜ? それとも、俺達が『石田咲良』に納得して下に付く理由があるか?」

「……それは、まだ、分からん。だがな――」

 竜馬は自分の考えを纏めるように一度言葉を切ると、一度目を閉じる。一秒か、二秒か、時間が経過し、見開いた竜馬の瞳には決然とした光があった。

「あの人は真剣だ。真剣に隊長たらんとしているのは見ていて分かる。……空回っているのは否定せんがな。足りない部分があると言うのなら、俺が助力して補えば良い話だ。補う手が多いに越したことはないが、足りなくとも俺はあの人を最後の最後まで見捨てようとは思わん……それにな」

 そこで竜馬は彼にしては珍しくにやり、と笑うと、

「最初から何もかも完璧にこなせる人間に仕えるのも味気なかろう?」

 最後はそう冗談めかして言葉を切った。

 直也と竜馬は互いに気難しい表情を見合わせると、どちらからともなく吹き出した。

 張り詰めた空気が弛緩し、真面目な時間の終わりを感じた。笑いの衝動が過ぎ去ると、直也は思い悩んでいた自分が馬鹿なのではないかと感じた。

「……そうかよ。だけどな、他の奴らは見栄えの良い成果を見せないと付いてこないぜ? 俺もそれほど気が長い方じゃあねぇしな。それも、手っ取り早く早急に」

「むうっ……」

 その点を指摘されると竜馬はまたもや押し黙る。

「……しょうがねぇなぁ」

「野口?」

 直也は竜馬に背を向けて出入り口へと向かい、扉を開ける。

「……備蓄している食料が思ったより減ってる。当面必要な弾薬と細かい部品類のリストを纏めておくから、後で隊長に渡しておいてくれよ。……俺も何か考えてみるわ。あぁ、それとな――」

「?」

「お前、冗談似合わないのな」

 竜馬の衝撃を受けた顔を見て満足すると、直也はその場を後にした。


          ※


 十二月八日。昼時。快晴。

 直也は通信室を素通りして屋上へと続く扉を開け放つと、直後に吹き込む冷気に身震いする。直也はざくざくと新雪を踏み締め、木箱に入れてこっそり給水塔の下に隠しておいた茣蓙を広げた。

 尻が濡れないように四つ折りにした茣蓙に腰を下ろし、購買で買ったやきそばパンの袋を開ける。仄かにソースの香りが鼻腔に広がり、勇み足の唾液が口中を満たす。ごくり、と邪魔な唾液を呑み込み、やきそばパンの先端にかぶりつく。途端に歯にパンの程良い固さとソバの脆い食感が伝わり、何度も細かく噛み砕く。味気無いパンに濃いソースを纏ったパンが絡まり、申し訳程度に散らされたキャベツと肉片がアクセントを加える。

 一面の銀世界とはよく言ったもので、屋上はもとより見渡す限り街中が雪原となってしまっている。太陽の光を反射して眩く照り返し、戦争中だとは思えないほどに綺麗な景観だった。しかし、この光景は砂上の楼閣のように容易に崩れ去るほどの危うい均衡の上に成り立っており、学兵が踏ん張り切れなかった時、この静かな平和は瓦解するのだ。

 九州での防衛線を突破できなかった幻獣達は、その矛先を青森へと変えた。日本有数の穀倉地帯である北海道との補給線を断ち切り、人類を疲弊させるつもりだからである。元々戦力として数え上げられずに家へと送り返される事もある二線級の師団ばかりが集まるこの場所に攻め込まれ、不意を打たれた各小隊は組織立った行動を不可能にしていた。その結果、混乱した小隊は各々の判断で幻獣に当たらなければならなくなった。

 直也は思う。自分は、後何度この平穏を見る事が出来るのだろうかと。テレビが垂れ流すニュースでは毎日のように死亡した人間の名前を読み上げ、そこに直也の名前が加わらないとも限らないのだ。と言って、軍隊では単に損害1として扱われる訳だが。

 いや、限り無く先の事を考えても始まるまい。まずは、目先の障害を乗り越える事から考えなければならない。

 先日、正式な出撃要請が下された。恐らく近々この小隊は戦場に出る事になる。懸念材料を数え上げるだけでも馬鹿馬鹿しいが、全ては石田咲良の指揮如何に委ねられた。賽は投げられたのだ。

 と、その時。

「おいでなすったか……」

 遠く遠く、不吉なサイレンが街中を震わせる。


『201V1! 201V1!』





[21738] 野口の戦場
Name: らーてん◆61e9dbff ID:4e9aac41
Date: 2010/10/01 09:19
 戦争ってのは無駄な時間だと俺は思う。戦争特需なんて一般人には実感できよう筈もなく、そもそも絶滅に瀕している俺達が利益を追求して何になるってんだ。戦争の効率的な手法ばかり上手くなったからと言って、文明が発展するわけでもなく、俺達の生活が豊かになるわけでもない。戦争税で物価は跳ね上がるし、現代日本で飢え死ぬなんて笑えない話だ。だが、実際に貧困に喘いでいる人間がいる以上、それは紛れもない現実だ。


 ヒロイン天国小隊のとある隊員の日記より抜粋。


「お前さんはもう少し他人を信用する事を覚えた方が良いな」

 と、変人で通っている我等3241小隊の教師こと小島空に忠告された事を、咲良は唐突に思い出していた。

 確かその時は、周囲の人間が非協力的で幻獣共生派かもしれない、と泣きついた時の事だから、十二月三日の出来事だったように思う。

 双眼鏡の狭苦しい視界の中には実体化しようとする幻獣の姿が陽炎のように揺らめき、彼等の瞳が放つ赤々とした不吉な光が地表を覆っている。物言わぬ彼等の悪意を象徴するかのようなその瞳は、直視する事が憚られるほどにおぞましい。目は口ほどに物を言う。言葉が通じなかろうが、彼等は確かにこう言っている。

 殺す、と。

 至って単純で純化された意思は戦場の張り詰めた空気と混合して拡散され、肌を炙る。剥き出しの殺意に晒された咲良の身体は危険を察知して敏感に反応し、体内で過密されていくストレスによって不調を訴えた。咲良は内側から込み上げてくる酸っぱいものを無理矢理嚥下し、腹を下さないように生温くしてある水を含んで口の中の苦い感覚を吐き出した。

 装具の点検、情報交換・共有、作戦会議、打ち合わせ、補給手順の徹底、激励、偵察、塹壕掘り、気の無い会話、嘔吐、時間の確認、幻獣の監視・観察、本部との連携、携行食料の配給、戦車の雪道装備、後悔、決意、やるべき事は多岐に渡り、誰もが慌ただしく走り回っている。

 準備は怠りなく入念に実行しているが、背後や足元から這い寄る恐怖の存在が安心感を与えてはくれない。焦燥が皆の尻を叩き、少しでも己を支えてくれる確実で堅固な何かしらの根拠を得ようと必死になる。いっそ開き直ればどれほど楽かは知れない。

 幻獣の数は凡そ四百という所で、幸いにして戦力の中心はゴブリンが主のようである。報告によれば小型幻獣が八割近くを占め、中型幻獣はキメラのみ。キメラの長距離レーザーは脅威であるが、戦場の空気を知る為の慣らしとしては、悪くない初戦になりそうだった。ここで自身の有能さを非協力的な部下達に見せつけてやれば、間違い無く見る目も変わるだろう、と咲良は内心でほくそ笑む。

 天候は快晴。絶好の戦争日和だった。戦場は左方に厚い白化粧を施した山々が立ち並び、麓には中腹に至るまで針葉樹の森が広がっている。その戦場を斜めに横切るように河川が横たわり、なだらかな起伏とぽつぽつとまばらに生える林が戦場の全てだった。

 と、その時、野太い声が咲良の頭部上方より降ってきた。

「隊長、申し訳ありませんが、野口が至急テントまで戻るようにと申しています」

 振り返ると、一見熊のようなのっそりした男が咲良を見下ろしている。

 谷口竜馬。二線級の小隊には珍しく戦争をするに相応しい体格と気骨があり、自覚の薄いこの小隊の中では軍人らしい軍人を実行している男である。ただ、余裕というものを備えていない為か、兎にも角にも融通が利かず、かっちりした軍人像を他人に求めるのが玉に瑕だった。しかし、この実直さを咲良は嫌ってはいなかった。少なくとも、たった今話題に上った野口直也よりも余程好感が持てる人物である。

 野口直也。言ってしまえば普通、の一言で済む。能力自体に突出したものはなく、必要な事しかできない人間である。竜馬に諭されて自陣に引き込んだが、咲良は直也にあまり良い印象を抱いてはいない。特に、直也の逐一反応や行動を観察するような目が嫌いだった。言動こそ慇懃であるが、誰からも一歩引いた雰囲気は心から従っているとは言い難い。何かしら自陣に決定的なミスがあれば即座に手の平を返し、ぬけぬけと糾弾する側へと寄り付きそうな男。何処か、あの研究所の白衣の男達を連想させる。

「こっちからわざわざ?」

 眉を顰めて咲良は問い返すと、竜馬は一瞬訝しげにしながらも頷いた。不機嫌なのも戦闘前で気が立っている為だとでも解釈したのかもしれない。

「『悪い事は皆で聞いた方が良いと思います』、だそうです。野口も必要が無ければ隊長を呼びつけるような真似はしません。話し振りからするに、かなり深刻な内容なのでしょう。他の小隊の隊長達は既に集合しています」

「……分かった。直ぐに行く」

 咲良は最後に幻獣の方へと一瞥をくれると、駆け足で元来た道へと駆け戻っていった。


          ※


「人型戦車の投入は控えて頂きたい」

 仮の作戦本部として設営された四本の細長い柱に天幕を張っただけの簡易テントの下、野口直也を含めた各小隊の整備班長はそう告げた。

 困惑する小隊長達に対して直也はチェックボードに視線を逃がしつつ、米神のあたりをボールペンの頭で掻いた。

「えー……もしやと思って先程調べてみたんですが、この地方で数日前にかなりの降雪があったらしく、場所によっては300センチ以上の積雪が予想されます。戦闘中に雪の下の岩などに不意に足を捕られて転倒する可能性があり、我々整備の人間としては今回の作戦に関して言えば人型戦車の運用を控えるべきだという結論に達しました。いえ、ごく狭い範囲であれば構いませんが、本作戦の主翼として組み込むのは困難と思われます」

 小隊長達の間に動揺が走るのが手に取るように把握でき、直也は溜息を吐きたいのを堪えながら続ける。

「また、人型戦車六台の内の二台から整備不良が見つかりました。一台は以前からの戦闘でパイロットが強引な機動を行った為か、足回りに金属疲労が見られます。もう一台は内部の神経系かプログラムに何かしらの問題が発生したようで、復旧作業を続けてはいますが起動の兆しは今の所見られません」

 其処で直也は一旦言葉を切り、後ろ手に手を組んだ。

「以上です」

 途端にしん、と冷たい沈黙が降り、咲良を除いた五人の小隊長とその部下達が皆一様に顔を見合わせた。

 人型戦車は人類側の張り子の虎であり、戦場で唯一幻獣に対抗し得る兵器である。元々冗談のような開発コンセプトで投入された機械人形だったが、九州で残した実績が初期の人型戦車『士魂号』の後継機の開発に弾みをつけた。一騎当千にも成り得る士魂の侍、たった一台戦場で運用されているだけでも学兵の士気は随分と違ったものになる。その切り札を切るな、と言われれば誰もが悄然としてしまうのは当然の事だった。

「なぁ佐々木、何とかならないのか? 人型戦車はあらゆる地形を走破する為に開発されたんだから、雪をかきわけて進むくらいは……」

 気の弱そうな小隊長の言に佐々木と呼ばれた整備班長は首を振り、

「こればっかりは……二本脚で歩くってのは、元来随分と不自然で繊細なものですからね。『人型』戦車なんて言っても、人間のように自由自在に姿勢制御を行えるわけではないんですよ。しかも、接地面積が狭過ぎて、雪に埋もれて身動きが取れなくなるのは目に見えています。自殺行為は推奨しかねますよ、私は」

「雪駄でも履かせますか?」

 スポーツ刈りの整備班長が肩を竦めつつ冗談雑じりにそう言うが、何人かの白い目に晒されて「失礼しました」、と黙る。

 気を取り直すように小隊長と部下達が頭を突き合わせて頓狂な意見と現実的な路線を話し合い始め、直也は挨拶でもするような気軽さで敬礼し、その場をそそくさと立ち去った。

「いっそのこと、的のでかい固定砲台にしてみるか?」

「いいねぇ、それ。見事的に当てた幻獣野郎には賞品をくれてやらねぇとな。キャラメルなんて良いんじゃないか? で? 万一の修理費は誰が受け持ってくれるんだ?」

「いや、普通に塹壕に伏せて使えば良いじゃあないですか」

「ほう? お前さん所の部隊は随分仕事が早いんだな。人型が伏せ撃ちできるだけの深ーい塹壕を今から掘れるとでも?」

「……」

「やめろって。昨日一昨日の天候はどうにもならないだろ? 俺達全員人型は使えるものだと思って待機させてたんだ。最初の見通しが立たなくなったのは仕方が無いさ」

「とにかく……とにかく今からでも作戦を立て直そう。まず――」

 背後から追いかけてくる会話の内容に経験の浅さが透けて見えるようで、直也はやれやれと内心で呟いた。


 戦場にも華は咲く。いや、物騒な意味では無く、かなり即物的な意味合いで、である。

 戦場で戦う人間は何も男子諸君だけのものではなくなり、現在では女子も実際に銃を手にとって男子顔負けの戦果を挙げる者も多い。女は強し、である。

 現在この雑駁な場にはあちらこちらから集まった部隊が駐在しており、ひっきりなしに人が右往左往している。中でも目立つのが我が3241小隊だった。と言うのも、人型戦車や対空戦車、果ては人型戦車の移動用トレーラーに至るまで同年代の少女達が取り付いているからである。

 唯一の例外は優斗のはやかぜくらいなものだ。これが整備兵であるならばまだ納得できるのだろうが、生憎と主役はオスカル顔負けのオットコ前の少女諸君である。控え目な男子諸君に比べて少女達が明らかに闊達過ぎ、いたいけな少年達を大声で使い回しているのだから悪目立ちもしようというものだ。

 それも、とびきりの美少女――安っぽいのでこの表現は野口自身忌避している――が揃っているので、自然と人目を集めてしまうのである。何せ、こちらには完全無欠に近い工藤百華が存在しているのだから。

 工藤百華。たおやかな雰囲気を漂わせながら、そこはかとない押しの強さを秘めた少女である。口調こそ穏やかであるが、言うべき所と譲れない部分に関しては一歩も引かず、整備のシフトを決める直也と折り合いが悪い。と言って、仕事振りは真面目であるし華奢な外見に反して腕力もそこそこあるので、直也は百華を重宝していた。

 で、その件の工藤百華であるが、他の小隊の人間と目が合う度に愛想良く微笑んでいたが、顔の筋肉が強張ってきていて内心苦しんでいたりする。それでも鉄壁の笑顔を保つその根性は相当なもので、百華のプライドが垣間見えたり見えなかったり。

 直也は視線の照準を百華から跪いた体勢で鎮座する人型戦車に合わせると、改めて人型戦車の外見の変容に苦笑を浮かべた。

 人型戦車を一躍有名にしたのは5121小隊や熊本一帯の小隊であるが、その当時の人型戦車と言えば洒落っ気もへったくれも無く、金属で構成された無骨なイメージがあった。部隊によってはエース機に撃墜マークを施し、部隊独自のパーソナルカラーなどでキメていたものだ。しかし、必要に迫られて量産機が生産されるようになってから、人型戦車の外見は大幅に改良・改悪された。

 部品の互換性を持たせ、同時に簡略化を行った故の結果らしいのだが、以前の戦車に比べてシルエットがスマートになっている。見た目だけで言うならば完全にアニメなどの『すぅぱぁロボット』であり、このデザインを仕上げた人間は絶対にバンバンジーとか見てそうだ、と直也は勝手に想像していた。

「あ、ちょうど良かった! 野口ー! ちょっとちょっとー!」

 さてどうしたものかと直也は頭の中で仕事の手順を考えていると、コックピットを開放して調整に励んでいた乃恵留から声がかかる。振り仰ぐと、乃恵留がぱたぱたと腕を振っていた。その乃恵留の姿を視界に収めた瞬間、直也は微かに感動を覚えた。

 戦車兵のウォードレスはエロい。身体のラインを浮き上がらせるウォードレスは少女達の慎ましい膨らみや若木のように伸びた手足を際立たせ、想像力を働かせる余地を与えてくれる。思春期真っ盛りの少年達の桃色の妄想力は留まる事を知らず、何気無い風を装いながら少女達を脳内のHDDに焼き付ける作業に従事していた。

 胸はまぁ大事であるが、直也にとって重要なのは腰から足先にかけての脚線美である。

 ほっそりした腰からふっくらと丸みを帯び、そこからきゅっと締まった太腿から爪先にかけての造形の良し悪しは常に直也の関心を煽ってやまない。その点、乃恵留、愛梨沙、亜美は申し分の無い人材である。更に幸運な事に三人とも自身がどのように見られているのかに頓着していないので、かなり無防備な姿を曝け出していた。と思っている直也であったが、実際の所三人とも男子諸兄の生々しい視線には気付いたし、内心「男(直也)って最低ー……」と女子一同から密やかに評判が下がっていたりもする。気付かぬは本人ばかりだった。

 まぁ非難覚悟で言い訳をするならば、危機意識よりも性欲が優るのは男の悲しい性なのだ。健康的と言って欲しい。だってウォードレスの下って基本裸一丁なんだぜ?

 ちなみに、人型戦車のパイロットにこの二人を推挙したのは他ならぬ直也である。咲良は自身に反抗的な人間を希少な戦車を任せたくはなかったようだが、直也が隊長と小隊員の間に立つ窓口として機能する為には必要な事であると竜馬と共謀して説き伏せ、渋々ながら承諾させたのだ。

 元々この両名が戦車との相性が良いというデータはあったので、本人達からの強い要望もあり使えるものは使うべきだと上伸した。この件に関する評価は悪くなく、ここ数日の間の小隊長への具申や陳情は全て直也に集中していた。どうやら、咲良陣営に「話の分かる人間が居るようだ」と認識してもらえたらしく、竜馬の目論見は珍しく的中したのだった。

 それはそれとして。

「……何か長々とセクハラされたような気がする」

 乃恵留は妙な圧力から自分を守るように身体を抱きしめ、怪訝な顔をする愛梨沙に「何でもない」と口を濁す。

 乃恵留はタラップを伝って下まで降りると、ちょうど直也が近付いて来る所だった。

「何? 何処か調子が悪いとか? だったらちょうど良いぜ。今回、人型に出番は無さそうだしな」

「え、うぅん、そうじゃなく――って、えぇ!? ちょっと野口それどういう事!? まさかまたアイツがもごぐッ!?」

「はいはい、大っぴらに隊長非難はすんなっつーに。今説明してやっから静かにしとけって」

 予想通りの反応だったので先んじて乃恵留の口に飴玉を放り込み、直也はちょうど近くにいた小島航と上田虎雄に小隊員を集めるように命じた。

「甘い……うまー」

 乃恵留は飴玉の仄かな甘味に相好を崩し、沸点に達しかけた怒りは何時の間にやら沈静化していた。

 ほどなくして偵察に駆りだされた隊員を除いて各所に散らばっていた小隊員が勢揃いし、直也は「後で小隊長から詳しく説明されると思うが……」と前置きし、あからさまに不安を煽りそうな部分は伏せて仮設テントの中での状況と現状を説明した。その気遣いも、あまり効果は無さそうであるが。


 直也達石田同盟にとっての分水嶺の日は先行きが悪いようだ。


          ※


 十二月十一日。二十三時十七分。降雪。市街地。

 初戦闘から三日が過ぎた。興奮冷めやらぬ二日間が過ぎ、三日目にはいつもの騒々しくも落ち着いた空気が戻ってくる。市街を行き交う人々の表情も何処か明るく、クリスマス前の賑やかな装飾と相まって相当に煌びやかだ。

 直也は市街地の一角に建てられたファーストフード店で遅い夕食を摂り、ぼぅ、と外を眺めていた。手元には半分まで口にしてから放置されたバーガーと冷め切ったポテト、炭酸が抜けたコーラが無言で「早よ片付けろ」と主張していたが、それでも直也はガラス一枚隔てた世界を見つめ続けていた。

 人が死んだ。

 幸いにして3241小隊から死者は出なかったが、キメラの長距離レーザーとゴブリンの集団に圧死される形で他の小隊から数名の死者が出た。

 本当に、あっけないほどに死んだ。死者の何人かは名前は知らずとも顔を覚えていた人間も含まれ、つい数時間前まで隣で話していた人間が永遠に目覚めないと知って、直也は奇妙なほどに現実感が遠ざかって行くのを感じていた。「え、何で?」、と素で一瞬口にしそうになった寸前で台詞を押し留めた時、直也は漸く理解した。

 人は死ぬのだ。殺されれば死ぬ。そんな極当たり前の事を直也は呑み込めていなかった。

 今の今まで間接的な媒体で死に触れる機会はあったが、知識として知っていても根本的に理解していなかったのだ。

「……帰るか」

 明日も朝は早い。この三日間でようやく全体の整備に目途が立ち、明日は何事も無ければ早く帰る事が出来るだろう。生き死には二の次三の次、目前の事柄が最優先だ。どれほど死を気に病んだ所で、何処かの誰かが自分を勝手に殺すのだ。気にした所で仕方が無い。

 直也はもそもそと冷えたポテトを口に詰め込み、バーガーを平らげ、最後に気の抜けたコーラで流し込んで胃に収め、さて出ようかと腰を上げた瞬間、背後から背中を叩かれた。

「おごっふっ!?」

「あ、やばっ」

 げほげほと咳き込む直也の背中を誰かの手が擦り、「ごめんごめん」と半笑いの声音で謝ってくる。振り返ると、頭とコートに雪を乗せた乃恵留が佇んでいた。

「夜遅くまでお仕事ご苦労様デス。野口整備主任殿」

 乃恵留は茶化すように軽く敬礼し、にまっ、と笑う。

「ん、おぅ。お疲れ。お前さんこそどうしたよ。夜中に出歩いてると危ねぇぞ」

 言いながら直也は浮かせていた腰を椅子に落とすと、乃恵留は「ちょっと待ってて」と言って注文を取りに行く。

「おっ待たせ」

「結構、食うのな……」

 やたらと時間がかかると思っていたら、乃恵留はトレイに山盛りのバーガーとポテトとナゲットを乗せて席に着く。直也が呆れている内に乃恵留は早速バーガー山脈を切り崩し、包み紙を剥がし始めた。

「うん、だってヤケ食いだから」

 乃恵留はあっけらかんとそう言い放つと、豪快にバーガーに食い付いた。バーガーの端からケチャップがはみ出し、乃恵留の冷気で紅潮した頬に付着する。乃恵留は一つ目のバーガーを手早く片付け、今度はポテトを親の敵の如く胃に詰め込んで行く。時々「熱ッ、熱ッ!」と指先を舐め、勢いのままにナゲットに喰らいつく。

 一心不乱に食べる乃恵留に此処で「夜中に物食うと太るぞ」、と言うとデリカシーが無いと言われるだろうか。

(ヤケ食いか……ヤケ食いねぇ……)

「ばくばくむしゃむしゃがつがつー!」

 最早台詞が擬音になっている乃恵留に溜息を吐き、直也は紙ナプキンを手に取ると、乃恵留に声をかける。

「菅原」

「ふぉ? ふぁふぃ?」

「ケチャップ付いてっから拭いとけ。あと物食いながら喋るなって」

「……んぐ。ありがと。どっち?」

「俺から見て右」

 乃恵留はケチャップを拭ってトレイの脇に紙ナプキンを置き、再度バーガーに口を付けようとして、やめた。

「私達……さ……」

「……ん?」

「戦争、してたね」

「ん、んー……」

 小隊同士が互いに主導権を得ようとして連携する事が出来ず、結局散発的な抵抗しかできなかったアレが戦争だと言うのなら、随分と気楽なものだが。それを敢えて言うほど直也は辛辣な性格ではなかったし、人並みには乃恵留の気持ちが察せられた。混ぜっ返すような真似はせず、直也は黙って話の続きを促す事にした。乃恵留が何かしら自分の中で整理を付けようとしており、誰かに話す事で一つ一つ結論を見つけようとしているのだ。

「私、ね。十六歳になったら絶対に死んでやるって決めてたんだ。それまでの人生は死ぬまでの余生でしかなくて、好き勝手に生きてやろうって思ってた。なのに……」

 乃恵留の身体は今漸く戦場の恐怖を知ったかのように、小刻みに震えていた。

「なのに……今更になって……他の人達が……し、死んじゃった所を見て……怖い、って……死にたくないって思って……」

 乃恵留はぽつりぽつりと言葉を詰まらせながら韜晦する。

「きょ、今日も、ほとんど眠れなくてさぁ……。暗い場所で独りで寝転がってると、心臓の音がどんどん大きくなって……このまま真っ暗な世界に飲み込まれるんじゃないかって……」

「だから、こんな時間帯でも出歩いてたってわけか」

「……ん」

 「今日は、知り合いが居たからちょっぴり嬉しかった」、と乃恵留は恥ずかしげにそうのたまい、大いに直也の精神を揺さぶった。「おい何だよこの微妙な空気は」、と精神が未だ聖域(ヴァージン)な直也であった。単に異性と接する機会は極端に少なくて女馴れしていないだけなのであるが、それでは何となく負けた気分になるので直也は認めようとはしない。

「どしたの?」

「いや……」

 急に顔を覆ってテーブルに突っ伏した直也を、体調でも崩したのかと心配する乃恵留。

「まぁ話は分かった。ちょっとくらいなら、話し相手になってやるよ。何なら子守唄も唄ってやろうか? ただし、突撃行軍歌だけどな」

「御断りしまっす」

「ま、兎に角、普通だよ普通。死ぬのが怖いってのは健全な証拠だよ」

「……野口はあんまり怖がってるように見えないけど?」

「『絢爛舞踏を狙うなら当然だろ?』」

 互いにケタケタと笑って一段落つくと、乃恵留は真摯な表情で野口を見つめた。

「ねぇ野口」

「ん?」

「半分食べて……」

 ファーストフードの連峰を前にして「ついカッとなって買い過ぎた……」、と乃恵留は半泣きになる。深夜のファーストフード店にて異様な存在感を発揮するそれは、到底乃恵留一人では消費できる筈もなく、「おら、食えるもんなら食ってみろ」と言わんばかりである。

 が、しかし、その鉄火場に直也一人が参戦した所で焼け石に水になるのは目に見えており、直也は最終手段を使わざるを得なかった。

「…………すんませーん。テイクアウトするんで、大きい袋か何か貰えませんか」

 結局、笑顔の怖い店員に見送られながら、逃げるようにして店から出て行く事となる。

 ちなみに、この食料の山は翌日学校に持ち込んで隊員に配り歩いた所、非常に喜ばれた事だけは追記しておく。




[21738] 野口の仕事
Name: らーてん◆61e9dbff ID:4e9aac41
Date: 2011/01/12 22:51
「人間は仕事をする自分に誇りを持っている。仕事を通して自信を持ち、自分の意思を芯にして、背筋を伸ばして生きて行くんだよ」
 そう、親父は言った。普段母さんに頭が上がらなくて、尻に敷かれる情けない親父だったが、この時ばかりは妙に家長としての威厳に満ちた表情をしていた事が印象に残っている。翻って俺はどうだろう。少なくとも、俺にとって仕事は義務の同線上にあり、自分の一部だとは思ってはいない。面倒臭くはあるが義務であり、割り当てられた役割であるが故に惰性でも継続する。所詮はその程度。戦争の為の仕事をして、戦争の為の戦争を繰り返す。必要に迫られて覚えただけで、親父のようには言えないし、嫌いになった親だけど、嫌いになってしまった親だけど、そこだけは未だに嫌いじゃない。


 ヒロイン天国小隊のとある隊員の日記より抜粋。


 野口直也の朝は早い。直也は睡眠時間が長かろうが短かろうが五時三十分に目覚ましをかけ、真冬の恋人である毛布の熱烈な抱擁をすったもんだの末に引き剥がすのが直也の朝の一連の流れである。直也は規則的な時間帯の起床こそが正しい生活の初動であると信じていたし、長距離選手として朝練に精を出していた頃からの直也の習慣の一つだった。学校に程近い無人の家を選んで間借りしていて時間的には十分に余裕があるのだが、三日坊主で挫折してしまったり十数年の歩みの中で何時の間にか風化した習慣がある中で妙にこの習慣だけは直也に染み付いて離れない。

 素足の足裏から這い上ってくる床の冷たさを口の中で悪態を吐きながら寝室からリビングへと移動し、冷蔵庫の中身を確認する。冷蔵庫の扉を開けた途端に顔面に襲い来る冷気に眉を顰めつつ、昨日の夕飯のサラダと味噌汁の入った小さな鍋を取り出し、台所に並べて行く。ついでに卵を二つ取り出し、割ってボウルに投入する。

 鍋を火にかけて温めている間に卵を撹拌し、フライパンを取り出してこちらも火にかける。サラダに添えた――と言うより無造作に放置されたといった体のプチトマトを齧りつつサラダに塩を振り、しばし待つ。フライパンが温まった事を確認し、油を引いて表面に馴染ませ、一度油を三角コーナに流し、もう一度油を引く。ここで撹拌した卵を流し込み、一瞬で固形化しようとする瞬間を見極めて菜箸で適当に卵を混ぜて炒り卵にする。炒り卵を皿に移してマヨネーズと絡ませ、事前に用意しておいた食パンにサラダと一緒に乗せて挟み、BLTサンドのベーコン抜きが完成。

 味噌汁が良い匂いを漂わせ始めたのでコンロの火を止め、汁物用の容器に味噌汁をおたまで注ぐ。ちなみに、具は豆腐とお揚げのスタンダード且つ昆布出汁。
 直也はサンドウイッチと味噌汁を持ってテレビの前に設置してあるテーブルに移動し、ニュース番組を見る為にテレビの電源を入れる。この寒空の中、新聞を取りに行く気にはなれない。

ニュースキャスターの髪がカツラであるのかどうか世界で一番無意味な考察をしつつ、サンドウイッチを味噌汁で胃に詰め込む。トピックスを一通りチェックして電源を落とし、さて毎日の通過儀礼だと冷蔵庫から牛乳パックを取り出し、一気に呷る。それから直也はようやく暖房を点け、ハンガーに掛けた制服と学校指定の鞄をソファに放り投げた。使い終えた食器類を水を張った流しに浸け、その足で洗面所へと向かう。

 洗面所の鏡には相変わらず冴えない表情の男が映り込んでおり、早朝から景気が悪い事この上ない。直也は鏡面の向こう側にいる自分に「お早うさん」と挨拶を交わすと、抗菌カップに刺さった歯ブラシを装備する。若干薬品臭い歯磨き粉を付け、無造作に歯を磨く。すると、鏡の中の直也も至極気だるい動作で歯を磨き始め、直也は直也と見つめ合いながら十数分。口内のアブクを水を含んで吐き出し、一応磨き残しが無いかを確認する。

 次にうっすらと伸びる髭を手早く剃り落とし、何となく顎を撫でる。最後に温水ではなく冷水で顔を洗う。この時期、冷水に触れるのは極力避けたい所だが、頭の中身を叩き起こすには温水では駄目なのだ。備え付けのタオルで顔を拭き、最後に全体チェックを完了させ、そろそろかとしばしの間ぼぅ、とする。すると、下腹部の辺りに鈍い痛みが走り、寝起きで寝惚けていた腸が活発に蠕動運動を繰り返し始めた。牛乳が効果を発揮してくれたようだ。

 直也は慌てるでもなくトイレへと直行し、賢者モードになるべく腹痛と短くも長い闘いへと踏み込んだ。流石にこれ以上の描写は誰が得するのか分かりはしないので控えるとして、激闘の果てに帰還を果たした直也は未だ時間に十二分の余裕がある事を見て取り、今度は小振りな鍋で牛乳を暖める。ホットミルクに非常に貴重な砂糖を二摘まみ投入し、出来上がったホットミルクをカップに移し替えていそいそとソファへと向かう。週刊雑誌を片手に時間を潰し、時計が六時三十分を告げる頃に直也は動き出した。

 寝巻を一気に脱ぎ捨てて素早く靴下、ズボン、カッターシャツ、ネクタイを装着し、ジャケットを着込む。洗面所の鏡で制服に乱れが無いかをチェックしつつ、自分がナルシスってんじゃねぇかと虚ろな気分になる。あまりここまで神経質になる必要は無いとは思うのだが、身嗜みを整えて部下の為の見本になるのは上の義務である、とは竜馬の言だ。

「ま、こんなもんかね」

 面白味も糞も無く無難に纏まった自分の姿を数分眺め、大して躊躇いも無く鏡から自分を引き剥がす。

 時刻は六時五十分。定刻通りである。


          ※


 至極珍しい光景だな、と愛梨沙は思った。

 愛梨沙の視線の先には何時の間にか持ち込まれている野口専用と銘打った――実際には結構な人数の人間が無許可で使用している――デスクに座した直也と、肩を竦めて恐縮した様子の工藤百華が立っていた。

別段二人が会話を交わしている事自体が珍しいのではなく、直也の言葉に百華が大人しく聞き入っている状況が珍しいのである。直也は普段周囲の雰囲気を憚ってか余り露骨に感情的な物言いや表情を浮かべたりはしないのだが、今日の直也にははっきりと不機嫌で苛立っているのだと傍目で見ていても良く分かった。これが常であれば百華が直也の言を突っ撥ねたり要求を通そうと頑として硬化した態度を崩そうとはせず、結局幾らかの譲歩と共に直也が折れる、というのがハンガー内での通例となっている。しかし、今回ばかりは毛色が違っているらしく、兎に角百華が頭を下げて何事かを訴えていた。

愛梨沙はちょうど二人の側を通って近くまで寄って来た岩崎仲俊に事の次第を訊ねると、仲俊は胸元に抱えていた工具箱を置いて困ったように微笑んだ。

「うん、工藤さんがね。今日シフトに入れなくなったから別の日に回してくれないか、って言って来たみたいだね。前々から工藤さんのシフトだけが決め辛かったし、それにほら、元々今日だって三日前に工藤さんが『この日になら整備に入る事が出来ます』って言っちゃったでしょ? 野口君も表面上は話の分かる上司で居なきゃあいけないわけだから煮え湯も飲み込んだ訳だけど、流石に今日ばかりは怒っちゃったみたいだねぇ」

「ふぅん……ってかあんた、意外にキッツイ事言うのね。野口って友達じゃあなかったの?」

 辛辣な評価を下す仲俊に愛梨沙は若干引き気味になると、仲俊は何やら奇妙な闘志を瞳の奥に宿らせた。それは闘志というには余りに仄暗く、余りに粘度の高い情念のような焔である。

「ふふふ。彼は確かに友達さ。同時に互いを牽制し合うライバルでもあるんだけどね。一度は不覚を取ったけれど、負けはしない、まだ負けはしないよ。次こそ僕の本領を発揮し、『あれ』を手に入れて見せよう。ふふっ、ふふふふふふふふふふふふッ」

(あ、どうしよう。普通に怖い)

 瞳からハイライトを消し去り、表情に影を落とす仲俊から放たれる暗黒闘気は尋常ならざるものがあった。何やら直也と因縁がある様子であるが、愛梨沙は敢えて藪蛇を突くほど愚かな人間ではなかったし、仲俊も話の内容を公開する心算は毛頭無い。あくまでもこれは仲俊と直也両名だけの問題だからである。そしてその選択は愛梨沙にとって極めて賢明であったと言えよう。

「でもまぁ、そろそろ助けてあげよっかな」

 他人が怒られている様は傍から見ていて気分の良いものではないし、適当に二、三人に声をかけて迫れば直也も折れるだろう、という算段である。実際階級上は直也の意思が優先されてしかるべきなのであるが、結束した女性陣にごり押しされる形で優先順位はしばしば不明瞭となっているのだ。この事実は無論軍隊生活において改善されるべき部分なのであるが、ある意味この原因を作り出してしまったのは直也自身の播いた種である。と言うのも、テクノオフィサーにはとある優秀――と本来ならそう言って差し支えない少女がおり、彼女の存在が直也のアキレス腱となっていた。優秀な人間が足を引っ張る結果になるとはこれ如何に、という所であるが、事実であるから仕方が無い。

 村田彩華。乃恵留曰く、中学までは才色兼備だった、らしい少女。現在はその残滓すら無くひたすら睡眠と快眠と惰眠を貪る事に明け暮れ、極々日常的に昼寝を堪能している怠惰な少女。にも関わらず、割り振られた最低限度の仕事をこなしているのでまったくの無能と言う訳ではないのであろうが、直也は不思議と彩華を使いたがらない。百華の穴埋めに再三彩華を、と整備班の人間が突っ込むのだが、その度に直也は「村田は……まぁ、いいんだよ」と口を濁して取り合わない。なので、直也は彩華に気があるので贔屓をしているのではないか、という噂もちらほらと流れている。

と、そういった事もあり、直也はこの点を突かれると高確率で提案を呑む事があった。今回もその手で突っ張ってみようかと考えていた愛梨沙であったが、仲俊にやんわりと抑えつけられて困惑した表情を浮かべた。

「大丈夫だよ。僕等が行かなくてもさ、ほら、王子様がご到着、ってね」

 振り返ると、直也の元に小島航が近付いているのが確認でき、愛梨沙は「あぁ、なるほど」と納得した。

 小島航が雰囲気や外見と反して面倒見の良い性分である事は既に知れており、ラインオフィサーであるにも関わらず整備の仕事をよく手伝ってくれていた。特に問題児扱いされている上田虎雄や石田咲良との関わりが深く、「手のかかる弟妹みたいだから」とは航の言である。苦労性なのかもしれない。否、苦労人なのだろう。

 航に散々整備の仕事を手伝ってもらっていてその申し出を無下にも出来ず、直也は渋面を作りつつもついに折れた様子だ。ややあって校内放送で呼び出された直也は苦い表情のままその場を離れ、後に取り残された百華はたおやかな微笑と共に航へと頭を下げる。航は気にするな、とでも言うように手を振り、工具箱を抱えて戦車へと歩いて行った。

 愛梨沙は航の颯爽とした背中を見届けると、仲俊ににんまりとした邪な笑みを向けた。

「つまり、そーゆーことで良いのよね? ね?」

 航の背中を指差し、次いで百華を指す。

「いっえーす」

 親指をおっ立てる仲俊。

 色々と平和である。

その後をどこからか現れた虎雄が追って行ったが、虎雄が雛鳥の如く航に付いて回っているのは余人に知れており、愛梨沙にも仲俊にも特別奇異な光景には映らなかった。

 こうしてこの場は丸く収まった。

「――いい加減にしてくれッ!」

少なくとも、航の怒声がハンガーに響き渡るまでは。


          ※


 翌日。雨天。

「雨か……」

 何も今日この日に降らなくても良いだろうに。

 天上からけぶるように降り注ぐ雨を横目に直也は職員室へと赴くと、保管庫からトラックの鍵を抜き取った。校内の鍵は一律で保管されている上、逐一小島空か石田咲良に許可を得なければならないので至極面倒臭い。

「たーったらったー。たったったーららっ」

 人差指でくるくると鍵を回しつつ廊下を闊歩する。靴箱脇に設置してある傘置き場から誰の物かも分からぬビニール傘を抜き取り、中庭を抜けて裏門方面へ。体育館裏へと回ると田舎のベンツこと軽トラックが待機している。

「野口、ちょっと良いか?」

 さて行くかと運転席に回ろうとする直也を呼び止めたのは、何やら思い詰めたような表情を浮かべた小島航だった。

 最近何かと絡む機会が多いな、と思っていると、航が周囲を窺いつつ近付いて来る。釣られて周囲に視線を走らせるが、特別人の気配があるようには思えない。のだが、航は人目を憚るように警戒を怠らない。

「何処か行くのか?」

 固い声音で訊ねられる事に怪訝に思いつつ、隠しだてるほどの事でも無いので素直に答える。

「ん? あぁ、前に発注しておいた銃弾の不足分が今日届いたらしくてな。昨日連絡があったんで別口の用事ついでに受け取りに行くとこ――」

「俺も行く!」

「うぇあッ!?」

「良いよな!? 運転は俺がするからっ」

 航は「逃がさんよ!」とばかりに直也の両肩を鷲掴みにし、必死の体で直也に迫る。その様子は鬼気迫る、と言うか、形相にもかなりの気迫が籠もり、断ればどうなるか分かったものではなく、押し切られる形で直也は頷かざるを得なかった。

「近い近い近い近いわーったわーったわーったわーった!」


 沈黙が痛い。

 元々直也も航も積極的に会話を盛り上げようとする性質ではなく、それ以前に共通の話題すら無い。必然的に両者の間に横たわるのは沈黙と言う名の針の筵であるが、実の所精神的に痛痒を感じているのは直也のみであった。

感情を抑制しがちで我慢強い性格である為、通常であれば航の無愛想な表情から生の感情を読み取る事はなかなかに難しい。しかし、今の航は明らかに上機嫌な様子でハンドルを握っていたが、直也は霧雨に覆われた市街へと視線を逃がしているのでそれを知る由もない。

車内に暖房に類する物は無く、誰かが持ち込んだ毛布を膝掛けにして寒さを凌ぐしかない。運転席の付近はそれほど殺風景と言う訳でも無く、熊の人形や交通安全のお守りが並び、助手席側にはガムテープで固定されたラジオが座り込んでいる。皮の薄い椅子はタイヤからの振動を直に伝導し、腰付近に容赦の無い痒痛を与えていた。コーヒーの空き缶が二、三転がっている他、菓子の包装紙もそこら中に散乱している。

「あ、そこ右」
(なんでまた急に……)

 まんじりともしない時間の中で、直也は此処にきて漸く昨日の報告に思い至る。

 理由は判然としないが、直也が放送で呼び出された後にハンガー内でトラブルがあったらしいのだ。航の怒鳴り声が響いた直後に虎雄が走り去った場面が目撃されており、恐らく、というか確実にこれが原因であろう、という事は察せられる。その後に仲直りをした、という話も聞かないので、関係の修復は未だに出来ておらず、学校で顔を合わせるのも気まずい、と。

「子守も大変だぁね」

「そういう風に、言わないでやってくれ」

 独り言に近かっただけにいらえが返ってくるとは思わず、直也は航に視線を向けた。

 陰影によって斑になった航の表情は読み取り難かったが、それでも悲しい様な、後悔しているような、それでいて憤懣とした感情が綯い交ぜになったような、そんな雰囲気だけは伝わってくる。直也は虎雄に関しては最早手の施しようが無いと結論付けているのだが、航の中ではまた違っているようだ。何となく、直也は興味を引かれた。元々大して親しくも無い間柄である。これ以上関係が悪化した所で変わりあるまい。

「そうか? 竹内とは違って、あの他人への依存っぷりは目を覆いたくなるな。内向的な性格ってだけなら俺だって別に何も言いやしないが、上田の場合は庇護してくれる人間を常に探してるのが問題なんだよ。そうして、自分が如何に惨めったらしいかを見せつけて、他人に際限無く縋って、そいつの機嫌を損ねないように謝って謝って謝り倒して、『僕を見捨てたりなんかしないよね? しないんですよね?』って目で見るんだ。お前は悪くねぇよ。キレんのも時間の問題だったんだ。誰にだって許容量くらいあらぁな」

「……」

「良いんじゃないか? これで上田もケツに火が付くだろうよ」

 態と煽り立てるような口調を通して航の反応を窺ったが、直也の予想に反して、口を開いた航の声音は静かなものであったが、不思議と雨音に消されはしなかった。それは直也が航の反論なり雑言なりを期待し、聞き入ってたからであり、同時に、自分の言葉を塗り替えてほしいとも思っていたからだ。

 確かに虎雄は終始航の背中に隠れていなければ他人と話す事も覚束無いが、整備の手を抜いた事が無い事を、直也は知っていた。「この程度で良いだろう」とか、「昨日点検した場所だから」と言わず、与えられた指示は愚直に実行し、毎日毎日分解と整備、夜中の内に発露した水滴を拭う姿を、直也は見ていた。

どうしようもなくコミュニケーションに難があるのは知っているが、糞真面目に面倒な仕事を反復している事実は揺らがない。それ故に、直也は心の何処かで否定して欲しかったのだ。恐らく、上田虎雄という人間と一番長い間接し、彼と言う人間をよく知る人間に。

「上田君は、さ。まだ羽根が生え揃っていないんだと、俺は思う。人それぞれに歩み方があって、上田君はその中でもいっとう鈍足なんだ。人と合わせられないのはその為だ。合わせる前に、誰も彼も上田君の前から立ち去ってしまう。だから、誰かを間に立てないと、彼と他人は波長、って言うのかな? それが合致しないんだ」

 航は言葉を探すように唇を舐め、

「人は上田君を俺の金魚の糞だって言うけど、俺は上田君を対等の友達だと思っているし、上田君にもそう思って欲しい。……でも、俺にはどうすれば蹲った上田君が立ち上がってくれるのか、どう言えば耳を塞いだ上田君にその事が伝わるのかが分からなくて、上田君に謝られる度に苛々して、昨日なんか遂に怒鳴ってしまってね……」

 航は自嘲気味に微笑む。

「本当はもっと言いたい事があった筈なのに、言えたのは激情に任せて『いい加減にしてくれ』の一言だけだ。こんな時、自分の口下手な性格が嫌になる。もっと、それこそ兄さんみたいになれたらって、時々思うよ」

(兄さんみたいに、ねぇ……)

 航の言葉に連鎖して直也は自身達の教師の姿を思い浮かべた。

 小島空。自由人。航の頑固な性格を見事に反転した存在こそが、我等が教師小島空である。薄い顔の化粧に長髪、女顔なのが悪夢に思えるほどの豪快な笑みと底無しの酒飲み。性格的には完全に親父である。この兄からよく航のようなお固い性格の人間が育ったものだと一時驚愕していたものであるが、寧ろこの奔放な兄だからこそ航が面倒見の良い人間になったのだろうと推察される。反面教師の最たる例だろう。とは言え、授業自体は真面目に行っているので、生徒からの評判も悪くは無い。直也自身も夜中まで整備をしていた時に紅茶を御馳走になった事もあるので、そこまで悪い印象は無い。ただ、あまり見習いたくは無い、というだけの事だ。

「なぁ野口」

「うん?」

「いきなり、こんな事を頼むのもどうかとは思ったんだが……」

「……おい、ちょっと待て――」

 会話が妙な雲行きになりそうだったので航の言葉を留めようと慌てて口を挟もうとするが、一拍航の方が早かった。

「何とか、上田君の背筋を伸ばしてやってくれないか?」

(あちゃぁ……そっちが本命かよ……)

 気まずいから学校から離れる為に、ではなく、ある程度の顔見知りに第三者に知られる事無く頼み事をするために、航は直也に付いて来たのだ。成程、直也はとどのつまり、最初から読み違えていたのである。

 直也は暫し顔を覆っていたが、

「いや、っつーか、そういう繊細な内容の頼み事は岩崎に言えよ。あいつならこういうのは得意だろ? もっと言うなら、谷口とかさぁ……」

 言い募りながら直也は車内が段々と断れない空気になりつつある事を悟り、途中で言葉を飲み込んだ。航の真っ直ぐな目に抗する事の無意味さも、直也の決断の後押しをしていた。

「……分かったよ。出来る限りの事はする」

「……そうか。ありがとう」

「絶対人選ミスだと思うけどな」

 肩の荷が漸く降りて一瞬晴れやかな表情になった航にさてどうしてやろうかと直也は頭を巡らせ、ふと昨日の一場面が脳裏を過ぎった。実際確証の無いただの推測であるが、からかうネタとしては悪くない。特に、航のような真面目一辺倒な人間であればより効果的に違い無い。と、直也は航が確認できない半面で一人ほくそ笑むと、わざとらしく咳払いを一つ。

「所で、話は変わるんだけどなぁ」

「何?」

「お前さん、工藤にさ、惚れてんの?」

 次の瞬間、直也は後悔する事となる。

「なーなななななな何を言っておおぉぉおおれがそんなまさかそそそそんな事があるわけがないだろろろって嫌別に工藤さんが嫌いだとか別にそういう意味じゃなくてってあぁいやだから好きとか惚れるとか懸想してるとか在り得る筈が無いだろいや勿論工藤さんは驚くほど美人ではあるけどでもそれはあくまでも一般的な意見って言うか第三者的な論調としてまったくもって妥当な判断だと愚考する次第でありましていやいやいやそれはまぁ多少は妄想と言うか想像はの中で工藤さんと付き合ってみたりはしたけれど工藤さんはこぅ仲間っていうかそう生死と苦楽を共にするただの中までクラスメイトっていうか意識したわけじゃなくてちょっとこぅちらっと可愛いとか触れてみたいと思っただけで寧ろ高嶺の花である方が諦めがつくって言うか酸っぱい葡萄は取れないからこそいいって言うかあぁそうそう葡萄と言えば元々日本の葡萄は欧州から中国を経由して自生したものらしくてだいたい鎌倉時代から食用にされていやややや食べるって言っても隠喩的なアレな感じじゃなくて単に表現の問題で下心のアレのアレみたいなアレとはまったく無関係ではわわわわわわわわわわわわわわ!」

「……こいつは重傷だぜ……」

 怒涛か瀑布の如く支離滅裂な言葉が車内に充満し、航の中で何かが壊れたのかその勢いが一向に収束する様子は無い。どうやら直也は物の見事に藪に分け入った挙句に地雷を力一杯踏み抜いてしまったようである。最早キャラ崩壊とかそういった段階ではなく、ってか「はわわわ」とか。うろたえるってレベルじゃねぇぞ。

 運転だけはしっかりとしているのが逆に怖い。一度停止させようかとも考えたが、これ以上刺激を加えてこの微妙なバランスの上に成り立った状況を崩す事が恐ろしい。

 結局、直也はこの先も目的地に辿り着くまで延々と航の本音の奔流を強制的に拝聴する事となった。


          ※


 翌々日。曇り。風強し。体育館裏にて。

 寒空の中、相対しているのは気弱そうな少年と白黒がちゃあみんぐなペンギンである。

 件の上田虎雄と何故か当然のように校内を徘徊している異様にハードボイルドなペンギンというシュールな光景をどうしたものかと迷い、直也はその場に留まった。一昨日航に虎雄の事を何とかしてくれと頼まれはしたのだが、具体的な解決策なんぞは未だに思いついていない。今回とて別に虎雄を捜していたわけではなく、直也の目的は彼等の更に背後で燻ぶるように黒煙を上げている焼却炉で、この場には偶然居合わせただけである。

 無視すべきかとも考えたが、何となくそれは不人情にも思えたし、嫌々ながらも引き受けた事がどうにも脳裏に引っ掛かる。

 そうしている内にも冷風が慈悲無く容赦無く身体に叩きつけられ、逡巡している間にも身体は芯から冷えていく。直也はしばしその場をうろついたり足踏みを繰り返していたが、ついに我慢の限界に達してえぇい南無三とばかりに踏み出した。

 新たな闖入者に気付いた虎雄は何故か追い詰められた表情になって忙しなく指を擦り合わせ、助けを求めるかのようにペンギンにちらちらと視線を向ける。その視線を知ってか知らずか――ペンギンが分かる筈も無いのだが――ペンギンは受け流し、手慣れた仕草で咥えた煙草に火を付けた。生意気にもジッポとは良い趣味だ、と直也は思い、火かき棒を手にして焼却炉の蓋に手をかけた。が、一度思い直し、尻ポケットに引っ掛けた軍手を装着。準備万端。

 がちゃり、と蓋を開け、直也が必死こいて掻き集めた枯葉と生木の小山からアルミホイルを引っ掻き出すと、途端に鼻先に胃袋を刺激する甘い香りが匂い立つ。胸一杯に芳香を吸い込むと、直也はぱちくりと瞬きを繰り返す虎雄ににやりと笑い返す。

 ますます混乱する虎雄にゆったりと近付くと、直也はアルミホイルを剥いて中身を虎雄に見せた。

 薩摩芋。それも、焼芋である。紫色の薄い皮の下に眠る黄金色の身。甘く芳醇な香りは胸を躍らせ、鼻腔と胃袋を存分に刺激する。甘味は深く重く、そして美味い。

 直也はアルミホイルを巻いた薩摩芋を割って虎雄に投げ渡すと、ペンギンに目を向ける。

「食う?」

「クェ」

 手元の焼芋をさらに割ってペンギンに受け取らせ、二人と一匹は無言でもそもそと芋を食う。その間にも直也は脳内でぐるぐると言うべき事と突発的な計画を組み立て、これも仕事の内かと今更のように諦念の気分が湧き立って来る。

 今の俺は何の為に仕事をしているのかと言えば、結局の所義務と義理。誇りなんぞありはしないし、今後もきっと誇りにすることもないだろう。戦争の為の仕事をする。『これ』も所詮はその一環でしかないのだ。

 各々芋を食べ終わると、直也は虎雄の肩を叩く。

「上田、聞いて欲しい話があるんだけどな――」






―――――――――――





接続できなくなったと思ったら復旧していたでござるの巻

時間かかってスンマセンしたぁぁぁぁぁぁ!!!




[21738] 野口の才能
Name: らーてん◆61e9dbff ID:4e9aac41
Date: 2011/09/10 10:54
 努力が足りなかった。練習が足りなかった。目標意識が足りなかった。そう何度も何度も自分に言い聞かせ、遥か及ばなかった現実を結論付けた。まるで、努力し、練習し、意識さえ高ければ同じ土俵に立てるのだとでも言うように。走って走って走り続けて、壁にぶち当たった時、俺はようやく悟った。俺には何よりも才能が無い。だから、走る事をやめた。我武者羅になれるほど頑固ではなく、意地を張るほど子供にも『なれなかった』。中途半端に賢しくて、俺の心を折ったのは、他の誰でも無く、俺自身だったのだと、ようやくそう思えた。気付けたことに対して運・不運の二元論で語りたくは無いが、きっかけにできそうなのは、まぁ、『悪くない』。


 とあるヒロイン天国小隊隊員の日記より抜粋。


 初戦間もない頃の話。


「寝過ぎた……」

 と、眠気の残る目元を擦りつつ起き上ったのは、小隊の残念美人こと村田彩華である。

 中学時代はその多彩な才能や容貌とも相まって才媛として名を馳せていたが、今や終始官能的な堕落に耽溺している有様だった。かつての長い髪は寝癖が面倒だという理由でばっさり切り落とされ、力強かった双眸は光輝を失って久しい。彩華の大半を形成していた情熱の芯が消えた胸元の内には伽藍とした穴が空き、代わりに無気力な自己が居座っている。と言って、身軽になったと喜ぶ彩華本人は何一つとして気にしてはいない。

 既に過去とは決別していたし、今現在の自分を結構気に入っているからだ。気儘に生き、自由に行動する事は彩華の性に合っていた。代わりに、奇妙な心細さだけが澱の様に沈殿していく。その事実には気付いていたが、彩華は意識的に考えないようにしていた。孤立する事は覚悟の上であったし、誤魔化す事には慣れている。過去の彩華は時に才女であり不屈の選手であり気さくな先輩であり優秀な生徒であり、それらの仮面を他人にそうと悟らせない天性の女優であったからだ。

 神経接続から時刻を呼び出すと、二十二時を回った所である。授業をサボりがてら昼頃から今日も今日とて惰眠を貪っていたのだが、流石に寝過ぎだった。普段であれば校内の見回りを日課にしている小島空によって発見され、適当な時間帯を見計らって帰宅を促されるのだが。まぁ、こんな日もあるだろうと自己完結し、彩華はさてどうしたものかと頭を巡らせる。

 とっぷり暮れた外の様子に彩華は苦笑を浮かべ、凝りを解すように伸びをする。そこかしこの関節から小気味の良い音が鳴り、彩華は「はふっ」と妙に親父臭い仕草で溜息を吐く。毛布を剥ぎ取ってベッドの下のダンボールに押し込むと、夜中の冷気が身を包む。

 「寒い寒い」と呟きながら放り出していたコートを手探りで探し出し、保健室から退室した。廊下の色濃い暗闇に一瞬躊躇したが、教室の位置は覚えているので問題は無いだろうと壁に手を付いて移動する。

 幾分もしない内に教室への扉を探り当て、彩華は教室の明りを点けようとしばし奮闘したが、よくよく考えれば教室の明りのスイッチは前面にしかないのだと思い至った。二、三度机に強かに太腿をぶつけつつ鞄を回収し、肩にかかる重みに安堵を覚え、彩華はそそくさと教室を出る。だいぶん暗闇にも目が慣れ、全体像をぼんやりとではあるが認識できるようにはなっていた。しかし、

「怖いわー、超怖いわー。暗いとかって有り得ないわー」

 怖いものは怖いのである。視覚的に閉塞的な状況というのは基本的に苦手意識が働いて然るべきものであるし、人の気配も無く耳に入る音と言えばタイルを歩く自分の足音のみ。反響する音が無闇に潜在的な畏怖を増長させ、ただでさえ過敏になっている神経が更に鋭くなっていく。背筋を撫でつけるような冷気に身が竦み、自然と歩調は足早になっていた。

 と、その時、彩華の不意を討つように警告を促す電子音が微かに響いた。

 音源へと振り仰ぐと、屋上へと続く階段の途中から淡い光が漏れていた。

(放送室……?)

 別名パソコンルーム。主に石田咲良や野口直也などが物資の発注に使用する他、数名の人間が好き勝手に利用している。ただし、履歴の消去をしておらず、咲良の目に触れる前に直也が逐一消している事を誰も知らない。

 仄暗くも清閑とした空気の中、暖かな光陰が一角の世界に映り込む。

 彩華は一瞬このまま真っ直ぐ帰るべきなのではとも思ったが、好奇心の方が勝った。

 極力足音を立てないように階段に足を掛け、こつりこつり、と階段を上って行く。放送室へと続くドアの隙間から中を覗き込むと、果たして其処には毛布を肩に引っ掛けた野口直也が顔に険を浮かべてパソコンへと向かっていた。

 時折手元の厚い――と言うより太い――参考書と画面を見比べ、片手でキーボードを乱暴に操作する。途端にパソコンから電子音と共に拒絶され、野口直也は苛立ったように呻き声とも罵声とも取れぬ声を発した。その後不貞腐れたように椅子の背凭れに体重を預け、両脚をばたつかせる。変なスイッチでも入ったのか、調子外れの節で「わーらってー、わーらってー、いーまーきっみっをみおくーるよー」と大声で歌い始めた。

 校内に誰も居ないであろう事を確信し、遠慮の欠片も無い大合唱を敢行する野口直也。両手で手拍子とかやっちゃう野口直也。自分で「ヘイ!」とか言っちゃう野口直也。遂に振付もやっちゃう野口直也。昼間の彼からは想像もつかない事を平然とやってのける野口直也。仕事の事を一時忘却の彼方へと追い遣り、現実逃避に伴うある種の解放感に完全に泥酔している野口直也。普段の澄ました顔からは想像もできない行動を平然とやってのける野口直也。隙を見せる、油断する、という次元を遥か斜め上に超越した野口直也。

 当然の帰結として、村田彩華、大爆笑。


          ※


「そう言えば、そんな事もあったかしらねぇ」

 寒風吹き荒ぶ中、えっちらおっちらと運動場を走らされている上田虎雄と、監視目的で突っ立っている野口直也を見物しつつ、彩華はぼんやりと呟いた。

 虎雄の隣には何故かトレンチコートを着込んだペンギンが並走し、速度を緩めようとする虎雄の尻を文字通りに引っ叩いている。その度に虎雄が悲鳴を上げて速度を保ち、ペンギンが余裕綽々といった体で虎雄に続く。奇怪な光景には変わりないが、別段虐め目的という訳でもないようなので、何処か微笑ましいものがあった。

 別段あの滑稽な姿を目撃したからと言って、直也の弱みを握った心算は無い。いやまぁ、多少楽をさせて貰っている部分はあるが、それを含めての現在の関係なのだ。つまり、直也が整備においてハード面を担当し、彩華がソフト面を担当する。プログラムを弄る事に然程長けていない直也の懊悩を解消し、且つ彩華の自堕落な生活を継続する事。この両者の利害が一致した結果――と言うより、彩華が一方的に提案して直也に呑ませたのだが――現在の形に落ち着いていた。

(我が事ながら、あの流れで協力関係を持ちかける自分がちょっと不思議)

 寒風にスカートの端を弄ばれつつ、彩華はさくさくと雪を踏み締める。

(……惚れたのかしら?)

 それはないな、と胸中で推測を揉み潰す。その辺の小娘でもあるまいに、自身の気持ちを自覚できないほど初心でもない。ただ、何となく放って置けなかったのは事実だった。

(んー、でも、母性本能を刺激するようなタイプでもないしねぇ……)

 首を捻る彩華であるが、敢えてその真意を表現するならば、馬が合う、という所であろうか。

 野口直也と村田彩華。一方は凡人、一方は天才。対極に位置する両者であるが、根幹には自己の芯とも言うべき部分が既に折れている。直也は凡夫であるが故の挫折を味わい、彩華は才媛であるが故に自滅した。経緯は異なれども高見を目指す事を早々に諦め、膝を折り、屈した人間同士のみが知る『劣等感』。言葉にせずとも、直也は、そして彩華は互いにその感覚を共有していた。

 同族嫌悪に陥らなかったのは、一重に直也と彩華の立ち位置が余りに異なっていた為である。また、お互いが互いの領分に深く干渉しようと試みなかった事も挙げられるだろうか。当然、今後も何某かのきっかけでも挟まない限り、直也と彩華が相互の理解を求める事も無い。故に摩擦が起きる事も無いのである。だからと言って、個人への悪感にも好感にも繋がる訳では無いので、論証としては少々弱い。

(でもまぁ……)

 足を踏み出す度に近付く直也の背中を見遣り、自然と口元が綻んだ。

(この背中は嫌いじゃない……わね)

「のーぐちー」

「うっおっ!?」

 彩華は間延びした声音で直也の背中に抱き着くと、一気に全体重を直也へと傾けた。

「ちょ、てめ、村田! 離せ! 離せぇ!」

「だめー」

 突然の彩華の襲撃にうろたえる直也を逃がさない様にがっちりと抱きしめ、直也の抗議の声を馬耳東風とばかりに聞き流す。

「いーい野口ー? 人という字はねー。お互いが支え合ってぐぅ……」

「途中で寝るな! 人は一人で自立してっから人なんだよ!」

 そうして、彩華は唯一つ、最近分かった事がある。

(私って意外と甘えん坊、なのかもね)


          ※


「才能があるから努力をするのか、才能があるから努力ができるのか」

「誰の言葉だよ」

「経・験・則」

 「お前かよ」、と呟きつつ、耳元に顔を寄せてくる彩華を引き剥がし、直也は改めて虎雄を見遣る。

 青息吐息で運動場を走り回り、時折ペンギンの平手を尻に受けつつ本日十一週目である。途中何度も直也の目前を通過する際に「もう無理だ」「限界だ」の類の弱音を延々と口にしていたが、無理矢理にでも走らせてみれば案外頑張るようだ。いやまぁ、一定以下の速度に達すると容赦も無ければ慈悲も無いペンギンからの喝が入るので、終点を迎える所か離脱すら困難な状況である。虎雄は何度かペンギンに向けて何事か訴えていたようだったが、ペンギンは素知らぬ顔で虎雄の追走を続けていた。直也はその様子をしばしの間見詰め、彩華の言葉を頭の中で転がした。

 「才能があるから努力をするのか、才能があるから努力ができるのか」、と彩華は言う。成程、才能は大事だ。人間に十人十色の向き不向きが存在する以上、誰だって自分の得意分野に目を向け手を伸ばすものだろう。しかし、実際に自分の得手とする事に出合える人間は本当に極々一握りの人間だけなのだ。

 泳ぐ事、投げる事、跳ぶ事、縫う事、踏む事、握る事、話す事、奏でる事、唄う事、観る事、描く事、綴る事、叩く事、そして、走る事にしても、数多・無数にある選択肢の中で、最善手を選択し続ける事がどれほど困難な出来事か。何故なら、人間は才能と嗜好が不一致に陥る場合、極端に視野が狭まる傾向にあるからだ。

 仮の話、十年楽器に親しんだ人間に野球の才能があったとして、彼ないし彼女が運動に目覚める事などそうは無い。つまり、「才能があるから努力をするのか」という設問に関して直也は否定的な立ち位置に居る。では、「才能があるから努力ができるのか」という事柄に関してだが、この件に関しては既に答えは出ている。

「も、もぅ、ひっ、もう、無理、無理っ、無理っ、だよっ……ひぃっ!?」

「クワワッ、クエッ!」

 虎雄は泣き言を繰り事のように呟きながら走り、ペンギンが鳴き声で鞭を打つ。と、冗談のような光景が目前を走り去り、十二週目へ突入。その時点で漸く長時間走る事に慣れてきたのか、息遣いや足運びに若干の変化が現れ始め、多少なりと安定感を得られるようになっていた。かと言って虎雄に長距離走の才能の片鱗を感じたか、と言われれば直也は否定するだろう。

 その様子を直也は自分でも知らぬ間に微かに笑うと、

「『才能があるから努力ができるのか』。答えは、『ケツを蹴っ飛ばされれば誰でも走る』、だ」

 そして、直也はこうも思った。もし、あの日、あの時、自分で自分のケツを蹴っ飛ばす事ができていたなら、自分は陸上を捨てる事は無かったのではないか、と。だが、あくまでも直也の才能を見限ったのは自分自身であり、限界を見切ったのは矢張り直也である。決着を決め、離別した今、アルバムを捲るように懐古の念に囚われる事はあっても、直也が無我夢中で駆け抜けた日々が再燃する事は、きっと、もう無い。

 何故なら――

「へくちっ」

 という可愛らしいくしゃみの音に直也は現実に引き戻され、自分を抱くようにして身を竦ませている彩華を見遣った。

 よくよく観察してみれば、この雪深い気温の中で彩華は制服のみで立っている。コートを着込んでいる直也ですら肌寒さを通り越して寒さに参っているというのに、羽織る物の無い彩華は言わずもがな、というもの。だからと言って、直也の心は然程動かない。他人は他人という線引きは直也の中で確固たるものであったし、同じく直也は他人からの好意などは期待していない。時々不意に投げかけられた好意にはそれ相応の返礼はすれども、基本的に直也は受動的な性分なのだ、と、直也は確信している。しかし、何事にも本人の与り知らぬ側面がある事もまた厳然たる事実なのだ。

「なぁ村田」

「ん、んー……?」

 ぼそっ、と直也に話しかけられ、彩華は曖昧に返事を返した。すると、直也はおもむろにコートを脱ぎ、彩華に手渡した。

「悪い、ちょっとの間預かっててくれるか? 俺も走ってくるわ」

 と、彩華の返答すら聞かずに直也はコートを彩華に預けると、すたすたと運動場の中心へと歩いて行く。その足取りは一刻も早くこの場を離れたいのだ、と無言の内に示すように忙しない。そんなあからさまな直也の行動に彩華は苦笑を浮かべると、有難くコートを着込んだ。そして、小さく直也に呼びかけた。

「野口」

 反応するか否かは分からなかったが、直也は律儀に立ち止まる。しかし、振り返る事は無い。首筋が赤く染まっている所を見るに、まず間違い無く羞恥と後悔で悶々としているのだろう、という事が容易に察せられる。こうして呼び止められたこの瞬間すら、悔恨という名の針の筵に座している気分を味わっているのだろう。

「アタシ、あんたのそーゆートコは結構好きよ。努力せずともできる無自覚の才能って、そーゆーもんだもの」

「うぉぉあおおあああああああおおあああおああああああ!!」

 悪戯心を山盛りにした最後の駄目押しで直也の精神の堰は瞬時に決壊し、直也はその場から全速力で走り去った。


          ※


 女三人寄らば姦しい。と古来より伝わっているように、少女ないし世の女性達は話題に事欠かない。季節から男から服から仕事から上司から同性から御近所から両親から将来から就職から世相から旦那の懐事情に至るまで、兎にも角にも女性は話好きである。取り分け思春期の少女達の一番の関心事と言えば、そう、恋愛、と言っても、まぁ差し支えは無いだろう。花も恥じらう女子学生達、少々日常の合間に機関銃や幻獣やカトラスや士魂号が絡んでくるが、寧ろその激動がより恋の焔が昂って云々かんぬん。

 まぁ娯楽が極端に制限されている昨今、一番求心力を持つ題材と言えば恋愛である。枕詞に『禁断』『儚い』『戦場の』『上司と部下』と銘打てば尚更良い。現実の戦場で実際に乳繰り合っている現場を見たら私刑まっしぐらであるが、物語の中であれば問題は無いのだ。

 例え、その物語がどれほど突飛で理解不能な結末であったとしても、取り敢えずくっ付いてしまえば万事解決。意味を求めてはいけない。戦場の恋愛とはきっとそういうものなのだ。時として常識の範疇を超え、時間や空間、果ては世界すらも凌駕する。かくも素晴らしき哉恋の花。

 そして、校舎の三階、現在使用されていない教室にて、恋の話題に花を咲かせる少女が三人。即ち、渡部愛梨沙、菅原乃恵留、横山亜美の三人である。

 この三人、現在の陣容事情から鑑みれば対立して然るべき状況にある筈なのだが、専ら目の敵にしているのは石田咲良のみであり、横山亜美とは普通に交流があった。

「つまり、野口と岩崎はデキているのよ!」

 拳を固く握りしめ、愛梨沙は叫ぶ。

 確固たる口調の愛梨沙とは対照的に乃恵留は胡散臭げに眉を顰め、亜美は何故か真剣な表情で生唾を飲む。

 愛梨沙の言い分はこうである。


 某日、食堂にて。

 その日、愛梨沙は偶々昼食の弁当を作り忘れ、食堂に訪れていた。パンで済ませようかとも思ったが、折角なら温かい物を食べても罰は当たるまいとカレーとうどんを頼んだ。女の子らしくはないなぁ、と韜晦しつつも、柔道の鍛錬を続けていた頃からお腹一杯食べなくては身体の調子がいまいち整わないのだ。過去にダイエット目的で一食抜いた際、その日の午後は腹の虫が鳴り止まず、凄まじい恥をかいた事があった。

 愛梨沙が割箸を割ってまずうどんに手を付けようとすると、丁度直也と仲俊が――訂正、直也が仲俊に引っ付かれて食堂に現れた。二人の背後から優斗が顔を出し、きょろきょろと周囲を見回している。

 まぁ何時もの事かと気にせずに茹で過ぎたうどんを啜っていると、傍を通る直也と仲俊の会話が自然と耳に入ってきた。

「ねぇねぇ、直也君。少しばかり僕に昼食を恵んでおくれよ」

「ふざっけんな。そう言って何度目だこの野郎」

「まだたったの四回じゃないか」

「『もう』四回だろうがっ。今迄よく分からん理由で奢ってきたが、今日ばかりはもう知らん」

「そんなツレない事を。僕と君の仲じゃあないか」

「薄気味悪い事を言うんじゃあない。張り付くなら竜馬に張り付け。お得意の屁理屈を捏ね回せば楽にありつけるだろうよって、耳に息を吹きかけんな!」

「いやさぁ、ほら、竜馬君って純真って言うか、詐欺紛いの行為でからかうにはいまいち面白味が無いんだよね。その点、直也君は打てば響くから遠慮会釈無くても良いかなって」

「良くねぇよ!」

 と、喧々諤々と会話で小突き合いながら食堂の小母様方に注文を取り付けている。何となく見るともなしに見ていると、結局直也は仲俊と優斗の昼食を自分持ちにしているようだった。


「……え、それだけ?」

 論拠として持ち出すには正直どうよ、と思える程度には薄弱である。

「そこは妄想で補完すれば良いんじゃない? 冴えない班長と見目麗しい部下、頑張れば短編分位にはなるでしょ」

 乃恵留はがっくりと机に頬杖をつくと、机の上に広げられたお菓子を摘まむ。

「……何よもぉ、野口が男とデキてるっ言うから吃驚し……てない!」

「まだ何も言ってませんよ」

 底意地の悪い微笑を浮かべる両者に乃恵留は反発すると、追求を逃れる為に素早く椅子から立ち上がり、窓辺へと近寄った。すると、ちょうど眼下の運動場に上田虎雄とペンギンの姿があり、運動場の脇には野口直也が突っ立っていた。

 一瞬直也が虎雄を虐めているのかとも思ったが、直也の人柄的にそんな『無駄』な事はしないだろうと思い至る。直也は正負の感情に関わらず他人に干渉する事を嫌っているようで、その傾向は仕事にも現れていた。

 顕著な一例として、工藤百華は結構な頻度でシフトの変更を申し出るが、その理由について直也が百華を深く問い質す場面を見た事が無い。百華がバイトと言えばバイトだと納得し、家族が病身でと言えばそのまま飲み下す。詰まる所、直也にとって結果的に必要な人時を消化できれば文句は無く、大抵の申請が通り易いその点に関して言えばテクノオフィサー全員が助かっている、とは愛梨沙の弁だ。

(まぁ、私も其処ん所には助かってるわけだし?)

 思い起こされるのは初戦後のあの深夜の出来事。ふと日常の中で思い出す度に自己嫌悪に陥りそうになる。

(弱っていたとは言え、菅原乃恵留一生の不覚っ)

 あの時点でよく知りもしない相手に向かって、よくもあそこまで本音と弱音を吐き散らせたものだ。今思い出しても顔から火が吹き出そうになる。幸いにして直也とはあの一件以降長時間の接触は無く、出会っても精々挨拶程度で済んでいた。

 一時は直也が調子に乗って話しかけてくるのではないかと戦々恐々としていたが、幾日もしない内に警戒して肩肘を張るだけ馬鹿を見ているのだ、という事に気付く。乃恵留にとってあの夜の出来事は本当に重大事であっても、直也にとっては生活の一場面に過ぎないのである。いやまぁ、それはそれで乙女としては納得し難いと言うか、直也の癖に人の重大事を雑に扱うなんて生意気ではないのかと思う辺り、乃恵留も若い。人間、まったく相手にされない興味を抱かれない、というのも面白くないものだ。年齢を積み重ねればその辺りの機微を上手く宥めてやれるものだが、根が素直な乃恵留に誤魔化す事は難しかった。

(ばーか)

 窓の外、手の平に収まりそうな位に小さな直也を硝子越しに指で弾く。こつり、と硝子が震え、何故かその音が酷く心地良い。乃恵留は我知らず微笑んでいると、景色に変化が生まれた。

 直也の背後から人影が現れ、目を凝らしてみると、その人物が既知の人間である事に気付く。同時に胸の奥、乃恵留の柔らかな記憶の一部がちくりと痛んだ。

「あ、上田とペンギン? ……に、野口と村田先輩?」

 何時の間にか両隣に愛梨沙と亜美が並び、三人と一匹を見下ろす形になる。

「何と言うか……珍しい組み合わせですね。上田君が小島君以外の人と一緒にいる所なんて初めて見ました。野口君と上田君……有りですね」

「あ、村田先輩が抱き着いた! え、嘘、何、そーゆー事なの!?」

 そーゆー事とは一体どういう事だ。

「いえ、村田先輩は割合誰かれ構わず抱き着いてますよ。私もこの前寝床代わりに抱き着かれましたし」

「ふーん。そう言えば、谷口にも抱き着いてたわね」

 二人の会話を耳に入れながら、乃恵留は何となく面白くなかった。先程までの名状し難い感覚は霧散し、後にはしこりのような塊がとぐろを巻いている。

 乃恵留は窓から身を離すと、そっとその場から立ち去ろうとして――次の一言で即座に引き返した。

「おや、野口君がコートを貸してあげるみたいですね」

「!?」

 勢い込んで先程と同じ地点に視線を走らせると、確かに直也が自らのコートを脱ぎ、彩華に手渡していた。

(……)

 ふーん、そーゆー事とかできちゃうんだー。おいちょっと待てこの野郎。他人に興味が無かったのではないのか。そもそも、どういう関係なのだ。知り合う機会なんて無かった筈なのに。いいや、違う。それでもまだ、私の方が付き合いが長い筈なのに!

「おぉお……野口、あんたを侮っていたわ。結構気遣いができる男だったのね」

「見直しました」

「これってさ。あの噂の信憑性も出てきたんじゃない?」

「あぁ、野口君が村田先輩に気があるって噂ですか。私も聞き流していましたけど、ちょっとばかり信じてみようとも思えますね」

「でしょっ? ねぇ乃恵留、あんたはどう思……う……」

 渡部愛梨沙は後に述懐する。

 人は時として、あれほどまでに激しさと怜悧な感情を同居させた表情をつくる事ができるのだな、と。





――――――――
村田先輩が動かな過ぎてめっちゃ時間かかった。

本っ当に久々の更新です。

鯉鞠様
たなか様
たつみ様
庁様
相異様
雨士マンⅡ様

纏めてになってしまいますが、感想を頂けて本当にありがたく思っています。
何度も読み返して何とか折れずに更新することができました。
返信の遅れに関しては申し訳ありません。




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