・崇徳天皇
(すとくてんのう、元永2年5月28日(1119年7月7日) - 長寛2年8月26日(1164年9月14日))は日本の第75代天皇(在位1123年 - 1142年)。
退位後は新院、讃岐院とも呼ばれた。諱を顕仁(あきひと)という。
崩御 1164年9月14日讃岐国 陵所 白峯陵
鳥羽天皇と中宮・藤原璋子(待賢門院)の第一皇子として生まれるが、父には疎んぜられた。
『古事談』には、崇徳天皇は白河法皇と璋子が密通して生まれた子であり、鳥羽は崇徳を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたという逸話が記されている。
これは『古事談』のみの記述であり、真偽は不明である。
元永2年(1119年)5月28日に生まれ、6月19日に親王宣下を受ける。
保安4年(1123年)正月28日に5歳で皇太子となり、同日、鳥羽天皇の譲位により践祚、2月19日に即位した。
大治4年(1129年)、関白・藤原忠通の長女である藤原聖子(皇嘉門院)が入内する。
同年7月7日、白河法皇が亡くなり鳥羽上皇が院政を開始する。
翌大治5年(1130年)、聖子は中宮に冊立された。崇徳と聖子との夫婦仲は良好だったが子供は生まれず、保延6年(1140年)9月2日女房兵衛佐局が崇徳の第一皇子重仁親王を産むと、聖子と忠通は不快感を抱いたという。
保元の乱で忠通が崇徳上皇と重仁親王を敵視したのもこれが原因と推察される。
院政開始後の鳥羽上皇は藤原得子(美福門院)を寵愛して、永治元年(1141年)12月7日、崇徳に譲位を迫り、得子所生の体仁親王を即位させた(近衛天皇)。
体仁は崇徳の中宮・藤原聖子の養子であり「皇太子」のはずだったが、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた(『愚管抄』)。
天皇が弟では将来の院政は不可能であり、崇徳にとってこの譲位は大きな遺恨となった。
崇徳は鳥羽田中殿に移り、新院と呼ばれるようになった。
保元元年(1156年)5月、鳥羽法皇が病に倒れ、7月2日申の刻(午後4時頃)に崩御した。
崇徳は臨終の直前に見舞いに訪れたが、対面はできなかった。
『古事談』によれば、法皇は側近の藤原惟方に自身の遺体を崇徳に見せないよう言い残したという。
崇徳は憤慨して鳥羽田中殿に引き返した。
法皇が崩御して程なく事態は急変する。
7月5日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という噂が流され、法皇の初七日の7月8日には、忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されると同時に、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が摂関家の正邸・東三条殿に乱入して邸宅を没官するに至った。
これらの措置は、法皇の権威を盾に崇徳・頼長を抑圧していた美福門院・忠通・院近臣らによる先制攻撃と考えられる。
7月9日の夜中、崇徳は少数の側近とともに鳥羽田中殿を脱出して、洛東白河にある統子内親王の御所に押し入った。
『兵範記』同日条には「上下奇と成す、親疎知らず」とあり、重仁親王も同行しないなど、その行動は突発的で予想外のものだった。
崇徳に対する直接的な攻撃はなかったが、すでに世間には「上皇左府同心」の噂が流れており、鳥羽にそのまま留まっていれば拘束される危険もあったため脱出を決行したと思われる。
翌10日には、頼長が宇治から上洛して白河北殿に入り、崇徳の側近である藤原教長や、平家弘・源為義・平忠正などの武士が集結する。
上皇方に参じた兵力は甚だ弱小であり、崇徳は今は亡き平忠盛が重仁親王の後見だったことから、忠盛の子・清盛が味方になることに一縷の望みをかけたが、重仁の乳母・池禅尼は上皇方の敗北を予測して、子の頼盛に清盛と協力することを命じた(『愚管抄』)。
天皇方は、崇徳の動きを「これ日来の風聞、すでに露顕する所なり」(『兵範記』7月10日条)として武士を動員し、11日未明、白河北殿へ夜襲をかける。白河北殿は炎上し、崇徳は御所を脱出して行方をくらました。
13日、逃亡していた崇徳は仁和寺に出頭し、同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼する。
しかし覚性が申し出を断ったため、崇徳は寛遍法務の旧房に移り、源重成の監視下に置かれた。
23日、崇徳は武士数十人が囲んだ網代車に乗せられ、鳥羽から船で讃岐へ下った。
天皇もしくは上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路配流以来、およそ400年ぶりの出来事だった。
同行したのは寵妃の兵衛佐局と僅かな女房だけだった。
その後、二度と京の地を踏むことはなく、8年後の長寛2年(1164年)8月26日、46歳で崩御した。
一説には、三木近安によって暗殺されたともされる。
『保元物語』によると、崇徳は讃岐での軟禁生活の中で仏教に深く傾倒して極楽往生を願い、五部大乗経(法華経・華厳経・涅槃経・大集経・大品般若経)の写本作りに専念して(血で書いたか墨で書いたかは諸本で違いがある)、戦死者の供養と反省の証にと、完成した五つの写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出したところ、後白河は「呪詛が込められているのではないか」と疑ってこれを拒否し、写本を送り返してきた。
これに激しく怒った崇徳は、舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿になり、後に生きながら天狗になったとされている。
(一方『今鏡』「すべらぎの中第二 八重の潮路」では、「憂き世のあまりにや、御病ひも年に添へて重らせ給ひければ」と寂しい生活の中で悲しさの余り、病気も年々重くなっていったとは記されているものの、自らを配流した者への怒りや恨みといった話はない。
また配流先で崇徳が実際に詠んだ「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」(『風雅和歌集』)という歌を見ても、悲嘆の感情はうかがえても、怨念を抱いていた様子はない。)
保元の乱が終結してしばらくの間は、崇徳は罪人として扱われた。
それは天皇方の勝利を高らかに宣言した宣命(『平安遺文』2848)にも表れている。
崇徳が讃岐で崩御した際も、「太上皇無服仮乃儀」(『百錬抄』)と後白河はその死を無視し、「付国司行彼葬礼、自公家無其沙汰」(『皇代記』)とあるように国司によって葬礼が行われただけで、朝廷による措置はなかった。
崇徳を罪人とする朝廷の認識は、配流された藤原教長らが帰京を許され、頼長の子の師長が後白河の側近になっても変わることはなかった。
当然、崇徳の怨霊についても意識されることはなかった。
ところが安元3年(1177年)になると状況は一変する。
この年は延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こり、社会の安定が崩れ長く続く動乱の始まりとなった。
『愚昧記』安元3年5月9日条には「讃岐院ならびに宇治左府の事、沙汰あるべしと云々。これ近日天下の悪事彼の人等所為の由疑いあり」とあり、以降、崇徳の怨霊に関する記事が貴族の日記に頻出するようになる。
『愚昧記』5月13日条によると、すでに前年には崇徳と頼長の怨霊が問題になっていたという。
安元2年(1176年)は建春門院・高松院・六条院・九条院が相次いで死去している。
後白河や忠通に近い人々が相次いで死去したことで、崇徳や頼長の怨霊が意識され始め、翌年の大事件続発がそれに拍車をかけたと思われる。
崇徳の怨霊については、『吉記』寿永3年(1184年)4月15日条に藤原教長が崇徳と頼長の悪霊を神霊として祀るべきと主張していたことが記されており、かつての側近である教長がその形成に深く関わっていたと見られる。
精神的に追い詰められた後白河は怨霊鎮魂のため保元の宣命を破却し、8月3日には「讃岐院」の院号が「崇徳院」に改められ、頼長には正一位太政大臣が追贈された(『百錬抄』)。
寿永3年(1184年)4月15日には保元の乱の古戦場である春日河原に「崇徳院廟」(のちの粟田宮)が設置された。
この廟は応仁の乱後に衰微して天文年間に平野社に統合された。
また崩御の直後に地元の人達によって御陵の近くに建てられた頓証寺(現在の白峯寺)に対しても官の保護が与えられたとされている。
その一方で後世には、四国全体の守り神であるという伝説も現われるようになる。
承久の乱で土佐に流された土御門上皇(後白河の曾孫)が途中で崇徳天皇の御陵の近くを通った際にその霊を慰めるために琵琶を弾いたところ、夢に崇徳天皇が現われて上皇と都に残してきた家族の守護を約束した。
その後、上皇の遺児であった後嵯峨天皇が鎌倉幕府の推挙により皇位に就いたとされている。
また、室町幕府の管領であった細川頼之が四国の守護となった際に崇徳天皇の菩提を弔ってから四国平定に乗り出して成功して以後、細川氏代々の守護神として崇敬されたと言われている。
明治天皇は1868年に自らの即位の礼を執り行うに際して勅使を讃岐に遣わし、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建した。
昭和天皇は1964年の東京オリンピック開催に際して香川県坂出市の崇徳天皇陵に勅使を遣わし、崇徳天皇式年祭を執り行わせている。
(ウィキペディア)
>『保元物語』によると、崇徳は讃岐での軟禁生活の中で仏教に深く傾倒して極楽往生を願い、五部大乗経(法華経・華厳経・涅槃経・大集経・大品般若経)の写本作りに専念して(血で書いたか墨で書いたかは諸本で違いがある)、戦死者の供養と反省の証にと、完成した五つの写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出したところ、後白河は「呪詛が込められているのではないか」と疑ってこれを拒否し、写本を送り返してきた。これに激しく怒った崇徳は、舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿になり、後に生きながら天狗になったとされている。
京の都を艮に眺めた讃岐院の思いは、あるいは後の日本国に一大魔縁を及ぼす原因となったのかもしれない。下に恐ろしきは人の執着心。
・金刀比羅宮
(ことひらぐう)は、香川県仲多度郡琴平町の象頭山中腹に鎮座する神社。こんぴらさんと呼ばれて親しまれており、金毘羅宮、まれに琴平宮とも書かれる。明治維新の神仏分離・廃仏毀釈が実施される以前は真言宗の象頭山松尾寺金光院であり[1]、神仏習合で象頭山金毘羅大権現と呼ばれた。現在は神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人金刀比羅本教の総本部。全国の金刀比羅神社・琴平神社・金比羅神社の総本宮でもある。
祭神
大物主命
崇徳天皇
金刀比羅宮の由緒については二つの説がある。
一つは、大物主命が象頭山に行宮を営んだ跡を祭った琴平神社から始まり、中世以降に本地垂迹説により仏教の金毘羅と習合して金毘羅大権現と称したとするものである。
もう一つは、もともと象頭山にあった真言宗の松尾寺に金毘羅が鎮守神として祀られており、大宝年間に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山(象頭山)に住する護法善神金毘羅の神験に遭ったのが開山の縁起との伝承から、これが金毘羅大権現になったとする。
いずれにせよ神仏習合の寺社であった。
海上交通の守り神とされるのは、古代には象頭山の麓まで入江が入り込んでいたことに関係があるとされるとの説があるが、縄文海進での海面上昇は5m程度であり、大物主命が「海の彼方から波間を照らして現れた神」であったことに由来すると考えるほうが妥当である。
長寛元年(1163年)に崇徳上皇が象頭山 松尾寺 金光院に参籠したことから、修験道の御霊信仰の影響で永万元年(1165年)には、讃岐国に流されたまま崩御した崇徳天皇も象頭山 松尾寺 金光院に合祀した。
(ウィキペディア)
>金(刀比羅宮の)神
>松 尾寺 金光 院
・金神
(こんじん)とは方位神の1つである。
金神の在する方位に対してはあらゆることが凶とされ、特に土を動かしたり造作・修理・移転・旅行などが忌まれる。
この方位を犯すと家族7人に死が及び、家族が7人いない時は隣の家の者まで殺される(これを七殺(ななさつ)という)と言われて恐れられた。
金神の中でも、「うしとらの金神」は「久遠国」という夜叉国の王である巨旦大王の精魂とされる。
巨旦大王の眷属の精魂も(普通の)金神と呼ばれる凶神となっている。
またその精魂の抜けた屍は牛頭天王によって5つに引き裂かれ、五節句に合わせて祭った(巨旦調伏の祭礼)。
金神は人々に大変恐れられており、江戸時代の末には岡山県地方では、「金神封じ」と称して祈祷を行う修験者もいたり、「出雲屋敷」と称して出雲の神々に家を供え、金神から守ってもらおうとした家も多数あったが、信仰した者も多い。
確実に記録に残っているのは、現在の倉敷市船穂町の「堅磐谷の元金神」(通称「堅磐谷の婆さん」)と呼ばれた小野うたである。
彼女は8人の子供の内7人まで亡くし、最後に残った娘・小野はるも盲目になり、今の倉敷市連島町の文十郎が金神を拝んでいると聞き、参詣し、金神信仰に入った。
金神を祈祷して金神に抗議したところ、逆に金神が降臨し、その口を通じて金神が話をしたことから、信仰が始まったとされる。
その後、祭典日には100人以上の参拝があり、門前に菓子屋などが建った。このように、「何々金神」と呼ばれる信仰者が多数生まれた。
その中でも、金神の祟りで幾度も転居を余儀なくされた香取繁右衛門(亀山の金神)と、その実兄であり金神七殺の祟りで家族を何人も失い自らも瀕死の大病になった川手文治郎(後に赤沢文治そして金光大神、大谷の金神)は、
金神の啓示と自らの体験、
例えば土地の主人である金神の留守を狙うような事をする人間に金神が祟るのは当たり前で、金神が巡って塞がりの土地は逆に金神に許しを得て使わせていただければよく、金神は昔から有る神であり、神として立て仰ぐ人間を待っていたと説き、それぞれ信仰すれば逆にすばらしい加護があった
などという信仰体験から
金神信仰を一般化、体系化し、宗教化することにより、繁右衛門は香取 金光教を、そして文治は金光教を啓いた。
また明治初頭、京都の出口なおは神懸かりの時、最も恐ろしいと言われる艮の金神の突然の降臨とその自動書記等の啓示により、金神こそがこの世の根本の神であり、信仰すれば大きな恩恵が与えられると伝え、最初は金光教の傘下で活動したが、後に出口王仁三郎と共に大本教を興した。
(ウィキペディア)
大本教団の発祥について。出口なお56歳の時(明治25年)、突然「神がかり」現象に陥いる。
神はなおの肝に神はなおの肝に居座り自らを「艮の金神(うしとらのこんじん)」と名乗ったという。
天理教、金光教の神はその先走りで、最後に現れた艮の金神こそ三千世界の大掃除・大洗濯をするものであって、「三千世界を一つにまとめて万却末代続く神国の世にいたすぞよ」と申し渡した。
大本の祭神「艮の金神」の「金神」が金光教の祭神「天地金乃神」と相通づるものがあるのは、金光教の影響が少なからずあるものと思われる。
実際、活動初期には金光教の祭神と艮の金神(うしとらのこんじん)を同時に祀っていたという。
なおは当初、艮の金神様のお告げを叫びながら隣近所を駆け回り、周りからは完全な狂信者とみられていた。なおの長女と三女もすでに発狂しており、出口一族は精神異常者の家系といわれていたのである。
ある日、神のお告げを得たなおはいつものごとく近所に触れ回った。
「・・・今のうちに改心致さねば、どこに飛び火がいたそうも知れんぞよ」といった内容であった。おりしも放火事件がおきた直後のことであったため、これを聞いた近隣の者が警察に通報、なおは放火犯と間違われ牢獄へ入れられてしまう。
牢獄の中で腹中に居座る金神様より「釘をもて」といわれ、目の前に落ちていた釘を持つと、目の前の柱に光の筋がみえた。その筋の通りに釘でなぞると、そこには神の言葉が記されたという。
これが「お筆先」のはじまりであった。
あくる日、放火犯はつかまったのでなおは無罪放免となったが、この日より神示はすべてお筆先で現されることとなる。
なおはひらがなしか読み書きできなかったため、お筆先はすべて半紙にひらがな文でしかもその内容は抽象的(ノストラダムスの大予言的な抽象度)でしかなかったのだが、驚くべきは、なおが死去するまでに書いたお筆先は半紙20万枚に達するという(真偽の程は不明)。
この「お筆先」は後に王仁三郎によって漢字かなまじり文に直された上で整理され「大本神諭」としてまとめられた。現在の大本の経典である。
なおのお筆先の原本はほとんど残っておらず、現在はこの神諭でしか知ることができない。
また、この神諭の一部には王仁三郎によるでっち上げも混じっているという(後に王仁三郎が検挙された際、官憲の取調べにてそう語ったとされている)。
一方の出口王仁三郎は、小学校の教師、農業、畜産などの職歴を経たのち、27歳のとき(明治31年)に高熊山の岩窟において7日間の断食修行をし、そこで自らの使命を悟り宗教者の道へ入ることになったという。
同年10月、王仁三郎は綾部の金神様のうわさを聞き、すでに金光教と離れ独自の活動をしてたなおを訪ねる。
これが元で翌年(明治32)に王仁三郎の支援の下、「金明霊学会」を設立した。
明治33年、王仁三郎はなおの末娘(のちの二代目教主・すみ子)と結婚し出口家の養子となる。
その後一時期なおと仲たがいし、綾部をでて大阪方面で他宗派の布教活動をしていたが明治41年になって綾部に戻っている。
綾部に戻った後の王仁三郎は教団の実質上の指導者となり、教祖なおの「お筆先」を基本としながらも独自の考えを加味して教義と組織を確立した。
とくに「大本神諭」とならんで大本の経典となっている「霊界物語」(全81巻)は、王仁三郎が岩窟において7日間の断食修行をしたときに、幽体離脱して神の使者に案内されて霊界のすみずみまで見聞した体験をまとめたものである。
その壮大なストーリーはおよそ我々一般人の理解を超えているが、しかし大本三派のうち愛善苑では「霊界物語」こそ大本の唯一の聖典としているほど、大本では重要視されている。
http://park8.wakwak.com/~kasa/Religion/oomoto.html
霊界物語を紐解いてみますと、開祖に神懸る神、【艮の金神】は国祖国常立尊と称され、太古の神世時代には地上を統治する権限が造物主、【天の御三体の神】から与えられていました。
邪神である大蛇、悪狐たちが全世界で蠢動する中、世界を統一し、武力を撤廃し、永遠の平安を築くべく尽力してきたといいます。
国祖の妻神は豊雲野尊といい、厳格なる国祖を輔佐します。
国祖らが打ち立てた法律、【天地の律法】を逆手に取った邪神八王大神常世彦は卑劣な姦策を使い、これによって国祖を陥れ、策謀にさらされた国祖は艮の方角、鬼門へと幽閉されることになります。
妻の豊雲野尊も同様にして艮とは逆方向の坤の方角、裏鬼門へと向かいます。
ここに、国祖国常立尊は艮の金神と別称されるようになり、妻神豊雲野尊は坤の金神と呼称されるようになります。
夫婦の関係は非常に密接であり、時に豊雲野尊は夫神を慕って艮の方角へと足を運び、想いを馳せたこともあったといいます。
大本神話では、太古の神世の時代に艮、鬼門へと幽閉された神がいよいよ世に復活し、これまで邪神によって霊的に蹂躙されてきたこの現世を再び、地上天国とすべく顕現することが信じられています。
そのためには、まず、艮の金神、国祖国常立尊の妻神である【坤の金神】の復活が必要とされていました。
艮の金神は開祖、出口直に神懸りして活動し、妻神は出口王仁三郎に神懸りしてここに両者は和合し、和合の暁には夫婦神ともに協力して真の弥勒の世建設へと活動するといいます。
http://www.geocities.jp/susano567miroku/tensonoikun.html
まあ誰も聞いてないのに、教える義理もないので特に説明しないが、この引用の羅列だけで勘のいい人は、神道系新興宗教の分脈における、追いやられた神である艮の金神なるものの因縁についても、その真相を理解できるであろうと思う。
しょせん新興宗教の神がかりにまつわるオカルト因縁話なので、あまり深く関わっても仕方ないのだが、どっかでこの大魔縁に関しては一度は目立たぬように開示しておいてもいい話だと思ったので、しておく。
とはいえ、特に他意はない。