全面的徹底改造計画その壱

たぶれんとしてたぶるもまたたぶれかな?

かつて熊野は祖谷であった

2011-09-10 18:04:22 | Weblog

・「祖谷」のことで

徳島県西部の「祖谷」のことですが、
この地名がなぜ「IYA」と読まれるのかについて、
お分かりでしたら、よろしくお願いします。

投稿日時 - 2004-03-14 01:54:56

 

 

帝国地名辞典では,「祖谷は古簡に伊屋に作る。祖谷をイヤと読むは祖のオヤをイヤに転じて使用せるなりと云ふ説あり。」とかいてありました。

投稿日時 - 2004-03-24 02:45:29

http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa805205.html

 

 

「古簡に伊屋に作る」とは、あるいは「古簡にいわく、伊屋を作る」の謂であろうか?
だとすれば「伊屋」とは「ゐや」(住居)のことであろう。

 


・ゐや

ゐや【居家、居屋 イヤ】

1.住居。

http://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%82%90%E3%82%84

 

 

 

 


・たまる疲労、不安続く 決壊恐れ住民避難も 田辺市内の土砂ダム
 
 台風12号による豪雨被害を受けた和歌山県紀南地方で8日夜から激しい雨が予想され、土砂災害や洪水の危険性がある地域の住民は9日朝まで警戒の一夜を過ごした。雨で地盤が緩んでいる地域では引き続き、土砂災害への警戒が求められる。

 田辺市は8日午後7時、雨で地盤が緩んでいるとして全市域に防災行政無線で市民に警戒を呼び掛ける放送を流した。

 上流域に土砂崩れによるダムができている田辺市熊野(いや)地区では8日夕、市職員が戸別訪問し、住民に避難を呼び掛けた。午後7時15分、避難指示が出され、19世帯28人は親類や知人宅に避難した。避難指示は9日午前11時現在も継続し、地区に立ち入れない状況で、住民らは避難を続けている。

 4日朝の土石流によって百間山渓谷入り口付近に「土砂ダム」ができ、約70万立方メートルの水がたまっている。決壊の恐れがあることから、熊野地区の住民は熊野会館に避難していたが、8日夜から激しい雨が予想されたため、避難指示により全員が地区から出た。下流域の面川地区(25世帯40人)でも住民が福祉団体の施設や親類、知人宅などに避難している。

 雨はほとんど降らなかったため、避難した住民は安心したが、避難所生活が長期化しており、疲れが蓄積している。

 一方、富田川に土砂ダムができている田辺市中辺路町栗栖川滝尻で土産物店を営む水本好則さん(62)は、土砂崩れが発生した4日から自宅で夜を過ごせていない。「大雨の予報でまたかと思ったが、雨が降らなくて本当によかった」と話し、水害の後片付けを続ける。

 親類宅に身を寄せており「当分は以前のように店に住んで熊野古道の語り部はできない。早く元の生活に戻りたい」と切望する。浸水被害があった滝尻王子も今のままでは旅人を迎えられないとも話す。


(2011年09月09日更新)

http://www.agara.co.jp/modules/dailynews/article.php?storyid=217308

 

 

注目はこれ。

>田辺市 熊野(いや)


「熊野」と書いて「いや」と読ませる。

一説には「熊」は「カム・イ」の転じた言葉であるから、「いや」には「神の居」の意味もあったろうか?


・カムイ (kamuy, 神威、神居)
アイヌ語で神格を有する高位の霊的存在のこと。
アイヌ民族の伝統的信仰は日本神道に近いとする説もあり、その場合多神教に分類される。
カムイが日本語のカミと共通起源の語彙であるとする説もある。
日本語の「カミ」と同様、「霊」や「自然」と表現してもおかしくない。

 

 

 

 


・熊野神社(くまのじんじゃ)
熊野三山の祭神の勧請を受けた神社である。
同名または熊野社(「くまの」しゃ・「ゆや」しゃ・「いや」しゃ)・十二所神社(じゅうにそじんじゃ、じゅうにしょじんじゃ)など類似の社名の神社が全国各地にある。

熊野神社は熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の祭神を勧請された神社のことである。

熊野詣の盛行や有力者による荘園の寄進、熊野先達の活動により全国に熊野信仰がひろまったことにより、全国に熊野三山の祭神を勧請した神社が全国に成立した。

熊野三山の祭神たる熊野権現は、その主祭神である熊野三所権現だけでなく、十二所権現をも含んでいる。

熊野三山の祭神を勧請するといった場合、三所権現のいずれかひとつの神ないし三神の全て、または十二所権現の全てないし若宮のみを勧請する場合や、九十九王子の中でも重要な五体王子を勧請するものもあり、それら全てを含めて熊野神社とした場合、その数は三千余に達するという。

有史以前からの自然信仰の聖地であった熊野(紀伊国牟婁郡)に成立した熊野三山は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての中世熊野詣における皇族・貴紳の参詣によって、信仰と制度の上での確立をみた。

しかしながら、中世熊野詣を担った京からの参詣者は、後鳥羽上皇をはじめとする京都の皇族・貴族と上皇陣営に加勢した熊野別当家が承久の乱において没落したことによって、院の参詣は実質的に終焉し、貴族による参詣も13世紀過ぎまでのことであった。

かわって、承久の乱以後の鎌倉時代には新たな参詣者層として地方の武士が登場し、15世紀ごろには一般民衆が最盛期を迎えた。

室町時代から戦国時代にかけて熊野山領の荘園からの収入が減退したことが熊野先達・御師の発達を促し、熊野先達の活動が全国に及んだことで熊野信仰の伝播はいっそう促進された。


・熊野三山
(くまのさんざん)は、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三つの神社の総称。熊野三山の名前からもわかる通り、仏教的要素が強い。

日本全国に約3千社ある熊野神社の 総本社である。

熊野の地名が最初に現れるのは日本書紀の神代記で、神産みの段の第五の一書に、伊弉冉尊が死んだとき熊野の有馬村(三重県熊野市有馬の花窟神社)というところに葬られたという記述がある。

国家が編纂した歴史書(正史)に熊野の名が登場するのは日本三代実録からである。

古来、修験道の修行の地とされた。

延喜式神名帳には、熊野坐神社(熊野本宮大社)と熊野速玉大社とあるが、熊野那智大社の記載が無いのは、那智は神社ではなく修行場と見なされていたからと考えられている。

3社が興ってくると、3社のそれぞれの神が3社共通の祭神とされるようになり、また神仏習合により、熊野本宮大社の主祭神の家都御子神(けつみこのかみ)または家都美御子神(けつみこのかみ)は阿弥陀如来、
新宮の熊野速玉大社の熊野速玉男神(くまのはやたまおのかみ)または速玉神(はやたまのかみ)は薬師如来、
熊野那智大社の熊野牟須美神(くまのむすみのかみ)または夫須美神(ふすみのかみ)は千手観音とされた。

熊野の3神は熊野三所権現と呼ばれ、主祭神以外も含めて熊野十二所権現ともいう。

なお出雲の熊野大社(島根県松江市)には、この熊野三山の元津宮であるとの古伝がある。


熊野三山は熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の三社からなるが、当初は別個の展開をたどり、本宮は崇神天皇代、速玉は景行天皇代(『扶桑略記』)、那智は孝昭天皇代に裸行が開基した(『熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記』)したとするが定かではない。

正史において、神名が確実に確認できるのは大同元年(806年)の史料中にある記述で、天平神護2年(766年)付で速玉神と熊野牟須美神にそれぞれ4戸の神封を施入したとあるもので、これら2柱の神は今日の新宮に比定される熊野神邑(くまのしんそん)に一緒に祀られていたと見られる。

 

 

                           (ウィキペディア)

 

 

 

こう考えてはどうだろう?

熊野はもともと「ゐや」であり、そこからわかるように、その原型は徳島県西部の「祖谷」に由来する。

すなわち神の居所としての熊野信仰の原型もまた祖谷から熊野へと移植された。


それが何を意味するかは謎であるが。

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