66年前、「陸軍水上特別攻撃隊」の隊員として広島で救護活動し被爆した台湾人、陳賜兵さん(84)=台北市=が来日し、4日に広島市内で自らの被爆の足跡をたどった。陳さんは、娘の遺体を見つけて泣いていた母親の様子などを日本語で証言し、「無垢(むく)な人がああいう死に方をする。耐えられない」と語った。【樋口岳大】
■宇品から上陸
まず宇品港(南区)を訪れた。陳さんは、日本統治下の台湾で商科高校在学中、旧日本陸軍の特別幹部候補生の試験に合格。1945年1月、船で台湾を出発した。中国の上海、青島、朝鮮半島などを経て翌月、宇品に到着。「暑い台湾から来たのでとても寒かった」。似島の検疫所では真っ裸になって消毒液のプールに入った。
香川県小豆島で訓練を受け、同6月、江田島・幸ノ浦に基地があった陸軍水上特別攻撃隊(部隊名・陸軍船舶練習部第十教育隊)に配属された。本土決戦に備え、ベニヤ板で作った高速艇に1人乗り込み、暗闇の中、敵艦に近づいて爆破する訓練を繰り返した。「体当たりに近い」戦術だった。
8月6日は基地で朝食を済ませた後、閃光(せんこう)を見た。出動命令を受け、午後2時ごろ宇品に上陸した。港は大勢のけが人であふれ、家屋は半倒れの状態だった。
■遺体収容
陳さんは、66年前に部隊の救護本部が置かれた広島電鉄本社(中区)前を訪れた。被爆建物の千田町変電所を見つめ、「ここに着いた時はずっと燃え続けていた」と振り返った。
陳さんたちが、燃えさかる市内に何とか入り、ここにたどり着いたのは6日夕暮れ近く。「半袖、半ズボン姿で、手袋や防毒マスクもなく、濡れたタオルで口をふさいで作業をした」。バケツもなく火をたたいて消すだけで、あちこちが燃え上がった。
7日から遺体を収容した。幅2メートルくらいの穴を掘って火葬する。身元などを調べる術(すべ)もなく、「男何人、女何人」と記録しただけ。「落ちていた水道管を切断して、かぎ型にして死体を引っ張りました。仏さんをね、そういうふうにして扱いました。本当に無残なことをしました」
女学生の遺体のもんぺの焼け残りを見て、「うちの子だ」と泣きすがる母親を見た。陳さんは「自分の姉や妹たちがこんなことになったら……」と感じたという。証言がふと途切れた。「涙が出てしょうがない」。嗚咽(おえつ)した。作業は丸1週間続いた。
■58年後の手帳取得
陳さんは、46年5月に帰国し、教員や公務員、企業の通訳などとして働いた。70年に日本の戦友が被爆者健康手帳を取得していると知ったが、旧厚生省の74年通達は、在外被爆者を援護の適用外としており、「外国人は無理」と思ってあきらめた。日本政府は03年、在韓被爆者が起こした訴訟で「被爆者援護法の趣旨に反する」と判断された通達を廃止。陳さんはやっと手帳を取得した。今年5月、通達で精神的苦痛を受けたとして、広島地裁に国家賠償請求訟を起こした。
今回の「証言の旅」には次男の律希さん(53)が同行した。陳さんはこれまで「時代も、国も違う」と体験を話してこなかった。しかし、孫娘に「ルーツが知りたい」と言われて少しずつ語り始め、今回初めて律希さんに詳しく話した。律希さんは「初めて父の過去を知った」といい、陳さんは「親父の足跡を見せられた」と語った。
毎日新聞 2011年9月10日 地方版