陸前高田に入って参りました。
<2011.9.11>
あの未曾有の大災害から6カ月が経ちました。
改めて犠牲に遭われた皆様には心からご冥福をお祈り申し上げます。
8月16日・17日・18日の三日間、岩手県に10月6日宝島社から出版予定の本「幸せを導く未来の暦」の原稿を書く為の取材に、陸前高田に入って参りました。
私は、3月11日のあの日から人生が大きく変わったと申し上げても過言ではありません。それ故に「陸前高田」は、私があの世とやらに帰依しても、もしも生まれ変われたとしても忘れる事が出来ない場所になっています。
今から書かせて頂きます事は、私が感じた素直な気持ちでございます。どうか私の気持ちをお汲みとりながら、お読み下さいませ。
大宮を出発して一関に着くと、車で陸前高田に向かいました。大阪府警のパトカー数台を見た時には「何が起きたのだろう」と思ったのですが、その事が分かるのに時間はかかりませんでした。復興支援のパトカーだったのです。山間を潜り抜けると胸が痛い光景が広がります。思っていた以上に整備されてはいましたが、人けの少ない街の淋しい事。ナビには記載されている社名の場所は、空き地になっていて虚しさが広がります。遠目からは辛さを感じない学校・病院・ホテル・家、でも傍に寄れば、中身が全て消えていて言葉を失います。
車達は大怪我しながら、ご主人様を待っています。
心が痛む。こんな言葉では表現が出来ていません。海岸辺りの本来なら入る事が出来ない人様のお家にお邪魔すると、玄関の横に南天の木が、大津波に勝ち残っていました。そのお家ではご主人様の帰りを待つステンレスのお風呂と、少し残ったブルーのタイルが痛々しくそこにはありました。
(明日に続く)