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沖浦板をウォッチしない

964プリン:2009/03/27(金) 01:58:41
 
最近、学会員の間で著名な精神科医である於保哲外氏の講演内容を巡って、議論が起きているようだ。
 
もともとは、沖浦シンパと思われる某女史が、於保氏の講演内容の一部だけを取り上げて論じたようだが、これに沖浦某も便乗したようである。
 
問題となっている於保哲外氏の講演は、どうやらこれのようだ。
『海の文化と村の文化』(2000年4月2日)
http://www.pegasus-pro.com/jonathan/contribution/doctor-obo1.htm
 
要約すると、日本文化の「流れ」を「村の文化」と「海の文化」に分けた上で、日本特有の精神的病理である「自分を殺す」思想というのは、「村=世間」を過剰に気にする精神的風土、すなわち「村の文化」がもたらしたものであるとする。
この病理の深刻さは学会員においても同様で、本来は自立的・開放的文化すなわち「海の文化」の典型たる日蓮仏法を信仰しているにも拘らず、その信仰態度は「おすがり信仰」すなわち「念仏文化」になりがちで、これを本来の日蓮仏法たる自立的信仰観、すなわち自己の内面に絶対の尊厳性を立脚する信仰観に戻すべきだ、というのが氏の主張なのであろう。
 
ここで誤解すべきではないのは、氏が講演の中で批判する「御本尊絶対」「大聖人絶対」というのは、あくまで『念仏文化』の「置き換え」すなわち「おすがり信仰」として言及しているにすぎないということである。
 
つまり、己心の仏性を事実上否定し、自己を一方的に“救われる”モノ的存在にすぎないと定義する信仰観を否定したにすぎないということだ。
 
その証拠に於保氏は講演の後半で、生死一大事血脈抄を引用し、
「大聖人と御本尊と自分自身とがまったく差別なしと解りて(信じて)、南無妙法蓮華経と唱え奉るところに生死一大事の血脈があるのです。
したがって、自分のことを60点と見る人は、御本尊のことも60点、大聖人のことも60点ということになりますね。まったく差別なしですから。
こういうのを謗法って言いません?」
と論じている。
 
ここで言及した「御本尊」とは曼陀羅本尊であることは明らかであるから、於保氏はここで、御本尊と大聖人の“絶対的”尊厳性を当然の前提とした上で、これと我々自身の尊厳性とは『同一』であるという意味で論じていることになるのである。
 
すなわち、於保氏は御本尊の尊厳性を否定したこともなければ、「御本尊不要論」を展開したわけでもないということだ。
 
「おすがり信仰」を否定することをもって、事実上の「御本尊不要論」の傍証として引用する発言は、まさしく「暴論」と断ずる以外にないであろう。
 
もっとも、於保氏の講演は、あくまで日本人特有の「自己卑下」の思想を打開すべく精神科医の立場から論を展開したのであって、そこには若干の「本覚」的傾向を指摘されても否定できないであろう。
 
そこで、池田先生はこの点につき如何に御指導されているのか、先月号の「大白蓮華」(No.710号/2009年3月号)から紹介したい。
 
************
 
「戸田先生は『自分が南無妙法蓮華経の当体だと思いきっていく以外にない』と言われていました。この御文(注)の通りです。そう思いきるといっても題目をあげきらなければ確信がつきません。ですから、ふだんの信心が大事なのです。
 
 思いきるといっても、『私は妙法の当体だ』といっても、観念論で終わってしまいます。事実の上で実感するのが題目です。題目をあげてあげ抜いていけば、それがもう妙法の当体なのです。
 
 題目をあげきっているならば、何があっても、恐ろしいことはありません。願いは全部叶います。
 
 それが、うまくいかないのは、ある程度までは信心はあるけれども、大事なところでは、やはり、確信を丸くして崩しているのです。本当に御本尊に題目をあげきり、御書通りに広宣流布のために『如説修行』することです。」

(注:『心と仏と衆生と此の三は我が一念の心中一念の心中に摂めて心の外に無しと観ずれば』(三世諸仏総勘文抄/567頁))
 
「大白蓮華」No.710号(2009年3月号/聖教新聞社) 22〜23頁

************

「妙法の当体だ」と言ってもそれはいわば「観念論」であって、事実の上で実感するためには「本当に御本尊に題目をあげきり、御書通りに広宣流布のために『如説修行』する」しかない、と御指導されているのである。
 
再度申し上げる。
事実の上で実感するためには「本当に御本尊に題目をあげきり、御書通りに広宣流布のために『如説修行』する」しかない、ということだ。
 
沖浦某およびそのシンパの論が、如何に暴論かがわかるであろう。



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