次に、
(5)授戒不要・塔婆不要・寺院不要・観念文改変等各邪義。
これは、池田創価学会が仏法の化儀を否定しておるところの邪義であります。
初めに「授戒不要」とありますが、この「授戒」ということは、仏法の上から絶対に大事なことなのです。これは「本門の本尊」「本門の戒壇」「本門の題目」とある三大秘法の中の「戒壇」の「戒」なのです。また「戒」は「防非止悪」ということからも、正法を正しく受持する上においては、その意味の正しい戒めがなければならないのです。その戒めをせずに「授戒不要」などと言うこと自体が、創価学会が三大秘法に無知であり、いい加減に考えている証拠であります。まあ、創価学会も一種の株式会社のようなもので、そのような考え方で多くの会員を組織内に取り込んでいこうというような考え方ですから、いい加減になってくるのでしょう。けれども、授戒をしないということは、仏法の本義を知らない邪義の姿であるということをはっきり申しておきます。
それから、次が「塔婆不要」ということです。皆さん方は、御先祖を深く敬って正しい意義において追善供養をしますね。これは先ほども言いましたが、我々の先祖は遡(さかのぼ)っていけば非常にたくさんいるわけです。その中において、近い先祖と遠い先祖の区別はありますが、戒名にしても俗名にしても、判っている方は塔婆にその名を書いて供養するということが大切なのです。
大聖人様も『中興入道御消息』に、
「丈六のそとばをたてゝ其の面に南無妙法蓮華経の七字を顕はしてをはしませば、北風吹けば南海のいろくづ、其の風にあたりて大海の苦をはなれ、東風きたれば西山の鳥鹿、其の風を身にふれて畜生道をまぬかれて都率の内院に生まれん。況んやかのそとば(卒塔婆)に随喜をなし、手をふれ眼に見まいらせ候人類をや」(御書一四三四頁)
と仰せのように、塔婆を建てることによってその建てた本人が功徳を受けるのみならず、その周りにいる畜生のようなものまでが、その風に触れて成仏をしていくという、法界全体の意義の上からの功徳をも御指南あそばされておるのです。ですから、塔婆供養ということば、常に、また時に応じて必要なのであります。
そのような大事な意義が塔婆供養には存するにもかかわらず、創価学会の連中は「そのようなものは必要ない」として、「御書根本」と言いつつ、その御書に違背するようなことを平気で言うわけです。
さらに、創価学会では昔から「なるべく寺へ行くな」と言っていたようです。皆さん方の中にも、このようなことを聞いた方もいるでしょう。つまり「寺などには行かずに、創価学会の会館に来て供養をするように」と常に言っていました。
それから最後に「観念文改変等各邪義」とありますが、この観念文の改変については、三宝破壊、なかんずく僧宝破壊の邪義が明らかでありますが、細論は省略します。
次に、
(6)学会主宗門従
この「学会主宗門従」ということは、創価学会の内部文書に、はっきりと書いてあります。つまり創価学会が「主」で、宗門が「従」ということは、一切は創価学会全体の外郭団体であると言っているのです。全くの思い上がりであり、自分らの発生の元を忘れた我見・邪見にほかなりません。
そもそも創価学会は、昭和五年に牧口常三郎という人が「創価教育学会」を創立したことに始まるのです。しかも、明治の頃に「直達講」という講中を作って活躍していた法華講の三谷素啓という人がおりましたが、その人が講頭を務める「直達講」に、牧口常三郎氏とか戸田城聖氏、さらには藤本秀之助氏というような人たちが入講して信心を始めた姿があるのです。そして「直達講」の三谷素啓氏が亡くなった後に、藤本秀之助氏は、現在の千葉県の弾正寺の元となった「弾正会」という信徒の集まりを作り、さらに牧口常三郎氏は「創価教育学会」を作って、現在の創価学会になったのです。
ですから、本来、創価学会は日蓮正宗の一つの信徒団体だったわけです。それがいつの間にか増長・増慢して、創価学会が中心で宗門はその一つの外郭団体であると言い出したのです。つまり、創価学会の外郭団体には民音や公明党など様々な団体がありますが、これらはみんな創価学会を護るために存在しておる。そこで宗門をもくるめて、これらと同様に創価学会を護るための一つの団体であると言うのです。このような本末転倒の悪見を「学会主宗門従」と言っておるわけであります。
よって、創価学会は過去においてここまで逸脱したわけでありますが、現在はこれにも増して、その変節無恥の暴慢が、なおひどくなっておる意味があります。
次に、
二、文証
創価学会が仏法の道理に違背していることについての文証は、大聖人様の御書にもいろいろな御教示があり、また現在では創価学会がこれまでに行ってきた悪事・悪行を破折した本などもたくさん出ていますね。
大聖人様の仏法を多少聞きかじった池田大作の「御書根本」などという文献偏重のような考え方は、根本的にその本人の考え方が間違っているわけですから、正しい意味において取り上げたのが、大聖人様の御書における四つの文証であります。しかし、もとよりその他にも彼らの誤りを示す御書の文証は枚挙(まいきょ)に暇(いとま)がないほど多いのであります。
創価学会の三宝不信、悪口言訟への誡めと拝すべき文。
○「日蓮が弟子等の中に、なかなか法門しりたりげに候人々はあしく候げに候」(上野殿御返事 御書一二一九頁三行目)
つまり、法門を一生懸命に勉強して自らの領解を喜んで人に伝えるのはよいことです。けれども、それがいつしか「私が偉いんだ」というように勘違いをしてしまって、それで「寺などには行かなくてもいい」「御講なんかは行く必要がない」などと慢心を起こして信徒の分斉を超過してくると、正法の化儀・化法を乱
すことになってしまうのです。そこに「法門しりたりげに候人々はあしく候げに候」と、つまりそのような者は悪いということをおっしゃっておるのです。
次は、
○「たとひさとりなけれども、信心あらん者は鈍根も正見の者なり。たとひさとりあれども、信心なき者は誹謗闡提の者なり。善星比丘は二百五十戒を持ちて四禅定を得、十二部経を諳にせし者なり。提婆達多は六万八万の宝蔵ををぼへ、十八変を現ぜしかども、此等は有解無信の者なり。今に阿鼻大城にあり云々」(法華題目抄 御書三五三頁十五行目)
これは「善星比丘」と「提婆達多」のことを挙げられております。
この「善星比丘」という人は、釈尊が出家する以前の太子であったときの子供なんです。この人も初めは釈尊に従って仏教を学んだのですが、そのうちに外道に縁をしたことによって、その外道の教えである四禅定という禅定を得た結果、これこそが本当の正しい教えであり、悟りであると勘違いをして、ついには釈尊に敵対するようになってしまったのです。
釈尊の足の裏には「千輻輪」という三十二相の一つがあって、釈尊が砂の上をお歩きになると、その足跡に仏様でなければ付かない千輻輪の模様が地面に付くわけです。それを見た人は「ああ、有り難い」と手を合わせるわけですが、それを善星比丘は後ろからどんどん消して歩くのです。そのように、妄信によって怨嫉を生じ、本当に無恥忘恩の行為がありました。
したがって、因果撥無の邪見を起こし、仏様に対して悪心を起こして誹謗した結果、最後は生きながらにして地獄に堕ちたということです。
それから「提婆達多」という人のことは、皆さん方も聞かれたことがあると思いますが、提婆達多は「六万八万の法蔵」を覚えたと言われております。
普通、一代仏教においては「八万四千の法蔵」ということを言うのですが、ではなぜ八万四千なのかと言うと、これは我々の命の中に八万四千の迷いがあるから、それを導くためと言われておるのです。たしかに我々の生活の中では、様々な迷いがたくさん出てくるわけですが、その種類を数え上げていくと八万四千の煩悩があると言われておるのです。その八万四千の煩悩に対して一つ一つ説かれておるのが「八万四千の法蔵」であるということです。
お釈迦様の一代仏教の法蔵、経蔵は、非常にたくさんありまして、それらが日本に渡って来たわけであります。現在では、それが『大正新脩大蔵経』などになっておりますが、その分厚い本が正篇・続篇を合わせると八十五巻、さらには図像部・総目録も合わせると百巻にもなるのです。その本を開くと、中は全部漢文で書いてあり、内容も非常に難しいことから、一ページを読むだけでも非常に時間がかかるのです。けれども、その広大な一代仏教も内容的に戒・定・慧の三学に括ることができるのです。
そういうことで、とにかく提婆達多は八万四千の法蔵に通じていたということです。
それから「十八変を現ぜしかども」とある「十八変」とは、これは仏菩薩が衆生を教化するために神通力をもって行う十八種類の術であります。すなわち、左右の脇から水や火を出す、身体の上下から水や火を出す、また地面を歩くように水上を歩く、逆に水上を歩くように地面を歩く、さらには空中から没して地に現れ、また地に没して空中に現れるとか、それから空中を行く、空中に住する、空中に坐す、空中に臥す、さらに大身を現じて虚空に満つとか、逆に大身から小身に変化するなどの様々な術のことを「十八変」と言い、このようなことを提婆達多が行ったということです。
しかし「此等は有解無信の者なり」。つまり、これは解は有るけれども信が無いのであって、そのような者は「今に阿鼻大城にあり」、すなわち今でも地獄に堕ちているということです。
ですから、池田のように法門を多少勉強して、その上で「御書に、このようにあるではないか」「『御善根本』である」などと偉そうに語っても、三宝に対する本当の信がなければ、必ず地獄に堕ちるという意義があるのです。それが、この御書の御文において拝せられるのであります。
次が、
○「智者・学匠の身と為りても地獄に堕ちて何の詮か有るべき」(十八円満抄 御書一五一九頁三行目)
大聖人様は、
「行学の二道をはげみ候べし」(御書六六八頁)
というように、仏教を学びなさいとおっしゃっているけれども、しかしここでは「智者・学匠の身」となっても、「私が一番偉いのだ」という我見に入ってしまうと、結局「地獄に堕ちて」しまうということです。
次が、
○「御文に云はく、此の経を持ち申して後、退転なく十如是・自我偈を読み奉り、題目を唱へ申し候なり。但し聖人の唱へさせ給ふ題目の功徳と、我等が唱へ申す題目の功徳と、何程の多少候べきやと云云。更に勝劣あるべからず候。其の故は、愚者の持ちたる金も智者の持ちたる金も、愚者の燃せる火も智者の燃せる火も、其の差別なきなり。但し此の経の心に背きて唱へば、其の差別有るべきなり」
これはつまり、入信したばかりで仏教のことを何も知らない人が唱える御題目も、すでに三年とか五年、信心をしている人が唱える御題目も、御題目の功徳においては全く違いがないと仰せられているのです。
私も御題目を唱えてから、七十年以上にもなりますが、その私の唱える御題目も、昨日入信したような人の唱える御題目も変わらないのです。ですから、有り難いんですね。
ところが、それが変わる場合もあるのです。それはどういうことかと言えば、「但し此の経の心に背きて唱へば、其の差別有るべきなり」。すなわち「此の経の心」に背いて唱えるところの御題目には、違いがあるというのです。ですから「此の経の心」に背いてはならないのです。
「此の経の心」の根本は信心であるけれども、そこに十四誹謗というものを犯すことによって、「此の経の心」に背くことになるのです。
「此の経の修行に重々のしなあり。其の大概(おおむね)を申せば、記の五に云はく」
この「重々のしなあり」という内容においては、摂受・折伏、受持・読・誦・解説・書写、その他いろいろな内容について様々な区別がたくさんあるわけです。その中において、特に法華経の『譬喩品』に、
「驕慢懈怠 計我見者 莫説此経云云(驕慢懈怠 我見を計する者には 此の経を説くこと莫れ云云)」(法華経一七五頁)
と、十四誹謗の元となる内容が説かれているのです。
摂受・折伏ということについて言えば、法華経を説いた釈尊は、熟益・脱益の化導ですから、大聖人様の下種の化導とは違うのです。ですから、釈尊の化導においては「本当に素直な心で聞きたいと欲している者には、この経を説きなさい」とあり、またその代わりに「暴悪な者に対しては、この経を説いてはならない」というような修行の姿も示されておるのです。ところが、末法の大聖人様の御化導は、そうではないのです。すべて下種の修行ですから、どのような者に対してでも説き聞かせる意味があるのです。その修行の中において、法華経の心に背く内容として十四のものがあるということが、この後に述べられておるわけです。
このことを詳しく説いておるのが、法相宗の慈恩大師窺基(きき)という人が著(あらわ)した『法華玄賛』であります。その中の教理においては「三乗真実・二乗方便」という根本的な間違いを犯しているけれども、『譬喩品』の内容においては、きちんと立て分けて説いてあるのです。
その慈恩大師が説いた内容を妙楽大師がお挙げになっているのが次のところで、その慈恩大師のことを妙楽大師は「有る人」と言っております。
「『悪の数を明かすをば今の文には説不説と云ふのみ。有る人此を分かって云はく、先に悪因を列ね、次に悪果を列ぬ。悪の因に十四あり」
この「悪の因」をうっかり犯していると、これが法華経の心に背くことになるわけで、その内容が次に示されております。
「一に驕慢・二に懈怠・三に計我・四に浅識・五に著欲・五に著欲・六に不解・七に不信・八に顰蹙・九に疑惑・十に誹謗・十一軽善・十二に憎善・十三に嫉善・十四に恨善なり』と。此の十四誹謗は在家出家に亘るべし、恐るべし恐るべし」
この「十四誹謗」ということは、我々が本当に気をつけなければならないことです。我々の命の中には濁(にご)っている面がありますから、信心をして御題目を唱えていても、十四誹謗を犯してしまうことがあるのです。けれども、純粋な「一心欲見仏」の信心により、しつかりと御題目を唱えて、その上で皆を救っていこうという気持ちになると、この十四誹謗は自然に消えていくのです。
そして、この十四誹謗は「在家出家に亘る」、つまり私たち僧侶や皆さん方信徒も犯すことがあるということですから、これは皆が気をつけなければならないのです。
しかし、後に述べますが、創価学会の在り方は、このすべてを徹底して犯しているのです。これをはっきり知るべきであります。
「過去の不軽菩薩は一切衆生に仏性あり、法華経を持たば必ず成仏すべし、彼を軽んじては仏を軽んずるになるべしとて、礼拝の行をば立てさせ給ひしなり(乃至)之を以て之を思ふに、忘れても法華経を持つ者をば互ひに毀るべからざるか。其の故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり。仏を毀りては罪を得るなり」(松野殿御返事 御書一〇四六頁十一行目)
つまり、我見・我欲において毀ることが一番悪いのです。創価学会は、自分たちの組織を守るために日蓮正宗を徹底して誹謗しておりますが、これはまさしく「法華経を持つ者」を毀ることになります。
私が「現代の一凶 創価学会」と題して、今、皆さん方に話をしているのは、これは毀っているということではないんです。邪悪な創価学会に皆が誑かされていくところを救う意味において破折をしているのです。ですから、これは決して毀ることにはならないということを申し上げておきます。
しかるに大聖人様は、正しい仏法を信心している者同士が、お互いに毀り合うことはよくないということを御指南であります。
ともかく、ここに「十四誹謗」を挙げておられることを鑑(かがみ)として見ると、このすべてが創価学会の思想と行為に当たっておることは恐ろしいほどであります。
次に、
三、現証
大聖人様は『妙法比丘尼御返事』の中で、
「謗法と申す罪をば、我もしらず人も失とも思はず。但仏法をならへば貴しとのみ恩ひて候程に、此の人も又此の人にしたがふ弟子檀那等も無間地獄に堕つる事あり」(御書一二五八頁)
と仰せであります。これは「仏法を信心しておるからいいんだ」ということで謗法を犯していると、無間地獄に堕ちることがあるという意味です。
この御文も、今の創価学会にぴったりと当てはまりますね。すなわち、多くの学会員が「但仏法をならへば貴し」と思っていて、それで「此の人も又此の人にしたがふ」というように、皆が池田大作や秋谷栄之助等に従っておるのです。しかるに、これら謗法を犯している池田大作をはじめとする多くの創価学会員は、大聖人様が「弟子檀那等も無間地獄に堕つる事あり」と仰せのように、無間地獄に堕ちることがあるということであります。
今、世間においては様々な災難・災害がテレビや新聞などでも報道されておりますが、そのような中で宗門の人たちは、不思議なことに、ほとんどがその難から守られているのです。
平成七年一月十七日未明の阪神・淡路大震災においても、法華議員の方は、ほとんど亡くなっていないんですね。しかるに、あの大震災が起こった前日、前々日には、創価学会があの地域において『ニセ本尊』を配布しておったのであります。そして、その直後にあの大地震が起こり、言うに言えないような悲惨な結果となったのであります。
それから、少し前の新潟県中越地震においても、日蓮正宗の檀信徒は、家がだめになった方は多少いらしたようですが、身体に被害を受けた方は一人もいなかったのです。
さらには、台湾においても大地震がありましたね。あれもかなりひどい被害が出たそうです。あの辺りには何千人という日蓮正宗の信徒がいるのですが、一人も被害がなかったのです。
それから、さらに被害がひどかったのが、先般のスマトラ沖大地震・インド洋大津波です。あの災害では、インドネシアだけでも十数万もの人々が亡くなっているんですね。その他にも、タイやスリランカなどの国々においてもかなりの人が亡くなっているのです。
その中で、特にインドネシアにおいては、日蓮正宗の信徒は数十万人もいるのです。しかも、そのインドネシアでは十数万もの人々が亡くなっているにもかかわらず、本宗の信徒は一人も亡くなったという連絡がないんですね。これは私も二回確認をしたのですが、やはり亡くなった方はいないそうです。
大聖人様は『新尼御前御返事』に、
「此の五字の大大曼荼羅を身に帯し心に存ぜば、諸王は国を扶(たす)け万民は難をのがれん。乃至後生の大火炎を脱(のが)るべしと仏記しをかせ給ひぬ」(御書 七六四頁)
と仰せのように、今生において守られ、さらに亡くなってからも地獄に堕ちるのを免(まぬが)れる、つまり現当二世にわたって災難を免れるということを、はっきりとお示しであります。そして、それがそのまま今日の日蓮正宗の信仰の中において、大功徳の現証としてはっきりと現れておるのであります。
したがって、皆さん方には、この姿をはっきりと知っていただいた上で、創価学会の邪義を破折し、一人でも多くの人たちを救ってあげることが大事であると思うのであります。
次に、
○十四誹謗と池田創価学会
驕慢・懈怠・計我・浅識・著欲・不解・不信・顰蹙・疑惑・誹謗・軽善・憎善・嫉善・恨善
まず最初の「驕慢」とは、「自らおごり高ぶる」ということで、慢心の意であります。この驕慢ということについて言えば、これは先ほどから話しておれば判る通り、池田大作ほど驕慢な人間はいないのです。彼の言動は、他の本にたくさん出ているけれども、その言動の内容が実に驕慢至極なのです。それもそうでしょう、自分は大聖人と一緒で、日興上人や御歴代上人などは必要ないというような考えの者ですからね。ですから、いくら大聖人の仏法を信仰しているからと言ったって、根本のところが驕慢で、法華経の心に背いて信仰しているわけですから、それでは絶対に功徳はないのです。
次の「懈怠」とは、「なまけ、おこたる」という意味です。これについて言えば、正しいことについて懈怠しているのが今の創価学会です。方向の間違った名聞名利の執われや嘘の宣伝、悪口誹謗、捏造等の悪いことばかりは行っているけれども、正しい信行の姿には懈怠しておりますから、これもやはり十四誹謗の懈怠に、はっきりと当たっておるのです。
三つ目の「計我」とは、自分自身の執着による我見をもって仏法を計るということです。これもまた創価学会にぴったりであります。
四つ目の「浅識」とは、「浅く識る」ということです。つまり、仏法ほど深い内容はないのですが、それをいとも簡単に「私は判った」と思うことです。これがまた今の創価学会の姿において、実にそっくりであります。
五つ目の「著欲」とは、「欲に著く」ということで、つまり欲に絡(から)んでありとあらゆることを行うことです。池田大作などは、宗門を支配するどころではなく、もう日本を、世界を支配しようという考えなんですね。これは池田が明言していましたからね。それも邪悪な考えでの支配欲、権勢欲などのありとあらゆる欲望が、この創価学会に存するのであります。
その他にも「不解・不信・顰蹙・疑惑・誹謗・軽善・憎善・嫉善・恨善」とありますが、時間がありませんので一つ一つの説明は省略いたしますが、これらもすべて今の創価学会に当てはまるのです。つまり一つ一つ解明していくと、この十四誹謗の全部が創価学会に当たっているということであります。
ですから、いかに創価学会が『松野殿御返事』の御文のごとく、法華経の心に背いておるかということであり、したがって彼らには正しい仏法の功徳はないということが明らかなのであります。
次に、
○大聖人の教えを掲げているようで、似て非なるもの創価学会。
創価学会では、一往は大聖人の教えを掲げているように言うのです。すなわち「大聖人直結」とか「御書根本」などと、素人騙しの言を吐くけれども、その実際は大聖人の正しい教えとは内容が違っておるのです。つまり似て非なるものが創価学会であるということです。
○暴力・罵声・ウソ・スリカ工・逸脱・デッチ上げ・カメレオン的変化・
この「カメレオン的変化」ということについて言えば、彼らは自分たちに都合のいいように、ぐるぐると言うことが変わるのです。今までも、どれほどいろいろなことが変わってきたことか。皆さん方も学会員と話していると判るでしょう。問い詰めていくと、詰まったところですぐに別の話にもっていくんですね。あれも「カメレオン的変化」ですよ。とにかく、都合が悪いとどんどん変わるんですね。ですから、そういうときは「元の話に戻しましょう」と、きちんと言えばいいと思います。
それから、
狡猾・独善・排他・謀略・怨念・貪瞋癡三毒充満の集団。
ここまで言うと、たしかに悪口のようにも聞こえますが、真実でないことをあえて作って言うことは悪口になりますが、彼らは衆生を欺瞞し、社会に悪い考え方を敷衍(ふえん)させていますから、やはりその実際の姿から、このように挙げたわけであります。
要するに、日本制覇・世界制覇の汚い野望目的のためには何をやってもよいという盲信・盲解。
創価学会では、目的を達成するためには手段を選ばず、たとえ嘘であっても百遍言えば本当になると言うごとく、勝つことがすべてだと言うのです。
けれども、そんな莫迦なことを言ってはいけませんよ。勝つとか負けるなどということ以上に、さらにその一切を含めた高い次元のところに大聖人様の仏法はあるのです。
「夫仏法と申すは勝負をさきとし云云」(御書 一一七五頁)
という御書の御文もありますが、その「勝負」という意味は、ただ何でも勝てばいいということではないのです。これは、正しい仏法は自然に法理法則においてあらゆる邪義を打ち破っていく姿があるということをおっしゃっておるわけです。ですから「何でも勝てばいい」とか、「どんなことをしても勝て」などということに執着した考え方は、大聖人様が仰せられる「勝負」の意ではないのです。したがって、何をやってもよいという考え方に大きな誤りがあるということであります。
○平成二年には、日蓮正宗支配を画策し、
ご承知の方も多いと思いますが、これがちょうど大石寺開創七百年の年なんです。この年は大石寺において大きな意義のある御報恩ができましたが、またその時に池田大作、創価学会が宗門に対してはっきりと反旗を翻してきたわけです。その結果、同年十二月に池田大作他十四名の総講頭・大講頭の資格が喪失したわけであります。とにかく日蓮正宗の支配を画策したのであります。
これに失敗したので独立を推進して正宗を徹底攻撃に転じた。すなわち、あくなき宗門攻撃と濫訴(らんそ)。
この「濫訴」というのは、池田大作の汚い根性での命令一下、あらゆることで日蓮正宗を困らせようということで、ありとあらゆる訴訟を起こしてきたわけです。それが例の墓理法(墓地、埋葬等に関する法律)に反しているなどと言ってきた問題や、さらに全国のあらゆるところで同時に起こしてきた正本堂解体の問題などですが、これらの訴訟については宗門がほとんど勝っています。まあ、なかにはこちらの多少の不備において負けたものもありましたが、そのような例は本当に二割にも満たないくらいなのです。これらの訴訟は、ほとんど彼らが提起してきたものであって、それでいて向こうが負けているわけです。
ですから、この濫訴というのは実にめちゃくちゃな、柄のないところに柄をすげるような訴えを起こすわけです。これが悪義非道の創価学会の姿であります。
最後は、
○学会が最も恐れるもの、それは真実を語られ、それを気づかれること。
このように創価学会は、陰では本当に悪義非道な行いをしておきながら、世間の人々に対しては、それらをうまく覆(おお)い隠して、いかにも日本や世界の人々が幸せになるために活動している立派な団体であるかのように印象づけようと一生懸命になっておるのであります。
ですから、むしろ創価学会は、彼らの本当の悪い体質、真実を語られること、またそれに気づかれることをたいへん恐れているのであります。
したがって、
我等はあらゆる面で真実を語り示すべし。
ですから我々は、創価学会員をあらゆる面から正しく導いていく上において、創価学会の真実の姿を、すなわち誤りの姿を、あらゆる人々に知らしめていくことが大切であると思います。
したがって、折伏教化ということにおいては、縁のある創価学会員以外の人たちを折伏し、教化していくことも当然、大事ではありますが、縁のある創価学会員に対しても「あなたは根本的に池田大作の邪義に騙されていますよ」「あらゆる道理・文証・現証の上からいっても創価学会は誤りですよ」と言って破折してあげることが大切なのです。とにかく、間違ったことを正しいようにねじ曲げて言っておるのですから、それに騙されてはいけないということを、相手が判っても判らなくても言ってあげることが大事であると思うのです。
そういう意味において皆さん方には、僧俗一致の上に、あくまで正義完遂の志をもって筋道を糾(ただ)し、邪義・邪法を破折し、創価学会の多くの人々を救っていこうという気持ちを持ってご精進されることを心からお祈りいたしまして、私の話を終わる次第であります。 |