第二次 アコンカグア 2011年2月

前回(2010年12月~2011年1月)につづき、なんとひと月後にまたアコンカグアです。
前回は、低温と強風のため登頂なりませんでした。わたし(林)にとっては、これで5回目のアコンカグアです。

2011年2月11日夜 (日本時間12日昼)

きのう、馬でBCに入りました。登山口から4時間と早いが振動で脳ミソがグチャグチャになりそう。
BCに到着直後、Nさんの体調は最悪のコンディションだった。でも、今朝のメディカルチェックはすんなりパスした。
1月から週1回、一泊二日で4回、富山の文登研に通ったのが効を奏したのでしょう。
戦々恐々だったメディカルチェックも無事通過したのでこれでお酒も解禁?

2月12日 21時 (日本時間13日09時)

午前中は晴れていましたが、昼からはまた天気が悪くなりました。
14日から行動を開始し、ニドデコンドレスの下のキャンプアラスカにC1を設営します。
15日はベルリン小屋にC2を設置し、16日にサミットの予定です。
メンバーの体調は回復しました。文登研での低圧室トレーニングの効果が効いているみたいで、順化は順調です。

2月14日 11時 (日本時間23時)

きのうときょうは天気がいいです。予定どおり今からBCを発ちアタックを開始します。サミットは16日の予定。天候次第では2次アタックを準備するつもりです。
衛星携帯電話のバッテリーの充電状態がよくなく、連絡が途絶えることがあるかもしれませんが、ご心配なく。

2月15日 10時 (日本時間22時)

Nさんの調子が悪くてBCに戻ってきました。
あす以降、再アタックします。

2月16日 10時 (日本時間22時)

今からBCを発ち、C1に向け再アタックします。プランは柔軟性をもたせており、C2のベルリンにタッチしたあと、状況次第で、またBCに下りてくるかもしれません。
きのうは、降雪や雷もあり、天候は相変わらず変わりやすい状況です。
持参した衛星携帯電話は、バッテリーが不調で、ワンコールができるかどうかといったところです。この連絡はBCに設置してある公衆電話によっています。連絡がなければ、BCより上部に上がっているものと思ってください。

2月18日 11時 (日本時間23時)

アコンカグア登山を断念します。
BCを撤収し、帰国までの残りの日はパタゴニアへ行きます。

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アコンカグア 2010年12月/2011年1月

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12月25日
カランクルン、アコンカグア登山隊は12月24日、成田を発って、カナダのトロントを経由して、25日、チリのサンチアゴに着きました。
今回のメンバーは、林、鈴木と会友の石川、池田の4名。4回目の林以外は、アコンカグアは初めてですが、皆さん7000m以上の経験のある方です。
経由地のトロントでは、待ち時間を利用して、ナイアガラ滝の見物に行きましたが、気温はマイナス10度位で、寒くて、見物もそこそこに空港に戻りました。
トロントから、10時間のフライトで、サンチアゴに着くと、そこは30度以上の真夏のクリスマス。どこもかしこも閉まっていました。
これから、デラックスなナイトバスで、登山拠点の、アルゼンチンのメンドーサに向かいます。

12月26日
アコンカグアの登山許可はメンドーサで取らなければならず、めんどーさ。
メンドーサの公園事務所にはNHKのグレートサミットの取材チームが来ていました。
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12月29日
ベースキャンプのプラサ・デ・ムーラス(ラバの広場)4260mにいます。天気が悪くて、この場所では過去に経験したことがなかったことで、なんと雪が10cmほど積もっています。
全員元気にしています。きょうメディカルチェック(健康診断)を受けます。もしチェックにひっかかれば、これより上に登ることが許可されません。

12月30日
ベースキャンプは天気が悪く、一面の銀世界です。
30日は5300m(C1)まで上がってきて、31日、1日は休養です。
1月2日からアタックを開始する予定です。
それまでに天気が回復することを願っています。

12月31日
今日と明日はベースキャンプで休養です。今、紅白歌合戦を聴いています。メンバー全員、よく食べて、よく飲んで、体力・気力とも十分です。2日朝、アタックを開始し、C1まで登ります。翌3日、少し行程は長く(標高差1600m)なりますが、C1からサミットを攻略し、C1に戻ってきます。
みなさん、よいお年をお迎えください。
こちらは、日本より12時間遅くなりますので、31日、お昼の12時に日本の新年を祝いました。
ちょうど、NHKのグレートサミットの取材班が来ていましたので、鏡餅、ぼうだら、田作り、きんとんなどで、新年を迎えました。

1月2日9時(日本時間2日21時)
ベースキャンプを出発します。雪が降っていましたが、上空の雲は、やや薄くなってきました。
衛星携帯電話のショートメールは、届いたり、届かなかったりで不安定です。

1月2日21時(日本時間3日9時)
C1(5570m)にいます。全員元気ですが、新雪が深くて山頂までは相当なアルバイトが予想されるため、明日はこの場所で停滞します。

1月4日11時(日本時間4日23時)
今、C1にいます。きょう、山頂を目指してC1を出発したのですが、強風と低温にはばまれ、標高6300mの地点で引き返してきました。メンバーの全員が凍傷を負っています。
この強風と低温は、さらに数日間続く見込みなので、下山することにしました。

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アイランドピーク 2010年10月/11月

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【メンバー:林孝治、Aさん(会友) 記:林孝治】
10月23日
アイランドピーク(6189m)に行くため、ナムチェに向かっています。
2年ぶりのエベレスト街道で、ルクラ以降はメールを送れないと思っていたのですが、ナムチェに近づくそれが可能となり、急速なモバイル環境の進展には驚きました。
今回のメンバーは会友のAさん(白峰)と林の二名、シェルパはラクパです。私は6回目のアイランドピークです。
今回のコースはカトマンズからエベレストの玄関口ルクラまで飛び、そこからエベレスト街道をナムチェまで行き、まず、ゴーキョピーク(5400m)に登ります。そのあと、榊原の亡くなったチョラツェの北側の峠(約5000m)を越えて、トゥクラでエベレスト街道に復帰、カラパタールに行ってから、アイランドピークBCに入ります。
今日はお天気も良く、ミヤモと榊原が速攻で登ったクスムカングルもきれいに見えています。

10月25日
今日はナムチェをスタートし、ゴーキョ谷に入る予定でしたが、祭りかと見間違うほどトレッカーが多く、宿泊予定地ではベッドを確保できないかもしれないので、2時間位手前のモンラという、ナムチェを見下ろす所に泊まっています。ここは電気がきていないのですが、携帯はバリバリに使えます。
ルクラから山道を一日半歩いて突如出現するナムチェ(約3500m)はまさに天空都市です。ネットカフェからヘアサロン、エステまで色々な店ができていて、品物も豊富で登山道具から生活用品まで、何でも手に入ります。そんなナムチェですから、モバイル環境もカトマンズと変わらないのです。
ここから奥も、エベレスト街道側は最奥のゴラクシェップ(5000m)まで携帯が可能だそうです。ゴーキョ側はまだ、そこまでいってないようですが、通じるようになるのはそんな遠くはないでしょう。
携帯はそれほど大きな設備投資、インフラ整備の必要はなく、ネパールのような貧しい山岳国にはふさわしい通信手段です。今まで、そのことがわかりながら、遅々としていたのは、マオイストとの内戦の影響でしょう。アンテナ建設が妨害されたり、破壊されたりして進まなかったのだと思います。
通信網が加速的に整備され、ヒマラヤ山中も情報化が進むと、「シェルパのふるさと」のおもかげは失われ、また青木さんのいうように寂しい気がするのですが、それでも平和になった証だと(政局は混乱していますが)、歓迎すべきことと思いました。カトマンズ路線の混雑、トレッカー、観光客が戻って来て増加していることもその証でしょう。
よく言われることですがまさに「平和あっての登山」です。

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11月5日
11月4日、ネバール時間9時45分、Aさん、林はアイランドピーク(6189m)に登頂しました。
2時30分にハイキャンプを出発し、ヘッドランプで岩稜地帯を登り、アイゼンを着けて上部氷河に入る頃にはローツェ、アマダブラムなど周りの山々がピンク色に染まって、黎明を迎えました。
約200mの急雪壁を攀ると頂上稜線で、クンブの山々が一望できます。
細い頂上稜線を慎重に辿れば間もなく頂上。
しばし展望を楽しんだ後、下降にかかり、急雪壁は懸垂下降で氷河に降り立ち、13時、ハイキャンプに戻りました。

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ハイキャンプで休憩後、キャンプを撤収して、一気に、最後のロッジのあるチュクンまで下りました。15時間位の行動時間で、疲れた一日でしたが、Aさんは元気でした。
今日、5日はパンボチェ(4000m)まで降りて来て、空気が濃い。
Aさんの調子がよく、行程が順調に予定より早く進んでいるので、明日はアマダブラムBCへ、そのあと、ナムチェからターメ方面に足を延ばす予定です。

11月7日
今日はパンボチェからナムチェに到着しました。
パンボチェで、今朝はやけにヘリコプターが行き交うなあと思ったら、早耳のシェルパ情報によると、アイランドピークBC(チュクンとの情報もある)に高度障害の英国人登山者のレスキューに向かったヘリが患者を積んだ後、おそらくアマダブラムの北面に墜落した模様で消息不明になっているそうです。
チュクン、アイランドピークBCともに5000m以上の標高があり、ほぼヘリの航行限界高度です。しかも、今朝は朝方はいつになく風が強かった。そんなことが原因したのじゃないかと推測されます。
今回のアイランドピーク登山、ゴーキョ、チョラパス、カラパタールと5000m以上の場所を巡った後でアイランドピークに入ったので、高度順応がうまくいきました。
それでも、途中ではレスキューのヘリが忙しく飛び交い、またトレッカーのみならずネバール人のポーターまでが担がれていく場面や亡くなったポーターが仲間の手によって運ばれていく場面にも遭遇しました。
私達は高度障害の怖さ、高度順応の必要性を頭では理解しているのですが、高度というものが、断崖絶壁や暴風雨のような生命にかかわる危険とは異なって、差し迫った危険性を感じないものてあり、また日本では経験しえない代物であるため、調子が良いとつい高度を稼ぎ過ぎてしまいます。高度、侮るべからずです。

11月8日
今回のアイランドピークは私にとっては6回目ですが、ハイキャンプからアタックしたのは初めてで、過去5回はいずれも、BCからアタックしBCに帰還するというパターンでした。
ハイキャンプからアタックするとなると、ハイキャンプまでの荷上げが大変ですし、高度順応がうまくいってないと、ハイキャンプでの宿泊は高度障害を招き、登頂は覚束ないと思っていました。
今回のアタックプランはラクパシェルパから提案がありました。Aさんの調子がよかったのとシェルパ族とライ族の二人の若いポーターが協力的だったのでそれに乗ることにしました。
ポーター達はチュクンから一気にハイキャンプまでアタック装備と宿泊装備と食料等を荷上げしてくれ、私達はトレッキングの装備でハイキャンプに入ることが出来ました。そして自分達は仕事を終えると翌日の昼頃、再びハイキャンプに登って来ることを約束して、さっさとチュクンよりさらに下のディンボチェまで帰って行きました。ディンボチェまで降りるのは、彼らの食事代が安いからだそうです。彼らにとってはチュクンからハイキャンプに荷上げをして、ディンボチェまで下り、さらに翌日、ディンボチェからハイキャンプまで登って来て、チュクンまで荷下げをすること位、訳のないことのようでした。
当初の情報では、BCのみならずハイキャンプもたくさんのパーティーが入っているとのことでしたが、BCには多くのテントがあるものの、ハイキャンプに泊まったのは私達だけで、静かで展望のよいサイトでした。
このようにアイランドピークにはうまく登頂し、下山することができたのですが、その一方でひやり、はっとすることがありました。
アイランドピークに登頂して、下山にかかり、急雪壁も懸垂を繰り返して安全地帯に降り立ち、Aさんが懸垂のセットを解除している時です。
阿部さんの頭に後続パーティーが落とした拳大の氷が命中し、Aさんが悲鳴をあげました。すぐに頭部を点検すると頭頂部に2~3cmの傷があり、出血していましたが、幸い頭蓋骨折や頭蓋内出血は無いようで、止血処置を施して、ハイキャンプに向かいました。
岩稜地帯での落石、転落に備え、Aさんには私のヘルメットを被ってもらっていましたが、上部氷河に入ったところで、ヘルメットは必要ないと判断し、ヘルメットをデポしてしまっていました。間隙を突かれてしまいました。
そのヘルメットのデポ地点まで来ると、デポしたヘルメットがない。さては盗られたかとがっくりして下山していると、しばらくして100mほど下のクレバス地帯に転がっているヘルメットが目に入りましたが、危険過ぎて回収することができません。諦めるしかしょうがない。
風で飛ばされるような状況でもないし、誰かが投げこんだとしか思えないのですが、もしかしたら「世間の非常識」をしている私に対する山の神の怒りが爆発したのかもしれません(笑)。

今日のナムチェの宿では、二人の地元の人が、ガイドのラクパシェルパに対して私のことを「ポルツェ村」の人かと真顔で尋ねて、「日本人だ」とラクパが答えると驚いていました。
「ポルツェ村」はナムチェからはエベレストビューホテルの向こう側、ゴーキョに行く道の対岸にあるシェルパ族の村で、私も何度か訪れたことがありますが、そこに住む住民はナムチェの人達と変わっている印象は特にありませんでした。
ネバールでは、私はよく、ネバール人と間違われ、ネバール語で話しかけられることがあります。ある時、ネバールに入国する際にパスポートを係官に提出したら、それを透かしてみて本物だとわかると「お前はどこでこれを手に入れたのか?」と言われたことがありました。
でも「ポルツェ村の人」とピンポイントで特定されて、間違われたのは初めてです。
ラクパの解説によると、エベレスト街道沿いは訪れるツーリストが多く、それに接しているので、みだしなみを良くするため、よく顔を洗って色が白いが、ポルツェはツーリストがあまり来ないので顔を洗わず、色が黒いそうです。
ツーリストの有無によって顔を洗うというのはマユツバでしょうが、同じシェルパでも微妙に肌の色が異なり、黒い肌の人の代名詞でポルツェの人と呼ばれるのかもしれません。
とにかく、今の私は(日焼けして)よっぽど黒いようです。

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トリスル1峰 2010年8月/9月

Blog

【メンバー:林孝治、松岡紀子、斉藤留美子 記:林孝治】
8月17日
本日より、山の中に入り、パソコンや携帯電話での連絡はできなくなりました。
持参した衛星携帯電話(スラーヤ)は谷の中で電波状態が悪いですが、明日になれば谷を抜けて電波状態も良くなると思います。
みんな元気です。

8月27日
みんな元気にBCに向かっています。
トリスル1峰登山隊は8月25日、ランドルをスタートし、途中2か所通行止めにあい、昼ごろガートに到着しました。バスを捨て、ジープ3台に隊員と荷物を満載して車道の終点に至りました。
ここで、約40人のポーターと合流し、約2時間でシタルという村に到着し、山中1日目のテント泊です。
翌26日、キャラバンがスタートし、最奥の村ストールを通過し、村はずれの河原に2泊目。
27日、すばらしい晴天。久しぶりの太陽です。しばらくすると、樹間からトリスルとナンダグンティがよく見えました。道は極端に狭く、ポーター泣かせの道です。ぐんぐん登り、標高3000m付近で3泊目。明日はBCに到着の予定です。
途中の橋が落ちているとの情報があり、どうなることやら。
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写真上:河原でキャンプ 写真下:ナンダグンティ(左)とトリスル1峰(右)

8月30日
トリスリ1峰登山隊は8月28日、心配した橋も問題なく通過しました。
橋を渡ると、ジャングルから一面のお花畑にかかり、標高差500m登り、標高4000m付近に宿泊。
8月29日、川の上流からモレーン上に向かって、お花畑を満喫しました。エーデルワイスやブルーポピーが咲いていました。
11時頃、4200m付近に適地があったので、BCとし、ポーター達は荷物をおろすと、すぐに帰路につきました。
午後からはBCの整備と装備のチェックと乾かし物で過ごしました。
8月30日は朝からシェルパによるプジャ(安全登山祈願祭)を行い、登山の安全と全員の無事下山を祈願しました。
シェルパ達は早速、C1へのルートの確認と荷上げに向かい、下部岸壁の上部に達し、ロンティー氷河のほとりにC1の適地を確認しました。
前田さんと松岡さんはホムクンド方面に4800m付近まで順応に上がってきました。
斎藤さんと林はBCでハイキャンプの食料の種分けをしていました。
明日31日は前田さんが帰路につきます。
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写真上:プジャ  写真下:C1へ向かう

9月5日
トリスル登山隊は、前田さんを見送った翌日の9月1日にBCを出発してC1にはいりました。
BCからホムクンドというシーク教徒の聖地になっている湖を通過し、下部岸壁の裂け目に入っていきます。ここはまるで剣岳の池の谷(イケノタン)ガリーのようで両岸の岸壁からの落石が堆積していて、それが歩を進めるたびに、ずり落ちるありさまです。
そこを登りきるとC1で、トリスル西壁が立ちはだかっています。
その下にロンティー氷河がゆるやかに広がっていました。
9月2日はC1からC2を目指しましたが、途中で雷雨となり荷物をデポしてC1に戻りました。
9月3日、再びC2を目指して出発。平たい氷床部を通過し、クレバスの多い雪面を登って、約5800mにC2を作りました。
9月4日は朝からBCに戻る予定でしたがホワイトアウトでルートがわからず、テントで待機していたところ、昼過ぎにシェルパが登ってきてくれてトレースをつけてくれたので、雨の中を下りてきました。
夕方になってずぶぬれになりBCに帰ることができました。
今日、9月5日はBCで干し物の予定でしたが、一日中雨でテントにくすぶっていました。
後、2日程、BCで休養の予定で、晴れてくれればいいのですが。

9月9日
トリスルは、すっきりしない天気が続いています。入山以来、一日たりとして晴れ渡った日がありません。BCで休養していた3日間もほとんど雨でした。
BCでの雨は、上部では重い湿雪だったようで、9月9日、C1まで上がったみたところ、テントが雪の重みにより潰れてしまっていました。いったんBCまで撤退し、あすはC2の様子を見に出かけるつもりです。
また、C2から最終キャンプC3予定地までのフィックスロープの工作は、すでに終わっていますがルートの状況が心配です。
目下のところ、再アタックの態勢が整うのは9月12日の見込みです。

9月10日
9月10日、きょうの午前中はいい天気でした。午後は少し雷雨がありました。
C1での新たな積雪が30cmほどあります。潰れたC1テントは補修ができそうで、今夜は、松岡、斉藤がC1にとどまっています。DA GELJE 、DAWA のふたりのシェルパはC2まで登りました。林はBCにいます。
もう一度、全員がBCに下りることも考えていましたが、このまま行くことにしました。
あす9月11日、全員がC2に集結します。
9月12日にC3(6300m)、9月13日にC4(6800m)を作ります。そして9月14日は7120mのサミットです。

9月12日
きのう9月11日、全員がC2に集結しました。しかし、夜からきょうの午前中にかけて雷を伴った降雪がありました。新たに積もった雪は30cmほどになります。
ここから上(ブログトップ写真を参照)は、いかにも雪崩の直撃を受けそうな斜面です。くわえて、C3予定地まで張ったフィックスは、ちょうど雪崩の走路にあるうえ、そのすべてが雪の下に埋まってしまっていますので、掘り起こしにも苦労しそうです。
ともかく、積雪が安定しない状態では登ることができませんので、あすもまたC2での停滞を余儀なくされそうです。
メンバーの日程的なタイムリミットも迫ってきていますので、ここ数日が思案、決断のしどころになりそうです。

9月14日
断続的に雪が降り続き、行動ができないまま9月14日にはC2自体に雪崩の危険性が高まってきて、やむなく登頂を断念し、BCに全員が帰着しました。
これをもってトリスル1峰の登山活動を終了することとします。
ご支援、ご声援いただいた皆様には厚く御礼申し上げます。

9月22日
18日のBC撤収に向け、17日中にポーター達がBCに上がって来る予定でしたが、到着せず、18日の午後になって到着し、したがってBC撤収が19日にずれこみました。
17日は終日、雨。18日はみぞれから雪になり、周りの山も冬山の様相となり、BCも私たちが到着以来、初めて雪に覆われました。午後からは雷鳴が轟いて、バケツをひっくり返したような雪がテントを襲い、突風が吹いてキッチンテントやダイニングテントが潰され大騒ぎ。以前も経験したことがあるのですが、懸垂氷河などの上に溜まった雪が一挙に落ちたのかもしれません。
19日、BCを撤収して帰りのキャラバンが始まります。下るに従って、雪は雨になり、もともと踏みあと程度だった道も川になり、飛び石で渡れた所も激流で、ロープを張っての膝から腰の渡渉となり、全身ずぶ濡れ。いたるところで斜面が崩れ、そこに巨岩がひっかかっていては、いつ落ちてくるやも知れずハラハラドキドキ。
思えば、20年前、トリスルから50Km程離れた場所で、別動隊の下山ジープのフロントガラスに人頭大の岩が飛び込み、1名死亡2名重傷。あのときも天気が悪かった。どうも私はインドとの相性が良くないらしい。
屋根があるところで泊まろうと最奥の村まで頑張り、最後尾が到着したのは午後9時前でした。
20日は雨も上がり、青空ものぞいています。今日中には車道の終点に至り、歩きも終わりかと思うとポーターもスタッフもウキウキ。私たちも疲れた体にムチを打って、幾つもの谷を越え、山を越えました。やはり至るところで土砂が崩れ、木々がなぎ倒され、中にはまだパラパラと土砂が落ちていて、今にも山が抜けそうな箇所もありました。
それでも、午後になってやっと車道の終点の村に到着し、ヤレヤレと思ったのですが、村人の言うことには、20Km先のジープの拠点となる町ガートとの間の道路が寸断され、ジープが上がって来れないと…。
仕方がありません、もう一晩、キャンプです。1時間ほど下った川のそばでキャンプ。川がゴウゴウと流れていました。
21日も晴天で、標高が下がったこともあって、強烈なインドの日差しが戻ってきました。
車道とは対岸の古くからの山道を行きます。この山道も小規模な崩れはありましたが、急ごしらえの車道とは違って、被害も小さい。
昼前にガートに着き、デリーからの迎えのバスが来ているはず。でも、バスは17日にデリーを発ったにもかかわらず、まだ途中で立ち往生していると言う。
仕方がないので、ジープをチャーターして進めるところまで進み、あとは歩いてこの地方でも比較的大きな町のスリナガルにたどり着きました。

9月24日
スリナガルに着いた時には明日(22日)にでも道路は開通するだろうとのことでした。それなら20Km程先で立ち往生しているバスも昼頃にはやって来て、デリーに戻れると楽観的に構えていました。
それがシェルパが持ち帰った情報では、一両日の開通はとても無理とのことでした。
それで、急遽、ポーターをかき集め、ジープをチャーターして、22日の昼前にスリナガルをスタートしました。
あちこちでずいぶん土砂崩れ、道路の崩壊がありますが、なんとかジープサイズの車が通れる幅は開けてあります。しばらくして不通箇所の先端に到着。両側から2台の重機が土砂の取り除きをしています。さすが大国インドです。ネパールではおそらく人力でやっていることでしょう。
いまだ土砂や岩がパラパラと落ちてくる中で作業が続けられていました。その間を縫って、こちらからも、あちらからも人が渡って行きます。通れる時に通っておかないと、人もいつ通行止めになるかもしれません。
バスが待っているのは3Km程先ですが、その間にはたくさんの土砂崩れ箇所があり、そのうちの一ヵ所では重機が横転していました。私の目にはとても2、3日での復旧は無理で、バスやトラックが通れるようになるには大国インドをもってしても2、3週間かかるように映りました。
当初の情報では1500台の車が開通を待っているとのことでしたが、さすがに5日目ともなると、引き返した車が多いようで、2~300台の感じです。
やっと迎えのミニバスに合流できました。5日間も車中で過ごした使命感溢れた(?)運転手も喜んでいました。
早速、デリーに向けて出発です。インド平原がはじまるリシケシまでまだ100Km以上恐ろしい山道が続き、崩れたところ、崩れそうなところもたくさんありましたが、幸い不通区間は無く、夕方にはリシケシに到着。ホッとしました。ここまで来ればデリーまでの間、山はありませんので、土砂崩れ、落石の心配はありません。川が溢れても迂回路がありますのでもう大丈夫です。
19時頃、ハリドワールに到着。雑踏、喧騒のインドに戻ってきました。
今日23日、ハリドワールからデリーに向かっています。道路も大丈夫なようで、今日中にはデリーに到着できそうです。


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ラクパ・リ(2009/09)

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【ラクパ・リ通信 第1号 記:林孝治】2009/09/04
中国、チベットのラクパ・リ(7043m、「リ」はチベット語で「峰」の意)に登るためにネパール・カトマンズに来ています。メンバーは、斎藤留美子さん、石川清流さんと林です。
斎藤留美子さんは、舞鶴在住で、遠隔地をものともせず、毎週大阪まで、中級登山学校を受講するために通い続けた元気娘です。一昨年のデナリ(マッキンレー)、昨年のメラピーク&バルンツェに続いての海外遠征。昨年は、7000mまで達したものの、登頂を逃し、今度こそは7000m峰の頂上に立ちたいと燃えています。
石川清流さん(61)は、愛知労山の「山の会くらら」に所属。30年程前は、冬壁もやっていて、アイガー北壁にもトライしたオールドクライマーですが、そのあとは仕事で、山から遠ざかっていました。昨年11月、奥様に先立たれ、「ぽっかり空いた心の空白」を埋めようと山に復帰。ヒマラヤ初見参ですが、今回のラクパ・リ遠征に参加されました。

8月26日、カトマンズに着き、早速、27日からランタン山群のゴサインクンドに順応に行ってきました。標高の低いところでは、ヒルが出迎えてくれましたが、2500mを過ぎると、ヒルも出てこず、トレッカーもいない静かな貸切トレッキングでした。
本来ならモンスーンのこの時期ですが、今夏は、記録的な少雨とかで、トレッキング中も合羽の出番はありませんでした。
当初は聖地ゴサインクンドから同じ道を引き返す予定でしたが、カトマンズからドンチェまでの長いバスにうんざりだったので、ゴサインクンドを抜けてカトマンズ近くまで歩いて帰ることにしました。
この道は、私は20年ほど前に歩いていますが、以前は、汚いロッジが少ししかなかったのですが、今ではロッジもきれいになって、人気コースになっていることを物語っていました。長い尾根を下って、途中から美人の里ヘランブーに降り立ち、そこからバスでカトマンズに戻ってきました。
カトマンズで休養、準備をしたあと、いよいよ今日から陸路チベットに入り、ベースキャンプに向かいます。
また、所々で通信をお送りしたいと思います。

【ラクパ・リ通信 第2号】09/05
またまた、チベットに来ています。6月以来、3ヶ月ぶりです。昨日はカトマンズを出発して、ヒマラヤに向かって4時間程走り、どんづまりの国境の町コダリでネパールを出国しました。先日も逆コースでここを通過してネパールに入りましたが、ここから中国に入国するのは1994年のシシャパンマ遠征以来です。
人民解放軍の若い兵士が警備する友誼橋を渡り、近代的なイミグレーションで、中国・チベットの入国の手続きをします。ここは少数民族独立の動きを警戒して、チベットに暴動が起こるたびに閉鎖される国境です。今回も新疆での暴動の余波を心配しましたが、無事に入国。でも、書籍類のチェックは入念でした。ダライ・ラマ関係の書籍の持ち込みを警戒しているのでしょう。
ここで、時計を北京時間に合わせて2時間15分進め、日本との時差はマイナス1時間になりました。 
ここからは、チベット登山協会(TMA)の迎えの車で、ジグザグ道を標高差500m程を登って中国側の国境の町ザンムー。
一本の車道を挟んで、急な斜面に鉄筋の建物がぎっしり立ち並び、あたかも、熱海温泉のような光景です。中国の都市部からすればこれでも粗末な建物でしょうが、バラックの並ぶネパールから来れば、ヒマラヤ山中の空中都市のようです。
ザンムー周辺はヒマラヤの急斜面ですから、雨季になると土砂が崩れて車が通れなくなります。そんな時はネパール人ポーターの人力で向こう側に荷物を運び、別の車に積み替えて、前進するのですが、このところ、通行に支障は無いようです。でも、拡幅や土砂止めや舗装の工事が昔からなされていて、今春以降、昼間は全面通行止めで、作業の終わる午後6時頃以降でなければ通行できません。そんな訳で、3時間程、ザンムーで時間をつぶし、19時頃、やっと宿泊のニェーラムに向かってスタートしました。
坂道の両側には通行止め解除と通関、積み込み、積み降ろしを待つ、ネパールと中国のトラックが一分の隙間もないほど、ぎっしり駐車していて、その間を縫って、時には対向車をやり過ごすチベット人運転手のテクニックには舌を巻きます。
工事区間を過ぎれば、後はほぼ舗装された道で2時間ほどでニェーラムの指定の旅社に到着。富士山山頂と同じ高度です。
TMAのメニューでは、ここで2泊して、高度に順応した後、先に進むことになっているのですが、私逹はネパールで順応してきたので、1泊だけして次の宿泊地ティンリーに向かうことになりました。
ただ、急な変更のため、朝6時の出発です。チベットの6時といえば、日の出前の4時頃の風情で、まだ真っ暗の中を出発して来ました。ニェーラムから暫くで5000mの峠を越え、ここからはシシャパンマが間近に望めるのですが、まだ真っ暗で何も見えませんでした。でも、ティンリー近くではチョモランマが姿を見せました。チョーオユーは頂上部が雲に覆われていましたが、その巨大な存在感を示していました。
ここティンリーはチョモランマやチョーオユーのBCへの入口で、TMA御用達の旅社には登山隊が続々と到着してきています。
明日は私達もチョモランマBC=ラクパ・リBCに出発します。

【ラクパ・リ通信 第3号】09/06
ティンリーからのガタガタ道を卵と中国製テルモスを抱えて4時間、チョモランマBC(5000m)に到着しました。あいにく、チョモランマは雲の中です。
ここにはたくさんの観光客目当てのテント掛けの土産物屋、食堂、旅館から郵便局まであります。また、少し手前のロンブクには中国移動通信の巨大なアンテナがあって、私の携帯もバリ3で入ります。
登山隊のBCはさらに車で10分ほど走った奥で、天気が良ければ、このテント村こからもチョモランマが間近に望めるのですが、ツーリストはシャトルバスで登山隊のBCを往復します。
登山隊のBCには公安(警察)のチェックポストがあり、ヘビーチェックで、ツーリストはここから200mほどしか進めません。TMAの連絡官もここに滞在していて、登山隊との連絡調整に当たります。 
私達は早速、隊員テントや食堂テントを張り終え、我が登山隊のBCが完成しました。私達はここに3〜4日滞在し、ABC(前進BC、約6300m)の高度の順応を得た後、ABCへと進みます。
ところで、今回はいつものラクパ・シェルパは来ていません。本当は彼が来る予定で準備をしていたのですが、出発の1週間前に、彼は「チョーオユーの仕事が入ってたのでラクパ・リには他のシェルパをやるから安心してください」と言ってきました。実入りのいい仕事に走ったのです。強く抗議したのですが、私たちがカトマンズに着いた時には、私たちの段取りは整えて、チョーオユーに出発してしまっていました。
それで、彼の代わりに来たシェルパはダワというシェルパです。どこのダワかと思っていたら、何とエベレストにネパール側、チベット側から合わせて12回参加。うち8回登頂。しかもエベレストのネパールBC〜頂上〜BCを20時間の最短記録を持ち、その他8000m峰多数と言うとんでもないやつでした。
彼は7000mを少し越えるラクパ・リの我々弱小登山隊のためにかいがいしく働いてくれています。ネパール人コックを今回は連れて来ていません。ネパール人もTMAに高い登山料を払わなければならず、経費削減のためです。その代わり、チベットのキッチンボーイを雇用して、彼に食事の準備をしてもらうということで、ダワが何度か一緒に仕事をして信頼できるというカッサンという男を連れてきました。「瓢箪から駒」と言うのでしょうか? これからのダワの活躍に期待しています。

【ラクパ・リ通信 第4号】09/09
昨日、今日とBCでゴロゴロしていました(これも高度順応の一環です)。朝、早くから中国人の観光客がシャトルバスでやってきて、大きな声で話したり、テントを覗かれたりしています。私たちのことをチョモランマ登山隊と思っているようですが、訂正するのも面倒なのでそのままにしています。
明日は、BCの裏山に6000m位迄登り、明後日、ABC(6300m)に向けて出発します。
現在、チョモランマには七大陸最高峰単独無酸素というのを売りにしている北海道の栗城さんがメスナールートから狙っいるそうで、15人のシェルパと入っています。春のマナスル近藤隊のボチボチトレックのハンドリングですから、顔見知りのシェルパがいるかもしれませんが、彼らはBCにテントだけを残し、全員がABCに上がっています。
もう一隊、スペインの3人がジャパニーズクーロアールからアルパインスタイルで目指しているそうです。彼らもABC以上に行っているようです。毎年、春季には何十人、何百人と登頂するチョモランマ(エベレスト)ですが、秋季の登頂記録は乏しい上に、今日のチョモランマは真っ白になっていて、なかなか厳しいものがありそうです。
ラクパ・リのほうは、既に2隊が敗退して下山、数日後、イギリスの大きな隊が入ってくるようです。したがって、BCでゴロゴロしているのは私たちの隊だけです。
ところで、先日、我が隊のダワ・シェルパの経歴を紹介しましたが、正確にいうと、2006年チョモランマのチベット側ABCから夜の9時にスタートして頂上が朝の8時40分、そのままネパール側に縦走して、ネパール側BCに到着したのが夕方5時15分、所要時間20時間15分という世界記録だそうです。
2011年にはこのBCからスタートして、ネパール側BCまで18時間台という記録を作りたいと言っています。
また、彼は2006年、群馬の名塚さんが雪崩で亡くなったアンナプルナに参加していて、名塚さん達より先に安全地帯に抜けていて、難を免れたと…。
ところで、今日はロンブク僧院にお参りに行って来ました。BCから徒歩で30分程下った所、小高い岩山に溶け込むようにあり、タルチョ(五色の旗)がなければ見落としてしまいそうです。 
この僧院は、チベット動乱の際、侵攻してきた人民解放軍により破壊された僧院です。5km位下流には、再建された現在のロンブク僧院があり、ここには、政府の建物やホテルの他、中国移動通信の巨大アンテナがあります(そのおかげでこうしてメールが送れます。)。
私たちが訪れた古い僧院には一人のラマ(僧)がいて、私達を案内してくれました。本堂に本尊はなく、本堂の地下に自然のトンネルがあり、ヘッドランプを付け潜り込むと、バターランプに照らされて、小さなご本尊と先代のパンチェンラマ(チベット内における、ラマ教の最高指導者)の写真が祀られていました。ここで、登山の安全と成功を祈願し、石川さんは昨年亡くなった奥さんの供養をされていました。ラマに奥さんが昨年亡くなっ たことを告げると、ラマは毎朝、奥さんのためにお経をあげておきます、と言うと、石川さんの目には光るものがありました。
人民解放軍がこの地下に雪崩込んで来るまで、当時のラマはこの地下で祈り続け、そしてチョモランマの反対側、タンボチェに山を飛び越えて行ったとの言い伝えがあるそうで、その証拠にここにあるラマの足形、手形と同じものががタンボチェにもある、と足形や手形を示してくれました。
その後、破壊されたたくさんの僧坊、チョモランマで亡くなった人を荼毘にする場所のわきを通り、修復中のお堂に案内され内部を見せてくれました。仏様を安置する仏壇が出来上がっており、それに彩飾する15〜20歳位の5〜6人の若い絵師のグループが携帯電話片手に楽しそうに働き、ラマもそのできばえを嬉しそうに、誇らしそうに私たちに説明してくれました。ここは、中国人や政府の援助は無く、ここを訪れたチベット人とチョモランマの登山隊の喜捨だけで修復し、数週間後には完成して、その暁には新しいロンブク僧院からはもとより、チベット各地から高名なラマが来て、法要が営まれるそうです。

【ラクパ・リ通信 第5号】09/21
通信が途切れ、遅くなりました。
カランクルン ラクパ・リ登山隊(林隊長、石川、斎藤)の3名は9月16日14時30分、全員が登頂しました。頂上からは8000m峰のマカルー、ローツェ、チョモランマ、チョーオユー、シシャパンマが指呼の間に望め、眺望は比類無きものがありました。

10日、チョモランマBC(5200m)をヤク7頭でスタートし、東ロンブク氷河に入りC1(5500m)まで。11日はチャンツェ氷河の合流点のC2(5800m)まで。12日、ABC(6150m)に到着。 
通常はABCまで、C1、C2間のミ ドルキャンプ(5700m)に1泊して入るようですが、私たちは、ゆっくり順応しながら、2泊3日でABCに入りました。チョモランマを知り尽くしているダワだけあって、初期順応の重要性を彼は何度も私たちに話していましたが彼と私たちとの合意によるものです。
私たちのABCは、通常チョモランマ隊がABCを設ける地点(6300m)の40分位下、チョモランマのノースコルからの支氷河が合流するあたりの左岸、モレーン上です。東ロンブク氷河の対岸に私たちの目標のラクパ・リが聳え、氷河を横断するには、このあたりが最短距離になるからです。
13日、14日と休養。雲一つ無い快晴で、終日、頭上にチョモランマが見え、ネパール側のモンスーンは明けたかのようです。
14日、栗城隊のABCを訪問しました。栗城さん自身は上部に上がっていて、不在でしたが、ハンドリングしているボチボチトレックは春のカランクルン・マナスル隊もハンドリングしていましたので、見知っているシェルパもいました。シェルパは9名で、彼らはノースコルまでサポートして、それ以降栗城さんは単独で頑張っているようです。
また、テレビの撮影チームが入っていて、シェルパを集めて、シェルパソングの撮影をしていました。ダワ情報によると、このテレビチームは無許可のため、私たちの撤収後、TMA(チベット登山協会)によってカメラをBCに下ろすよう命じたられたようです。チョモランマは第一級の国家財産ですから、1万ドル単位の撮影料が要求されるのです。
15日、ラクパ・リを目指してABCを出発しました。
まず、東ロンブク氷河に入り、迷路のようなセラック(氷塔)帯を抜けます。幸い、深く大きなクレバスは無く、1時間半程でセラック帯を抜けました。でも、セラック帯は左岸寄り、氷河の10分の1程度で、あとは広い雪原状となっていて、その雪原を、クレバスを大きく迂回しながら、ラクパ・リから落ちてくる氷河の左端、岩稜とのコンタクトラインを目指します。そこからコンタクトラインに沿って登り、6500m位の所に快適な広い岩棚があり、テント2張でハイキャンプとしました。
キッチンボーイのカッサンが荷上げをしてくれ、大いに助かりました。彼は、その日ABCに戻り、翌日、荷下げに再びハイキャンプに上がってくる予定でしたが、そのまま、寝袋無しでハイキャンプに泊まり、私たちの食事の世話をしてくれました。実際、氷河沿いのABCよりも、ここの方が遅くまで日当たりもよく、暖かい一夜でした。

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                    (HCから頂上へ)

16日、1時間寝過ごし、8時40分のスタート(マイナス2時間15分のネパール時間の方が現実的です)。ここからは、ダワ、石川組と林、斎藤組でコンテで登りました。所々、大きなクレバスがあり、それを迂回して頂上直下の急な雪面に出ます。時々、ビシッという大きな音がして、肝を冷します。雪面が何百メートル四方に渡って、50センチ四方大のジグソーパズルのように、一挙に崩壊する乾雪板状雪崩は以前経験していますので、それを警戒しながら一直線に登り、頂上に到着しました。

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                   (奥さんと共に登頂)             

ラクパ・リはチョモランマの陰に隠れて冷遇されていますが、比較的短期間で登れ、技術的な困難さが少なく、それでいて眺望は最高で、なかなかいい山だと感じました。
登山隊は無事、ABCに戻り、そこを撤収して、C1で1泊して、BCに帰還。BCでは、たくさんの中国人観光客と同様、チベット人経営のテント掛けの旅館に泊まり、昨日、一挙に国境の町ザンムーまで降りて来ました。
今日はネパールに入国してカトマンズに到着します。
チョモランマBCは日が当たるまではたいへん寒かったのですが、ここザンムーは標高が3000m近く下がったので、暖かく、空気も濃く感じます。そして、今日は雨が降っています。ネパールサイドはまだ、モンスーンが明けてはいなかったようです。(終)

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(登頂証明書)

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